【レビ記22:17~26:21】(2021/12/12)


【22:17】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえを主にささげるなら、あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。盲のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものを主にささげてはならない。また、これらのものを主への火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主にささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」』
 ユダヤ人が、誓願の捧げ物か進んで捧げる捧げ物として全焼の生贄を捧げるなら、牛か羊か山羊で欠陥のない雄を捧げねばなりません。何故なら、それはキリストの影として捧げねばならないからです。キリストには罪も汚れもありませんでしたから、欠陥のある動物では象徴されません。またキリストは男の性を取って人間になられましたから、全焼の生贄の場合は雄であるべきでした。しかし、和解の生贄であれば雌でも捧げることができました(レビ3:1)。進んで捧げる捧げ物としては、足が長すぎるか短すぎるかするぐらいであれば、捧げることは許容されました(23節)。もし欠陥のある捧げ物を捧げるならば、それは罪です。そのような捧げ物は神に受け入れられません。例えば、高貴な権威者にボロボロになった菓子を献上していいでしょうか。あってはならないでしょう。神に欠陥のある捧げ物を捧げるのは、これと似ています。また、古代のユダヤでは、外国人も食物や動物を生贄として捧げることができました。ですから、古代の王たちがエルサレムまで動物を連れて来るということは珍しくありませんでした。聖所の素晴らしさに畏敬の念を持つ異邦人は少なくなかったからです。しかし、外国人が何か欠陥のあるものを持って来れば、それは祭司が捧げることは許されませんでした。たとえ、それを持って来た外国人が機嫌を損ねたとしても、です。何故なら、そのような捧げ物を捧げるのは神を侮辱また愚弄することだからです。

 ユダヤ人は、このような規定に違反し、欠陥のある動物を捧げていました(マラキ1:13)。しかも、そのようにしていながら平気であり恥じることもありませんでした。これはキリストを否定し冒瀆することも同然でした。何故なら、神へ捧げる動物はキリストが象徴されるべきだからです。このような罪のため、ユダヤ人はローマの支配下に陥り、最後にはローマに滅ぼされてしまいました。新約時代に生きる私たちも、欠陥のある捧げ物を捧げてはなりません。例えば、献金の際、偽札やオモチャのお金を捧げたりしてはなりません。そのようにしたら必ず罰せられるでしょう。

【22:26~28】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それは主への火によるささげ物として受け入れられる。しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。』
 生まれたばかりの牛、羊、山羊を捧げる場合は、『八日目以後』にせねばなりませんでした。これは出エジプト記22:30の箇所でも書かれていました。その生まれた動物が聖別されるためには(出エジプト記13:1)、聖なる7日を待たねばなりません。8日以前に捧げるのはフライングでした。『すべての営みには時がある』(伝道者の書3章1節)のです。また、生まれてから八日目以後に捧げるとしても、母と一緒に捧げてはなりませんでした。これはユダヤ人に憐れみを学ばせ、実行させるためです。たとえ動物であっても母と子を一緒に屠るというのは痛ましいことです。ユダヤ人は神に倣うべきでしたから、神が憐れみ深いように、憐れみを覚えねばなりませんでした。神が憐れみに富んでおられるのに、その民は憐みを知らないというのではいけないからです。生まれた子を母と同じ日に捧げるべきでないというこの規定は、申命記22:6~7や出エジプト記23:19の箇所と、動物にも憐れみを幾らかでもかけるという点で一致しています。

【22:29~30】
『主に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。』
 感謝の生贄が捧げられる際は、それを『あなたがたが受け入れられるように』、すなわち律法で規定された通りに捧げねばなりません。その規定はレビ記7:12~14の箇所で書かれています。規定通りに捧げないのは『あなたがたが受け入れられるように』してではありませんでした。そのようにするのは罪となります。また、その生贄は当日中に食べねばなりません。これは既にレビ記7:15の箇所で命じられていました。

【22:31~33】
『あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行なえ。わたしは主である。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。」』
 ユダヤ人は神に服従しその聖なる名を聖く保つべきだと、ここでも再び命じられています。何故なら、神はユダヤ人を支配しユダヤ人から聖とされるため、ユダヤ人をエジプトの地から連れ出されたからです。もしユダヤ人が服従せず神を汚すのであれば、どうしてエジプトから連れ出されたのか分からなくなってしまいます。ところで、ヴォルテールのように聖書に文学的楽しさを求める人は、このような繰り返しをつまらないと思うのでしょう。しかし、神はユダヤ人に何としても敬虔さを得させようとしてこのように繰り返しておられるのです。ヴォルテールのような人でも、物分かりの悪い弟子や子どもには何度も同じことを繰り返して命じるはず。であれば、どうして神の場合はそのようにされるのを非難するのでしょうか。まあ、私たちは彼らが聖書に対して不敬虔なおしゃべりを言っていても、そんなことなど気にせず神を愛し信頼していればそれでいいだけの話なのですが。

【23:1~3】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として招集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。』
 週の七日目は安らがねばならず、『会合の日』でしたから皆で神のために集まらねばなりませんでした。安息日はユダヤ人にとって『どこに住んでいても』守られねばなりません。たとえ聖所から遠く離れた場所にいても、安息日は安息日ですから、ユダヤ人は全き休みを取らなければなりません。このようにまた安息日の定めが命じられているのは、どれだけ神がユダヤ人に安息日を守らせようとしておられたか、ということを示しています。

【23:4~8】
『あなたがたが定期に招集しなければならない聖なる会合、すなわち主の例祭は次のとおりである。第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」』
 ユダヤ暦の1月14日から毎年行なわれる過越し祭について規定されています。この祭りが1月14日に行なわれるのは、この日に主がユダヤ人を過ぎ越されたからです(出エジプト記12:6~14)。15日から七日間はずっと種のないパンを食べねばなりません(出エジプト12:15)。これは種が罪を象徴するからであり、また出エジプトの際にはパンに種を入れる余裕さえなかったことをユダヤ人が忘れないためです。また、その七日間は連日、火による捧げ物が主に捧げられねばなりません(8節)。そのうち1日目と7日目は聖なる会合をします。この過越し祭はユダヤにおいて非常に重要でしたが、今となってはもはや行なう必要がありません。何故なら、これは今や聖餐式で置き換えられているからです。

【23:9~14】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。』
 初穂の祭りについて規定されています。これは『七週の祭り』(申命記16章16節)とも呼ばれます。何故なら、この祭りでは7週間の間、初穂の束を神に捧げるからです。ユダヤ人は『初穂の束を祭司のところに持って来』なければいけません。祭司はそれを主に向かって揺り動かします。そうしなければ神の怒りを燃え上がらせるからです。このように揺り動かすのは『安息日の翌日』です。ですから、『七週の祭り』である初穂の祭りでは計7回、集められた穀物が捧げられることになります。束を揺り動かす日には雄の子羊で全焼の生贄を捧げねばなりません(12節)。捧げるべき穀物は、13節目で規定されている通りです。ユダヤ人は、この捧げ物を持って行ってからでなければ、収穫した初穂を口にすることができません(14節)。何故なら、何事であれ神がまず第一であり、その次に人間が置かれねばならないからです。首位権は神にこそあります。人間であれ家畜であれ初子はどれも捧げねばならないという規定でも(出エジプト22:29~30)、このことが言えます。

【23:15~21】
『あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。あなたがたの住まいから、奉献物としてパン―主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの―二個を持って来なければならない。そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。その日、あなたがたは聖なる会合を招集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。』
 この祭りの期間は7週間ですが、これは「7」ですから祭りが聖であることを示しています。7週間が終わって50日目になると、新しい穀物の捧げ物をもう再び捧げます(16節)。そして、種を入れたパン二個を持って行かねばなりません。この時にはパンに種を入れることが許されています。また、このパンと共に全焼の生贄および宥めの香りの火による捧げ物を捧げねばなりません(18節)。また、雄山羊一頭で罪のための生贄を、雄の子羊二頭で和解の生贄を捧げます(19節)。この二頭の子羊と初穂のパンは祭司の分け前として与えられますから、祭司は奉献物としてそれを揺り動かさねばなりません。50日目は安らいで『聖なる会合』を行ないます。その日は、ユダヤ人がどこにいても規定通りに安らがねばなりません。

【23:22】
『あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」』
 ユダヤ人が初穂を刈り入れる時、作物を『貧しい者と在留異国人のために』多かれ少なかれ残しておかねばなりませんでした。これは神が飢えている人を憐れまれるからであり、またユダヤ人たちが憐れみを学び、実践するためです。神が憐れみ深いようにユダヤ人も憐れみ深くならねばなりません。どれだけ作物を残すかは畑の所有者の自由裁量に任されています。というのも、畑のある場所によって、貧しい人や在留異国人が付近にいる割合やその畑に近づく頻度が違うからです。例えば、誰も来ないような山奥にひっそりある畑であれば、作物を残しておいても無駄になるだけですから、ほんの少しだけ残しておけば神に嘉せられたはずです。どうして誰も飢えた人が来ないのに作物を多く残さねばならないのでしょうか。神は『貧しい者と在留異国人のために』作物を残しておけと言われたのです。しかし、多くの飢えた人がいる場所であれば、かなり残しておくべきだったはずです。多くの飢えた人が畑の付近にいるのを知りながら、少ししか作物を残しておかないというのは飢えた人への憎しみと軽蔑を示しているからです。この規定は、既にレビ記19:9~10の箇所でも定められていました。今の日本では、この規定を実践して効果が出るようにするのは難しいと思われます。何故なら、貧しい人のために畑の作物を残しておいても、貧しい人がそれを自由に食べるかどうか私たちには分からないからです。ホームレスの人がそういうことをしていれば、それを見た誰かが警察に通報するかもしれません。そうであれば、今の時代においては、何か別の方法で貧しい人への憐れみを実践したほうが効果的かもしれません。

【23:23~25】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」』
 第七月の1日目は、安らぎと会合の日です。これ以外にも第七月にはもう2つの儀式があります。どうして7月だけ3つも特別なことが定められているのでしょうか。それは7月が年の変わり目だからであり、また「7」が聖なる数字だからでしょう。この日に労働する者はユダヤから断ち切られていたはずです。続いて見る贖罪の日に労働をする者は滅ぼされると書かれていますが(30節)、7月1日の場合も恐らくそうだっただろうからです。この日に『ラッパを吹き鳴らして記念する』のは、神にユダヤ人が覚えられるためです(民数記10:10)。

【23:26~32】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」』
 9日後の10日は大贖罪の日となります。これについては既にレビ記16章で見ておきました。この日に清めをしない者、また仕事をする者は、イスラエルから断ち滅ぼされました。何故なら、清めをしないとは贖罪の否定であり、仕事をするのは神の安息に対する冒瀆だからです。これも、やはりユダヤ人がどこにいても守らねばならないことでした。この日にユダヤ人が自分の身を戒め るのは、9日目の『夕方から次の夕方まで』です。何故なら、ユダヤにおける1日は前日の夕方から次の夕方までだったからです。それは創世記1章で『こうして、夕があり、朝があった。第〇日。』と書かれているからです。

【23:33~43】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物を主にささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物を主にささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。以上が主の例祭である。あなたがたは聖なる会合を招集して、火によるささげ物、すなわち、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、主にささげなければならない。このほか、主の安息日、また、あなたがたが主にささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとし、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」』
 7月15日からは『仮庵の祭り』が7日の間、行なわれます。この7日間では、連日火による捧げ物が神に捧げられます。最初の1日と8日目は安らいで聖なる会合を開き、火による捧げ物を神に捧げます。これはユダヤ人を清めるために捧げられます。この1日目と8日目に労働をしたならば裁かれました。7日間の最初の日には木の実や葉や枝などを用意し、それで七日間神のために喜びます。この実や葉などは喜びを象徴しています。ユダヤ人たちもキリストが来られた際、木の枝をもってキリストの到来を喜びました(マタイ21:8~9)。仮庵の祭りが七日間であるのは、それが聖なる祭りだからです。また、この七日間にユダヤ人はずっと仮庵に住まなければなりませんが、これはエジプトから神により連れ出されたユダヤ人が荒野で仮庵に住んでいたことを、ユダヤ人の子孫たちが知るためでした。このようにして体験的に知らないと、すぐにも昔の記憶が継承されなくなるからです。

【23:44】
『こうしてモーセはイスラエル人に主の例祭について告げた。』
 このようにしてモーセは神から告げられた4つの『主の例祭』、すなわち安息日、過越し祭、初穂の祭り、仮庵の祭りをイスラエル人に神の命令の媒介者として知らせ終わりました。

【24:1~4】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えず、そのともしびをととのえておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前にととのえておかなければならない。』
 アロンは、夕方から朝まで、イスラエル人の用意した上質なオリーブ油を、聖所の南側に置かれていた燭台に整えねばなりませんでした。これは神が光であられ(Ⅰヨハネ1:5)、聖所はその神が住んでおられる場所だからです。旧約時代の聖所は、天という真の聖所の写しです(ヘブル8:5)。天の聖所は常に明るく、暗闇はそこに全くありません。ですから、天の聖所を象徴する地上の聖所では、夜に暗闇となってはいけなかったのです。この時に使われるべきオリーブ油は、特上でなければいけません。今の時代で言えば100億円ぐらいかかっても、です。何故なら、それは神の住まいである聖所を照らすために使われるのですから。令和天皇の即位礼の際には160億円が投入されましたが、人間のためにこれだけ使われるのであれば、神のためには更に使われてもよいのです。アロンはこのように夜勤をせねばなりませんでした。もう既に80を超えていましたが、このような夜勤をしていたのにもかかわらず、アロンの寿命や健康は損なわれないでおり、彼は『123歳』(民数記33章39節)まで生きました。祭司は職務内容のため内臓の病気にかかりやすいという傾向を持っていましたが、神が生かして下さるのであれば、アロンのように祭司でも長生きできました。というのも、『すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。』(ヨブ12章10節)からです。夜勤をせねばならないのは、アロン以降の大祭司でも同じです。もしアロンが怠慢により、夜に聖所を暗くしてしまった場合は、罪に定められたはずです。その場合、アロンは罪過のための生贄を捧げねばならなかったはずです。何故なら、灯を整えないという罪は、神とその住まいである聖所に対する罪だからです。

【24:5~9】
『あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。それを主の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。それぞれの並びに純粋な乳香を添え、主への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」』
 アロンは、安息日ごとに、神のパンを6個ずつ二列にして聖所の北側に置かれている机の上に供えねておかねばなりません。神のパンが「12個」であるのは、イスラエルの12部族を示しています。このパンの並びに『純粋な乳香』を添えるのは、捧げ物をより喜ばしくするためだったのでしょう。このパンは祭司たちの分け前として与えられます。ダビデはこのパンをひもじかった時に食べましたが、律法の本質は愛と憐れみなので、本来であれば祭司しか食べられないパンを食べても罪とはされませんでした(マタイ12:3~4、Ⅰサムエル21:1~6)。もしダビデが神のパンを食べて罪に定められていたとすれば、律法の本質は愛と憐れみではなかったことになります。

【24:10~16】
『さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェミロテで、ダンの部族のディブリの娘であった。人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。そこで、主はモーセに告げて仰せられた。「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。』
 ユダヤ人とエジプト人の血を持つ者が主の御名を冒涜したので、死刑に処せられることとなりました。それは神が直接御命じになりました(14節)。エジプト人に流れるハムの血が、この者に御名の冒瀆という愚行を行なわせたのでしょうか。いや、ハムの血を持っていないアロンとその子たちも神に対して冒涜的なことをしました。サウルもそうです。それゆえ、この冒瀆罪はハムの血によるというよりは、人間の一般的な堕落性に帰するほうが適切ではないかと思えます。

 この者に対する死刑方法は、公開的なやり方であり、全会衆により死刑が執行されます。その者はユダヤの共同体から断ち滅ぼされるので、死刑の際には『宿営の外に連れ出』されます。そして、その者の冒瀆の言葉を聞いた者が、その者の頭に手を置きます。これは確かに冒瀆の言葉を聞いたという誓いです。全会衆が『石』を投げて死刑に処するのは、既に述べましたが、キリストの裁きが下されることを意味しています。また、全会衆が死刑に参加するのは、イスラエル社会に強い抑止力を生じさせるためでした。

 この事件をきっかけとして、神は御名の冒瀆罪を死刑として定められました。神の御名は聖く保たれなければならないからです。根本的に存在される御方、万物の泉である御方、栄光に満ちた聖なる御方、このような神を冒涜して罰を受けないままでいるはずはありません。御名を冒涜する者は死ななければならないというこの罰則は今の時代でも変わりません。神は今の時代でも、ニーチェのように御自身を冒涜する者を呪われ、その者に悲惨な最期をお与えになります。

【24:17】
『かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。』
 冒瀆者を死刑において殺すというのであれば何も問題はありません。それは殺人というよりは、むしろ神の裁きの代理行為と言うべきことだからです。しかし、死刑の時ではなく勝手に人を殺すのであれば、刑罰として死刑に処せられました。ですから、こう言われています。『かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。』今でもこの定めは昔と変わらず実現されています。その多くは国家における司法の働きによっています。もし国家が殺人者を死刑にしない場合は、神が直接その者を死刑に処せられます。リンネの「神罰」という本を読むと、このことがよく分かります。しかし、出エジプト記の註解でも書いた通り、モーセやダビデのように殺人をしても死ぬことがない例外的な人も時にはいます。そのような人たちは、神が死なせるのを望まれなかったので殺人を犯したのに死ななかったものの、代わりに他の刑罰や懲らしめにより苦難を味わうことになります。

【24:18】
『動物を殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。』
 動物を殺しても、人を殺した場合のように死刑とはなりません。何故なら、動物は神の似姿ではないからです。動物を殺した人は、その殺した動物を持ち主に対して償わなければなりません。すなわち、1匹の動物を殺したならば1匹の動物を買って返すか自分の飼っている動物の中から返さねばならず、10匹の場合でも、100匹の場合でも同じようにせねばなりません。10匹殺したのに9匹以下の動物しか返さなかったり、全く返さなかったりするのは駄目です。

【24:19~20】
『もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。』
 聖書は同害刑法を定めています。誰かが誰かを害すれば自分も害した通りに害されなければならない、というのが神の知恵による定めです。ですから、統治者の判断と民衆の意向抜きで強制的に実現させることは出来ないしまたすべきではありませんが、国家の法においては同害刑法が理想とされねばなりません。何故ならば、神の定めに優る定めが他にあるでしょうか。神の知恵に優る知恵があるでしょうか。例えば、日本で同害刑法が適用されたと想像してみましょう。ある人がある人を殴って失明させたので、刑罰として失明した被害者が加害者を殴って失明させます。これは何と恐ろしいことでしょうか。多くの国民が震え上がるに違いありません。そうであれば、もはやあえて人を殴ろうとするような人は日本において激減するはずです。もし殴って人を害せば自分もそうされるということが分かるのですから。しかし今の日本では、このような同害刑法は実現されていません。人を害しても刑務所で数年間我慢すれば再び社会に戻ることができます。こんなことでは過去に起きたのと似たような事件が繰り返し起こっていたとしても、何も不思議ではありません。同害刑法による抑止力と威嚇が働いていないのですから。今でも過去と似たような事件が度々起きていますが、これからも過去に起きたのと似たような事件が繰り返されてよいでしょうか。よいはずがありません。そうであれば、部分的・試験的にでも構わないので、同害刑法を少しずつ実現させていくべきでしょう。同害刑法は神の御心ですから、必ず良い効果が出て来るでしょう。「しかし、そういった刑罰が下されるのは過激ではないのか。」などと言うことはできません。同害刑法を実現させて抑止力のために過激な刑罰が執行されることよりも、同害刑法を実現させないので再び過去と似たような事件が度々繰り返されるほうが遥かに過激さにおいて優っているからです。後者のほうが明らかに過激なのですから、前者の過激さを許容するべきなのです。

【24:21】
『動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。』
 レビ記24:17~18の箇所で定められていた規定が、再び繰り返されています。これは動物の殺害(レビ記24:18)と人間の殺害(レビ記24:17)における事後処罰の相違について確認するためです。すなわち、動物は殺しても償いだけをすればよく、人間は殺したら自分も殺されねばなりません。

【24:22~23】
『あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、主がモーセに命じられたとおりに行なった。』
 こうして御名を冒涜した者は、神の規定通りに皆で死刑にされました。この出来事が起きたのは、ユダヤにいる人々に学習させるためでした。すなわち、ユダヤの共同社会では『在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない』ということを理解させるため、摂理によりユダヤ人でもあり外国人でもある混血の者が御名を冒涜したのです。このような者が処罰されたら、ユダヤ人であり外国人である者が処罰されるわけですから、ユダヤにおいてはユダヤ人も外国人も共通の裁きを下さねばならないことがよく分かります。つまり、ユダヤ社会ではユダヤ人だからといって刑罰を緩和してはならず、在留異国人だからといって仕方ないと大目に見たり、それとは逆にかえって在留異国人だからというので規定より過激な刑罰を下したりしてはいけませんでした。言い方はあまり良くありませんが、ユダヤ社会においては、神の罰則規定が機械のように例外なく適用され実施されるべきでした。

【25:1~7】
『ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの安息である。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。』
 ユダヤ人がカナンに住むようになってからは、土地を7年目に休耕させねばなりませんでした。7年目は土地を放っておかねばなりません。7年目に休むのは、宗教的にはキリストという真の安息を指し示すためです。これは勧めではなく命令ですから、イスラエルでは必ずこのようにされねばなりませんでした。もしそうしなければイスラエルは民族的に罪を犯すこととなります。キリストという安息の本体が現われた今では、もうこの安息年を守る必要がありません。ところが、愚かなガラテヤ人たちは、キリストが既に現われたのにもかかわらず、昔のように安息年を守ろうとしていました(ガラテヤ4:10)。新約時代になったのに、安息年の本体であるキリストではなく、本体の影でしかない安息年に心を傾けていたガラテヤ人の愚かさはどれほどだったでしょうか。パウロはこのようなガラテヤ人たちを正そうとしています。私たちもガラテヤ人と同じようになってはなりません。

【25:8~17】
『あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。』
 聖なる7年が聖なる7回繰り返されると『四十九年』となります。この49年目の大贖罪日には、神に覚えられるため『全土に角笛を鳴り響かせなければな』りません。贖罪日である7月10日に角笛を鳴り響かせるのは、この49年目だけです。これは次の年が『ヨベルの年』の50年目だからです。この『ヨベルの年』とは、全てを休ませ全てを元に戻す年のことです。この年は、畑に手を全く加えてはなりません。その年はユダヤにとって聖だからです。この年と前年すなわち49年目は土地を休ませなければなりませんから、この時期は2年も土地に手を付けられません。51年目になって再び手を付けることができます。また、ヨベルの年には、土地の買い戻しが行なわれます。これは本来的に定められていた通りにユダヤ人の所有すべき土地が戻るためです。ですから、50年目には売買により既に変わっていた土地の所有者が再び以前のようになります。買い戻しの金額は収穫年数に基づいて決められます。これは土地の本質が収穫物を生じさせるという点にあるからです。この買い戻しが行なわれる際には不正を行なってはなりませんでした。また、ヨベルの年には全てのユダヤ人がそれぞれ自分にもともと定められていた所有地および家族のもとへ帰らねばなりません(10節)。

【25:18~22】
『あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、わたしは、六年目に、あなたがたのために、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。』
 ユダヤ人が、「7年目に土地を放っておくならば7年目を含めた3年間は何を食べたらよいのか?」などと案ずるには及びませんでした。何故なら、神が6年目の収穫で、7~9年目までの収穫を生じさせて下さるからです。ユダヤ人は7~9年目まではそれを食べれば生きることができます。古代のユダヤではこのようなことを神がしておられました。6年目だけいつもの3倍の収穫だったのです。聖徒たちはこのことを信じるべきです。その時は、まだ神が証拠としての奇跡をユダヤにおいて行なっておられた時代なのですから、神が6年目の土地に奇跡的な働きかけをしておられたとしても何も不思議ではありません。もう昔のような奇跡が行なわれなくなって久しい現代の尺度で、昔のイスラエル社会について理解しようとすべきではありません。

【25:23~28】
『地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。』
 ユダヤ人がカナンで割り当てられた個々人の所有地は、たとえ売ったとしても買い戻しの権利まで放棄してはいけませんでした。つまり、その売った土地はいつでも取り戻そうとすれば取り戻せました。たとえ、その土地を買った人が買い戻されるのを拒んだとしても、です。これはどうしてなのでしょうか。それは『地はわたしのものであるから』です。地は神の所有物であって、ユダヤ人はその地を借家人として借りているに過ぎませんから、神がその地に定めたことを守らなければならないのです。また、それはユダヤ人が神の『もとに居留している異国人』だからでもあります。これも先の場合と同様、ユダヤ人は単に神の土地に寄留している外国人に過ぎないので、神がその土地に定めた通りにせねばならないのです。もしユダヤ人が買い戻しの権利を放棄した上で土地を売るか、もしくは売ってから買い戻しの権利を放棄したとすれば、それは罪となります。この罪が犯されたならば裁かれたでしょう。しかし、ここではその罰則規定について何も示されていません。

 もしユダヤ人が貧しさのため自分の所有地を売ってしまった場合は、『買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければな』りません。その親類が兄弟の売った土地を買い戻さなければ罪に定められます。しかし、もしその者に親類がいなければ、財政的な余裕が出来てから売った土地を必ず買い戻さねばなりませんでした。もし財政的な余裕がいつになっても出来なければ、その土地はヨベルの年に無償で返されねばなりませんでした。「それでは貧しい人から土地を買った人はヨベルの年になったら損をしてしまうではないか。」と思われるかもしれません。確かにその通りですが、そのようにせよというのが神の定めです。土地の本来的な所有者であられる神が定めたことにどうして逆らっていいでしょうか。まさか、神の定めよりも人間の財布のほうが重視されるべきだなどとは誰も言わないでしょう。ですから、ヨベルの年になっても土地の権利を持っている人がずっと貧しいままであれば、その土地を買った人は損になっても我慢してそれを権利者に返さねばなりませんでした。

 23節目で『地はわたしのものであるから。』と書かれている御言葉は重要です。これと同じことは詩篇24:1の箇所などでも書かれています。つまり、人間は自分こそ土地の本来的な所有者だと思いがちですが、実のところ、その土地の究極的な所有者は神なのです。人間は神からその土地を借りているだけに過ぎません。ですから、その土地をずっと所有し続けたければ、その土地の究極的な所有者であられる神に従うべきです。そうすれば祝福されるのでその土地を所有し続けることができます。『主に祝福された者は地を受け継ごう。』(詩篇37:22)と書かれている通りです。しかし、神に従いませんと、呪われるので神から貸し与えられている土地から追い出されてしまいます。『主にのろわれた者は断ち切られる。』(詩篇37:22)と書かれている通りです。また、同じ23節目で『あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。』と書かれている御言葉も重要です。これと同じことはヘブル11:13の箇所でも言われています。つまり、聖徒とは天という祖国から一時的に地上へと旅をしている旅人なのです。ですから、聖徒たちはこの地上においては『異国人』のようです。

【25:29~34】
『人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。』
 城壁内にある家を売った際は、買い戻しの期間が1年までに限定されます。売ってから1年が経つと、完全にその家を買った人の所有となり、『ヨベルの年にも手を離れない』こととなります。どうして城壁の中にある家は買い戻しの権利が短く制限されているのでしょうか。これはその家が城壁に取り囲まれており、出入りに不便することもあるからなのでしょう。そういった自由があまりない場所にある家は、すぐにも所有者を確定させるのが望ましいのだと考えられます。移動に都合が悪い場所ですといつまでも変化の余地を残しておくのは良くないからです。これは買い物で言えば、ちょうど食べ物の商品に「返品は2日以内まで」などと書かれているようなものです。その商品は腐る運命を持つ食べ物ですから、ずっと返品可能にしておくと大変都合が悪いのです。

 しかしながら、回りに城壁がない家であれば、買い戻しの期間に制限はなく、ヨベルの年には元に戻されます。その家は土地と同様に見做されるからです(31節)。これは城壁に囲まれていないので移動の自由にそれほど不便することもないからなのでしょう。先の場合は、城壁に囲まれているからこそ買い戻しの期間が制限されていたのですから。

 レビ人が、ユダヤの各地にあって所有している家は、レビ人に買い戻しの権利があります。レビ人には相続地がなく、ただ他の部族が持っている相続地に住んでいるだけですが、そこで所有している家には買い戻しの権利が伴っていました。ですから、他の部族がレビ人の家を買った場合は、ヨベルの年になるとレビ人の手に戻りました。レビ人だからといって買い戻しの権利がないわけではなかったのです。しかし、レビ人が売ってもよいのは家だけであり、畑はいけませんでした(34節)。レビ人もやはり買い戻しの権利を放棄するのは罪でした。また畑を売るのも罪でした。

【25:35~38】
『もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利得を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。』
 もし同胞の誰かが貧しくなれば、ユダヤ人の誰かがその人を愛をもって扶養せねばなりません。この箇所で『兄弟』と言われているのは血縁的な意味ではなく、ユダヤ人の同胞という意味です。これはレビ記25:41の箇所を見れば分かります。そこでは『兄弟』が身売りしてヨベルの年になったら、その『兄弟』は『自分の一族のところに帰るように』せよと書かれているからです。もしこれが血縁的な兄弟だとすれば、これは意味が分かりません。その兄弟はヨベルの年になって自分の一族のところに帰る前から、既に身売りした自分の一族のところにいるのだからです。これでは言葉の崩壊です。

 このように律法とは愛と憐れみがその本質です。この箇所は、律法の本質をよく示しています。これは神が憐れみ深い御方だからです。つまり、神が憐れみ深いからこそ、その民も憐れみ深くならなければいけないのです。ところが、現代の多くの教会は律法の憐れみを教えていないので、残念なことに聖徒たちは貧しい人たちにこの世的な考えを抱いてしまっています。すなわち、「貧しい人たちに助けを与えたら自力で立てなくさせるだけだから憐れみをかけないほうがよい。」などと考えてしまうのです。実際、私はこのようなことを言っている聖徒を見ました。誠に驚きを禁じ得ません。確かにパウロは『働きたくない者は食べるな』(Ⅱテサロニケ3章10節)と命じています。しかし、これはどうしようもない怠惰な者について言われたのであり、このように言われているからというので貧しい人を助けなくてもよいということには全くなりません。明らかに聖書は、働く気のない怠惰な者でなければ貧しい者を憐れむように命じています。あの使徒たちも、いつも貧しい人たちを心にかけていました。聖なる使徒たちは「貧しい人たちに憐れみを施すな。甘えが出て自活できなくなるから。」などとは一言も言いませんでした。今のプロテスタントに勢いがないのは、このようなことを言っているのが一つの原因でしょう。つまり、プロテスタントがあまり貧しい人たちを憐れもうとしていないので、神もプロテスタントの窮状を憐れんで下さらないのです。カトリックのほうは貧しい人たちを豊かに憐れんでいますから、神もカトリックを勢力的に憐れんでおられます。もっとも、カトリックが憐れみの業をしているからというので、カトリックがキリストの身体である教会だというのではありません。神には依怙贔屓がないので、カトリックであっても憐れみの業をしていれば、彼らにも彼らがした通りにしておられるだけです。確かにカトリックはどれだけ憐れみの業をしていようとも真の教会ではありません。それは未信者がどのキリスト者にも勝る憐れみの業をしているのでキリスト者さえも恥じ入らされるほどだったとしても、だからといってその未信者が神の子どもだということにはならないのと一緒です。さて、このような律法から、私たちは貧しい人への憐れみに心を傾けねばならないということを学ばなければなりません。しかし、現代は憐れみの業すなわち福祉を教会ではなく国家が行なっている時代です。ですから、昔のように教会が豊かに福祉を行なうというのはなかなか難しくなっています。昔は教会が貧しい人たちを直接養っていましたが、今は日本で言えば国家による生活保護などがあります。教会に助けを求める貧しい人も少しはいますが、大半の貧しい人は国家が提供している福祉に頼っています。今はこのような時代ですが、それでも出来る限り教会は憐れみの業を行なうようにしていかねばなりません。神は、どれだけ私たちが貧しい人を憐れむよう望んでおられることでしょうか。

【25:39~43】
『もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。』
 もし貧しくなったユダヤ人が同胞に自分を身売りした場合、貧しいユダヤ人を引き受けたユダヤ人は雇い人として穏やかに取り扱い、ヨベルの年にはそのユダヤ人を解放しなければなりません。そのユダヤ人を奴隷のように取り扱ったり、ヨベルの年になっても解放しないのは罪でした。どうして身売りしたユダヤ人を奴隷にしてはいけなかったかと言えば、ユダヤ人は全て神の奴隷だったからです。つまり、ユダヤ人は神の御前にだけ奴隷であるべきなのです。また、「しかし、ヨベルの年にそのユダヤ人を解放したならば主人にとって損失が生じないか。」などと言うことはできません。神が、主人であるユダヤ人の利害を考慮せず、ヨベルの年にはそのようにすべきだと定められたからです。諸々の王たちや昔の天皇は大恩赦をしましたが、罪人たちが恩赦されるのを妨げることは誰にもできませんでした。神の定めによりヨベルの年には貧しいユダヤ人が解放されるのを妨げられないのも、これと同じなのです。

【25:44~46】
『あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから書い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。』
 ユダヤ人の奴隷となるべきは、外国から外国人を買うか、またはユダヤ共同体にいる外国人とその子孫を奴隷にするか、のどちらかでした。何故なら、ユダヤ社会では、ユダヤ人が第一であり、外国人は第二の位置に置かれているからです。そこはユダヤ共同体です。つまり、そこは本来的にユダヤ人が住むべきところです。そこで外国人は例外的に住んでいるだけです。ですから、そのような外国人であれば奴隷にしても問題ないわけです。ユダヤ人の持つ外国人の奴隷は、所有財産として受け継がせることができました。その奴隷はユダヤ人とは違い、ヨベルの年になっても解放されることができません。ですから、同一の奴隷を子、孫、曾孫が持つこともできました。しかし、ユダヤ人がこのように取り扱われることは大きな罪となりました。

【25:47~55】
『もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。』
 もしユダヤにいる外国人に貧しいユダヤ人が身売りした場合、外国人はそのユダヤ人を穏やかに取り扱い、奴隷にしてはなりませんでした。そして、ヨベルの年になればそのユダヤ人を必ず解放しなければいけませんでした。ヨベルの年となるまでに、自分自身によってであれ親族によってであれ、外国人の手から買い戻すこともできました。外国人がユダヤ人を奴隷としたり、ヨベルの年になっても身売りしたユダヤ人を解放しないのは、大きな罪でした。これは先に見た外国人奴隷の場合とは大きな違いです。ユダヤ人がこのようにされねばならないのは、神『にとって、イスラエル人はしもべだから』です。つまり、ユダヤ人は本来的に神の僕なので、一時的にであれ外国人の奴隷となったり、いつまでも外国人の僕のままでいてはなりませんでした。

【26:1】
『あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。』
 また再び偶像崇拝が禁じられています。「こんなに繰り返して戒めなくても少しだけ戒めれば十分だったのではないか。」などと言うことはできません。何故なら、ユダヤ人は『うなじのこわい民』だったからです。事実、神が同じ命令を何度も何度も繰り返してユダヤ人に聞かせられたのは、本当に正しいことでした。というのもユダヤ人は幾度も同じ内容の命令を聞いていたにもかかわらず、結局のところ、背いて堕落し滅ぼされたからです。つまり、「神が何度も繰り返して戒められなかったのでユダヤ人は悲惨になってしまったのだ。神はもっとユダヤ人に言い聞かせておくべきだったのだ。」などと神を批判することはできないのです。神はユダヤ人に対して言うべきことを十二分に言っておかれました。それゆえ、罪を犯して悲惨になった原因は徹底的にユダヤ人の側にあります。

【26:2】
『あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。』
 これはレビ記19:30の箇所と全く同じ内容の命令ですから、再びこの内容について書く必要はないでしょう。これは繰り返しです。聖書において繰り返しはその重要さを示していますから、ユダヤ人はこの命令を遵守すべきでした。ところが、ユダヤ人は安息日を汚し(エゼキエル書22:8、20:13)、聖所を軽んじて商売の館にしてしまいました(ヨハネ2:14~16)。ああ、ユダヤ人は何と惨めであったことでしょうか。彼らは、神がユダヤ人に対してどれだけ安息日の遵守と聖所への恐れを求めていたか知りませんでした。

【26:3~5】
『もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。』
 もしユダヤ人が神に従うならば、諸々の祝福が与えられました。その祝福についてこの箇所から26:13の箇所まで示されています。まず、もしユダヤ人が神に従うならば、祝福として豊穣が与えられます。雨がしっかり降るので、地の産物もしっかりと生じます。そのため、収穫がしっかりとできます。そして、食物に困ることがありません。それゆえユダヤ人は満たされて幸せを感じます。これはユダヤ人が神に服従しているため神からの好意を受けているからです。

【26:6~8】
『わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。』
 神に服従すれば平和と安全の祝福も与えられます。神が謙遜な御自身の民を守って下さるからです。確かに、罪を離れて神に服従するならば、罪による不幸や動乱は起こり得ません。『正しい者は何の災害にも会わない。』(箴言12章21節)また『命令を守る者はわざわいを知らない。』(伝道者の書8章5節)と書かれている通りです。また、神に服従すれば敵に対する勝利の祝福も与えられます。すなわち、たとえ小人数であっても敵の大群をさえ打ち倒せるようになります。神がその人の先に進んで戦って下さるからです。これの良い例はヨナタンとその道具持ちです。この2人は祝福されていたので、たった2人だけなのに敵の軍勢を圧倒しました(Ⅰサムエル14:6~23)。神がこの2人に働きかけて下さったからです。ダビデがゴリアテを打ち倒したのも、この祝福の一つに含めてよいでしょう。何故なら、ゴリアテは実際的に1人だったものの、実質的には1000人分の戦士たちに値する強者だったからです。

【26:9】
『わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。』
 服従への祝福としては多産もありました。これは神が御自身に服従しているユダヤ人を喜ばれるからです。つまり、ユダヤ人が神に喜ばれているからこそ、神はそのようなユダヤ人が更に増えるのを望まれるのです。私たちにしても、何か善良な人間や共同体などがあれば、もっとそういう存在が増えればいいのにと思うはずです。神が服従しているユダヤ人を祝福して大いに増やされるのは、これと同じです。このような多産は、古代にあってユダヤ人が神との契約の下にいたことの印でした。すなわち、ユダヤ人が神との契約の下にいたからこそ、神はユダヤ人を子沢山にしておられたのです。ですから、この多産により神はユダヤ人との『契約を確かなものに』されました。要するに、ユダヤ人の多産とは神との契約における証拠だったのです。

【26:10】
『あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。』
 ここで言われているのはヨベルの年についてのことです。すなわち、ヨベルの年である7年目から2年後の9年目になっても3年前に収穫した食物を食べているということに関してです(レビ記25:21~22)。ユダヤ人は9年目に『新しいもの』である食物を収穫すると、それまでずっと食べていた『古いもの』である3年前の収穫を『運び出す』ことになります。何故なら、明らかに3年前の食物を捨てて新しい食物を食べたほうが良いに決まっているからです。もしユダヤ人が神に従うならば、祝福としてこのように6年目には3年分の収穫が生じました。そして、それを9年目の収穫の時まで食べることができました。6年目に3年分の収穫が生じ、それを9年目まで食べられるというのは祝福でなくて何でしょうか。しかし、ユダヤ人が神に従っていなければ、6年目に3年分の収穫は生じていなかったはずです。

【26:11~13】
『わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。』
 ユダヤ人が神に服従すれば、神はユダヤ人のうちに歩まれました。神は御自身に従う者たちのところに来て下さるからです(ヨハネ14:23)。そして、神はユダヤ人の間に『住まい』を建てられます。それは神殿のことです。もしユダヤ人が神に逆らわなければ、神はユダヤ人を嫌われません。嫌っておられるのであれば、どうしてユダヤ人と共に歩まれるでしょうか。

 この箇所では『わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。』と書かれていますが、『くびきの横木』とはユダヤ人に対するエジプト人の強力な支配を指しています。何故なら、横木で固定されたならば状態は容易に変わらないからです。この言葉はあたかもこう言っているかのようです。「神である私はあなたがたをエジプト人の強力な支配から解放して連れ出した。だから、あなたがたはその神である私に従うべきである。そうすればあなたがたには喜ばしい祝福が与えられるのだから。」神がユダヤ人をエジプトから連れ出されるまで、ユダヤ人は縛られ、弱まり、よろめき倒れそうでした。しかし、神はそのようなユダヤ人を連れ出し『まっすぐに立たせて歩かせた』のです。

【26:14~16】
『もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行なわないなら、また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行なわず、わたしの契約を破るなら、わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。』
 これまで祝福について示されましたが、この箇所からは命令違反に与えられる呪いが示されます。続く箇所を見れば分かる通り、祝福よりも呪いのほうが遥かに長く示されています。これはユダヤ人が何としても命令を守るために威嚇して恐れさせるためでした。

【26:16~17】
『すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。』
 ユダヤ人が神に逆らうならば、恐怖と病と心労が呪いとして与えられます。『恐怖』は、霊的な恐れであれ死の恐れであれ社会的な恐れであれ、御心のままに神が与えられます。『肺病と熱病』とは呪いによる病の一例です。呪いとして『心をすり減らさせる』ことになる原因は、神が御心のままに生じさせられます。このようにユダヤ人が苦しめられるのは命令に従わないゆえなので、自業自得です。この呪いだけでも、もう既に十分過ぎるぐらい恐ろしい内容です。しかし後の箇所をざっと眺めて下さい。この箇所に書かれている呪いなどほんの序の口に過ぎません。

 また呪われるならば、種を蒔いても敵がその実を食べることになります。せっかく自分のために蒔いた種なのに、その実を忌まわし敵に奪われてしまう。これは呪いでなくて何でしょうか。神はこういった呪いにより、ユダヤ人に自分たちの罪を思い知らせようとなさいます。それはユダヤ人たちが呪いの原因となっている罪を嫌い、神の御前で悔い改めるためなのです。

 また呪われると、敵に敗北し蹂躙されてしまいます。つまり、敵が勝利してユダヤ人に優位を持つこととなります。これは、神が不敬虔なユダヤ人を嫌われるので、ユダヤ人と共に戦って下さらないからです。聖書で示されている通り、ユダヤ人はたびたび神に逆らったので、たびたび敵の手に陥ってしまいました。敵に打ち負かされたというこの事実がユダヤ人における不服従の証拠でした。ところが、このような恥ずべき歴史に、新約時代のユダヤ人たちは目を向けようとしません。ハンナ・アーレントもそうでしたが、ユダヤ人が自分たちについて言うのは、反逆と裁きの歴史ではなく、ユダヤ人の特別性や他民族から受けている迫害とその苦しさや聖なる父祖たちの輝かしい名誉ばかりです。マルティン・ブーバーも、自分たちの民族がキリストを殺害したことについて、ちょっとした言葉で責任逃れをしました。彼らのうちで、先祖たちの不服従を直視する勇気ある者はほとんどいません。その不服従の歴史は聖書にしっかり書かれていることなのに、です。というのも、それは彼らにとって目を背けたくなる悲惨な過去だからです。ユダヤ人は昔からこのように痛ましい事柄には目を背ける民族でした。だからこそ、せっかく悔い改めを促す預言者たちが幾度も送られたのに彼らを迫害し、最後には御子をさえ殺してしまいました。もし彼らが恥を厭わず過去を直視する民族だったとすれば、預言者も御子も拒絶していなかったでしょう。私がこのように書いているからといって、ユダヤ人を迫害しているなどと勘違いしてはいけません。私にユダヤ人を迫害する気はないからです。ただ私は事実をありのままに指摘しているに過ぎません。もしこれがユダヤ人迫害だとすれば、預言者や御子もユダヤ人を迫害したことになってしまいます。何故なら、預言者や御子もユダヤ人に対して事実をありのままに指摘したからです。

 また呪われると、誰も追いかけて来ないのに勝手に逃走することとなります。呪われると罪のゆえに色々な恐れを持つので、例えば「もしかしたら私の罪により天罰として誰かが私を襲って来るかもしれない…。」などと思って逃げることになります。「神が急にこの家を天罰として災害で痛めつけられるかもしれない…。」などと思って引っ越しをすることもあるでしょう。これについては箴言28:1の箇所でもこう書かれています。『悪者は追う者もないのに逃げる。』

【26:18】
『もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。』
 神が罪を犯したユダヤ人に今見たような苦難を与えられるのは、彼らが悔い改めるためです。何故なら、こういった苦しみが与えられれば、ユダヤ人はそのような苦しみを齎している罪から離れようとすることにもなるからです。それで悔い改めたら良いのです。しかし、もし懲らしめられても悔い改めなければ、神は更に『七倍も重く懲らしめ』られます。この『七倍』とは文字通りの倍数として捉えるべきではなく、象徴的な倍数として捉えるべきです。つまり、これは前よりも更に厳しい裁きが与えられることを『7倍』という象徴的な倍数により言い表しています。7は聖書において完全を示しますから、これは前よりも本当に遥かに厳しい裁きが与えられるという意味になります。このような表現は私たちにとって馴染みがありませんから、ほとんど全ての人は分かりにくいと感じるはずです。しかし、これは今私が述べた通りに理解すべきです。なお、これは「10倍」でもほとんど同じ意味となりましたが、ここでは「7倍」となっています。

【26:19~20】
『わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。』
 ユダヤ人がこれまでに見た懲らしめを受けてもなお悔い改めなければ、神は更に厳しい懲らしめをユダヤ人に与えられます。すなわち、神はユダヤ人の『天を鉄のように』して雨が降らないようにし、『地を青銅のようにする』ので地からは全く作物が生じなくなります。ですから、ユダヤ人は種を蒔いても全く徒労に終わります。地が作物を実らせないので、ユダヤ人は食べて満足することもできません。食物による幸せがなくなるのです。餓死する人も出たかもしれません。これは厳しい懲らしめです。

【26:21】
『また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。』
 26:19~20の箇所に書かれている懲らしめを受けてもユダヤ人が悔い改めなければ、神はまた『七倍も激しく』ユダヤ人を懲らしめ苦しめられます。この箇所もそうですし、あと2回『七倍』(レビ記26:24、28)と書かれている箇所もそうですが、やはりこの『七倍』とは象徴的な倍数であることを忘れてはなりません。このように、神は7倍という象徴倍数において示される更に激しい懲らしめを下されることで、何とかしてユダヤ人を正しい道に引き戻そうとされます。