【レビ記1:1~6:23】(2021/11/14)


 『レビ記』には、主に祭儀律法が書き記されています。祭儀律法が中心なのですが、道徳律法や司法律法も書き記されています。もう祭儀律法が廃止された今となっては、祭儀律法が私たちにとって実利的な意味を持つということはあまりありません。しかし、道徳律法や司法律法は今でも実利的な意味があります。それは私たちの規範だからです。この文書は、明らかに出エジプト記からの続きですから、出エジプト記と著者は同じです。つまり、創世記と出エジプト記とレビ記は同一の人物が書いたのです。伝統的にはこの文書もモーセの手になると言われてきました。確かに、律法の本文はモーセにより記録されたはずです。これは全く疑えません。モーセが神の戒めを聞いたその場で記録していたにせよ、後ほど記憶を思い起こして記録していたにせよ。しかし、レビ記という文書そのものは、王朝時代か王朝時代以降のユダヤ人が一つの文書として纏めたはずです。ですから、レビ記の内容自体は既にモーセの頃から知られていたのですが、それが今のような正式な文書として成り立つまでは数百年を待たねばなりませんでした。

【1:1~2】
『主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。』
 神が生贄の捧げ方について規定しておられます。すなわち、モーセの耳に対して、物理的な音声により、ヘブル語という言語で。

 神に捧げる家畜は『牛か羊』でなければいけません。これは牛また羊が清い動物だからです。特に羊は神への犠牲として非常に適しています。何故なら、聖書は真の犠牲であられる御子を羊として例えているからです。御子は屠り場に引いて行かれる従順な羊のようにして(イザヤ53:7)、御自分を神への犠牲となさいました。

【1:3~9】
『もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。』
 牛を捧げるのであれば、それは『傷のない雄牛』でなければいけませんでした。何故なら、その牛が影であるところのイエス・キリストという犠牲は、聖であって全く傷がないからです。それはキリストに罪がないということです。『キリストには何の罪もありません。』(Ⅰヨハネ3章5節)と聖書は教えています。傷のある牛はキリストを象徴していませんから、神に受け入れられません。古代ユダヤ人は傷のある牛を神に捧げていたので、神からこう言われてしまいました。『あなたがたは、かすめたもの、足なえのもの、病気のものを連れて来て、ささげ物としてささげている。わたしが、それをあなたがたの手から、喜んで、受け入れるだろうか。』(マラキ1章13節)こういった捧げ物をするユダヤ人は、自分たちが傷のある贈り物などを渡されたらどういう気持ちになるだろうか、などと考えさえもしなかったのです。このような者は呪われました。『損傷のあるのを主にささげるずるい者は、のろわれる。』(マラキ1章14節)と書かれている通りです。いや、そのような者は傷のある牛を捧げているその時点で、既に呪われています。何故なら、既に呪われているからこそ、傷のある牛を捧げるという無礼で愚かなことをするのだからです。また、傷のない牛を捧げるといっても、傷のない牛のうち最上の牛を捧げねばならなかったことは言うまでもありません。何故なら、キリストという犠牲になられた主は最上の存在だからです。

 また、その牛はそれを捧げる人が、神に受け入れられるため、自分で『会見の天幕の入口の所に連れて来なければ』なりませんでした。何故なら、その牛によりキリストの贖いを受けるのは、その持ち主だからです。道徳感覚の低下していない人であれば、このようなことぐらいわざわざ詳しく説明されなくても分かるはずです。犠牲の動物をその持ち主が自分自身で持って来なければならないというのは、アベルとカインを思い起こさせます。アベルは捧げ物を自分自身で持って来たので主に受け入れられましたが、カインは自分で捧げ物を持って行かなかったので受け入れられませんでした(創世記4:4~7)。

 牛の『頭の上に手を置く』べきなのは、出エジプト記の註解でも述べた通り、罪をその牛に負わせるからです。その生贄を捧げる人が、その牛の上に手を置かねばなりません。両手を置くべきか片手だけでもよいのかについては、指示が書かれていません。

 牛の血を祭壇の回りに注ぐのは、罪の清めのためです(レビ記5:9)。血なしに罪の赦しはありません(ヘブル9:22)。ですから、牛の血が流され、祭壇に注がれねばならないのです。神は、その牛の血をキリストの血として見做されます。そのため牛の血により贖いが成り立つわけです。祭壇に牛の血を注ぐのは聖別のためではありません。何故なら、もう既に祭壇はモーセにより聖別されているからです(出エジプト記40:10、16)。

 屠られる際に剥がれた牛の皮は、祭司の収入となります(レビ記7:8)。神がその皮を祭司たちに与えられるのです。ですから旧約の祭司たちは肉を定期的に食べていたでしょう。祭司たちが肉をかなり食べていたと聞くと、敬虔のイメージにそぐわないと感じる人もいるかもしれません。しかし、肉を食べるか食べないかということ、また肉を良く食べるかあまり食べないかということは、敬虔とあまり関係がありません。何故なら、ペテロとバプテスマのヨハネはどちらも敬虔な人物でしたが、前者は肉を食べ後者は肉を食べなかったからです。今でも、肉を食べる敬虔な人がいれば、肉を食べない敬虔な人もいます。

 この牛の生贄から立ち上る煙は『主へのなだめのかおり』となります。神はその煙を嗅がれて宥められます。何故なら、その牛の犠牲は御子の犠牲を表示しているからです。もし御子をそれが表示していなければ、それは単なる煙に過ぎず、神が宥められることはなかったでしょう。牛が『部分に切り分け』られねばならないのは、その牛において御子の受難が示されるためです。ですから、牛が切り分けられることで、ユダヤ人は御子の苦しみを学んでおかねばなりませんでした。実際に御子が多くの部分に切り分けられたわけではありません。御子は五体満足のまま死なれたからです。ですから、このように牛が切り分けられるのは、牛の本体であるキリストに起こる出来事をそのまま示しているわけではありません。

 このようにレビ記には、最初からこのような血生臭い規定が記されています。レビ記ではこれからも血生臭いことが何度も書かれています。このような記述を見て、「どうしてこうした気持ちよいとは言えない儀式をせねばならなかったのか。」などと私たちが言うことはできません。何故なら、私たちが神に罪を犯したからこそ、こういった犠牲を捧げねばならなくなったからです。もし私たちが神に背いていなければ、このような儀式を捧げる必要もなかったでしょう。ですから、このような血生臭い儀式は人間に罪があることをまざまざと示しています。生贄の儀式自体が「人間は罪人なのだ。」と叫んでいます。

【1:10~13】
『しかし、もし全焼のいけにえのためのささげ物が、羊の群れ、すなわち小羊またはやぎの中からなら、傷のない雄でなければならない。その人は祭壇の北側で、主の前にこれをほふりなさい。そして祭司であるアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。また、その人はそれを部分に切り分け、祭司はこれを頭と脂肪に添えて祭壇の上にある火のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。こうして祭司はそれら全部をささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。』
 羊を捧げる場合も『傷のない雄』でなければいけませんでした。これは御子が男の性を取られたからでしょう。もし御子が女の性を取られていたとすれば、屠られる羊また牛も雌でなければいけなかったかもしれません。

 羊が牛よりも後に書かれているのは、牛のほうが高価で数も少なく貴重だからでしょう。例えば、これは私たちがまず第一に金を、次に銀を、そして銅という順番で何かを書くのと一緒です。往々にしてより良い物から先に書かれるのです。ですから、もし羊のほうが価値高かったとすれば、羊のほうが牛よりも先に書かれていたはずです。

【1:14~17】
『もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、山鳩または家鳩のひなの中から、そのささげ物をささげなければならない。祭司は、それを祭壇のところに持って来て、その頭をひねり裂き、祭壇の上でそれを焼いて煙にしなさい。ただし、その血は祭壇の側面に絞り出す。またその汚物のはいった餌袋を取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に投げ捨てなさい。さらに、その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。』
 捧げる動物は鳥でも問題ありませんでした。何故なら、鳥も牛と羊のように清い動物であり、御子を象徴させることができるからです。この鳥は主に貧しい人が捧げる生贄でした(レビ記5:7、12:8)。マリヤとヨセフも貧しかったので、鳥を神に捧げています(ルカ2:24)。この鳥も傷のない個体であるべきでした。

 鳥を捧げる際に『その頭をひねり裂』くべきなのは、キリストの苦難がその鳥において示されるためです。牛また羊と同様、鳥においてもキリストの苦しみが表示されねばなりません。しかし、鳥の頭を胴体から分断させてはなりませんでした(レビ記5:8)。これはキリストが苦しみを受けられたものの、その頭と胴体が切り離されるということはなかったからです。

 鳥の血を『祭壇の側面に絞り出す』のは、罪のための生贄だからです。鳥の血も、牛の血また羊の血と同様、キリストの血を示します。ですから、神は鳥の血により民が赦されるようにしておられたのです。

 汚物の入った餌袋は、灰捨て場に投げ捨てねばなりません。このような部位は神に受け入れられません。何故なら、それはキリストとその聖性を全く示していないからです。神の聖なる小羊キリストに汚らわしい点や要素は全くありません。しかし、汚物の入った餌袋ほど汚らわしい物が他にあるでしょうか。

 17節目で書かれている通り、鳥の翼は引き裂かねばなりませんが、しかしもぎ取ってはなりません。すなわち繋がったままにしておかねばなりません。これもやはり鳥の頭を胴体から切り離してはならないのと同じ理由からです。つまり、キリストは引き裂かれるかのような死の苦しみを味わわれましたが、その胴体が引きちぎられることはありませんでした。

【2:1~3】
『人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。その穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。それは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。』
 穀物の捧げ物は、小麦粉に油と乳香を加えて持って行かねばなりませんでした。何でもそうでしたが、この小麦粉や油や乳香もやはり最高級の物でなければなりませんでした。祭司は、この捧げ物の中から『ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し』て、神に捧げる宥めの煙として焼かねばなりませんでした。それは『記念』となります。すなわち、神がその捧げ物を確かに受領され覚えて下さるのです。

 乳香は全て神に捧げられましたが、小麦粉と油は残ります。その残りは『アロンとその子らのものとな』ります。つまり、神からの天恵です。このような恵みを受けなければ祭司たちは生活していけないのです。

【2:4~10】
『あなたがかまどで焼いた穀物のささげ物をささげるときは、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れない輪型のパン、あるいは油を塗った、種を入れないせんべいでなければならない。また、もしあなたのささげ物が、平なべの上で焼いた穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れないものでなければならない。あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油をそそぎなさい。これは穀物のささげ物である。また、もしあなたのささげ物が、なべで作った穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉でなければならない。こうして、あなたが作った穀物のささげ物を主にささげるときは、それを祭司のところに持って来、祭司はそれを祭壇に持って行きなさい。祭司はその穀物のささげ物から、記念の部分を取り出し、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。』
 今度は、焼いたり煮たりして作った穀物の捧げ物について規定されています。どのような作り方にせよ、穀物の調理物に種を入れてはなりません。しかし、油は入れねばなりません。油は罪を象徴していませんから問題ないのです。焼いた物であれば粉々に砕き、そのうち幾らかを記念の部分として神に捧げ、残りが祭司の所有として与えられます。煮た者であれば、焼いた物のように砕く必要はありませんから、そのまま幾らかを記念として神に捧げ、残りを祭司の物とします。このような調理された捧げ物が心を尽くし力を尽くして作られねばならなかったのは言うまでもありません。

【2:11~13】
『あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、主への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。それらは初物のささげ物として主にささげなければならない。しかしそれらをなだめのかおりとして、祭壇の上で焼き尽くしてはならない。あなたの穀物の捧げ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。』
 これまで何度も聖書では種を小麦粉に入れるなと言われていました。ここではその種に加えて『蜜』も入れるなと言われています。パン種について言えば、それは『初物のささげ物』としてならば神に捧げることができます。何故なら、その際に捧げるパンに入れられたパン種は罪としての意味を持たないからです。その際のパン種は、初穂としての捧げ物における一部としてしか見做されませんから、例外的にパン種であるのに捧げることができます。『蜜』を焼くことが禁止されているのは、蜜の香りが、御子を示す香ばしい宥めの香りとそぐわないからでしょう。蜜の甘い香りは香ばしい香りと相反しています。

 また、穀物の捧げ物にはことごとく塩が伴っていなければなりませんでした。それは『神の契約の塩』と言われています。これは、神の契約から腐敗の要素を遠ざけるためでしょう。塩は腐敗を防ぐからです。神は永遠に変わらない腐敗から遠ざかっておられる御方です(マラキ3:6)。ですから、神との契約のうちにある者が捧げる穀物の捧げ物には、腐敗を無効にする塩を伴わせねばなりませんでした。というのも神とその契約は決して腐ることがないからです。

【2:14~16】
『もしあなたが初穂の穀物のささげ物を主にささげるなら、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦をあなたの初穂の穀物のささげ物としてささげなければならない。あなたはその上に油を加え、その上に乳香を添えなさい。これは穀物のささげ物である。祭司は記念の部分、すなわち、そのひき割り麦の一部とその油の一部、それにその乳香全部を焼いて煙にしなさい。これは主への火によるささげ物である。』
 初穂の穀物を捧げる際における聖なる規定です。初穂の穀物をユダヤ人が捧げる場合は、何でも好きなように穀物を捧げたら良いというのではありません。それは『火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦』でなければならないと指定されています。その穀物にも、小麦粉を捧げる時と同じで『油』と『乳香』を伴わせねばなりませんでした(レビ記2:1)。これも小麦粉の捧げ物と同じで、穀物と油の残りは祭司たちに神が与えられます。何故なら、『働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。』(ルカ10章7節)民は捧げ物を最上の物にすべきでしたから、つまり祭司たちは最上の物を受けていたことになります。神がそのようにしておられたのです。ですから、民は祭司たちに最上の物が与えられることを妬んだり批判したりできませんでした。

【3:1】
『もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。』
 『和解のいけにえ』を捧げる時の規定が語られています。古代ユダヤ人はキリストをやがて来たるべき御方として信じていましたから、神との平和を持っていました(ローマ5:1)。何故なら、神はキリストを信じる者たちに怒りを鎮められるからです。しかし、古代ではまだキリストが現われていません。ですから、古代のユダヤ人は和解の生贄を捧げることで、イエス・キリストにおいて神との平和が実現されることを象徴しなければいけませんでした。しかも、それは1回や2回だけでなく、キリストが現われるまでずっと行なわねばなりませんでした。しかし、犠牲の本体であられるキリストが現われると、もはや和解の生贄として動物を捧げる必要はなくなりました。それは安息日の本体であられるキリストが現われて以降、安息日を宗教的な意味で守る必要がなくなったのと同じです。和解の生贄として捧げる牛は、全焼の生贄における牛とは違い、『雌』でも構いませんでした(レビ記1:3)。

【3:2~5】
『その人はささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の入口の所で、これをほふりなさい。そして、祭司であるアロンの子らは祭壇の回りにその血を注ぎかけなさい。次に、その人は和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。そこで、アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上のたきぎの上にある全焼のいけにえに載せて、焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。』
 和解の生贄を牛で捧げる場合、犠牲獣の上に手を置いたり、その流された血を祭壇に注いだりするのは、既にレビ記1章で見た全焼の生贄と全く同じです。和解の生贄の牛は、身体全体を断片に分けてから、その断片を『全焼のいけにえに載せて』捧げねばなりませんでした。和解の生贄が上で、全焼の生贄が下。位置が逆になってはなりません。

【3:6~11】
『主への和解のいけにえのためのささげ物が、羊である場合、雄でも雌でも傷のないものをささげなければならない。もしそのささげ物として子羊をささげようとするなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。その人はその和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その脂肪をささげなさい。すなわち背骨に沿って取り除いたあぶら尾全部と、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とである。祭司は祭壇の上でそれを食物として、主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。』
 和解の生贄は羊によっても捧げられます。牛との違いは価値や数の違いです。主から裕福にされた者は牛を捧げるべきであり、普通ぐらいの財力であれば羊を捧げるのです。

 この箇所で書かれている和解の生贄の羊における規定は、つい先ほど見た和解の生贄の牛における規定とほとんど一緒です。違いは捧げる犠牲獣が牛か羊かというだけのことです。しかし、聖書は牛に関する規定と同じことを、羊に関する規定でもきっちりと書いています。神がそのように書かれたのです。これが世俗の著作家であれば、羊の規定は牛の規定と一緒なのですから、牛の規定に羊の規定を纏めたり、羊の規定についてはごく短めに書いていたかもしれません。しかし、聖書はここ以外でも、前と同じ内容を省略したり簡潔にしない箇所が多くあります。これは、いちいち前と同じ内容を繰り返して書くことで、聖徒たちがその書かれている内容を蔑ろにしたり認識不足とならないようにするためです。何故なら、この箇所における羊の規定のように、省略したり簡潔にしたりしなければ、もう一度前と同じ内容を認識することになり、嫌でもその書かれている内容を認識することになるからです。省略したり簡潔にして蔑ろにされたり認識不足になったりするよりは、多少煩わしく感じられたとしても前と同じことをきっちり再び書いたほうがよい。これが聖書の考えです。聖書は文学作品ではありません。それは契約の書物です。だからこそ、聖書には聖徒たちによく事柄を認識させるため、何度も何度も繰り返して前と同じことが書かれているわけです。ヴォルテールのように文学的な面白さを聖書に求めて嘆いている人たちは、聖書のことが全く分かっていません。例えば、憲法や法律に文学的な面白さを求める人がどこにいるでしょうか。聖書に文学的な面白さを求めるのはこれと似ています。またこれは修辞についても同様のことが言えます。聖書に素晴らしい修辞を求める人は、未信者であった頃のアウグスティヌスのように躓いてしまうでしょう。この箇所もそうですが、私たちは聖書の繰り返しに慣れるべきです。聖書は愚かで鈍い私たち人間のために、大事なことを何度も繰り返しているからです。

 ところで、次のように思う人がいるかもしれません。「今の新約時代において、このような昔の犠牲について学んで何になるだろうか。」私は言いますが、旧約の犠牲に関する規定を学ぶのは大きな意味があります。何故なら、その犠牲とはイエス・キリストという犠牲の影だからです。イエス・キリストの聖なる犠牲ほど重要なものは他にありません。ですから、キリストの犠牲を影として示している動物犠牲を知ることも大いに重要であることになります。もし旧約の犠牲を良く知らなければ、キリストがその贖罪において何を実現させられたのか深い理解が持てなくなります。それはキリストの贖いを受けた者にとって相応しいとは言えません。ペテロも言うように私たちはキリストを知る知識において成長すべきです(Ⅱペテロ3:18)。そのためにキリストの影である旧約の犠牲を知っておくべきなのは言うまでもありません。

【3:12~16】
『もしそのささげ物がやぎであるなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。そしてアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。その人は、主への火によるささげ物として、そのいけにえから内臓をおおっている脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。祭司は祭壇の上でそれを食物として、火によるささげ物、なだめのかおりとして、焼いて煙にしなさい。脂肪は全部、主のものである。』
 和解の生贄を山羊で捧げる場合も、牛や羊の場合とすべきことは同じです。山羊を捧げる時は脂肪を全て焼いて煙にせねばなりませんでした。その脂肪は『全部、主のもの』ですから、残されず、祭司たちに収入としては与えられません。脂肪を全て焼かねばならないのは、牛と羊で和解の生贄を捧げる場合も同様でした。

【3:17】
『あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。」』
 民は屠られた動物の血を食べてはいけませんでした。これについてはまた後ほど書かれることになります。今の時代でも血は食べないほうがいいでしょう。何故なら、血はどう考えても食用となるように創造されていないからです。また民は屠られた動物の脂肪も食べてはいけませんでした。何故なら、つい先ほど見た通り、脂肪は神にのみ属しているからです。

【4:1~12】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。』
 祭司が罪を犯した場合の贖う方法について規定されています。祭司も一人の罪人です。ですから罪を犯さずにいることはありません。『罪を犯さない人間はひとりもいない』(Ⅰ列王記8章46節)と書かれている通りです。もし祭司が罪を犯さないとすれば罪人ではなく、原罪もないことになります。しかし祭司は罪人であり原罪を持っています。世はいつの時代も例外なく聖職者たちが罪と無縁でいることを求めます。世は聖職者が罪を犯していると必ず文句を言ったり嘆きます。確かに聖職者が罪を犯すべきではないでしょう。しかし、あの偉大な大祭司アロンでさえとんでもない大罪を犯したのです。アロンでさえこうです。であれば他の聖職者が罪を犯したとしても不思議なことは何もありません。

 このように祭司も罪深い人間ですから、神は贖われるようにしておられました。何故なら、御子の血は信じる全ての者を罪から清めるからです。使徒の働き10:43の箇所ではこう書かれています。『この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる』。『だれでも』とは祭司も含まれています。ですから、キリストを信じていた祭司たちも罪の赦しをいただくことができます。古代教会では、罪を犯した司祭がすぐにも容赦なく免職されていました。これはやや行き過ぎな感があったと言わねばなりません。何故なら、古代教会は、この箇所で祭司たちの罪が赦されると規定されていることに対し、何と言うのでしょうか。神はここで祭司たちが罪を犯したら祭司職は取り上げられるなどと言っておられません。また、偶像崇拝の罪を犯したのに大祭司となったアロンや、考えられないほどの罪を犯したのに王職に留まり続けたダビデや、使徒なのにキリストを3度も否んだペテロについて、古代教会は何と言うでしょうか。まさか、アロンは偶像崇拝の罪を犯したのだから大祭司になるべきではなかったとか、ダビデは殺人と不品行に陥ったから責任を取って王職から降りるべきだったとか、ペテロはキリストを否んだから使徒と呼ばれるべきではなかった、などとは言えないはずです。それなのに仲間の司祭の場合は罪を犯したらすぐ免職させる。これは一体どういうわけなのでしょうか。なお、祭司の罪は『民に罪過をもたらす』ものです。例えばアロンが罪を犯したので、多くの民は酷い罪に陥り、そのため3000人が裁かれることになりました(出エジプト記32:28)。これは祭司が民の上に立っているからです。神は、上にいる者が犯した罪の責任を、下にいる者たちに求められます。

 罪を犯したその祭司は、屠られた牛の血を、至聖所の前にある垂れ幕に7度振りかけます。これは神のおられる至聖所へと繋がる垂れ幕を言わば「贖いの入口」とするためでしょう。罪を犯した祭司は、その清められた垂れ幕を通ることで贖われるわけです。つまり、これはキリストの贖いという幕を通ってでなければ神に近づけないということなのでしょう。この時に7回血が振りかけられるのは、その血により垂れ幕が聖なる贖いの通り道となるからでしょう。

 至聖所に入った祭司は、至聖所にある香の祭壇の角に血を塗りますが、これは罪の生贄です。これは全焼の生贄の祭壇に屠られた動物の血を注ぐのと同じ意味を持っています。

 11~12節目で書かれている通り、祭司は自分の捧げた雄牛をその一部でも収入として得ることができません。それは灰捨て場で灰にされねばなりません。つまり、祭司はその雄牛を全く手放さなければなりません。これは当然です。何故ならば、祭司は自分の犯した罪のために贖いをしているからです。自分の罪のために生贄を捧げているのにどうして報いが得られるでしょうか。

【4:13~21】
『また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。そこで、会衆の長老たちは、主の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛を主の前でほふりなさい。油そそがれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持ってはいり、祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。彼は、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の角に塗らなければならない。彼はその血の全部を、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。脂肪全部をその雄牛から取り除き、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。彼らは赦される。彼はその雄牛を宿営の外に運び出し、最初の雄牛を焼いたように、それも焼きなさい。これは集会の罪のためのいけにえである。』
 民全体が罪を犯した場合も、たった今見た祭司が罪を犯した場合と同様、雄牛を捧げねばなりません。やり方も一緒です。この雄牛もやはり祭司の所有として与えられることはありません。何故なら、この時の場合は民の全体が罪を犯したのだからです。つまり、祭司も罪を犯した一人に含まれています。ですから、その生贄の儀式から収入をいただくことはできません。

 ここで『会衆の長老たち』と言われているのは、70人の長老を指します。彼らは民を代表する人たちです。ですから、民の代表者として罪を負わせる雄牛の上に手を置くのです。

【4:22~26】
『上に立つ者が罪を犯し、その神、主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼はささげ物として、傷のない雄やぎを連れて来て、そのやぎの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、主の前にそれをほふりなさい。これは罪のためのいけにえである。祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。また、その血は全焼のいけにえの祭壇の土台に注がれなければならない。また、彼は和解のいけにえの脂肪の場合と同様に、その脂肪を全部、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさい。その人は赦される。』
 『上に立つ者』が罪を犯した場合は『雄やぎ』を捧げますが、その儀式は、血を全焼の生贄の祭壇の角に塗るか香の祭壇の角に塗るか、また至聖所を区切る垂れ幕に血を7度振りかけるか振りかけないか、という点を除いて前に見た2つのやり方と一緒です。上に立つ者が雄山羊を捧げればそれでいいのは、先に見た祭司また会衆全体が犯した罪よりも悲惨の度合いが小さいからです。すなわち、『上に立つ者』よりも祭司また会衆全体の犯した罪のほうが大きいため、祭司と会衆全体のためには雄山羊よりも高価な雄牛が捧げられねばならないわけです。

 先の2つの贖罪儀式とは違い、この場合は、犠牲獣からの収入が祭司に与えられます。何故なら、この場合は生贄を捧げる祭司が罪を犯していないからです。祭司は『民の上に立つ者』が犯した罪の贖いを代行しているだけですから、その代行の仕事には報いが神から与えられるのです。

【4:27~31】
『また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は主へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。』
 『一般の人々のひとり』が罪を犯した場合は、雌山羊を犠牲として捧げるという点を除けば、先に見た『上に立つ者』の箇所と何も変わりません。地位の高い者が雄山羊を捧げるのに対し、一般の者は雌山羊を捧げるのは、一般の者のほうが罪の責任がやや軽いからです。聖書は、人間であれば男のほうが女より、動物であれば雄のほうが雌より価値高いと示しています。何故なら、女は男の身体から取られた男の助け手だからです(創世記2:18、21~22)。聖書には書かれていませんが、恐らく動物も雌は雄から取られて造られたはずです。地位の高い者より一般の者のほうが罪を犯しても罪深さの度合いがやや軽いので、一般の者のほうは雄でなく雌で犠牲を捧げればよいのです。地位の高い者と一般の者は、罪のために山羊を捧げるのであり、それは雄牛ではありません。彼らが山羊を捧げるのは、先に見た2つのこと、すなわち祭司と民全体が罪を犯した場合との差を明白にさせるためでしょう。つまり、祭司と民全体による罪のほうが、地位の高い者と一般の者による罪よりも遥かに重いのです。もしここで山羊ではなく羊が指定されていれば、祭司と民全体が捧げる雄牛との差があまり感じられなくなります。何故なら、山羊よりも羊のほうが価値高いからです。かといって山羊よりも価値の低い鳥が指定されていれば価値を引き落としすぎていました。

 この場合も、先に見た上に立つ者の場合と一緒で、その捧げられる雌山羊は祭司に与えられます。もしこれが祭司自身の贖いだったとすれば、その犠牲獣は祭司の物になりませんでした。

【4:32~35】
『もしその人が罪のためのいけにえのため、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえをほふりなさい。祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その角は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。』
 一般の人は、雌山羊でなく雌の子羊で犠牲を捧げることもできました。何故なら、雌の子羊でも祭司および民全体が捧げる雄牛との違いが明白に感じられるからです。雄の子羊では駄目でした。雌の子羊で犠牲を捧げる場合も、そのやり方は既に何度も見た通りです。

【5:1~4】
『人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら―彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに―、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。あるいは人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知ったときには、罪に定められる。あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそれを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。』
 ここでは4つのことが罪に定められています。

 ①:絶対に証言しなければいけない状況の際、証言できるのに証言しない場合は罪に定められます(1節)。それは『偽証してはならない。』という戒めの本質に違反しているからです。その人は証言できるのですから証言すべきだったのです。もちろん、ラハブのような状況であれば、話は別です。そのような時に証言できるからといって証言すれば、その証言が罪に定められてしまいます。

 ②:汚れた死体の動物であれ何であれ汚れに触れると、その人まで汚れてしまいます(2節)。聖なるものに触れるとその触れた人まで聖になるのと逆パターンです(出エジプト記29:37)。そのようにして汚れるとその人は罪を得ます。

 ③:②では人以外の汚れたものについて言われていましたが、触れたら汚れてしまうのは人の汚れの場合でも一緒です(3節)。

 ④:もし軽々しく誓うのであれば罪に定められてしまいます(4節)。これは修道士の修道誓願が良い例です。カトリックは、まだしっかりした判断を持てるはずもない若者たちに、清貧・貞潔・従順の修道誓願を捧げさせていました。若者でない修道士たちも、自分の捧げた誓願を守れず、堕落した生活に陥っていました。このような誓願はルターも言ったように無効ですが、これはここで言われている軽々しい誓願に該当します。昔のユダヤではこういった軽々しい誓願が横行していました。近代の教会について言えば、そもそも誓うということさえあまり見られなくなっています。ですから誓うことについて規定されていても、あまり実感を持てない人も多くいるかもしれません。

【5:5~6】
『これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。』
 ある人がこれらのどれかに違反すれば、子羊か山羊の雌を犠牲として捧げねばなりません。その人には、その動物犠牲においてキリストの贖いが与えられます。なお、ここでは子羊の雌か雌山羊を捧げるべきだと命じられていますから、これは『一般の人々のひとり』について言われています。もし『上に立つ者』であれば、子羊の雌か雌山羊ではなく、雄山羊を捧げなければいけないからです(レビ記4:22~23)。

【5:7~10】
『しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。彼は、これらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。祭司は次のものも、定めに従って、全焼のいけにえとしなければならない。祭司は、その人のために、その人の犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。』
 もし罪を犯した一般の人が貧しければ、子羊の雌また雌山羊ではなくて『山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽』を捧げることもできます。鳥でも羊や山羊と同じくキリストの贖罪を表示できるからです。二羽のうち、一羽は『罪のためのいけにえ』となり、もう一羽は『全焼のいけにえ』となります。この鳥を生贄にする方法は、既に書かれていますから、この註解書では再び説明しなくてもよいでしょう。

【5:11~13】
『もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。彼はそれを祭司のところに持って行きなさい。祭司はそのひとつかみを記念の部分としてそれから取り出し、祭壇の上で、主への火によるささげ物といっしょにそれを焼いて煙にしなさい。これは罪のためのいけにえである。祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。その人は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同じく、祭司のものとなる。」』
 神は、ある人には多くを与え、ある人には普通ぐらいを与え、ある人には少しを与えられます。何故なら、この世では『すべてのことが、神から発し』(ローマ11章36節)ているからです。ですから、この世界には貧しい人たちがいます。そのような貧しい人のうち、鳩の雛さえも持てないほど極貧の人は、犠牲獣の代わりとして『小麦粉』を捧げることができました。神は、その小麦粉を犠牲の動物として見做して下さいます。つまり、それは御子を示す生贄として取り扱われます。ですから、極貧の人は小麦粉を捧げることで、御子の贖いを受けることができたのです。小麦粉で御子が示されると聞くと、驚く人も多いかもしれません。しかし、生贄の動物も本当は御子でないのに御子として示されます。ですから、小麦粉も本当は御子でないのに御子として示すことができます。その小麦粉は『十分の一エパ』すなわち2,3リットルです。神は、このぐらいの量が捧げられたならば、生贄の動物と同等視できるとされたのです。その小麦は、もちろん極貧の人が持つ小麦のうち最も良い部分であるべきでした。質の悪い部分は捧げるべきではありませんでした。貧しすぎるからといって良い部分を自分の手元に置いておくことはできません。何故なら、その小麦粉により大いなる存在であられる御子が示されるのですから。もっとも、その人があまり質の良くない小麦粉しか持っていないというのであれば話は別です。その場合は、程度の低い小麦粉を捧げることになっても仕方がありません。本当は程度の低い小麦粉であるべきでないのですが。また、この小麦粉には『その上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはな』りませんでした。何故なら、油と乳香を伴わせるのは穀物の捧げ物を捧げる時だからです(レビ記2:1~2)。この小麦粉は御子を示す動物の生贄として見做されています。動物の生贄に油と乳香を伴わせることはありません。ですから、この時に捧げる小麦粉に油と乳香を伴わせてはならなかったのです。なお、神はこの小麦粉を代替物の許容限度としておられます。すなわち、小麦粉をさえ捧げられないほどに貧しい人は何を捧げればよいのか、ということは定められていません。何故なら、どれだけ貧しくても2,3リットルの小麦粉さえ捧げられない人はいないはずだからです。今の日本で言えば、小麦粉2,3リットルは1000円あれば買えます(小麦粉1リットルは600g)。そのぐらいであれば少し働くぐらいで買えるのです。ですから、小麦粉さえも持てないというのは、つまり働こうとしない怠け者である可能性が高いわけです。

 このように神は極貧の人であっても、罪の贖いを受けられるようしておられます。というのも、キリストは極貧の人のためにも死んで下さったからです。もし生贄は絶対に動物でなければいけないとすれば、御子を影において信じる極貧のユダヤ人は御子を示す犠牲を捧げることができなくなります。これはあってはならないことです。だからこそ、神は貧しすぎれば小麦粉でも良いとされたのです。もちろん、これは極貧の人に限られます。動物を捧げられる人は必ず動物を捧げるべきでした。ところで、このような代替規定は、非常に深遠であり霊的です。

 この時に捧げられた小麦粉は、代替物として罪のための生贄ですから、贖罪行為をする祭司たちの所有となります。神は「極貧の人は貧しいのだからその小麦粉を返してやりなさい。」などと言っておられません。何故なら、祭司たちが報酬を受けるのは当然だからです。確かに、極貧の人はその小麦粉が手元に戻らないとなると経済的に大変かもしれません。しかし、元はと言えば、そもそも小麦粉を代替物として捧げねばならなくなったのは罪を犯したその人が原因なのです。ですから、その捧げた小麦粉が祭司に与えられたとしても文句は言えないのです。

【5:14~16】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「人が不実なことを行ない、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯したときは、その罪過のために、羊の群れから傷のない雄羊一頭、聖所のシェケルで数シェケルの銀に当たるとあなたが評価したものを取って、罪過のためのいけにえとして主のもとに連れて来る。彼は、その聖なるものを犯した罪の償いをしなければならない。それにその五分の一を加えて、祭司にそれを渡さなければならない。祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される。』
 『主の聖なるものに対して罪を犯した』とは、『あやまって聖なるものを食べる』(レビ記22章14節)ことです。これは規定違反ですから罪に定められます。この罪を犯した人は、一頭の雄羊と数シェケルの銀を捧げねばなりません。銀を捧げるのは、価値ある聖なる物に罪を犯したことが示されるためなのでしょう。誤って食べた物に『五分の一』を加えなければいけないのは、要するに迷惑金または反省料です。律法ではこの『五分の一』という比率が弁償規定の中でよく出てきます。

【5:17~19】
『また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行なったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その咎を負う。その人は、羊の群れからあなたが評価した傷のない雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来る。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。これは罪過のためのいけにえである。彼は確かに主の前に罪に定められた。」』
 何でも罪を犯すならば、一頭の雄羊を捧げることで、罪の赦しを神から受けます。神はその雄羊の生贄により、その人の罪を赦されました。何故なら、その雄羊は御子を表わしているからです。

【6:1~7】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行なうどれかについて罪を犯すなら、この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、脅迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、あるいは、それについて偽って誓ったもの全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される。」』
 この箇所では欺きの悪が挙げられています。欺きは罪です(レビ記19:11)。何故なら、そこには隣人への愛が全くないからです。誰かから預かっている物を自分の物とするため、その預かっている物が盗まれて無くなったなどと言うのは、欺きの罪です。拾った落とし物を拾っていないと言って欺くのも罪です。詐欺もそうです。

 このような欺きは、人間に対して犯されます。ところが、この箇所ではそれが『主に対して罪を犯し』ていることだと言われています。これは、その人が欺きを禁止しておられる神に背いたからです。ですから、欺きは人に対して行なわれるのですが、究極的に言えばそれは神に対する罪なのです。何故なら、その人は神に服従しないからこそ人を欺くからです。もし神に服従すれば人を欺くこともなかったでしょう。ダビデが人間に対して行なった罪を、神に対してのみ犯した罪だと言っているのは、こういった意味においてです(詩篇51:4)。何故なら、ダビデは神に背いたからこそ、人殺しと不品行の罪に陥ったからです。

 欺きの罪は、神に対する罪であると同時に人へ行なわれた罪でもあります。ですから、その人は欺いた人に償いをしなければいけません。すなわち、欺いて奪い取った物に『五分の一』を加えて返さねばなりません。返す日は『罪過のためのいけにえの日』です。すなわち、犠牲の動物を捧げる日です。欺いた人が『五分の一』より多く、あるいは少なく慰謝料を支払うべきではありません。また、奪った物を返す日は贖罪の日より後でも前でもいけません。

 また、この罪は人へ行なわれた罪であると同時に神に対して犯された罪でもありますから、神に対して犠牲を捧げる必要がありました。すなわち、一頭の雄牛を捧げることで神からキリストによる贖いを受けるのです。

【6:8~13】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならない。そして、祭壇の上で火が焼き尽くした全焼のいけにえの脂肪の灰を取り出し、祭壇のそばに置きなさい。祭司はその装束を脱ぎ、別の装束を着けて、脂肪の灰を宿営の外のきよい所に持ち出しなさい。祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。』
 全焼の生贄の捧げ方が規定されています。全焼の生贄は『一晩中朝まで』幕屋の外にある祭壇の上で燃え続けさせねばなりません。これは、本当に犠牲が捧げられていることをしっかり示すためなのでしょう。数分また数十分だけしか生贄が燃え続けなければ、捧げられているような感じが薄れるからです。祭司たちは一晩中、その火を燃え続けさせるため、薪をくべねばなりませんでした。怠慢によりその火が消えてしまえば祭司たちの罪となります。

 祭司たちは、まず祭壇の上で灰となった脂肪を、祭壇の傍に置きます(10節)。そして、新しい装束に着替えてから、その灰を灰捨て場に持って行きます(11節)。どうして脂肪の灰は灰捨て場に捨てられるのでしょうか。これは御子を象徴していると思われます。何故なら、御子は死なれて葬られたからです。では、祭司が灰を祭壇の傍に置いてから着替えねばならないのはどうしてなのでしょうか。これは、恐らく御子を死刑にした者と葬った者が違うことを示していると思われます。御子を死刑にしたのは兵士たちであり、御子を葬ったのはアリマタヤのヨセフでした。

【6:14~18】
『穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。それにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」』

 穀物の捧げ物が捧げられる場合について。穀物の捧げ物は、既に見た通り、穀物と油が捧げた後にも残されます。その残った物は祭司たちの所有となります。祭司たちはそれを種無しのパンにして幕屋の庭で食べねばなりませんでした。その穀物を何でも好きな通りにして良いというわけではありませんでした。また、それはアロンの子のうち男子だけしか食べられません。何故なら、それは祭司に対する分け前だからです。女性は祭司職に就くことができませんでしたから、どうしてもそのパンを食べることができないのです。このパンは聖められているので、それに触れる物も全て聖とされます(18節)。

【6:19~23】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、主にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持ってはいらなければならない。主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを主のために完全に焼いて煙にしなければならない。このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。」』
 アロンとその子たちが祭司に任職される日の捧げ物について規定されています。祭司が任職される日には、『十分の一エパ』すなわち2,3リットルの小麦粉を、朝と夕に半分ずつ捧げねばなりません。その小麦粉は焼いて固形状にしてから粉々にして捧げます。これは御子が死によって御自分を神に捧げられたことを示していると思われます。何故なら、死ぬというのは粉々になることでなくて何でしょうか。この粉々にされた捧げ物は、全て神に捧げねばならず、祭司たちの所有として与えられはしませんでした。何故なら、それは主への捧げ物だからです。もし主へ捧げられない部分があるとすれば、それは捧げ物と言えなくなってしまうでしょう。