【創世記7:6~8:22】(2021/03/14)


【7:6】
『大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは600歳であった。』
 ノアが600歳になった時、大洪水が起こりました。それは紀元前2300年頃でした。ノアが500歳の時に、神はノアに洪水のことを予告されました。ですから、ノアには箱舟を作る期間が100年用意されたことになります。ノアは、この期間に箱舟を完成させることができました。この100年という期間は、箱舟を作る期間としては長かったのでしょうか、調度良かったのでしょうか、短かったのでしょうか。これは全く分かりません。何故なら、私たちは、当時の文明における技術水準、ノアの能力および健康状態、必要な資材の総量、資材の調達における難易度、箱舟建設の際に起こった妨害の度合い、助力者の有無、建設において生じた問題、などといった事柄を全く知らないからです。ですから、100年という期間が調度良かったのかどうかということは、推測することさえできません。よって、私はこの件について何も言わないでおきたいと思います。

 100年間も箱舟を作り続けるということに、ノアの信仰と忍耐強さがよく現われています。これが他の人だったら、そもそも最初から啓示を信じないで箱舟建設に着手しないか、着手しても途中で止めてしまうかしていたでしょう。ですから、このことからだけでもノアの敬虔性がよく分かります。

【7:7】
『ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟にはいった。』
 既に見たように、箱舟の外には戸が3つありました。ノアたちがどの戸から箱舟に入ったかは分かりません。1階に繋がる戸から入ったとは限りません。何故なら、2階が主要な戸だった可能性もあるからです。また、2階と3階に繋がる戸からは入れなかったと考えることもできません。何故なら、2階と3階に繋がる戸がある以上、そこへと入るための階段があったのは間違いないからです。聖書は、箱舟に入るノアたちの心情について全く書き記していません。これは、ここで目的とされているのが神による人類の救いを示すことだからです。要するに、ここでのテーマは「神の働きかけ」です。よって、ここでノアたちの心情について記しても、このところにおけるテーマにそぐわないので、あまり意味はなかったのです。

【7:8~9】
『きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌2匹ずつが箱舟のノアのところにはいって来た。』
 地上の動物は、神の働きかけにより、箱舟に入るためやって来ました。神が地上の動物たちを動かされたのです。この時には特殊な状況がありました。ですから、こういう特別なことが動物にも起きたのです。この箱舟に入った動物たちから、全ての動物たちが出ています。今いる地上の動物たちは、箱舟に入った動物たちの子孫です。すなわち、彼らの親を辿って行くと、必ず箱舟に入った動物に至ります。例外は1匹もありません。ノアとその家族を含め、この時に箱舟に入れられた生物を「箱舟族」と私は呼びたいと思います。

【7:10】
『それから7日たって大洪水の大水が地の上に起こった。』
 神が創世記7:4の箇所で言われた通り、7日後に大洪水が引き起こされました。神はノアに偽りを言われたのではありませんでした。また、神は単なる威嚇として7日後に大洪水を引き起こすと言われたわけでもありませんでした。本当に大洪水を起こされるからこそ、そのことについて神は7日前にお語りになったのです。このように神は、御自身の言われたことを必ず実現される御方です。ですから、神の言われたことを真実なこととして信じる人たちは幸いです。次のようにある通りです。『主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』(ルカ1章45節)

【7:11】
『ノアの生涯の600年目の第2の月の17日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。』
 ここでは『ノアの生涯の600年目の第2の月の17日』に大洪水が始まったと言われていますが、創世記の著者は、どうしてこのように正確な日を書けたのでしょうか。それは、ノアまたはノアの家族に源流がある口伝か文書記録を、創世記を書いた人が調べたか前から知っていたからです。それが口伝か文書記録かは定かでありませんが、創世記の著者がいた時代に、そのことに関する情報がユダヤ人の共同体に知られていたことは間違いありません。しかし、創世記の著者が直接的に神から啓示を受けてそのことを知ったという可能性もないわけではありません。ですが、私が今述べたように考えたほうが自然でしょう。ノアかその家族が、ノアとその時代に起きた洪水の出来事を子孫たちに語り聞かせ、その情報が後世にまで語り継がれていたことは間違いないのですから。ちょうど21世紀の今になっても、イタリア人の親たちが子どもにハンニバルのことを語り聞かせるのと同じです。

 既に見たように、この時代には上空、すなわち大気圏の場所に大水が浮かんでいました。その大水が、この時に初めて上から雨として降ってきたのです。それは、神の働きかけにより大水が重力の力に抗せないようになったからです。このことについて、ここではこう言われています。『巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。』上に浮かんでいたこの大水は、想像を絶する量だったに違いありません。何故なら、それは世界一高い山であるエベレスト山をも覆う水となったからです。もし大水が少ししかなければ、エベレスト山を覆うことはなかったでしょう。この出来事が起きた時、人々はどのような思いを抱き、どのように振る舞ったのでしょうか。これは私たちには分かりません。しかし、恐らく恐怖に包まれたのではないかと推測されます。

 大洪水を引き起こした上空の大水は、創造の第2日目から既に用意されていました。ですから、神は遥か昔から既に大洪水が起こるのを定めておられたことになります。実に、神とはあらかじめ前もって全てを備えておかれる御方なのです。

【7:12】
『そして、大雨は、40日40夜、地の上に降った。』
 この大雨の降り方はどのようだったのでしょうか。激しかったのでしょうか、それとも穏やかな降り方だったのでしょうか。私たちには分かりません。しかし、これが裁きと滅びの雨だったということは確かです。

【7:13】
『ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの3人の妻といっしょに箱舟にはいった。』
 ここで書かれている内容そのものは既に見た通りです。この箇所では、まず男たちが第一に書かれ、その次に女たちが書かれています。ノアの妻でさえ、3人の息子よりも後で書かれています。聖書がこのような書き方をしているのは、パウロが次のように言っていることによります。『アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。』(Ⅰテモテ2章13~14節)聖書における順序は、第一に男、第二に女です。ですから、ここでノアの息子たちがノアの妻より先に書かれていたとしても驚くべきことではありません。

【7:14~16】
『彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、2匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。』
 ここで書かれている内容そのものは既に見た通りです。この箇所では、既に語られたことが繰り返されています。この繰り返しは、その起きた出来事を強調しています。つまり、ここでは全ての動物たちが箱舟の中にやって来た、ということを大いに告げ知らせているわけです。もちろん、全ての動物というのは、その時代に生きていた動物に限られます。それよりも前に絶滅していた動物はこの限りではありません。何故なら、絶滅した動物は、箱舟に入ろうとしてもどうして入れるのでしょうか。

『それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。』
 ノアが箱舟に入ると、神は『彼のうしろの戸を閉ざされ』ました。既に述べた通り、ノアが箱舟のどの階から入ったかは分かりません。どの階から入ったにせよ、神はその時、戸を超自然的な仕方で閉めてしまわれました。つまり、戸はノアが自分で閉めたのではないということです。不信仰な人であれば幽霊が働いたと感じるような仕方で、です。これは、神が自ら箱舟によりノアを救われたことを示しています。それと同時にノア以外の人たちを滅びへと定めたことをも示しています。

【7:17~19】
『それから、大洪水が、40日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、』
 大洪水を引き起こした大雨による水かさは、徐々に増し加わっていきました。ライプニッツとリンネは「自然は飛躍しない。」と言っています。この言葉に間違いはありません。自然を創造された神は、自然を飛躍しない性質とされたのです。これは木や生物の成長を見れば分かります。つまり、神とは、この時間世界においては徐々に何事かを実現なされる御方です。この時に水かさが徐々に増し加わったのも、神のいつものやり方にそぐわないものではありませんでした。

【7:19~20】
『天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに15キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。』
 ここで全ての山が水に覆い尽くされたと言われているのは、文字通りに捉えるべきです。つまり、ここではメソポタミアに起きた地域的な洪水について言われていると捉えることはできません。何故なら、ノアの箱舟は『アララテの山の上にとどまった』(創世記8章4節)からです。もしこれがメソポタミア地域の洪水に過ぎなかったとすれば、重力が一時的に消え去ったのでもない限り、箱舟が標高5137mのアララテ山に漂着したというのは万が一にもありえないことです。

【7:21~23】
『こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。』
 この時に地上生物はことごとく大水により滅ぼし尽くされました。それは文字通り全てです。何故なら、地上の生物は水の中でも生きられるように設計されていないからです。ただし、水の生物だけは滅ぼされる対象に含まれていませんでした。ですから、大洪水の記事において、聖書は水の生物のことについては僅かでも触れてさえいません。

 「しかし、少しぐらいは奇跡的に生き延びた生物が、箱舟に入らなかった生物の中にもいたのではないか。」と思われるでしょうか。このように考えることは全くできません。エベレスト山をも覆うほどの大洪水を生き残れるような地上生物がどこにいるでしょうか。鳥ならば何とか生き残れるのでは、と言われるでしょうか。確かに鳥であれば上に飛んで水から逃れることができるかもしれません。しかし、この鳥でもこの時の大洪水からは免れなかったでしょう。マダラハゲワシは11300mまで飛んだようであり、これは8849mあるエベレスト山を越えていますが、たとえ水かさがある鳥の高さにまで及ばなかったとしても、数十日間もその高さで飛び続けることは出来ないだろうからです。人間またはある動物が大木に乗るか掴まるかすれば生き残れたのでは、と言われるでしょうか。確かに大きな木が水の上に浮かび続けていたのであれば、木の上で生き続けることができたでしょう。しかし、その場合でも40日もの間、空腹と疲労と寒冷に耐え続けることは出来なかったはずです。これはキリストとモーセが40日間断食したのとはわけが違うのです。大洪水の中にあって、そんなにも長い間、食料抜きに生き続けることは不可能でしょう。聖書は、大洪水により全ての地上生物が死滅したと教えているのです。ですから、聖徒たちは問答無用にその教えを信じ受け入れるべきです。

【7:24】
『水は、150日間、地の上にふえ続けた。』
 大雨の降った期間は40日でしたが、水が地の上に溢れていたのは150日間でした。つまり、上にあった大水は、40日分の大雨に等しい分量だったことになります。水が地に150日間あったというのは非常に長い期間です。40日であれば全ての生き物は死ななかっただろうと考えた人も、150日間地の上に水があったと聞けば、流石に全ての生き物が死んだと認めざるを得ないでしょう。何故なら、150日間も空腹と疲れと凍えに耐え続けられる生物はいないはずだからです。「しかし、この地球に水が150日あったことを示す証拠は何か。」と言われるでしょうか。私たちとしては、聖書の証言があるだけで十分です。何故なら、聖書に偽りは書かれていないからです。ですが、証拠を求めるこの世の人たちに答えるとすれば、こうなるでしょう。まず、証拠として示せるのは地層です。この地層は、150日も増え続け、そしてその後で減り続けた大水により形成されたと考えざるを得ません。また、化石もそうです。この化石は、この大洪水の際に形成されたとする以外にはありません。更に、これは既に述べたことですが、山や内陸部に本来であれば海にしか見つからないものが存在しているのも、証拠の一つです。これは水が全土を覆っていたことの強力な証拠です。

【8:1】
『神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。』
 神が箱舟の中にいた生物を『心に留めておられた』と言われているのは、彼らに神の恵みと守りがあったという意味です。つまり、神が彼らを心に留めておられたからこそ、彼らには恵みがあり、また守りが与えられていたということです。たとえ心に留められていたとしても、ただ心に留めているだけで、恵みを与えたり守って下さらなかったりしたのであれば、それは実質的に心に留められていなかったことになりましょう。確かに神は箱舟族に心を留めておられました。ですから、箱舟の中ではまったく死が生じなかったはずです。動物たちも飢えなかったでしょう。ノアとその家族も飢えなかったことは間違いありません。何故なら、『主は正しい者を飢えさせない。』(箴言10章3節)からです。当然ながら疫病なども箱舟の中では起こらなかったでしょう。

 神は箱舟の中にいた生物を配慮しておられましたから、いつまでもそこに閉じ込めてはおかれませんでした。箱舟からもう出られるようにと働きかけて下さったのです。それは『地の上に風を吹き過ぎさせる』という方法によりました。吹きつける風により大水が減らされるというのは一体どういうことでしょうか。科学的な説明はこうです。まず、神は激しい風を生じさせ、その風により大水の表面における水を上のほうへと吹き飛ばされました。ちょうど私たちがストローで水の表面を吹き散らすのと一緒です。そして、その吹き散らされた水は水蒸気となって蒸発しました。このようにして水が徐々に減っていったのです。この風に熱があったかどうかは分かりません。もしかしたら熱風だった可能性もあります。そうだった場合、水は急激に減ることができていたでしょう。この風を単なる表現として理解することはできません。『風を吹き過ぎさせる』と書かれている以上、これは風に関する特別な現象が引き起こされたとすべきです。また、この『風』が聖霊を示していると考える人もいるかもしれません。確かに聖書では聖霊を風において語っている箇所があります(ヨハネ3:8)。しかし、ここでは単に自然現象としての風が言われているとすべきでしょう。

【8:2】
『また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。』
 『大いなる水の源』とは何でしょうか。これは、上に浮かんでいた大洪水の原因となった大水のことです。それが『閉ざされ』たというのは、つまり、その大水が大雨として全て降り注がれたという意味です。次に『天の水門』とは何でしょうか。これは、大水を地へ降り注ごうという神の御心における比喩表現です。つまり、人が水門を開いて水を流れさせるかのように神は天から大雨を降り注がせたということです。ですから、これは実際に大気圏の場所に水門のような物体があったという意味ではありません。その比喩表現としての『天の水門』が『閉ざされ』たというのは、つまり、神が大雨の降下を止めさせられたという意味です。このように、『大いなる水の源』と『天の水門』という言葉は同一の意味を持っていません。前者は実際のことを言っており、後者は単なる比喩としての表現です。

【8:3】
『そして、水は、しだいに地から引いていった。水は150日の終わりに減り始め、』
 150日後に水が地から減り始めました。これは大雨の期間を含んだ期間です。すなわち、これは大雨が40日降り注いでから150日後という意味ではありません。もっと分かりやすく言えば、これは大雨の40日を除けば「110日」だということです。この『150』(日)という数字に数字的な意味が何か隠されているのでしょうか。特に何かが隠されているとは思われません。これを「5」か月として捉えても、やはり何かの数字的な意味があるとは思われません。これは、単にありのままの期間を言っただけでしょう。

【8:4】
『箱舟は、第7の月の17日に、アララテの山の上にとどまった。』
 大洪水が始まったのは『第2の月の17日』(創世記7:11)でした。そして、箱舟が『アララテの山の上にとどまった』のは『第7の月の17日』です。これは、ちょうど5か月後です。水が地から減り始めたのは、創世記8:3の箇所に書かれているように『150日』目、すなわち5か月目です。既に見た通り、大水は8849mのエベレスト山をも覆い尽くしました(創世記7:19)。アララテ山は5137mです。ですから、1日でエベレスト山を越えていた水位がアララテ山の水位にまで下がった。つまり、地の上に溢れていた大水は、たったの1日に約4000mも水位が下がったことになります。このように急激な水位の下落が起きたのは、最初の1日だけだったでしょう。それ以降は、ここまで急激な下がり方はしなかったはずです。神とは、最初の時期だけは、特別的に激しく事をなされる御方なのです。それは、この世界における最初の6日間のことを考えても分かります。この世界において、最初の6日間ほど神が激しくこの世界に働きかけられた時期はありません。

【8:5】
『水は第10の月まで、ますます減り続け、第10の月の1日に、山々の頂が現われた。』
 最初の1日ほどの急激な減り方ではありませんでしたが、第10の月まで、水位は『ますます減り続け』ました。そして、『第10の月の1日に、山々の頂が現われ』ました。これは、かなり多くの山の頂が水から現われたという意味です。つまり、この時に初めて山々の頂が水から現われたという意味ではありません。何故なら、既に『第7の月の17日に』(創世記8章4節)アララテ山とエベレスト山が水から現われていたことは明らかだからです。

【8:6~7】
『40日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。』
 40日目になると、ノアは外の状態を確かめるために窓から烏を放ちました。烏が戻ってくればまだ地は水に溢れており、戻って来なければ地は乾いている、というわけです。というのも、烏もずっと飛んでいれば疲れるので、箱舟に戻って来るか乾いた地に降りるかしなければいけないからです。この烏は、かなりの間『出たり、戻ったりしてい』ました。足を休める場所がまだ見当たらなかったのです。つまり、まだその時には地から水がなくなっていませんでした。ノアが『40日の終わりになって』からこの烏を放ったのは、40日目に大雨が止んだからです。何か大きな変化があれば、それに伴い良い結果が生じたのではないかと人は期待するものです。ノアは大雨が止むという変化が起きたので、外の状態が気になって烏を放ったのです。なお、この箇所から箱舟の窓が開閉式だったことが分かります。ここでは『箱舟の窓を開き』と書かれているからです。しかし、それがスライド式だったのか回転式だったのかは分かりません。

 ところで、どうしてノアは数ある鳥のうち『烏』を選んだのでしょうか。これはよく分かりません。可能性として高いのは、烏が知的に愚鈍ではなかったから選ばれたということです。この烏ですが、街中にいる烏を見ると、動物としては賢いと感じさせられます。というのも、明らかに烏は人間の動きを読んでおり、適切な行動を取ろうとしているからです。この烏に象徴的な意味は特にないと思われます。聖書では、Ⅰ列王記17:1~7の箇所でも烏が出てきますが、そこではエリヤを養う神の道具として烏が現われています。そちらのほうの烏は神の使者としての意味を持っていました。しかし、ノアが放った烏に、そのような意味はありません。

【8:8~9】
『また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったで、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のところに入れた。』
 かなり経ってから、ノアは続いて『鳩』を確認のため放ちました。これも、やはり窓から放たれました。鳩は、これまで烏がそうしたのと同じように、ノアと箱舟のところに戻りました。『水が全地の面にあったから』です。鳩はずっと飛んでいるわけにもいかないので、地に足を休める場所がなかった以上、ノアの場所に戻るしかなかったのです。

 どうしてノアは烏に続いて鳩を放ったのでしょうか。これは、よく分かりません。可能性として高いのは、烏とは違う結果を求めて鳩が放たれたということです。「烏だと同じままだから今度は鳩を放ってみたら違う結果になるかもしれない。」などと思って。烏が死んだから代わりに鳩が放たれたということはありません。何故なら、神は箱舟に入った動物たちを『心に留めておられた』(創世記8章1節)からです。しかし、烏が負傷したり疲労したというのであればありえます。つまり、烏から鳩に選手交代されたということです。この鳩は、福音書の中で聖霊の象徴として示されています(マタイ3:16)。ノアの放った鳩は、当然ながら聖霊を象徴しているわけではありません。この鳩の場合、象徴的な意味は何もないと思われます。

【8:10~11】
『それからなお7日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。』
 ノアが7日後に再び鳩を放つと、今度は手応えがありました。『むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあ』ったのです。これは、外の世界から水がかなり減ったことを示していました。何故なら、水が地から減っていなければ、どうして鳩がオリーブの若葉を持ってこれたのでしょうか。オリーブの木が水に覆われたままでは、鳩がその木から葉をもぎ取ることはできなかったでしょう。この『オリーブの若葉』には特に象徴としての意味は潜んでいないと思われます。聖書においてオリーブとは聖徒を象徴しています。ですが、この鳩が持って来たオリーブの葉においては、そのような意味はありません。

【8:12】
『それからなお、7日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。』
 7日後に、ノアは再び鳩を放ちました。また何か別の結果が起こることを期待したのでしょう。今度は、『鳩はもう彼のところに戻って来』ませんでした。つまり、もう地上からはかなり水が乾いていたのです。ノアが『7日』後に鳩を放ったのは、ノアが7の数字を特別視していたからに他なりません。ノアが、創世記1章、2章に書かれている最初の7日間のことについて、父祖たちから聞かされ、知っており、信じていたのは間違いありません。ですから彼は7という数字が神聖な数字だと知っていました。このため、『7日』経過してから再び鳩を放つことにしたわけです。何となく7日後にしたというのはないはずです。

【8:13】
『ノアの生涯の第601年の第一の月の1日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。』
 大雨が降り始めてからおよそ10か月と半月で、『水は地上からかわき始め』ました。この時、すなわち『第一の月の1日』には、もう地上の大部分が水浸しの状態ではなくなっていたでしょう。しかし、『第二の月の27日』(創世記8章14節)になるまでは、まだまだ地はぬるぬるしていたでしょう。ちょうど私たちが雨の降った後に地面がぶよぶよとぬかるんでいるのを見るように。なお、この時の乾き具合から、大水の水位における下がり具合などを科学的に計算することはできません。何故なら、それを計算するためにはデータが足りなさ過ぎるからです。私たちは、この時の日照度や温度や湿度、また風の度合いといった環境的な要素を全く知りません。そのようなデータがない以上、水の乾き具合からだけでは、水位の下がり具合を計算することは不可能に近いのです。

 ここでは箱舟に『おおい』があったと示されていますが、この覆いとはどのようなものだったのでしょうか。これは、恐らく降って来た雨を下に流すための屋根だったと推測されます。四隅から固定されて動かないようにされた強度の強い網状のネットだった可能性もあります。いずれにせよ、箱舟に『おおい』が付けられていたことは確かです。ノアの箱舟について描かれた絵を見ると、どれも覆いが箱舟に付いていませんから、その絵は不正確な描写であると言わねばなりません。もし正しく描写したいのであれば、箱舟の上に取り去ることの出来る『おおい』を描かねばならないのです。先に述べたことをもう一度繰り返しますが、聖書を題材とした絵を描く人は、絵を描く前にその題材について優秀な神学者や学究的な牧師と話し合いをすべきです。彼らの霊的な繊細さと緻密さとを侮ってはなりません。また、この『おおい』ですが、これは創世記6章の箇所で箱舟に付けるように指示されていません。つまり、この『おおい』は神が実際には付けるよう指示されたのですが聖書では単にそのことが書かれていないだけか、もしくはノアが勝手に自分で箱舟の上部に付けたことになります。

【8:14】
『第二の月の27日、地はかわききった。』
 大雨が降ってから1年と10日後に、『地はかわきき』り、元の状態に戻りました。こんなにも長い間、ノアと動物は箱舟の中にいたわけです。しかし、聖書はノアたちの不安や労苦について全く触れていません。これは既に述べたように、ここでは人間のドラマを記すことが目的ではなく、神の救いと裁きにおける働きかけがテーマとされているからです。つまり、ここでは単に「神は世界を裁かれたがノアたちだけは助けられた。」ということが分かれば、それでよいのです。ノアは、大洪水を起こされた神に対して何も文句を言わなかったはずです。何故なら、ノアは義人だったからです(創世記6:9)。もしノアが神に文句を言うような人であれば、そもそもノアは救われるようにされなかったでしょう。神とは、こざかしい愚か者を顧みられない御方だからです。ヨブ記37:24の箇所で言われている通りです。

【8:15~16】
『そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。』
 神は、ノアとその家族が箱舟から出るように言っておられます。ここで注目すべきなのは、ノアが指示されるまで箱舟を出なかったということです。ノアは『第1の月の1日』(創世記8章13節)に地が乾いたのを見ましたが、それからも『第二の月の27日』(創世記8:14)に神の指示が出るまでは箱舟で待機していました。その期間は約2か月です。不敬虔な人であれば、地が乾いたのを確認した時点で、勝手に箱舟から出てしまっていたかもしれません。しかし、ノアは神の命令を待ち続けていました。ここにノアの敬虔さがあります。このノアが私たちの前に模範として置かれています。私たちも、ノアのようになるのを求めねばいけないでしょう。

 神がこのように仰せられたのは、直接的な音声によったとすべきでしょう。モーセに御声が直接的な音声によって聞かされたのと同じです。つまり、神は物理的な音声を通して本当にこのように語られたということです。

【8:17】
『あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」』
 神は、人間以外の箱舟族も外に出るようにし、それらが増殖するようにと仰せられました。というのも、動物たちが地に満ちるのを神は望んでおられるからです。もし動物が増殖しなければ、動物たちはすぐにも全滅していたでしょうから、神が動物を造られた意味はなくなります。こんなにも愚かで虚しいことはありません。ですから、動物たちは絶対に増えねばならなかったのです。

【8:18~19】
『そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。』
 箱舟族は、こぞって箱舟から出ました。この時の彼らの心情はどうだったのでしょうか。嬉しかったのでしょうか、それとも外に出るのが億劫または恐ろしかったのでしょうか。私たちにはよく分かりません。というのも、彼らがどのような心情をもって箱舟から出たのか聖書は何も示していないからです。しかし、この時にあらゆる生物が箱舟から出たのは間違いありません。例外は一つもありませんでした。

【8:20】
『ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。』
 ノアは箱舟から出て後、神をなだめるため、全焼の生贄を神に捧げました。それは清い動物でした。清くない動物を聖なる神に捧げるわけにはいかないからです。この時に捧げられた動物は、箱舟から出てきた清い動物のうち全てではありませんでした。何故なら、ここでは『幾つかを選び取って』と書かれているからです。その『幾つか』が何だったのか私たちには分かりません。聖書は何もそのことについて書いていないからです。ただノアはもっとも良いと思われる動物を選んだでしょう。そして、それは傷や衰えの全く見られない個体だったはずです。何故なら、ノアは敬虔な人だったからです。ノアともあろう人がいい加減に捧げ物を選んだと考えるのは、馬鹿げたことです。この時にノアが築いた『祭壇』は、恐らく石を積み重ねたものだったと考えられます。

 この動物犠牲は、イエス・キリストを象徴していました。このノアをはじめ古代に聖徒たちが捧げた犠牲は、やがて来たるべきイエス・キリストという永遠の犠牲を示す影だったのです。神は霊的な御方ですから、その動物による犠牲を、あたかもイエス・キリストが犠牲となったも同然に見做しておられました。その時にはまだキリストが現われていませんでしたから、そのようにするしかなかったのです。ですから、このような犠牲を捧げたノアは、キリストによる贖いを受けていたことが分かります。もしそうでなければ、ノアは地獄に行ったことになります。しかし、ノアが天国に行ったことは火を見るよりも明らかでしょう。ですから、このような犠牲を捧げたノアは、確かにキリストの贖いを受けていたことになります。神は、キリストを通してでなければ、誰も天国に入らせないからです。また、このような犠牲が既にノアの時から捧げられていたというのは注目に値します。古代に満ちていた動物犠牲の行為は、どれもこのノアの宗教行為から流れ出ていたのです。

【8:21】
『主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。』
 神は、この犠牲における香りにより、なだめられました。その犠牲は御子イエス・キリストを指し示していたからです。神は御子を愛しておられます(ヨハネ3:35)。ですから、御子とその犠牲を予表している動物犠牲がなされたとあっては、心をなだめずにはおられないのです。親の中で、自分の愛する子が犠牲になったのにもかかわらず心を動かさないような者が、どこにいるでしょうか。

 そして神は、もはや地上に破滅的な裁きを下すことはないと決められました。それは、『人の心の思い計ることは、初めから悪であるから』です。つまり、人の心は根本的に悪へと傾く性質を持っているので、悪が満ちるごとに逐一滅亡的な裁きを下していたらきりがない、ということです。実際、このように心の中で言われた神は、今に至るまでノアの時のような裁きを地上世界に下しておられません。これからも神は、そのような裁きをこの地上に下されないでしょう。よく心配している人がいますが、核戦争により人類が滅亡するということもありません。なお、この箇所ではもはや二度と地に致命的な破滅をもたらさないということが2回言われています。この繰り返しは、神の強い決意を示しています。

 堕落後の人間における心は、根本的に悪で染まっています。私たちには原罪があるのです。これは、必然的に罪の方向へと向かう抜き取ることのできない生来的な性質のことです。私たちの心は、今までどれだけ悪に傾いたでしょうか。数えきれないほどであるはずです。これこそ原罪が私たちに存在している証拠です。もし原罪がなければ、私たちの心はここまで悪に傾かなかったでしょう。誰か自分の心に悪はないとあえて言う人がどこかにいるのでしょうか。誰もいないはずです。つまり、全ての人の心は罪深い。このため、パウロはこう言ったのです。『義人はいない。ひとりもいない。』(ローマ3章10節)これからも人間は、その『心の思い計ることは、初めから悪である』ことを止めないでしょう。何故なら、人間はアダムにおいて腐敗してしまったからです。

【8:22】
『地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」』
 ここでは地球の歴史におけるこれからの方針が示されています。これは地球における永遠の定めです。つまり、地球が続く限り、ここで書かれている事柄は終わらないということです。『種蒔きと刈り入れ』。これは、人が耕作を止めることはないということです。『寒さと暑さ』。これは地球における温度の変化はいつまでも継続されるということです。『夏と冬』。これは、地球の中心軸はいつまでも僅かに傾くということです。何故なら、夏と冬は地球の軸が傾くことにより生じるからです。『昼と夜』。これは、地球の自転が止まないということです。何故なら、昼と夜は地球が自ら回ることにより生じるからです。実際、主がこのように言われた通り、今に至るまでこれらの事象はまったく止んでいません。これからも、これらの事象が止むことは有り得ません。