【Ⅱサムエル記7:23~9:4】(2023/01/29)


【7:23】
『また、地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました。あなたは、ご自身の国のために、あなたの民の前で、大いなる恐るべきことを行ない、この民をあなたのためにエジプトから、そして国々とその神々から贖ってくださいました。』
 ダビデが言っている通り、イスラエルのような民族は、イスラエル以外に全く存在していませんでした。他の民族である異邦人はどれもイスラエルのようではありませんでした。それは明白なことでした。何故なら、神がイスラエル民族をエジプトでの奴隷状態から贖い救い出して下さったからです。その際、神は『大いなる恐るべきことを行な』われました。その御業は出エジプト記で記録されている通りです。そして神はこのイスラエルが聖なる御名を持つ民とされました。こうしてイスラエル民族は神に選ばれた聖なる存在とされたのです。他の民族はこのような御恵みを全く受けていません。異邦人たちは贖われもせずただ捨てられたままの状態でいました。異邦人たちもヤハウェがイスラエルに働きかけられたことを知っていました。ですから、異邦人もイスラエル民族の特異性を認めていたのです。

【7:24】
『こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。』
 このようにして神はイスラエルを御自分の民として異邦人たちから選び分けられました。イスラエル人に何か選ばれるべき要素があったというのではありません。ただ神が一方的な好意からイスラエルを特別に選ばれたのです(申命記7:7~8)。それゆえ、イスラエル人に神の民とされた功績は全くありません。

【7:25】
『どうか、神、主よ。あなたが、このしもべとその家について約束されたことを、とこしえまでも守り、あなたの約束どおりに行なってください。』
 神は、御自分が約束されたことを必ず実現されます。『神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。』(民数記23:19)と書かれている通りです。神は誰かから何か言われなくても、当然ながら御自分の約束を成し遂げられます。しかしダビデはそれにもかかわらず、神が御自分の約束を果たすよう求めています。神は別にダビデがこのように求めなくても御自分の約束を果たしておられました。ダビデもそのぐらいのことは分かっていたでしょう。それなのにダビデがこのように求めたというのは、つまりダビデが約束の実現を非常に強く願っていたということです。神は実際に御自分の約束を全く実現なさいました。ダビデがこのように求めたから実現されたというわけではありません。ただ御自分のために神は約束を成し遂げられたのです。

【7:26】
『あなたの御名がとこしえまでもあがめられ、『万軍の主はイスラエルの神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立つことができますように。』
 ダビデは、神の御名がいつまでも崇められるように願っています。ダビデは神の啓示を受けたので、神の偉大さを強く認識していました。このため神がその偉大さのゆえ崇められるようにと願ったのです。神の御恵みを受けるならば、無宗教である日本人でさえ神を崇めたり神に感謝したりするほどです。であれば神の民であるダビデは、尚のことそのようにするわけです。ダビデがこのように願うのは御心に適っていました。何故なら、キリストは聖徒たちに『御名が崇められますように』と祈るよう命じられたからです。私たちも御名が崇められるように願わねばなりません。ところで、ダビデは神が誰から『あがめられ』るようにと願ったのでしょうか。それは全ての人々から、です。また、ダビデは神がどこで『崇められる』ようにと願ったのでしょうか。それは地上の全体で、です。ここでダビデは『万軍の主はイスラエルの神』と神が言われることをも願っています。これは「イスラエルの民がいつまでも神を神として持ち続けるように。」という意味です。神は特別な御恵みにより、イスラエル人を御自分の民として選び分けて下さいました。ですから、そのような民がいつまでも神と共にあり続けるよう願われたのは自然なことでした。しかし、残念ながらこの願いは最終的に実現されなくなりました。それはイスラエル民族が紀元70年において神の御前から全く捨てられたからです。ユダヤ人がまず神を捨て、神が遣わされた御子をさえ拒絶しました。ですから、神もそのようなユダヤ人を捨ててしまわれたのです。神がユダヤ人を御自分から断絶されたことについて、神に非は全くありません。何故なら、ユダヤ人が神から切り離された原因は全くユダヤ人にあるからです。

 ここでダビデは自分の家が、神の御前に堅く立ち続けるようにと願っています。これはキリストにおいて実現されました。先述した通り、ダビデの王国とその王座は、キリストにおいて継続され保たれているからです。これからもダビデの家はキリストにおいて存続します。つまり、ダビデの家は霊的に今でも続いています。霊的な人はこのように理解すべきでしょう。ダビデの家が御前に立ち続けるということを、肉的に理解しようとすべきではありません。これは霊的にこそ理解されるべき事柄だからです。もしこれを肉的に捉えねばならないとすれば、今もダビデから連なる実際的な王国が地上のどこかで存在していなければいけないことになります。しかし、ダビデの王国と呼べる国は、紀元70年においてこの地上から消え去ったのです。しかし、霊的にはキリストにおいて続いています。ですから、この事柄は霊的に捉えるべきなのです。

【7:27】
『イスラエルの神、万軍の主よ。』
 ダビデはここでも神の御名を呼んでいます。ダビデは神の約束を聞いて非常に有り難く思っていました。ですから、ダビデは心から感謝しつつ神に対して語りかけていました。その現われとして、ダビデはこのように何度も御名を口にして呼んだわけです。私たちも強い思いを持って語る時、その語る相手の名前を何度も呼ぶということがあるはずです。

『あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなたのために家を建てる。』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。』
 ダビデは、この祈りの中で、臆することなく大胆に祈ることができました。ダビデの祈りに弱々しさや鈍さは見られません。これは神がダビデにはっきり約束を告げられたからです。このため、ダビデはその約束に基づいて力強く祈ることができました。もしダビデが御言葉を神から聞いていなければ、このような大胆さを持てていなかったでしょう。私たちも神の御心を知るならば、ダビデと同じく大胆に祈ることができます。そのような祈りは力強くなるでしょうし、御心に適った内容となるはずです。そのような祈りを捧げるのは重要です。ですから、私たちは神の御心をよく知るべきでしょう。神の御心は聖書で示されています。

【7:28】
『今、神、主よ。あなたこそ神であられます。あなたのおことばはまことです。あなたは、このしもべに、この良いことを約束してくださいました。』
 ここでダビデは3つのことを言っています。一つ目は、イスラエルの神こそ真の神であられるということです。何故なら、神はダビデに未来の事柄をはっきり約束されたからです。もし真の神でなければ、どうして未来のことではっきり約束することができましょうか。それはできない話です。二つ目は、神の『おことばはまこと』であるということです。神は真実で正しい御方です。そのような神が語られる御言葉も真実で正しいのです。詩篇119:160の箇所でも『みことばのすべてはまことです。』と書かれています。三つ目は、神がダビデに幸いな約束を与えて下さったということです。神は御自分の約束を預言者ナタンによりダビデに聞かせました。ダビデはその約束を確かに聞きました。つまり、ダビデはそれが事実であることを、ここで確認しているわけです。このように神のことを祈りの中で語るのは間違っていません。

【7:29】
『今、どうぞあなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください。神、主よ。あなたが、約束されました。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです。」』
 ダビデは自分の家が祝福され永続するようにと願っています。ダビデは神の約束に基づいて、この通り大胆に願い求めることができました。神はこの願いを実現されました。ダビデが求めた願いは神の約束に基づいていたからです。こうしてダビデの感謝に満ちた祈りは終わりました。

【8:1】
『その後、ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させた。ダビデはメテグ・ハアマをペリシテ人の手から奪った。』
 ダビデが神から約束を受けて後、ダビデはペリシテ人と戦い、彼らを敗北させました。神がダビデと共におられました。ですから、ダビデはペリシテ人を打ち倒すことができたのです。一方、ペリシテ人には神が共におられませんでした。このようなペリシテ人が、神が共におられるダビデから打ち負かされないというのは、無理な話でした。この時にダビデは『メテグ・ハアマ』すなわちガテとその周辺地域を『ペリシテ人の手から奪った』のですが、神はこの地域をダビデに与えられたのです。この時に起きたイスラエルとペリシテ人の戦いがどのようであったかは、何も書かれていませんから詳しく分かりません。

【8:2】
『彼はモアブを打ったとき、』
 ダビデはモアブ人をも神により打ち倒しました。『モアブ』は死海の南東に位置する場所です。神が共におられるならば、このように敵を神により敗北させることができます。もしダビデに神がおられなければ、ダビデもモアブ人を打ち倒すことは恐らくできていなかったでしょう。

『彼らを地面に伏させて、なわで彼らを測った。なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしておいた。こうしてモアブはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。』
 神がモアブ人をダビデに渡されたので、モアブはダビデの手に陥りました。ダビデはモアブを全く好きなように取り扱えます。そこでダビデはモアブ人たちを縄で測ります。そして、『なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしてお』きました。これは一体どういうことなのでしょうか。これは、つまり身体の大きい者を殺し、身体の大きくない者は生かしておいた、という意味です。ダビデは身体の大きい者は2つの縄でしか測れないようにしたはずです。身体の大きい者であれば力があります。その者は身体の小さい者よりも、イスラエルにとって危険です。このためダビデはそのような危険を除くため、身体の大きい者を全て殺させたのです。こうしてダビデはモアブ人を服属させました。モアブ人たちはダビデの国に貢を納めねばいけなくなりました。モアブ人はイスラエルに敗北したのです。であればイスラエルに服属させられたとしても当然です。日本も世界大戦で敗北したので、敗戦後にGHQから支配されることになりました。ダビデはモアブ人を滅ぼさず奴隷の状態にしました。ダビデはモアブ人を滅ぼすことも出来ましたがそのようにしませんでした。これは恐らくモアブ人がロトの子孫すなわちイスラエルの親戚である民族だったからなのでしょう。神もモアブ人を滅ぼせとは命じておられません(創世記15:18~21)。ダビデは、古代ローマが多くの国を滅ぼさず属国にしたのと同様、モアブを属国にしたのです。

 神が共におられるならば、このように支配したり屈服できる対象は、それだけ増えます。何故なら、神はあらゆる存在の上におられるからです。神は全ての存在を支配しておられ、またそれらの存在を屈服させることがお出来になります。ですから、そのような神と共にいる者は、多くの存在を支配したり屈服させることが出来るのです。これは人間社会と同じことです。もしある人と一緒にいつも超大金持ちがいたとすれば、その超大金持ちの好意と出費により、その人は何でも手に入れることが出来るでしょう。また、もしある人と王がいつも親しく歩んでいたとすれば、その王の善意と働きかけにより、その人は多くを実現することが可能になるでしょう。神と共にいる者が多くを支配し屈服させられるのは、このようです。これはいつの時代でもそうです。今の時代でも当然ながらそうです。例えば、アメリカほど神が最も近くにおられると言える国はありません。ですから、アメリカは強大なプレゼンスを持つことができ、多くの国をリードできるわけです。少し前の時代ではイギリスがこのようでした。これからも神の最も近くにおられる国や存在が、多くの者たちをリードできることでしょう。私たちもそのようになりたければ、神が共におられることを求めねばなりません。そうすればダビデのように引き上げられ高い者とされるでしょう。

【8:3~4】
『ダビデは、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来たとき、彼を打った。ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。』
 王は、往々にして自分の領土が拡張することを求めるものです。何故なら、領土は王にとって自分の身体の延長部分だからです。もし領土が増えれば、それだけ王の存在が大きくなります。王にとって自分の大きさは重要な事柄です。ですから、王はしばしば自分を大きくしようと領土の拡張に向かうわけです。『ツォバの王レホブの子ハダデエゼル』も、そのような王の一人でした。この王は、ユーフラテス川の周辺に、かつて自分の領土を失っていました。ですから、この王は『ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来』ました。しかし、ダビデがハダデエゼルを打ったので、その領土が回復されることはありませんでした。ダビデがまたもや勝利を得たのは、神がダビデと共におられたからです。ダビデが自分自身の力でハダデエゼルを打ち倒したというのではありません。

 ダビデは敗北したハダデエゼルから『騎兵千七百、歩兵二万を取』り、『その戦車全部の馬の足の筋を切』りました。これはツォバから戦力を削ぐためだったはずです。戦車は強いので大きな脅威となりかねないからです。しかし、ダビデは『戦車の馬百頭』は足の筋を切らないでおきました。このぐらいであればそのままにしておいても問題ないと判断されたのでしょう。ダビデが取った『騎兵千七百、歩兵二万』という数に象徴性はないでしょう。これは戦力としてはかなりの数でした。

【8:5~6】
『ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を打った。ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。』
 ハダデエゼルとその軍隊が敗北した時、『ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来た』のですが、アラムの『二万二千人』がやって来たのも虚しく、ダビデにより打ち倒されてしまいます。神がダビデと共におられたので、ダビデはこのアラムをも敗北させることが出来ました。神と共にいる者には勝てないものなのです。何故なら、神に勝てる者は誰一人としていないからです。

【8:6】
『こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。』
 神は、ダビデがどこに行っても、勝利に次ぐ勝利をお与えになりました。ダビデが敗北したことなど一度も無かったのは間違いありません。何故なら、神は絶対に敗北しない御方だからです。ダビデはこの神と共に戦っていました。であれば、ダビデがどうして敗北するでしょうか。もし敗北したとすれば、不敗の神が共におられなかったことになります。

【8:7~8】
『ダビデはハダデエゼルの家来たちの持っていた金の丸い小盾を奪い取り、エルサレムに持ち帰った。ダビデ王は、ハダデエゼルの町べタフとベロタイから、非常に多くの青銅を奪い取った。』
 ダビデは、ハダデエゼルの家来たちから『金の丸い小盾』を戦利品として奪いました。この小盾はハダデエゼルが富んでいたことを示しているように思われます。何故なら、富んでいなければ、どうして家来たちに金の小盾を授けられるでしょうか。この盾は、金で出来ており小さかったということ以外に詳しく分かりません。ダビデはそれを奪って後、『エルサレムに持ち帰』りました。ダビデはこれを勝利の証しとして飾ったのでしょうか、それとも自分の家来たちに与えたのでしょうか。これは恐らく神に聖別して捧げられたと考えられます。ダビデがこのように小盾を奪い取っても、問題は全くありませんでした。何故なら、戦争で勝った者は負けた者をその所有物もろとも得るのだからです。戦争の勝利者が敗北者から奪っても盗む罪にならないことは、これまでの歴史を考えれば分かります。またダビデはハダデエゼルの町から、多くの青銅をも奪い取りました。ハダデエゼルの町に青銅が多くあったというのは、ハダデエゼルが富んでいたことを意味しているのかもしれません。これもやはり金の小盾と同じで、勝手に奪っても問題はありませんでした。この青銅をダビデがどのように使ったかは分かりません。

【8:9~10】
『ハマテの王トイは、ダビデがハダデエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞いた。そこでトイは、その子ヨラムをダビデ王のもとにやって、安否を尋ねさせ、ダビデがハダデエゼルと戦ってこれを打ち破ったことについて、祝福のことばを述べさせた。ハダデエゼルがトイに戦いをいどんでいたからである。』
 ダビデがハダデエゼルに勝利すると、ハダデエゼルから脅かされていた『ハマテの王トイ』が、息子により祝福の言葉を告げました。ダビデがトイ王に代わってハダデエゼルを打ち負かしてくれたのです。これでトイ王はハダデエゼルのことで悩まされる必要がなくなりました。こうなったのであればトイ王がダビデに祝福を述べて当然です。ダビデに祝福を述べないほうが、かえって難しかったでしょう。この時に息子ヨラムを通して告げられた『祝福のことば』が、どのようであったかは分かりません。『ハマテ』はイスラエルの北部にあり、キネレテ湖の西に面しています。

 ダビデの周囲には敵ばかり存在していました。しかし、トイ王のような味方もいないわけではありませんでした。『ツロの王ヒラム』(Ⅱサムエル5章11節)もダビデの味方である一人でした。この通り、どれだけ敵が多くいても、味方が全くいないというのは考えられないことです。どのような人であっても必ず味方が少しぐらいはいるものです。これはダビデのような正しい人だけでなく悪い者でも同じことが言えます。

【8:10】
『ヨラムは銀の器、金の器、青銅の器を手にして来た。』
 ヨラムは銀や金や青銅の器をダビデに贈り物として持って来ました。このような実際的行為を伴った祝福の言葉は本物です。このことから、ヨラムを遣わしたトイ王は愚か者でなかったことが分かります。これらの贈り物は全て『器』でしたから加工品であり、正に贈り物として相応しいものでした。

【8:11~12】
『ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに主に聖別してささげた。それらは、アラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王レホブの子ハダデエゼルからの分捕り物であった。』
 ダビデは、征服した諸々の国から奪い取った金銀を、神に捧げました。すなわち、ダビデは神が用いられるように戦利品を聖所で献納していました。これは神がダビデに勝利を与えて下さったからです。このようにするのは敬虔で正しいことでした。ダビデはこのように、神に捧げるため敵の財物を残して取りました。サウルも神に捧げるため敵であるアマレク人の所有物を残して取りました(Ⅰサムエル15:9、15、21)。ダビデが敵の財物を残したのは問題なく、サウルが敵の所有物を取ったのは愚かでした。何故なら、サウルの場合は敵の所有物をことごとく聖絶するように命じられていたからです(Ⅰサムエル15:3)。ダビデには敵の所有物を全て聖絶せよという命令が与えられていませんでした。もしそのような命令がダビデに与えられていたとすれば、ダビデは全てを聖絶していたでしょう。ダビデは敵から奪った戦利品を捧げる際、ヨラムから受けた贈り物も一緒に捧げました。ダビデが財物を奪った敵は6者であり、それは『アラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人、アマレク』および『ツォバの王レホブの子ハダデエゼル』でした。これにハマテ王トイの息子ヨラムを含めれば7者からの献納だったことになります。この数字には象徴性が含まれており、これはつまりダビデが得た物から十分な献納を行なったということです。

【8:13~14】
『ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰って来たとき、彼は名をあげた。彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。』
 ダビデは続いてエドム人をも打ち負かします。エドムの地はダビデに奪い取られました。ダビデは自分の領土となったエドムに『守備隊』を置きます。これはイスラエルの外部から侵入して来る敵に対処させるためでしょう。エドムに置かれた『守備隊』がどれだけの数だったかは分かりません。ダビデが打ち殺したエドム人『一万八千』という数は、何も象徴性を含んでいません。このエドム人が打ち殺された『塩の谷』は、死海の南に面した場所です。ダビデは北に住んでいましたから、エドム人と戦うために南下したことが分かります。

 こうしてダビデは『名をあげ』ました。すなわち、ダビデの勝利した成果が誰にも疑えないほど積み重ねられたということです。ダビデがこのように名を挙げたのは、神によりました。何故なら、ダビデが勝利できたのは、神によったからです。それゆえ、ダビデ自身に名を挙げたことの功績はありませんでした。神が共におられなければダビデは敗北するしかなかったのですから。神はダビデの名が高められることを良しとされました。それはダビデがキリストの予表だったからです。先述の通り、キリストの偉大さとダビデの偉大さは対応しているべきでした。ですから、神はダビデに名声を得させられたのです。

【8:14】
『このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。』
 神はダビデに連戦連勝の御恵みを与えられました。神がダビデと共におられたのです。であれば、どうしてダビデが敗北したりするでしょうか。この箇所と同じことは先の箇所でも書かれていました(Ⅱサムエル8:6)。聖書がダビデの勝利した戦いを全て詳しく記録しているのではありません。しかし、それでもここまでの記述から、ダビデがどの戦いでも勝利を得たということは十分に理解できます。

【8:15】
『ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。』
 ダビデはこれまでただユダ族を治めているだけでした。しかし、今や『イスラエルの全部を治め』るようになりました。それが神の御心だったからです。サウルが全イスラエルを治めるのは御心に適いませんでした。そして、ダビデは『民のすべての者に正しい裁きを行な』いました。これはつまり律法に基づいて裁きを行なったということです。何故なら、善悪の正しい規範は律法で示されているからです。この通り、ダビデは王でありながら裁判官としての職務も持っていました。古代において王が裁判官でもあるのは一般的なことでした。

【8:16~18】
『ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャパテは参議、アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの子らは祭司であった。』
 ここではダビデ治世下におけるイスラエル国の要職が示されています。ここでは書かれていませんが、イスラエル国の最高主権者は神であられます。ここで書かれている存在は全部で「7」者です。すなわち、『ヨアブ』(1)、『ヨシャパテ』(2)、『ツァドク』(3)、『アヒメレク』(4)、『セラヤ』(5)、『ベナヤ』(6)、『ダビデの子ら』(7)です。これは「7」ですから、つまりダビデが与えた任職は全く正当だったということです。何故なら、神の僕であるダビデがどうして不当また不正な任職を行なうでしょうか。この箇所で注目すべきなのは、『ダビデの子らは祭司であった』という点です。律法ではレビ族が祭司であるべきだと定められています。しかし、ダビデとその子らはユダ族でした。「ユダ族なのに祭司となってよかったのか。」と思う人もいるかもしれません。ダビデの子らが祭司になっても問題はなかったとすべきです。何故なら、ダビデが予表しているキリストは永遠の大祭司であられるからです。このキリストを象徴するダビデが祭司の職に就いたとしても構わないはずです。ダビデが構わないのであれば、その子らも同様に構わないはずなのです。

【9:1】
『ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」』
 ダビデは、サウル家の者で生き残っている者に、恩恵を施したいと願いました。このため、彼は誰かサウル家の者が生き残っていないか知ろうとします。ダビデが恩恵を施そうとしたのは、『ヨナタンのため』でした。既に見た通り、ダビデはヨナタンと恒久的な契約を結んでいました。ですから、ダビデはヨナタンの属していたサウル家の生存者に恵みを施すべきでした。もしそうしなければダビデはヨナタンとの契約および友情を蔑ろにするのです。徳に篤いダビデはそのようなことを行なえませんでした。もしダビデがヨナタンと契約を結んでいなければ、サウル家の生存者に恵みを施そうとしていたかどうか定かではありません。ここでダビデは『ヨナタンのために』恵みを施したいと言っているからです。

【9:2~4】
『サウルの家にツィバという名のしもべがいた。彼がダビデのところに召し出されたとき、王は彼に尋ねた。「あなたがツィバか。」すると彼は答えた。「はい、このしもべです。」王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」王は彼に言った。「彼は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家におられます。」』
 ダビデはサウル家の者で誰が生き残っているのか把握していませんでした。そこでダビデはサウル家の僕である『ツィバ』を呼び出し、誰が生き残っているのか尋ねます。ツィバであれば知っている可能性が高かったからです。すると、『ヨナタンの子で足の不自由な方』であるメフィボシェテがまだ生き残っていると判明しました。ここでダビデはサウル家の生存者に『神の恵み』を施したいと言っています。これは神の御名において正しい動機で恩恵を施したいということです。というのも、神において行なうというのであれば、不正また不当な恩恵を施すことは決してできないからです。ダビデが恩恵を施す者は、ダビデを通して神からの恩恵を受けることになります。