【レビ記18:12~22:16】(2021/12/05)


【18:12~13】
『あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親である。あなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親であるから。』
 『父の姉妹』また『母の姉妹』すなわち叔母と寝ることも禁止されます。この箇所では、「父」の姉妹だけでなく「母」の姉妹についても個別的に記されています。これはユダヤ人が「ここでは父の姉妹(または母の姉妹)としか記されていないから母の姉妹(または父の姉妹)であれば問題ないのだろう。」などと思うのを阻止するためです。士師やダビデやソロモンを見れば分かる通り、また古代ユダヤ人が新しい妻を得るため今の妻を平気で離縁していたことからも分かる通り、そして現代ではジェフリー・エプスタインやジーン・シモンズといった凄まじい姦通者たちを考えれば分かる通り、ユダヤ人は昔から今に至るまで性的にふしだらな傾向を強く持っているので、神はこのように『父の姉妹』および『母の姉妹』を一緒に纏めて語ったりどちらか一方を省略するということはなさいませんでした。もし叔母と寝るのであれば裁かれます。その人は、叔母と寝たので裁かれる前から既に裁きを受けています。何故ならば、既に裁かれていなければ叔母と寝るという決断をすることはなかったからです。この罪を犯すならばユダヤ人は神から断ち切られました(レビ記20:19)。

【18:14】
『あなたの父の兄弟をはずかしめてはならない。すなわち、その妻に近づいてはならない。彼女はあなたのおばである。』
 伯父の妻を犯すことも禁止されています。それは伯父に恥辱を与えることだからです。このように言われたのは、ユダヤ人が「伯父の妻であれば血も繋がっていないのだし姦通しても大丈夫だろう。」などと思うのを防止させるためです。この罪もやはり御前から断ち切られることになります(レビ記20:20)。

【18:15】
『あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。』
 息子の妻と寝るのも罪です。その妻は息子とだけ寝るべきだからです。ここと同じことが言われているレビ記20:12の箇所では『息子の嫁』と書かれていますが、ここでは単に『嫁』と書かれているだけです。どうしてここでは『嫁』としか言われていないのでしょうか。これは息子の妻が父の嫁だという意味なのでしょうか。そうではありません。恐らく、息子の妻を嫁と呼ぶのがユダヤの風習だったのでしょう。エゼキエル22:11の箇所でも、息子の妻が『嫁』と呼ばれています。

【18:16】
『あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。』
 神は兄弟の妻と一緒になることも罪に定めておられます。それは兄弟を冒涜また汚染することだからです。このような聖なる戒めを考えると、妻は共有にすべきだと述べたプラトンとその『国家』やストア派の連中が狂気に陥っているとさえ思えてきます。ストア派の小カトーなどは、ストア派の教説に従い、本当に自分の妻を他人に与えてしまいました。妻を共有にするというふざけた考えは聖書に全くありません。

【18:17】
『あなたは女とその娘とを犯してはならない。またあなたはその女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。彼女たちは肉親であり、このことは破廉恥な行為である。』
 母とその娘、また祖母とその孫娘を一緒に犯すのは大きな罪です。このようにした事例は聖書の中に見られません。このような破廉恥行為は、サドの著作にピッタリ似合っていますが、社会においてこういうことが行なわれてはなりません。もしこういったことをするならば、その当該人物である3人の男女は死刑に処せられねばなりませんでした(レビ記20:14)。

【18:18】
『あなたは妻を苦しませるために、妻の存命中に、その姉妹に当たる女をめとり、その女を犯してはならない。』
 妻を苦しめようとして妻の姉妹と一緒になるのは罪です。このようにする人に妻への愛は全くありません。古代のユダヤ人は、新しい妻を得るため、このようにして妻を苦しめていました。何故なら、妻を苦しめれば妻と離れることができるからです。

【18:19】
『あなたは、月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。』
 『月のさわり』すなわち生理中の女とは、たとえ妻であっても一緒になってはいけませんでした。そのような時に行なえば、血と汚物にまみれてしまいます。これが聖なる民に相応しくないというのは誰でも理解できるでしょう。普通に考えても生理中に行なうのは明らかに汚いことです。もしこの罪を犯すユダヤ人がいれば共同体から追放されます(レビ記20:18)。そのユダヤ人の男女は聖なる民として相応しくないことを行なったからです。もちろん今でも生理中に行なうのは良くありません。それは喉が渇いているからといって便所の汚い水を飲むのと一緒です。もし新約の聖徒がそういうことを行なったなら、悔い改めなければいけません。

【18:20】
『また、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。』
 誰かの妻と不倫をすることも律法は禁じています。今の世界で不倫をするというのは珍しいことではありません。日本やアメリカではたとえ誰かの妻と寝ても法で裁かれません。大統領でさえ不倫をするぐらいです。しかし、神はそれを罪に定めておられます。「しかし法で禁じられていないのだから別に問題ないだろう。」などと思うことはできません。たとえ法で禁じられていなくても、神の御前ではれっきとした罪だからです。もし不倫をするのであれば裁かれて悲惨になっても自業自得です。その人は神の禁じている大きな悪を犯したのですから。これはレビ記20:10の箇所で死罪とされています。ですからユダヤでは姦通者の男女が死刑に処せられていました。これはヨハネの福音書8:1~11の箇所を見ても分かります。

【18:21】
『また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。』
 カナン人は、モレクという本当は存在しない偽りの神々の一人に、子どもを火の中に通らせることで捧げていました。これは忌まわしく御心に適わないことでした。今でも陰謀家たちは、昔のカナン人と同様、幼児をサタンまたは偽りの神々に捧げていますが、カナン人に働いていたサタンの霊が陰謀家たちにも働いているのです。神はユダヤ人がこのような真似をしないよう命じておられます。それは聖なる民に相応しくないからです。もしそういったことをすれば死刑に処せられました(レビ記20:1~5)。ここでは『モレク』に子を捧げるなと言われていますが、これは提喩法ですから、もちろんモレク以外の偽りの神々に子を捧げることも禁じられます。すなわち、バアルとかアシュタロテとかいった偽りの神々にもユダヤ人は子を捧げてはいけませんでした。古代ユダヤ人はこの戒めを守りませんでした。他国人・異教徒の真似をしてバアルなどに子を火で捧げたのです。このためユダヤ人は神からの裁きを受けて悲惨になりました。自業自得です。

【18:22】
『あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。』
 神は男色を禁じられます。それは自然に反しているからです。「いや、男色は自然なことだ。」などと男色者は言うかもしれません。自分は男色者でないものの男色者を擁護する人も、男色の否定を差別だと言うかもしれません。しかし、男色を首肯しているその性感覚そのものからして反自然的です。ですから、彼らの意見に耳を傾ける必要は全くありません。もしそういった反自然的な意見に耳を傾けるのであれば、聖徒である私たちまで反自然的な感覚を持っていることになります。全ての男色者がこうするわけではないでしょうが、男色者が男色者に会うと女のような猫なで声を出して上目遣いで性的に誘います。これのどこが自然なのでしょうか。このような男色を律法は死に定めています(レビ記20:13)。このため、男色の満ちていたソドムは裁かれて滅んでしまったのです。ところで、この箇所では男の同性愛だけが言われているので女の同性愛は禁じられていないなどと言う人がいます。しかし、この箇所で女の女色も禁じられていることは明らかです。このように言う人は、聖書には女性にも共通しているものの男性のことしか言われていない箇所が多くあることを知りません。パウロはローマ1:26~27の箇所で女の同性愛を裁きとしているのですから、この箇所では女の同性愛も含めて禁じられているとせねばなりません。

【18:23】
『動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。』
 律法は獣姦をも罪として禁じています。聖書で獣姦をしたことが記されている箇所はありません。ユダヤ人は大いに堕落しましたが、流石に獣姦をするほどまでに堕落するということはなかったようです。これは堕落の極みとでも言うべき邪悪さを持った罪です。この罪については出エジプト記22:19の箇所における註解で述べておきました。既に述べたことを繰り返し述べても仕方ありませんから、まだ読んでいない人は出エジプト記の註解箇所を見てほしいと思います。

【18:24~25】
『あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。』
 神は、これまでに見たレビ記18:6~23の箇所で書かれている悪をカナン人がしていたと言っておられます。例外はありません。今見た全ての悪にカナン人は染まっていたのです。カナンの諸民族のうち全ての民族がそれぞれこれらの罪を行なっていたというのではなく、ある民族においては一つぐらい免れていた罪ももしかしたらあったかもしれません。しかし、カナンにいた諸民族を全体として考えれば、これらの罪を彼らは全て犯していました。このカナン人のように堕落した民族は、私の知識範囲内で言えば、今の世界に存在していません。大いに堕落している未開部族は幾つかいますが、それでもカナン人ほどには堕落していないと思われます。つまり、カナン人とは最凶の愚物どもだったということになります。ご覧ください。これが呪われたカナンの子孫たちです(創世記9:25)。カナンはその1000年後の子孫に至るまでも呪われていたことが分かります。

 これらの悪を行なっていたカナン人が罰せられるので、カナンの地はカナン人を吐き出すとここでは言われています。これはカナンの地を人間の口に、カナン人を食べ物に例えています。私たちが汚い食べ物を口から吐き出すのと同様、カナンの地も汚らわしいカナン人を追い出すことになったのでした。もしカナン人が清らかであれば、カナンの地から吐き出されることもなかったでしょう。何故なら、『正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。』(詩篇37:29)と書かれているからです。私たちは、忌まわしいカナン人のようにならないよう注意せねばなりません。そうでないとカナン人のように地から吐き出されてしまうからです。

 カナン人がカナンから滅ぼされたのは、カナン人の悪がその原因でした。神はこのカナン人を滅ぼすためにユダヤ人を用いられました。ですから、ユダヤ人のカナン人虐殺は全く正当でした。ユダヤ人は死刑執行人として死刑囚であるカナン人を死刑に処したに過ぎないからです。死刑執行人が死刑囚を死刑に処したからといって非難されるべきではないのと同様、カナン人の虐殺も非難されるべきではありません。ユダヤ人のカナン人虐殺を非難する人は、物事を見る視野が狭く俯瞰できていないので、ただユダヤ人がカナン人を虐殺したという一点しか見ていません。つまり、カナン人の極悪も、その極悪に対する裁きについても、全く考えていません。ですから、カナン人虐殺について悪く思うわけです。これは、死刑執行人が死刑囚を死刑に処したという殺人の部分だけを見て、「あいつは人を殺した。」などと死刑執行人を悪く思うのと一緒です。しかし、私が今言ったことを含めてカナン人虐殺を考えるべきです。そうすればユダヤ人がカナン人を滅ぼしたのは何も悪くなかったと分かるでしょう。近親相姦を抵抗なく行ない子さえ火で捧げるほどに堕落したおかしな民族であれば、神の天罰により虐殺されたとしても当然だということが分からないのでしょうか。もしこのような民族でさえ天罰を受けるに相応しくないとすれば、一体どの民族が天罰に相応しいというのでしょうか。カナン人でさえ天罰に相応しくなければ、天罰に相応しい民族などいないことになります。

【18:26~30】
『あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。―あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた。―あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者は、だれであろうと、それを行なう者は、その民の間から断たれる。あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」』
 神は、ユダヤ人がカナン入植をする前に、あからじめカナン人の悪を行なってはならないと命じておられます。それは聖なる民ユダヤが忌まわしいことを絶対にしないためです。また、ユダヤ人が忌まわしいことをしてカナンの地からカナン人のように吐き出されてしまわないためです。そもそもユダヤ人がエジプトから連れ出されたのは、彼らがカナンに入植して、聖く正しく神と共に歩むようになるためでした。それなのにユダヤ人がカナンの地から追い出されてしまったとすれば、一体何のためにエジプトから連れ出されたのか分からなくなってしまいます。もしレビ記18:6~23の箇所で書かれていた悪を一つでも行なうならば、そのユダヤ人はユダヤの共同体から追放されました(29節)。それらの悪をもう一度見て下さい。確かに神の御前から断絶されても文句は言えないような極悪です。なお、この箇所でカナン人の習わしを真似て行なってはならないと命じられているのは、パウロがローマ12:2の箇所で『この世と調子を合わせてはいけません。』と命じているのと共通しています。というのも、カナンの諸民族が行なっていた悪い習わしとは『この世』でなくて何でしょうか。

 26節で言われている通り、カナン人の習わしを行なうなという命令は、ユダヤ人だけでなくユダヤにいた『在留異国人』にも与えられています。何故ならば、在留異国人も血また生まれはユダヤ人ではないもののユダヤの共同体の一員だったからです。これは日本にいる外国籍の人でも日本の憲法や法律といった公的な決まり事を守らねばならないのと一緒です。

【19:1~4】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』
 神は、前に語られたことを、再びユダヤ人に守るよう命じておられます。この時のユダヤ人はまだまだ霊的な幼児であり鈍感でもありましたから、このように何度も命じられる必要があったのです。3節目で両親を恐れよと命じられているのは、十戒の第5番目に属することです。つまり「父と母を敬う」とは父と母を恐れるということです。何故なら、尊敬とは恐れつつ謙譲することだからです。また4節目で『偶像に心を移してはならない。』と命じられているのは、偶像に心を移すのが偶像崇拝の初めだからです。この心を移すという点から偶像崇拝という植物が成長して実を結ぶに至るのです。

【19:5~8】
『あなたがたが主に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。主の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。』
 今度は生贄に関して再び前と同じ命令が告げられています。この時のユダヤ人は初心者のようでしたから、前と同じことが再びこのように告げられました。例えば私たちが初めて自動車を運転した時のことを考えれば、初心者に繰り返し同じことが告げられるべき必要性をよく理解できると思います。初心者ですから何度も言われないと全く、もしくはあまり上手に出来ないのです。この箇所はレビ記7:15~18の箇所と対応しています。ここで言われている通り、ユダヤ人は生贄を『あなたがたが受け入れられるように』捧げねばなりませんでした。何故なら、神とは人格的な存在だからです。誰でもふざけた贈り物を送られたり、ふざけた仕方で贈り物を送られたりしたら、喜ぶはずがありません。ですから、ユダヤ人たちは自分たちが受ける側であれば受け入れられるような形で、神に生贄を捧げねばなりませんでした。

【19:9~10】
『あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。』
 ユダヤ人は、畑に生じた実や落ち穂を多かれ少なかれ残しておかねばなりませんでした。それは『貧しい者と在留異国人』が飢えて死なないためです。収穫を残しておけばひもじい人がそれを食べて生き続けることになります。キリストの弟子たちはひもじくなったので、畑に生えていた穂を摘んで食べました(マタイ12:1)。また落ち穂を残しておいても、やはり貧しい人がそれを打って麦を食べることができます。ルツはこのようにしていました(ルツ2:2~3、17~18)。古代のユダヤ人が土地の収穫をことごとく刈り集めて何も残さないのは罪でした。それは律法に反しているからです。

 それにしても、これは何という善良な素晴らしい戒めでしょうか。正に慈しみの戒めです。この戒めでは貧しい人が配慮されているからです。今の日本人であれば、もし自分の畑で少しでも実を食べている乞食が見つかれば、鬼のように怒り狂って警察に通報しかねません。これは何と愛・憐れみのないことでしょうか。このようにする日本人に比べて、律法の道徳性は何と高いことでしょうか。また、少しでも実を食べる乞食に激怒する人が自分も乞食のようになったらと考えようとしない思慮の浅はかさは一体どれだけでしょうか。こういう人は裁かれて自分も乞食の身にならなければ駄目なのかもしれません。このような人は、神が人にその人のした通りにされるということを全く知りません。聖書には神についてこう書いてあります。『あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。』(詩篇18:25~26)つまり律法の憐れみを知らない日本人が畑で勝手に実を食べている乞食に怒るとすれば、神に対して「私もいずれ乞食になってこのような怒りを受けるようにして下さい。」と暗に言っているわけです。律法と神の報いについて知らないことは何と悲惨なことでしょうか。貧しい人を憐れまない者に災いあれ。もちろん、私がこのように言うからといって、自分の畑で乞食が何かを食べているのは許容するものの、私自身は日本の法律に従ってそういうことを行なうというわけではありません。もしそうすれば私は日本の法律に基づいて逮捕されかねませんから。しかし、願わくは日本の法律が今私たちの見ている戒めに準拠するようになってほしいものです。

 この箇所もそうですが、レビ記19章では『わたしはあなたがたの神、主である。』また『わたしは主である。』と何度も言われています。これは「神がユダヤ人の主権者なのだからユダヤ人は神の律法に従わなければならない。」ということです。何故なら、神とは絶対者であられるからです。絶対者が御自身の御名を宣言されるのは、つまりその宣言を聞いた者たちが絶対者に服従せねばならないということです。

【19:11】
『盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。』
 盗むな、偽るな、という命令は十戒の8番目と9番目のことです。『欺いてはならない。』との命令は、十戒の8番目と9番目のどちらにも関連していると思われます。何故なら、欺くとは盗むために偽ることだからです。これら3つの戒めがこの箇所では一緒に纏められています。これはこの3つの戒めがどれも互いに関連性を持っているからです。これらの戒めにおける内容は普遍的であり、永遠に有効ですから、今の時代に生きる私たちも守らなければなりません。

【19:12】
『あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。』
 神の御名により偽りの誓いを立てるのは、十戒の第三番目に対する違反です。『あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。』(出エジプト記20章7節)という戒めの本質は、御名を聖く保つというところにあります。御名により偽誓するのは『御名を汚して』しまうことです。ですから、偽誓のために御名を用いるのは十戒の第三番目を守らないことです。もしそのようにする人がいれば裁きは免れません。その人は神の御名を汚したからです。

【19:13】
『あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。』
 3つのことが言われています。①:隣人を虐げるのは罪となります。何故なら、虐げる人は隣人への愛を持っていないからです。②:誰かを掠めるならば神の裁きが待っています。例えば、ルイヴィトンの偽物を本物だと偽って大金を掠めるのがそうです。③:日雇人の賃金をその日のうちに支払わないのは罪となりました。何故なら、労苦の多い日雇人の歩みと生活に配慮がされなかったからです。これら3つの戒めは、私欲のため隣人を無謀に取り扱うという点で共通しています。

【19:14】
『あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまづく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。』
 耳の聞こえない人を馬鹿にしたり見下すのは罪です。何故なら、そこには耳の聞こえない人への愛がないからです。律法の本質は隣人愛です。同じ理由から、目の見えない人が躓くようにするのも罪です。この2つは自然法によっても悪とされます。多くの日本人も耳の聞こえない人や目の見えない人が酷い目に遭わされているのを見たら、悪いことが起きていると思うはずです。

 神を恐れるゆえ聖徒たちはこの戒めを守るべきでした。つまり、神の怒りと裁きを恐れるということです。もし聖徒が耳の聞こえない人や目の見えない人を酷く扱ったとすれば、裁きにより、自分が聾者また盲人にさせられるかもしれないからです。場合によっては死ぬという裁きが与えられることにもなるかもしれません。

 戦後は、人権意識が徐々に発達しているので、世界的に障害者の方に対する扱いが良くなっています。1948年を起源としてパラリンピックが行なわれるようになりました。日本の街には目の見えない人のために点字や歩行用のタイルがよく見られます。障害者を侮辱するのであればSNSなどで大騒ぎになっても不思議ではありません。障害者の方を採用する企業も増えています。これは非常に良い傾向です。社会が私たちの今見ている律法を実践しているからです。このような傾向が続くべきであるのは言うまでもありません。

【19:15】
『不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。』
 正しい裁判をすべきだという命令は、出エジプト記23:2~3、6~7の箇所で既に命じられていました。不正な裁判についてもう言うべき事柄は出エジプト記の註解で書いておきましたから、私たちが今見ているこの箇所についてはそちらのほうを見ていただきたいと思います。

【19:16】
『人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。』
 中傷は罪ですから禁止されています。中傷とは舌で不当に隣人を攻撃することだからです。これは十戒の第9番目に対する違反です。何故なら、『偽りの証言をしてはならない。』(出エジプト記20:16)という戒めの本質は「舌により隣人を害さない。」ということだからです。昔から今に至るまで中傷は世界中で絶えることがありません。しかし人権に敏感となっている昨今では、この中傷が罰せられることも珍しくなくなりました。中傷とは罪ですから、これは望ましい傾向であると言えましょう。しかしながら、中傷と言われている言説の全てが必ずしも中傷とは限らないという点によく注意せねばなりません。誰かが「中傷だ。」などと言ったからというので、即それが中傷であるということになれば、言った者勝ちになるからです。無知や愚かさのため正当なる批判を中傷だと勘違いする人や、批判であれば何であれ中傷であると考えがちな人もいます。例えば、16世紀のカトリック教徒たちはカトリック批判をしていたカルヴァンをしきりに「中傷者」だと言いましたが、カルヴァンは正しい批判をしていました。ルターも同様でした。つまり、カトリックはカルヴァンやルターの正当なる批判を正しく理解できなかったので、自分たちが中傷されているとしか思えなかったのです。ドナティストたちも、アウグスティヌスの正当なるドナティスト批判を中傷だと言いましたが、正統的な信仰を持った聖徒のうち誰がドナティストたちをアウグスティヌスが中傷したなどと思うでしょうか。一人もいないはずです。私にしても、以前にピューリタンだと自分のことを呼ぶ医者を正しく批判したのですが、その医者は私の批判を中傷だと誤解したのです。その医者は私が中傷していると指摘しました。ですから私はそれが中傷ではなく正しい批判だということをしっかりと聖句を挙げて説明し、その医者に反論であれ意見であれ私に何か述べる機会を与えたのです。「私が今言ったことについてどう答えますか。返事を待っています。」などと。そのようにしたところ、その医者は全く何も答えず、答えないままかなりの時間が経ちました。私が正しいことを言っていたので何も言い返せなかったのです。確かに私は反論が絶対できないよう聖句を挙げて説明しましたから、彼が言い返せなかったのは当然でした。もし私に言い返すとすれば、聖句を否定また攻撃してしまうことになるからです。ですから、これからも彼が何かこのことで私に言って来ることはないでしょう。神の言葉を挙げてなされた私の説明に反論できなかったことが、この医者に対する私の批判が中傷ではなかったことを如実に証明しています。これら3つの事例からも分かる通り、中傷だと言われていてもその詳細を一度よく調査したり考察したりする必要があるでしょう。今話した医者や16世紀のカトリックやドナティストたちのように、何かを言われた者が自分としては中傷だと感じても実は中傷でないケースも多くあるからです。しかし、それが本当に中傷である場合は、それが中傷でないと思ったり言ったりすべきではありません。

 隣人の血を流そうとするのは罪です。これは行動する前における心の働きです。つまり、殺意を持つことがここで禁じられています。世の中では殺意を抱くだけであれば、実際に殺人に走らない限り、罪ありとはされないかもしれません。しかし、神の御前では殺意を抱くだけでも罪となります。人々の言葉を見ていると、殺意を抱いたことのある人は少なくないと思えます。「おまえ殺すぞ?」などと言っている人は明らかに殺意を持っているはずです。パリサイ人たちはキリストを殺そうといつも願っていました。彼らは律法の違反者だったのです。私たちのうちに殺意が僅かでも起きたとすれば、すぐに心の一新によって自分を変え(ローマ12:2)、悔い改めねばなりません。そうしないと殺意が成長して実を結ぶ可能性を0%に出来ないからです。なお、血を流すなというこの戒めは十戒の第6番目に属しています。

【19:17】
『心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。』
 家族など身内の者を憎むのは悪いことです。何故なら、家族と自分は一体だからです。家族はそれぞれ互いに身体の部分です。そのような存在を憎むのは道理に適っていません。ヤコブの子たちは身内であるヨセフを憎みました。これは罪でした。親という身内を憎む子どもは昔から少なくありません。これも罪です。もし身内の者さえ憎むようであれば、より遠い関係にある者を愛することは出来ないでしょう。何故なら、身内の者よりも愛するべき、また愛せるような存在が他にあるでしょうか。つまり、身内を憎むというのは最悪です。ですから、面接官が採用試験で家族との関係を尋ねるのは良いことなのです。家族との関係に基づき、全ての人との関係を推し量れるからです。

 神は隣人を戒めるようにとも命じておられます。例えば、誰かがクーデターの相談をしてきたとします。この場合、私たちはクーデターをしないよう戒めねばなりません。何故なら、クーデターとは悪だからです。隣人を悪から遠ざけるのが愛です。ですから愛の神は律法で『隣人をねんごろに戒めなければならない。』と命じられたのです。戒めることについて『ねんごろに』とここでは言われています。ですから、戒める際には愛と思慮とが必要となります。私が中学生の頃、中学生なのに煙草を吸っている友達がいたので、給食の時間に戒めたところ、彼は煙草を止めました。私はほとんど戒めているとは思われないようにこう言ったのです。「煙草を吸って肺が黒くなると数年間も戻らなくなるらしい。やばいから止めたほうがいいんじゃないのか。」ねんごろに、穏やかに言ったからこそ、彼は聞き入れたのかもしれません。もしこれが上から目線であったり刺激するかのようであったり叱責するかのようであれば、聞き入れていたかは分かりません。ですから、私の経験からも戒める際には「ねんごろさ」が重要であると言えます。もし私たちが隣人を戒めるならば、どのようにしても『彼のために罪を負うことはない』のです。もし隣人を戒めたことで隣人が悪から離れたとすれば、隣人も自分も罪を負うことはありません。もし隣人が戒めを無視して悪に突き進んだとしても、自分はしっかり戒めたのですから、その隣人の悪に共同責任を負わないで済みます。もっとも、その戒めが中途半端であれば、場合によっては自分も罪を負うことになるかもしれません。また残念なことではありますが、今の時代では、昔に比べると隣人を戒めるということがややなくなってきたように思われます。特に大人が子どもを戒めることについて、このように思えます。今の大人たちは、子どもたちからの反発を恐れたり風評を気にしたりして、あまり子どもを戒めなくなってしまいました。これは社会全体に対する呪いの一つです。

【19:18】
『復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。』
 私たちが復讐するのは罪です。何故なら、復讐とは私たちに属していないからです。それは神の専有物です。こう神は言っておられます。『復讐と報いとは、わたしのもの』(申命記32章35節)。ですから私たちは復讐を神にお任せしなければなりません。パウロは聖徒たちにこう言いました。『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」』(ローマ12章19節)ルターは王侯に苦しめられている民衆たちに神の報いと助けを待て、と言いました。これは正しい言葉でした。もし私たちが自分で復讐するならば神の専有物を横取りすることになります。そのようにする人は裁かれても仕方がありません。しかし、復讐するなという命令は、個人に対する命令であるという点を注意せねばなりません。すなわち、ここでは国家について復讐するなと言われているのではありません。国家が国家に復讐することについては許されています。ダビデも度々、イスラエルに悪を行なう国や民族に国家として復讐していました。私たちが今見ている箇所の周辺を見て、その文脈を理解して下さい。そうすればここでは個人的な道徳規範が語られているのだと分かるはずです。

 ここでは同国人を恨むのも罪とされています。これについてはあまり例がないと思えます。ただし、在日韓国人やアメリカの黒人など祖先たちはその国に住んでいなかった人たちであれば、話は別です。彼らが自分の住んでいる国の人たちを恨むのは珍しくありません。「彼らは差別されやすいのだから自分の国の人たちを恨んだとしても仕方がない。」とは言えません。何故なら、ここでは彼らも自分の国の人々を恨まないよう命じられているからです。確かにここでは「元々はそこに住んでいなかった外国の血を持っている人たちは除く。彼らは自分の国の人々を恨んでも仕方がない。」などと書かれていないのです。先祖の代からその国にいる人たちであれ、そうでない人たちであれ、自分の住んでいる国の人たちを恨むならば裁かれても自業自得です。私たちは自分の国の人たちを良く思い、家族のように愛するのが望ましいのです。

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』という命令は、非常に注目されるべきです。何故ならば、この命令は全律法のうち二番目に重要であるとキリストが教えられたからです(マルコ12:31)。2番目に重要なこの戒めを注目しないでいることは絶対にできません。キリスト以前に、この戒めの重要性について語った人はいませんでした。しかし、キリストはこの戒めがどれだけ重要であるのか知っておられました。何故なら、キリストこそ律法をユダヤ人に制定された御方だからです。この戒めは、種々の戒めの中で普通に書かれているだけですから、その重要性を発見するのは人間にとって至難の業だと思われます。たとえその重要性に気付いたとしても、その人はキリストのようにはっきりとそのことを教えることはできなかったでしょう。どうしてこの戒めが二番目に重要であるかと言えば、それは律法の2つの本質のうち2番目に属しているからです。律法の一番重要な本質は「全力を尽くして神を愛せよ。」であり、二番目に重要な本質がこの戒めです。ここでは神を愛することについては取り扱うことをしません。さて、パウロも言っている通り、自分のように隣人を愛するというのは全ての道徳律法の目的です(ローマ13:9、ガラテヤ5:14)。例えば、「盗むな。」という戒めの目的は「隣人を自分のように愛すること」です。また「殺してはならない。」という戒めの目的もやはり「隣人を自分のように愛すること」です。逆に言えば、隣人をどうすれば自分のように愛せるかということを示したのが個々の道徳律法です。すなわち、「隣人を愛する」ための方法として「盗むな」また「殺すな」などといった戒めがあるのです。何故なら、隣人を愛している人であれば盗んだり殺したりしないからです。この重要な戒めは、いつの時代の聖徒たちにも守られなければなりません。しかしながら、私たちは罪人なので、この戒めを常に、そして完璧に行なうことができません。それゆえ、私たちは罪を日々悔い改めて、より隣人愛を実践できるようになって行かねばならないのです。

【19:19】
『あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交らわせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。』
 神は、ユダヤ人が家畜における交配、畑に蒔く種、着る衣服における布地の糸において混合を禁止しておられます。家畜について言えば、馬と牛を交らわせてはなりません。畑であれば葡萄の種とミカンの種を一緒の畑に蒔いてはなりません。服で言えばポリエステルと綿で混紡された服を着てはなりませんでした。これはユダヤ人たちが民族的に純粋・純潔でいるべきだということを、行ないによって学ばせるためです。旧約時代においてユダヤ人だけが神の特選の民でした。そのような民が他の民や異教また御心に適わない外国の思想と混合したら大変です。そのため神はユダヤ人を混合から遠ざけようとして、このような命令で学ぶようにされたのです。

 新約時代の今とっては、もうこの規定を気にする必要はなくなりました。何故ならば、今やユダヤ人だけでなく全世界の民族が信仰により神の民となる時代だからです。家畜について言えば、私たちのうち異なる種類の動物を交らわせるような人はいないはずです。畑に二種類の種を蒔くということもあまりないと思われます。衣服の糸について言えば、今は多くの服が複数の糸から織られており、私たちが今着ている服も恐らくそうかもしれませんが、だからといってその服を着るべきではないということにはなりません。

【19:20~22】
『男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えらえていないなら、彼らは罰せられる。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、主への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によって主の前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。』
 ある男がまだ贖われていない、すなわち解放されていない女奴隷と寝た場合、その女奴隷が別の男と結婚するように決まっていたとすれば、女奴隷と寝た男は雄羊で罪過のための生贄を捧げねばなりませんでした。この場合、この2人は死刑に処せられません。何故なら、奴隷とは主人の財産であって(出エジプト記21:21)、道具としての人間だからです。しかし、男と寝た相手が奴隷でなければ2人とも死刑に処せられました(申命記22:23~24)。これは奴隷でない男女たちが死罪である姦淫を犯したからです。

【19:23~25】
『あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。』
 ユダヤ人がカナンに入植してから植える果樹は、3年目までは『割礼のないもの』とされました。無割礼とはすなわち異邦人のことです。神は無割礼の異邦人を旧約時代において退けておられました。つまり、3年目までの果樹が無割礼になるというのは、それを食べてはいけず、捨てておかねばならないということです。しかし4年目になると、それは聖となり、もはや退けられるべき果樹ではなくなりました。ですがこの4年目からユダヤ人が果樹の実を食べていいのではありませんでした。4年目に生じた実はことごとく神に捧げねばなりません。人間や動物の初子を聖別して神に捧げねばならなかったのと同様(出エジプト記22:29~30)、果樹もその初めの実は神に捧げねばならなかったのです。5年目になって、やっとユダヤ人はその果樹の実を食べることができました。5年と聞くと長いと思われるかもしれません。しかし、神は5年も待たせることでユダヤ人に嫌がらせをしておられるわけではありません。そうではなく、これはそうしたほうがユダヤ人にとって良いからでした。何故なら、『それはあなたがたの収穫を増すため』だからです。乳と蜜の流れる素晴らしい地にユダヤ人を導くためエジプトから連れ出して下さった御方である神が、どうして嫌がらせのためユダヤ人に5年待たせるということをされるはずがありましょうか。ありえないことです。新約の時代では、この規定を行なう必要がありません。何故ならば、4年目に実をことごとく神に捧げるといっても、どのようにして、どこで、それを捧げるのでしょうか。この規定は明らかに旧約の時代で行なうべきことです。旧約時代では、ごく普通に聖所で食物が捧げられていたからです。新約時代においては、善と賛美とによって神への捧げ物が捧げられるべきです。ヘブル13:15~16の箇所で言われている通りです。

【19:26】
『あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。』
 また血が禁止されています。ここでは血の付いたままで食物を食べてはならないと言われています。つまり、食物を食べる前にはしっかり血を取り除くべきだということです。聖書には、ユダヤ人が血を食べてしまった事例が一つだけ記されています(Ⅰサムエル14:31~35)。これは明らかに律法違反でした。ユダヤ人が血を食べてどうなったかは、今挙げたⅠサムエル記に何も記されていません。

 また、神は『まじない』を禁じておられます。これをしていた者は、エジプトの呪法師やアレイスター・クロウリーなどがそうです。既に出エジプト記22:18の箇所で見た通り、これを行なう者は死に値します。今の時代では、ハリー・ポッターやマジック・ザ・ギャザリングやファイナルファンタジーといった多くのファンタジー作品の中で魔法が使われていますが、これはここで言われている『まじない』に当たります。世は盲目で無知で鈍感なので、このような魔法について善悪の考察を全く考えようとさえしていません。それどころか教会さえも、これについてほとんど考察していない有様です。私は言いますが、聖徒たちは魔法の要素を自分から遠ざけるべきです。それは聖書で禁じられているからです。特に、子どもたちにこういった魔法が使われているファンタジー作品を楽しませるべきではありません。そうしないと、子どもたちが異教的・悪魔的・反聖書的な思想や要素に抵抗を持てなくなってしまうからです。悪魔と繋がりのある魔法に抵抗を持たないようになれば、悪魔と繋がりのある魔法以外の事柄にも抵抗を持たなくなるでしょう。このように言う私に耳を傾けるべきです。私は真面目なことを真剣に言っているのですから。また、神は『卜占』も禁じておられます。占いは昔から今に至るまで世界中で抵抗なく行なわれてきました。古代の王たちもよく占い師に頼りました。しかし、聖書はそれを罪としています。占いがどうして罪かと言えば、占い師であれ悪魔であれ空想的な存在であれ死者の霊であれ、神でない存在に未来を委ねるからです。未来は神にのみ属しています。未来を知らない私たちは、未来に何が起こるか知りません(伝道者の書8:7)。それにもかかわらず、未来を神以外の存在に属させるからこそ占いは罪なのです。占いをしていれば裁きにより滅ぼされかねません。実際、カナン人たちは占いをしていたので、カナンから滅ぼされてしまいました(申命記18:9~14)。

【19:27~28】
『あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。』
 ユダヤ人が『頭のびんの毛』を剃り落とすのは罪でした。『びんの毛』とは耳の回りにある毛です。アシモフや秋篠宮妃の父が、恐らくびんの毛を剃り落としていない実例であると思われます。このようにするのはユダヤ人に外見的な特別性と唯一性を付与するためだったのでしょう。ユダヤ人は霊的に特別で唯一の選民でしたから、そのことを髪型において示しているべきだったと考えられます。またユダヤ人は『ひげの両端』も損なってはなりませんでした。これもユダヤ人に外見的な徴を持たせるためだったのでしょう。キリストは全ての律法を完全に守られましたから、この『ひげの両端をそこなってはならない。』という律法も守られました。それにもかかわらず、キリストが髭のない顔として、または髭があっても両端が損なわれている顔として描かれているのは一体どういうわけなのでしょうか。このようなキリストの描写は、聖書から分かるキリストの外観とは異なっています。ここでは詳しく書きませんが、長髪のキリストもそうです。今見た2つの戒めは、男性だけを対象として向けられている戒めです。何故なら、女性は普通であればびんの毛を剃りませんし、男のように髭を持たないからです。

 古代の人間で、死んだ者のために自己の身体を傷つけるということはそれほど珍しくありませんでした。しかし、神はユダヤ人にそういったことを禁じられます。何故なら、ユダヤ人とは神の子である聖なる民であり神の宝だからです(申命記14:1~2)。そのような存在の身体が傷つけられるということはあってはなりません。ちょうど何億円も払って買ったゴッホの貴重な絵が傷ついてはいけないのと同じです。昔のインドでは、妻が死んだ夫の後を追って火の中に飛び込んで焼死するというのが非常な名誉とされました。このようにして死者のために自分を死なせるのも当然ながら禁止されています。新約時代の聖徒たちも、やはり死者のため自分の身体を傷つけるべきではありません。何故なら、聖徒たちの身体とは神の聖なる宮なのですから(Ⅱコリント6:16)。

 律法は入墨を罪として禁じています。現代社会において入墨は珍しくありません。日本では珍しいかもしれませんが、特にヨーロッパでは入墨をしている人が10~20%もおり、世界的に言えば入墨は珍しくないことです。しかし、現代の世界的な状況がどうであれ、神の御前において入墨は罪となります。しかしながら、キリスト教のあまり盛んでない我が日本で入墨が珍しいのに対し、キリスト教の盛んであるヨーロッパで入墨が珍しくないという、この矛盾した状況は一体なんなのでしょうか。やはり日本人は、入墨が罪であると知っていた古代ユダヤ人の子孫だということなのでしょうか。またヨーロッパの人たちは律法で入墨について何と言われているかさえ知らないほど世俗化が進んでいるということなのでしょうか。普通に考えれば、日本とヨーロッパで状況は逆だったはずです。つまり、日本には聖書の思想が満ちていないので入墨も多く見られ、ヨーロッパには聖書の思想が満ちているので入墨も少ないと。一体どうなっているのでしょう。この入墨を私たち日本人がしても、スターや芸能人でもない限り、デメリットのほうが大きいと思われます。入墨をしていれば多くの日本人に多かれ少なかれ驚かれるでしょう。恐怖感や不安を抱かれて真に親密な関係を築けなくなる可能性が大いに高まるでしょう。入墨を消したとしても消した跡が汚く残ってしまいます。入墨の彫り方にもよりますが、経年劣化で色がかすんだりすると悲惨になってしまいます。ところで、話が少しずれますが入墨をしている男は臆病だと自説を述べている女性がネットにいましたが、これはあくまでも主観による意見であって、確からしいとは思われません。何故なら、もしこの主観に基づいるだけの意見が本当だとしたらマイク・タイソンも臆病者だということになるからです。臆病者がヘビー級の大男たちと戦うことなど出来るはずはありません。タイソン以外にも入墨をしているプロの格闘家が一杯います。いやはや、多くの臆病者たちが格闘界で激しい戦いをしているとは今までに聞いたことのないことであり、驚かされます。そもそも本当に臆病者であれば痛みに耐えてまで入墨を入れようなどとしないでしょう。「痛いのは嫌だ。恐い。」などと思うでしょうから。こういうわけなので女性は静かにして黙っていなさいとパウロは言ったのです。

【19:29】
『あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。この地がみだらになり、この地が破廉恥な行為で満ちることのないために。』
 ユダヤ人が娘に淫乱なことをさせるのは罪でした。そのようにすれば、ユダヤ人の地が異常になり、多くの人たちが淫乱行為に進んでしまうからです。考えてもみてください。一人の娘が淫乱女になれば他にも1人以上のユダヤ人男が淫乱になり、淫乱女が増えれば増えるほどユダヤ人の共同体は破廉恥なことに抵抗を持てなくなります。聖なる神の聖なる民にこのようなことがあってはなりません。ですから、ユダヤ人は自分の娘を純潔に保つようにさせるべきでした。今の時代はと言えば、サタンが陰謀家を通じてフリーセックスの思想を世界中にばら撒きましたので、淫乱でなければ恥ずかしいとさえ思われる傾向があるぐらいです。例えば、日本で言えば童貞の男は格下として扱われることも少なくありません。戦後は淫乱であることがステータスになってしまいました。自分の経験人数を誇る者もちらほら見られます。これは何ということでしょうか。律法の命じる純潔を知らない現代社会におけるこのような汚らわしい淫らさは、神からの呪い以外ではありません。

【19:30】
『あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。』
 この箇所でも、また安息日の遵守が命じられています。これほどまでに遵守が何度も命じられていることから、安息日の遵守がいかに重要であったか分かります。また、ユダヤ人は『聖所』を恐れねばなりませんでした。何故なら、聖所とは神の住まいだからです。神は恐れられねばなりませんが、神の住まいである聖所も恐れられなければなりません。そこに神がおられるからです。もし聖所を恐れず軽く扱うのであれば罪となります。それはそこに住んでおられる神を恐れず軽く扱うのも等しいからです。新約時代の今となっては、もはやこの規定は過去のものとなりました。というのも、今ではもう制度としての安息日はなく、石造りの聖所も存在していないからです。

【19:31】
『あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』
 『霊媒や口寄せ』に心を傾け、彼らに頼るのは大きな罪です。それは『彼らに汚され』ることです。何故ならば、彼らは御心に適わないことを行なっているからです。もし神の御心に反したことを行なっている霊媒や口寄せに関わるのであれば、自分も神の喜ばれないことに関与してしまいます。それは自分を汚染させてしまうことです。愚かなサウルは窮地に陥った際、かつて国内から追い出した霊媒に頼りました(Ⅰサムエル28:3~8)。これは、あからさまな律法違反でした。今の時代にも霊媒や口寄せが数は少ないものの存在しています。私たちは聖なる民として、彼らに絶対に頼ってはなりません。私たちは神に、この神にこそ頼らねばなりません。そうすれば神は私たちに答え、助けを与えて下さいます。聖書で神がこう言われた通りです。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ33章3節)

【19:32】
『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』
 神は『白髪の老人』を敬うように命じておられます。老人の前で『起立し』なければならないとは、つまり老人の前では振る舞いや姿勢において失礼のないようにせよ、という意味です。これを着席すべき時にも起立していなければならないというふうに、あくまでも文字通りに捉えるべきではありません。もちろん起立しているべき場合が多いのは確かですけども、これは身体的に敬意を払うべきだということです。また、ここで敬うように命じられている『白髪の老人』とはまともな白髪の老人に限られます。何故なら、聖書において『白髪』とは正義や徳の象徴だからです。箴言でソロモンはこう言っています。「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」(箴言16:31)デイヴィッド・ロックフェラーのように忌まわしいことを平気で行なって何も恥じないような倫理無視の徒であれば、たとえ白髪の老人であっても敬意を払うに値しません。そのような老人の頭に見られる白髪は正義を示す印ではなく、ただ老いを示す印に過ぎないからです。私たちは『白髪』という言葉で聖書が何を言いたいのか箴言の巻からよく理解する必要があります。悪魔に憑りつかれた悪い白髪の老人に敬意を払えば、その敬意を利用され罠にはめられかねません。悪魔が光の御使いにさえ変装するのであれば(Ⅱコリント11:14)、白髪の老人にだって変装するでしょう。ただ白髪の老人でまともであったり本当に道義的な人であれば、心の底から敬意を持ちつつ接する必要があります。そうしなければ私たちが今見ている戒めを正しく守ることはできないでしょう。なお、この戒めは十戒の第5番目に属しています。『あなたの父と母を敬え。』という戒めの本質は「上にいる人に敬意を払う」という点にあるからです。

【19:33~34】
『もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてはエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。』
 既に見た通り、出エジプトの際にユダヤ人と共にエジプトから出た外国人が(出エジプト記12:38)、ユダヤの共同体には住んでいました。彼らこそ『在留異国人』です。彼らは、アメリカにいる黒人とは違い、元からそこにいた人たちに不満をぶちまける正当な理由を持っていませんでした。何故なら、黒人は強制的にアメリカに連れて来られたのに対し、ユダヤにいた外国人は自発的に付いて行ったからです。自分たちが自ら進んで付いて行ったのに、その付いて行った人たちのうちにいることで文句を言うのは、不条理であると言わねばなりません。神はこの在留異国人たちをユダヤ人が虐げないよう命じられます。それはユダヤ人たちもかつてはエジプトの地で在留異国人だったからです。ユダヤ人たちはエジプトの地でエジプト人から良く扱われたかったはずです。ですから、ユダヤ人は在留異国人を蔑ろにしてはいけませんでした。何故なら、ユダヤ人は隣人を自分のように愛さねばならないからです。ですから、ユダヤ人が在留異国人を虐げるのは罪でした。聖徒である日本人について言えば、私たちも日本にいる外国人を虐げたり差別すべきではありません。私たちが外国に行ったら外国人から良くしてもらいたいはずです。そうであれば、私たちもそのようにしなくていいはずがどうしてあるのでしょうか。私たちが外国人になれば外国で良くしてもらいたいのに、私たちは国内にいる外国人に良くしないとは何ということでしょうか。これが諸民族から「民度の高い日本人」と認識される人たちであるとすれば、条件付きでそう認識されねばならないことになるでしょう。すなわち、「民度の高い日本人(しかし国内での外国人差別は除く)」と。外国人を差別するというのは明らかに民度の高いことではありません。

【19:35~36】
『あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたの神、主である。』
 神は正しく、完全であり、誤りのない存在であられます。ですから、その民であるユダヤ人も全てにおいて正しくなさねばなりませんでした。神の民がいい加減であったり不正をするようであれば、神の御名を汚し、聖なる民として相応しく歩めないからです。新約時代の聖徒たちも、やはり全てを正しくなさねばなりません。ヴァン・ティルも言ったように、聖徒はその寛容さを商売の領域でも発揮することが多いので、それがかえって逆効果となり、商売相手としてはあまり信頼されないということが起こります。これは聖徒たちにとって不名誉ですから、未信者の人たちに躓きを与えないため、商売の領域では寛容さを抑え、むしろきっちり全て数字通りにしたほうが信頼されて良くなると思われます。そうなれば「あの人たちは何でもきちんとやる。あの人たちであれば大丈夫だろう。」と思われるようにもなるでしょう。ここで言われている『エパ』とは23リットル、『ヒン』とは3.8リットルです。

【19:37】
『あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行ないなさい。わたしは主である。」』
 神は、これらの命令を全て行なうようユダヤ人に命じられます。神の民は神に従うべきだからです。ちょうど、王に臣下や民衆が従うべきであるように。また、師匠に弟子が従うべきであるように。また、親に子が従うべきであるように。また、夫に妻が従うべきであるように。しかし、これらの命令を人間が自分の力で行なうことはできません。何故なら、人間はアダムの堕落以降、善の力を失ったからです。これはパウロがローマ3:10~18の箇所で示している通りです。しかし、それでは神は行なえないことをユダヤ人に命じられたということにならないでしょうか。実際、ユダヤ人はこれらの命令を行なえませんでした。確かに神はユダヤ人が守れないようなことを命じられました。これは何故だったのでしょうか。その答えは、アウグスティヌスも度々言ったように、ユダヤ人たちが命令を守れるよう神に祈り求めるためです。そうすれば神の恵みにより命令を守れるからです。しかし、ユダヤ人たちはそのように祈り求めませんでした。ですから彼らは命令を守れず、堕落に次ぐ堕落に陥ったのです。道徳的な律法は、新約時代の聖徒たちにも向けられていますから、私たちもそれを守らねばなりません。しかし、私たちもやはり昔のユダヤ人と同様、それを守れません。何故なら、私たちは堕落しているからです。ですから、私たちは神の法を守れるよう切に神に祈り求めねばならないのです。

【20:1~5】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺されなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならいモレクを慕って、淫行を行なうみだらな者をすべて、その民の間から断つ。』
 ユダヤの共同体にいる者でモレク崇拝をする者がいれば、死刑に処せられねばなりませんでした。何故なら、その者はモレクに子を与えることで、神の御名とその聖所を汚したからです。これは神に対するあからさまな裏切りです。神を裏切る者が神の御前とユダヤの共同体に居続けることはできない話です。後の時代になると、ユダヤ人は民族的にモレク崇拝をしてしまいました。王も民衆もモレク崇拝をしたのです。このためユダヤ人という民族は破滅的な裁きを受けることになったのでした。

 モレク崇拝者を死刑にする際は、皆で石を投げつけるやり方が定められています。皆で死刑にするのは、抑止力を強力に生じさせるためです。自分でモレク崇拝者を殺したユダヤ人が、自分自身もそれを行なえば死刑になるモレク崇拝を行なうことは非常に難しいからです。死刑の際に『石』が使われるのは何故でしょうか。石とは聖書においてキリストの象徴です。ですから、聖書的に考察すれば、石で死刑が行なわれるのはキリストという至高の審判官による裁きが人々の手を通して執行されるということなのでしょう。このような死刑方法を過激だと思う人もいるかもしれません。しかし、多かれ少なかれ過激であったとしても、刺激のない死刑方法にしたため抑止力が生ぜず、イスラエルにますますモレク崇拝が広まってしまうよりは、遥かにましでしょう。過激な死刑方法は罪でも反聖書的でもありませんが、モレク崇拝は罪であり反聖書的だからです。なお、モレク崇拝をしたユダヤ人は地獄に移されました。『偶像を拝む者…の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。』(黙示録21章8節)と書かれているからです。

 もしユダヤ人たちがモレク崇拝者を死刑にしなければ、モレク崇拝者と共にモレク崇拝者を許容した者たちは死刑に処せられねばなりませんでした。これはモレク崇拝を黙認するのが、モレク崇拝者の共犯者となったも同然だからです。それというのもキリストが言われたように「反対しない者は味方」だからです(マルコ9:40)。そのような者がイスラエルにいてはならないのです。

【20:6】
『霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。』
 先に見たレビ記19:31の箇所では『霊媒や口寄せ』に頼ってはならないと言われていましたが、その罪に対する裁きがどのようであるかは示されていませんでした。この箇所では、その裁きが死であると示されています。ですから、イスラエル人で霊媒や口寄せに頼る者はことごとく死刑にされねばなりませんでした。そのような者が少しでもいれば、モレク崇拝という罪がパン種のように広まってしまうだろうからです。

【20:7】
『あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。』
 ユダヤ人が汚れから自分を聖別するならば、聖なる者として歩むことができます。何であれ人が聖められるのはキリストによります。キリストこそ私たちを聖めて下さる御方だからです(Ⅰヨハネ1:7)。ですから、ユダヤ人が『自分の身を聖別する』のは他でもないキリストによりました。ユダヤ人は聖なる者として歩み続けねばなりませんでした。何故なら、ユダヤ人の神が聖であられるからです(レビ記11:45)。新約時代の聖徒たちも、もちろん聖なる者として歩み続けねばなりません。つまり、罪の汚れに陥って堕落するということがあってはなりません。

【20:8】
『あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行なうであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。』
 ユダヤ人がもし聖なる戒めを守ると決めたのであれば、必ずそれを守るはずです。その決定が真に堅固な意思に基づいていれば、です。しかし、その決定が弱い意志に基づく不確かな決定だとすれば、主の戒めを守ることは難しかったでしょう。

【20:9】
『だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。』
 既に出エジプト記21:17の箇所で命じられていた規定がそのままの文章ではないものの、再び同じ内容として命じられています。このように再び命じられるのならば、その戒めの認識率・確認率がより高まるので、よりその戒めをユダヤ人が守りやすくなります。大事な事柄についてはこのようにするのが神の知恵なのです。

【20:10~21】
『人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。人がもし、動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現わしたのである。ふたりはその民の間から断たれる。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。』
 既にレビ記18:6~23の箇所で書かれていたのと同一の規定内容が、ここでも書かれています。このように前と同一の事柄が再び書かれるのは、より良くこの規定をユダヤ人に守らせるためです。聖書の知恵は、重要な事柄を何度も書いて聖徒たちの心に刻もうとします。レビ記18章の箇所では、性的な禁止命令が書かれているだけで、罰則までは書かれていませんでしたが、ここでは罰則が書かれています。レビ記18章で言われていた禁止命令を犯す者はことごとく死刑に定められています。何故なら、聖書は不品行を何であれ死罪としているからです。つまり、不品行に走る者は自ら死の罰を求めていることになります。14節目では、親子の女2人を娶るならば火で死刑にせねばならないと命じられています。これはユダヤ人に非常な恐怖を生じさせて抑止力とするためです。20~21節目では、叔母および兄弟の妻と姦通するならば、その者たちは子を残せないと言われています。これは他の姦通の場合も同様であり、つまり子を残す余裕もないほど速やかに死刑にせよということです。また、この箇所で『血の責任』と言われているのは、もちろん殺人行為による血の責任という意味ではありません。これは「血すなわち命を死刑で奪われることになった不品行罪の責任」というほどの意味です。

【20:22~23】
『あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行なうなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行なったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。』
 ユダヤ人は、カナンに住むようになったら、神が命じられたすべての命令を遵守しなければいけません。何故なら、カナン人は神の御心に適わない罪ある行ないばかりしていたので、神に嫌われてカナンから吐き出されてしまったからです。ユダヤ人がカナンに入植するのは、そこで聖く正しく神に従って歩むためなのであり、そこからカナン人のように追い出されるためではありません。せっかくカナンに住むようになったのに追い出されてしまったのでは意味がありません。ところで、ユダヤ人はカナンという地の背後に天国を見るべきでした。何故なら、神はカナンという地上のパラダイスの象徴のもとに天国という真のパラダイスを約束しておられたからです。古代のユダヤ人たちは今、キリストと共に天国にいます。今や彼らはカナンが地上における天国の写しであったということを完全に悟っているはずです。

【20:24~26】
『それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、主である。あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』』
 神がユダヤ人にカナンを所有させて下さるので、ユダヤ人は聖なる規定を守り、聖なる者としてそこで歩まねばなりませんでした。神は、このように何度もユダヤ人が御自身の命令を守るよう命じておられます。それは既に述べた通り、ユダヤ人がまだまだ幼児であり、ガラテヤ人のように鈍く、コリント人のように未熟だったからです。ユダヤ人は、何度も何度も言われなければ学ぶことのない出来の良くない生徒のようでした。

【20:27】
『男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺さなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」』
 またも『霊媒や口寄せ』について命じられています。今度は、彼らを死刑にすべきだとはっきり命じられています。これで『霊媒や口寄せ』について命じられるのは3度目です(レビ記19:31、20:6)。三度も語られたというのは、つまりいかに神が彼らをユダヤ人から遠ざけようとしておられるかということです。神は『霊媒や口寄せ』といった者たちとその業が、どれだけ人間の心に忍び込みやすいかよく知っておられたのです。今の時代でも、キリスト教徒であるのにこのような業をしている人がいます。それは占いのことですが、占いは『霊媒や口寄せ』とほとんど同種の業ですから、今ここでそのキリスト教徒について語ったとしても問題はないでしょう。私は占いなど信仰を持っていなかった時でさえほとんどしたことがなく、今も当然ながら興味の欠片さえ持っていませんが、それでも占いをどこかで見ると得体の知れない魔力を感じます。その魔力はもちろん悪霊によります。そのような魔力を持つ占いに、無知なキリスト教徒が陥ったとしても、驚くべきことだとは言えません。教会で牧師が占いの悪魔性について教えないのであれば、確かに無知なキリスト教徒が占いをしたとしても不思議ではありません。それは非常な吸引力を持っているからです。その吸引力のゆえ、聖書は3度もそういった異教的な者たちとその業を否定しているわけです。私たちも占いや『霊媒や口寄せ』といったことに陥らないよう注意せねばなりません。

【21:1~4】
『ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。近親の、結婚したことのない処女の場合は、身を汚してもよい。姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。』
 祭司たちは、縁者であっても死者により自分を汚してはなりませんでした。それは死者に触れたり死者を運ぶことで、祭司たちの聖性が損なわれないためです。ただし、縁者でも『近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外』とされます。これは神が汚れを許容されたわけではありません。何故なら、聖なる神また神の聖性は、絶対に汚れを受け入れることができないからです。もし汚れを受け入れるのであればもはや聖ではなくなります。神が親や兄弟などは例外とされたのは、祭司たちの悲しみに配慮されたからです。祭司たちとて感情のある人間です。神は聖であると同時に憐れみ深い神でもあられますから、親や兄弟などだけは死者のために身を汚してもよいとされたのです。もう一度言いますが、これは神が例外的に譲歩されただけであり、神が汚れを許容されたということではありません。もし死んだ者が近親でなければ、いかなる場合であっても死者により身を汚すのは罪でした。親戚であってもそうです。祭司たちは聖なる者ですから、神は親戚まで例外の範囲を広げることはなさいませんでした。何事にも限度があるものです。

【21:5~6】
『彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。』
 祭司たちは、頭を剃ってはならず、髭の両端を残さねばならず、身体に傷を付けてもいけません。髭と傷については既に全てのユダヤ人に対して言われていました。ここではそれが特に祭司たちに向けて言われています。頭を剃るなという命令は、ここで初めて出てきます。これは祭司だけでなく一般のユダヤ人も守るべきことでした(申命記14:1)。

 また、祭司たちは聖でなければいけず、神の御名を汚してもいけません。それは彼らが神への捧げ物を捧げるからです。プロテスタントが正しく理解している通り、新約時代ではたとえ牧師がユダのような者であったとしても、その牧師が執行するバプテスマおよび聖餐式は正しく執行されます。しかし旧約時代の祭儀は、それを行なう祭司たちがおかしな汚れた者であってはいけませんでした。神に捧げられる聖なる捧げ物が、汚れた祭司によって捧げられるというのは、その捧げ物と神を汚すことに他ならないからです。というのも汚れた存在に触れるならば何でも汚れるからです。

【21:7】
『彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。』
 祭司が不貞女や離婚歴のある女と結婚することはできませんでした。そのような女は新品でないからです。祭司の聖性には新品で未開封の女が相応しいのです。例えば、天皇が皇居で走るための車を買う際、中古車や評判の悪い車を買うべきでしょうか。多くの人が同意すると思いますが、天皇が買う車としては新車かつほとんど悪い評判のない車が相応しいでしょう。祭司が不貞女や離婚歴のある女を娶るべきでないのは、これと同じです。もしそういった女を祭司が娶るならば罪となりました。しかし、一般のユダヤ人であれば、この規定に縛られてはいません。王でさえそうです。ダビデは結婚したことのある女を最低でも2人は娶っているからです。

【21:8】
『あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。』
 モーセは祭司たちを汚れから聖別せねばなりません。聖別されるのは神により、救い主イエス・キリストによります。つまり、モーセは神の代理として聖別をしたのです。聖別される祭司たちはモーセに対して聖でなければなりません。何故なら、祭司たちは神がモーセを通して定められたパンを捧げるのだからです。ですから、祭司たちはモーセの前で汚れたり、また汚れたままでいてはなりませんでした。

【21:9】
『祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。』
 もし祭司の娘が不貞を行なうなら、家族は契約的に一体であるゆえその娘が祭司である父を汚しますので、その娘は火の死刑で死なねばなりませんでした。何故なら、不貞をした娘により祭司である父が汚されたならば、神の聖所とそこにおられる神にまで汚れを及ぼすことになるからです。これは誠に由々しきことです。祭司の娘であるからというので大目に見られはしません。むしろ、祭司の娘という特別な立場にいるからこそ容赦なく火で焼かれねばなりません。祭司とその家族は、一般のユダヤ人より遥かに正しく歩むべき義務を負っているからです。ちょうど普通の人であれば過失をしてもそこまで大きな騒ぎにならないのに対し、大企業のトップがそれをすれば全国的なニュースとして騒がれてしまうのと一緒です。

【21:10~15】
『兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしは主である。彼は処女である女をめとらなければならない。やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別する主だからである。」』
 大祭司が髪を乱したり装束を引き裂いたりするのは罪でした。大祭司の聖性にそのような振る舞いは適合していないからです。キリストという真の大祭司を象徴する地上の大祭司がそのような振る舞いをしていいはずがどうしてあるでしょうか。

 また、大祭司はたとえ父や母であっても死者のところに行って自分を汚してはなりませんでした。既に見た通り、普通の祭司であれば父や母などにより身を汚すことが例外的に出来ましたが(レビ記21:1~3)、大祭司の場合は父や母であっても禁止されます。これは大祭司が聖なるイエス・キリストの影として存在しているからです。

 また、既にレビ記10:7の箇所で言われていたことですが、大祭司が聖務中に聖所から出るのは罪でした。もし出るならば裁かれて死にました。何故なら、大祭司は『神のそそぎの油による記章を身に着けているから』、すなわち聖所の中で任務を果たしているべき状態にあったからです。その時に聖所から出るのは聖務を勝手に放棄することですから、神の裁きが下ります。

 また、レビ記21:7の箇所でも言われていましたが、大祭司は処女と結婚せねばいけませんでした。それはユダヤの民のうちにあって、大祭司の『子孫を汚すことのないため』です。つまり、大祭司の子孫が姦淫の汚れにより生じるべきではないということです。大祭司は聖なる存在ですから、その子孫も聖い血筋でなければいけませんでした。

【21:16~23】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。盲人、足なえ、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、あるいは足や手の折れた者、せむし、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別する主だからである。」』
 祭司の子孫で、身体に異常のある者は、祭儀を行なうことも至聖所また祭壇に近づくこともできませんでした。身に欠陥のある者がそのようにすれば、聖所が汚されるからです。ですから、祭司は身体的に正常でなければいけませんでした。この箇所では身体的な欠陥として禿げは挙げられていませんが、先に見た通り、禿げは疾患でも汚れでも障害でもありませんから(レビ記13:40~41)、祭司が禿げていても全く問題ありませんでした。白髪も同様です。白髪は『光栄の冠』(箴言)なのですから、むしろ聖なる祭司にとっては相応しい飾りとさえ言えるほどです。身に欠陥のある祭司が聖所を汚してしまうのは、「聖」と「欠陥」が適合していないからです。「聖」は正常であることに適合しています。何故なら、「聖」の定義の一つはすなわち「全くまともであること」なのですから。しかし、それまで身体的に正常であった祭司が、病気や事故などにより途中から欠陥の身となったとすればどうなるのでしょうか。この場合、もはやその人は祭司の聖務を行なえません。神はここで身に欠陥のある者は祭司として不適格だと示しておられるからです。

 しかし、身に欠陥のある者であっても、神のパンは食べることができます(22節)。身に欠陥があってもアロンの子孫であることには変わらないからです。神は、身に欠陥があるからといって、全てをその人から取り上げられることはされません。

 身に欠陥を持った者は祭司になれないと聞くと、現代人の多くは、何か差別が行なわれているかのように思うかもしれません。現代は、障害者の人さえ政治家になれるほどに、社会が障害者に対して寛容な精神を持つようになったからです。しかし、皇帝や王などの統治者であれば、身体に異常があれば違和感を誰でも感じるはずです。これまでに存在した統治者を見ても、誰の目にも明白な身体的障害を持つ人はほとんどいませんでした。ルーズベルトは下半身不随の障害者であり、車椅子に常時乗っていましたが、それを知られたくなかったので全く国民に隠し通し続けました(今でもルーズベルトが障害者だったと知らない人は多くいます)。つまり、統治者であればやはり異常な身体を持っていることは不自然に感じられてしまいます。であれば、尚のこと祭司に身体的な異常があってはならないことになります。何故なら、神に直接仕えている祭司は聖ですから、王よりも遥かに身体的な正常さを持っているべき必要があるからです。

【21:24】
『モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。』
 すなわち、神の音声による御告げをモーセがイスラエル人に対して媒介しました。

【22:1~2】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは主である。』
 『イスラエル人の聖なるもの』すなわち捧げ物は、神のために聖別されてから捧げられねばなりませんでした。何故なら、聖なる神にどうして俗である物が捧げられていいでしょうか。神は俗なる御方なのでしょうか。そのようなことはありません。ですから、聖なる神には聖別された聖い捧げ物が捧げられねばならないのです。

【22:3~9】
『彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が主のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、私の前から断ち切られる。わたしは主である。アロンの子孫のうち、らい病人、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしは主である。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのため罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別する主である。』
 祭司は汚れたままで聖なるパンや肉を食べられません。それを食べるには、汚れた状態から清められるまで待たねばなりませんでした。何故なら、聖なるパンや肉は聖なる存在にこそ食べられねばならないからです。これは、有害な菌を手に持っている者が、その手をしっかり消毒するまでは何かを手で持って食べるべきではないのと同じです。また、祭司が汚れを移す存在に触れたならば、祭司まで汚れてしまいました。そのようになったら、汚れから清められない限り、聖なるものを食べることが出来なくなります。つまり、祭司は汚れを移す存在に触れるべきではありませんでした。

 また祭司は自然死したり野獣に殺された動物の肉を食べてはなりませんでした(8節)。これは既にレビ記17:15~16の箇所で全てのユダヤ人に対して命じられていたことですが、ここでは祭司に向けてそれが命じられています。一般のユダヤ人でさえこのような動物の肉を食べるべきではなかったとすれば、尚のこと祭司はそれを食べてはなりませんでした。何故なら、祭司は一般のユダヤ人よりも遥かに聖くあることが求められているからです。

 もし祭司たちが聖なるものを汚すならば裁かれて死にました。聖なるものは聖として保たれねばならず、そのようにするのが祭司たちの任務だからです。しかし、祭司たちが聖なるものを汚さなければ、『彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことは』ありませんでした。その場合、祭司たちが任務をしっかりと果たし、聖なるものを聖として保ったからです。

【22:10~16】
『一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離婚された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。イスラエル人に、その主に奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別する主だからである。」』
 祭司と祭司に属している者でなければ、聖なるものを食べてはなりません。もう少し詳しく言えば、祭司を契約の代表者として持っている契約の一員でなければ、祭司と共に聖なるものを食べることはできませんでした。ですから、『祭司に金で買われた者』は聖なるものを食べることができました。何故なら、祭司に金で買われた者は、祭司と契約的に一体となったからです。しかし、『祭司と同居している者や雇い人』は、それを食べられませんでした。何故なら、彼らは祭司とただ一緒に生活しているだけであり、祭司と契約的に一体ではないからです。また、祭司の娘が一般人と結婚して祭司の家族でなくなった場合も、やはり聖なるものを食べられなくなりました。何故なら、祭司の娘が一般の人と結婚すれば、祭司ではなくその結婚した一般人と契約的に一体になるからです。

 人間は神でも機械でもありませんから、過ちを避けることができません。であれば聖なるものを間違って食べるということも起こりかねません。神は、もしそういったことが起これば、その食べた分に『五分の一を足して』祭司に渡さねばならないと定められました。ただ20%分を上乗せして返せばそれだけで済んだのは、それが故意にではなく単なるミスにより犯された罪だからです。この『五分の一』という比率は、先に見たレビ記5:16、6:5の箇所でも償いの内容として規定されていました。