【民数記16:12~21:9】(2022/01/09)


【16:12~14】
『モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」』
 モーセがコラの共犯者である2人のルベン人を呼び寄せようとしたところ、2人は全く拒みました。モーセが呼び寄せたのは「命令」だったからです。2人はモーセに上から命令されることがとにかく耐えられませんでした。だからこそモーセに反逆したわけです。高慢な者はとにかく命令を嫌います。それは不良を考えてみれば分かります。不良は高慢なので、立場のある者であれ命令であれ、自分たちに上のほうから現われるものを嫌います。2人はこの不良のようでした。ここでダタンとアビラムはモーセにこう言っているかのようです。「モーセよ。あなたは私たちをカナンに連れて行かせず相続地も与えてくれないのだから、あなたが指導者として相応しくないのは明白である。それだからあなたの呼び出し命令に私たちが従う必要はないし、従わないことこそ正しいのである。」

【16:15】
『モーセは激しく怒った。そして主に申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」』
 ダタンとアビラムが不遜な態度を示したので、モーセは怒り、神がこの2人の捧げ物を受容しないようにと願います。主の使いに対して行なったことは、主に対して行なうことです(マタイ25:40)。ダタンとアビラムは主の使いであるモーセに逆らっていたので、主なる神に逆らっていました。2人は神に敵対していました。だからこそ、そのような者の捧げ物を受容しないで下さいとモーセは神に言ったのです。ここでモーセが復讐心を満足させようとしてこのように言ったと考えることはできません。モーセは敬虔な精神に基づいてこう言ったからです。何故なら、神への反逆者がどうして神に受け入れられていいのでしょうか。もしモーセが私的な復讐のためこう言ったとすれば、それは罪でした。

【16:16~18】
『それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおの主の前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。」彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。』
 モーセがコラに指示を出すと、250人の名のある者たちおよびアロンが火皿に火を入れ、聖所の入口に集まりました。どうして火皿に火を入れたかといえば、主の御前には何も持たないままで出てはならないからです。神は手ぶらでやって来る宗教心の薄い者に怒りを発されます。このようにして、いよいよ神の審判が下されることになりました。

【16:19】
『コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。』
 コラはこの時を狙い、ユダヤ人の会衆を集め、聖所にいるモーセとアロンに立ち向かわせようとします。何と忌まわしいことでしょうか。数さえ多くいれば神が共におられる使いを打ち倒せるとでも思ったのでしょうか。このように不敬虔な愚か者は数に頼ろうとします。しかし敬虔な正しい者は、神さえ共にいて下されば数は関係ないと考えます。ヨナタンが良い例です(Ⅰサムエル14:6)。

【16:19~24】
『そのとき、主の栄光が全会衆に現われた。主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」ふたりはひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」主はモーセに告げて仰せられた。「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」』
 神は怒られたので、反逆者どもを絶滅させようとされました。神が多くの会衆をも首謀者たちと共に滅ぼそうとされたのは、コラの扇動に会衆が同調したからなのでしょう。何故なら、会衆がコラに賛同しなければ、どうして神は会衆をもコラと一緒に滅ぼされるのでしょうか。この時に『主の栄光が全会衆に現われた』というのは、前と同じで、栄光の雲が現われたということです。このようにしてまたもモーセは神により危機から救われました。これはモーセが神に信頼していたからです。モーセのように神を呼び求める者は救い出されるのです(ローマ10:13)。コラとその仲間が滅ぼされるのは当然でした。ネロをはじめ、この世の支配者でさえ自分に反逆する者は容赦なく殺します。この世の支配者がそうであれば、尚のこと、神はそのようにされるでしょう。しかし、ここでモーセは神に対し、コラたちが犯した罪のため全会衆をも滅ぼすのはいかがなものかと申し上げています。すると神はモーセの言ったことを考慮され、会衆を反逆者どもから離させ、滅びに巻き込まれないよう働きかけられました。これはモーセの言ったことがもっともだったからです。しかしながら、ここで私たちは、神がモーセの指摘により矯正されねばならないほど愚かであったと考えないようにすべきです。神にはモーセの言ったことなど百も承知でした。ただ神はモーセが指摘することを前提として、コラたちと共に会衆全体をも滅ぼそうとされたのです。そのようにすれば、会衆全体を滅ぼさないのと同時に、御自身の大きな怒りをも示すことができるからです。このようにするのが神のやり方です。すなわち、全てを予知しておられる神は何らかの出来事がこれから起こることを前提とした上で事を為さるのです。

 ここでモーセが言っているように、神とは『すべての肉なるもののいのちの神』であられます。被造物における命とは神の存在の物理的表現であって、その命は神により創造され、保持され、支配されているからです。勘違いすべきでないのは、被造物の命が自存しているのではないということです。命は全く神に基づいています。ヨブ記12:10の箇所に、『すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。』と書かれている通りです。モーセはこのような神に、僅かな者が罪を犯したからというのでそこまで悪いとは言えない大多数の者を滅ぼさないでほしいと願ったのです。何故なら、命の支配者であられる神が、そこまで悪いとは言えない多くの者を極みまで邪悪な者と一緒に滅ぼすというのは相応しくないからです。確かに正しい者やそれほどに悪いと言えない者が邪悪な者と一緒に死ぬというのは正義に適っていません。アブラハムも神に対して同じことを言いました(創世記18:23~25)。

【16:25~27】
『モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。』
 モーセは神の意志が全会衆の滅びではないことを知ったので、会衆の全体にコラとダタンとアビラムの住まいから離れるよう命じます。これは会衆が生き延びるためです。3人の首謀者たちと共にいれば裁きの滅びに巻き込まれてしまいます。この時にモーセはコラとダタンとアビラムの所有物に手を出さないよう注意します。欲望に駆られて彼らの所有物に手を出せば、そのユダヤ人は滅んでしまうからです。こうしてダタンとアビラムおよびその家族が住まいの入口に現われました。逃げ隠れることはもうできません。ダタンとアビラムの家族もダタンとアビラムと一緒に滅ぼされます。何故なら、家族とは契約的に一体であり、神は契約的に事を御覧になられるからです。

【16:28~35】
『モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからである。また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。』
 モーセは事実が全てを物語るであろうと言っています。すなわち、もし反逆者たちがこのまま生きて普通に死ぬのであればモーセは神が立てられた指導者ではなく、反逆者たちがすぐにも驚くべき死に方をすれば非は反逆者たちにあったということです。モーセが分を越えていたのか、コラたちが分を越えていたのか、これで全てが分かります。モーセは考えたものです。彼は事実ほど雄弁な証拠はないとよく知っていました。この箇所で『よみ』と言われているのは、ハデスすなわち地獄を指します。『彼らが生きながらよみに下る』とは、反逆者たちが本来であれば生きることのできる年数さえ生きられないで即座に死んで地獄へ移されるという意味です。

 モーセは神により立てられた正当な指導者だったので、神はモーセの言葉通りにされ、コラたちを地割れに呑み込ませて殺されました。御覧ください、神とその使いに逆らう反逆者たちはこのように裁かれるのです。ここにおいて勝敗が決まりました、コラたちのほうが分を越えていたのです。この時にコラたちの回りにいたユダヤ人は巻き添えを食らわないよう逃げました。かなり大きな地割れが生じたのでしょう。このように逃げたユダヤ人が全て逃げられたのか、それとも幾人かは地割れに呑み込まれたのか、私たちには分かりません。

 また、火を捧げていた250人の反逆者たちもこの時に滅ぼされましたが、こちらのほうは火により焼き殺されました。後の箇所で書かれているように彼らの捧げた火は聖とされていましたが、それを捧げていた者たちは神に受け入れられませんでした。彼らは火による香を捧げる者として選ばれていませんでしたから、神に裁き滅ぼされたのです。召されていないのに神に逆らって分を超えた不適切なことをするのであれば、このように神から裁かれてしまいます。

【16:36~40】
『主はモーセに告げて仰せられた。「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らが主の前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。―主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。』
 神は、エルアザルに250人の反逆者たちが使った火皿を祭壇の被金とし記念にせよと命じられます。これはユダヤ人がその被金を見て250人の反逆者たちを思い起こし恐れるためでした。つまり、これは一種の見せしめです。神はもう二度とこのような反逆が起こらないために、このような命令を出されました。このようにイスラエルの歴史は悲惨であり恥辱に満ちています。だからこそ、ユダヤ人はなかなか自分たちの歴史を直視しようとしないわけです。しかし、私たちはこのような歴史をしっかりと見なければなりません。それは私たちがイスラエルの歴史を教訓にするためです。

【16:41~50】
『その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現われた。モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。』
 翌日になると、またもやイスラエル人の全会衆がモーセとアロンに反逆しました。反逆者たちが先日死んだ原因をモーセとアロンに求めたからです。しかし、この時も神がその栄光をもって2人を助け出されました。全会衆がモーセとアロンに『あなたがたは主の民を殺した。』と言ったのは誤りでした。何故なら、反逆者たちを殺したのはモーセとアロンではなく神だったからです。

 このように会衆が逆らったので、神は裁きにより『一万四千七百人』ものユダヤ人を殺されました。これほどまでの死者数が出たのは、反逆したユダヤ人が実に多かったことを示しています。この時に下された神罰がどのような内容だったかは分かりません。また、1万4700という死者数に何らかの象徴的な意味が含まれているとは思われません。この数字は数が多いということ以外には、隠された意味を持っていないはずです。

 神罰が下されている最中に、アロンが香を焚いて神を宥めると、神罰が止みました。これはこの香がキリストという喜ばしい香を指し示していたからです。神が宥められるのはこのキリスト以外にはありえません。ですから、神はキリストのゆえに神罰を停止して下さったことになります。もしアロンが香を焚いて贖っていなければ、更に多くのユダヤ人が殺されていたでしょう。

【17:1~11】
『主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。モーセがその杖をみな、主の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。』
 先に神はコラとその仲間たちを滅ぼすことで騒がしい会衆たちを鎮めようとされましたが、駄目でした。会衆は反逆者どもが恐るべき仕方で裁き殺された翌日にまた逆らったのです(民数記16:41~42)。災いを見たのになお逆らうというのはおかしいことでした。このため、逆らった会衆は1万4700人も殺されました。もうこのような悲惨は再発すべきではありません。そこで、神は今度は別の仕方で働きかけることにより、イスラエル人を鎮めようとされます。すなわち、12部族の長たちにそれぞれ1本の杖を持って来させ、アーモンドの芽が奇跡により生じた杖の持ち主を選ばれた者として示すのです。このような奇跡が行なわれたならば、愚かで頑なだったユダヤ人も、その杖の持ち主こそ選ばれた者だと認めざるを得なくさせられます。そういうわけで、12本の杖がモーセのところに預けられました。するとアーモンドの芽を出したのはレビ族の杖、すなわちアロンの名が書かれた杖でした。これこそ正にアロンが正式に民の上に立てられていたことの揺るがぬ証拠です。ですから、ここにおいてイスラエル人たちは口をつぐまされることになりました。もしアロンが神から選ばれていなければ、アロンの杖に芽は生じていなかったでしょう。

 ここで不敬虔な愚か者はこのように言うかもしれません。「ここではアロンの杖が翌日になってアーモンドの実を結んだと言われているけども、これは神が奇跡として行なわれたのではない。これはモーセか他の誰かが行なったのだ。つまり、翌日になるまでに密かにその杖をアーモンドの実が付いた他の杖に取り替えたのだ。」私は言いますが、そんなに短期間の間に、アロンの杖と似ている杖、しかもアーモンドの実が付いた杖をどうして見つけ出せるのでしょうか。もしそのような杖をすぐにも見つけられたとすれば、それは奇跡的なことだと言わねばなりません。しかし、モーセか他の誰かが杖を取り替えたと考えるのは、不信仰であって、自然ではありません。それゆえ、私たちは神がアロンの杖にアーモンドの実を生じさせたと信じなければなりません。

【17:12~13】
『しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」』
 神がまざまざとアロンの選びを示されると、イスラエル人は混乱し、神に滅ぼされてしまうと絶望しました。自分たちが完全に敗北したことを悟ったので、動揺から理性を正しく行使できなくなり、自分たちが幕屋にあえて近づいたならば死ぬということを恐れておかしくなったのです。このような状態を経験したことのある人は少なくないかもしれません。人間は敗北を味わわされると、もう何もかもが駄目だと思って滅茶滅茶になりがちなのです。この箇所で彼らが『死んでしまう』、『滅びる』、『滅びる』と自分たちの死滅について3回も繰り返し言っているのは、彼らの絶望感がいかに大きかったかよく示しています。

【18:1~7】
『そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを主にささげられたあなたがたへの贈り物とする。あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」』
 イスラエル人は自分たちが聖所に近づいたならば死ななければならないと絶望したので、神はアロンとその一族に祭司職の責任を負わせられました。これは聖所に他の部族の者が近づいて死なないためです。このようにして神は、誰が聖所に近づいてよいのか明白に示されました。イスラエル人が神の定めを弁えて、再び愚かなことをしないためです。既に言われていましたが、一般のレビ人たちは祭司と共に聖所で仕事をすることができます。彼らは祭司たちの助手・サポート役だからです。神が彼らを祭司たちに『贈り物』としてあてがわれました。これはアロンの一族である祭司だけでは、イスラエル人の全てに関わる祭儀を細かな点まで十分執り行なうことができないからです。

【18:8~19】
『主はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物にかかわる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物の捧げ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたがたにとって聖なるものである。また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前とする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルはニ十ゲラである。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、主へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもののようにあなたのものとなる。イスラエル人が主に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」』
 イスラエル人が神に捧げる捧げ物は、家畜であれ穀物であれ、祭司たちに分け前として神から与えられます。聖絶されたものも神は祭司たちに与えられます。このようにして神は祭司たちを養っておられました。民が祭司たちについて、「私たちの捧げ物により祭司たちは生活できているくせに。」などと意地悪く言うことはできませんでした。何故なら、民が捧げる捧げ物は祭司たちにではなく神に捧げられるのだからです。その捧げ物は神への捧げ物ですから、神の所有となります。それを神が祭司たちに与えられるのです。ですから、民が祭司たちに肉や穀物を与えているのではなく、神がそれを祭司たちに与えておられました。このため祭司たちは民に媚びへつらったりせず堂々と祭儀を行ない、民を大胆に教えることができました。祭司たちが生活できている恩は民にでなく神に負っているからです。それゆえ、もし民が祭司に「あなたがたは私たちが捧げ物を捧げなければ生活できないのに生意気にも指導者ぶっていないか。」などと言えば、祭司は「それでは君たちは神に捧げ物を捧げないというのかね。」と反論することができました。捧げ物が神を通して祭司たちに与えられるというのは、既に定められていたことです。その捧げ物は、祭司に属する祭司の家族も食べることができました。ただし、それは男子だけが食べられるものと、男子以外でも食べられるものに分かれていました。これについても既に定められていました。

 この箇所でも、前に定められていた初子の定めが書かれています。人でも獣でも初子は全て神の専有物であるゆえ神に捧げなければなりませんでしたが、それは祭司たちに分け前として与えられました。しかし、汚れた獣の場合は祭司たちに渡されるわけにはいきませんから、その代わりに贖い金が渡されることになります。人の場合もやはり祭司たちに渡されるのは適切ではありませんから、贖いの代金が初子の代わりとして祭司たちに渡されねばなりませんでした。もし汚れた獣の初子と人間の初子が祭司たちに渡されていればカオスな状態が生じていたでしょう。牛や羊や山羊は聖い動物ですから、その初子を贖う必要はありませんでした。それは、そのまま屠られて祭壇に捧げられます。

 19節目で書かれている『塩の契約』とは、ユダヤ人の捧げる穀物の捧げ物には塩が伴っていたからです(レビ記2:13)。これは、つまり塩と共に捧げられる穀物の捧げ物は永遠の約束によって祭司とその家族たちに分け前として授与される、という意味です。ですから、祭儀律法が廃止されるまでの間、祭司とその家族は民の捧げた塩付きの捧げ物を神からの分け前として食べることができました。

【18:20】
『主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。』
 既に見たようにイスラエルの諸部族のうちレビ族だけは相続地の割り当てを受けられませんでしたが、この箇所ではそのレビ族におけるアロンに相続地が与えられないことについて書かれています。アロンは神を相続地としていたので、大地のどこかの部分を相続する必要はありませんでした。これは差別ではありません。それどころか優遇です。何故なら、アロンは大地ではなく、大地に優る大地の創造者なる神を相続できるからです。ですからアロンおよびレビ族たちは何も悲観する必要がありませんでした。悲観すべきだとすれば、むしろ他の部族です。レビ族でない部族は、大地を相続できるものの大地の造り主は相続地として割り当てられていないからです。

【18:21~24】
『さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」』
 神は、レビ人たちに聖務の報酬として、イスラエル人から収穫・収入の1割を与えると定めておられます。先に述べたように、民は「我々が祭司たちを養っているのだ。」などと言えませんでした。祭司を十分の一で養っているのは民というよりは神だからです。もし民がこのように言い、祭司がそれを聞いて認めヘコヘコするのであれば、イスラエルの祭儀と教育は堕落していたでしょう。その場合、祭司たちは民の気に入らないことであれば神の命令であったとしても、行なわず言わなかったり、または行ないにくくなったり言いにくくなったりしていただろうからです。「私たちは民の捧げ物により生活している。もしこんなことを言えば民の気に障るかもしれない。そうしたらもう民は捧げ物を持って来なくなるかもしれない…。」などと思って。この十分の一が出て来るのはこれで4回目です。1回目は創世記14:20、2回目は創世記28:22、3回目はレビ記27:30~33でした。ところで、どうして『十分の一』という割合なのでしょうか。これは負担とならないで済む限界ギリギリの範囲である1割を捧げさせることにより、神への服従を試し、確かめるためです。もし収入の1割を捧げられるならば、その人には神に服従する態度があるはずです。しかし1割を拒むようであれば、その人には神に服従する態度がないでしょう。つまり、十分の一とは服従の試金石です。

【18:25~32】
『主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として供えなさい。これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を供えなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちから主へのすべての奉納物を供えなさい。またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」』
 レビ人は聖務への報酬として十分の一を受けていましたが、彼らもその十分の一から十分の一を捧げなければなりませんでした。例えば、羊を10頭受けた場合は1頭の羊を十分の一として捧げねばなりません。レビ人の捧げる十分の一は、民が自己の労働により得た収入・収穫から捧げる十分の一と同じ捧げ物として見做されます。何故なら、レビ人は聖務への報酬として十分の一を受けたのであり、彼らはその報酬の中から十分の一を捧げるからです。レビ人であり十分の一を受ける側だからというので、十分の一をレビ人が捧げないのは命令違反となります。また、レビ人が十分の一として報酬から最上の部分を捧げるならば、『そのことで罪を負うことはない』のです。これは一般の民が収入・収穫における最上の部分を十分の一として捧げれば何も問題なしとされるのと一緒です。

 現代でも多くの牧師が十分の一を受けていますが、彼らもその十分の一から十分の一を捧げるべきです。牧師たちは神の働きに対する報酬として十分の一を受けているという点で、旧約時代のレビ人たちと同じだからです。また牧師に副業や不動産による収入があれば、その収入からも十分の一を捧げるべきです。もし十分の一を捧げられない牧師がいれば、その牧師は神に服従することができないでしょう。何故なら、その牧師は収入の1割さえも神のために犠牲とすることができないからです。

【19:1~10】
『主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「主が命じて仰せられたおしえの定めは、こうである。イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡せ。彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。祭司は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びよ。その後、宿営にはいることができる。しかしその祭司は夕方まで汚れる。それを焼いた者も、その衣服を水で洗い、からだに水を浴びなければならない。しかし彼も夕方まで汚れる。身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。この雌牛の灰を集めた者も、その衣服を洗う。彼は夕方まで汚れる。これは、イスラエル人にも、あなたがたの間の在留異国人にも永遠のおきてとなる。』
 神は、イスラエル人が赤い雌牛を屠り、その血で聖所を清め、焼かれて生じた灰により清い水を作るよう命じられます。これは完全に指示通りの牛でなければならず、傷が付いていたり、既に軛に繋がれていたり、赤さが不十分であったり、牛でない家畜であったり、牛ではあっても雄や子牛であってはいけませんでした。この雌牛の血を聖所に『七たび』振りかけるのは、清められることが示されるためです。『杉の木と、ヒソプと、緋色の糸』は既に見たように清めを象徴しています。この雄牛を取り扱った者たちは夕方まで汚れますから、水で清められねばなりませんでした。また、これは『永遠のおきて』だったので、祭儀律法が廃止されるまではイスラエルのうちで行なわれねばなりませんでした。もう今は祭儀制度そのものがありませんから、誰かが無謀になり行なおうと思っても、そもそも行なうことがどうしてもできません。

【19:11~22】
『どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕にはいる者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。身のきよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを、天幕と、すべての器と、そこにいた者と、また骨や、刺し殺された者や、死人や、墓に触れた者との上に振りかける。身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。汚れた者が、罪の身をきよめなければ、その者は集会の中から断ち切られる。その者は主の聖所を汚したからである。汚れをきよめる水がその者に振りかけられなかったので、その者は汚れている。これは彼らに対する永遠のおきてとなる。汚れをきよめる水を振りかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れをきよめる水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる。」』
 死とは罪に対する裁き・呪いですから、死体とは汚れそのものです。そのため誰でも死体に触れるならば汚れました。これは感染力の凄まじいウイルスに感染した人に触れた人がそのウイルスに感染してしまうのと似ています。もっとも、聖書が死体に触れれば汚れると言っているのは、物質的な汚れではなく概念的な汚れであるということなのですが。何故かと言えば、毎日身体を洗っているので物質的には清潔な人でも死体に触れれば一瞬のうちに御前で概念的に汚れてしまうのに対し、死体に触れなければたとえ3か月も身体を洗っていないので物質的には不潔な人であっても御前では清いままだからです。もちろん、死体に触れれば物質的にも汚れてしまう場合が多いのは確かです。何故なら、死体とは物質的に必ず腐敗するからです。しかし、だからといって聖書で死体に触れれば汚れると言われているのは物質に関することではありません。死体に触れたら『7日間』汚れるのは、十分な期間汚れるということです。聖書で「7」は十分さを示す数字ですから。また、今ではもうこの規定が廃止されていますから、死体に触れたからといって汚れてしまうということはありません。このような聖と汚れに関する定めは、まだ霊的な幼子であったユダヤ人たちに聖と汚れを弁えさせるための教育手段だったからです。

 天幕の中で死人が出た場合、その天幕の内部が全て汚れますから、そこにいた者もそこに入って来た者も汚れてしまいます。ですから、天幕で急に誰かが死んだ場合や、天幕に死人がいるとは思わず入って来た人は、汚れを避けることができません。ちょうど警察官が標識の分かりにくい場所で待ち伏せしていたので思いがけず違反点数を加点されてしまうようなものです。野外で生じた死者に触れた者も当然ながら汚れてしまいます。戦場でも例外ではありません。戦争で死者が出るのは避けられないのだから戦場の死者だけは汚れをもたらさない、ということにはなりません。更に『墓に触れる者』も汚れを受けます。そこには罪と呪いの結果である死体が入れてあるからです。

 死体で汚された者は、『三日目と七日目』に汚れを清めねばなりませんでした。2回の清めがなされるのは強調と確認の意味を持ちます。3日目の清めを逃したら清められませんでした。3日目を逃さなくても7日目を逃せば清められませんでした。1度目が『三日目』に指定されているのは、それが7日のうち中間部分だからでしょう。4日目も中間部分ですが、神は3日目を一度目の清め日として定められました。これは3日目に清めさせることで、汚れの記憶が薄くならないようにするためだったと思われます。もし清め日が4日目だったとすれば3日目の場合と比べ、汚れの記憶がより薄くなっていただろうからです。すなわち、3日目であれば清めの儀式によりすぐにも汚れの記憶が再認識されるのに対し、4日目であれば3日間も清めの儀式による再認識がありませんから、その3日間に生じる記憶の薄れが問題となっていたでしょう。汚れた者は、2回の清め日を遅らせたり早くしてはなりませんでした。例えば、1回目を2日目に行ない、2回目を8日目に行なうということはできませんでした。それは規定に違反しているからです。清めのためには、先に民数記19:9の箇所で書かれていた雌牛の焼かれた灰を『湧き水』(17節)と混ぜた清い水が使われます。それを清い人が、清めを象徴するヒソプにより汚れた者に振りかけるのです。それが3日目と7日目に行なわれます。この時に水を振りかける者は汚れますから、その衣服を洗わねばなりません(21節)。ところで、雌牛の焼かれた灰が清めのために使われるということを不思議がる人がいるかもしれません。何故なら、私たちは灰が何かを清める物体だと一般的に考えていないからです。しかし、神はこの灰が清めのために使われるとしておられます。それはその灰が清めに使うべく生じさせられたのだからです。確かに聖書は灰と混ぜた水により汚れた者が清められると言っています。ですから聖徒たちは傲慢の口を閉じなければなりません。なお、死体で汚れた者は清められるまで宿営の外に追い出されます(民数記5:2~3)。これは彼らにより聖なる宿営が汚されないためです。

 もし汚れた者が清められなければ、ユダヤの共同体から断ち切られて滅びました。何故なら、『その者は主の聖所を汚したから』です。ですから、3日目と7日目の清め日を逃すことは致命的であり、もし逃せばその者の人生は終わりました。つまり、神の子ではなくなり異邦人と同じように地獄へと堕ちるのです。神の子としていつづけるというのは、あまりにも重要です。ですから、ユダヤ人にとって2回の清め日はとてつもない重要性を持っていました。

 22節目で言われている通り、汚れはウイルスのように移されます。何か霊的な菌があるというのではありません。汚れた者に触れるならば概念的に汚れるので、神の御前で霊的に汚れた者と見做されるのです。たとえその者が物質的には清潔であっても、神の目からすれば汚れている存在なのです。このような定めのため、古代イスラエルで死体に汚された者がウイルスのように避けられていたことは間違いありません。その者に触れたら清い者まで汚れを受けてしまうのですから。しかし、汚れた者が差別されたり迫害されることはなかったでしょう。何故なら、その者は7日もすれば清められて元の状態に戻るからです。

【20:1】
『イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。』
 本来の目的地であるカナンへと入れないにもかかわらず、イスラエル人は旅を続けなければなりません。彼らは裁きとして意味もなく放浪の旅をせねばならないのです。彼らは『ツィンの荒野』にある『カデシュ』という場所に留まりましたが、これは今でもニュースでよく聞かれるガザ地区の南側にある広大な荒野のことです。そこは今でさえ文字通り何もないと言える荒んだ場所です。「我々はこんな場所を彷徨っていたくない。」とこの時のユダヤ人は思ったかもしれません。そうであればカナン侵攻に尻込みしなければよかったのです。あの時にカナン侵攻をしていれば、すぐにもユダヤ人は荒野生活とおさらばできていたでしょうに。

 このカデシュでミリヤムは死にましたが、彼女は3人姉弟の中で一番早く死にました。ミリヤムはアロンとモーセよりも年上でしたから、彼女が一番最初に死んだのは自然だったと言えます。しかし、彼女が何歳で死んだかは書かれていません。またその死の詳細も書かれていません。これはモーセとアロンとは違っています。この2人は、死んだ時の年齢も死における詳細も書かれています。この違いはミリヤムが女だったからなのでしょう。女は二番目に生まれた上に惑わされて罪を犯しましたから(Ⅰテモテ2:13~14)、それを知っている聖書は女の記述にそれほど重きを置かないのです。このミリヤムは最晩年にモーセを非難するという巨悪を犯しましたが、今は天国にいるはずです。私たちもやがてこのミリヤムに会うことになるでしょう。

【20:2~5】
『ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」』
 ユダヤ人がいた荒野は本当に何もない場所でした。道路や標識が整備された今でも、やはり何もないと言える場所であり、写真を見ると死んでも行きたくないと感じさせられるほどです。そこには食べる食物も飲む水さえもありません。しかし、神は天からのマナと岩から出る水で彼らを養っておられました。それにもかかわらず、ユダヤ人はまたもや飲食のことで反逆しました。一体何なのでしょうか、この民は。少し前に反逆したため裁かれたのに、そのことから何も教訓を得なかったのでしょうか。どうやらその通りだったようです。これゆえ彼らは『うなじのこわい民』と言われたのです。このようなユダヤ人が私たちの前に教訓として置かれています。それゆえ私たちは彼らと同じようにならぬよう注意せねばなりません。

 このようにユダヤ人は、何を言われても、どれだけ苦しめられても、多くの死人が生じても、その愚かさから離れることができませんでした。これからもユダヤ人が愚かさから離れることはありませんでした。彼らについてソロモンはこう言っています。『愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。』(箴言27章22節)

【20:6】
『モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。』
 民が反逆したので、モーセとアロンは主の御前で平伏しました。前の箇所では誰に平伏したか書かれていませんでしたが、この箇所ではしっかり平伏した対象が示されています。先の箇所で書かれていたのは、民が反逆した後にモーセとアロンが平伏したという点でこの箇所と一致しています。ですから、先の箇所もこの箇所と同じで神に対して2人が平伏したと考えるべきだと思われます。

【20:6~8】
『すると主の栄光が彼らに現われた。主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」』
 騒ぎ立てる会衆に対し、神は岩から水を出して飲ませようとされます。そうすれば会衆は鎮まるだろうからです。そのため神はモーセとアロンが岩から水を出すよう指示されました。神にはこのようなことができます。神は全能であられるからです。岩から水が出るというこの奇跡は既に行なわれていますから(出エジプト17:1~6)、この時に初めて行なわれるのではありません。

【20:9~12】
『そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」』
 モーセが神の命令通りに岩を打つと、そこから水が出たので、会衆と家畜はそれを飲むことができました。神は慈しみ深い御方であられます。ですから、岩からは本当に多くの水が出たでしょう。そうでなければ100万人以上もの人々と無数の家畜がどうして喉を潤せるでしょうか。しかし多くの水が出たといっても、具体的にどれほど多かったかは不明です。ここでは単に『たくさんの水がわき出た』と言われているだけです。しかし、私たちは岩から滝のように水が出たと想像してよいでしょう。『岩』であれば荒野に沢山ありました。特に丘の場所がそうであり、今でも大きな岩がゴロゴロとあります。

 しかしながら、この時の出来事ゆえ、モーセとアロンはカナンの地へ入れなくされました。2人が行なった水を出す奇跡そのものに問題はありませんでした。彼らは神から言われた通りに行なっています。問題だったのは、モーセとアロンがこの奇跡における栄光と力を神に帰さなかったことです。このことについて、申命記32:51の箇所ではモーセが『わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかった』と書かれています。つまり、モーセとアロンは岩から水が出た奇跡における栄光と力を、「これは神がして下さることなのだ。」などと言わなかったことにより、結果として自分たちに帰するようにしてしまいました。栄光と力は神の専有物です。それなのに2人は神からそれを盗み取ったのです。だからこそ、モーセとアロンは裁きとしてカナンに入れなくされたのでした。栄光と力は神の専有物ですから、神にこそ帰されねばなりません。聖書ではこう書かれています。『力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。』(詩篇29:1)『私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。』(詩篇115:1)栄光と力を神に帰さなければ裁かれてしまいます。ここで書かれているモーセとアロンは裁かれましたし、ヘロデもそうでした(使徒の働き12:23)。ですから私たちは栄光と力とを神に帰するようにせねばなりません。私も早速そのようにしましょう。このように註解文を書き、教え、それを続け、誤らずにいることが出来ているのは、神の恵みによるのです。『人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません』(ヨハネ3章27節)から。神が行なわせて下さるのでなければ、私は何もできず、怠惰になるしかなかったでしょう。

【20:13】
『これがメリバの水、イスラエル人が争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。』
 イスラエル人が逆らったのでこの場所は『メリバテ・カデシュ』(申命記32章51節)と命名されましたが、『メリバ』とは「争う」という意味です。後の時代に教訓とするためこのように命名されました。このためイスラエルにおいてメリバとは争いの代名詞でした。この時に神は『ご自身を、聖なる者として示され』ました。これはモーセとアロンが岩の奇跡を通して神の神聖さを示さなかったことで、かえって神が聖なる存在であると示されることになったからです。しかし、たとえモーセとアロンが栄光と力を神に帰していたとしても、神が聖なる存在であると示されることになっていました。このような反逆者としてのユダヤ人が私たちの前に教訓として置かれています。それゆえ、私たちは神に反逆してはなりません。反逆のユダヤ人に倣ってはいけません。

【20:14~17】
『さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。そこで、私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」』
 ユダヤ人はエドムの領土を通過したかったので、モーセは使者をエドム王に遣わし、そこを通らせてくれるようお願います。ここでのモーセの言葉は人士に相応しい内容であり、無礼さは全く感じられません。『エドム』とは死海の南側にある、エサウの子孫が住んでいる地域でした。エサウすなわち『エドム』はユダヤ人の先祖であるイスラエルの兄ですから、モーセはエドム人に対し自分たちを『あなたの兄弟』と言っています。

【20:18~21】
『しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」しかし、エドムは、「通ってはならない。」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。』
 残念ながらエドムはイスラエル人の願いを拒みましたので、イスラエルは別の方向に行かざるを得ませんでした。神がエドム人の心を動かして下さらなかったのですから仕方ありません。そこを通ることは御心ではなかったのです。モーセはこの時、エドム人が自分たちの願いを拒んだからといって戦おうとはしませんでした。これはエドム人がイスラエル人の『兄弟』だったからです。

 このようにエドムがイスラエルを退けたのは驚くに値しません。この2つの民族には遺伝子的な敵対関係があったからです。エドムの祖先エサウとユダヤの祖先ヤコブは、根本的に和合できないでいました。ですから、その子孫である者たち同士も仲良くやれないわけです。

【20:22】
『こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。』
 『ホル山』とはエドムの領土にある山であり、死海から南に100kmほど離れた場所にあります。カデシュからは東に120kmほど離れています。

【20:23~29】
『主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」モーセは、主が命じられたとおりに行なった。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。』
 アロンはホル山にて死にました。死んだ時の年齢は『百二十三歳』(民数記33:39)でした。これは古代の基準からすれば非常な長生きです。『民に加えられる』とは、つまり死ぬことです。死ぬと既に死んで神の御許に移されていた聖徒たちと一緒の状態になるので、このように言われています。旧約聖書でこのように言われている箇所は少なくありません。

 神はアロンがイスラエルの会衆と共にカナンに入れないと宣告されました。これはアロンがメリバで罪を犯したためです。神は罪を犯す者に報いられます。また、アロンは死ぬ前に、大祭司の標識である衣服をその子エルアザルに受け継がせました。大祭司職に定年はありませんから、死ぬか、身体的・精神的に聖務執行が不可能になる以外は、その衣服を次の大祭司に継承させることがありません。アロンは身体的・精神的には問題なかったでしょうから、避けられぬ死により衣服を受け継がせることとなりました。山に登った3人のうちアロンだけが戻っておらず、エルアザルがアロンの衣服を身に着けていたので、アロンが死に、エルアザルがアロンの後継者となったことは民に明らかでした。

 アロンが死んだので民は『三十日の間』喪に服しました。モーセが死んだ時にも『三十日間』(申命記34章8節)の喪であり、ヤコブの時は『七十日間』(創世記50章3~4節)の喪でした。イスラエルの大祭司が40年の聖務を為し終えて死んだのですから、30日間の喪が定められたのは自然なことでした。古代中国の有名な「礼記」という本では中国人が2年間も喪に服したとあります。古代人は喪の期間を多く定めるのが一般的なことだったのかもしれません。現代では、少なくともここ日本においては、喪の期間など少ししか定められないのが一般的であると思えます。

【21:1~3】
『ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕えて行った。そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。』
 カナン人との避けられぬ戦いが生じたので、ユダヤ人が神に誓願を立てると、神はカナン人をユダヤ人に渡して下さいました。「渡す」とは、つまり勝利を与えられるということです。何故なら、神により敵が渡されるからこそ勝利し、滅ぼし、自分たちの思うままに取り扱えるからです。ここでは敵がユダヤ人に渡されましたが、これとは逆のことが起こる場合も多くありました。この表現は旧約聖書で多く見られますから、忘れないようにすべきでしょう。この時にユダヤがカナン人を聖絶したのは、カナン人が戦いに向かい、捕虜まで捕え、そのうえカナン人は滅びに定められていたからでした。先に見たエドム人の場合は、戦いにまで発展しませんでしたし、捕虜も捕らえられませんでしたし、何よりエドムはユダヤの兄弟だったので聖絶するということはありませんでした。この時に聖絶されたカナン人の場所は『ホルマ』と名づけられましたが、これは「聖絶する」という意味です。このホルマは死海から西に40kmほどの場所にあります。ユダヤ人はこのホルマを通って、南からカナンへ入ろうとしたようです。しかし、それは上手く行きませんでした。ですからユダヤ人は死海の東側をぐるっと迂回してカナンに入ろうとします。何事でも神の御心でなければ、たとえそこを進みたいと思っても、結果として進めなくされるのです。

 この時にユダヤ人が立てた誓願は正しく有効でした。だからこそ、神はその誓願を退けず、むしろその誓願の通りにして下さったのです。これは腐った修道士どもの立てる修道誓願が正しくなく無効であるのとは違っていました。また、この時の聖絶も正しく御心に適っていました。何故なら、カナン人は裁きに定められており、滅びる運命にあったからです。ちょうどナチス党が裁かれて滅びるように予定されていたのと同じです。

【21:4~5】
『彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」』
 ユダヤ人はエドムの地を回り、エドムの北にあるモアブの地に沿って歩み、東からカナンに入ろうとしていました。神の御心は、南からでなく東からカナンに入ることだったのです。

 ユダヤ人は食物の不満により、またもや神とモーセに反逆してしまいました。過去に逆らったので裁かれて痛めつけられたのを彼らは忘れてしまったとでもいうのでしょうか?彼らは恐らくそのことを忘れてはいなかったと推測されます。しかし、それにもかかわらず彼らは再び逆らったのです。これは、つまり彼らが愚かだったということです。このように愚かさを何度も繰り返すユダヤ人についてソロモンの書ではこう書かれています。『犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。』(箴言26章11節)

【21:6~9】
『そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。』
 神が『うなじのこわい民』に裁きとして『燃える蛇を送られた』ので、多くの者が死んでしまいました。燃えている蛇とは何という恐ろしい裁きでしょうか。ここには神の怒りがよく示されています。この裁きの蛇が毒を持っていたから噛まれて死んだのか、非常に鋭い牙を持っていたから噛まれて死んだのか、噛まれて火が燃え移ったから死んだのか、私たちにはよく分かりません。ただ分かるのはこの蛇により噛まれたからこそユダヤ人が死んだということです。この時には『イスラエルの多くの人々が死んだ』のですから、蛇はかなりの数だったはずです。もしほんの少しの蛇しかいなければ多くの人々が噛まれて死ぬというのは難しいと思われるからです。

 多くのユダヤ人が殺されると、ユダヤ人は自分たちの罪を素直に認めます。これは神からの裁きでユダヤが大いに苦しめられたからです。どれだけ愚かな者であっても、非常に痛い目を見るのであれば、自分の罪をはっきり認めるものなのです。ところが愚か者はしばらくすると再び同じ罪を犯してしまいます。だからこそ「愚か者」なのです。

 民が罪を認めたので、モーセは神に執り成しの祈りを捧げます。すると神はモーセに蛇を作らせ、その蛇を見た者が救われるようにされました。この蛇がキリストを示しているのは新約聖書から明らかです。キリストは御自身がこの救いの蛇なのだと示しておられるからです(ヨハネ3:14~15)。モーセの作ったこの蛇がキリストを示しているからこそ、この蛇を見たユダヤ人は救われることができました。というのもキリストに人の救いがあるからです。蛇は聖書においてサタンの象徴ですが、この箇所は例外的にキリストの象徴となっています。キリストが蛇として示されていることに違和感や抵抗感を持つ人も、もしかしたらいるかもしれません。何故なら、私たちは一般的に蛇に悪いイメージを持っているからです。しかし、聖書のこの箇所ではキリストが蛇において表示されています。ですから聖書を信じる者は、このことを受け入れなければなりません。