【民数記34:13~36:13】(2022/02/06)


【34:13~29】
『モーセはイスラエル人に命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする土地である。主はこれを九部族と半部族に与えよと命じておられる。ルベン部族は、その父祖の家ごとに、ガド部族も、その父祖の家ごとに相続地を取っており、マナセの半部族も、受けているからである。この二部族と半部族は、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸、東の、日の出るほうに彼らの相続地を取っている。」主はモーセに告げて仰せられた。「この地をあなたがたのための相続地とする者の名は次のとおり、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。あなたがたは、この地を相続地とするため、おのおのの部族から族長ひとりずつを取らなければならない。その人々の名は次のとおりである。ユダ部族からは、エフネの子カレブ。シメオン部族からは、アミフデの子サムエル。ベニヤミン部族からは、キスロンの子エリダデ。ダン部族からは、族長として、ヨグリの子ブキ。ヨセフの子孫、マナセ部族からは、族長として、エフォデの子ハニエル。エフライム部族からは、族長として、シフタンの子ケムエル。ゼブルン部族からは、族長として、パルナクの子エリツァファン。イッサカル部族からは、族長として、アザンの子パルティエル。アシェル部族からは、族長として、シェロミの子アヒフデ。ナフタリ部族からは、族長として、アミフデの子ペダフエル。イスラエル人にカナンの地で相続地を持たせるよう主が命じたのはこの人々である。」』
 カナンの地は、ルベン部族とガド部族とマナセの半部族を除いた『九部族と半部族』に割り振られることとなります。ルベン部族、ガド部族、マナセの半部族は既に相続地が割り振られたからです。このように先に2つの部族と半部族に割り振られるというのが神の御心でした。神がこのようにされたのは、ユダヤ人全体の益になるからだったと推測されます。もし先にルベン部族とガド部族とマナセの半部族に相続地が与えられたならば、もう既に実例が示されたわけですから、他の部族も相続地を得られると強く期待できるからです。そのようにして相続地を強く期待すれば、その期待がカナン侵略の大きな原動力となります。

 カナンの地は、エルアザルとヨシュアが神においてイスラエル人に相続地として定めます(17節)。これは神がこの2人を通してイスラエルを支配しておられたからです。モーセの名において相続地が定められるのではありません。エルアザルとヨシュアの名においてです。何故なら、相続地が割り当てられる時にモーセはもういなくなっているからです。18~29節目では、12人の部族長たちが相続地を受けるための代表者または名義人として選出されています。その中で40年前からずっと生きているのはユダ族の長である『エフネの子カレブ』一人だけでした。

【35:1~8】
『エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。町の外側に、町を真中として東側に三千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。あなたがたが、レビ人に当たる町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」』
 レビ人の相続地は神なので、カナンの地では相続地の割り当てがありませんでした。レビ人だけ他の部族と異なっていました。しかし、彼らもユダヤ人なのでユダヤ共同体にいなければなりません。ですから、神は諸部族が自分たちの相続地のうち一部をレビ人のために与えるよう命じられます。これは、ただレビ人がそこに住まうというだけのことでした。すなわち、そこにレビ人が住むからといって、そこがレビ人の永続的な相続地になるというわけではありませんでした。諸部族は必ずレビ人に相続地を与えねばなりません。何故なら、神がそうせよと命じられたからです。6節目で言われている通り、レビ人には『四十二の町』が与えられます。これは「42」ですから、諸部族がレビ人に町を与えるのは神の定めであるということ、またその与える42という町の数は決して多くないこと、という2つのことを示しています。これに加えてレビ人には殺人者が逃れるための「逃れの町」が6つ与えられます。ですからレビ人に与えられる町の総数は48ありました。逃れの町が「6」つだったのは、恐らくその町が人間に強く関わっていることを示しています。そうでなければ不完全さを示しているのでしょう。「48」という数字について言えば、聖書でこの数字に意味はありません。少なくとも今の私の聖書理解に基づいて言えば、確かにこの数字に象徴的な意味は何もありません。レビ人に住む町が与えられる際は、部族の大小に応じてその与える町の数が変わります。すなわち、『大きい部族からは多く、小さい部族からは少なく』町が与えられます。これは当然のことでした。何故なら、『すべて、多く与えられた者は多く求められ』(ルカ12章48節)、少し与えられた者は少し求められるからです。大きい部族には多くの相続地が与えられ、小さい部族には少しの相続地が与えられるというのは既に見た通りです。

 このようにしてヤコブのレビに対する預言―『私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。』(創世記49章7節)―は実現されることとなります。確かにレビの子たちはユダヤ人の諸部族の中に散らされて住むこととなったからです。これはレビが犯した大量殺戮の罪に対する呪いという面がありました(創世記49:5~7)。纏まれず、相続地を持てず、他の部族から住む地を提供してもらうというのは呪いでなくて何でしょうか。しかし、これには相続地を持てないものの、神を相続地とし、その神にどの部族よりも近づいて奉仕できるという恵みの面もありました。神は、レビ人の呪いを呪いのうちにあって善へと用いられたのです。つまり、これは神が聖徒たちに全てを働かせて益として下さるということです(ローマ8:28)。

【35:9~15】
『主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在留異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。』
 ユダヤ人がカナンに入植した際は、意図せずに人を殺した者が会衆の前で弁明する前に復讐されてしまわないため『のがれの町』を6つ定めねばなりませんでした。これはレビ人に与えられる町に含まれています(民数記35:6)。神は、『あやまって人を打ち殺した殺人者』を憐れまれます。ですから、このように彼らが危機を回避できるための町を定められたのです。もしこういった町がなければ、遅かれ早かれ無罪となるべきその殺人者は復讐者から殺されてしまいかねません。この町には、在留異国人もユダヤ人と同じように逃げて保護してもらうことができます。何故なら、既に見た通り、神は律法の中でユダヤ人と在留異国人の法的取り扱いに差をつけておられないからです。『在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。』(民数記9章14節)と書かれている通りです。この町は6つ定められていますが、そのうち3つをヨルダン川の東側に、3つをヨルダン川の西側に定めねばなりませんでした。これは明らかに地理的な要素が関わっています。つまり、ヨルダン川の東側だけに町があればヨルダン川の西側から逃げて来る人が町に行きにくくなりますし、ヨルダン川の西側だけに町があればヨルダン川の東側から逃げて来る人が町に行きにくくなるので、ヨルダン川の東側と西側に3つずつ町が定められたのです。

【35:16~21】
『人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で売って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。」』
 神は、意図的な殺人者には死刑を下さねばならないと命じておられます。命には命を支払わせるべきだということについては、既にここまでの註解で何度も見た通りです。死刑を法において定めず執行しない国は、誤っています。そこには社会正義が実現されないからです。もし殺人者に死刑以下の刑罰を下すべきだとすれば、例えば100万円盗んだ者が70万円しか返さなくてもよいことになり、誰かの所有物を全壊させた人も壊した全てを弁償しなくてもよいことになります。私たちは死刑が諸国において定められ執行されるのを望むべきです。そのようにしない国は、神の御心を行なわないのですから、必ず呪われます。ここ日本について言えば、死刑を定め執行してはいるものの、死刑に処する判定基準が完全な道徳である律法からすれば甘過ぎますから、100点満点中70点ぐらいといったところでしょう。

 誰かが意図的に殺された場合、復讐に燃える者はその殺人者を自分で殺してもよい、と律法は定めています。これは殺人者は必ず死ぬべきだからです。神は人を殺した者の死を欲されます。何故なら、『神は人を神のかたちにお造りになったから』(創世記9章6節)です。それゆえ、神はユダヤ社会において私的な死刑を許可されました。この箇所で『血の復讐をする者』と言われているのは、殺された者の親族、仲間、関係者などといった者を指しています。このような定めを聞くと、「そんなことをしていいものか。」などと反発する人もいるかもしれません。しかし、神がこのように定められたのです。神の定めに文句をつけるあなたは一体何なのでしょうか。罪深い反逆者ではありませんか。このような定めがあるので、神は先に見たように『のがれの町』を定められたのです。もしそのような町がなければ、無辜の殺人者が復讐に燃える者に追いかけられ遅かれ早かれ勘違いした復讐をされてしまうことになるからです。今の時代においてこの戒めは、神権政治が実現されるか、神権政治は実現されていないものの司法においてこの戒めと同一もしくは同等の法律が可決されない限り、実践するのが難しいでしょう。私たちは諸国がこの戒めを実践するようになるのを求めるべきです。すなわち、殺人者に私的な復讐が許可される社会を希求すべきです。何故なら、それは律法に適っており、神の御心なのですから。『御心が天で行なわれるように地でも行なわれるように。』というのが私たちのなすべき祈りであることを知らない聖徒はいないはずです。しかし今の段階では今の司法に従い、殺人者が制度的な裁判を経て死刑になることを求めるしかありません。ペテロも言ったように、私たちは『人の立てたすべての制度に、主のゆえに従』(Ⅰペテロ2章13節)わねばならないからです。

【35:22~29】
『もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことばは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。』
 無罪となるべき意図せぬ殺人を行なった者は会衆から守られ、逃れの町で保護され、その時の大祭司が死ぬまでその町に居続けるべきでした。復讐に燃える者が、その町に侵入したり町の外から攻撃するなどして無辜の殺人者にすべきでない復讐をするのは許されません。もしそうしたならばその復讐者は死刑になっていたはずです。町にいる期間はその時の大祭司が死ぬまでですが、これは恐らく大祭司の象徴しているイエス・キリストの守りが逃亡した者の上にあることを示しているのかもしれません。その時の大祭司が死ぬと、逃れていた者は逃れの町から出られるようになります。その際、町から出て来た者を復讐者が待ち構えて復讐するのは許されないことでした。もしそうしたらその復讐者は死刑になっていたはずです。無辜の殺人者が大祭司のまだ死なないうちに町から出たならば、町の外にいた復讐者から復讐されても文句は言えませんでした。何故なら、その者は逃れの町にいるからこそ復讐されないで済むからです。その場合、復讐者が町の外に出た者を殺したとしても罪にはなりません(26~27節)。何故なら、悪いのは完全に町から出た者なのですから。無辜の殺人者は死ぬべきでないと定めるこの定めからも分かる通り、律法は人の意志を罪と罰における重要な判定要素としています。今の日本の司法でも意図が重要視されますが、それは正しいことです。

 『これらのこと』とは無辜の殺人者が町に逃れる定めを指していると思われます。そうだとすれば29節目では、無辜の殺人者に関する規定は永続性を持つと言われていることになります。つまり、いつの時代であれ神の民としてのユダヤ人が定住する場所では、どこでも無辜の殺人者のため逃れの町を定めねばなりません。何故なら、その定めは神の民に対する永続的な定めだからです。今のユダヤ人はもう神の民ではありません。神の民としてのユダヤ人は紀元70年に神から捨てられてしまいましたから。ですから、彼らのうちにはもう神の国がないわけです。

【35:30~34】
『もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」』
 殺人を犯した者がいれば、証人の証言により死刑に処しますが、それは1人でなく2人または3人の証言によらねばなりませんでした(申命記17:6)。というのも全ての事実は2度または3度により確証されねばならないからです(Ⅱコリント13:1)。複数回の確認が確証性を高めるのは言うまでもありません。また、これはきっちり2人か3人でなければ駄目だというのではなく、3人以上であれば何人であっても構わないのは確かです。しかし、2人か3人の証言だけで死刑にできるとすれば多くの冤罪が起こるのではないか、と不安がる人もいるかもしれません。確かに冤罪が起こる可能性は十分にあります。しかし、神は全知全能の至高者であられますから、神の言われた通りにするのが最善なのです。神の定めを無視した矮小な人間が不安がってすることなど一体何なのでしょうか。もし律法の定める通りにして冤罪による不幸な死が起これば、必ずいつかその事実が明るみに出るでしょう。そうしたら、冤罪で死刑に処された無実の人を冤罪に陥れた偽りの証言者たちも律法の定めにより死刑に処せられねばなりませんから(申命記19:15~20)、冤罪にさせた証言者たちが死んだのを見た民衆には、必ず間違った証言をすることへの恐れが生じます(申命記19:20)。このようにして少人数で殺人罪を立証するという方式の弱点が消し去られていきます。何故なら、間違った証言をして誰かを冤罪に陥らせたので、自分もかつて偽りの証言をしたために死んだ人と同じようにして死ぬことになるのを願う人がどこにいるでしょうか。そういう人は恐らく誰もいないはずです。ですから神の定め通りの方式で死刑を行なえば、一度か二度ほどの冤罪が起こることは避けられなかったとしても、速やかな社会正義が実現されていくことになります。神の定め通りにしませんと、今の日本のように死刑になるべき犯罪者がいつまで経っても死刑にならないという悪い状況となってしまいます。「今後の事件防止のためには多くの時間がかかっても入念な調査をしなければならない。」とでも言うのでしょうか。私は言いますが、人を殺したことが100%明らかであり、2人か3人の証言者がいるのであれば、その犯罪者を光のような速さで死刑に処すべきです。そのようにして抑止力を迅速に発生させることが今後の事件防止として強く働くからです。殺人者がすぐにも死刑になるとすれば誰があえて殺人を犯そうとするでしょうか。もし殺人を証言した者が偽証したのであれば、律法の命じる通り、その偽証者たちにも刑罰を下せば、それ以降、偽証をする人も激減するでしょうから、問題は何もありません。神は、神の御心通りに社会正義を実現させようとするのであれば、必ずその国を祝福して下さいます。今の司法には迅速性がないので抑止力もなかなか生じず、このためいつまで経っても忌まわしい殺人事件が止まらないのです。「この度の殺人事件においては今後の事件防止のため徹底的な調査を必要とする。」という警察の言葉が正しいのであれば、今でも毎年流れている悲惨な殺人事件のニュースは一体どういうわけでしょうか。律法の通りにしなければ効果的な事件防止を実現させるのは難しいでしょう。もちろん調査を全くすべきでないなどと言っているのではありませんが。

 人を殺したことが明らかな殺人者から『贖い金』を受け取ってはならないと律法は命じます。例えば、家族を殺された誰かが、殺人者から6000万円の解決金により問題を終わらせることはできません。その殺人者は必ず殺されねばならないからです。また、人を殺した大金持ちが警察と600億円の裏取引をして殺人の罪を見過ごしてもらうこともできません。その大金持ちは殺されねばならないからです。命の代償は命でなければいけない。これが神の律法で定められていることです。何故なら、命よりも高価なものが他に何かあるでしょうか。世界中のあらゆる金銭を集めたとしても、たった一つの命さえ買うことができません。もし誰かが買えたならば、その人は2つの自我、2人の自分を持つことになります。また逃れの町に逃れた無辜の殺人者から、その時の大祭司が死ぬより前に『贖い金』を受け取り、その町から帰れるようにすることも禁止されています(32節)。確かにその者は本来的に罰されるべき者ではありません。しかし、律法が規定している通り、その者は大祭司が生きている間はその町に居続けねばなりません。神の律法をお金により曲げることは決して許されません。

 33節目で書かれている通り、血はその土地を汚してしまいます。これはどうしてなのでしょうか。血が土地を汚すというのは、正しい者の血がそこに流されたので、その地が神の御前で忌まわしい場所になるという意味です。その地に流された無辜の血は、その地が悪(殺人)の行なわれた場所であるという明白な証拠です。ですから、悪を忌み嫌われる神の御前で、その地は汚れてしまうのです。もちろん、これは衛生的・健康的・美観的に汚れるという意味ではありません。これは霊的な汚れ、神の御前における汚れ、概念としての汚れです。つまり目に見えない汚れです。しかし、それは目には見えないものの実体としての汚れです。神が言っておられる通り、正しい者の血で汚されたその地は、その地に血を流させた殺人者の血でしか贖われません。それゆえ、その地が贖われるために血を流した殺人者は必ず殺されねばなりません。そうしてこそその地が贖われて元通りになるからです。お金でその地を贖うことはできません。それはとんでもないことです。その地に血を流させた殺人者以外の者による血でも贖うことはできません。殺人を犯したその当の者の血がどうしても必要となります。ユダヤ人の住む地では、必ずその地に血を流させた者を殺し、その地が贖われるようにせねばなりませんでした。何故なら、そこは聖なる神の住んでおられる聖なる地だからです(34節)。聖なる神の聖なる地が、どうして汚されたりしていいでしょうか。また汚されたにしてもどうして汚れた状態のまま贖われないでいていいでしょうか。

【36:1~4】
『ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、言った。「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。」』
 マナセ族の頭たちが、先に見たツェロフハデの娘たちの相続地に関して、問題になることを訴え出ています。ツェロフハデの娘たちも男と同じように父から相続地を受けられますが(民数記27:1~7)、もし彼女たちが他の部族の男と結婚したならば、その夫の部族に彼女たちの相続地が吸収されてしまうではないか、と言うのです。そうしたらマナセ族の相続地はたとえ少しであったとしても減少してしまいます。この頭たちは、ここであかたも「娘しかいない家族がいるからといって他の部族に私たちの相続地を取られてもいいのか。それは不公平じゃないのか。」とでも言おうとしているかのようです。これはマナセ族にとって深刻な問題でした。というのも、土地とはお金と一緒で、人や集団にとって大きな力となるものだからです。

【36:5~13】
『そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。『彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、そのおじの息子たちにとついだ。彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。』
 神は、この度の訴えをもっともだとされました。つまり、マナセ族の頭たちは愚かだったり反逆的だったりすることで訴え事をしたのではありませんでした。コラたちの場合、その訴えは愚かであり反逆的なものでした(民数記16:1~3)。神は訴えを受けて、娘しかいない氏族によりその部族の相続地が減ってしまわないため、相続地を受け継いだ娘は同族の男に嫁がねばならないと定められました。そうすれば娘しかいない氏族の相続地が、他の部族に吸収されないからです。こうしてツェロフハデの娘たちは自分と同族であるマナセ族の男に嫁いだので、マナセ族の相続地が減少することはありませんでした。神はそれぞれの部族に定められた相続地がそのままに保たれるのを望まれました。それゆえ、こう言われているのです。『あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。』(箴言22章28節)