【創世記6:3~7:5】(2021/03/07)


【6:3】
『そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしよう。」と仰せられた。』
 聖徒たちの堕落は、その当時の世界における堕落をよく現わしていました。そのような世界は裁かれるに値しました。ですから、神は120年後に世界を裁こうと決められたのです。『それで人の齢は120年にしよう。』とは、こういう意味です。昔から、ここでは洪水後に人間の寿命が大幅に下がることについて言われていると往々にして考えられます。確かに、洪水後に人間の寿命は100歳ぐらいになりました。ですが、ここでは寿命について言われているのではありません。私だけがこのような解釈をしていると思われないように書いておきますが、カルヴァンも私と同様の理解を持っていました。『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。』とは、人間に与えられた被造物としての霊のことです。つまり、これは私たちの魂、自我を言っています。これは神の霊のことではありません。神はここでこう言っておられるのです。「私が人に与えた被造物としての霊は、今のような肉的世界で人のうちに活動し続けているべきではない。」ここでは世界の滅びまで残り120年と示されていますから、神がこのように言われたのはノアが480歳の時だったことになります。大洪水が起きたのは、ノアが600歳の時だったからです。大洪水が紀元前2300年に起きたと仮定すると、この箇所における御言葉は紀元前2420年に語られたことになります。

 いつの時代も、人は肉に過ぎない被造物です。つまり、誰も彼も罪深いのです。ですから、私たち人間は惨めです。しかし、惨めであるからこそ神に救いを求め、自己の精神を遜らせるべきなのです。あの取税人がこう言ったように。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18章13節)誇り高ぶっており自己を誤認している人たちが、今の世界にも多く存在しています。彼らは、その誇りを保ちつつ神に吠え立てたらよいのです。果たして、そのようにしても神を怒らせず、裁かれず、地獄に投げ込まれないで済むでしょうか。そんなにも自分が凄いというのであれば、死体になってからもその誇った態度を続けられるのでしょうか。ただ口をポカンと開けて空虚さを漂わせながら横たわることしか出来ないのではないでしょうか。愚かな子どもたちや獣から馬鹿にされても、何らかの反応を示すことさえ出来ません。猫でさえ自分を馬鹿にする生物には反応するというのに。つまり、猫でさえ出来ることも出来なくなってしまうわけです。要するに、肉に過ぎない者たちの誇りは、服に付いている染みも同然です。服と共に捨てられる染みのように、人の誇りもその命と共に消え失せてしまうのです。そのようになってしまう人間について神はこう言われます。『それは人が肉にすぎないからだ』と。

【6:4】
『神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフェリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。』
 この時期には、この世界に『ネフェリム』がいました。これは巨人のことです。どれぐらいの数がいたかは分かりません。しかし、非常に少なかったということはないように思われます。私たちは、このネフェリムと呼ばれる巨人の存在を疑うべきではありません。それを疑うのは、自分の無知を曝け出すことだからです。昔の著書を読むと、どうでしょうか。ホメロスやヘロドトスなどがそうですが、巨人について語っていたり、巨人の遺骸が地面から出てきたなどと書かれている著書は少なくありません。例えば、3mほどの遺骸が発掘されたと書いている人がいます。20m近い遺骸だったと言っている人もいます。アウグスティヌスも『神の国』という著書の中で、巨人について言及しています。それどころか、アウグスティヌスは自分の目で巨人の大きな歯を見たと言っています。これは大きな証明となる言説です。何故なら、アウグスティヌスほどの人物が、嘘を言ったり、人を騙したりするのは全く考えられない話だからです。彼の著書を読み慣れている人であれば分かると思いますが、この卓越した教父がそんな低劣なことをするはずはありません。このように書いている私も、巨人の遺骸を撮影した写真をネットで何度も見ています。それはあまりにも大きな人間でしたが、聖書の証言があるうえ、古代人も巨人の遺骸を見たと言っているのですから、私はそれが作り物であるとは思えませんでした。つまり、誰かが人々を騙したり驚かせようとして巧みに作成した創作物だとは感じられませんでした。「しかし、では、どうしてメディアはそのようなことを人々に知らせないのか?」と思われるでしょうか。メディアがなかなかこのようなことを人々に知らせないのは、メディアが人々に真実を知ってほしくないと思っている一部のユダヤ人に支配されているからに他なりません。この『ネフェリム』という言葉は、民数記13:33の箇所でも書かれています。そこでイスラエル人たちは、『私たちはネフェリム人、ネフェリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。』と言っています。イスラエル人たちの見たこの巨人は、ノアの時代にいたネフェリムの直接的な子孫であるというのではありませんでした。イスラエル人の見たネフェリム人は、ノアの時代にいたネフェリムと血の繋がりは一切ありません。何故なら、ノアの時代の巨人は、ことごとく大洪水により死滅したからです。民数記で『ネフェリム人』と言われているのは、イスラエル人たちと同様にノアの子孫であって、単にノアの時代にいたネフェリムでもあるかのように巨体だったので『ネフェリム人』と言われているに過ぎません。

 このネフェリムは『勇士であり、名のある者たち』でした。つまり、当時の世界における英雄的な存在でした。どうして彼らが有名であったかと言えば、私の推測では、この時の世界にはまだ恐竜が一杯いたからです。恐竜は化石を見ても分かるように非常に大きく、またその外形から察するに獰猛だったでしょうから、1m、2mしかない普通の人間には大きな脅威だったはずです。しかし、巨人たちであれば恐竜に立ち向かうことも出来たでしょう。ですからネフェリムは恐竜から人々を守る役目を持っており、そのため有名であり敬意を持たれていたと推測されます。巨人が恐竜を退治してくれたのであれば、どうして巨人に注目しないでいられるでしょうか。このため彼らは『勇士であり、名のある者』であったと考えられます。ネフェリムが何もしていないのに、勇士かつ有名な者であったとは考えられません。何故なら、人が良い思いや評価を持たれるのは、実力や成果のゆえだからです。もし恐竜退治のゆえに名声が高かったのでなければ、戦争のゆえだったはずです。巨人は明らかに戦争で力を発揮しただろうからです。であれば『勇士であり、名のある者たち』であったのは納得がいきます。しかし、実際はどうだったのか私たちは知り得ません。

【6:5】
『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。』
 この時の世界には堕落が大いに満ちていました。しかし、ミルトンが『失楽園』の中でパラダイスを描写したように、この時の世界について詳しく描写することはできません。というのも、私たちは昔の世界について実際にはよく知らないからです。このことを弁えないという点で、ミルトンは軽率であったと言わねばなりません。私がミルトンだったら、実際とは違った描写をすることを恐れ、失楽園を書くことはしなかったでしょう。ですから、私は確実にそうだと言えることを大いに述べ、そうでないことについてはあくまでも推測に過ぎない内容として述べねばならないのです。それで、創世記9:1~7の箇所から察するに、洪水前の時代には殺人を伴う食人行為が横行していたのだと思われます。だからこそ、神は洪水後に「動物は殺して食べてもよいが人についてはそうしたら駄目だ。」と言われたのでしょう。もしそうだったとすれば、洪水前の世界はとんでもなく堕落していたことになります。殺人を伴う食人が蔓延していたというのは、今でも考えられないほどの腐敗ぶりです。もしそうだったとすれば、神がそのような世界を大洪水により滅ぼされたとしても何も不思議ではありません。そのような世界が裁かれねばいけないということを理解できないほどに、道徳観の低い人が誰かいるのでしょうか。

 神は、当時の人たちの心が悪に傾かないようにすることもお出来になりました。しかし、神はそのようにされませんでした。それは、当時の世界が裁かれるためでした。神が人の心を悪へと傾かないようにされなかったというので、神を非難することはできません。何故なら、人は自分自身により悪へと傾くからです。例えば、ある犯罪をした人が、次のように言って責任逃れをしようとしたらどうでしょうか。「私がこのような犯罪をしたのは、神が私の心を悪から守られなかったからであるので、私がこの犯罪の責任を負う必要はない。」こんなことを言っても効果はなく、責任を逃れることは絶対にできません。それと同様で、神に対してもこのような類のことは言えないのです。もし「どうして神は私をこのように悪しき傾向を持つ者として造られたのか。」などと言って、自分が悪に傾くことを神の責任とするのであれば、その人は道理が分かっていません。そのような人については、パウロがこう言っています。『すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造ったものに対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。』(ローマ9章19~21節)

 人間の心は確かに『いつも悪いことだけに傾く』ものです。これは洪水前の時代だけに限られません。アダムから今に至るまでこのかた、またこれからも人の心は悪に傾きます。何故なら、人は堕落しているからです。これは原爆を製造していた科学者やNWOを実現させようとしている陰謀家が特にそうです。ノイマンなどの科学者たちは原爆を人の住む場所に投下させてその威力を確かめたいと願っていましたし、ロスチャイルドやロックフェラーなどの陰謀家たちは世界の円滑な支配のため人口が大いに削減されねばならないと思っています。私たちの心の歴史を振り返っていただきたい。そうすれば、確かに人の心は悪に傾く傾向を持っていることが分かるはずです。「いや、そうではない。」などと思って自分を欺きたい人は、好きにすればよいでしょう。

【6:6~7】
『それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」』
 神は、罪に染まっていた世界を裁いて滅ぼすことにされました。神は正義の審判者であられ、当時の世界は罰されるに相応しかったからです。この裁きには、人だけでなく『家畜やはうもの、空の鳥』も含まれていました。これは、人間以外の生物も大いに堕落していたからです。後に見る創世記6:12の箇所で『すべての肉なるもの』が異常になっていたと教えられている通りです。また人間以外の生物も裁きに含まれたのは、連帯責任という意味合いもあったと思われます。ちょうど古代の王が重犯罪を犯した者をその家族もろとも殺してしまうように。しかし、海の生物だけは裁きに含まれませんでした。何故なら、海の生物たちは大洪水が起きても生き続けられるからです。「いや、海の生物たちも洪水による激しい水の衝撃で死んだであろう。」と思われるでしょうか。私はこの意見に答えますが、大きな津波が起きた際には、その津波の水そのものによっては生物が死滅しませんから、大洪水が起きた際にも水の生物は死ななかったでしょう。もし水の生物も洪水で死んだとすれば、この箇所でそのことが示されていたはずです。しかし、ここでは滅ぼされる対象が『人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥』だけとなっています。

 ここでは神が人の創造を悔やまれたと書かれていますが、昔からこれはしばしば批判の対象となっています。聖書に敬意を払わない未信者である学者や知者たちは、こう言うのです。「神が自分の作った人間を残念に思って滅ぼされるとは一体なんなのか。神がもし賢ければ、やがて滅ぼすことになる存在を創造することはしなかったであろう。」しかし、このように批判する者たちは、ここで言われている内容をよく弁えていません。ここで神が人の創造を悔やまれたと書かれているのは、神の計画における大きな動きを示しているに過ぎません。すなわち、神が後悔されたと言われているのは、神の人間に対する計画が大きな変動を見せたということに過ぎません。つまり、これは人間的な比喩のもとに、分かりやすく言われているだけです。私たちは後悔したならば、それまでに持っていた方針を大きく変えるでしょう。そのような動きが神の計画に起きたということです。神が御自身の創造された人間を滅ぼされるというのは、永遠の昔から定められていたことであり、そうなるのは神の御心でした。神が後悔したと言われていることを批判する者たちは、そもそも神が後悔される御方ではないということさえ分かっていません。民数記23:19の箇所では、神が『人の子ではなく、悔いることがない。』と言われています。Ⅰサムエル記15:29の箇所でも、『実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。』とあります。ですから、私たちが今見ている箇所で『悔やみ』と書かれているのは、字義通りの意味ではないのです。もう一度言いますが、これは単に計画の動きを、人間が悔いて計画を動かすことになぞらえているだけです。もし神が本当に後悔される御方であるとすれば、神は不完全な存在であることになります。そうであれば、神はもはや神とは言えなくなってしまうでしょう。要するに、この箇所を批判の対象とするのは、無知が原因です。これは他の分野でもよくあることです。

【6:8】
『しかし、ノアは、主の心にかなっていた。』
 ノアは当時にあって神の御心に適っていました。彼は、その時の腐敗に染まっていなかったのです。どれだけ腐敗が満ちている時代でも、ノアのように必ず一握りの正しい者が存在しているものです。ソドムとゴモラの地域にあっては、ただロトだけが同性愛の風習に毒されていませんでした。異教徒たちの偶像崇拝に倣っていた南北朝時代のユダヤ人の中にあっても、少数の預言者たちだけは決して偶像崇拝に陥ることがありませんでした。神は、いつの時代であっても正しい種子を必ず残しておかれるのです。

【6:9】
『これはノアの歴史である。』
 ここから9:29までの箇所ではノアの歴史が書かれています。この歴史は非常に重要です。少し話が横に逸れますが、私としては、この箇所から新しい章としても問題なかったと思います。何故なら、ここから新しい区切りとして捉えても誤っていないからです。5:1の箇所でも、アダムの歴史が書き始められることになったので、新しい章となっていました。

『ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。』
 ノアは、この当時の世界において例外的に正しい人でした。それは、16世紀の天文学で言えばコペルニクスに例えることができます。16世紀の人々が誰も彼も天動説を当たり前のように信じている中、コペルニクスだけが一人寂しく地動説を奉じていたのです。この箇所では、創世記6:8の箇所で言われていた内容が、更に詳しく展開されています。ノアは正しい人でしたが、その正しさをノアの功績に帰するべきではありません。何故なら、ノアの正しさは、神が与えられるのでなければ持てなかった賜物だからです。バプテスマのヨハネがこう言っている通りです。『人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。』(ヨハネ3章27節)私たちも、このノアのように正しくあることを求めねばなりません。私たちは、次のように言われるのを希求しようではありませんか。「〇〇は、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。〇〇は神とともに歩んだ。」(〇〇は私たちの名前です。)どうか、神が私たちをキリストにおいて恵んで下さるように。

【6:10】
『ノアは3人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。』
 ここで言われている内容は、創世記5:32の箇所とほとんど一緒です。こちらのほうでは、創世記5:32の箇所とは違い、ノアが3人の息子を何歳の時に生んだか書かれていません。ところで、どうしてここでは『セム、ハム、ヤペテ』という順番で書かれているのか、私たちには分かりません。長子であるセムが一番目なのは分かりますが、末子かつ愚かなハムがどうしてヤペテよりも先に書かれているのか不明です。この3人の息子の歴史について書かれている創世記10章では、ヤペテ、ハム、セムという順番になっています。まあ、これはそこまで大きなことでもありませんから、分からないままでも問題が生じるというわけではないので、その点では心配ないのでありますが。

【6:11~12】
『地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。』
 ここで言われているように、当時の地上世界で堕落していたのは『すべての肉なるもの』でした。すなわち、人間以外の地上生物も腐りきっていました。だからこそ、神は裁きの対象に人だけでなく『家畜やはうもの、空の鳥』(創世記5章7節)も含まれたのでした。では、地上の動物たちにおける堕落ぶりはどのようだったのでしょうか。創世記9:5の箇所から察するに、当時は獣も普通に人間を殺して食べていたと推測されます。だからこそ、神は創世記9:5の箇所で「獣も人を殺すならば死ななければならない。」と言われたのだと考えられます。つまり、もうこれからは獣が食人に走ることはあってはならない、と。しかし、実際はどうだったか確固たることを言えません。私たちは実際に当時の世界を見たわけではないからです。ですが、獣も食人を大いにするほど堕落していた可能性は高いと思われます。

【6:13】
『そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。』
 神は、地上の生物に滅びの裁きを下されるとノアに知らせておられます。これは神が直接ノアに語られたとすべきです。カインに対して神が直接的に御声を聞かせられた時のように(創世記4:6~7)。この時には、既に神が人に直接御声を聞かせられることはなくなっていました。しかし、このノアだけは別でした。何故なら、ノアは神に喜ばれていたからです。私たちは、特別に好きな者には特別に良くしてやるものです。神もノアにそのようにされたのでした。ところで、どうしてここでは神がノアに語りかけたことが書かれているのでしょうか。その説明はこうです。まず、ノアが神の御声を聞いた事実を、文書か子孫に対する口伝により保存しました。その文書か口伝は損なわれることなく保たれました。そして、後の時代になってから創世記の著者がその文書か口伝に基づいて、神がノアに語りかけたことを創世記の中で編集しつつ書き記しました。そのようにして、ここでは神がノアに語りかけたことが記されることになったわけです。

 この箇所から分かるように、神とは御自身の僕に、あらかじめ未来の出来事を知らせて下さる御方です。これは、ちょうど夫が妻に将来の計画について親しく話すのと似ています。神は、そのように僕に未来のことを知らせてから、事をなされます。アモス3:7の箇所でこう言われている通りです。『まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言たちに示さないでは、何事もなさらない。』神が御自身の僕に未来のことを事前に知らせるのは、2つの理由からです。まず、神の栄光が現わされるためです。神が未来のことを前から預言されていたのであれば、それを知った人々は驚き、そのようにあらかじめ告げ知らせた神を崇めたり恐れたりするようになります。その崇拝と畏怖において神の栄光が現わされることになります。二つ目は、神が御自身の僕を特に恵んでおられることを公にするためです。御自身の僕にだけ未来のことが告げ知らせられるというのは、神の特別な好意と計らいに他ならないからです。

【6:14】
『あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。』
 神は、ノアにだけ特別な恵みを注がれました。大洪水の悲惨を味わわないようにと箱舟に乗せて助けて下さったのです。それは、ノアが正しい歩みをしていたからでした。しかし、ノアが正しい歩みをしていたのは神の恵みによりました。ですから、ノアが箱舟により救われたのは、神の恵みによったことが分かります。

 神は、どうして『箱舟』でノアを救おうとされたのでしょうか。それは、大洪水から助かるためには箱舟が調度良かったからです。神は、地面に深く穴を掘らせてそこにノアが避難するようにさせる、というやり方もお出来になりました。しかし、神はこのようにはされませんでした。何故なら、そのようにしてもノアは助かるでしょうが、地上を覆い尽くす大洪水の様相を確認することができないからです。箱舟であれば、箱舟の外で洪水が起きていることを確認できます。何故なら、この箱舟には『天窓』(創世記5章16節)があったからです。神とは現実確認を重視される御方です。現実とは否定できない証拠だからです。この箱舟が『ゴフェルの木』で造られたのは、この木に強い耐性があったからでしょう。箱舟は『40日40夜』(創世記7章12節)続く大雨に耐えねばならなかったからです。

 この箱舟は後にも見るように『アララテの山の上』(創世記8章4節)に漂着しましたが、衛星でこの箱舟の形跡がアララテ山に確認されています。それは聖書が記している箱舟の大きさと一致しています。私もその衛星写真を見たことがありますが、確かにその写真で示されている跡は箱舟がそこにあったことを示す跡でした。

『箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。』
 神は、箱舟の中に『部屋』を作るように指示されました。これは箱舟に入れられる動物たちを区分するためです。もし部屋がなければ、箱舟の中は混沌状態となっていたでしょう。神は混乱の神ではなく(Ⅰコリント14:33)、秩序を求められる神であられます。ですから、箱舟に秩序のため部屋を作るように命じられたのです。この動物を入れる部屋がどれだけあったのかは分かりません。ただかなりの数の部屋があったと思われます。何故なら、この箱舟には無数の動物が入ったからです。5つとか6つぐらいではなかったでしょう。そのぐらいの数ですと、動物の総数と釣り合いが取れないからです。

 箱舟における内側と外側を『木のやに』で塗らねばならなかったのは、箱舟を雨の水から守るためです。『やに』で塗らなければ木はすぐに駄目になっていたでしょう。木は水や湿気に弱いのですから。

【6:15】
『それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは300キュビト。その幅は50キュビト。その高さは30キュビト。』
 1キュビトは44cmです。つまり、箱舟の大きさは、長さ132m、幅22m、高さ13.2mでした。これは、かなりの大きさです。このように箱舟が大きかったのは、無数の動物がそこに入らねばならなかったからです。動物が箱舟に入ることについては、また後ほど見ることになります。ある人は、箱舟がこのぐらいの大きさでは多くの動物を収めきれないと言いました。しかし、私たちはこの大きさで多くの動物が収容できたと理解すべきです。何故なら、神が設計上のミスを犯すなどということは有り得ないからです。神がどうしてそんな愚かなことをされるでしょうか。動物が入るからこそ箱舟はこのぐらいの大きさとなりましたが、もし動物が箱舟に入らなかった場合、箱舟はこんなにも大きくなっていなかったはずです。

【6:16】
『箱舟に天窓を作り、上部から1キュビト以内にそれを仕上げなさい。』
 箱舟には『天窓』がありました。つまり、箱舟の窓は側面にではなく上部にありました。この窓が付けられた理由は2つあり、一つ目はノアが外部の世界を自分の目で確認できるためであり、二つ目はノアが鳥を放って外の状態を確認できるようにするためでした(創世記8:6~12)。神は、無意味に窓を付けさせたわけではありません。この窓を含め、箱舟は外観的に美しくなかったと推測されます。むしろ、それは徹底的に実用重視であったと思われます。何故なら、これから全ての人間が死に絶えるというのに、どうしてビジュアルに凝る必要があるのでしょうか。それは、無人島に一人ぼっちでいる人が、ほとんど自分の外面を気にしないのと同じです。ここでは窓を『上部から1キュビト以内』に作るように言われていますが、これはどうしてなのか分かりません。これは、箱舟の最上部の階層に窓を取り付けよという意味なのでしょうか。

『また、箱舟の戸口をその側面に設け、1階と2階と3階にそれを作りなさい。』
 箱舟の内部は3階建てになっていました。また、箱舟の外側には3つの『戸口』がありました。それぞれの戸口が、その戸口の高さに対応する階層と繋がっていたのです。すなわち、一番上にある戸口は3階と、真中にある戸口は2階と、一番下にある戸口は1階と繋がっていました。これは頭の中で簡単にイメージできると思います。ノアの箱舟を描いた絵を見ると、どれも箱舟には大きな戸口が一つ付いているだけです。これは明らかに間違っています。今述べた通り、箱舟の外側には3つの戸口があったからです。この箱舟の絵もそうですが、長髪姿のキリストといい、アイドルのような顔立ちをしている美形のキリストといい、戦車または馬に乗っていない再臨のキリストといい、ヤペテ系の風貌をしているユダヤ人といい、手足および翼が既に切り取られている呪われる以前の姿の蛇といい、何故か皆がしっかりと席に座っているレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」といい、これまで描かれてきた聖書を題材とした絵には聖書的でないものがあまりにも多すぎると言わねばなりません。これから聖書を題材とした絵を描く人たちは、神学者か聖書に詳しい人にしっかりと自分の描く題材について尋ねてから描いたほうがよいでしょう。

【6:17】
『わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。』
 神は裁きのため大洪水を起こすと言われましたが、未信者である学者たちで、これが局所的な規模だったと考えた人は今までに少なくありません。すなわち、これはメソポタミア地域における洪水に過ぎなかったと考えるのです。確かにあの地域に洪水が起きていたのは私も認めます。しかし、ここで言われているのは地域的な洪水のことではありません。これは地球規模の洪水です。何故なら、創世記7:19の箇所では、洪水の水により『天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。』と書かれているからです。もっとも高い山であるエベレストさえも、この洪水により覆われたのです。創世記8:4の箇所では、箱舟が標高5137mのアララテ山に漂着したとあります。これは、明らかに洪水が地球全土を覆う規模であったことを示しています。もしこれが地域的な規模に過ぎない洪水だったとすれば、全ての山々が水に覆われたとは書かれていなかったでしょう。この洪水の件もそうですが、聖書の記述と異なる見解を示す人たちは、聖書をよく読んでおらず、また思考が不足しているという共通点を持っています。ですから、そのような見解はいとも簡単に反駁することができるのです。また、これが地球規模の洪水だったということは、昔の著書を読んでも分かります。ダーウィンの「ビーグル号就航記」やジェファーソンの「ヴァージニア覚書」など、昔の著書では、非常に高い山に何故か貝殻や魚の死骸があったという記述が時折見られます。多くの本を読んでおられる方であれば、私が嘘を言っているのではないことが分かるはずです。これはノアの大洪水が地球規模だったことを示しています。神は、地球を洪水により丸呑みにさせられました。ですから、標高数千メートル級の山で、本来であれば海にしか見られない貝殻や魚の死骸が見つかるわけです。著名な物理学者であるガモフも、海から遠く離れた内陸部の地域に何故かクジラの死骸があったと書いています。これもノアの大洪水が地球規模であったことを証明していると言ってよいでしょう。

【6:18】
『しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。』
 神がノアと結ばれた『契約』とは、すなわち「救いの契約」でした。それは、こういう内容でした。神は、やがて来たるべきメシアにおいてノアを大洪水から救われます。ノアは、契約に導かれた神の民として相応しい歩みをし続けます。神の結ばれたこの契約には、契約を結ばれたノアだけでなく、ノアに属する者たちや所有物も包含するものでした。ですから、神はノアだけでなく、ノアの『息子たち』と『妻』と『息子たちの妻』も大洪水から救って下さいました。遊女ラハブも、神の契約の中に導かれたので、その家族さえも救われることになりました(ヨシュア記2:13~20)。神とは、契約的に事をなされる御方なのです。改革派の契約神学は、このように聖書的な根拠が背景にあります。聖書では、この箇所以外でも契約の概念が幾つも示されています。ですから、どうして私は契約神学を否定する人たちがいるのかよく理解できません。聖書の中では、ここで初めて「契約」という言葉が出てきます。しかし、だからといって神が人間と契約を結ばれたのは、ノアが最初だったわけではありません。ホセア書6:7の箇所から分かる通り、神はアダムの時から既に人間と契約を結んでおられました。もっとも、このアダムは無謀にも神を裏切り、その契約を守り通すことが出来なかったのでありますが。

【6:19~20】
『またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ2匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。』
 神は、地上の動物たちも残るように欲されました。ですから、動物たちもノアと一緒に箱舟の中に入れられることになりました。その動物たちが『雄と雌でなければならな』かったのは、もちろん繁殖のためです。恐らく、動物たちにも、僅かばかり堕落にあまり染まっていないものがいたのでしょう。神は、それらの動物たちを例外的に助け出そうとしたのだと思われます。これは、人間の中であまり堕落していなかったノアだけが、例外的に助け出されたのと同じです。つまり、この時に人間の種において起こったことは、動物におけるそれぞれの種にも起こったということです。

 恐竜はどうだったのでしょうか。恐竜は、この時に箱舟に入れられたのでしょうか。この時に恐竜が生きていたとすれば、もちろん恐竜も箱舟に入れられたでしょう。何故なら、神はここで『すべての生き物』が箱舟に入るようにと指示しておられるからです。「しかし、恐竜ほどの大きい動物が箱舟の中に入れたのか。」などと疑問に思われる方がいるでしょうか。私は答えますが、箱舟の高さは13.2mもあったのですから、恐竜も入れることが出来たでしょう。神が、恐竜が実際には入れない大きさとして箱舟のサイズを指示したとは考えられません。神が、どうしてそのような愚かなことをされるでしょうか。恐竜がこの時に箱舟に入っていた場合、恐竜が絶滅したのは洪水後だったことになります。しかし、その絶滅の理由が何だったかは分かりません。恐竜が洪水前に既に絶滅していた可能性もあります。その場合、恐竜は箱舟の中にはいなかったことになります。この場合も、やはり恐竜の絶滅における理由は私たちに分かりません。この恐竜の問題については、奥が深いのですが、同時に謎も深いのです。

 この箇所では、地上の動物が3つに区分されています。これは箱舟の階層とそれぞれ対応しているように思えます。すなわち、『各種類の鳥』は3階に入れられ、『各種類の動物』は2階に入れられ、『各種類の地をはうもの』は1階に入れられたと。もしこうだったとすれば、それは非常に自然であると感じられます。

【6:21】
『あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」』
 ノアは、自分たちと動物を養うための食糧を用意せねばなりませんでした。その総量は、人間と全ての動物たちが40日間生きられるための分量でした。いったい、ノアはどれだけ多くの食糧を調達せねばならなかったのでしょうか。これは想像するのさえ難しいことです。この時にノアは食糧調達のため大いに労苦したと推測されます。しかし、飲料については、全くか、もしくはあまり用意する必要がなかったでしょう。というのも、飲むための液体は上から降って来る雨がいくらでもあったのですから。

 ノアとその家族は、箱舟に乗っている際、動物たちへの食糧配給で非常に忙しかったと推測されます。箱舟の巨大さを考えてみて下さい。そこに無数の動物が入れられたのです。しかも、箱舟の内部は3階層となっていました。その箱舟にいる動物たちを、たったの8人で世話しなければいけませんでした。これは超重労働だったと思われます。もっとも、箱舟の中における仕事について聖書は何も記していませんから、それがどのぐらい大変だったか実際にはよく分かりませんが。また私の推測では、賢明なノアのことですから、各階層ごとに担当する人員を振り分けたと思われます。すなわち、長子セムは3階とそこにいる鳥たちを、次男ヤペテは2階とそこにいる地上の動物たちを、三男ハムは1階とそこにいる地を這う生き物たちを担当したと。それぞれの妻は、もちろん夫の補佐役です。ノアは箱舟の全体と3人の息子を統括するリーダーだったのでしょう。もし本当にこうだったとすれば、それは非常に合理的です。私がノアだったとすれば、間違いなくこうしていたでしょう。

【6:22】
『ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。』
 ノアは敬虔な正しい人でしたから、神が言われた通りに行ないました。それは『すべて』でした。つまり、ノアは神の命令を少したりとも蔑ろにしませんでした。これは、中学校で言えばテストで100点満点を取るようなものです。出エジプト記でも、モーセについて同じことが言われています。こうあります。『モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。』(出エジプト記40章16節)モーセも、ノアと同様に敬虔で正しい人でしたから、ノアのように神の命令を全てその通りに実行したのです。

 この箇所では、同じことが繰り返して言われています。ここでは、『ノアは、すべて神が命じられたとおりにし(た)。』と書くだけでも内容としては十分でした。何故なら、これだけでもノアが神の命令を全て行なったということについて分かるからです。しかし、聖書はこれに加えて『そのように行なった。』と書いています。これは繰り返しであって、前に書かれた内容を強調しています。つまり、ここではノアが本当に忠実に神に従い通したということを、私たちに強く告げ知らせているわけです。

【7:1】
『主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあっても、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。』
 ノアはその正しさのゆえ箱舟に入れられましたが、神はノアだけでなくノアの家族をも箱舟に入れて下さいました。というのも、ノアの家族はノアに属していたからです。契約的に言えば、ノアの家族とは、ノアの一部です。ですから契約的に事をなされる神は、ノアだけを救うのではなく、ノアの部分である家族をも救いに与からせたのです。もしノアが救われなかったとすれば、当然ながらノアだけでなく、ノアの家族も救われていなかったでしょう。このように神とは、恵みを、その恵みが注がれる当の対象人物以外にも及ぼされる御方です。だからこそ、パウロは牢の看守に対して次のように言ったのです。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒行伝16章31節)実際、この看守に与えられた救いの恵みは、看守だけでなく看守の家族にまで波及されました(使徒行伝16:31~34)。これは、私たちに誰か気に入っている人がいる際、その人だけでなく、その人の家族や周辺状況にも好意や関心を持つようになるのと似ています。誰だって、自分の好きな人がいれば、その人の家族にまで良くしてやりたいと思うでしょう。神もそれと同じなのです。

 私たちが周囲の人をも幸いにしたいのであれば、私たちは敬虔であることを求めねばならないでしょう。私たちが敬虔であれば、私たちに対する神の祝福が、私たちの周囲の人にも及ぼされることを期待できます。しかし、私たちが敬虔に歩んだからといって、必ず私たちおよび私たちの周囲の人に幸いがもたらされるというわけではありません。私たちが敬虔に歩んでも、私たちに大きな悲惨が降りかかることも、ないわけではありません。これは、あのヨブがよい例です。ヨブほど敬虔な人はいませんでしたが、ヨブほど大きな悲惨を味わった人もいませんでした。ヨブ記を見れば分かる通りです。ヤコブも敬虔な人でしたが、労苦と悩みの多い歩みをしました。ですから、私たちは、もし敬虔に歩めば絶対に喜ばしい状態が生じるという機械的な絶対法則があるなどと考えないよう注意せねばなりません。

【7:2~3】
『あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、7つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、1つがいずつ、また空の鳥の中から雄と雌、7つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。』
 『きよい動物』は『7つがいずつ』集めねばなりませんでした。何故なら、7とは神聖な数字だからです。7という数字は、清い動物に相応しい数字です。この清い動物については、レビ記11章に記されています。一方、『きよくない動物』は『1つがいずつ』だけでした。それは、あまり喜ばしくない動物だからです。清くない動物が沢山いても何になるでしょうか。こちらのほうもレビ記11章で記されています。

 この箇所を読んで分かることは、既にノアの時代から動物には聖俗の区別が付けられていたということです。私たちは、普通、モーセ以降の時代においてしか、動物における聖俗の区別については考えません。すなわち、モーセ以前の時代には動物の聖俗はどうなっていたのかということを全く考えていません。これは心の中に生じさえしない疑問です。何故なら、私たちは律法で示されている聖俗の区別に関する認識を、律法が公布されるよりも前の時代にまで及ぼそうとしないからです。しかし、実はノアの頃から既に清い動物と清くない動物の区別がされていたのです。そうでなければ、どうしてここで神が『きよい動物』と『きよくない動物』について語っておられるのか分からなくなります。神がこのように言われたのは、既にこの頃から動物に聖俗があったからに他なりません。このことから次のことが分かります。『きよい動物』とは、羊や牛など、堕落以降も原初の状態からほとんど逸脱していない種のことです。『きよくない動物』とは、蛇やコウモリなど、堕落以降は原初の形を大いに毀損させられている種のことです。簡単に言ってしまえば、前者はあまり呪われていない動物、後者は非常に呪われている動物だということです。

【7:4】
『それは、あと7日たつと、わたしは、地の上に40日40夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」』
 創世記7:1~4の箇所に書かれている御言葉は、大洪水の起こる『7日』前に語られました。どうして『7日』前だったのでしょうか。これは、7日後に起こる出来事が、神による出来事であることを示しています。何故なら、「7」とは神聖な数字だからです。神とは神聖な御方ですから、神に関わらせて何事かが語られる場合には7という数字を使うのが適切なのです。

 また神は、大洪水を引き起こす大雨が『40日』降るようにと定められました。どうして『40日』なのでしょうか。これは実際の数字ですが、象徴的な意味も含まれています。聖書において「40」とは十分な量や時間を示しています。例えば、キリストとモーセのした断食は40日間でしたし(マタイ4:2、出エジプト記34:28)、エリヤがホレブ山まで歩いた日数も40日間でした(Ⅰ列王記19:8)。これは、これらの時間が十分であって、決して短くはないことを示しています。この箇所で『40日』と言われているのも同様です。つまり、これは大雨が十分なだけ降り注ぐということを示しています。この『40』(日)という数字を単なる象徴としてのみ捉えるのは間違っています。これは象徴としての意味を持っていると同時に、実際上の数字でもあるからです。

【7:5】
『ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。』
 先に見た創世記6:22の箇所と同様、ここでもノアが忠実に神に従い通したと言われています。私たちは誰でもこのノアから出ています。今いる者たちは皆、例外なくノアのDNAを持っています。ですから、私たちもこのノアのようになれる余地が幾らかでもあるのです。もっとも、実際にはノアのような人が出現するのは、100年に1人いるかいないかであるのではありますが。いずれにせよ、私たちもノアのようになれるのを求めねばなりません。そのようになるのは間違いなく神の御心に適っているからです。