【Ⅱサムエル記11:6~12:8】(2023/02/12)


【11:6】
『ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。』
 バテ・シェバが身籠ったのを知ったダビデは、自分の罪を胡麻化すため、ウリヤを戦場から自分のいるエルサレムへと呼び寄せます。ウリヤはイスラエル軍の一員として、『ラバを包囲』(Ⅱサムエル11章1節)する戦いに参加していました。本来であれば、言うまでもなくウリヤは戦場でしっかり戦っているべきでした。ダビデは利己的な目的からこのウリヤを呼び寄せたのです。すなわち、どうしても必要だからというので呼び寄せたわけではありません。ウリヤを送るよう命じられたヨアブは、言われた通りにウリヤを送ります。ヨアブはどうしてダビデがウリヤを呼び寄せたのか分からなかったはずです。この通り、もし罪を犯すならば、その罪を隠すため、色々と面倒なことをせねばならなくなります。そうしないと罪がバレてしまうことにもなるからです。

【11:7】
『ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。』
 ウリヤがダビデのもとに来ると、ダビデはあたかも罪など犯していないかのよう親密に語りかけ、戦況がどうなっているかウリヤに尋ねます。ダビデが戦況を知りたがっていたのは確かです。しかし、この時のダビデは戦況よりも罪を隠すことに専心していたはずです。つまり、戦況は二の次だったはずです。何故なら、ダビデがウリヤを呼び寄せたのは、戦況を尋ねるためでなく、罪の問題を胡麻化すためだったからです。ウリヤはどうして自分が呼び寄せられたのか恐らく理解できなかったと思われます。何故なら、ウリヤは無名の兵士だったでしょうし、ダビデから呼び出される特別な理由を何か持ってはいなかっただろうからです。この箇所では書かれていませんが、ウリヤはダビデの質問に対して、しっかり答えたはずです。

【11:8】
『それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。』
 ダビデがウリヤから戦況を聞くと、ダビデはウリヤを家に帰らせようとします。つまり、ダビデはウリヤをバテ・シェバと会わせようとします。「姦通の罪を隠すのであれば妻に会わせないほうが得策だったのではないか。」と思う人もいるかもしれません。確かに普通に考えれば、姦通の当事者であるバテ・シェバとウリヤが会えば、罪についてバレてしまう恐れが高まるので安全ではなかったかもしれません。しかし、この時の場合は寧ろ会ったほうがダビデにとって望ましいことでした。というのも、ダビデはバテ・シェバがウリヤにより妊娠したと思い込ませるため、ウリヤを家に帰らせようとしたからです。もしウリヤが妻の妊娠を自分によると思い込んだならば、ダビデの罪は隠されてしまうのです。『あなたの足を洗いなさい。』とダビデが言ったのは、つまりウリヤがもう戦わなくてもいいという意味です。もし本当にバテ・シェバがウリヤにより身籠ったとすれば、確かにウリヤは戦う義務から逃れることができました。何故なら、律法ではこのような幸福の状況にある男が戦わないよう定めているからです(申命記20:5~7)。もしウリヤが戦死でもすれば、バテ・シェバが産む子どもは、正統な父を持てなくなってしまいます。ですから、バテ・シェバがウリヤにより妊娠していたとすれば、ダビデの指示は全く正しいものでした。ウリヤが出て行くと『王からの贈り物が彼のあとに続いた』のは、実にこのためです。ダビデは、ウリヤが妻の妊娠において王から祝われていることを知れるため、贈り物を送ったのです。家に帰るまではまだ贈り物がどうして送られたのか理解できないものの、家に帰ればバテ・シェバの妊娠を知るので、どうしてダビデ王から贈り物が送られたのか知ることになります。「王は私の妻のことで祝おうと贈り物を下さったのか。」と。こうなればダビデがバテ・シェバと交わったことはバレずに済み、闇の中に葬られるのです。この時のダビデは巧みな欺きをする詐欺師のようになっていました。この贈り物の内容と量については詳しく分かりません。ダビデのことですから良い物を多く送ったはずだと思われます。

【11:9】
『しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。』
 ウリヤはダビデの命令通りにせず、家に帰らないで『王宮の門のあたりで』眠りました。彼が眠ったというのは、そこを宿代わりにしたのです。『王宮の門のあたりで』眠っていたのは、家に帰っている場合ではなく、早く命懸けで戦っている仲間のいる戦場に帰りたかったからです。ウリヤの心は全く戦場にありました。このウリヤの主人はヨアブであり(Ⅱサムエル11:11)、ウリヤは『自分の主君の家来たちみなといっしょに眠』っていたのですから、ウリヤは戦場から自分と同じ家来たちを連れてエルサレムに行ったことが分かります。つまり、ヨアブはウリヤを単独でダビデのもとに送ったのではありません。ウリヤと一緒にいた『家来たち』がどのぐらいいたかは分かりません。この通りウリヤは家に帰って妻の妊娠を確認しませんでしたから、ダビデの思惑通りに行かなくなりました。これではウリヤが勘違いすることのないままだからです。

 この事例も示す通り、悪いことを成し遂げるのは易々とは行かないことが多いのです。悪いことをしようとしても、邪魔が入ったり思惑とは反対の出来事が起きたりして、上手に事が進まないのです。そこで悪の当事者は、大丈夫かと心配したり恐れたりします。そして何とか事が上手に進むよう更なる手段を講じます。それでも駄目ですとまた再び動揺します。そうして再び上手に進むよう手段を講ずるのです。

【11:10】
『ダビデは、ウリヤが自分の家に帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」』
 ウリヤが王宮の門の周辺で寝ているという報告をダビデは受けます。そこで驚いたダビデは、ウリヤに対し『なぜ、自分の家に帰らなかったのか。』と尋ねます。ダビデが『あなたは遠征して来たのではないか。』と言っているのは、「遠征して来て疲れているだろうにどうして家で休もうとしないのか。」という意味です。遠征したら疲れを癒すため家に帰って休むのが自然なことなのです。ウリヤの家がどこにあったかは分かりません。ダビデは彼の妻バテ・シェバ『が、からだを洗っているのが屋上から見えた』(Ⅱサムエル11:2)のですから、バテ・シェバが自分の家で身体を洗っていた場合、バテ・シェバとウリヤが共に住む家は王宮からそう遠く離れていなかったはずです。もしあまりにも遠ければどうしてバテ・シェバがダビデの目に入ったでしょうか。

【11:11】
『ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に残り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」』
 ウリヤは戦いの最中に戦場から抜け出してダビデのもとまで来ました。戦場では今も仲間たちが命懸けて戦いを続けています。それなのに自分だけが家でゆっくり休むということは、ウリヤに出来ませんでした。このような場合、まともな精神を持った人であれば仲間に申し訳ないと感じてしまうからです。また、契約の箱もユダ族の兵士もヨアブも危険な戦場で寝泊まりしていました。しかし、それなのにウリヤは危険がないエルサレムにいます。このような状況にあって、自分一人だけが家に行くのは避けるべきだとウリヤに思われました。彼がこのように思ったのは正しいことです。正常な人であれば、どうして仲間たちが大変な思いをしているのに、自分だけ幸福に過ごすことを躊躇しないでいられるでしょうか。ですから、ウリヤは決して家に帰らないとダビデの前で誓います。ウリヤにとって家に帰るぐらいであれば、ダビデの前で死んだほうがましでした。このようなことから分かる通り、このウリヤはヘテ人であったものの、個人としてはまともな人間でした。悪いのは全てダビデだったのです。ウリヤはダビデとイスラエルに対して何も悪いことをしていません。ダビデの罪が全ての原因だったのです。

【11:12~13】
『ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。』
 ウリヤが家に帰らないと誓ったので、ダビデは家に帰らせることを諦めます。何故なら、イスラエル社会にとって誓いは絶対的な意味を持っていたからです。そこでダビデは方針を変えます。すなわち、ダビデはウリヤがバテ・シェバの妊娠を自分によると勘違いさせるのでなく、ウリヤを再び戦場へと戻らせて何とか戦死させるというやり方に切り替えます。ダビデは戦場にウリヤを送り出す前、自分のところに招き、飲み食いさせて酔わせます。これはあたかも死刑囚が死刑の直前に好きな食物で最後の喜びを味わわされるのと似ています。「もう最後なのだから大いに幸せを感じさせてやろうではないか。」というわけです。この時におけるダビデの精神はどのようだったでしょうか。聖書には何も書かれていませんが、普通の精神状態でなかったことは確かでしょう。ウリヤは食事をしてから、やはり前日と同様、家に帰らないで夜を過ごしました。彼は何とか早く戦場に戻りたかったからです。

【11:14~15】
『朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」』
 ダビデは何とかして早くウリヤの問題を処理したく思っていました。ウリヤの問題が処理されたならば、あたかも罪など何も犯さなかったことにでもなるかのようです。既に見た通り、ウリヤがバテ・シェバの妊娠を勘違いするということは実現しなくなりました。ですから、ダビデはウリヤを滅ぼすことで、自分の罪をウリヤと共に葬り去ろうとします。そこでダビデはウリヤを戦死させるようヨアブに手紙で命じます。その手紙はウリヤの手でヨアブのもとまで届けられました。もしウリヤがその手紙を見たとすれば、ダビデの計画は台無しになっていたかもしれません。しかし、ウリヤは王の手紙を愚かにも勝手に見る無礼者ではありませんでしたから、ダビデの殺害計画はそのまま進みました。自分の死について指示された手紙を何も知らず自分自身で持ち運ぶウリヤ。これは何と不気味で恐ろしいことでしょうか。

 勘違いしてはなりませんが、ダビデは神の僕であり聖徒でした。ダビデは神から特別に選ばれた器でした。そのような存在であるにもかかわらず、ダビデはこのような巨悪を犯したのです。ダビデでさえこうです。このことから、聖徒であっても堕落した罪人に変わりはないということが分かります。ダビデのように地位が高ければ、聖徒であっても、それだけ大きな罪を犯しやすくなります。何故なら、大きな権力がその聖徒の罪性を激しく突き動かし暴走させるからです。古代ローマのテオドシウス帝も聖徒でしたが、怒りに突き動かされたので、テサロニケの住民を7000人も虐殺するという大きな罪に陥りました。この皇帝はクリスチャンでしたから、この罪を犯して後、アンブロシウスのもとで一般信徒として悔い改めました。もしテオドシウス帝が大きな権力を持っていなければ、このような大きな罪を犯したくても決して犯せなかったでしょう。このように、地位の高いクリスチャンは、大きな罪を犯す力があるわけですから、そのことをよく弁えて注意すべきなのです。

【11:16~17】
『ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。』
 ヨアブが『見張っていた』『町』とは『ラバ』(Ⅱサムエル11:1)のことです。ヨアブはこの町を見張っていたのですから、町の内容をかなり把握していました。このためヨアブはダビデの指示を実行するため、『その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置し』ます。すると、ウリヤは『ダビデの家来たち』と共に敵から矢で撃たれて戦死してしまいます(Ⅱサムエル11:24)。この時にウリヤを含めどれだけの兵士たちが殺されたのかは分かりません。こうしてヨアブはウリヤを意図的に戦死させますが、どうしてダビデがウリヤを戦死させるよう命じたのかは理解できていなかったはずです。敵たちも、ヨアブが行なったことを見て、愚かな振る舞いをしたイスラエルを侮ったはずです。

【11:18~21】
『そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんな町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか。』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』と言いなさい。」』
 ヨアブはダビデの指示通りにウリヤを死なせたので、報告のため、使いをダビデのもとに送ります。ヨアブはその使いがダビデにどう応じればいいのか指示しました。その指示の中で注目すべきは、使いが『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』とダビデに言うべきことです。これこそダビデが願い求めていた出来事だったからです。ヨアブは20節目で報告を聞いたダビデが『怒りを発』すると想定しています。その想定通りダビデが怒りを発したとしても、その怒りは間違いなく偽りでした。何故なら、ダビデが怒ることになった報告の出来事は、そもそもダビデにより命じられたことだったからです。そのため、ダビデは怒りながらも心の中ではほくそ笑んでいたはずなのです。これは何と悪いことでしょうか。しかし、実際にダビデが報告を聞いて怒ることはありませんでした(Ⅱサムエル11:25)。またヨアブは21節目で、ダビデが『アビメレク』について言及するかもしれないと想定しています。このアビメレクは男でなく女により打ち殺されてしまった惨めな者でした。この出来事は、既に士師記の註解書で見ておきました(士師記9:50~54)。しかし実際、後の箇所を見ると分かる通り、これは単なる想定に過ぎず、ダビデがこのアビメレクに言及することはありませんでした。

【11:22~24】
『こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」』
 ヨアブから送られた使者がダビデのもとに来ると、使者は指示された通りに『伝言をすべて伝え』ます。この時にはウリヤが戦死したことも当然ながら報告されました。使者はどうしてウリヤのことを特別に伝えるべきか分からなかったでしょう。ウリヤの戦死がどのような意図により起こされたかは、ダビデと神しか知らなかったからです。ダビデはウリヤが死んだという報告を受け、安心したり喜んだりしたと思われます。これで罪の問題が処理されたと感じただろうからです。ヨアブはどうしてウリヤを意図的に死なせるべきなのか全く理解できなかったはずです。しかし、王の命令ですから意味が分からなくても指示通りにウリヤを死なせなければいけませんでした。ヨアブがダビデから指示されていなければ、間違ってもヨアブはウリヤを戦死させたりしなかったでしょう。何故なら、意味もなく兵士を敵の面前に進ませて死なせるというのは、あまりにも馬鹿げたことだからです。

【11:25】
『ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」』
 先に見た通り、ヨアブはダビデが報告を聞いて怒ると想定しましたが(Ⅱサムエル11:19~20)、実際に使者が報告すると、ダビデは全く怒ろうとしませんでした。寧ろ穏やかな反応を見せました。もしダビデが何も指示を出していなければ、この報告を聞いたダビデは激怒していたでしょう。何故なら、ウリヤが行なったことは愚の骨頂だったからです。しかし、そういった愚かなことを指示したのはそもそもダビデでした。そのため、ダビデは報告を聞いても穏やかでいられたわけです。この時のダビデはもし言えたとすればこう言いたかったはずです。「良くやってくれた。これで邪魔者であるウリヤが消え去ることになった。」ダビデはヨアブに『このことで心配するな。』と伝えさせますが、ヨアブが心配すべきでないというのは正にその通りでした。何故なら、ダビデが指示したからこそ兵士たちが敵に殺されるという悲惨な事態となったからです。すなわち、ダビデはイスラエルが弱いとか愚かだというのでそのような悲惨が起きたのでないことをよく知っていました。ダビデが指示しなければウリヤたちは悲惨を味わわずに済んだのですから、兵を統率するヨアブに心配すべき理由は全くありませんでした。ダビデはここで『心配するな。』と言うより、寧ろ自分の罪について心配すべきだったと思われます。何故なら、ダビデは聖徒としてすべきでないことをしたのだからです。ダビデがここで『こちらの者も、あちらの者も』と言っているのは、つまり敵の勢力の全体を意味しています。確かにダビデが言っている通り、イスラエル軍の『剣はこちらの者も、あちらの者も』すなわち敵の全軍を『滅ぼすもの』でした。ダビデが大きな罪を犯していたものの、勝利の神はイスラエル軍と共におられたからです。一方、敵であるアモン人には神がおられませんでした。こうしてダビデは使者が戻ったらヨアブを『力づけ』るようにと命じます。指揮官であるヨアブの精神が挫けて戦意を無くせば、間違いなく勝てるこの戦いにおいて勝てなくなってしまうからです。

【11:26~27】
『ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。喪が明けると、』
 ウリヤの戦死について聞いたバテ・シェバは、当然ながら夫のことで悲しみます。バテ・シェバはまさかウリヤがダビデの策略により戦死させられたなどと思わなかったはずです。バテ・シェバはこの通りウリヤの死を悲しみましたが、ダビデにとっては喜ばしい出来事だったはずです。これで情欲の対象である美しきバテ・シェバを得るのに邪魔となる男が消え去ったのだからです。「ふふふ、これでバテ・シェバが私の妻となるのだ。」などとでもダビデは思ったのでしょうか。その可能性は十分にあります。バテ・シェバの過ごした『喪』がどれだけの期間だったかは分かりません。

【11:27】
『ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。』
 ウリヤが死んで消え去ったので、ダビデは早速、バテ・シェバを召し入れて自分の妻とします。聖書で再婚は禁止されていません。ですから、バテ・シェバが再び結婚したこと自体に問題はありませんでした。しかし、ダビデが行なったのは単なる強奪です。ですから、この再婚はそもそも根本的に問題がありました。バテ・シェバはダビデと再婚する前から妊娠していましたから(Ⅱサムエル11:5)、ダビデと結婚してから子を産みます。この子がウリヤの子でなかったことは確かです。何故なら、聖書を読むならば、これはダビデの子としか考えられないからです。Ⅱサムエル11:4~5の箇所では、バテ・シェバがダビデと交わってから『みごもった』と書かれていますから、バテ・シェバが産んだのはダビデの子だったと考えるべきでしょう。この『男の子』は要するに不倫の子でした。ダビデという正しい子だけを産むべき者が、不倫による子を産むというのは、どういうわけなのでしょうか。つまり、ダビデが犯した罪は非常に大きかったということです。

 こうしてダビデが犯した罪には一区切りつきました。ダビデがこの度に犯した罪は4つ、いや5つでした。まず一つ目の罪は「姦淫」です。ダビデはバテ・シェバを情欲の目で見たのであり、それから彼女と姦通を行なったのだからです。屋上を歩いているダビデの目に(Ⅱサムエル11:2)、身体を洗っているバテ・シェバが入って来たのは避けられなかったでしょうから、仕方ありませんでした。ダビデは全知の神でありませんから、どうして自分が歩いている時に、身体を洗っているバテ・シェバが目に入るなどと予め知れたでしょうか。ではダビデは一体どうすべきだったのでしょうか。ダビデはバテ・シェバを見たとしても、すぐに自分の目をバテ・シェバから離し、それ以降はバテ・シェバのことで何もするべきでありませんでした。そして、もうそれからはその道を出来るならば通らないようにすべきでした。もし通らなければならないとしても、再び身体を洗っているバテ・シェバが目に入ったとすれば、すぐに目を逸らすべきでした。必要であればバテ・シェバの家に通達を出し、洗っている姿が王宮から見えないよう何とか工夫して隠させるべきでした。二つ目の罪は「欲しがること」でした。律法では他人の妻を欲しがることが明白に禁止されています。バテ・シェバが独身の女性だったとすればまだ話は違いました。しかし、ダビデは調べたのでバテ・シェバが人妻だったことを知っていました(Ⅱサムエル11:3)。彼女が人妻であると知りながら、彼女を欲しがったのは、間違いなく罪でした。三つ目の罪は「王権の濫用」です。王権とは正しいことをするため与えられた力であって、悪を為すために与えられたものではありません。ところがダビデはこの王権を自分の悪しき欲情を満たすため不正に用いたのです。これは自分を王として立てて下さった神に対する不正な振る舞いでした。神が正しいことのためにと与えられた権力を悪いことのために利用したからです。ダビデは『力を尽くし、精神を尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』という命令を守りませんでした。四つ目の罪は「殺人」です。ウリヤはヘテ人であったものの、ダビデの『家来』(Ⅱサムエル11章24節)であり、イスラエル共同体のメンバーであり、ヨアブの僕でした(Ⅱサムエル11:11)。このようなウリヤをダビデが殺すというのは間違いなく悪でした。ウリヤがダビデに反逆したので死刑のため殺させたというのであれば、話は違いました。しかし、ウリヤはそのような罪など全く犯していませんでした。五つ目は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という戒めを守らなかったことです。ダビデは間違いなくウリヤを愛していませんでした。もし愛していれば意図的に戦死させるなどということはしなかったでしょう。パウロがローマ書で言っている通り、『愛は隣人に対して害を与えない』のですから。またダビデはバテ・シェバをも愛していませんでした。もし愛していれば、ダビデはバテ・シェバがウリヤといつまでも幸せでいられるように願っていたでしょう。このようなわけで、『ダビデの行なったことは主のみこころをそこ』ねました。ダビデはウリヤがヘテ人だからというので、悪いことをしても構わないと思っていたのでしょうか。実際にどうだったか私たちには分かりません。もしダビデがこのように思っていたとしても、ウリヤを害するのは良くありませんでした。この箇所からそのことは明らかです。ダビデは『主のみこころをそこなった』のだからです。ウリヤはあくまでもイスラエルの一員であり、ダビデの仲間だったのですから、殺していいはずがありませんでした。こうしてダビデが行なったこの悪は、永遠に記録されることとなりました。この出来事は今に至るまで世界中で語られて来ましたし、これからも語られ続けることでしょう。ダビデはキリストの予表でありながら、このように大きな罪を犯しました。ですから、罪が永遠に記録されるという大きな代償を支払わねばならなくなったのです。もしダビデが自分の犯す罪は永遠に記憶されると予め知れたとすれば、どうだったでしょうか?その場合、ダビデは恐れて罪を犯すことに躊躇していたかもしれません。しかし、ダビデはまさか罪が聖書でこうして記録されるなどと想定していなかったでしょうから、この通り平気で大きな罪を犯してしまったわけなのです。

【12:1】
『主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。』
 ダビデがウリヤに関して行なった悪は主の御心を損ねましたから、主はダビデを断罪するため、預言者ナタンをダビデのもとに遣わします。ナタンが出て来るのはこれで2回目です(1回目はⅡサムエル7章)。神が御自身で直接的にダビデを断罪することもお出来になりました。しかし、神はナタンを通してダビデに語られます。これは恐らくダビデを謙遜でいさせるためだったと考えられます。神から直接語られてそれに服するのは容易くできるだろうからです。しかし、人間に、しかも王であるダビデが耳を傾けるというのは、豊かな謙遜が必要です。もしこうだったとすれば、神がナタンを通してダビデに語りかけたのは、大きな意味があったことになります。

【12:1~6】
『「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」』

 ナタンはダビデを断罪するため、まず『富んでいる人』と『貧しい人』に関する例え話を話します。これは単なる例えであって、実際にこういう話があったというわけではないはずです。ナタンは、多くの家畜を持っている金持ちが、1頭の家畜しか持っていない貧しい者から、旅人をもてなすため、その1頭しかいない家畜を奪い取って調理した、と話します。この金持ちは、旅人が来たのですから、肉を焼いて歓迎すべきだったのでしょう。そうであれば金持ちは、自分の持っている多くの家畜を使って歓迎すればよいのです。それなのに金持ちは、貧しい人が持つ唯一の家畜を取り上げて使ったのです。この金持ちは多くの家畜を持っていたのですから、少しぐらい調理して失っても、大した損失にはならなかったはずです。しかし、金持ちはその損失をさえ惜しんだのです。この金持ちは本来的にどうすべきだったのでしょうか。彼は、言うまでもなく貧しい人からその家畜を奪い取るべきでありませんでした。寧ろ、彼はその貧しい人を憐れみ、助けてやるべきでした。神は貧しい人を憐れめと命じておられるからです。つまり、この金持ちは本来であれば行うべきことと行なっていることが逆でした。貪欲になると人はこうなるのです。読者の中に金持ちがいれば、誰もこのように貪欲な金持ちとなるべきではありません。特にクリスチャンである金持ちは決してこのようになるべきでありません。

 この話は単なる例え話に過ぎなかったでしょうが、ダビデはその話に出て来る金持ちに対して激怒します。『その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから』です。この金持ちが貧しい者を憐れんでいれば、ダビデもこのように怒ってはいなかったでしょう。ダビデはこの金持ちが死刑になるべきだと、『主は生きておられる』と誓いつつ言います。現代では驚く人も多いでしょうが、古代において盗みの罪は死刑となる場合が多かったのです。古代ローマでもやはりそうでした。しかし、ダビデがここで金持ちを死刑に定めたのは行き過ぎだったと言わねばなりません。何故なら、律法は盗みの罪を死罪と定めていないからです。ダビデはこの金持ちに怒るあまり、理性を失い、このように聖書が定めていないことを言ったのだと思われます。しかし、6節目で金持ちが『その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。』と言っているのは、正しいことでした。律法は盗んだ羊を4倍にして返すよう定めているからです(出エジプト記22:1)。福音書で書かれている通り、ザアカイも自分が盗んだ4倍の量を償うようにしました。ですから、もし本当にこのような金持ちがいたとすれば、4倍の羊を貧しい者にしっかり与えるべきでした。

【12:7】
『ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。』
 この例え話に出て来る金持ちと貧しい者は、ダビデとウリヤを表示しています。すなわち、金持ちはダビデを、貧しい者はウリヤを示しています。神がナタンを遣わされたのは断罪のためでした。このため、ナタンは『あなたがその男です。』と言って、大胆にダビデの罪を責めます。ナタンはまず例え話を話すことから始め、いきなりウリヤの件を持ち出すことはしませんでしたが、これはダビデが自分で自分を断罪するようにさせるためです。もしナタンが最初からウリヤの件を話していたとすれば、ダビデは言い訳をしたり弱々しく罪を認めたりするだけだったかもしれません。しかし、例え話をまず話すのであれば、このようにダビデは知らず知らずのうちに自分で自分を強く非難することとなります。ですから、ナタンがまず例え話から話し始めたのは非常に効果的でした。この金持ちがダビデを示しているのだと聞かされたダビデは、どれだけ精神的な衝撃を受けたことでしょうか。このような話の状況で非常な驚きを感じないほど精神的に鈍感な人は恐らくいないと思われます。

『イスラエルの神、主はこう仰せられる。』
 ここまでに語られたのはナタンの言葉でした。ここからは神の言葉がナタンを通して語られます。このため、ナタンは『イスラエルの神、主はこう仰せられる。』と言います。これは預言者が神の御言葉を告げる際に語る定型句でした。預言者の書にはこの定型句が実に多く出て来ます。預言書をざっと眺めるだけでも、そのことが分かるはずです。この宣言は、それが神による言葉であるという証拠としての定型句でした。ですから、このような宣言と共に語られる御言葉にイスラエル人は耳を傾け、聞き従わなければなりませんでした。もし聞き従わなければ非常に大きな罪となります。その場合、神の御言葉を退けたのですから罰せられることになります。

【12:7~8】
『『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。』
 神はダビデに対し多くの御恵みを注がれました。その御恵みは非常に大きいものでした。これはダビデが神から特別に選ばれた聖徒だったからです。ダビデの子ソロモンも、ダビデと同様、神から特別に選ばれていました。ですから、ソロモンも神から非常に多くの御恵みを受けました。神はダビデに『油をそそいで、イスラエルの王と』されました。これは大きな御恵みです。何故なら、国家において王となれる人物は限られているからです。また神は『サウルの手から』ダビデを『救い出し』て下さいました。これは神がダビデに恵みを注いでおられたからです。もし神の御恵みがダビデに注がれていなければ、ダビデはサウルに葬り去られていたかもしれません。また神はダビデに『あなたの主人の家を与え』られました。『主人の家』というのは、サウル王家の全体を意味します。神はダビデにサウルの王家を服させるという御恵みさえ与えられました。また神はサウルの『妻たち』をダビデに渡すという御恵みも与えられました。もともとサウルの妻たちはダビデの前に服する存在ではありませんでした。しかし、彼女たちも神の御恵みを受けたダビデにより服させられることとなったのです。そして神はダビデに『イスラエルとユダの家も与え』られました。ダビデはまずユダの家だけを治める王でしたが、それからイスラエルの全家をも治める王となりました。こうしてダビデはユダヤ人の全てを支配する王となったのです。これらの御恵みは誠に凄まじい御恵みでした。ダビデはもともと無名の小さな羊飼いに過ぎなかったのに、これほどまでの御恵みを神から受けたのです。これは本当に想像を絶する素晴らしい御恵みでした。

 このように神はダビデに御恵みを惜しまず与えられました。これらの御恵みを受けるだけでもダビデは十分だったと思われます。しかし、神は寛大な御方なので、ダビデに『それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。』と言われます。神がこう言われた通り、もしダビデが更に御恵みを求めたとすれば、実際にそれは与えられました。しかし、ここで『もっと多くのものを増し加えたであろう。』と言われている内容に、妻だけは含まれていないことを注意せねばなりません。ダビデが妻をもっと欲しく思って神に願い求めたとしても、それは与えられなかったはずです。他のものであれば与えられたでしょうが、妻だけは話が違います。何故なら、神は律法において多妻を禁止しておられるからです(申命記17:17)。