【創世記9:1~10:5】(2021/03/21)


【9:1~2】
『それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのもの―それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。』
 神は、増殖するようにという命令をアダムに与えましたが、再びその命令をノアとその家族に与えられました。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。』神の御心は人間が地上に満ちることなのです。それは、ひとまず実現されました。すなわち、ノアの時代になるまで人間は地に満ち広がっていました。しかし、その増え広がった人間は、どうしようもない輩ばかりでした。これは大変悲惨なことでした。ですから、神は一度大洪水によりノアとその家族以外の者を滅ぼして言わばリセットをし、生き残ったノアたちから再び人類が増殖するようにされました。そうすれば人間は誰でも義人ノアの血を持つことになりますから、大洪水以前のような酷い状況が出現することはなくなるのです。実際、大洪水以降の新しい時代を見ると、どうでしょうか。人間が悪しき性向を持っているということ自体に変わりはありませんが、少なくとも洪水前のような見苦しい状況は現われていません。つまり、神が人間世界を一度リセットされたのは正しいことだったのです。今や人間は誰でもノアのDNAを持っています。このようにして下さった神が褒めたたえられますように。ところで、ノアたちの増殖についてですが、ノアとその息子たちはともかく、ノアの孫たちは近親婚をせざるを得ない状況がありました。何故なら、この時にはまだ人間の数が少なかったからです。とはいっても、その近親婚は、アダムの時よりは酷くありませんでした。アダムの時は兄弟または姉妹と結婚せざるを得ませんでしたが、ノアの孫たちは親戚と結婚することができたからです。こうであれば、確かにアダムの頃について聞くよりは吐き気を感じずに済みます。もちろん、親戚と結婚するということも気持ち悪いということには間違いありませんが。

 また神は、ノアたちに地上支配の命令も与えられました。神は、人間が地上を支配するのを望んでおられるのです。人間が地上にいる生物たちを支配することは可能です。何故なら、『これらすべてはあなたがたを恐れておのの』くからです。これは、ちょうど人々が王を畏怖するのと同じです。人々が王を畏怖するからこそ、王は人々を容易に支配することができます。動物も人間を畏怖しますから、人間は彼らを容易に支配することができるのです。実際、今の世界を見れば分かるように、動物たちは人間を恐れて慄いています。これは人間に動物を支配する権威が与えられているからに他なりません。

 ところで、この箇所を読んで、次のような疑問を持たれる方がいるかもしれません。「ここでは創世記1:28の箇所と同じように『生めよ。ふえよ。地を満たせ。』とは命じられているが、地上支配については同じように命じられていない。」確かに、創世記1:28の箇所で言われていることのうち、『生めよ。ふえよ。地を満たせ。』とはここでも命じられていますが、『地を従えよ。』という言葉はここでは書かれていません。しかし、確かに『地を従えよ。』とここでは書かれていないものの、ここでは地上支配についても命じられていることは明らかです。何故なら、ここでは次のように書いてあるからです。『わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。』この言葉は『地を従えよ。』という言葉と意味的に同じです。というのも、地上の動物たちが全て人間に委ねられたということは、すなわち人間に地上の支配が任されたということだからです。委ねられたならば支配せねばならないということは誰の目にも明らかではないでしょうか。もし、ここで地上支配については言われていないとすれば、ノア以降の人間が地上を支配すればよいのかどうか私たちには分からなくなります。仮に、人間がノア以降の時代はもはや地上を支配しなくてもよくなったとしてみましょう。そうすると、私たち人間はどうしてこの地上にいるのか分からなくなります。何故なら、人間とは地上を従える支配者としての被造物だからです。もし私たちが地上を支配しなくてもよいとすれば、私たちはこの地上において非常に虚しい本質の欠けた被造物となってしまいます。

 アダムの時と同じで、ノアの場合も、まず祝福されてから増殖と支配の命令が下されています。これは、ノアとその子孫たちが増え広がり、地を支配できるということです。何故なら、トマス・アクィナスも言っているように、祝福とは万事を良い結果に至らせる神の働きかけのことだからです。もし増殖も支配もできないというのであれば、それは祝福されているとは言えないでしょう。この祝福による増殖と支配のことですが、今の日本を見ると、どうでしょうか。現代の日本は明らかに祝福されていないと言わざるを得ません。今の日本は出生率が減り、少子高齢化と人口減少の危機に悩まされています。つまり、全体的に見てなかなか増殖できていない。また、日本という国は自己に対する主権を持っているとは決して言えず、アメリカとイルミナティの思うままに動かされてしまっています。つまり、十全な意味で支配することができていない。これは、日本とそこにいる人々が神とその御子イエス・キリストを受け入れようとしないからです。万物の支配者であられる超越者を無視しているというのに、どうして増殖と支配における祝福がいただけるというのでしょうか。これは、親を蔑ろにしている子どもが、親から小遣いを貰えないのと一緒です。

【9:3】
『生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。』
 神は、ここで肉食の許可を与えておられます。つまり、動物を食べるのは罪ではありません。何故なら、罪とは神の教えや定めに違反することだからです(Ⅰヨハネ3:4)。この時にはまだ汚れた動物を食べていけないとは言われていません。それが言われるのはモーセの時だからです。しかし、ノアは汚れた動物を決して食べなかったはずです。何故なら、ノアは敬虔な正しい人だったからです。既に見た通り、ノアの時からもう汚れた動物が定められていました。つまり、ノアは汚れた動物が何なのか知っていました。それを知っているにもかかわらず、ノアがあえて汚れた動物を食べたとは考えにくいことです。また、この時にはまだ自然死した動物を食べてはならないとも命じられていません。これもモーセの時に明白に言われるようになります。しかし、先の場合と同じで、ノアは決して自然死した動物を食べなかったはずです。ノアは汚れたことを避けただろうからです。ところで今の時代でも昔と同様、肉食を罪悪視する人が時折見られますが、それは聖書から言えば間違っています。何故なら、神は動物を殺して食べてよいと言われたからです。神が肉食を許可されたのに、どうしてそれが悪なのでしょうか。

 では、このように肉食が許可されるよりも前は、肉食についてどうなっていたのでしょうか。大洪水が起こるよりも前の時代は、動物を殺して食べてよかったのでしょうか、それとも駄目だったのでしょうか。アウグスティヌスの場合、「洪水前は肉食について何も言われていない。」と述べています。これは確かにその通りです。しかし、肉食について何も言われていないというのは、つまり肉食は別にOKだったということを意味しているのでしょうか。これはよく分かりません。分からないことは分からないというより他ありません。しかしながら、アダムが堕落する前の時代であればハッキリしたことが言えます。すなわち、その時代には動物を食べてはいけませんでした。何故なら、その時にはまだ死がこの世界に存在していなかったからです。もしその頃にアダムが動物を殺して食べたとすれば、それは間違いなく罪に定められていたでしょう。死のない世界に勝手に死を侵入させたからです。これが神の御前で罪だというのは火を見るより明らかです。

【9:4】
『しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。』
 動物の肉を食べることは許可されましたが、それを血のままで食べることはいけませんでした。何故なら、それは『いのち』そのものだからです。血を食べるのは、命そのものを食べることですから、命への冒瀆となってしまうのです。肉の部分は、命を容れる容器または抜け殻です。ですから、肉を食べても命の冒瀆とはなりません。ですから、肉のほうは食べてもよいというわけです。血食の禁止は律法の中でも繰り返されています。レビ記7:26の箇所などがそうです。律法の中で、ここまで厳しく禁止されている項目は、かなり珍しい。これ以外でここまで厳しい禁止がされているのは、安息日の順守ぐらいです。これは、神がどれだけ血食を嫌っておられるかということを示しています。そうでなければ、神はここまで厳しく血を食べることを禁止されはしなかったでしょう。確かに、血とは命そのものです。この血ほど生き生きしたものは他にないと感じられます。ある学者は、血ほど美しいものはないと言いました。ある残虐な女王は、性行為の最後に相手の首を切らせ、そこから放出される血を見て失神せんばかりに歓喜しました。確かに血が命であるというのは、その形状や色合いからしてももっともだと感じられます。今でも私たちは、この血を食べるべきではありません。何故なら、神の御心は、人が血を食べないことだからです。私の場合、もし血食が許可されたとしても、食べはしないでしょう。血を食物として認識できないからです。それに食べても美味しくないはずです。

 恐らく、洪水前の時代は、肉を血の付いたまま平気で食べていた可能性が高いでしょう。洪水前の時代は滅びの裁きを受けねばならないほど邪悪さに染まっていたのですから、そのようであった可能性は非常に高いのです。だからこそ、神はもう二度とそういうことがあってはならないと、ここで命じておられるのだと考えられます。

【9:5~6】
『わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人の命を要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。』
 ここで神は殺人を禁止しておられます。既に見た通り、恐らく洪水前の時代には殺人を伴う人肉食が横行していたと考えられます。ですから、もうそういうことをしては駄目だと、神はここで言われたのでしょう。しかし、「ここでは明白に殺人が禁止されていない。」と言われるでしょうか。確かに、ここで「殺人を禁止する。」とは書かれていません。しかし、頭を少し働かせていただきたい。『人の血を流す者は、人によって、血を流される。』と言われたのは、「殺人を禁止する。」と言っているのも同然です。何故なら、殺人が許容されるべきでない極悪だからこそ、殺人者は死ななければならないと言われているのだからです。それは、例えば「不法駐車した者には罰金10万円を請求する。」と書かれている警告文のうちに、「不法駐車してはならない。」という禁止命令が暗黙のうちに含まれているのと一緒です。

 神は、殺人をした生物には死の罰が下されねばならないと言っておられます。それは、人でも、獣でも、また近親者であっても、です。例外はありません。律法の中でも次のように言われています。『かりそめにも人を打ち殺す者は必ず殺されなければならない。』(レビ記24章17節)『いのちにはいのち。』(申命記19章21節)これは、1万円分の損害を与えた人が1万円かそれ以上の額を弁償しなければいけないのと同じです。命以上のものはありませんから、命を奪った者は、命をもって報いられねばならないのです。それでは、どうして殺人をした生物には、死が下されねばならないのでしょうか。それは、『神は人を神のかたちにお造りになったから』です。創世記1章で見た通り、人間は神の似像として創造されました。神は、人間のうちに御自身の姿を鏡のように見ておられます。ですから、人間が殺されると、神はあたかも御自身が殺されたかのように感じられます。それゆえ、神は殺人をした生物が死をもって罰されるように定められたのです。これは、王の肖像画や銅像をずたずたにする愚か者に例えることができます。王は、たとえ肖像画や銅像であっても自分がずたずたにされたかのように感じますから、その愚か者を殺すように命じるのです。もっとも、これはあくまでも昔の王の場合であって、今の時代の王であればこんなことはしないでしょうが。

 ここで次のような疑問を持たれる方がいるかもしれません。「人を殺した者は死の罰を受けるということだが、世の中には、人を殺したのに自分は死なずに済んでいる者がいるのではないか。」確かに、私もそのような者が数は少ないものの存在しているのを知っています。聖書の中でも、そのような人物が出てきます。それは、あのモーセです。モーセはエジプトにいた際、エジプト人を打ち殺していますが(出エジプト2:11~15)、その後、自分は殺されずに歩み続け、何と120歳までも生きました(申命記34:7)。それでは、ここで言われていることは一体どのように捉えたらよいのでしょうか。ここでは、一般的な規則について言われているとすべきです。すなわち、神は通常の場合、殺人者に必ず死の裁きをお与えになります。しかし、時にはモーセのような例外的なケースも生じます。そのような例外的ケースにおいては殺人者に死の罰が与えられませんが、だからといって、ここで言われている内容が間違っているということにはなりません。何故なら、例外とはあくまでも例外であって、一般的な規則を否定させるものではないからです。

【9:7】
『あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」』
 神が再び増殖を命じておられます。神は、一回の発言の中で、増殖命令を2回も下しておられます(創世記9:1~7)。しかも、冒頭と最後の箇所でそれを言っておられます(創世記9:1、7)。このことから、神がいかに人間の増殖を望んでおられるかということが分かります。また、ここでもやはり『地を従えよ。』とは書かれていません。しかし、前にも述べた通り、支配命令が書かれていないからといって、人間が支配しなくてもよいというわけではありませんでした。恐らく、神が支配の命令を文字通りに繰り返されなかったのは、この時期にはまず増殖のほうが率先されるべきだったからだと思われます。何故なら、人間が全地を支配するためには、まず人間が全地に満ち広がらねばならないからです。増殖と支配の2つのうち、先に優先されるべきなのは明らかに前者のほうです。もしここで『地を従えよ。』と明白に支配命令が語られていたとすれば、支配に心が傾くので、それだけ増殖しにくくなっていたかもしれないのです。というのも、人間はその性質上、複数の事柄に心を集中させることが難しいからです。このため、神はひとまずのところ、『地を従えよ。』と明白に言われなかったのだと思われます。

【9:8~11】
『神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」』
 神は箱舟族に対し、もはや二度と大洪水による滅びを下すことはないという内容の契約を与えられました。それは、もはや地が二度と大洪水の直前に見られたような惨状とはならないからです。大洪水以降は、全ての人がノアのDNAを持っているのですから、世界全体が食人鬼に溢れるということはありえません。義人であるノアの子どもたちが、どうしてそのような忌まわしい存在になるでしょうか?また、そのような人間に支配される動物たちも、洪水前のような邪悪さを持つことはありません。ですから、もう大洪水による滅びを下す必要はなくなりました。それゆえ、神はもう大水による世界的な裁きを起こさないと定められたわけです。実際、これまで世界全体を破滅させるような大洪水は起きていません。これからも、そのようなことは絶対に起こらないでしょう。

 この箇所では、『ノアと、彼といっしょにいる息子たち』にだけ、つまり男たちにだけ言葉が語られていますが、これは男たちだけでなく女たちにも語られていることは明らかです。ただ女たちは男の従属者でありましたから、ここで神は男たちにだけ向かって語られているに過ぎません。これは、ある人が教会を訪ねた際、牧師だけがその人と応対し、牧師の妻はあまりその人とやり取りをしないのと同じです。

【9:12~17】
『さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間に、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」』
 大洪水以降は、この地上世界に虹が現われるようになりました。これは、もはや二度と地が大洪水により破滅させられないということを示す契約の印です。神は、この虹が現われるごとに、それをご覧になり、もはや大洪水を引き起こしはしまいと改めて心に決められるのです。この虹は、世界のどこかで、いつも生じています。ですから、もはや地上を破壊的な大洪水が襲うことはありえません。この虹が契約の印であるというのは、もっともであると思わされます。誰でもこれが契約の印であると聞かされたら、納得せざるを得ないのではないでしょうか。

 ところで、この箇所では虹が以前からあったけれどもそれに契約としての意味が付与されたと言われているのか、それとも大洪水以降に虹が契約の印として新しく出現するようになったと言われているのか、疑問に感じる方がいるかもしれません。正しいのは後者のほうです。何故なら、創世記8:13~14の箇所を見ると、どうやら虹はこの時から出現するようになったらしく思えるからです。つまり、大洪水により地球の自然環境が変化したのです。水力学のヘンリー・モリス博士が言うように、大洪水よりも前はまだ虹と雲が存在していなかったのでしょう。その頃、海や湖から立ち上る水蒸気は雲にならず、上にあった大水に吸収されていたはずです。その大水は、大洪水が起きるまで、雨を一切降らせていませんでした。そして、その大水は太陽光線を遮っていましたので、地球に虹が生じることもありませんでした。何故なら、虹は、太陽光線が空にある水滴を反射しないと生じないからです。水分が全て上にあった大水に吸い取られていたのであれば、虹も生じなかったでしょう。この説明は、非常に合理的であると私には思えます。

 この虹ですが、色を幾つに区分するかは人や地域によっても違います。我が日本やニュートンは7色として区分しました。7色以下、または7色以上として区分する人々や地域も存在しています。聖書においては、虹が何色であるか示されていません。私の考えでは、虹は7色として区分するのが適切です。虹とは、良いことを示す良い印です。数字の7も、良いことを示す良い数字です。このように虹と数字の7は良いことを示す良いものであるという共通点がありますから、虹を7色として区分するのは妥当な判断でしょう。

 現代においては、この虹が同性愛を象徴するために用いられていますが(レインボーフラッグ)、非常にふざけており馬鹿げています。何故なら、虹という素晴らしいものを、同性愛という唾棄すべき呪われた腐敗性向を示すために勝手に利用しているからです。これは、十字架のマークを、キリスト教の異端派が利用するのと似ています。十字架というキリストの最高善を、異端という悪者どもが自分たちのために勝手に利用しているのです。同性愛のために、このような素晴らしい自然現象を用いるのは犯罪的であり、許しがたいことです。それは虹に対する冒瀆です。もし象徴として利用するというのであれば、塩を利用すべきなのです。何故なら、同性愛に満ちていたソドムとゴモラは火で焼かれて塩と化したからです。もし塩が同性愛の象徴として使われていたとすれば、私は何も言わなかったことでしょう。なお、同性愛を象徴するために塩を使う際には、塩と共に天からの火も一緒に描くことをお勧めしたいと思います。何故なら、同性愛のソドムとゴモラは天からの火で焼き尽くされたからです。ですから、虹を同性愛という悪のため不正に利用しているのは、大いに非難されるべきことです。それでは、良い人たちが良いことのために虹を象徴として用いるのならば問題ないのでしょうか。この場合であれば、たとえ虹の意味をよく弁えていなかったとしても、悪意がなく虹を冒涜しているわけでもありませんから、寛容な精神を持って許容すべきでしょう。

【9:18~19】
『箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この3人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。』
 ノアの3人の息子たちから、新しい人類の歴史が始まりました。今地上にいる人間とこれまで地上にいた人間は、誰でもこの3人の誰かを始祖として持っています。例外はありません。人間の前段階の状態であると誤って理解されている類人猿たちも、当然ながら、この3人の誰かを始祖として持っています。何故なら、類人猿などと言われている生物は、セムかハムかヤペテの子孫であり、遺伝子の損傷が激しかったので退化した人間に過ぎないからです。今の時代は、そのような人間が私たちの先祖だったなどと勘違いをしています。この3人の子孫たちについては既に説明された通りです。

 ノアの子どもは、この3人だけでした。もしこの3人の他にもノアの子どもがいたとすれば、聖書は絶対にその人物について書いていたはずです。つまり、ノアが子どもを生んだのは一度きりであり、それはノアが500歳になった時だけでした(創世記5:32)。というのも既に述べた通り、セム、ハム、ヤペテは三つ子だったからです。これは、ノアが性的に淡白であったか、ノアの妻が不妊の傾向を持っていたことを示しています。このどちらでもあった可能性もあります。このたった3人から、4300年ほどで人間は70億人まで増えました。これは大変驚くべきことであると感じられます。

 この箇所では『ハムはカナンの父である。』と書かれています。どうして、ハムの子であったカナンだけがここでは特別に語られているのでしょうか。これは明らかにカナン占領の事柄と関わりがあります。創世記の著者は、カナン占領後の時代の人だった可能性が非常に高い。ですから、著者は自分の同胞であるイスラエル人たちに対して、カナン人の邪悪性における起源をここで示そうとしたのでしょう。つまり、ここで著者はこう言いたかったわけです。「イスラエル人たちよ。あなたがたは今や邪悪なカナン人の住んでいたカナンの地を占領したが、このカナン人の始祖であるカナンはあのハムから生まれた子だったのだ。だからこそ、ハムの子であるカナンから生まれたカナン人たちはあんなにも邪悪だったのだ。」確かにカナンがハムの子であったと聞かされたならば、カナンのDNAを持ったカナン人が邪悪だったことには納得させられます。というのも邪悪な者の子孫が邪悪であったとしても、それは自然なことだと思えるからです。例えば、私たちは「あの忌まわしい者の父は大量殺人者だった。」などと聞かされたら、「なるほど。だからあいつはあんなにも忌まわしいのか。父の遺伝子を持っているんだからな。」などと思うはずです。ここで『ハムはカナンの父である。』と言われているのも、これと同じことです。

【9:20~21】
『さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。』
 ノアは農夫であり、葡萄畑で仕事をしていました。葡萄の木そのものは、原初の時からこの世界にありました。しかし、その木を集約させて畑を作るということはまだ行なわれていませんでした。恐らく、洪水前の時代は呪いが酷く、『いばらとあざみ』(創世記3章18節)といった不要な植物ばかりが地から生じ、葡萄のような良い木はあまり実らなかったのでしょう。しかし、洪水後にはその呪いが幾らか減免された(創世記5:29)。ですから、ノアは『ぶどう畑』を作ることができたと考えられます。このノアが、大洪水の前も農夫であったかどうかは分かりません。もしかしたら、洪水前は違う職業だった可能性もあります。

 このノアは義人であったにもかかわらず、恥ずべき罪を犯しました。『ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた』のです。酒を飲むこと自体が悪いというのではありません。キリストも酒を飲まれたのです。良くないのは、酒を飲んで泥酔することです。何故なら、泥酔すると理性を失い、無様な振る舞いをし、多くの罪を犯してしまうからです。このためパウロはこう言いました。『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』(エペソ5章18節)泥酔は、パウロがこう言った紀元1世紀の時において、初めて罪になったというのではありません。泥酔は、ノアの時から、ノア以前の時代から、既に神の御前で罪です。ノアがこのようになったのは、天皇が無様な振る舞いをするよりも見苦しいことです。何故なら、ノアは天皇よりも偉大な人物だからです。天皇も、元はといえばこのノアから出ています。しかも、このノアは神から特別に選ばれた聖なる人物です。そのようなノアが、このような恥ずべき罪に陥るとは何ということでしょうか…。ノアでさえこうなったというのは、全ての人間は罪を免れないことを意味しています。何故なら、ノアよりも敬虔な人はいないからです。そのノアさえもこうなったのであれば、尚のこと、他の人たちは罪に陥らざるを得ません。いったい、誰が自分はノアよりも敬虔だとあえて言えるでしょうか。

 聖書は、このように聖なる人物が犯した罪を記すことを常としています。それは何故なのでしょうか。神だけが崇められるようになるためです。もし聖なる人物の罪について聖書が書いていなかったとすれば、その人物も罪人に過ぎないことを意識しにくくなりますから、その人物に崇拝の念を抱くようになりかねません。しかし、神は御自身にだけ崇拝が捧げられるのを望んでおられます。だからこそ、聖書は、ほとんど必ず聖なる人物の罪を明白に示しているのです。そうすれば、偉大な人物に対して崇拝の念を持つことが難しくなるからです。その例を幾つか見てみましょう。あのダビデはキリストの予表として立てられたほどの人物であったにもかかわらず、殺人と姦淫の罪を犯したことが聖書には書かれています。これはある部分が鳩の糞で出来ているダイヤモンドのようです。筆頭的な使徒であったあのペテロも、キリストを3度も否み、ユダヤ人たちの目を恐れて異邦人から遠ざかるという情けない罪に陥ったことが聖書では書かれています。これは黄金の宮殿に構造上の偽造が発覚するようなものです。キリストから愛されたうえ福音書と3つの手紙と黙示録を書くという恵みに与かった使徒ヨハネも、御使いを拝むという偶像崇拝の罪に陥ったことが聖書では書かれています。これはモネやレンブラントの絵に汚物が塗り立てられるようなものです。私たちが今見ているノアの場合、義人であったのに泥酔して醜態を晒してしまいました。これは綺麗な水晶の中に気持ち悪い蛾が閉じ込められているかのようです。こういうわけですから、私たちは聖書の中に出てくる偉大な人物を、崇拝したりしてはなりません。むしろ、聖書が彼らの罪を明白に示していることをよく留意すべきです。もし彼らを崇拝するならば、裁きとして、霊的な盲目が与えられるでしょう。何故なら、聖書に出てくる人間に過ぎない者を崇拝する人は、霊的な事柄を知解するのに相応しくない人だからです。今でも相変わらず聖人崇拝をしているカトリックが、正にこれです。

 ここで言われている『ぶどう酒』ですが、まさかノアが発明者だったということはないでしょう。これはノアよりも前にいた誰かが発明したとするのが自然です。もっとも、その発明者が誰だったかは分かりませんが。ただノアが葡萄畑の創始者だったことは確かです。何故なら、ここでは『ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった』と書かれているからです。

 また、ここで言われている『天幕』とは、恐らくノアの住まいだったと思われます。大洪水の前の時代では、天幕が一般的な住まいだったと推測されます。もちろん、洪水前の時代には既に鍛冶の技術がありましたから(創世記4:22)、住まいは天幕以外にも青銅製や鉄製のものがあったはずです。もしこれが住まいでなかったとすれば、礼拝が行なわれる聖所だったのかもしれません。この場合、ノアはとんでもない場所で恥ずべき振る舞いをしていたことになります。

【9:22~23】
『カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。』
 ハムは愚かでしたから、『父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げ』ました。ハムはここで2つの罪を犯しています。まずハムは、父の裸を見るべきではありませんでした。裸とは罪人である人間の姿そのものをダイレクトに示しており、恥ずかしい状態たからです。またハムは、父が裸でいたことを2人の兄弟に告げるべきではありませんでした。彼は、父の名誉と尊厳を重んじ、兄弟には父のことを黙っておくべきでした。もしかしたら、ハムが父の裸を見ることは避け得なかったのかもしれません。私たちも、見たくないのにどうしてもあるものが視界に入ってしまったという経験を持っているはずです。もしそうだったとしても、ハムはやはり父のことを兄弟に知らせるべきではありませんでした。ここでハムが違反している律法は次の2つです。『父を敬え。』これについては説明する必要はないでしょう。『偽証してはならない。』どうしてハムがこの律法に違反したかといえば、この律法は偽証するということを禁止していると同時に、隣人の名誉や尊厳を口によって害することをも禁止しているからです。つまり、この律法の本質は「口により隣人にいかなる損害も与えてはならない。」ということなのです。ハムがこのような者だったのであれば、ハムの子カナンから生まれたカナン人たちが邪悪さに満ちていたのは自然なことです。というのも、カナン人とカナン人の始祖であるカナンは、ハムの邪悪な遺伝子を強く受け継いでいたからです。

 一方、セムとヤペテは『着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおお』いました。そして、その時には『顔をそむけて、父の裸を見』ませんでした。この2人は、裸が恥ずべき状態であることをよく弁えていたのです。彼らは実に思慮がありました。もし彼らがハムの立場だったとすれば、父の醜態が視界に入ったとしても、兄弟に告げるようなことはしなかったでしょう。このようなことをしたセムとヤペテの善良さを強く受け継いでいる人たちは幸いです。私たち日本人はどうなのでしょうか?私たちは、ハムの子であるか、そうでなければセムの子、しかもユダヤ人におけるセム系です。日本人がどちらかということはここで取り扱いませんが、もし私たちがセムの子であったとすれば、セムの善性を強く受け継いでいるといってよいかもしれません。何故なら、日本人は昔から律儀な民族だったからです。

【9:24~25】
『ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」』
 ノアは泥酔後、『末の息子が自分にしたことを知』りました。一体どのようにして知ったのでしょうか。恐らく、ノアは泥酔後、自分がどうして裸でいるのか、そしてどうして自分のところに着物があるのか、セムまたはヤペテに尋ねたのでしょう。もしくは、ハムがノアの妻にノアの醜態を告げており、その妻を通して自分の話を聞いた。こうしてノアは自分に対してハムがしたことを知ったと思われます。いずれにせよ、これは些細な問題ですから、詳細がどうであったにせよ、あまり気にする必要はありません。

 ハムは愚かなことをしましたから、ハムこそ呪われるべきであったと誰もが思うはずです。しかし、実際はそうなりませんでした。ノアは、どうしてか馬鹿なことをしたハムではなく、ハムの子であるカナンを呪っています。これは理解し難いと思われる人もいるでしょう。どうしてノアはハムではなくカナンを呪ったのでしょうか。私の考えはこうです。ハムは、まず先にノアの醜態を見たカナンから告げられて、ノアの醜態について知ったのです。そうしてから、ハムはノアの醜態を確認し、2人の兄弟にノアのことを告げました。つまり、ハムが罪を犯したのは、カナンがまずきっかけを作ったからだったのです。もしカナンがハムに告げなければハムは罪を犯していなかった。だからこそ、ここではハムでなくカナンが呪われているのだと考えられます。これ以外に合理的な説明は恐らく出来ないと思われます。

【9:26~27】
『また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」』
 ここで『ほめたたえよ。セムの神、主を。』と言われているのは、言い換えれば「セムに善行をさせて下さった神が褒めたたえられるように。」となります。つまり、ここでは二次的にセムの善行が称賛されています。このことから考えると、ノアに着物を覆うという善は、セムの主導で行なわれた可能性が高い。つまり、セムが提案してヤペテが付き従った。もしヤペテが主導していたとすれば、ここでは「ほめたたえよ。ヤペテの神、主を。」と言われていたはずだからです。兄というセムの立場からしても、セムが善の主導権を持っていたと考えるのが妥当です。

 ヤペテには2つのことが言われています。まず、ノアはヤペテの子孫が増えるようにと言っています。自分に良いことをした子が子孫に恵まれるようにと願うのは、自然なことでしょう。もう一つは、増え広がったヤペテの子孫が『セムの天幕に』住むようになるということです。これは少し難しい。ヤペテの子孫がセムの天幕に住まうとは一体どのような意味でしょうか。これは、セムの子孫により生じたキリスト教という霊的な天幕の中に、ヤペテの子孫たちが導かれるようになれ、という意味です。『セムの天幕に住まわせるように。』という言葉は、このように解釈する以外はないでしょう。実際、ヤペテの子孫であるヨーロッパ人たちは、キリスト教のうちに入っています。確かにヨーロッパの諸国はどこもキリスト教の国ですが、このキリスト教とはセム系の宗教です。ですから、この言葉は今や実現されていることが分かります。

 カナンについては、兄弟たちの僕になれと3回も言われています。これは、カナンがセムとヤペテよりも遥かに引き下げられた者となるように、という意味です。僕とは引き下げられた状態の者だからです。実際、カナン人たちは、紀元前13世紀頃にユダヤ人を通して滅ぼされ、セムとヤペテよりも引き下げられてしまいました。何故なら、滅ぼされるというのは、極限まで引き下げられるということだからです。ノアがカナンについて3回も言ったのは、事柄の重要さを示しています。聖書において「3」の回数は強調されていることを意味するからです。

【9:28~29】
『ノアは大洪水の後、350年生きた。ノアの一生は950年であった。こうして彼は死んだ。』
 洪水が起きてからノアは350年も生きました。ノアは、ニムロデの出現とバベルの塔の建設を見ていたことでしょう。しかし、アブラハムの出生までは生きていませんでした。洪水の起きた年を紀元前2300年だとすれば、ノアは紀元前1950年まで生きたことになります。また、もう一度言いますが、ここで言われている年数は10倍された期間ではありません。もしここで10倍された期間が言われているとすれば、洪水の期間も10倍されているとせねばなりませんが、そのように考えると訳が分からなくなります。何故なら、洪水の期間である1年が10倍されていたとすれば洪水が起きていたのは1か月(?)だったことになりますが、そうだとすればどうして大雨の期間が『40日』(創世記7章12節)と書かれているか理解できません。この『40日』も10倍されていたとすれば、大雨の期間は4日だったことになりますが、たったの4日ぐらいでは全ての生物が死に絶えることも全ての山々が水で覆われるということもなかったでしょう。このように10倍されていると考えると、色々な問題が生じてしまいますから、私たちは文字通りの期間がここでは言われているとすべきです。

 ノアは950歳まで生きました。これは、洪水前の時代における平均的な寿命と同水準です。ノアは、まだ地球環境の変化による寿命の減退の影響を受けていなかったのです。

 ここで『こうして彼は死んだ』と書かれているのは、ノアも罪人だったことを教えています。何故なら、もしノアが罪人でなかったとすれば、ノアは死ななかったからです。パウロが言うように『罪から来る報酬は死』(ローマ6章23節)です。罪があるから死もあります。ノアは死にました。それゆえノアは罪人だったことになります。ではどうして聖書は、ノアについて『正しい人』(創世記6章9節)、つまり義人と言っているのでしょうか。これはキリストが義人であるのと同じ意味で義人と言われたわけではありません。つまり、全く罪を犯さないという意味で義人と言われたのではありません。これは、ノアも原罪を持っていた罪人に過ぎなかったものの罪を忌み嫌っている敬虔な人であったという意味に他なりません。つまり、ノアは罪人でありながら義人であり、義人でありながら罪人であったということです。

【10:1】
『これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。』
 創世記10章は、セムとハムとヤペテの子孫における系譜が示されています。ヘンリー・モリスによれば、この記録は、世俗の学者たちも驚嘆するほど正確だということです。このモリスは「創世記の記録」という本の中で、実際に世俗の学者が驚嘆している文章を引用しています。私は言いますが、聖書の信仰を持っていない学者たちでさえこの記録を認めざるを得ないというのは、当然です。何故なら、聖書に偽りは書かれていないからです。キリストが『みことばは真理です』(ヨハネ17章17節)と言っておられる通りです。多くの国や地域における始祖を調べるとよいでしょう。そうすると、その始祖が、この創世記10章で言われているセムとハムとヤペテの子孫に結びつくはずです。例えば、エジプトの始祖はミツライムです。このミツライムは、創世記10章によれば、ハムの子でした(10:6)。つまり、ハムの子ミツライムがエジプトの地域に入植し、そうしてからエジプトという国家が生じることになったわけです。このようにして私たちは、歪められていない真の歴史認識を得ることができます。

 ここで『大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた』と書かれているのは、箱舟の中でセムとハムとヤペテに子は生まれなかったということです。箱舟の時期は、子を生んでいる余裕などなかったはずですから、これは当然だったとすべきでしょう。また、箱舟に入る前にも、この3人には子がありませんでした。何故なら、創世記でノアの孫が箱舟に入ったとは書かれていないからです。もし洪水前に子が生まれていたとすれば、その子らも箱舟に入ったと聖書では書かれていたはずです。つまり、セムとハムとヤペテは101歳以降に初めて子を生んだことになります。

【10:2】
『ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。』
 まずは、ヤペテの子孫における歴史が示されています。どうしてヤペテから示されたのでしょうか。ある人は、創世記の著者がいた時代におけるユダヤ人にとって、ヤペテ族たちはよく知られていたからだ、と言っています。この見解はもっともらしく感じられます。実際、ユダヤ人の周りには多くのヤペテ族たちが住んでいました。私たちも何かを話す際には、往々にして話を聞く人たちに馴染みのある存在から話し始めるものです。しかし、何の意図もなくヤペテが最初に語られたという可能性もあります。いずれにせよ、ヤペテの系譜が最初に示された真相は分かりません。

 ゴメル、マゴグ、トバル、メシェクはエゼキエル書38章に出てきます。エゼキエル書によれば、マゴグの国がメシェクとトバルを支配していました(38:2)。ゴメルも、マゴグに付き従っていました(38:6)。トバルという名前は、鍛冶屋のトバル・カインにちなんで付けられた可能性があります(創世記4:22)。ここで書かれている子どもの順序は、生まれた順だったのでしょうか。これは分かりません。ただ出生順に書き記されている可能性はかなり高いと思われます。私たちも、ある人の子どもについて話す時は、長男から話し始めるものだからです。これはハムとヤペテの系譜についても同じことが言えます。

【10:3~4】
『ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。』
 次は、ゴメルとヤワンの子孫が示されています。ヤペテの子のうち、その系譜が更に示されているのはこのゴメルとヤワンだけです。どうして、ヤペテの他の子どもたちの系譜はここで示されていないのでしょうか。これはこの2人以外には資料としての伝承が残されていなかったからでしょう。もしゴメルとヤワン以外の子らについても伝承が残されていたとすれば、それについてここでは示されていたはずです。それは、この10章全体の内容をよく考えれば分かることです。この10章において、著者は明らかに出来る限り系譜を細かく示そうとしているからです。

【10:5】
『これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。』
 ヤペテの子たちは『海沿いの国々』における始祖となりました。『海』とは地中海を指しています。要するに、ヤペテの子たちの大部分は今で言うヨーロッパ人たちです。

 ここで『それぞれ国々の国語があった。』と書かれているのは、バベルの塔の事件が起きてからのことを言っています。何故なら、バベルの塔の事件まで、全世界に言語は一つだけしかなかったからです。バベルの裁きが起きてから、初めて『国々の国語』がこの世界に生じるようになりました。このバベルの事件については、11章の箇所で詳しく見ることになります。