【ルツ記4:14~22】(2022/07/24)


【4:14】
『女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。』
 主はナオミの家が絶え果てるのを許されませんでした。イスラエル社会においては、どの氏族も絶えることなく続くべきだからです。神がこのように『買い戻す者』を与えて下さったのは恵みでした。私たちは、この時代において家名が重視されていたことを理解すべきでしょう。現在は家名などほとんど重んじられなくなっていますから、『その名が伝えられる』ことの重要性を理解し難い日本人もいるかもしれません。しかし、この日本も少し前までは家名を大いに重んじていたことを忘れてはなりません。数十年前の日本であれば、例えば子どもが娘しかいなかった場合、全ての娘が結婚すると苗字は消え去ってしまいますから、1人の娘ぐらいは嫁いだ夫に苗字を変えさせて家族の苗字が残るようにしてほしいなどと願われたものなのです。ですから、昔であればナオミの家における名前が残ることの重要性をよく理解できたはずです。もし神の恵みがなければ、『買い戻す者』がナオミに与えられることもなかったかもしれません。その場合、ナオミの家命は消え去っていたかもしれません。ベツレヘムの女たちはボアズのことで『主が、ほめたたえられますように。』と言っています。これは主がボアズを通してナオミに恵み深くして下さったからです。

【4:15~17】
『その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた。」と言って、』
 ルツはナオミを愛していました。それは、ルツがナオミに良くし(ルツ記1:8)、ナオミに付いてユダヤまで来たことからも分かります。このルツはナオミにとって『七人の息子にもまさる』嫁でした。この『七人』というのは明らかに象徴数であり、これは実際の数でなく単に「何人でも」という意味です。つまり、『七人の息子にもまさる』とは「ナオミに息子がどれだけいようともルツはその全てに優っている」という意味になります。ベツレヘムの女たちは、このルツの生んだ子がナオミを『元気づけ』、『老後をみとる』と言っています。これはその子がナオミを愛するルツにより生まれた子だからです。ルツが自分の生んだ子をナオミに反発させることはあり得ないことです。むしろ、ルツはその子にナオミを敬わせたはずです。このようにして夫と2人の子を失ったナオミには慰めが与えられました。

 ルツとボアズに生まれた子は、ナオミの子となり、ナオミに養い育てられました。その子はナオミの子であるゆえ、近所の女たちも『ナオミに男の子が生まれた。』と言いました。これは当然のことでした。何故なら、ルツは自分のために子を生んだのではなく、ナオミの家系が絶え果てないために子を生んだのだからです。ですから、その子は血縁的にはルツが親だったものの法的にはナオミが親となったわけです。もしナオミが親でなければナオミの子孫とはならないからです。もしナオミの子でなければナオミの家は絶え果ててしまうことになります。

【4:17】
『その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。』
 ルツから生まれたナオミの子は、ベツレヘムの女たちにより『オベデ』と名づけられました。これはこの女たちがルツとボアズの案件における証人だったからです。今の日本では親でもない者がある子どもの名付け親になるということは少なくなっていますが、昔においてそのようなことは珍しくも何ともありませんでした。このオベデはユダヤ人とモアブ人のハーフです。ですから、オベデの子であるエッサイにはモアブ人の血が4分の1あります。そして、オベデの孫ダビデには先にも述べた通りモアブ人の血が8分の1あります。

【4:18~22】
『ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。』
 ユダの子ペレツからダビデ王に至るまでの系譜が記されています。ユダの子のうちペレツの系譜が書かれているのは、ペレツの系譜からメシアが出るからです。シェラとゼラフもユダの子でしたが(創世記46:12)、この2人はメシアに繋がっていませんから、ここでは書かれていません。ここで書かれている系譜はマタイ1:3~6の箇所と同様です。ユダから数えてダビデまでは11代であり、ボアズまでは8代です。

 この箇所からルツ記はダビデ以降の時代に書かれたことが分かります。何故なら、ルツ記の記者は、ダビデという人物を明らかに歴史的人物として知っているからです。家系まで詳しく書いているのですから、これは間違いありません。もちろん、神に動かされているルツ記の記者でしたから、まだダビデが生まれる前からこのように書くこともできました。つまり、それは預言です。聖書にはこういった預言が多く書かれています。しかし、少なくともこの箇所は、ダビデが生まれて以降に書かれたとするのが自然な解釈でしょう。