【レビ記12:6~18:11】(2021/11/28)


【12:6~8】
『彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」』
 清めの期間である33日もしくは66日が過ぎたならば、母は全焼の生贄と罪のための生贄を捧げねばなりませんでした。全焼の生贄は神を宥めるためであり、罪のための生贄は汚れを贖うためです。これは聖なる物に対する罪により得た汚れではありませんから、「罪過のための生贄」ではなく「罪のための生贄」となります。8節目で書かれている通り、もし貧しくて全焼の生贄のために羊を用意できなければ、鳩で代替させることもできます。貧しい者を憐れめと命じられた神は貧しい者に憐れみ深いのです。今となっては、もう子を産んで汚れるということはありません。ですから、キリストを信じるプロテスタントの姉妹は、子を産むと汚れると書かれているこの箇所を読んで、不安になったりする必要がありません。むしろ、子が産まれたことを喜び、神に感謝していればそれで良いのです。何故なら、キリストが来られたことにより、このような規定は廃止されたからです。

【13:1~8】
『ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患者を七日間隔離する。祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目に、そのままに見え、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をさらに七日間隔離する。祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。もし、その者が祭司のところに現われ、きよいと宣言されて後、かさぶたが皮膚に広がってきたなら、再び祭司にその身を見せる。祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはらい病である。』
 らい病に関する規定がここから書かれています。らい病は古代ユダヤ人の間では珍しくない病でした。キリストの時代にもユダヤにはらい病の患者が多くいました。これは恐ろしい病であり、皮膚に穴が開いて中が見えるようになり、最後は死に至ります。これは日本では稀ですが、今でも完全に消えた病だというわけではありません。

 祭司たちは、この病を調べる任務を持っていました。医者ではなく祭司がらい病を調べました。ですから、祭司は事実上医者でもあったわけです。らい病は僅かながらも感染力を持っていますから、祭司は全く安全な任務をしていたというわけではありませんでした。

 らい病かどうか調べるやり方は次の通りです。まず、らい病であると疑われる人を、祭司のもとに連れて行きます(2節)。ここでは第三者がらい病であると思われる人を連れて行くと言われていますが、当然ながららい病であるかもしれない人が自分自身で祭司のもとへ行くこともできました。皮膚の患部に生えている毛が白くなり、皮膚よりも患部が深くなっていればらい病と認定されます。その人は汚れていると宣言されます(3節)。何故なら、らい病は神の聖に全く適合していないからです。患部が皮膚より深くなっていなければ7日待ち、更に7日待ってもそのままであれば、もう7日待ちます。それでも患部がそのままであれば、その患部はただのかさぶたであり、その人はらい病ではありません。この時に『7日』待つのは、十分なだけ待たねばならないからです。しかし一旦はらい病でないと分かってから、再びかさぶたが皮膚に広まったならば、もう一度祭司のもとへ行き、らい病であると認定されます。その人は汚れていないと思われていたのですが、皮膚の状態が変化したので汚れを得てしまいました。

【13:9~17】
『らい病の患部が人にあるときは、その人を祭司のところに連れて来る。祭司が調べて、もし皮膚に白いはれものがあり、その毛も白く変わり、はれものに生肉が盛り上がっているなら、これは、そのからだの皮膚にある慢性のらい病である。祭司は彼を汚れていると宣言する。しかし祭司は彼を隔離する必要はない。彼はすでに汚れているのだから。もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。しかし生肉が彼に現われるときは、彼は汚れる。祭司はその生肉を調べて、彼を汚れていると宣言する。その生肉は汚れている。それはらい病である。しかし、もしその生肉が再び白く変われば、彼は祭司のところに行く。祭司は彼を調べる。もしその患部が白く変わっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。彼はきよい。』
 前とは別の場合の調べ方が規定されています。皮膚に患部があって、そこの毛が白く生肉も盛り上がっているならば、らい病に認定されます。前の箇所では、患部が皮膚より深くなっていた場合についてでしたが、今度は生肉の盛り上がりについての場合です。もし生肉が盛り上がっているならば、『隔離』の必要はありません(11節)。何故なら隔離するのは、らい病であるかどうか確定させるためだからです。生肉が盛り上がっていれば、もうその時点でらい病は確定されます。

 しかし、吹き出物が身体の全体に広まったならば、らい病の認定が取り消されます(12~13節)。吹き出物が全身を覆ったのに清いとされることについて、驚く人もいるかもしれません。しかし、らい病の場合は、吹き出物が身体を覆って白くなることこそ回復の徴なのです。

 しかし、また生肉が盛り上がるならばらい病となります。状態が悪くなったからです。しかし、それからまた吹き出物が出て白く変わったならばらい病ではなくなります。状態が良くなったからです。要するに、らい病であるかないかは生肉と吹き出物により判定されます。これは気持ちの良い仕事ではありませんが、祭司はしっかりと調査しなければなりませんでした。

【13:18~23】
『また、人のからだの皮膚に腫物ができ、それがいやされたとき、その腫物の局所に白色のはれもの、また赤みがかかった白い光る斑点があれば、祭司に見せる。祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも低く見え、そこの毛が白く変わっていたなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはその腫物に吹き出たらい病の患部である。もし祭司がこれを調べて、そこに白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司はその者を七日間隔離する。もしそれが一段と皮膚に広がってくれば、祭司はこの者を汚れていると宣言する。これは患部である。もしその光る斑点がもとのままであり、広がっていなければ、それはただ、できもののあとである。祭司は彼をきよいと宣言する。』
 腫物が出来てから残った腫れ物や斑点が皮膚よりも深く、そこから出ている毛が白ければ、らい病が確定されます。しかし、もしそこが深くなっておらず、白い毛も生えていなければ、7日間隔離してから調査します。その時に状態が悪くなっていればらい病であり、状態が変わっていなければただの痕に過ぎません。

【13:24~28】
『あるいは、人のからだの皮膚にやけどがあって、そのやけどの生肉が赤みがかった白色、または白色の光る斑点であれば、祭司はこれを調べる。もし光る斑点の上の毛が白く変わり、それが皮膚よりも深く見えるなら、これはやけどに出て来たらい病である。祭司はこの者を汚れていると宣言する。それはらい病の患部である。祭司がこれを調べて、その光る斑点に白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司はその者を七日間隔離する。それから七日目に祭司が彼を調べる。もしそれが一段と皮膚に広がっていれば、祭司はこの者を汚れていると宣言する。これはらい病の患部である。もしその光る斑点がもとのままであり、その皮膚に広がっておらず、それが薄れているなら、それはやけどによるはれものである。祭司は彼をきよいと宣言する。これはやけどのあとであるから。』
 今度は火傷の場合にらい病かどうか調べる方法ですが、これは前の箇所で書かれていた腫物が癒された時の場合と内容的にほとんど変わりません。

【13:29~37】
『男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのらい病である。祭司がかいせんの患部を調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患者を七日間隔離する。七日目に祭司は患部を調べる。もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とす。ただし、そのかいせんをそり落としてはならない。祭司はそのかいせんの人を、さらに七日間隔離する。七日目に祭司がそのかいせんを調べる。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。しかし、彼がきよいと宣言されて後に、もしも、そのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はない。彼は汚れている。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する。』
 頭か髭に深い患部があり、そこから黄色い毛が生えているならば、それはらい病です。しかし、その患部が深くなっていなければ7日後にまた調査します。それでも状態が変わらなければ、今度は毛をそり落として7日間待ちます。それでも状態が変わらなければらい病ではないのです。しかし、それから後になって患部が広がったならばらい病と認定されます。

 ところで、隔離されている7日の間にらい病であるかないかが確実に分かってしまったら、どうするのでしょうか。聖書は、そもそも7日の隔離期間に調べることを想定していません。規定は7日目に調べるということです。これには「7」日という日数を通して、ユダヤ人が完全さや充分さといった概念を学ぶという意味もあったはずです。ですから、誰かが隔離されている期間、例えば3日目とか4日目にらい病であるかないか疑うことができないほど確実に知ってしまったとしても、黙っておくべきだったでしょう。何故なら、神は7日目に当該人物を調べよと言っておられるからです。神は意味もなく「7」日目に調べよと言われたのではありません。

【13:38~39】
『男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、祭司はこれを調べる。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹である。その者はきよい。』
 皮膚に光る斑点が生じても、淡い白色であれば、らい病ではありません。これは私たち日本人にも寒い時期であれば、肌の酷い乾燥により生じ得ます。しかし、その時に一体誰が「これはらい病だ!」などと言うでしょうか。誰もそんなことは言いません。それはただの湿疹に過ぎないのですから。

【13:40~41】
『男の頭の毛が抜けても、それははげであって、その者はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげであって、その者はきよい。』
 禿は、昔から今に至るまで悪く言われることが少なくありません。エリシャもその禿を子どもたちに馬鹿にされました(Ⅱ列王記2:23)。これは、あるべきものがあるべき場所にないからです。しかし、禿であっても汚れとはなりませんでした。禿げたとしても清さは損なわれないのです。人間が禿についてどう思うかはまた別の話です。ですから、ユダヤ人は禿げているからといって霊的に心配する必要がありませんでした。これはもちろん女性の禿でも同じことです。今では女性でも禿げている人がいますが、昔は女性で禿げている人などほとんどいなかったので、ここでは男性の禿についてしか言われていないのです。ところで、ある人は禿は権威を示すと言っていましたが、私の知る限りこの言葉に聖書的根拠はありません。実際、このように言った人は根拠聖句を一切挙げていませんでした。白髪が権威を示すということであれば、聖書から根拠を示せます。白髪の老人の前では起立すべきだと命じられているからです(レビ記19:32)。また聖書は神の頭を白髪として書いているからです(ダニエル書7:9、黙示録1:14)。このように白髪であれば権威の象徴だと聖書から示せますが、白髪がそうだからというので、禿まで権威を示すと考えることはできません。これは誤謬推理です。J・S・ミルの「論理学体系」を読んで下さい。もし禿が権威を示しているとすれば、聖書は神を禿として示していたかもしれません。しかし、先に挙げたダニエル書や黙示録の箇所がそうですが、聖書は神を白髪として示すことしかしていないのです。ですから、禿まで権威を示すと考えることはできません。私たちの考えにおける基準は聖書であって理性による個人勝手な考えではありません。

【13:42~44】
『もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たらい病である。祭司は彼を調べる。もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるらい病に見られるような赤みがかった白色であれば、その者はらい病人であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。』
 もし禿げている部分に患部があれば、らい病に認定されます。これは禿げている部分にある患部が汚れているのであって、禿が汚れているのではないという点に注意せねばなりません。

【13:45~46】
『患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている。汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。』
 らい病人は、自分がらい病で汚れていることを示さねばなりません。それは人々が汚れを避けられるようにするためです。もしらい病であることを隠していれば、周りの人がその人を避けられなくなってしまいます。その人が『自分の衣服を引き裂』くのは、汚れにより心が引き裂かれていることを示すためです。『髪の毛を乱』すのは、汚れにより心が乱れていることを示すためです。『口ひげをおお』うのは、恥じていることを示すユダヤ人の仕草です(ミカ3:7)。口髭のない女性はこのようにしなくてもよかったと思われます、というよりしたくてもできません。らい病人が『汚れている。汚れている。』と繰り返して叫ぶのは大いに汚れていることを示さねばならないからです。しかし、自分からこのように示そうとしなかったらい病人のユダヤ人もいたのではないか、と思う人がいるかもしれません。もしそういう人がいたとしても、いずれらい病人であることがばれてしまったはずです。そうすれば結局、人々にらい病であることが知られるようになるのです。

 らい病の患者は、宿営の外に住まねばなりませんでした。それは、聖なる宿営を汚さないためです(民数記5:2~3)。しかし、宿営の外に住んだとしても、イスラエルの民から断ち切られるというわけではありませんでした。その人はあくまでもイスラエルの一員です。ですから、らい病が消えたら再び宿営に住めるようになります。このようにらい病人が宿営から追い出されるのは差別ではありません。それはイスラエルに霊的であれ健康的であれ汚れをもたらさないためなのです。ちょうど今の世界で、コロナウィルスの感染者を、それ以上感染者が増えないために隔離するのと同じです。

【13:47~59】
『衣服にらい病の患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどのような革製品でも、それはらい病の患部である。それを祭司に見せる。祭司はその患部を調べる。そして患部のある物を七日間隔離する。七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のらい病で、それは汚れている。羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、患部のある物は焼く。これは悪性のらい病であるから、火で焼かなければならない。もし、祭司が調べて、その患部が衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離する。祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べる。もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れている。それは火で焼かなければならない。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食である。祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現われたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もし患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。」以上は、羊毛あるいは亜麻布の衣服、織物、編物、あるいはすべての皮製品のらい病の患部についてのおしえであり、それをきよい、あるいは汚れている、と宣言するためである。』
 らい病は衣服にも移りました。今となっては、これはらい病菌が衣服に移ったと分かります。らい病に汚染された衣服は、まず7日間隔離します。そして7日目に患部が広まっていれば、それは汚れていますから焼かなければなりません。しかし、7日経っても患部がそのままであれば、洗ってからもう7日隔離します。そしてそれでも患部の状態が変わっていなければ、それは汚れていますから焼かなければなりません。しかし、患部が小さくなっていればその患部を切り取り、切り取らなかった部分を洗えば再び使うことができます。これはバッグやタオルなど衣服以外の物でも同じことです。また、らい病の移った物は、それがいかに高価な物であっても焼かねばなりませんでした。このようなことをするのは難儀だったかもしれません。しかし、汚れを取り除くことにより、イスラエルを汚れから守るためにはどうしても行なわなければなりませんでした。

 これらの規定は祭儀律法ですから、もう今となっては廃止されています。ですから現代においてらい病にかかった人は、祭司のところに行かなくてもよくなりました。新約時代の祭司とはキリスト者のことです。その人は医者のところに行けばよいのです。

【14:1~9】
『ついで主はモーセに仰せられた。「らい病人がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。その者を祭司のところに連れて来る。祭司は宿営の外に出て行き、調べて、もしらい病人のらい病の患部がいやされているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。祭司は、土の器を入れた湧き水の上で、その小鳥のうち一羽をほふるよう命じる。生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。それを、らい病からきよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営にはいることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とす。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、水をそのからだに浴びる。その者はきよい。』
 らい病から清められる時の規定です。祭司はまずらい病人のいる宿営の外に行き、患者のらい病が癒されているかどうか調べます。もし癒されていたら『二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプ』を用意させます。そして、土の器に入った湧き水の上で、二羽のうち一羽を屠ります。この湧き水は清められることを象徴しています。そして、もう一方の生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプと一緒にして、先に屠られた小鳥の血に浸します。これは生きている鳥が犠牲の血に浸されることで、らい病人が清められることを示しています。鳥と一緒に浸される3つの物も清めを示しています。そうしたら、屠られた小鳥の血を『七たび』当該人物の上に振りかけます。これは汚れから清められることを示すためです。7回振りかけられるのは、7が清さを意味しているからです。その後、生きている小鳥を野に放します。これは放された小鳥により、らい病人だった人が汚れから自由になることを示しています。その小鳥が自由にされたように、その人も宿営のうちを自由に行き来できるようになったのです。そうしたならば、その者は衣服を洗って、毛をそり落とし、水を浴びてから、もう七日間待ちます。そして七日経過してから再び毛を剃って洗浄すれば、やっと宿営に入れるようになります。これらの儀式は実に象徴的です。

【14:10~20】
『八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを主の前、会見の天幕の入口の所に置く。祭司はその雄の子羊一頭を取り、それを油一ログといっしょにささげて罪過のためのいけにえとし、それを奉献物として主に向かって揺り動かす。罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらにそそぐ。祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかける。祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭に塗り、祭司は主の前で彼のために贖いをする。祭司は罪のためのいけにえをささげ、汚れからきよめられる者のために贖いをする。そのあとで全焼のいけにえがほふられなければならない。祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。』
 八日目になったら贖いの儀式を行なわなければなりません。これが「8」日目なのは、汚れから清められて新しくなることを示すためです。生後8日目に行なわれる幼児割礼もそうですが、「8」は聖書において新しくされることを意味するからです。まず、清められる者は『傷のない子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログ』を用意します。そうしたら、2頭の雄の子羊のうち一頭を罪過のための生贄として捧げます。これは聖なる神の御前に対して汚れを得たからです。この罪過のための生贄は祭司の分け前となりますから、祭司はそれを奉献物として揺り動かさねばなりません。そして、祭司はその屠られた子羊の血を、清められる者の『右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指』に塗ります。これが右側であるのは、その人が本質的に贖われることを示しているのでしょう。何故なら、昔から今に至るまで人間の多くは右側を左側よりも優越させているからです。私が言っているのは右利きのことです。その後、祭司は油を『七たび』主の御前で振りかけます。そしてその残りの油を清められる者の右側部分と頭に塗りつけます。この油はその者が清められることを示しています。油が7度振りかけられるのも、やはり清めを示しています。「7」日目は聖なる安息の清い日だったからです。それから、雄の子羊一頭および雌の子羊一頭により罪のための生贄と全焼の生贄を捧げます。ここにおいてらい病からの清めが完了します。

【14:21~32】
『その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。八日目に、その者のきよめのために、それらを主の前、すなわち会見の天幕の入口の祭司のところに持って来る。祭司はその罪過のためのいけにえの子羊と油一ログを取って、これを奉献物として主に向かって揺り動かし、罪過のためのいけにえの子羊をほふる。祭司はその罪過のためのいけにえの血を取って、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。祭司はその油を自分の左の手のひらにそそぐ。祭司は右手の指で、左の手のひらにある油を、主の前に七たび振りかける。祭司はその手のひらにある油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち罪過のためのいけにえの血と同じところにつける。祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭の上に塗り、主の前で彼のために贖いをする。その者は、手に入れることのできた山鳩か、家鳩のひなのうちから一羽をささげる。すなわち、手に入れることのできたもののうち、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとして、穀物のささげ物に添えてささげる。祭司は主の前で、きよめられる者のために贖いをする。」以上は、らい病の患部のある者で、きよめに要するものを手に入れることのできない者のためのおしえである。』
 神は憐み深い御方ですから、貧しい人のためには犠牲として捧げる動物の基準を引き下げて下さいます。すなわち、貧しい人は、2頭の子羊を2羽の鳥で代替させることができます。鳥のほうが子羊よりも容易に入手できるからです。しかし、もし神が憐れみ深い御方であればどうして貧しい人には生贄の儀式そのものを免除されないのか、と思う人がいるかもしれません。神が憐れみ深い御方だからといって、生贄の儀式まで免除されるということはありえません。何故なら、儀式における生贄はキリストの犠牲を象徴するからです。もし貧しい人に生贄の儀式が免除されたとすれば、その人はキリストの象徴である生贄を捧げないのですから、キリストを持たないことになります。つまり、贖いがないので地獄に行きます。このようになるのであれば、それこそ神が憐れみ深くないということになります。しかし、貧しい人が子羊の代わりに鳥を捧げても、贖いの効果は普通の人と変わりません。何故なら、鳥も子羊と同様にキリストの犠牲を象徴しているからです。

 この箇所における規定は、先に書かれていた普通の人における規定と、ほとんど変わることがありません。それなのに、聖書は前とほとんど同じ内容の規定を省略せずに書いています。これは、聖書が文学作品ではなく契約の民に与えられた契約の書だからです。ですから、先の箇所で規定されていたのとほとんど同じ内容の規定が、ここでもしっかりと書かれているわけです。

【14:33~42】
『ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「わたしがあなたがたに所有地として与えるカナンの地に、あなたがたがはいり、わたしがその所有地にある家にらい病の患部を生じさせ、その家の所有者が来て、祭司に『私の家に患部のようなものが現われました。』と言って、報告するときは、祭司はその患部を調べにはいる前に、その家をあけるよう命じる。これはすべて家にあるものが汚れることのないためである。その後に、祭司はその家を調べにはいる。その患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかったか、または赤みを帯びたくぼみであって、その壁よりも低く見えるならば、祭司はその家から入口に出て来て、七日間その家を閉ざしておく。七日目に祭司がまた来て、調べ、もしその患部がその家の壁に広がっているなら、祭司は患部のある石を取り出し、それらを町の外の汚れた場所に投げ捨てるよう命じる。またその家の内側の回りを削り落とさせ、その削り落とした土は町の外の汚れた場所に捨てる。人々は別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の土を取って、その家を塗り直す。』
 イスラエル人がカナンに入植して後、神がイスラエル人の家にらい病の患部を生じさせられた場合の規定。神は御自身の民の家にらい病の患部を生じさせられます。それは、試練の場合もあれば、裁きの場合もあるでしょうし、神の栄光のためである場合も御計画のために必要な出来事としての場合もあるはずです。神は全てを御心のままになさいます。家にらい病が生じた時も、やはり祭司がそれを調べます。まず祭司は家を調べる前に、その家の扉や窓を開けさせます。これは空気がこもることでらい病が家にある物に広まらないためです。もしらい病の患部が家の中だけでなく外側にまで浸食していたなら、その家を閉ざして7日間待ちます。7日後に調べてらい病が広がったままであれば、らい病で汚染されている石や部位を除いたり削ったりして捨てた後、補修して前と同じような状態に戻します。この時に処理すべき場所は汚染された場所だけでよいのですが、汚染された場所は徹底的に処理せねばなりませんでした。

【14:43~45】
『もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再び患部が家にできたなら、祭司は、はいって来て調べ、そして、もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のらい病であって、その家は汚れている。その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。』
 家を補修した後でらい病の患部が再発していたならば、それは『悪性のらい病』です。つまり、らい病がその家を根本的に汚染しています。ですから、その家は汚れているので破壊されなければなりません。それはイスラエルから汚れを取り除くためです。たとえ、それがいかに高価な家であっても、どれだけ思い入れのある家であっても、です。何故なら、聖なる民は聖くあることを富や価値、また情よりも優先させねばならないからです。主が『あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。』(レビ記11章45節)と命じられた通りです。そのようにして破壊した家の残骸は、汚れた場所に捨てねばなりません。欲に目が眩んだからというので、その残骸の幾らかを残しておいたなどということはいけませんでした。

【14:46~47】
『その家が閉ざされている期間中にその家にはいる者は、夕方まで汚れる。その家で寝る者は、その衣服を洗わなければならない。その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければならない。』
 7日後に調べるため家を閉ざしている間に家に入るならば(レビ記14:38)、汚れを得てしまいます。封鎖中のその家で寝たり食事をしたりする者も、汚れを得ます。これはその家がらい病に犯されているうちにあって閉じられているからです。つまり、その家にいる者はらい病と一体になってしまうわけです。

【14:48~53】
『祭司がはいって来て調べて、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家はきよいと宣言する。なぜなら、その患部が直ったからである。祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふる。杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかける。祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、その生きている小鳥を町の外の野に放つ。こうして、その家のために贖いをする。その家はきよい。」』
 家を補修してからも再発が起こらなければ、その家は清くなりました。何故なら、もはやらい病が消え去ったからです。その家を壊す必要はもうありません。らい病が消え去ったのに壊すというのはおかしな話だからです。その後、その家のために贖いの儀式をしますが、これは先に見たらい病人の贖いとほとんど変わるところがありません。ただらい病人が八日目に行なった子羊を捧げる儀式は(レビ記14:10~20)、家の場合、ありません。

【14:54~57】
『以上は、らい病のあらゆる患部、かいせん、衣服と家のらい病、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これが、らい病についてのおしえである。』
 このようにしてらい病に関する規定が告げられました。この規定から、神がどれだけ汚れを忌避しておられるか分かります。神は聖なる御方ですから、汚れを忌避しないでおられることはありません。らい病に関する規定は既に廃止されたものの、聖なる神は今でも汚れを忌避しておられます。これからもそうです。何故なら、神は変わることがない存在だからです。そのような神の聖徒である者たちは、神が汚れを忌避しておられるように、汚れを忌避せねばならないのです。

【15:1~12】
『ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。だれでも、隠しどころに漏出がある場合、その漏出物は汚れている。その漏出物による汚れは次のとおりである。すなわち、隠しどころが漏出物を漏らしても、あるいは隠しどころが漏出物を留めていても、その者には汚れがある。漏出を病む人の寝る床は、すべて汚れる。またその者がすわる物もみな汚れる。また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。また漏出を病む人がすわった物の上にすわる者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者も、自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。また、漏出を病む者が、きよい人につばきをかけるなら、その人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。また、漏出を病む者が乗った鞍はみな汚れる。また、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらの物を運ぶ者も、自分の衣服を洗わなければならない。水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。また、漏出を病む者が、水でその手を洗わずに、だれかにさわるなら、さわられた人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。また、漏出を病む者がさわった土の器はこわされなければならない。木の器はみな、水で洗われなければならない。』
 漏出についての聖なる規定。これは下腹部から何か良からぬ液体が不随意に多かれ少なかれ流れ出ている場合のことです。

 まず下腹部から出ている漏出の液体は、それ自体において汚れています。ですから、そのような汚らわしい液体を漏出しているその人も汚れています。また、漏出者が触れた物体は何であれ汚れが移るので汚れてしまいます。漏出者でない別の誰かが、漏出者により汚された物体に触れたら、汚れが移って汚されてしまいます。また、漏出者の下腹部に触れた人や、漏出者から唾をかけられた人も、汚されてしまいます。漏出者の洗わない手で触られた人も汚されます。更に、漏出者が触れた土の器は壊され、木の器は洗浄されねばなりません。要するに漏出者とは非常に感染力の強い細菌であるかのようでした。

【15:13~15】
『漏出を病む者がその漏出からきよくなるときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びる。彼はきよい。八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。彼は主の前、会見の天幕の入口の所に来て、それを祭司に渡す。祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。』
 漏出者が清められる際は、まず漏出が止まってから7日目に衣服と身体を洗浄し、8日目に二羽の鳥で罪のための生贄および全焼の生贄を捧げねばなりません。この儀式は、当然ながら漏出が止んでから行なわれます。漏出が続いている間はずっと汚れていますから、贖いの儀式をしようにもできないからです。もしまだ漏出が続いているならば、その人は漏出が止むまで儀式を待たねばなりませんでした。

 では、もし漏出をずっと病んでいた場合はどうなるのでしょうか。この場合、漏出がある間はずっと汚れた状態となります。1年間ずっと漏出が続いていれば、1年間ずっと汚れています。10年間でも同じことです。その人は汚れていますから同胞から避けられることになります。これは実に悲惨です。しかし、その人が漏出のため汚れているのですから仕方ありません。

【15:16~17】
『人が精を漏らしたときは、その人は全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。精のついている衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。』
 人が『精』すなわち精液を漏らしたならば、汚れます。これは例えば夢精がそうです。精を漏らした人は、全身と精液の付いた衣服や皮などを洗浄して清めねばなりません。ここでは犠牲獣を生贄として捧げよとは言われていません。ですから、精を漏らして汚れても、ただ水で清めればそれで良かったのでしょう。なお、女は精液を出しませんから、この規定は男にだけ関わる規定です。

【15:18】
『男が女と寝て交わるなら、ふたりは共に水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。』
 男が女と寝た場合も汚れを得ることになりました。これは、前の箇所に書かれていた漏出者の男が女と交接したら汚れるということではありません。そうではなく一般的な交接のことがここでは言われています。これに驚く人も少なくないかもしれません。堕落前の人間であれば、女と寝ても汚れは得ませんでした。何故なら、その時には全てが非常に良かったからです(創世記1:31)。しかし、人間は堕落して全的に汚れてしまったので、交接においても汚れを得るようになってしまいました。もっとも、この祭儀規定は今や廃止されていますから、今の時代の人間が交接しても水を浴びる必要はありません。何故なら、この律法は新約時代において影として過ぎ去るべき律法だったからです。

【15:19~27】
『女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。また、その女の月のさわりのときに使った寝床はすべて汚れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。また、その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。また、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。その女の床であっても、すわった物であっても、それにさわった者は夕方まで汚れる。また、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる。彼が寝る床もすべて汚れる。もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。』
 女に何らかの漏出がある場合について。漏出のある女は汚れています。漏出がずっと続いていればその間中ずっと汚れており、1回だけであれば漏出があってから7日間だけ汚れた状態となります。その女が寝たり座ったりした物はどれも汚れ、その汚れた物に触れた人も汚れを得てしまします。これは漏出物の放出口が寝床や椅子などに密着するからです。また、漏出女が男と交わったならば、その男は7日間漏出女のように汚れてしまいます。25節目で書かれている『長い日数にわたって血の漏出がある』女が、福音書には出てきます(マタイ9:20~22、マルコ5:25~34)。この女はキリストにより全く癒されました。このようにキリストは人間を癒して救うために来て下さったのです。

【15:28~30】
『もし女がその漏出からきよくなったときには、七日を数える。その後にその女はきよくなる。八日目には、その女は山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。祭司は一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげる。祭司は、その汚れた漏出のために、主の前でその女のために贖いをする。』
 漏出女が清くなる際に行なう儀式は、先に見た漏出の人が清くなる際に行なう儀式と変わりません(レビ記15:13~15)。ただこちらの箇所では、前の箇所とは違い、7日目に身体と衣服を洗浄することについて書かれていません。しかし、漏出女も7日目に身体と衣服を洗浄すべきだったのは明らかです。

【15:31】
『あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。」』
 もしイスラエル人が汚れたままでいれば、聖なる幕屋を汚してしまいますから、主の聖により裁かれて死にます。これは神からの正当な報いです。ですから、ここでは『イスラエル人をその汚れから離れさせ』なさいと命じられています。それはイスラエルから汚れが除去されるためです。またイスラエル人が汚れたままの状態でいることにより死なないためです。

【15:32~33】
『以上が、漏出のある者、また精を漏らして汚れた者、また月のさわりで不浄の女、また男か女で漏出のある者、あるいは汚れている女と寝る男についてのおしえである。』
 こうして漏出などに関する聖なる規定が告げられました。このような規定が告げられたのは、イスラエル人が全体であれ個人であれ汚れを避けねばならないからです。聖なる民が汚れていてはいけないのです。ですから、イスラエル人はこのような規定をしっかりと守らねばなりませんでした。

【16:1~4】
『アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。』
 アロンの2人の子が不正に火を捧げたので、父アロンが至聖所に入るための規定が告げられています。それは、アロンもあの2人のように不正なことをしないためです。まずアロンは『罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を』用意します。次に、アロンは水で身体を洗ってから亜麻布の装束を身に着けます。この正式な装束を着ることなしに、至聖所に入ることはできません。出エジプト記28:39~43の箇所から分かる通りです。

 2節目の箇所から分かる通り、至聖所に置かれている『贖いのふた』の上には雲がありました。この雲のうちに主が現われたのです。それは神秘的な光景でしたが、確かにその雲の中に主はおられました。すなわち、主はそこに強く臨在しておられました。

【16:5~10】
『彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。アロンは自分のために罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいえにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。』
 イスラエルの民は、『罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭』を自分たちで用意せねばなりません。これらは民全体の贖いのために必要なのですから、民が自分たちで用意すべきなのです。

 6~10節目までの箇所は、アロンが至聖所に入るために行なうべき全体の段取りが大まかに示されています。11節目以降では、個々の段取りでどのようにすればいいのか詳細が示されています。まずアロンは自分と家族のために雄牛で罪のための生贄を捧げねばなりません。そして民が用意した二頭の雄山羊を聖所の入口に立たせ、くじを引き、一方の雄山羊を罪のための生贄とし、もう一方の雄山羊はアザゼルとします。『アザゼル』とは、つまり民全体の罪を負って荒野へ放たれる山羊のことです。これはキリストが私たちの罪を背負って捨てられた、もしくは黄泉に下られたことを象徴しています。

【16:11~14】
『アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。』
 アロンは、自分と家族のために雄牛で罪のための生贄を捧げねばなりません。アロンはただ自分のためにだけ贖いをすればいいのではありませんでした。何故なら、アロンの家族はアロンに属しているからです。契約的に言えば、アロンの家族はアロンの部分であり、アロンの身体の細胞です。ですから、アロンが御前に出る際は、自分の部分である家族の贖いもせねばなりませんでした。また、民全体の罪のための生贄が雄山羊であるのに対しアロンは雄牛でなければいけないのは、民全体よりも大祭司であるアロンのほうがその存在と尊厳において優っているからです。民全体よりも大祭司のほうが重要性において上です。ですから、民の贖いとなる雄山羊よりも価値の高い雄牛が捧げられねばならないのです。また、アロンは香を至聖所にある箱の前にくべねばなりません。これはアロンが死なないためです。というのも、この香はキリストの犠牲における香を示しているからです(エペソ5:2)。もしアロンが香を神のおられる箱の前にくべなかったとすれば、それはキリスト抜きに神の御前に出ることです。キリストを持たないで御前に出る人は、贖いのない人ですから、神の義により裁かれて死んでしまいます。ですからアロンはキリストを示す香をくべないと死んでしまうのです(13節)。また、アロンは屠った雄牛の血を、箱の東側と前に振りかけねばなりません。箱の前に振りかけるのは、箱の前面がアロンに対して向いているからです。神のおられる箱がアロンに対して向いている以上、その辺りは贖われなばなりません。その時に『七たび』血を振りかけるのは、聖また清めの意味があります。箱の東側に血を振りかけるのは、贖い主であられるキリストを象徴する太陽が東のほうから上って来るからだと思われます。

【16:15~19】
『アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。』
 アロンは、民が用意した2頭の雄山羊のうち1頭を、民の罪のための生贄として捧げます。その屠られた血は箱の上と前に振りかけねばなりません。前に振りかける理由は既に見た通りです。アロンとその家族を贖う場合は箱の東側に血が振りかけられていたのに対し、民を贖う場合は箱の上に血が振りかけられます。箱の上に振りかけられるのは、箱を聖別するためです。また、この時には聖所そのものをことごとく贖わねばなりませんでした。それは罪人であるユダヤ人の汚れのうちに聖所があったからです(16節)。また、この時には大祭司であるアロンの他は、聖所にいる者がいてはなりませんでした。これは旧約の大祭司が真の大祭司であられるイエス・キリストの影だからです。永遠の贖いを成し遂げられた真の大祭司であられるイエス・キリストの他に、真の大祭司は存在していません。ただキリストだけが真の贖いを実現された真の大祭司であられます。ですから、そのキリストを象徴する旧約の大祭司の他は誰も聖所にいてはならなかったのです。もしこの時にアロン以外の誰かが聖所の中にいたとすれば、キリスト以外にも大祭司が存在すると示すことになってしまいます。では、もしアロンでない誰かがこの時に聖所に入ってしまった場合はどうなるのでしょうか。勝手に聖所に入ったその人は間違いなく裁かれたはずです。アロンは祭壇も贖って聖別せねばなりませんでした。要するに、この時にはもう何から何まで徹底的に聖別されねばならなかったということが分かります。

【16:20~22】
『彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。』
 聖所をことごとく聖別した後、アロンは民の用意した2頭の山羊のうち生き残っているほうをアザゼルとします。アロンは民を代表してその山羊の上に両手を置きます。これは民全体の罪をその山羊に負わせるためです。そして、山羊を荒野へと放ちます。放たれた山羊は、追跡・調査・捕獲・殺害されるべきではありません。それはもう全く放っておくのです。先に述べた通り、この山羊はキリストが私たちの罪を負って葬られたことを象徴しています。イザヤ書でこう書かれている通りです。『しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』(53章6節)しかし、もし誰かが放たれた山羊を後ほど荒野で発見してしまったら、どうするのでしょうか。聖書はそのような場合を想定していません。もし誰かがアザゼルの山羊を見つけてしまったら、何もせず放っておくべきだったでしょう。なお、この山羊はアロンが実際に放つのではなく『係りの者』が放ちます。これは罪を負ってからの山羊にアロンが触れないためです。すなわち、アロンが汚されず聖さを保つためです。

【16:23~28】
『アロンは会見の天幕にはいり、聖所にはいったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。すなわち、罪のためのいけにえの脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営にはいることができる。罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営にはいることができる。』
 アザゼルの儀式が終わったら、アロンは亜麻布の聖なる装束を脱いで着替え、聖所の外に出て民と一緒になります。アロンが装束を脱いでから民のもとに行くのは、聖なる装束によって民を聖としないためです。エゼキエル書44:19の箇所で言われている通りです。それは聖所の部屋にしまわねばなりません。そうしてから、先にアロンと民が用意しておいた雄羊で全焼の生贄を捧げます。その生贄の脂肪による煙で、神をキリストにあって宥めるためです。

 またアザゼルの山羊を放った係りの者は、身体と衣服を洗浄し汚れから清められねばなりません。何故なら、アザゼルの山羊には民の罪がことごとく負わされたからです。罪の山羊に係りの者が携わった以上、その者は清められねばなりません。汚れに触れる者はその者も汚れを受けるからです。また、アロンと民の罪のために捧げられた雄牛および雄山羊は、宿営の外で焼かれねばなりませんでした(27節)。レビ記6:30の箇所でも書かれている通りです。つまり、その生贄は祭司の分け前とはなりません。何故なら、その生贄の血は聖所を贖うために使われたからです。もしこれが聖所の贖いのためでなく、ただ罪のための生贄としてのみ使われる生贄であったとすれば、つまり普段の儀式における罪のための生贄であったとすれば、その生贄の肉は祭司の分け前となっていました。ですが、この時には聖所の贖いにも生贄が使われるのですから祭司に与えられることはありませんでした。その生贄を宿営の外で焼く者は、衣服を洗って汚れを清めねばなりません。これはその者が、もはや不要となった物に携わったからです。

【16:29~34】
『以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」』
 このように大々的な贖罪の儀式は、『年に一度』すなわち『第七の月の十日』に執り行われます。この日にユダヤ人たち全体の贖いがなされるのです。また、その時には至聖所の贖いもなされます。しかし、どうして『第七の月の十日』なのでしょうか。1年の真ん中辺りだからでしょうか。その可能性は幾らかでもあります。「7」(月)と「10」(日)が完全を示す数字だからなのでしょうか。この可能性もあります。今述べた2つがどちらとも当たっている可能性もあります。しかし、聖書はどうして(ユダヤの暦における)7月10日であるのか理由を明示していません。この大贖罪は『永遠のおきて』ですが、この祭儀規定は今やイエス・キリストという真の大祭司により成就されましたから、もう今となっては行なう必要がありません。たとえ行なおうとする無謀な人がいたとしても、そもそも今は祭司制度すら無くなっているのですから、行なおうにも行なえません。旧約聖書を信じるユダヤ教徒たちでさえ行なっていません。出来ないからです。

 この儀式は大祭司が行ないます。大祭司でない他の祭司たちではありません。これは大祭司にだけ委ねられた非常に重要な任務です。ですから、その仕事における責任は大きいものがありました。

『モーセは主が命じられたとおりに行なった。』
 モーセは敬虔で謙遜な人でしたから、大贖罪の規定をその通りに執り行いました。神はこのような信仰者を喜ばれます。だからこそ、神はモーセをイスラエルの指導者として立てられたのです。一方、サウルは神の命令に従わない人でした。神はサウルのような者を嫌われます。ですから、サウルは支配者の職務から斥けられたのです。ところで、このようなことをしていたモーセは、麻薬による幻覚状態にあったなどと呟く人がいます。つまり、麻薬をやって異常な状態になっていたからこそ、神秘的な幻覚を見たり、そのような幻覚に基づいて様々なことを行なったと。私は言いますが、モーセがイスラエル人に告げた教えほどに高い道徳を持った教えが他にあるでしょうか。敵の持ち物をさえ顧みるべきだということほどに高い道徳は他にあるでしょうか(出エジプト記23:4~5)。『汝の如く汝の隣人を愛せよ。』という戒めは実に素晴らしい戒めです。『隣人のものを欲しがってはならない。』という命令では、心の中の正しさを求めています。『あなたの父と母を敬え。』との戒めは、サドの本に出て来るような異常な者を除けば正しいと思わない人はいないでしょうが、そのような異常な者はほとんどいないと思われます。麻薬で幻覚状態にある人が、果たしてこのような高い道徳を告げることなど出来るでしょうか。ありえないことです。もし麻薬をやればモーセのような道徳家になれるというのであれば、麻薬は禁止されるべきでないということにもなるでしょう。しかし、麻薬をやってモーセのようになった人がどこにいるでしょうか。ロックや昔のジャズにおけるミュージシャンを見れば分かる通り、麻薬をやるような人が高尚な道徳家であるということは通常ありません。三大女性ジャズボーカリストのビリー・ホリデイなどは、麻薬のやり過ぎで立つのがやっとであるといった有様でしたが、彼女の人生の歩みは破天荒なものでした。旧約聖書に対しても新約聖書に対しても、このような下らない中傷は昔から少なくありません。それらはサタン的な内容ですから、私たちは惑わされないようにすべきなのです。つまり、サタンが幾人かでも人間を聖書から引き離そうとして、このようなことを言わせるわけです。

【17:1~7】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。主が命じて仰せられたことは次のとおりである。イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、主の幕屋の前に主へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、主に持って来て、主への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。』
 ユダヤ人が宿営の中であれ外であれ犠牲獣を屠ったのに、それを聖所で捧げるために持って行かない場合、そのユダヤ人は裁かれて民から断ち切られてしまいます。これはその犠牲獣がキリストの象徴だからです。そのような動物を屠ったのに聖所に持って行かないのは、つまりキリストという真の犠牲を持たないことです。神は、キリストを持たない人間を御自身の契約の民と認められません。ですから、キリストを象徴する犠牲獣を屠っておきながら聖所に持って行かない人は、御前とイスラエル人の共同体から追放されてしまうのです。このように神が言われたのには、4つの理由がありました。一つ目は、ユダヤ人がしっかりと屠った動物を聖所に持って来るためです。聖所という場所が出来上がったわけですから、犠牲の動物はそこに持って行かれるべきなのです。二つ目は、その動物を和解の生贄として神に捧げるためです。そのようにせよというのが神の規定だからです。三つ目は、屠られた動物の血を祭壇に注ぎかけ、その脂肪を神への宥めの香りとして焼くためです。これが儀式における正式なやり方なのです。民が聖所以外の場所で勝手気ままな儀式を行なってはならないのです。四つ目は、『彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるため』です。というのは、もしユダヤ人が犠牲の獣を聖所に持って来て主に捧げるのであれば、その獣が偶像に捧げられることはないからです。7節目で言われている『やぎの偶像』とは、間違いなくあの時の金の子牛が念頭に置かれています。何故なら、それに『二度といけにえをささげなくなるためである。』と書かれているからです。『二度と』という言葉は、それまでに何らかの事例があったことを示していますが、それはアロンの時のあの偶像崇拝でなくて何でしょうか。あの時に民が拝んだのは『子牛』(出エジプト記32:4)だと書かれていましたが、ここではそれが『やぎ』と書かれています。これはアロンの作った偶像が子牛のようでありながら山羊のようでもあったということなのでしょう。子牛と山羊はよく似ており、鋳物の偶像であれば実際の場合と違って細かな造形の違いが消し去られるので、子牛と山羊どちらとでも呼べるようになるからです。

【17:8~9】
『また、あなたは彼らに言わなければならない。イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。』
 前の箇所(17:1~7)では『イスラエルの家の者』で屠られた動物を聖所に持って行かない者のことが語られていましたが、今度は『在留異国人』も含めて語られています。言われている内容は前の箇所と変わりません。これはユダヤ人が駄目ならば在留異国人であれば問題ないのか、と思う人が出ないためです。もし在留異国人についても言われなければ、動物を屠ったのに聖所へと持って行かない在留異国人が生じかねません。しかし聖書はまずユダヤ人についてだけ語りました(17:1~7)。そうしてから在留異国人も加えて同じことを語っています(17:8~9)。これはユダヤの共同体において、在留異国人よりもユダヤ人のほうが優越していることを示すためです。こういうわけですから、在留異国人であっても、もし屠った動物を聖所に持って行かなければユダヤの共同体から追放されてしまいました。神は在留異国人だからといって大目に見られません。何故なら、在留異国人もユダヤの共同体にいる以上、ユダヤ人と同じように定めを守るべきだからです。

【17:10~14】
『また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。何故なら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしは、あなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。』イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を刈りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』』
 これまでにも神は血を食べるなと命じて来られましたが、その理由について詳しく語られることはありませんでした。この箇所ではその理由について詳しく語られています。すなわち、血を食べるなと命じられたのは、血が命そのものだからです。ユダヤ人が動物の血を流すのは、『いのちとして贖いをする』ためであって、食べるためではありません。その血を食べるというのは異常です。ですから、そのようなことをする者は、民から断ち切られねばならないのです。これ以降の箇所でも、まだ血の禁止命令が聖書には書かれています。まだあるのです。このことから、いかに血を食べることが重大であったのか理解させられます。また、ユダヤ人が狩りで捕えた清い動物を食べるならば、『その血を注ぎだし、それを土でおおわなければ』なりませんでした。これは猫が自分の糞尿を土で隠すように血が汚らわしいからではありません。決してそうではありません。血を土で覆わねばならないのは、人間もそうですが、動物の命が土から創造されたからです。動物の命は土から始まったのですから、その命である血は元あった土に帰るべきなのです。伝道者の書3:20の箇所で『すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。』と書かれている通りです。

 食べたいと思う人はほとんどいないと思われますが、既に述べた通り、今の時代に生きる私たちも血は食べないほうがよいでしょう。まさか私たちがヴァンパイアであるというのでもないでしょう。もし血を食べたいと思う人がいたとすれば、食の領域において呪われていると言わねばなりません。何故なら、血は食べ物ではないからです。例えば、腐った人間の死体を食べたいと思う人がいたとすれば呪われていると見做されても仕方ないでしょう。それと同じことです。私について言えば、血を食べたいなどと思ったことなど一度もありません。何故なら、どうして血を食べねばならないのでしょうか。恐らく他の多くの人たちも私と同じではないかと思います。使徒たちも、新約時代の聖徒たちに血を食べるべきではないと定めました(使徒の働き15:29)。つまり新約時代においても、使徒たちは血を禁じているモーセの律法を行なうべきだと定めたのです。本当かどうか私は知りませんが、血のうち人間の血を食べると精神錯乱に陥ったり諸々の異常が生じるとのことです。もしこれが本当だとすれば神からの裁きでしょう。ところで、血を食べるなという戒めから分かることは、あらゆる吸血動物が呪われているということです。例えば「蚊」がそうです。まだ堕落していなかった原初の世界において、今私たちが知っているような蚊は存在していませんでした。何故なら、その時には全てが良かったからです。血を食べるなと言われた神が、どうして最初から血を食べる昆虫として蚊を創造されたはずがあるでしょうか。血を吸う蚊が見られるようになったのは、蚊が世界の堕落に巻き込まれて異常になったからです。すなわち、恐らく蚊はもともと今の蚊のような形態の昆虫ではありませんでした。そうでなければ、形態としては今とあまり変わらなかったとしても、生物の血を吸うような昆虫ではありませんでした。そうであったとすれば、蚊に付いているあの長い吸血口は果物の汁を吸うためにでも作られていたのでしょう。

【17:15~16】
『自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。彼はきよい。もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。」』
 寿命や病気などにより自然死したり外で野獣に引き殺されたりした動物の肉を食べるならば、汚れました。何故なら、それは人間が食べるために殺されて死体となったのではないからです。それは自然死したから、また野獣に引き殺されたから、死体となったのです。そのような死体の肉を食べるのは正道ではありません。ですから、神はそのような肉を食べることを汚れとされます。というのもユダヤ人とは聖なる民だったからです。聖なる民に邪道の行ないは相応しくありません。そのような肉を食べるのは明らかに衛生的にも危険です。これについては、いちいち詳しく説明しなくても読者は分かるはずです。もし自然死したり裂き殺されたりした動物の肉を食べて汚れたのに体と衣服を清めなければ、その者は『自分の咎を負わなければ』なりません。これは単に汚れたことによる咎を負うだけでなく、聖なる神とその聖なる民から断ち切られるという意味でもあります。ちょうど不潔極まりない者が、執刀している医者と手術室の清潔さに相応しくないのと一緒です。そもそも、『自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたもの』は本来的に食べてはならない肉です。レビ記7:24、22:8の箇所で書かれている通りです。

【18:1~5】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。』
 神は、ユダヤ人がそれまでに住んでいたエジプトの地の習わしも、これから入植するカナンの地の習わしも、真似てはならないと命じられます。何故なら、それは忌まわしい習わしだからです。例えば、偶像崇拝や占いや呪術などの類がそうです。聖なる民ユダヤにそのような習わしは相応しくありません。ちょうど純良な生徒が、不良を真似てバイクで暴走すべきではないのと同じです。ユダヤ人はむしろ神の定めを行なわねばなりませんでした。神がユダヤ人の支配者だからです。ユダヤ人は神を支配者とする民族として神に従うべきでした。

 もう今や昔のエジプト人はおらず、聖徒たちがカナン人の子孫と関わることもほとんどなくなりました。ですが、この箇所における定めは現代の聖徒にも適用されねばなりません。すなわち、私たちは自分の住んでいる国や属している民族の悪しき習わしを真似てはなりません。ここ日本であれば、神社で手を合わせたり、仏像を拝むといったことがそうです。そのような行為は御心に適っていません。アメリカやイギリスといった教会の多くある国であれば、あまりこういったことは気にしなくてもいいかもしれません。しかし、日本のようにまだキリスト教が盛んではない国においては、多かれ少なかれ忌まわしい行為に引き込まれないよう注意せねばなりません。というのも、神を恐れ神に従うというのが聖徒たちの本分だからです(伝道者の書12:13)。また、キリストが私たちのために死なれたのは、私たちが私たちのために死んでよみがえった方のために生きるためだったからです(Ⅱコリント5:15)。

 この箇所で『それを行なう人は、それによって生きる。』と書かれているのは重要です。これは、もし神の戒めを守り行なうのであれば永遠に生き続けられるということです。神の戒めを全て完全に守り行なうというのであれば、確かにそうです。これは堕落前のアダムを考えても分かります。堕落前のアダムは、もし善悪の知識の木の実を取って食べるなという戒めを守り行なっていたとすれば、死ぬことなく永遠に生き続けることができていました。ところが、キリストを除いた全ての人間は神の戒めを守り行なえません。それは『罪を犯さない人間はひとりもいない』(Ⅰ列王記8章46節)また『義人はいない。ひとりもいない。』(ローマ3章10節)と聖書で書かれている通りです。このため私たちは呪いのため死ななければいけなくなったのです。こう書かれている通りです。『このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。』(申命記27章26節)『罪から来る報酬は死です。』(ローマ6章23節)ですから、私たち罪人にはイエス・キリストの救いが必要なのです。キリストは神の戒めを全て完全に守られ、私たちのために義を獲得されました。このキリストを信じる者は、キリストのゆえに全ての戒めを正しく守ったと神から見做されます。何故なら、キリストを信じる者はキリストと一体になるからです。そして、全ての戒めを守ったとキリストにおいて見做されるので、罪による呪いと死から免れることができます。これこそパウロがガラテヤ書でガラテヤ人に教えていることです。

【18:6】
『あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。』
 神は、ユダヤ人が血の繋がった親族また血の繋がりはないものの家族と強い関係を持つ女と寝ることを禁じておられます。何故なら、それはいかがわしいからです。既に創世記の註解で見た通り、昔の時代においては、近親相姦が一時的に許容されていました。何故なら、その時にはまだ世界人口が少なかったので、家族と寝ることになっても仕方なかったからです。もし近親相姦だからといって交わりをしていなければ、人類は滅びていたかもしれません。しかし、世界に人間がある程度増えてからは、そのようなことをすべきではなくなりました。何故なら、それは本来的によくないことだからです。これから見ていく戒めは現代においても有効です。よって、私たちはその戒めを守らねばなりません。

【18:7~8】
『父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。』
 神は母と寝ることを禁じられます。この箇所では、2種類の母について言われています。すなわち、7節目では実の母のことが、8節目では血の繋がりを持たない母のことが言われています。実の母と寝たことについて聖書には事例が見られません。逆の場合であれば、ロトの2人の娘がロトと寝たことについて創世記で書かれています(創世記19:30~38)。血の繋がりを持たない母と寝たことについては、3つの事例が聖書には見られます。一つ目は、コリント人のうちに『父の妻を妻にしている者がいる』(Ⅰコリント5章1節)件です。二つ目は、ルベンが父ヤコブの妻ビルハと寝た件です(創世記35:22)。三つ目は、アブシャロムが父ダビデの妻たちと交わった件です(Ⅱサムエル16:22)。このような行為は、忌まわしく、邪悪であり、気色悪いことです。古代ギリシャにこんな有名な話があります。ある人が子である馬に目隠しをさせて母である馬と交らわせたのですが、目隠しを外されて母と交わったことに気付いた子の馬は、ショックのあまり物凄い勢いで走り去って崖から身を投げ自殺したのです。この話が本当なのかどうかは分かりませんが、馬でさえ母と交わることに大きな衝撃を受けたということがこの話では示されています。馬でさえ母との交わりに衝撃を受けて自殺したぐらいであれば、人間なのに平気で母と交わっている人は一体とういう感覚を持っているのでしょうか。呪われて馬以下になってしまったということなのでしょうか…。そういう人がいれば悔い改めることができますように。母を犯すというこの罪は、レビ記20:11の箇所で死に定められています。

 血の繋がりがあるにせよないにせよ、母を犯すことはすなわち『父をはずかしめること』です。それは父に凄まじい恥辱を生じさせるからです。子が父の妻と寝たということが親族や仲間や共同体で一緒に住んでいる住民に知られたとすれば、どれだけ恥ずかしい思いをせねばならないでしょうか。これ以上の恥辱はないとさえ感じられるに違いありません。

【18:9】
『あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。』
 姉妹と一緒になるのも禁じられます。日本には実の姉妹との交わりを描いた成人向け漫画がありますが、実際にそのようなことをしている人については聞かれません。聖書では、ダビデの子アムノンが妹であるタマルを犯した事例が記されています(Ⅱサムエル13:1~14)。これほどまでに堕落した破廉恥行為が他にあるでしょうか。吐き気を催さずにはいられません。もし姉妹と寝たことで子どもが生まれでもすれば、その子が身体的・健康的に異常だったとしても仕方ありません。近親相姦による子は、虚弱だったり異常だったりすることが少なくないからです。

【18:10】
『あなたの息子の娘、あるいはあなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。』
 ここでは『息子の娘』、『娘の娘』すなわち孫と寝ることが禁止されています。何故なら、それは『あなた自身をはずかしめることだから』です。子もそうですが、孫は自分の分身です。すなわち、子は父の2分の1の分身であり、孫は祖父の4分の1の分身です。それゆえ、孫と寝るのは自分自身をはずかしめることなのです。

【18:11】
『あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、あなたはその娘を犯してはならない。』
 再び姉妹との交わりが禁止されています。たとえ国の法で禁じられていなかったとしても、この禁断の交わりをすべきではありません。何故なら、それは神の御前ではれっきとした罪、しかも死罪だからです。ですから、姉妹と交わりたいと思う人は裁きを自ら欲していることになります。姉妹が自ら進んで一体化を望んだとしても駄目です。それは御前において悪だからです。もし行なうのであれば酷いことになったとしても自業自得です。