【ルツ記1:1~2:14】(2022/07/10)


 「ルツ記」は、ダビデの祖父であるオベデを生んだモアブ人ルツについて記された巻です。この巻は、キリストがその子孫として生まれるダビデへと話の流れを繋げるため記されています。この巻を読むと、ダビデはモアブ人の血を含み持っていたことが分かります。ダビデの曾祖母ルツはモアブ人だからです。キリストがそこから出て来るダビデは当然ながら全く純粋なユダヤ人であったと、普通ならば誰でも思ったことでしょう。しかし、神はダビデの血に異邦人であるモアブ人の血を僅かばかり含ませられました。私たちが良質な品種の動物や植物を作ろうとするならば、間違ってもこんなことはしなかったはずです。例えば、最強の馬を作ろうとする人がどうして劣等な品種を交配に用いようとするでしょうか。ありえないことです。しかし、神はダビデの先祖にあの忌むべきモアブ人を組み込まれました。これは私たちの目には不思議なことです。これゆえ神は聖書の中で「不思議」な御方だと言われているのです。この巻は全部で4章と短く、内容的にもあまり難しくはありません。また、この巻は明らかに「士師記」から繋がっており、この巻も「Ⅰサムエル記」へと繋がっています。内容から考えるならば、これは明らかに士師記とⅠサムエル記の中間に置くべき巻ですから、聖書の巻構成が今見られる通りになっているのは正しいことです。

【1:1】
『さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。』
 この巻における記述は、イスラエル人をまだ『さばきつかさ』である士師が統導していた時のことから始まります。まだ士師がイスラエルを治めていた頃、『この地』すなわちユダヤの地に飢饉が生じていました。これはイスラエル人が罪に陥っていたことを示しています。何故なら、律法で示されている通り、飢饉とは罪に対する呪いだからです。ユダヤ人が陥っていた罪とは何なのでしょうか。ここまでのユダヤにおける歴史を考えるならば、それは偶像崇拝の罪だったと考えるのが自然でしょう。

 ここまでユダヤ人はずっと偶像崇拝に陥っていました。私たちも彼らのごとく偶像崇拝に陥らないようにしましょう。もし陥れば私たちは裁きとして飢饉の苦しみを味わいかねません。昔から今に至るまで、偶像崇拝をしている国や社会が飢饉になる事態は珍しくないのです。しかし、私たちが三位一体の神をこそ拝み正しく歩むならば、飢饉を免れることができるでしょう。聖書にこう書かれている通りです。『主は正しい者を飢えさせない。』(箴言10章3節)偶像崇拝に陥ったため飢饉の苦しみを受けたとしても自業自得です。

【1:1~3】
『それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。』
 飢饉はユダヤの全土で起こっていましたが、ユダの相続地も例外ではなかったので、ユダの相続地にいたユダ族の夫婦である『エリメレク』と『ナオミ』は『ふたりの息子』を連れ、ルベンの相続地の南にあり死海の東に位置する『モアブの野』へと行きました。これはモアブの地であれば食物を得られたからなのでしょう。しかし、モアブで家族4人が滞在していたところ、父のエリメレクが亡くなってしまいます。彼の死因が何だったか、また何歳で死んだかは分かりませんが、これは別に分からなくても困らない事柄です。こうしてナオミは未亡人になってしまいました。

【1:4~5】
『ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。』
 夫に先立たれたナオミでしたが、彼女の息子は2人ともモアブの地でモアブ女と結婚します。ユダヤ人はユダヤ人とのみ結婚すべきでしたから、この結婚は望ましくありませんでした。ナオミの息子たちが異邦人であるモアブ人を娶ったのは、この時代のユダヤが聖書的でなかったことを如実に示しています。ユダヤ人があまり聖書的で無かったからこそ、恥ずべき出自を持つあのモアブ人と結婚したわけです。もし聖書的であればモアブ人などと結婚していなかった、否、決して結婚できなかったはずです。

 しかし、2人の息子が結婚してから『約十年』経過すると、この息子たちは死んでしまいます。こうしてナオミは家族のうちで1人だけとなりました。残っているのは息子たちの妻であった2人のモアブ女だけです。この2人の息子たちは、忌まわしいモアブ人と結婚したからこそ、裁きとして母よりも早く他界してしまったのでしょうか。そういうわけではなかったでしょう。何故なら、息子の妻たちの1人であるモアブ女ルツはこれからユダヤ人ボアズと結婚しますが、ボアズはモアブ女と結婚したにもかかわらず裁かれていないからです。もし2人の息子がモアブ女と結婚したから裁かれて死んだというのであれば、この2人の息子と同じようにボアズも裁かれて死んでいたはずです。2人の息子が『約十年の間』モアブ人の女と夫婦でいたのは、「10」(年間)ですから、その期間が充分であったことを示しているのでしょう。

【1:6~7】
『そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。』
 息子たちが死んでから、神はユダヤから飢饉の苦しみを取り去って下さいました。これは恐らく、ユダヤ人が悔い改めて救いの叫びを神に上げたからなのでしょう。ですから、神もユダヤ人を顧みて下さったのだと思われます。ナオミがモアブに来てからもう10年も経過していますから、これはかなり長期に渡る飢饉であったことが分かります。これはユダヤ人が長らく頑なだったことを意味しています。もしユダヤ人がすぐに頑なでなくなっていたなら、こんなに長く飢饉は続いていなかったはずです。ナオミは神が飢饉をユダヤから取り去られたと知りましたので、息子たちの嫁を連れて、ユダヤに帰ろうとしました。ナオミは飢饉を免れるためにこそモアブへ逃れていただけですし、ナオミはユダヤ人でしたからユダヤの地にこそ住むべきだったからです。もしまだ飢饉が止んでいなければナオミは今まで通りずっとモアブに居続けたはずです。

【1:8~9】
『そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。』
 ナオミは2人の娘を連れてユダヤに帰るつもりでしたが、考えを変え、彼女たちをモアブの地に残しそこで住むように命じます。ナオミはこの娘たちの幸せを考えてこう命じたのです。2人の娘たちはモアブ人であってユダヤの地では異邦人ですから、ユダヤに行って夫が得られるとは限りません。しかし、モアブの地にいれば同族であるモアブ人の男と容易く結婚できるでしょう。そのようにして娘2人が夫とモアブで生きたほうが幸福だとナオミには感じられたのです。ナオミが娘たちを自分から離れさせようとしたので、『彼女たちは声をあげて泣』きました。このように泣いたのは、彼女たちが強い親愛の絆で結ばれていたことを示しています。

【1:10~14】
『ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しめるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。』
 モアブの地に残れと命じたナオミでしたが、2人の娘たちはナオミの命令を拒み、あくまでもナオミと共にユダヤへ行こうとします。これは彼女たちがユダヤ人であるナオミとそれ以外のユダヤ人に愛着を持っていたからなのでしょう。ちょうど外国人が日本人と日本を好きになったので、日本に行って日本で住みたいと願うのと同じです。また、この3人は愛に満ちた良い関係を持っていたはずです。ですから、2人の娘はナオミと離れるのが耐えられなかったのです。しかし、ナオミは何としても娘たちをモアブに留まらせようとします。それは、娘たちがこれからナオミと一緒にいても、ナオミから生まれる男を娶ることができるわけではないからです。もしナオミが息子をこれから生むのだとしても、その息子が結婚できるようになるまで時間を要します。しかし、娘たちがモアブに留まるならばすぐにもその地の男と結婚できます。そのようにしたほうが彼女たちにとって幸いであるとナオミには思えました。ナオミが考慮していたのはただただ娘たちの幸福だけでした。ですから、私たちはナオミが異邦人であるモアブ人に対する嫌悪ゆえ彼女たちをユダヤの地に連れて行こうとしなかった、などと考えないようにすべきです。ナオミがモアブ人を嫌悪していたかどうかは分かりませんが、少なくともこの娘たち2人を嫌悪してはいなかったはずです。もしナオミが彼女たちをモアブ人だからというので嫌悪していたとすれば、彼女たちと別れる時に泣いたりはしなかったでしょう(ルツ記1:9)。むしろ、平然としていたり笑みを浮べたりしていたに違いありません。

 ナオミは、夫および息子2人に先立たれたことが『主の御手』により起きた出来事だと思っていました。この認識は間違っていませんでした。この世界では、善がそうであるだけでなく、災いも神の御手により下されるからです。あらゆる災いのうち、神によらず生じたり神と関連していない災いは一つさえもありません。この事柄については敬虔なヨブもよく理解していました(ヨブ2:10)。しかし、どうしてナオミに対し神は夫と息子たちが亡くなるという悲惨を下されたのでしょうか。それはナオミが悲惨を味わうことでより忍耐強くなるためであり、また未亡人となった妻たちの一人であるルツがこれからボアズと夫婦になることでダビデの祖父オベデを産むようになるためです。私たちもこのルツのように、不幸な出来事は『主の御手』により下されるのだと理解すべきです。そうすれば不幸な出来事が起きた際に悲しみを緩和させられるだけでなく、不敬虔な愚か者どものように神へ文句を言うことも無くなるだろうからです。

 こうして結局、オルパはナオミの命令通りモアブに留まり、ルツはナオミに聞き従わずナオミと共に行こうとしました。この2人のうち正しいのはどちらだったのでしょうか。一見するとオルパのほうが正しかったように感じられなくもありません。オルパはナオミの善意を蔑ろにしなかったのだから立派だった、などと思う人もいるかもしれません。しかし、正しかったのはルツのほうでした。何故なら、ルツはナオミという神の民にすがりついたからです。神は御自分の民を愛する者に対し、その者がたとえ異邦人であったとしても、御自分の民を愛しているがゆえ慈しみを施して下さいます。それは神の民モーセに対し神が『あなたを祝福する者をわたしは祝福し』(創世記12章3節)ようと言われたことからも分かります。私たちは自分の子どもに良くしてくれる子どもの友だちに対し良くしてあげるはずです。神が御自分の民に良くする者に良くして下さるのは、これと全く同じです。このようにしてルツがナオミと一緒にいようと切願したからこそ、このルツの子孫としてダビデが生まれることになったのでした。これはルツにとって何と光栄なことでしょうか。ですから、ルツの選択は間違っていませんでした。一方、オルパの選択は間違っていました。しかし、ルツとオルパにおけるこの違いはどういった理由から生じたのでしょうか。それは神がルツを選んでおられたからでした。これはヤコブが選ばれていたので救いに与かり、エサウが選ばれていなかったので滅びに至ったのと同じです。もしルツが神から選ばれていなければ、オルパと同じようにルツもナオミから離れるのは仕方がないと思って離れていたことでしょう。

【1:15~18】
『ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるうように。」ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。』
 オルパはナオミの命令に聞き従ったので、ナオミから離れて『自分の民とその神のところへ帰』りました。『その神』とはモアブで拝まれていた偶像どもです。オルパは他のモアブ人と同じように腐った偽りの神々を拝む偶像崇拝者だったのです。ナオミは帰ったオルパに倣いルツもモアブへ帰るよう命じます。ところが、ルツは既にナオミとずっと共にいると堅く決心していました。ルツはナオミとユダヤ民族に対する純粋な愛を持っていました。その愛ゆえ、ルツはユダヤの民を自分の民と見做しました(16節)。これは今の世界で言えば外国人が日本に対し強く純粋な帰化願望を持つのと一緒です。それどころかルツは、ナオミすなわちユダヤ人の神ヤハウェを自分の神としていたほどでした。主なる神がルツを御自分に引き寄せられたのです。ですから、ルツはヤハウェに帰依していたのでした。これはルツが永遠の昔からキリストにおいて救いへと定められていたことを意味しています。そして、ルツはたとえ死んだとしてもナオミから離れるようであれば神から何重に罰せられても構わないと言いました。誓いは全ての反論を止めさせます(ヘブル6:16)。このためナオミはルツに対しもう何も言わなくなりました。つまり、ナオミはルツをユダヤに連れて行くこととしました。神の罰を受けることさえ厭わず誓った者に対し、聖徒である者はその誓いを差し止めたり批判したりすることなど出来ないからです。

【1:19~22】
『それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。』
 こうしてナオミはルツを連れてベツレヘムへと帰りました。ナオミが帰ったルートは、ルベンの相続地を北上してベツレヘムに至るルートだったはずです。南から回ってベツレヘムに行くルートもありますが、このルートですとかなり距離がありますから、考えにくいと思えます。ナオミとルツがベツレヘムに着くと、10年以上も帰らなかったナオミが帰って来たので、『町中がふたりのことで騒ぎ出し』ました。これは良い意味で『騒ぎ出し』たのです。というのも、長らく姿を見なかった人がしばらくぶりで現われるのは、非常に大きな喜びを齎すからです。ソロモンがこう言っている通りです。『遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。』(箴言25章25節)もし私たちが良い関係にある仲間たちと長らく会っていないのであれば、私たちがその仲間たちに姿を現わしたり消息を知らせたりするのは、素晴らしい飲物を与えることです。これは覚えておいて損になりません。ベツレヘムの女たちはナオミを見て、『まあ。ナオミではありませんか。』と驚き喜びつつ話しかけます。彼女たちがこのように話しかけたのは全く問題ありませんでしたが、ナオミは自分をナオミと呼ばないでほしいと言います。何故なら、『ナオミ』とは「快い」という意味であって、ナオミがモアブの地で味わった大きな苦難と適合しない名前だからです。ですからナオミはむしろ『マラ』と呼ぶよう求めています。『マラ』とは「苦しむ」という意味であり、こちらのほうがナオミがモアブで味わった悲惨に合った名前だからです。もちろん、ユダヤ人たちはナオミをマラなどという名前で呼んだりしませんでした。聖書もナオミのことを全くマラなどという名前で呼んでいません。ナオミたちがベツレヘムに着いたのは、『大麦の刈り入れの始まったころ』でした。神がこの時期にベツレヘムへ着くよう働きかけられました。それは、ルツがタイミング良く将来の夫であるボアズと出会うためでした。

【2:1~3】
『ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。』
 ナオミの亡き夫エリメレクには『ボアズ』という有力者が親戚としていました。このボアズこそこれからルツとの間にダビデの祖父を生むことになる人物です。ボアズもユダ族でした。ダビデにはこのボアズの血が8分の1流れていました。ですから、ダビデはボアズの性質を幾らかでも持っていたわけです。こういう意味で考えるならばボアズは無視できない存在だと言えましょう。このボアズの名はマタイ1:5の箇所でも出てきます。

 ナオミと共にユダヤに住むようになったルツは、落ち穂拾いをしたいとナオミに願いましたが、ナオミはこの願いに許可を出しました。落ち穂拾いの仕事は貧しい人が行なう仕事でした。貧しい人たちは、拾った落ち穂から穀物を自分の所有とし、それを食べて飢えないようにするのです。この時代のユダヤ社会には貧しい人たちがいました。律法は、こういった貧しい人たちのため、収穫人が畑で刈り入れをする場合には収穫されず落ちた穂を再収穫するなと命じています(申命記24:19)。それゆえ、ルツが言った『私に親切にしてくださる方』とは、ルツに落ち穂を取らせてくれる善良な人のことです。親切でない人の場合、善良ではありませんから、ルツが来ても落ち穂を取らせず自分で全て取ってしまうのです。こうしてルツは落ち穂拾いに行きましたが、ルツが行った畑はボアズの所有する畑でした。もちろん、ルツはそこがボアズの畑であるなどと知りませんでした。それは、ルツが『はからずも』ボアズの畑に行ったと書かれていることから分かります。神の摂理により、ルツは知らず知らずのうちにボアズの畑へと導かれたのです。それは神がルツとボアズの結婚を求めておられたからでした。

【2:4】
『ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。』
 ルツがボアズの畑に行ったところ、ボアズがその畑に来て、収穫人たちに『主があなたがたとともにおられますように。』と話しかけると、収穫人たちは『主があなたを祝福されますように。』と答えます。これは互いに主にある幸福を願い合っています。ユダヤ共同体にいたユダヤ人たちは互いの幸せを求めるべきだったからです。

【2:5~9】
『ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」』
 畑に見たことのない女、しかも異邦人の女がいたので、ボアズはその女を知るため『これはだれの娘か。』と若者に聞きます。すると、若者は彼女がモアブ人で朝から勤勉に働いていると伝えます。これを聞いたボアズはルツを厚遇します。このようにしたボアズは良い人でした。神が夫を亡くすという悲惨を味わったルツに対し、ボアズを通して慰めておられるかのようです。神は往々にして苦さの後に甘みを与えて下さる御方です。神はバランスを重視されることが多いからです。それにしても、ルツが異邦人しかもあのモアブ人であると分かっていながら良くしてやったボアズはどれだけ神から恵まれていたことでしょうか。選民思想に強く拘っていた古代ユダヤ人ですから、異邦人であるルツは拒絶されても全くおかしくありませんでした。ボアズのしたことは『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という律法に全く適っていました。

【2:10~13】
『彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」』
 ナオミとルツのことはベツレヘム全体で話題となりましたが(ルツ記1:19)、ボアズもベツレヘムの人だったので、当然ながらルツについてよく聞いていました。ボアズは、ルツが味わった悲惨とユダヤ人であるナオミに対して行なった善について、知らされていました。またルツがユダヤ人とその地を求め、それだけでなくユダヤ人の信じるヤハウェ神に帰依していたことも知らされていました。ですから、このように親ユダヤ的なルツをボアズは厚遇したわけなのです。

 このように神がボアズを通しルツに良くされたことから考えても分かる通り、正しい選択をしたのはルツであってオルパではありませんでした。もしオルパもルツのようにしていれば、オルパもこのようにユダヤで厚遇されていたはずです。ところが、オルパは神から見捨てられており、御自分の御許に引き寄せられるよう選ばれていませんでした。ですから、オルパはルツと違ってナオミから離れ去ることを拒絶しなかったのでした。

【2:14】
『食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。』
 ボアズは異邦人であるルツと共に食事をしましたが、これは古代ユダヤにおいてかなり特別なことでした。それというのも、当時のユダヤ人が異邦人と一緒に食事するのは、王や高官が外国の賓客を招いた時などに限られていたからです。それにもかかわらずボアズは異邦人ルツと共に食事をしました。これはルツがナオミに良くし、ユダヤを求め、ヤハウェ神に帰依していたからです。このボアズの例からも分かりますが、昔から今に至るまでユダヤ人は自分たちに好意的な者に対し、たとえその者が異邦人であったとしても好意的に取り扱う傾向を持っています。もしユダヤ人に尽くした者がいれば、その者がユダヤ人でなくても、ユダヤの地にその者が記念されるためモニュメントを立てたりします。食事をしている時、ボアズがルツのパン切れを酢に浸させたのは、恐らくルツの苦難を象徴させるためだったと考えられます。何故なら、酢とはその刺激により顔を歪めさせる液体だからです。古代ユダヤ人は非常に象徴性を重んじていましたので、ボアズがこのようにしたとしても不思議なことはありません。ルツはボアズから炒り麦を与えられたので十分なだけ食べ、余った分は帰ってからナオミに与えるため残しておきました。ルツは善良な女だったのでナオミのことを気遣っていたのです。もしルツがあまり道徳的な女でなければ、自分のことだけしか考えていなかったかもしれません。