【レビ記26:22~27:34】(2021/12/19)


【26:22】
『わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。』
 もしユダヤ人が悔い改めなければ、今度は野の獣が神により放たれるので、ユダヤにいる子どもたちおよび家畜がその獣により殺されます。この獣は、もしユダヤ人が悔い改めていれば決して放たれなかった獣です。これは実に悲惨な懲らしめです。

【26:23~24】
『もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。』
 もし野の獣により悲惨となっても悔い改めなければ、神はユダヤ人の反抗に応じて、ユダヤ人に反抗されます。何故なら、聖書が教えているように、神は人の態度に応じて御自身の態度を合わせる御方だからです。それゆえ、もしユダヤ人が反抗を止めれば、神もユダヤ人に対する反抗を止められました。反抗を続けるか、それとも止めるか。これはユダヤ人次第でした。前者であれば更に厳しい懲らしめが下され、後者であれば懲らしめは全て取り去られます。残念ながらユダヤ人は前者を選んでしまいました。

【26:25~26】
『わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない。』
 もしまだユダヤ人が反逆し続けるならば、神は『契約の復讐』を果たされます。『契約の復讐』とは「契約を破ったことに対する神の復讐」という意味です。これは、企業が契約に違反した利用者を訴えたり、もしくはこれと逆の場合が起きたりするのと似ています。

 次の懲らしめは、疫病と敵による苦しみです。ユダヤ人が町々に集まっていると疫病が神から下されるので、ユダヤ人は苦しみます。また呪いにより敵の手に落とされると、敵の奴隷となったり奴隷にはならないものの政治的に支配されたりします。この2つの災いはどのようにしても防ぐことができません。何故なら、それは罪に対する神からの復讐なのですから。誰が神からの復讐を妨げられるでしょうか。

 また、神は反抗を続けるユダヤ人の『パンのための棒を折』られます。『パンのための棒を折る』とは、すなわちパンの蓄えがなくなることです。このため、普通であれば1人か2人ぐらいで一つの釜によりパンを焼くのですが、何と『十人』で一つの釜によりパンを焼くことになります。小麦粉が少ないので、一つの釜でしかパンを焼くことができないからです。そして、焼かれたパンは『はかりにかけて』返されます。それは量的に非常に少ないので、秤にかけて計算しつつ食べねばならないほど貴重だからです。こういうわけでユダヤ人は『食べても、満ち足りない』ことになります。神は御自分に逆らう御民から食の幸せを取り上げられるのです。ですから、ユダヤ人はもはや『食事をするのは笑うため。』(伝道者の書10章19節)ということから遠ざけられてしまいます。彼らは食事をするのがかえって辛くなりさえするのです。

【26:27~28】
『これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。』
 ここまで見たような懲らしめが下されたのにまだ悔い改めなければ、神はユダヤ人に対し『怒って』更なる7倍の懲らしめをお与えになります。この『怒って』という言葉は、神の不快感をよく示しています。

【26:29~33】
『あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。』
 次の懲らしめは悲惨の極みです。ユダヤ人は酷い窮乏のため息子また娘の肉を食べねばならなくなるからです。これは考えるだけでも悲鳴をあげたくなりそうな懲らしめです。しかし、このような悲惨が起きるのは、それまでに幾度となく懲らしめを受けておきながら悔い改めようとしなかったユダヤ人に全ての責任があります。もしまだ懲らしめの度合いがまだ小さい時点で悔い改めていたとすれば、このような恐るべき悲惨は起こらなかったからです。ですから、子どもたちを食べることになったとしても自業自得でした。ヨセフスが「ユダヤ戦記」において記録している通り、紀元1世紀のユダヤ人にはこの悲惨が下されたので、子どもの肉を食べることになりました。ある母があまりのひもじさに耐えられず子どもをローストして食べたのです。こうなったのは、ユダヤ人がそれまでに何度も遣わされた預言者たちを拒んで殺したからであり、最後に遣わされた神の御子をさえ拒んで殺したので、神の怒りが頂点に達したからです。今の時代でも、どの民族であれ、自分の子を食べなければいけなくなったとすれば、それはそれまでに長い間ずっと神を怒らせ続けていたことを示しています。だからこそ、呪いとして子を食べなければいけなくなったからです。神を怒らせていないのに、どうして自分の子を食べるという悲惨が起こるでしょうか。

 また、神はユダヤ人が偶像崇拝を行なう場所である『高き所』をそこに置かれている偶像と共に滅ぼされます。その時、偶像は打ち砕かれて『死体』となります。そして、偶像崇拝をしていたユダヤ人も殺されて死体となり、偶像の死体の上に積み重ねられてしまいます。これは偶像崇拝を行なっていたユダヤ人が偶像と一つであるということです。何故なら、偶像崇拝という霊的な姦通をすれば、人と偶像は霊的に一つとなるからです。パウロも言うように姦通すれば一体となります(Ⅰコリント6:16)。この30節目の箇所は、ユダヤ人がやがて行なう偶像崇拝を念頭に置いて書かれています。これは神が、ユダヤ人は将来偶像崇拝に歩むということを知っておられたからです。ユダヤ人にも自分たちの民族がやがて偶像崇拝をするということは予測できたでしょう。何故なら、この時のユダヤ人は既に偶像崇拝をしていたからです。これまでに偶像崇拝をしたのであれば、これからもする可能性があるということぐらい誰にだって容易に推測できます。

 また神は反逆を続けるユダヤ人の町々と聖所をことごとく荒廃させられます。これは3度起こりました。すなわち、ネブカデレザル王の時、アンティオコス4世の時、ティトゥスの時です。その時にはもう宥めの香りを立ち上らせても無意味となります。何故なら、ユダヤ人が罪を続けているからです。罪を止めていないのに神を煙により宥めようとしても何になりましょうか。これは、不倫を続けているのにもかかわらず妻が夫に赦しを求めるのと一緒です。その妻が不倫を止めないのであれば、夫はどうして妻を赦してやれるでしょうか。ユダヤ人が罪を止めないのに宥めの香りを立ち上らせて神を宥めようとするのは、これと一緒です。ユダヤ人の地が破壊されると、『敵はそこで色を失う』ことになります。何故なら、その荒廃があまりにも酷いからです。またヤハウェの神が御自分の民ユダヤを滅びに委ねられたからです。つまり、敵は「いったい何ということが起きたことか…」と驚きを隠せなくなるのです。

 また、神は呪いとしてユダヤ人を諸国に散らされます。これは古代において3度起こりました。紀元前8世紀のアッシリヤ捕囚の時、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時、紀元1世紀のユダヤ戦争の時、です。このようにして神はユダヤ人に思い知らされます。確かに外国へ放逐されるというのは呪いです。昔から外国に住んでみたいと思っていたのであれば話は別でしょうが、住みたいと思ってもいないのに外国に強制移住させられるからです。この時にユダヤ人はまだ外国へ放逐されていませんでした。つまり、まだ放逐の裁きは下されていませんでした。ですから、このように語られたのは、「もしこれから服従しなければ裁かれて諸国へと散らされてしまうぞ。」という神からの威嚇でした。

【26:34~35】
『地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。』
 この箇所では、ユダヤ人がヨベルの年における7年目を守らなかったので放逐の苦しみを受けたということが示されています。ユダヤ人が安息年を守らなかったのは、全体的また根本的な不敬虔があったことを意味しています。何故なら、全体的また根本的に不敬虔だからこそ、他の諸々の命令に違反すると共に安息年における命令をも守らなかったからです。神はユダヤ人が他の国に散らされている間に、それまで休ませられないでいたユダヤ人の地を休ませられます。ユダヤ人が1年分を休ませていなかったとすればユダヤ人は1年以上も他の国に放逐されていたでしょう。1年以上の年数であっても事は同様です。神はこのようにしてユダヤ人に思い知らされます。神の民が安息年を守らないというのは実に悪いことだった、と。

【26:36~37】
『あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。』
 呪いのため敵の国へと移されたユダヤ人に、神は『おくびょうを送り込』まれます。そのため彼らは『吹き散らされる木の葉の音にさえ追い立てられ』て逃げます。つまり、心が極度に女々しくさせられます。これは何と悲惨なことでしょうか。そのようにして勝手に逃げている最中に、彼らは自ら倒れて自滅します。何故なら、臆病な者は、しっかりしたことができず、しばしばよろめき倒れるものだからです。

【26:38~39】
『あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。』
 ユダヤ人は悔い改めなかったので、報いとして移された敵の国で滅び失せます。全てのユダヤ人がそこで滅びるというわけではありませんが、生き残ったユダヤ人は朽ち果てて弱まります。ちょうど萎れた葉を持ついかにも惨めな植物のように。

【26:40~45】
『彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」』
 これほどまでの悲惨と苦しみが与えられると、流石にユダヤ人も自分たちと先祖たちの咎にその原因があることを認め、遂に悔い改めることとなります。悔い改めるまで彼らの心は『無割礼』でした。つまり、霊的な感度が非常に鈍かったのです。何故なら、無割礼だと包皮があるので、割礼をしている場合に比べて感度が鈍いからです。しかし、悔い改めると心は割礼されたかのようになります。悔い改めるとはつまり霊的にはっきりと気付くことだからです。これは割礼されて包皮がないので感度が良いことに例えられるのです。神は悔い改める者には憐れみ深い御方です。ですから、悔い改めたユダヤ人のためにアブラハム、イサク、ヤコブとの契約および約束の地を思い返して下さいます。そしてユダヤ人たちを再び契約の地へと戻して下さいます。

 ここまで見てきた災いの内容は凄まじいものでした。それは、神がもう全くユダヤ人を絶縁されたかのようにも思えるほどの悲惨さでした。しかし、だからといって神はユダヤ人を全く退けてしまわれたのではありませんでした。神はユダヤ人との間に立てた契約を決して破られないからです。確かに神は御自身の契約を破られるような御方ではありません(詩篇89:34)。ここに神の誠実さと契約の確かさがあります。

【26:46】
『以上は、主がシナイ山でモーセを通してご自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。』
 このように神はモーセを通して御自身の民に聖なる定めを与えられました。この箇所で『おきて』、『定め』、『おしえ』と言われているのは、本質的にはどれも同じ意味であり、つまり「命令」のことです。しかし、ニュアンスはそれぞれ僅かに違います。『おきて』とは神が戒められたという意味合いです。『定め』とは「神の立法」というニュアンスが強い。『おしえ』とは神が民に上から教えられたということです。このように聖書には、どれも本質的には同じ意味であるものの僅かな違いを持った言葉が重ねられている箇所が多くあります。これはその語られている内容をより明瞭かつ立体的にし、理解しやすくさせるためです。

【27:1~8】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。』
 ユダヤ人は特別な誓願を神に立てることがありました。それは普通であれば立てないような誓いです。非常に重要で注目すべき誓いがそれに当たります。その誓いが立てられる際は、誓願者によりそれぞれ評価額が定められています。誓願する者は、自分に定められている評価額を納めなければいけません。これはその誓いにおける意気込みを示させるためです。何故なら、定められた評価額を支払おうとしないのであれば、本気で誓いをしているとは見做されないからです。この評価額は年齢および性別ごとに異なります。評価額は銀により納められます。これは当時のユダヤが銀本位制だったからだと考えられます。しかし、誓願者が貧しすぎて、定められた額を支払えない場合、祭司が独自に定めた通りの誓願金を支払わねばなりません。その誓願金は誓願者の財政状況に応じて定められます。あまりにも貧しすぎたならば誓願金の支払いが免除されたのかどうか私は何も言うことができません。

 ここで定められている評価額は、老人を除けば年齢が上であるほどに高く、男のほうが女よりも高くされています。老人すなわち『六十歳以上』であれば、男は5~20歳までの男よりも5シェケル少なく、女は5~20歳までの女と同じです。ここで定められている額は実に妥当であると思えます。

【27:9~13】
『主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげられるものはみな、聖なるものとなる。それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。主へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。』
 神への生贄として捧げられる家畜は全て聖とされました。その家畜は聖別されるからです。家畜を聖別して聖としなければ神はその家畜を受け入れられません。何故ならば、神は聖なる御方だからです。捧げようとしていた家畜は、他の家畜で代用することができました。代用する場合、元の家畜も代用される家畜も共に聖とされます。これは止むを得ず代用しなければいけない場合を言っているのでしょう。例えば、ある人が手元にある家畜を捧げようとしていたのですが、途中でその家畜が他人から借りていた家畜だったと気付いたので、急いで他の家畜に代えようとするのがそれです。しかし、家畜の捧げ物を家畜でない他の物で代用することはできませんでした。また、その家畜の良し悪しを見て取り替えることもできませんでした。聖なる捧げ物を捧げるということにおいて利害が入ってはいけないからです。「聖」が利害を超越しているということは誰にも明らかでしょう。

 汚れた家畜の場合は、まずその家畜を祭司のところへ持って行き、祭司が律法に基づいてその家畜を良いか悪いか判定せねばなりませんでした。もしそれが本当に汚れていれば祭司が評価した通りに売られます。それが清くてもやはり評価額が付けられます。そして神に捧げられることとなります。その家畜の持ち主は、その家畜が評価された後であっても、その評価額に20%を上乗せして買い戻すことができました。神は一度祭司のもとに持って来られた家畜を買い戻してもよいとしておられます。

【27:14~15】
『人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。』
 ユダヤ人は、自分の持ち家を聖別して捧げ、神のために使ってもらうことができました。その場合も、やはり家を祭司に見せ、評価してもらわねばなりません。悪ければ少ない評価額となり、良ければ高い評価額となります。このようにして聖別した家を捧げてからも、『五分の一を加える』ならば既に聖別されたにもかかわらず、再びその家は『彼のものとな』ります。

【27:16~25】
『人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。』
 ユダヤ人が自分の畑の一部だけを聖別して捧げたなら、『そこに蒔く種の量り』により評価額が定められます。それは『大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケル』ですが、『一ホメル』とは230リットルです。ヨベルの年にその一部を聖別したとすれば額は評価通りですが、ヨベルの年になるまでの1~49年目であれば、本来の評価額から種蒔きが可能である年数分を換算して差し引きます。何故なら、ヨベルの年が来るまでに聖別するので、ヨベルの年になるまでに可能であった種蒔きが行なえなくなるからです。しかし、これもやはり20%分を上乗せするのであれば後ほど買い戻すことができました。もしその畑が買い戻されない間に第三者へと渡されたのであれば、もはや買い戻しは不可能となり、ヨベルの年には聖絶された畑と見做されて祭司の所有地とされます。第三者また祭司の所有地になったら最後、その土地を取り返すことは不可能です。この場合、その土地は祭司に与えられるのが主の御心だったことになります。また、あるユダヤ人が誰かから買った畑を聖別する場合、聖別することはできますが、祭司が算出したヨベルの年までの評価額を支払わねばなりません。そして、ヨベルの年が来れば、その買った畑は元の持ち主に返されてしまいます。

【27:26~27】
『しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。』
 トーラーの多くの箇所で書かれている通り、家畜の初子は聖別され、神に捧げられねばなりません(出エジプト記13:12、民数記18:17、申命記15:19、他)。それは神の専有物です。ですから、ユダヤ人が自分の物として勝手に聖別してはなりませんでした。もしそうすれば罪となります。これは天皇家のために作られた特注品の装飾を、一般人が自分の物とし身に着けてしまうのと同じです。日本人の多くは、これがどれだけ異常なことであるかすぐに理解できるはずです。なお、この祭儀律法も今では行なう必要がありません。何故なら、祭儀律法はイエス・キリストの出現により廃止されたからです。

 汚れた家畜の初子であっても、祭司のところに持って行き、その良し悪しに基づいて評価してもらいます。そして、その初子は売られるか20%を上乗せして買い戻されるかします。27節目の箇所は、先に見たレビ記27:11~13の箇所と初子か成獣全般かという点を除けば内容的に同じことを述べています。

【27:28~29】
『しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。人であっても、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。』
 聖絶されるべきものは、人であれ家畜であれ物であれ売ったり買い戻すことができません。それは聖絶されねばならないからです。「聖絶」とは何でしょうか。これは、神の聖に適った状況や状態が実現するために対象の存在を殺したり壊したりして滅ぼすことです。これの実例は、アマレク人に関する全てを滅ぼせと神がサウルに命じられた出来事です(Ⅰサムエル15:1~9)。神は、サウルに対しアマレク人の人間も家畜も一切を滅ぼし尽くせと命じられました。これが聖絶するということです。もっとも、サウルは最上の家畜たちを惜しんだので、アマレク人に関する全てを滅ぼしはしなかったのですが。人間であっても聖絶が定められていれば『必ず殺されなければな』りませんでした。その人間が『贖われることはでき』ませんでした。何故なら、その人間は全く滅ぼされてしまうのが神の御心だからです。

【27:30~33】
『こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通ものが、主の聖なるものとなる。その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」』
 十分の一は、産物であれ実であれ家畜であれ、神に捧げなければいけません。これは民の義務でした。何故なら、十分の一は『主のもの』だからです。もし十分の一を捧げないのであれば、それは神の所有物を奪い取ることでした。マラキ3:8の箇所で書かれている通りです。十分の一を捧げないのは罪となります。この十分の一も、もし『五分の一を加える』というのであれば、買い戻すことが可能でした。家畜の十分の一は『牧者の杖の下を十番目ごとに通るもの』が捧げられます。これは家畜を自分たちで選別すると私欲が入り込んでしまいかねないからです。しかし、10番目に通った個体を捧げるというのであれば私欲が入り込むこともありません。そのようにして選ばれた十分の一の家畜は、その良し悪しを見たり、取り替えたりすることができません。良い個体なので悪い個体にするとか、もしくはその逆にするというのは御心に適いませんでした。ただ10番目に通った個体を捧げなければいけません。

【27:34】
『以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。』
 ここでレビ記の巻は終わりとなります。この巻では主に祭儀律法が定められているのを私たちは見てきました。この祭儀律法は、キリストの現われにより既に廃止されていますから、新約時代に生きる私たちにとって実際的な関わりを持っていません。しかし、それを知ることは決して無駄ではなく、むしろ益となります。何故なら、祭儀律法はイエス・キリストという贖い主を指し示しているからです。聖徒たちにとってキリストほど重要な存在はありません。ですから、そのキリストを指し示している祭儀律法を知ることは、私たちにとって大いに意味があるのです。もし祭儀律法を蔑ろにするのであれば、そこではキリストが指し示されているわけですから、部分的また間接的にであってもキリストを蔑ろにしていることになるのです。