【レビ記6:24~12:5】(2021/11/21)


【6:24~30】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かなければならない。』
 罪のための生贄を捧げることに関して規定されています。これは、民の罪を贖うために行なわれる生贄の儀式についてです。すなわち、それは祭司が自分の罪を自分自身で贖う場合ではありません。何故なら、ここでは生贄の肉が祭司たちに与えられると言われているからです。既に見た通り、祭司が自分自身のために贖う場合、生贄の肉は祭司たちに与えられません(レビ記4:11~12)。

 生贄の血が祭司の着物に付いたならば、その着物は洗わねばなりません(27節)。何故そうすべきなのでしょうか。生贄の血が汚れているからではありません。その血は聖いからです。もし生贄の血が汚れているのであれば贖罪は全く成り立たなくなるでしょう。これは生贄の血が祭壇に注がれるべきだからです。神はその血を祭司たちに注げとは言っておられません。ですから、祭司たちに生贄の血が付いたならば、その間違った事象を洗うことで取り消さねばならないのです。

 また、祭司たちに与えられた肉を煮た器は処理されねばなりません。すなわち、それが土の器であれば破壊し、青銅の器であれば擦り磨いて洗います(28節)。何故このようにするのでしょうか。その肉が汚れているからではありません。すなわち、肉が汚れているので、それを入れた器まで汚れてしまったからではありません。これはその肉が聖だからです。つまり、肉の聖さにおける独立性を保つため、その肉を煮た器は言わばリセットするかのごとくに処理されねばならないのです。律法では、汚れた物が入ったり触れた器を壊さねばならないと言われています(レビ記11:33、15:12)。しかし、この箇所までそのような意味合いで器を処理しなければいけないと言われているのではないという点に私たちは注意せねばなりません。何故なら、その器に入れられた肉は『最も聖なるもの』(29節)なのですから。

【7:1~10】
『罪過のためのいけにえのおしえは次のとおりである。これは、最も聖なるものである。罪過のためのいけにえは、全焼のいけにえをほふる場所で、ほふらなければならない。そして、その血を祭壇の回りに注ぎかけなければならない。それから取った脂肪を全部、すなわち、あぶら尾と内臓をおおう脂肪、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなければならない。祭司は、それらを祭壇の上で主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。これは罪過のためのいけにえである。祭司たちのうち、男子はみな、それを食べることができる。それを聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえについてのおしえは一つである。そのいけにえはそれをもって贖いをする祭司のものとなる。祭司が、ある人の全焼のいけにえをささげるとき、そのささげた全焼のいけにえの皮はその祭司のものとなる。さらに、かまどで焼いた穀物の捧げ物全部、およびなべや平なべで作られたものはみな、それをささげる祭司のものとなる。また、穀物のささげ物で油を混ぜたものも、かわいたものもみな、ひとしくアロンの子ら全員のものとなる。』
 ここで書かれている罪過のための生贄に関する教えは、罪のための生贄に関する教えと一緒です(7節)。その儀式の方法に関しては、もう説明しなくても問題ないでしょう。何故なら、私たちは既に何度も全焼の生贄を捧げる方法について規定された御言葉を読んでおり、私もその御言葉について説明したからです。先にも述べたように聖書は契約の書物ですから同じ内容を何度も繰り返していますが、これは註解書ですから聖書のように繰り返す必要はないのです。ところで、『罪のためのいけにえ』と『罪過のためのいけにえ』の違いは何なのでしょうか。これは非常に難しいと感じる人も多いかと思います。どちらも一緒なのではないかと思う人もいるかもしれません。確かにこの2つは非常に似ているので違いを知ることが容易くありません。しかし、聖書はこの2つを明白に区別しています(レビ記7:37)。簡単に言えば、『罪のためのいけにえ』が一般的な罪に関してであり、『罪過のためのいけにえ』は神や聖なる物に対して犯された罪に関してです。つまり、罪を犯した対象が異なっています。

【7:11~21】
『主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。そのうちから、おのおのささげ物の一つを取って、主への奉納物として、ささげなければならない。これは、和解のいけにえの血を注ぎかける祭司のものとなる。和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。もしそのささげ物のいえにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。人がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。」』
 和解の生贄に関する規定です。これはキリストにおいて神と和解している旧約の聖徒たちが、キリストを示す動物を生贄として捧げることで、キリストにおける神との和解を確認・保持・表示・象徴するための儀式です。『和解』とはキリストにおける神との和解を指します。何故なら、キリストによらなければ誰一人として父なる神と和解することはできないからです。よって、和解の生贄を拒むユダヤ人がいたとすれば、その人はキリストを持っていなかったことになります。

 この和解の生贄は『感謝のためにささげる』(12節)ことができます。つまり、神への感謝を具体的に示すため、和解の生贄を捧げるのです。例えば、神がイスラエルをエジプトから救い出して下さったことについて感謝したい場合がそうでした。神が天地万物をお造りになったことについて感謝したい場合もそうでした。この感謝は心からでなければなりません。

 感謝の生贄には、祭司たちを任職する際に捧げるのと同じ3つの食物を捧げねばなりません(出エジプト記29:2)。これは任職用の食物と同じですが、もちろん感謝の生贄を捧げる人が祭司に任職されるというわけではありません。

 また、その際には『種を入れた輪型のパン』(13節)も一緒に捧げねばなりませんでした。これはパン種が入っていますから、捧げることはできても、それを焼いて煙にすることはできません(レビ記2:11~12)。

 この生贄の肉は、それが捧げられる当日中に食べねばなりません(15節)。これは何故でしょうか。その肉を強く新鮮な感謝の思いと共に食べるためです。というのも人間は弱くて定まりがないので、翌日になると多かれ少なかれ感謝の思いが薄れたりしかねないからです。ですから、感謝の思いがまだ薄れず残っているその日中に、感謝のために捧げられた生贄の肉を食べなければいけません。もし肉が翌日まで残ってしまったならば、火で焼かねばなりません。過越祭における肉を焼かねばならないのと一緒です(出エジプト記12:10)。

 また、和解の生贄は『誓願あるいは進んでささげるささげ物』(16節)としても捧げることができます。『誓願』の場合に捧げるとは、何かを誓う際、その誓いを確証または強化するための印として和解の生贄を神に捧げるということです。これを何かに例えるならば、ヤクザになる人が一生涯ヤクザとして生きることを誓う際、その誓いを確証また強く持つために指詰めをするのと似ています。その人は別に指を詰めなくても、誓った通りにヤクザとして生きていくことが可能ですが、誓いを更に研ぎ澄ますためにそうするわけです。神に誓願の捧げ物をする人もこれと同じです。これは非常に敬虔な宗教行為です。『進んでささげるささげ物』とは、ただ純粋に敬虔のため和解の生贄を捧げることです。つまり、その犠牲行為そのものを目的とする場合がこれです。これは神への愛と信仰を具体的に示すためです。ですから、これも非常に敬虔な宗教行為です。これを何かに例えるならば、ただ相手が天皇とか高貴な人だからというので、何らかの品を献上するのと似ています。

 誓願か進んで捧げる捧げ物における生贄の肉は、先に見た感謝のための生贄の肉と違い、翌日になっても食べることができました(16節)。何故なら、誓願や進んで捧げ物をするという行為の背景にある敬虔な思いは、感謝とは違い、時間が経っても薄れにくいからです。ですから、翌日になっても犠牲を捧げた時に抱いていたのと同じ思いを強く抱きながら、その肉を食べることができます。しかし、何事にも限度があります。その肉を『三日目』(17節)に食べることはできませんでした。ですから、それは2日までに食べねばなりませんでした。三日目になるとその肉は汚れてしまいます(18節)。それを食べる人も汚れが移りますから罪に定められてしまいます。衛生的にも焼いてから3日経過した肉を食べるべきではなかったでしょう。真空パックで保存するなどの場合は別ですが、普通に考えて3日目まで肉を残しておくというのはありえないからです。

 この肉が何か汚れた物に触れるならば肉まで汚れてしまいますから、食べることができなくなりました(19節)。もしそれを食べるならば汚れて罪に定められてしまいます。

 また、この和解の生贄の肉を汚れた状態にある人が食べることは禁止されます(20~21節)。何故なら、その人は汚れていながら和解のために捧げられた肉を食べたからです。これはキリストによる神との和解を冒涜し嘲ることです。その人はキリストによる神との和解を汚したのですから、『その民から断ち切られ』て異邦人として取り扱われることになります。つまり地獄行きとなります。

【7:22~27】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。すべて、火によるささげ物として主にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも、動物でも、その血をいっさい食べてはならない。どんな血でもこれを食べる者はだれでも、その者はその民から断ち切られる。」』
 神は生贄の脂肪を食べることを厳しく禁止しておられます。先にも見た通り、脂肪は神の専有物だからです(レビ記3:16)。脂肪を食べる人は神の専有物を強奪したのですから、ユダヤの共同体から追放されてしまいます。つまり、救いを失ってしまいます。何故なら、旧約時代において神の国はユダヤにだけあったのですから。

 また、血を食べてもユダヤ人はその民から追放されてしまいます。もし血が食べるように創造されていたとすれば、血は美味しそうな色をしていたはずです。しかし、血は食用として創造されていないので、その色は実に生々しいのです。そのあまりの生々しさに失神してしまう人も少なくありません。あの残酷なヒムラーでさえ、強制収容所で銃殺された囚人たちの流された血を見て倒れそうになったほどでした。血を食べてはいけない理由についてはまた後ほど述べられます。ところで、私たちも血を食べるべきではありませんが、食物に少し血が付いている場合はどうすればいいのでしょうか。例えば、スーパーに売っているタラコには血が付いていますが、これはどうすればいいのでしょうか。これはタルムードに書かれていてもよさそうな細かい問題ですが、少し付いているぐらいであれば食べても問題ないでしょう。何故なら、聖書が血を食べるなと命じているのは、一つの食物として血を食べるなということだからです。ホコリや焦げを一つの食物として食べるべきではないものの(誰がホコリや焦げを一品料理として食べるでしょうか)、何かの食品に少し付いているぐらいであれば食べても問題ないのと同じです。

【7:28~36】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。和解のいけにえを主にささげる者は、その和解のいけにえのうちから、そのささげ物を主のところに持って来なければならない。その者は、主への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として主に向かって揺り動かしなさい。祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」これは、モーセが彼らを近づけて、祭司として主に仕えさせた日から、アロンとその子らが、主への火によるささげ物のうちから、受ける分であって、それは、彼らが油そそがれた日から永遠のおきてとして、代々イスラエルの人から取って彼らに与えるよう、主が命じられたものである。』
 和解の生贄は、それを捧げる当の人が自分自身で持って行かなければなりません。カインのように他者に持って行かせてはならないのです。その人は、脂肪に加えて胸肉を持って行かねばなりません。胸肉の部分であるべきなのは、その部分が主要な部分であるからなのかもしれません。何故なら、胸のところにある心臓がなければその動物は生きていけないからです。

 また、生贄を捧げる人は、その胸肉を御前で揺り動かさねばなりません。これはその奉献物がそこにあることを確かに示すためです。祭司たちが任職される際にもこのようにせねばなりませんでした(出エジプト記29:24、26)。

 和解の生贄における胸肉と右の腿肉は、祭司たちの分け前となります。神がそれらを祭司たちに報酬として与えられるのです。ですから、生贄の肉を祭司たちが受けることについて、ユダヤ人は誰も文句を言ってはなりませんでした。

 このようにして祭司たちが生贄の肉を受けるのは祭司たちが勝手に定めたものだ、と考える人がいます。つまり、これは祭司たちが生活していくために民から肉を奪おうとしているのだ、と。これは不敬虔で不信仰な考えです。何故なら、このような報酬の規定は人間が考え出したのではないからです。それは『主が命じられたもの』(36節)です。「いや、そうではない。これは祭司たちが民から肉を奪うために神の命令だと偽って勝手に言ったのだ。」などと言うでしょうか。これは悪魔的な考えです。私は言いますが、聖書の内容における天上性を考えれば、このような規定が神により定められたということは火を見るよりも明らかです。例えば、古代ギリシャの著作や芸術作品を見れば、もうそれだけでも作成者である古代ギリシャ人が知的な人たちだったと分かります。それと同じで、聖書の内容を読めば、もうそれだけでその作者が神でしかありえないことが分かります。J・S・ミルやジョン・ロックをはじめ知者たちはこれまで聖書の道徳が最高に高い道徳だと認めてきました。知者たちでさえそのように認めて驚くぐらいなのですから、そのような道徳が書かれている聖書は神により書かれたとしか結論できないことになるのです。

【7:37】
『これは、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえについてのおしえである。』
 神に捧げる生贄は全部で6種類あります。すなわち、『全焼のいけにえ』、『穀物のささげ物』、『罪のためのいけにえ』、『罪過のためのいけにえ』、『任職…のいけにえ』、『和解のいけにえ』です。生贄の儀式が全部で「6」種類なのは、それが人間に関わっているからなのかもしれません。『全焼のいけにえ』とは、動物を部分に切り分け、焼いて煙にする儀式です。この焼かれて出た煙により神は宥められます。その煙は御子の犠牲を象徴しているからです。これはノアも行なった儀式です(創世記8:20)。アベルも全焼の生贄を捧げていたと思われます(創世記4:4)。つまり、これは洪水前から行なわれていた儀式だということになります。『穀物のささげ物』とは、小麦粉に油と乳香を伴わせて捧げる儀式です。そのうち全ての乳香と幾らかの小麦粉および油を取って神に捧げ、残った部分は祭司の分け前となります。この捧げ物は塩で味付けされていなければなりませんでした(レビ記2:13)。これは、罪のための生贄で穀物を捧げる時と混同させてはなりません。何故なら、罪のための生贄として穀物を捧げるのは動物の代替としてだからです。『罪のためのいけにえ』とは、一般的な罪を犯した際に捧げる儀式です。その時に捧げる動物は御子を示しているので、犯された罪は神により赦されます。何故なら、御子の血は全ての罪から私たちを清めるからです(Ⅰヨハネ1:7)。あまりにも貧しい人のみ動物の代わりとして小麦粉を捧げることができます。『罪過のためのいけにえ』とは、罪のための生贄とほぼ同じであり、聖なる存在や物に対して犯された罪のために動物を捧げる儀式です。これと罪のための生贄を全く同一視しないよう注意せねばなりません。『任職…のいけにえ』とは、祭司たちが任職される時に動物を捧げる儀式です。この儀式を一般の人が捧げることはありません。『和解のいけにえ』とは、キリストにおける神との和解を示し、保ち、予表させる儀式です。この生贄を捧げるならば神の祝福がありました(出エジプト記20:24)。

【7:38】
『これは、モーセがシナイの荒野でイスラエル人に、そのささげ物を主にささげるよう命じた日に、主がシナイ山でモーセに命じられたものである。』
 これらの祭儀規定は、神がシナイ山でモーセに命じ、それをモーセがシナイの荒野でユダヤ人に命じました。ユダヤ人は神の命令が直接聞かされることを拒んだので(出エジプト記20:19)、モーセが神の言葉を取り次いだのです。もし神が直接ユダヤ人に命じておられたとすれば、ユダヤ人は死んでいたかもしれません。

【8:1~5】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンと彼らとともにいるその子らを連れ、装束、そそぎの油、罪のためのいけにえの雄牛、二頭の雄羊、種を入れないパンのかごを持って来、また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。」そこで、モーセは主が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入口の所に集まった。それで、モーセは会衆に言った。「これは主が、するように命じられたことである。」』
 モーセは、アロンとその子たちの任職儀式を民の前で行なうため、全ての民を幕屋の前に集めました。これは神が祭司たちをユダヤ人のために立てられたからです。祭司たちが民に代わって贖罪の儀式を執り行ないます。ですから、祭司たちは民の見ている前で任職されねばなりませんでした。だからこそ、祭司たちがユダヤの社会において公的に認められるわけです。もし密かに任職が行なわれたとすれば、アロンとその子たちが祭司であることを不満がる人も多かれ少なかれ出ていたかもしれません。

【8:6~9】
『それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。そして、モーセはアロンに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着けさせた。すなわち、エポデを帯で締め、あや織りのエポデをその上に着けさせた。次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。』
 既に出エジプト記で命じられていた規定が、モーセにより実行されています。その規定は既に出エジプト記の箇所で確認しました。ここで書かれている内容は、以前に書かれていた内容が実行されていることですから、既に確認した内容をまだ確認していないかのように説明する必要はないでしょう。なお、この箇所で書かれている作業を、モーセ一人だけで行なったのか手伝う人が多かれ少なかれいたのかということは分かりません。モーセにヨシュアやその他の若者たちといった言わばアシスタントがいたことは間違いありませんが(出エジプト記24:5)、彼らがこの時にモーセを助けていたかどうか。いずれにせよ、これは本質的な問題ではありませんから、別に分からなかったとしてもどうということはありません。

【8:10~13】
『ついで、モーセはそそぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油をそそいだ。こうしてこれらを聖別した。さらにそれを祭壇の上に七たび振りかけ、祭壇とその用具全部、また洗盤とその台に油をそそいで、これらを聖別した。また、そそぎの油をアロンの頭にそそぎ、油をそそいでアロンを聖別した。次に、モーセはアロンの子らを近づかせ、彼らに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、彼らにターバンを巻きつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。』
 モーセが規定通りのことを忠実に執り行っています。この箇所の内容も既に出エジプト記で見たことがそのまま書かれていますから、註解をする必要はありません。しかし、私は註解をする労を取ろうとしていない、すなわち楽をしようとしていると思われたくありません。ここでは既に書かれていたことを実行している様が書かれているだけですから、註解をしようにもできないのです。カルヴァンも詩篇註解の中で、ある篇が以前の篇と全く一緒なので、その篇の註解を全く飛ばしたではありませんか。もしそのようなことは気にせず、既に述べられた説明をまた再び繰り返すのであれば、良き読者でさえこの註解書から離れてしまうことでしょう。何故なら、ソロモンがこう言っているからです。『同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。』(箴言17章9節)ところで、レビ記8:3~4の箇所からも分かる通り、モーセはこのような儀式を多くのユダヤ人たちが見ている前で行なっていました。100万人以上の人々がモーセのしていることに注目していたのです。その時の光景は、巨大なスタジアムに観客が所狭しと集まっているのと同じで、非常に壮大だったはずです。

【8:14~17】
『ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。モーセはさらに、その内臓の上の脂肪全部と肝臓の小葉、二つの腎臓とその脂肪を取り、それを祭壇の上で焼いて煙にした。しかし、その雄牛、すなわちその皮とその汚物は、宿営の外で焼いた。主がモーセに命じられたとおりである。』
 ここでも出エジプト記に書かれていた規定が実行されています。その実行の際には決して誤ってはなりませんでした。

【8:18~21】
『次に、彼は全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を祭壇の回りに注ぎかけた。さらに、その雄羊を部分に切り分け、モーセはその頭とその切り分けたものと内臓の脂肪を焼いて煙にした。それから、その内臓と足を水で洗い、モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、主への火によるささげ物であった。主がモーセに命じられたとおりである。』
 ここで行なわれていることも出エジプト記の規定と対応しています。

【8:22~29】
『次に、彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗り、モーセはその血の残りを祭壇の回りに注ぎかけた。それから彼はその脂肪、すなわちあぶら尾、それと内臓の上の脂肪全部、また肝臓の小葉、および二つの腎臓とその脂肪、それからその右のももを取った。それにまた、主の前にある種を入れないパンのかごから、種を入れない輪型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個とを取り、それをその脂肪と右のももの上に置いた。それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主に向かって揺り動かした。ついで、モーセはそれらを彼らの手のひらから取り、祭壇の上で、全焼のいけにえとともにそれを焼いて煙にした。これらは、なだめのかおりとしての任職のいけにえであり、主への火によるささげ物である。モーセはまた、その胸を取り、奉献物として主に向かって揺り動かした。これは任職のいけにえの雄羊のうちからモーセの分となるもので、主がモーセに命じられたとおりである。』
 ここでも出エジプト記の規定が忠実に執り行われています。

【8:30~35】
『それから、モーセはそそぎの油と、祭壇の上の血を取り、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束の上に振りかけて、アロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束を聖別した。そして、モーセはまた、アロンとその子らに言った。「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。そしてそこで、それを任職のかごにあるパンといっしょに食べなさい。私が、アロンとその子らはそれを食べよと言って命じたとおりに。しかし、肉やパンの残りは火で焼かなければならない。また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように主が命じられたとおりである。あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、主の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。」』
 この箇所も出エジプト記の規定通りです。時間のある人は、一つ一つの箇所と対応する出エジプト記の箇所を確認してみるのも良いかもしれません。そうすれば、これらの規定に対する認識が更に強まるようにもなると思います。

【8:36】
『こうしてアロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことを残らず行なった。』
 アロンとその子たちが祭司になったのは、彼らの希望によりませんでした。それは神からの召しだったからです。つまり、アロンたちが祭司になったのは運命でした。ですからアロンの子たちは、生まれた時から既に祭司になることが決まっていました。ちょうど天皇の長子として生まれたので、将来に天皇になることが生まれた時から決まっているのと同じです。こういうわけで、アロンとその子たちは摂理に動かされるまま祭司となったのでした。この時に祭司となったのは、アロンとその4人の子たち―エルアザル、イタマル、ナダブ、アビフ―の計5人でした。この5人で100万人以上いるユダヤ人たちの贖罪を執り行っていたのです。いや、モーセも祭儀を行なっていましたから、6人で祭儀を執り行っていたことになります。

【9:1~2】
『それから、八日目になって、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエル人の長老たちを呼び寄せ、アロンに言った。「あなたは、子牛、すなわち、若い牛を罪のためのいけにえとして、雄羊を全焼のいけにえとして、それもまた傷のないものを取って、主の前にささげなさい。』
 任職の7日間が終わり『八日目』となりました。祭司たちは自分たちのために、子牛で罪のための生贄を、雄羊で全焼の生贄を捧げねばなりませんでした。これは祭司たちの贖いのためです。その時に捧げる家畜は、屠るのが残念に感じられてしまうような最上級の家畜であるべきでした。何故なら、それを捧げる相手は神であり、それは御子を象徴させる家畜であり、祭司たちの贖罪のために屠られるのだからです。質の低い家畜を捧げるのは大きな悪でした。例えば、いつの時代も王に何かが捧げられるとすれば最上級品が捧げられるものです。であれば尚のこと神には最上級品の生贄が捧げられねばなりません。

【9:3~4】
『あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。また主へのいけにえとして、和解のいけにえのための雄牛と雄羊を、また、油を混ぜた穀物のささげ物を、取りなさい。それは、きょう主があなたがたに現われるからである。」』
 イスラエル人たちは、雄山羊で罪のための生贄を、子牛と子羊で全焼の生贄を、雄牛と雄羊で和解の生贄を捧げ、また穀物の捧げ物を捧げねばなりません。これもやはり民を贖うためです。捧げられる家畜や小麦粉は敬虔かつ真面目な心で選別されねばなりませんでした。彼らが贖いをすべきなのは、『きょう主があなたがたに現われるから』です。すなわち、贖罪の儀式を執り行うことで『主の栄光があなたがたに現われるため』(レビ記9章6節)でした。神がその栄光において現われて下さるためには、どうしても汚れから清められていなければなりません。何故なら、汚れた存在に対して神は御自身を示して下さらないからです。実際、汚れたことばかり言って汚れていたニーチェに、神は御自分を現わして下さいませんでした。

【9:5~7】
『そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に持って来て、全会衆が近づき、主の前に立った。モーセは言った。「これは、あなたがたが行なうように主が命じられたことである。こうして主の栄光があなたがたに現われるためである。」それから、モーセはアロンに言った。「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなた自身のため、またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、主が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」』
 聖なる招集により聖なる民が聖なる御前にやって来ました。これは「聖集」とでも言うべきことです。こうして祭司と民全体のために贖いの儀式が執り行われることになりました。これは大々的な贖罪の儀式でした。このように多くの人が集まって贖罪を行なうのは、度々あるわけではありません。

【9:8~14】
『そこで、アロンは祭壇に近づき、自分のために罪のためのいけにえの子牛をほふった。アロンの子らは、その血を彼に差し出し、彼は指をその血に浸し、祭壇の角に塗った。彼はその血を祭壇の土台に注いだ。彼は罪のためのいけにえからの脂肪と腎臓と肝臓の小葉を祭壇の上で焼いて煙にした。主がモーセに命じられたとおりである。しかし、その肉と、その皮は宿営の外で火で焼いた。それから、アロンは全焼のいけにえをほふり、アロンの子らが、その血を彼に渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。また、彼らが全焼のいけにえの部分に切り分けたものとその頭とを彼に渡すと、彼はそれらを祭壇の上で焼いて煙にした。それから、内臓と足を洗い、全焼のいけにえといっしょにこれを祭壇の上で焼いて煙にした。』
 まずはアロンが自分のために贖罪を行ないます。アロンの子らはアロンのアシスタントをしていたようです(9、12節)。アロン以外もそうですが、このような贖罪をしなければならなくなったのは、私たちが罪を犯して堕落したからです。ですから、贖罪により清められてでなければ神の御前に立つことはできません。もし私たち人間が罪を犯していなければ、アロンであれ他の者であれ、このような儀式を行なう必要はありませんでした。

【9:15~22】
『次に、彼は民のささげ物をささげ、民のための罪のためのいけにえとしてやぎを取り、ほふって、先のと同様に、これを罪のためのいけにえとした。それから、彼は全焼のいけにえをささげ、規定のとおりにそうした。次に、彼は穀物のささげ物をささげ、そのうちのいくらかを手のひらいっぱいに取り、朝の全焼のいけにえと別に、祭壇の上で焼いて煙にした。ついで、彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり、アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。その牛と雄羊の脂肪の部分、すなわちあぶら尾、内臓をおおう脂肪、腎臓、肝臓の小葉、これらの脂肪を彼らが胸の上に置くと、彼はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にした。しかし、胸と右のももは、アロンが、モーセの命じたとおりに奉献物として主に向かって揺り動かした。それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいえにえをささげてから降りて来た。』
 続いて民の贖いが規定通りに執り行われました。旧約時代でこのような儀式を執り行えるのは、レビ人の祭司だけでした。一般のユダヤ人が勝手に自分で祭儀を行なうことはできませんでした。神は一般人も祭儀を執り行って良いなどと規定されなかったからです。

 この箇所から、穀物の捧げ物を捧げる量である『ひとつかみ』(レビ記2章2節)が、どれほどの量だったか具体的に分かります。ここでアロンは穀物の捧げ物である小麦粉を『手のひらいっぱいに取』(17節)っています。これが『ひとつかみ』なわけです。取り方にもよりますが、恐らくアロンの手の両側からは小麦粉が下にこぼれ落ちていたでしょう。つまり、穀物の捧げ物として捧げる小麦粉の量は、分かりやすく言えば饅頭やパソコンのマウスぐらいだったということです。

 アロンが両手を上げて民を祝福したのは、イスラエル人の祝福のやり方です。蘇られたキリストも、弟子たちをこのようにして祝福されました(ルカ24:50)。これは、神が天から祝福を降り注いで下さるように、と暗に言っているわけです。ソロモンも両手を天に差し伸べて祝福を求めています(Ⅱ歴代誌6:13)。これは確かにイスラエル人が祝福する仕方ですが、イスラエル人が祝福する際に必ずこのようにしていたかどうかは定かではありません。

【9:23~24】
『ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。』
 聖務が一通り終わると、モーセとアロンは幕屋に入りました。どうして幕屋に入ったのか聖書は何も書いていません。容易に推測できることとして、2人は神に一通り聖務が終わったことを報告しに行ったのだろうと思われます。そして2人が出て来て民を祝福すると、突如として神からの火が祭壇の上にあった生贄を焼き尽くしました。ここにおいて神の栄光が現わされました。何故なら、神からの火が出て来て生贄を焼き尽くしてしまったからです。何か凄いことが起これば、それを起こした存在の栄光が現われます。これは私たちも日常的に体験しています。例えば、短距離走である走者が圧倒的な速さで1位になったとすれば、その走者の栄光が現われます。神もそのようにして御自分の栄光を現わされたのです。この時に神から出た火がどのようであったかは分かりません。ただ民がこの出来事を見て『叫び、ひれ伏し』ましたから、凄まじい火だったに違いありません。もしかしたら、エリヤの時のようにして火が降って来たのかもしれません(Ⅰ列王記18:38)。

 今の時代では、もうこの時のようにあからさまな仕方で神の栄光が現わされるということはなくなっています。神の栄光は今でも現わされるのですが、しかしモーセの時のようにまざまざとは現わされていないということです。例えば、正しい人が神に叫ぶと急に神からの雷が落ちて来て忌まわしい悪者を燃やし尽くすということはありません。旧約の時代ではこういったことが起きていたのです。これは今ではもう啓示が全て示し終えられたからです。まだ啓示が示されている時代にあっては、このようにして神の栄光があからさまに示されることで、啓示の真理性が物理的に確証されねばなりませんでした。もしこのような栄光の顕示があれば、啓示が確かに神の真理であると証明されるからです。ですから今もまだ啓示が示し終えられていなかったとすれば、今でもこのようにして神の栄光が顕示されていたはずです。ところが、このようなことを知らない無知で不信仰な人は、今では神が昔のように栄光を示しておられないからというので、聖書に書かれている昔の出来事を作り話として拒絶するのです。愚かな人です。では、どうして進化論は信じているのでしょうか。進化論は、今は生物の進化が止まっている段階にあると教えます。ほとんど全ての人は、今は進化が止んでいても昔はあったと信じています。であれば今は栄光の顕現が昔のように起こっていなかったとしても、昔はまざまざと栄光が顕現されていたとどうして信じないのでしょうか。今は神がその栄光を昔のように示しておられないからというので昔もそのようなことはなかったというのであれば、進化は今起こっていないのだから昔も進化などなかったということになりましょう。もし進化が昔にはあったことを信じているのであれば、神の栄光の豊かな顕示も昔にはあったことを信じるべきでしょう。もっとも、進化のほうについては神の栄光の顕示とは違い、今起きていないだけでなく昔も起きていなかったということは確実なこととして言っておかねばなりませんが。

【10:1~2】
『さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。』
 アロンの2人の子ナダブとアビフも祭司に任じられていましたが、主の命じていなかった火を捧げたので裁きの火により焼き殺されてしまいました。それは神を冒涜し愚弄する破滅的な罪悪だったからです。神の怒りが文字通りこの2人に対して燃え上がったのです。『異なった火』とは何でしょうか。まず、異なった香を火で焚くことは出エジプト記30:9の箇所において禁止されていました。ナダブとアビフは、契約の箱の前に置かれていた香の壇で(出エジプト記30:1~6)、勝手に調合した規定違反で偽物の香を焚いたわけです(出エジプト記30:34~38)。規定された香に似ているが規定通りでない勝手な香を作るならば悲惨になる、と既に出エジプト記30:38の箇所では言われていました。ナダブとアビフはこれをしてしまったわけです。彼らは規定通りの香による火、すなわち異なっていない火を主の御前に捧げるべきでした。しかし、この2人がふざけた不敬虔な態度からこうしたのか、面倒くさがったいい加減な態度でこうしたのか、誰にでも起こり得る注意不足からこうしたのかは分かりません。聖書は彼らがどういった心情から異なった火を捧げたのか示していません。ただ私たちに分かるのは、ナダブとアビフが御心に適わない規定違反の香による火を捧げたので裁き殺されたということだけです。

 この出来事は、新約の時代で言えば何に相当するでしょうか。相当すると思われるのは2つあります。一つ目は、聖餐のパンと葡萄酒を相応しくない状態で受けることです。コリント教会にいた者の多くは、キリストについて弁えず聖餐を受けていました。ですから、不正に聖餐を受けたことで多くの者が裁かれて死んでしまいました(Ⅰコリント11:29~30)。これは不正な態度により聖なる儀式を行なったので死んだという点でナダブとアビフと一緒です。二つ目は、異端の神観を多くの人々に告げ知らせることです。異端者のアリウスは御子について不正な主張をしていましたが、最後には便所に落ちて絶命したといいます。マイケル・ジャクソンは恐らくイルミナティの指示を受けた医師により殺されたと思われますが、マイケルはエホバの証人としてスーツ姿で布教活動に励んでいましたから、彼ほどの影響力を持つ有名人が異端の布教に励んでいたことにより、神から裁かれた可能性がかなりあります。何故なら、マイケルほどのスターが布教をしていれば、彼のスターとしての魅力が働くので、多くの人がエホバの証人へと引き込まれてしまうではありませんか!これは神の御前で不正をしたので裁き殺されたという点でナダブとアビフと一緒です。もちろん、この2つの事例は、ナダブとアビフの行ないと完全に一致しているわけではありません。私が言いたいのは御前で行なった不正により裁かれて死んだという点でどちらも似ているということです。

【10:3】
『それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。』
 ナダブとアビフが死んだ理由について、モーセはアロンに主の御言葉を語って説明しています。すなわち、ナダブとアビフが死んだのは、主が『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』と言われたからです。これは神の聖は御自分に近づく者に相応しい態度で報いるという意味です。つまり、神の聖なる御前に正しい者が近づけば祝福をもって報いられ、悪者が近づくならば悲惨をもって報いられます。神はそのようにして御民の前で『自分の栄光を現わ』されます。ナダブとアビフは悪い者だったので、神の聖により裁かれて死ぬこととなりました。

 モーセの言葉を聞いたアロンは、その言われたことを理解しました。アロンは神の裁きを認めざるを得ませんでした。何故なら、確かにナダブとアビフは神に裁かれて当然のことをしたからです。神がどうして誤った裁きをされるでしょうか。『それゆえ、アロンは黙っていた』のです。イスラエルでは、少し前にアロンのせいで多くの民が死んでしまったばかりです。それなのにまたアロンには大いなる悲惨が起こりました。この時にアロンが抱かされた悲痛はどれほどだったでしょうか。

【10:4~5】
『モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。「進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。』
 『アロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファン』も、エジプトから連れ出されていました。この従兄弟たちはユダヤの共同体における一員でした。ここでは『おじウジエル』があたかもアロンだけの叔父であるかのように書かれていますが、ウジエルはモーセの叔父でもありました(出エジプト記6:18、20)。モーセはこの2人の従兄弟たちに、規定違反者のナダブとアビフを聖所から運び出すように命じます。これは祭司であったアロンとその2人の子エルアザルとイタマルが聖所に居続けなければいけなかったからです(レビ記21:12)。これはモーセがアロンのその子たちの心情に配慮してあげたからではありません。しかし、ミシャエルとエルツァファンは、規定違反者たちの遺体を運び出す際に遺体に汚されませんでした。というのもモーセは遺体の『長服をつかんで』運び出せと命じたからです(5節)。もし彼らが遺体の皮膚に触れていたとすれば、遺体により汚れを受けてしまっていました。

【10:6】
『次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。しかし、あなたがたの身内の者、すなわちイスラエルの全家族が、主によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。』
 悲しい出来事が起きた際、髪の毛を乱したり着物を引き裂いたりするのが、古代ユダヤ人の慣習でした。これは心が大いに乱れていることを表明させるためです。アロンとその子たちもユダヤ人でしたから、このようにして悲しみを発露させたかったかもしれません。しかし、モーセはそのようにするのを禁じました。何故なら、聖なる祭司が神のおられる聖所でそのような振る舞いをするのは不適切だからです。例えば、宮殿で天皇や王に謁見している時に何か悲しいことが起きた場合、激しいリアクションで悲しみを現わすのは相応しくないはずです。高貴な場所で高貴な人物が目の前にいる以上、そういったオーバーリアクションはその場の尊厳に適合していないからです。祭司である彼らが神の御前で激しく悲しみを表明すべきではなかったのも、これと同じです。しかし、モーセは普通に泣き悲しむことであれば構わないと言っています。普通に泣き悲しむのであれば、神とその場の尊厳を損ねたりはしないからです。これは天皇や王といった高貴な人の前にいて悲しむ場合を考えても分かることでしょう。紳士的に泣き悲しむのであれば、高貴な人物がいる宮殿の雰囲気を壊すこともありません。モーセは、アロンたちが祭司であるからこそ激しく悲しみを示すなと言っています。また、その場所が聖所であるからこそ、そう言っています。もしアロンとその子らが普通の人であり、場所も聖所以外のところであれば、モーセはこのように言っていなかったでしょう。また、ここではナダブとアビフが『イスラエルの全家族』と呼ばれていますが、これはこの2人が家族でもあるかのように全てのイスラエル人と交わる職務に就いていたからです。

【10:7】
『またあなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には主のそそぎの油があるからだ。」それで、彼らはモーセのことばどおりにした。』
 モーセは祭司であるアロンとその子らが聖所から出ることを厳重に禁じます。もし聖所から出たらアロンとその子らは神に殺されてしまいます。何故なら、アロンとその子らの『上には主のそそぎの油があるから』です。また彼らの頭には『記章』が付けられているからです(レビ記21:12)。聖なる祭司は神の御前で聖務に従事しているべきですから、自分の持ち場を勝手に離れてはいけないのです。これは軍律の厳しい軍隊に例えることができます。古代ローマの軍隊もそうでしたが、軍律が厳しい軍では、自分の持ち場を勝手に離れたり敵を恐れて逃走した兵士に死の罰を下すのです。というのも、軍隊において命令は絶対であり、兵士たちは命じられた持ち場に死んでも居続けるべきだからです。

【10:8~11】
『それから、主はアロンに告げて仰せられた。「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」』
 イスラエルの祭司たちは、酒に酔った状態で聖所に入ってはいけませんでした。それはノアのように無様な状態とならないためです(創世記9:21)。もし祭司が酔ってしまえば、正しいことが何も分からなくなり、民にそれを教えることもできません。イスラエルの祭司がそのようになってはならないのです。ですから、神は祭司たちが聖務のため聖所に入って行く際は、全く酒を飲んではならないと命じられます。何故なら、少しでも酒を飲めば、人間は弱い存在ですから、「もう少しだけ」などと思っていつの間にか酔いが回る量にまで飲んでしまうことにもなるからです。この箇所では『会見の天幕にはいって行くとき』すなわち聖所に入って行く時には酒を飲むなと言われていますが、エゼキエル44:21の箇所では『内庭にはいるとき』にも酒を飲むなと言われています。祭司たちは内庭に入る時から既に酒を飲んでいてはなりませんでした。何故なら、聖所で聖務を執り行なうためには内庭を通り過ぎねばいけないからです。つまり、聖所に入るまでに酔いが醒めるのであれば酔った状態で内庭に入っても問題ないということではありませんでした。これは今の日本で少しでも酒を飲んだら車を運転すべきでないと言われるのと似ています。

 この箇所から分かるように、祭司たちは教育の役割も持っていました。それは民が教えられることで、『聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため』です。祭司たちは祭儀を執り行っていますから、祭儀の専門家です。ですから、祭儀について民を教えねばならないのです。もし教えなければ民は祭儀に関して無知なままとなってしまいます。この時は、まだ今のように個々人が自由に神の言葉を読むことはできませんでした。ですから、民が神の規定について知るためには、祭司たちから教えられて知る他はありませんでした。こういうわけですから、私たちは祭司たちがただ儀式だけを行なっていたのではないということを知っておくべきです。教育も祭司の重要な職務の一つでした。

【10:12~15】
『そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。「主への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。それを聖なる所で食べなさい。それは、主への火によるささげ物のうちから、あなたの受け取る分け前であり、あなたの子らの受け取る分け前である。そのように、私は命じられている。しかし、奉献物の胸と、奉納物のももとは、あなたと、あなたとともにいるあなたの息子、娘たちが、きよい所で食べることができる。それは、イスラエル人の和解のいけにえから、あなたの受け取る分け前、またあなたの子らの受け取る分け前として与えられている。人々は、奉納物のももと奉献物の胸とを、火によるささげ物の脂肪に添えて持って来て、奉献物として主に向かって揺り動かさなければならない。これは主が命じられたとおり、あなたと、またあなたとともにいるあなたの子らが永遠に受け取る分である。」』
 モーセは、2人の死んだ者のことなどお構いなしに、アロンおよびエルアザルとイタマルに命令を行なうよう指示しています。というのも、主に従うならば家族のことさえ無視せねばならないからです(マタイ8:21~22)。既に規定されていたのを見た通り、祭司たちは穀物の捧げ物を分け前として食べることができます。食べる場所は、庭にある『祭壇のそば』でなければいけません。これを祭司以外の者が食べることはできません。しかし、犠牲獣の胸肉と腿肉は、祭司たちの家族であれば祭司でなくても食べることができました。その肉を祭司一族以外の者が食べることはできません。

 民は、犠牲獣の胸肉と腿肉を神の御前に持って行かねばなりませんでした。そのように神が命じられたからです。もし持って行かなければ、贖罪が出来なくなりますし、祭司たちも生活していけなくなってしまいます。もし持って行くのを拒絶するのであれば罪に定められます。何故なら、その人は律法の通りに行なっていないからです。

 このように祭司たちの生活は、民からの捧げ物により支えられていました。祭司が捧げ物により生活するということ自体は全く問題ありません。それが神の定めだからです。ところが、後の時代になると祭司たちが堕落したので、祭司たちは民の捧げ物に望みをかけるようになりました(ホセア4:8)。つまり、こういうことです。民が罪を犯せば犯すほど、捧げられる犠牲の数も多くなるので、祭司たちの生活がより豊かに支えられることとなります。祭司たちはより多くの分け前を欲しがりました。ですから、祭司たちは民に正しい教育を与えませんでした。何故ならば、民が無知であればより罪を犯しやすくなるので、より多くの犠牲が捧げられるようになるからです。これは何という堕落した商売でしょうか。祭司たちは民に神の律法を教えないのと引き換えにして、民から犠牲の肉を買っていたわけです。これは実に酷いことでした。モーセやヨシュアがイスラエルを指導していた頃は、まだこういった堕落は起きていませんでした。このような堕落が起きるのはソロモン以降の時代です。

【10:16~20】
『モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。」そこで、アロンはモーセに告げた。「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげました。それでこういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。」モーセはこれを聞き、それでよいとした。』
 モーセは犠牲の山羊を捜しましたが、もう既にそれは焼かれていました。19節目で『彼ら』と言われているのはエルアザルとイタマルを指します。この2人が無謀な拙速さにより犠牲を捧げてしまったので、犠牲獣の肉を食べることも、その血を聖所の中に携え入れることもできませんでした。本当はその山羊の肉を食べ、その流された血を聖所に携え入れるべきでした。何が起こったのかアロンが説明したところ、怒っていたモーセはその説明を聞いて『それでよいとし』ました。何故なら、エルアザルとイタマルは暴走気味の拙速さで犠牲を捧げてしまいましたが、そこには未熟ながらも熱心な信仰心の煌めきがあり、悪い心やいい加減さからそのようにしたわけではなかったからです。もしこの2人がふざけて行なっていたとすれば、モーセの怒りは鎮まらず、『それでよい』とはしていなかったでしょう。このような初々しい勢いに基づく失敗は、信仰を持ったばかりの人であればそれほど珍しくもありません。こういった失敗にはモーセのように寛大な態度を示すべきなのかもしれません。

【11:1~2】
『それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。』
 食物の規定がモーセとアロンを通してイスラエル人に告げられます。

 神は、ユダヤ人に清い動物と清くない動物すなわち汚れた動物の区別を教えられました。清い動物は食べてよく、汚れた動物を食べてはいけませんでした。もし汚れた動物を食べるならば、汚れてしまいます。しかし、汚れた動物を食べてしまっても、その民から断ち切られることはありませんでした。どうしてユダヤ人にはこういった区別が教えられたのでしょうか。それは彼らが聖と俗の概念をよく弁えるためです。古代ユダヤ人はまだ霊的に幼い状態でしたから、食物の区別を通して、何が聖であり何が聖でないか学ばねばなりませんでした。そのようにして聖俗を弁えなければ、聖を求め、汚れから遠ざかることが出来なくなるか、もしくは難しくなるからです。神は、ただ言葉だけでユダヤ人に聖俗の区別を弁えさせることはなさいませんでした。神は実物教育によりユダヤ人を弁えさせようとされました。それは彼らがまだ未熟であり、実物教育を行なわなければ、よく聖俗を弁えられなかったからです。こういうわけで、古代ユダヤ人は清い動物しか食べませんでした。使徒もそうでした。ペテロは神から汚れた動物を食べるよう差し出された時、神に対してこう言ったのです。『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』(使徒の働き10章14節)

 今となっては、もうこのような聖俗の区別は撤廃されています。何故なら、御子の血が全てを聖めたからです。パウロがコロサイ1:19~20の箇所で示している通りです。御子は『全世界のための、―なだめの供え物』(Ⅰヨハネ2章2節)であられます。それゆえ、御子により、かつて汚れた動物とされていた動物は聖められました。ですから、汚れた動物を差し出された時に食べることを拒んだペテロに対し、神はこう言われたのです。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』(使徒の働き10章15節)このため今ではもうどのような動物でも食べて良くなっています。ところが、ユダヤ教徒たちはキリストのことを知らないので、今でも旧約時代の規定に縛られており、汚れていると言われていた動物を食べることはありません。彼らもキリストを信じて無知と誤謬から解放されたならば、どんな動物でも自由に食べることができたでしょうに。

 特筆すべきなのは、清い動物と汚れた動物の基準が堕落した度合いに基づいているという点です。すなわち、堕落の度合いが酷い動物は汚れているとされ食べてはならず、あまり堕落していない動物は清いとさえ食べることができます。例えば、羊は原初の状態からあまり堕落していないので、清い動物とされており、食べることができました。あまり堕落していないからこそ、羊は温順であり、あまり悪いイメージを抱かれることもないわけです。同じように牛もあまり堕落していませんから、清いとされ、食べることができます。牛があまり堕落していないからこそ、牛は非常に便利な動物であり、傾向としてあまり悪く思われることもないわけです。これとは逆に、蛇は原初の状態から甚だしく堕落していますから、汚れているとされ、食べてはなりませんでした。堕落の度合いが著しいからこそ、蛇はあのように不気味であり、邪悪な存在だと思われることが多いのです。蛇には手足の生えていた痕跡があります。蛇は堕落する以前、手足と翼を持っていた竜だったのでしょう。しかし、神からの罰としてそれらがもぎ取られたので、それ以降ずっと腹ばいで歩かなければいけなくなったわけです(創世記3:14)。ですから、蛇も堕落していなければ、清い動物でした。

【11:3~7】
『動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。』
 清い動物であるか汚れた動物であるかの条件は2つあり、「蹄が割れていること」および「反芻すること」です。見分け方はそう難しくありませんでした。これら2つの条件を満たしていれば、それは清い動物なのです。つまり、蹄が割れており反芻する動物はあまり堕落していません。

 しかし、この2つの条件のうちどちらか一つでも欠けていれば、それは汚れた動物です。つまり、その動物は堕落の度合いが著しいので汚れているとされます。そのような動物の例として、まず反芻するものの蹄は分かれていない3種の動物が挙げられています。それはラクダと岩狸と野兎です。ラクダは恐らく馬が著しく堕落した形態でしょう。だからこそ、馬はラクダを見ると耐えられなくなるのだと思われます。ラクダも馬も何かを乗せて運ぶ動物という本質部分では一致していますが、馬のほうは原初の状態をあまり損ねておらず、ラクダは馬の状態が酷く堕落した状態なわけです。岩狸は見るからに堕落しています。あんな挑戦的な顔つきは堕落していなければ生じ得ません!野兎は、動物なのに年中ずっと発情しており、臭く、非常に臆病です。これは野兎が原初の状態から激しく堕落したからなのでしょう。野兎の原初の状態はもっと良かったはずです。それゆえ野兎は汚れた動物に分類されます。豚は、今見た3種の動物とは違い、蹄は分かれているものの反芻しませんが、2つの条件を満たしていないので汚れた動物とされています。豚は肥満であり、何でもかんでも食べ、泥や汚物を自ら好んで求めます。これはどう考えても酷く堕落しています。豚も原初はこのようでなかったはずです。ラクダや岩狸や野兎については食べないことを理解できる人も多いと思いますが、ユダヤ人は豚も食べませんでした。異邦人は、ユダヤ人が豚を食べないことを非常に驚いていました。何故なら、ユダヤ人がどうして死んでも豚を食べないのか理解できなかったからです。ですから、マカベア書でも書かれているように、アンティオコス4世は前からユダヤ人が豚を食べないことを不思議がっていたので、何としてもユダヤ人に豚を食べさせようとしました。この王はユダヤ人の少年たちに対して、もし豚を食べるならば国家の権力者に引き上げてやってもよいとさえ持ちかけました。このような約束をされても彼らは豚を食べなかったのです。この少年たちは豚を食べなかったために死にました。ですから、豚を食べないために死んで行ったユダヤ人たちの心情が、異邦人たちにはよく理解できませんでした。このような出来事からも分かる通り、古代のユダヤ人はしばしば偶像崇拝には陥ったものの、食物規定については遵守し続けていました。今でもやはりユダヤ教徒は豚をはじめ汚れていると書かれている動物を全く食べません。

【11:8】
『あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。』
 汚れた動物は汚れていますから、それを食べるだけでなく死体に触れることさえ禁止されました。もし汚れた動物の死体に触れれば汚れが移るので罪を得てしまいます。聖なる民にそのようなことが起きてはいけませんでした。このような実物教育によりユダヤ人は聖と俗の概念および区別を学んでいたのです。

【11:9】
『水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。』
 水の動物における清い動物とそうでない動物の区別は、先に見た陸上生物の区別と同様、そう難しくはありません。すなわち、ヒレと鱗を持っていれば清いので食べられます。つまり、この2つを持っている水の動物は、堕落の度合いがあまり強くないということです。サンマやアジやマグロなどスーパーで売っている魚の多くは律法で清いとされていた魚です。そのような魚は、やはり味も良いと感じられます。サンマや捨てる部分がないと言われているマグロなどは最初から人間が食べることを目的として創造されているかのように食べるに相応しい魚です。

【11:10~12】
『しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。』
 ヒレや鱗のない水の動物や群生する水の動物は、どれも汚れていますから食べてはなりませんでした。もし食べるなら汚れて罪を得ます。タコやイカ、海老がそうです。タコやイカは見た目が気持ち悪い動物です。堕落の度合いが激しいので原初の状態から気持ち悪くなったのでしょう。神が造られた動物は最初、どれも喜ばしい外観だったのですから(創世記1:31)。海老の尾は、ゴキブリの羽と成分が一緒のようです。私としては、もうこれだけでも海老が酷く堕落していると納得するのに十分なほどです。ところで、ユダヤ人は偶像崇拝に関する戒めは平気で破っていたのにもかかわらず、このような食物規定のほうは命を捨ててでも守っていました。これは興味深いと感じられます。しかし興味深いのではありますが、どうしてこうだったのか理解できないところがあります。ユダヤ人にはこのように理解できない面が幾つもあります。アウシュビッツの時もそうでした。アウシュビッツで囚人になったユダヤ人は、同胞をよく愛する民族であるにもかかわらず、自ら進んで同胞であるユダヤ人の囚人をナチスのために殺そうとしたぐらいでした。ですから、ユダヤ人を殺して処理するのにユダヤ人よりも優秀な者はいないとさえ言われたのです。更に、ユダヤ人の囚人は、隠れていてまだナチスに捉えられていない同胞のリストを自ら進んでナチスに渡すということさえしていました。このようなことを同胞愛を強く持つユダヤ人がしていたのです。ですから、ヘスはこのようなユダヤ人の振る舞いが理解できず困惑させられたと自伝の中で言っています。神のために食物規定を死守するのであれば、どうして偶像崇拝に関する規定も神のために死守しなかったのか。このような矛盾は不思議に感じられるのです。

 このような水の汚れた動物は、忌まわしい動物とされていましたから、その死体にも触れてはいけませんでした。もし触れるならば汚れが移りました。ですから、ユダヤ人は水にいる汚れた動物を避けていたわけです。このようにして彼らは汚れを避ける訓練を積んでいました。

【11:13~19】
『また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、とび、はやぶさの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、う、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。』
 食べてはならない汚れた鳥がここでは挙げられています。これらは今でも我が国ではほとんど食べられていない鳥です。『だちょう』は飛べない鳥です。原初は飛べたのに激しい堕落のゆえ飛べなくされたのでしょう。ですからこの鳥は汚れているとされます。『烏』も酷く堕落しています。だからこそ、ゴミを散らかすなど人間に迷惑をかけるわけです。烏も汚れているとされました。『ふくろう』は怪しい謎めいた雰囲気があり、危険なイメージのために用いられることがよくあります。このフクロウはイルミナティやフリーメイソンにおいても象徴として使われています。これはフクロウが原初の状態からかなり堕落したからなのでしょう。『たか』は腐った死肉を好んで食べることから、堕落が著しいと分かります。それゆえ、鷹は汚れた鳥に分類されています。『こうもり』は明らかに堕落の度合いが酷い鳥です。それはあの醜い外観を見ても分かるでしょう。それゆえ、蝙蝠は汚れています。一方、鳩や鶏は清い鳥ですから食べられます。鳩について言えば、鳩はもっとも平和な動物の一つであり、平和の象徴とされることが珍しくありません。これは鳩がほとんど堕落の影響を受けていないからなのでしょう。この鳩は、聖霊も御自分を御示しになられるため用いられた鳥です(マタイ3:16)。

【11:20~23】
『羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を飛びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。』
 羽を持つ四つ足の昆虫は、基本的にどれも汚れており、食べることができません。例えば、カナブンやカメムシやテントウムシやハチやクモやハエやゴキブリがそうです。カブトムシやクワガタやカミキリムシもそうでしょう。

 しかし、羽を持ち四つ足があっても、『はね足』で飛び跳ねる昆虫は清いので食べることができます。その例としてここではイナゴやコオロギやバッタが挙げられています。これらを食べるのは世界的にはそれほど珍しくありませんが、日本ではまだ昆虫の自販機が一部地域にあるぐらいで、一般的に食べられるという段階までは遥かに遠い状態です。スーパーでもバッタやイナゴを売っている店は見られません。ですから、バッタなどを食べてよいと言われても、あまりよく理解できないという人もいるかもしれません。しかし、昔も今もバッタなどを食べるのは異常ではないのです。世界的に言えば、日本人が昆虫食を多かれ少なかれ驚くのに比べれば、日本人が納豆を食べていることのほうがよっぽど驚きなのです。ユダヤ教徒は、今でも昆虫を食べませんが、このバッタやイナゴなどだけは例外として忌避していません。このバッタやイナゴなどは清いとされているのですから、それほど堕落していないことを意味します。アウグスティヌスは「神の国」の中で昔の生き物は巨大だったと言っていますが、バッタなどは死ぬようになったことを除けば身体のサイズが小さくなるぐらいにしか堕落していないと思われます。バッタがよく大量発生して作物を食い荒らすのは、神がただ呪いとしてバッタを用いておられるだけに過ぎませんから、バッタそのものが堕落していることの表われではありません。神がカナン人への呪いのため聖なる民ユダヤを死刑執行人として動員されたのと一緒です。

【11:24~25】
『次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのものの死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、これらのどの死体を運ぶ者もみな、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。』
 ここまで挙げられた汚れた動物は汚れていますから、その死体に触れるだけでも汚されてしまいます。その人は『夕方まで汚れる』のですが、夕方を過ぎれば自然と汚れから清くなります。ですから、汚れた動物に触れて汚されたからというので、犠牲獣を捧げて贖わなければいけないということはありませんでした。しかし、動物により汚れた人は『その衣服を洗わなければな』りませんでした。これはその衣服から汚れを取り除くためです。

【11:26~28】
『ひづめが分かれてはいるが、それが完全に割れていないか、あるいは反芻しない動物、これらすべてはあなたがたには、汚れたものである。これらに触れる者はみな汚れる。また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。これらの死体を運ぶ者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには、汚れたものである。』
 陸上生物および昆虫のうち汚れている生き物について、それを忌避すべきであると再び語られています。聖なる民が汚れを受けてはいけないからです。ユダヤ人は、このような規定を通じて、より聖く敬虔に歩める訓練を与えられていたのです。

【11:29~38】
『地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。』
 『地に群生するもの』で汚れた動物が挙げられています。『わに』は人に馴れることがありません。ワニも最初は人間に親しく服従していたはずです(創世記1:26、28)。しかし、極度の堕落により人間に服従しなくなったということなのでしょう。それゆえ、ワニは汚れた動物とされています。『もぐら』は目があるのに視力はほとんどありません。最初は視力があったのに堕落のゆえ使い物にならくなったということだと思われます。神が造られた動物は非常に良かったのですから(創世記1:31)、どうしてモグラが最初から見えない目を持っていたということがあるでしょうか。ですから、モグラもその酷い堕落のゆえ汚れているとされます。『とびねずみ』も汚れています。鼠は不潔であり伝染病などの原因にもなりますから、汚れているとされていても違和感は全くありません。『カメレオン』も堕落が著しいので汚れているとされます。あの醜い外観が堕落の度合いをよく示しています。この箇所では『とかげ』や『やもり』も挙げられています。これが汚れた動物とされているのを意外に思う人もいるかもしれません。しかし、この動物も著しく堕落した末の形態だということです。恐らく堕落する前のトカゲやヤモリは非常に巨大だったと推測されます。

 汚れた動物の死体が触れた物は、何でも汚れが伝染してしまいます。聖なる物に触れた物が聖になるのと同じ原理です(出エジプト記30:29)。汚れた動物の死体が触れた『木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器』は水に入れて、清くなる夕方まで待たねばなりません。夕方になるとそれは汚れから清められます。それらは汚れたからといって、捨てたり、焼いたり、破壊したりする必要がありません。ただ夕方になるまでは使うことができません。

 しかし、汚れた動物の触れたのが土の器や炉といった焼いて作られた物だった場合は、それを破壊しなければいけません。それがいかに高価であっても、です。サウルのような者であれば、例えば黄金の器であれば汚れたからといって破壊するのを躊躇するかもしれません。何故なら、それは高価だからです。しかし、神の御言葉に従うことこそ真の黄金です。サウルのような者はこれを知りません。詩篇ではこう書かれています。『あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』(119:72)貪欲の徒よ、砕くべきは汚れた器である。どうして神の言葉を砕くのか。

 また、汚れた動物の死体が『泉、あるいは水のたまっている水ため』に触れた場合、その水は汚されません。何故なら、水とは清める要素だからです。『蒔こうとしている種』に触れても、種は汚されません。何故なら、その種はまだ使われておらず言わば隠されているからです。これは、ある商品が入っている未開封の箱にゴキブリが這いずり回るのと似ています。ゴキブリが箱の上を歩いても、開封されていませんから売り物として店に置き続けることができます。しかし、種が蒔かれて水もかけられていた場合は、汚れた動物の死体が触れたなら種は汚されます(38節)。何故なら、その種は既に使われているからです。これは、ある食品に危険な害虫が付いた場合と似ています。その食品を食べれば害虫のせいで食中毒や伝染病に陥りかねませんから、捨てねばなりません。その食品がまだ未開封の状態であれば捨てなくても大丈夫だったのです。既に蒔かれた種に汚れた死体が触れた場合もこれと同じです。

【11:39~40】
『あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。その死体のいくらかでも食べる者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。』
 食用として飼っている動物が死んだ場合、その死体に触れても、それを食べても、処理するため運んでも、汚れてしまいます。その動物は『食用として飼っている』のですから、つまり清い動物です。清い動物でなければユダヤ人は食用として飼ってはならないからです。このように清い動物でも死んだならば汚れをもたらす存在となります。

【11:41~43】
『また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。地に群生するもののうち、腹ではうもの、また四つ足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれもあなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。』
 地に群生する動物の多くは汚れています。つまり、堕落の影響を強く受けて非常に堕落しています。『腹ではうもの』とは蛇やミミズなどを指します。『四つ足で歩くもの』とは既にレビ記11:20~23の箇所で見ましたが、蟻やカエルなどもそうです。『多くの足のあるもの』とはムカデなどがそうです。これらはどれも今でもほとんど食べられることがありません。それは堕落の度合いが強いからです。しかし、今の時代において、それらを食べること自体は全く問題なくなりました。神もペテロに対してそのような生き物を食べよと言われました(使徒の働き9:12~13)。ですから、食べたいのであればムカデでもミミズでも何でも自由に食べたらよいのです。もちろん、常識的に考えて毒とか食べ方に注意すべき場合は注意せねばなりません。もっとも、地に群生する生き物の大半は、多くの人にとってあまり食べたいと思えるような生き物ではありませんが。

【11:44~45】
『わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」』
 どうしてユダヤ人が自分自身を汚してはいけなかったかといえば、それは聖なる神がユダヤ人の父だったからです。良き子は良き父に似ているべきでしょう。ユダヤ人は聖なる神の子でしたから、神に倣って聖であるべきだったのです。聖なる神の子らが汚れに染まって歩んでしまう。これはあってはならないことです。なお、ここで神が『あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。』と言っておられるのは、ペテロがⅠペテロ1:16の箇所で引用しています。

 この箇所では、神が聖であるから聖でなければならないと2回も命じられています。この繰り返しは命令の重要さを示しています。

【11:46~47】
『以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。』
 ここまで清い動物と汚れた動物の区別が規定されました。これは申命記14:3~21の箇所でも再び規定されています。再び申命記でも告げられるのは、この規定が重要だからです。2つの箇所で同様の事柄が言われていれば、それだけ目に触れる機会も多くなりますから、より効果的なのです。もし1か所にしか書かれていなければ、2か所に書かれている場合と比べ、目に触れる確率が低くなりますから、それだけユダヤ人に認識されにくくなってしまいます。この規定は非常に重要でしたから、よくユダヤ人に認識されねばなりませんでした。

 古代ユダヤには、汚れた場合に身を清めるための場所が所々に備えられていました。エルサレムのオリーブ山にもそのような場所がありました。古代のユダヤ人は、汚れた場合にはそこへ行き、水でその身を洗っていたのです。

 ところで、ここまで様々な動物における清さと汚れの区別が規定されましたが、犬や猫、また馬はどうなっているのでしょうか。これらの動物における清さと汚れが気になる人もいるかもしれません。まず犬や猫は明らかに愛玩動物として創造されています。ですから、犬や猫を屠ったり食べたりするという前提で聖書は語っていません。また馬は古代のバイクです。この馬もやはり殺して犠牲にしたり食べたりするという前提が聖書にはありません。このため、犬や猫、馬は規定の中で名前さえ挙げられていないのです。では、ペットとして飼う人も少なくないハムスターはどうでしょうか。これは鼠の類ですから汚れています。象はどうでしょうか。象は反芻しません。ですから汚れた動物に分類されます。イルカはどうでしょうか。イルカには鱗がありませんから、汚れているとされます。イルカが汚れていると聞くと驚く人もいるかもしれませんが、イルカは古代人が言っているように「海の王者」であり、海におけるナンバー1の殺獣動物なのですから汚れているとされても不思議ではありません。このイルカにはあのワニさえも殺されてしまうのです。イルカは人間にフレンドリーなので、私たちはあまり他の水中生物に対してイルカがどのような存在であるか考えられないのです。多くの水中生物にとってイルカは恐るべき殺戮ハンター以外ではありません。サルはどうでしょうか。サルは群生する四つ足の動物ですから汚れています(レビ記11:42)。つまり、大いに堕落しているので汚れているとされています。大いに堕落していなければ、あそこまで馬鹿ではなかったでしょう。

【12:1~5】
『それから、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。―八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。―その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所にはいってもならない。もし、女の子を産めば、月のさわりのときと同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない。』
 ユダヤ人の女は、子を産んだ時にも汚れを得ました。これは堕落した人間が堕落した人間を産んだからです。ダビデはこう言っています。『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。』(詩篇51:5)それゆえ、出産の際には清らかなままでいることができませんでした。もし人間が堕落していなければ、子を産んでも汚れることはなかったでしょう。その場合は、堕落していない人間が堕落していない人間を産むのだからです。産まれた子どもが男でも女でも、母は汚れます。何故なら、男の子も女の子も堕落しており原罪を持っているからです。ただ男の子と女の子では、母が汚れる期間と血の清めの期間が異なります。また、汚れてしまうのは子を産んだ時だけです。妊娠しただけでは汚れを得ません。

 男の子が産まれたならば母は『七日の間』汚れてしまいます。その間は『月のさわりの不浄の期間のように、汚れ』ますから、秘事ができません。何故なら、月の時には秘事が禁止されているからです(レビ記18:19)。この期間が『7日』なのは、十分なだけ汚れることを示します。八日目になれば男の子には割礼を施さねばなりません(3節)。割礼の実施は8日より前でも後でもいけません。そして八日目から『三十三日間』は清めの期間となります。その間は聖なる物と聖所から遠ざからなければいけませんでした。この「33」(日間)という数字は、実際の期間を示していますが、清めることを示す象徴数としての意味もあります。永遠の贖いを成し遂げられるために来られた救い主イエス・キリストの地上における生涯も、やはり「33」年間でした。つまり、これは33年の地上における生涯で永遠の清めを実現されたということなのです。

 女の子が産まれた場合は、汚れる期間も清めの期間も、男の子の場合の2倍となります。このように聖書は女よりも男のほうを上に位置付けています。それは男が先に造られてから女が造られたからです(Ⅰテモテ2:13)。また男は惑わされなかったのに女は惑わされて罪を犯したからです(Ⅰテモテ2:14)。このようなことを聞くと、現代人の多くは、自分たちの持つ性思想がロックフェラーやその他の陰謀家により形成づけられているということさえ気付いていないので、性差別だなどと言って反発するかもしれません。しかし、私は言いますが、このように反発する人がいれば、まずは世の中のことを少しでも調べてからでないと何も言う資格さえないということを知るべきです。そのように調べる労を取りたくないというのであれば、自然を考えるだけでも十分だと私は思います。現代の日本や米国では女性のリーダーを増やそうと試みています。しかし女の多くは支配者になることを望んでいません。また、アインシュタインも言ったように、女には自然の制限があります。ですから女は成功しそうになると自分を抑制したり退避したりする傾向を持つのです。また、女は女をリードできない弱々しい草食男を軽蔑します。女にリードを任せるような男がいれば吐き気を催す人もいるぐらいです。また、女が男のために自分を抑えて静かにしている姿を見たことのない人はいないはずです。女が男に率直に何かを言えないので、何らかのシグナルを送るという場合は多くあるものです。女性アーティストの歌詞には「気付いてほしい」という言葉がよくありますが、男性アーティストの歌詞にはほとんど見られません。こういった自然を考えれば、今の世界に満ちている行き過ぎたフェミニズム思想が狂気の沙汰であるということは明らかです。有名な映画監督のアーロン・ルッソによれば、フェミニズムはロックフェラーが自分たちで仕掛けたと言っていたようです。ですから、聖書で男のほうが上に位置付けられていることを異常だと思うべきではありません。異常なのは現代の性思想のほうなのです。女に支配されたりリードされたりするのが好きな人は、何とでも好きなように思っていればよいのです。