【創世記14:1~15:7】(2021/04/11)


【14:1~3】
『さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティディアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。』
 アブラハムの時代に、4人の王(シヌアル王、エラサル王、エラム王、ゴイム王)が5人の王(ソドム王、ゴモラ王、アデマ王、ツェボイム王、ツォアル王)と戦いました。5人の王は、創世記14:4の箇所に書かれているように4人の王の一人であるエラム王ケドルラオメルに支配されていました。この戦いは、当時においては大きな戦争だったと思われます。何故なら、9人もの王が戦争をしたのですから。もっとも、実際はどうだったのか分からないのですが。

 ここでは『このすべての王たち』と書かれていますが、これはどの王を指しているのでしょうか。9人の王全てでしょうか。それとも4人の王でしょうか。そうではなく5人の王なのでしょうか。これは5人の王を指しています。何故なら、次の節である14:4を見ると『このすべての王たち』である『彼ら』が、4人の王の一人であるエラム王ケドルラオメルに支配されていたと教えられているからです。このことから、『このすべての王たち』という言葉にエラム王ケドルラオメルが含まれていないのは明らかです。また、エラム王ケドルラオメルの味方であったシヌアル王とエラサル王とゴイム王も当然ながら含まれていません。聖書にはこのように何を指しているのか分かりにくい箇所が多くありますから、正しい解釈を得るためには、自分で考えたり、教えられたりする必要があります。『今の塩の海』とは死海のことです。『今の』と書かれています。このように書かれているのは死海の場所が、アブラハムの時代には私たちが今知っている状態と違っていたからでしょう。つまり、死海とはソドムやゴモラが火で焼き尽くされた名残りとして生じた場所なのです。そのため死海は特別極まりない海であって、生物が何もいないうえ、人も不思議なことに浮かぶようになっているわけです。だから、ここでは『今の』と言って、この箇所が書かれた時の状態とは違っていた死海のことが言われているのです。

 この箇所から分かるように、ソドムやゴモラといった邪悪な町々は王制でした。そこは民主制や貴族制ではなかったのです。私の推測では、ソドムやゴモラに同性愛者が満ちていたのは王が大きな原因でした。つまり、ソドムやゴモラの人々は同性愛者だった王に倣って同性愛をしていました。何故なら、王の状態や行ないほど人々に大きな影響を与えるものはないからです。それは、聖書で『支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。』(箴言29章12節)と言われていることからも分かります。これは日本人を考えても分かります。多くの日本人は、天皇や首相が神社に行って普通に拝礼行為をしているものですから、何の妨げもなく神社に行って拝礼行為をしています。よく知られた最高の地位にいる人たちがしているのと同様の行為なので、全く抵抗感が生じないのです。ですから、もし天皇や首相が敬虔なキリスト者だったとすれば、ここまで多くの日本人が神社で拝むなどということはしていなかったでしょう。このことから考えるに、ソドムやゴモラの人々は同性愛者だったのに王は同性愛者でなかったと考えるのは難しいと思われるのです。

【14:4】
『彼らは12年間ケドルラオメルに仕えていたが、13年目にそむいた。』
 『彼ら』すなわちソドムとゴモラとアデマとツェボイムとツォアルの王は、12年間ケドルラオメルに支配されていました。つまり、エラム王ケドルラオメルとは王の王だったことが分かります。これはイギリスがかつて多くの国を支配していたのと同じです。「12」とは聖書において<選び>を示しています。イスラエルの部族は12であり、使徒の数も12人でしたが、これはイスラエルの部族と使徒たちが神から選ばれていることを示しているのです。しかし、ここで言われている『12』年には、そのような意味はなさそうです。では『13年』はどうなのでしょうか。現代において「13」は不吉な数字であると思われていますから、ここで言われている「13年」に何か意味があるのではないかと考える人がいるかもしれません。しかし、この『13年』には何の意味もありません。何故なら、聖書において13という数字は意味が付与されていないからです。

【14:5~7】
『14年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。』

 この箇所では、ケドルラオメルと他の3人の王たちが各地で快進撃を続けたことについて書かれています。これら4人の王は非常に強大だったのでしょう。これは、ローマが諸地域を征服していったことに似ています。ここでは『14年目』と書かれていますが、聖書において14とは非常に短い期間を示しています。例えば、パウロは『14年前』(Ⅱコリント12章2節)に第三の天に引き上げられたと言っていますし、マタイもアブラハムからキリストまでの代を14代ごとに区切っていますが(マタイ1:17)、これはそれを短い期間として捉えるように要求しています。ケドルラオメルが5人の王たちを支配してから『14年目』に各地を攻略したというのは、つまりその14年間がそう長くはなかったということを意味しています。分かりやすく言えば、これは「その14年間の支配はあっという間に過ぎ去ってしまった。」ということです。

【14:8~9】
『そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティディアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この4人の王と、先の5人の王とである。』
 5人の王と4人の王が戦ったという先の箇所(14:1~2)で語られていたことが再び語られています。この戦いは世界大戦を思い出させます。2度の大戦も諸国の支配者たちが連合して互いに戦ったからです。このような戦いはこれからも続くでしょう。何故なら、人間は罪深いからです。

【14:10~12】
『シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。』
 ケドルラオメルとその仲間の王たちは、ソドムとゴモラを制圧し略奪しました。この2つの町にあった『全財産と食糧全部』が奪い取られました。王も逃げねばなりませんでした。要するにソドムとゴモラは悲惨になりました。それでは、この2つの町にいた人々はどうなったのでしょうか。生かされたのでしょうか。殺されたのでしょうか。後の箇所を見ると、町の住民たちは生け捕りにされていたことが分かります(創世記14:16、21)。

 ソドムの悲惨にはロトも巻き込まれてしまいました。悪い者たちと一緒にいるからこうなるのです。悪い者たちの災いに巻き込まれない方法は一つだけです。すなわち、悪者から精神的にも身体的にも離れることです。このことを考えると、次のソロモンの言葉が思い出されます。『そむく者たちと交わってはならない。たちまち彼らに災難が起こるからだ。』(箴言24章21~22節)

 ソドムとゴモラの町が悲惨にさせられたのは当然でした。何故なら、この2つの町には同性愛が満ちていたからです。聖書は同性愛を死罪と定めています(レビ記20:13)。ですから、そのような罪を犯している町や人が滅ぼされるなどして悲惨になるのは当たり前です。現在でも、やはり同性愛者は嫌悪されたりHIVに感染するなどして悲惨になっています。これは死罪を犯している彼らに対して裁きが注がれているからです。人を殺した者が裁かれて死刑になるのは自然でしょう。同性愛の町や人が裁かれて悲惨になるのも、それと一緒で自然なのです。現代における欧米諸国には同性愛者が増えており、多くの政府が同性結婚を認めるようになっています。これは欧米が神に捨てられつつあることを意味しています。欧米は呪われ始めているのです。欧米がこのままの状態を続けるか、もしくは更に酷い状態になったら、一体どうなるのでしょうか。その場合、欧米の時代はもう終わることになります。一方、アジアの国々は欧米ほど酷くなく、ほとんど全ての政府はまだ同性結婚を認めていません。つまり、アジアは欧米ほどまだ呪われていない。もしこのままの状態が続けば、多くの人が言っている通り、これからの未来はアジアの時代になるでしょう。何故なら、同性愛とは繁栄と退廃を予告する徴と言うべきものだからです。同性愛とは呪いであり神に捨てられている証拠ですから、同性愛が未来を示しているのは何も不思議ではありません。

 ソドム王とゴモラ王は『瀝青の穴』に落ちました。これはこの2人の王に対する正当な報いであると思われます。何故なら、穴に入るというのは同性愛の破廉恥極まりない愚行と同じだからです。もちろん、これはソドム王とゴモラ王が同性愛者だったらとしての話ですが。後の箇所を見ると分かる通り、ソドム王は穴に落ちても死んだわけではありませんでした。恐らくゴモラ王も穴に落ちたものの死にはしなかったと推測されます。

【14:13】
『ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。』
 『ひとりの逃亡者』により、アブラハムはロトに降りかかった悲惨を知りました。この逃亡者はソドム人またはゴモラ人だったのでしょうか。それともロトに属する者だったのでしょうか。どちらも可能性としてはありますが、どちらであったかは分かりません。ここでアブラハムが『マムレの樫の木のところに住んでいた』と言われているのは、既に見た13:18の箇所でも書かれていました。

 ここではアブラハムがエモリ人と一緒に住んでいたと示されています。エモリ人とは、後でイスラエル人により滅ぼされるカナンの地にいた民族です(創世記15:18~21)。エモリ人は滅ぼされなければいけないほどに邪悪な民族でしたが、アブラハムが一緒にいたエモリ人は善良な人だったのでしょう。そうでなければ敬虔なアブラハムがエモリ人などと一緒に住むはずがありません。どれだけ忌まわしい民族であっても、その中には幾らかでも善良な人がいるものです。また、ここで書かれているマムレの親類であった『エシュコルとアネル』については、詳細がまったく分かりません。

【14:14~16】
『アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども318人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。』
 アブラハムはロトを取り戻すため、多くの奴隷たちを率いて4人の王と戦いました。そして、その王たちに勝ち、ロトや他の人々を取り戻しました。この時にアブラハムが王たちを殺すよう指示していたかどうかは分かりません。アブラハムは平和を求める人格者でしたから、ローマ帝国がしたように王の命は奪わなかった可能性もあります。

 アブラハムは有力者だったでしょうが、王でもないアブラハムが、強大な力を持つ4人の王に勝ったというのは吃驚すべきことです。アブラハムが勝てたのは、後の箇所でメルキゼデクが言っている通り(創世記14:20)、神がアブラハムに敵を渡されたからです。つまり、神はアブラハムが勝つように全てを取り図られたのでした。そうでなければ、どうしてアブラハムが4人もの王に勝てたのでしょうか。ヨナタンと道具持ちもたったの2人だけでしたが、神により大軍勢に勝利しました。ダビデも神により連戦連勝を重ねました。イスラエル人たちも同様に神のゆえにカナン人たちを打ち負かしました。要するに、敵が強大だったり多かったりしても、神が渡されるならば必ず勝利できるのです。

 『夜になって』という短い言葉は、見落としやすいかもしれませんが、非常に重要です。アブラハムは夜を選んで戦ったからこそ4人の王に打ち勝てたのです。多くの歴史書が示しているように、夜とは古代では非常に戦いにくく、仲間を敵と勘違いして同士討ちするということも珍しくありませんでした。こうであればアブラハムが勝利したことには納得できます。つまり、こういうことです。神はアブラハムが勝利するのを望まれました。ですから、アブラハムに戦略の英知をお与えになりました。このためアブラハムは夜を選んで戦えばよいという誠に知的な判断を持つことができたのでした。神がアブラハムの勝利を望まれなければ、このような英知は与えられていなかったでしょう。

 アブラハムがこの時に招集した奴隷の数は『318人』でしたが、この数字に何か象徴的な意味はあるのでしょうか。私としては何の意味もこめられていないと思います。これが「300」であれば、ギデオンの時に選ばれた人数が300人でしたから(士師記7:6~8)、何かの意味を持っていると考えることが可能でした。ですが、ここでは300から18オーバーしており、300と見做すことはできませんから、この318という数字には何の意味もないとすべきでしょう。

【14:17】
『こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。』
 アブラハムの勝利により、ソドム王は助かることができました。命の恩人に感謝したり敬意を払うのは当然でしょう。ですから、ソドム王は勝利したアブラハムを出迎えました。この出迎えについて気になるのはソドム王が『王の谷』まで出迎えに来たということです。これは、ソドム王が王としてやや不遜にアブラハムを迎えたということなのでしょうか。ソドムの王ですからそういうことをしても不思議ではありませんが、実際はどうだったかよく分かりません。また、ここではソドム王だけが述べられており、他の王については触れられていません。ですから他の王たちがアブラハムを出迎えたかどうかは定かではありません。聖書はこのように読者の知る必要のあることだけを記すのが常なのです。つまり、ソドム王以外の王について私たちは別に何も知らなくてよいということです。

【14:18】
『また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。』
 この時には『シャレムの王メルキゼデク』もアブラハムを出迎えました。『サレム』とはエルサレムの場所です。メルキゼデクは『パンとぶどう酒』を携えてきました。これはアブラハムの勝利を祝っているのです。ソドム王は何も持って来ませんでした。この2人の王のアブラハムに対する態度の違いはあまりにも歴然としています。ヘブル7:2の箇所で言われている通り、メルキゼデクとは『義の王』という意味であり、シャレムの王とは『平和の王』という意味です。つまり、メルキゼデクは義と平和を愛し求める王でした。この王が永遠の昔から神に選ばれた神の子だったことは間違いありません。何故なら、メルキゼデクは『いと高き神の祭司であった』からです。つまり、彼は三位一体の神に仕えていました。であれば、どうしてメルキゼデクが神の子ではなかったということがあるでしょうか。このことから分かるのは、アブラハムとロト以外にも、この時代には神の子がいたということです。アブラハムが生きていた頃には、アブラハムとロトと彼らに属する者たちだけしか神の国を持っていなかったと考えるのは間違っています。もしそうであったとすれば、メルキゼデクは神の国を持っていなかったことになりますが、そんなことがどうしてあるでしょうか。

 このメルキゼデクはイエス・キリストを予表しています。つまり、メルキゼデクという存在は、これから王であり祭司である方がユダヤに現われるという予告者でした。ですから、神はキリストに対してこう言っておられます。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』(詩篇110篇4節)メルキゼデクは終身祭司職の立場にありました。そのようにキリストも永遠にまで祭司職をなされるのです。このような意味で、ヘブル書7:3の箇所ではメルキゼデクが『神の子に似た者とされ』ていると言われています。このヘブル書のほうは、長くなるうえに話が横道にずれてしまいますから、ここで取り扱うべきではありません。そちらのほうは、また別に論じることができたらと思います。

 ある偽典では、このメルキゼデクが大洪水の前に生まれ、アブラハムがいた頃までずっと生きていたと述べています。メルキゼデクとは特別な人ですから、このように伝説的な話が書かれたとしてもそれほど不思議には思えません。ですが、この話を信頼することはできません。何故なら、メルキゼデクがこの地上にいながら大洪水の悲惨を生き延びたと考えることはできないからです。聖書は、この地上に生きている人間のうち、大洪水を免れたのは8人だけだったと教えています。であれば一体どうしてメルキゼデクが大洪水を免れたのでしょうか。それは聖書の教えと違っているのですが…。聖書の御言葉にしっかりと根差さないからこそ、このような本当かどうかよく分からない話を作り出してしまうことになります。私たちは、聖書の御言葉にしっかり固着しているべきです。そうすれば、怪しげな話を好き勝手に作り出すということはしなくなるでしょう。偽典には、そのような怪しい話がこれでもかと言わんばかりに書かれていますから、よく注意せねばなりません。

【14:19~20】
『彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された、いと高き神に、誉れあれ。」』
 メルキゼデクがアブラハムに祝福を与えていますが、これはメルキゼデクのほうがアブラハムよりも上位にあったことを示しています。何故なら『下位の者が上位の者から祝福される』(ヘブル7章7節)からです。では、どうしてメルキゼデクはアブラハムを祝福したのでしょうか。それはアブラハムが神により偉業を成し遂げたからです。私たちは素晴らしいことをした部下に祝福の言葉を与えるものですが、これはそれと似たようなものです。

 ここでメルキゼデクは『いと高き神に、誉れあれ。』と言っています。この敬虔な祭司は、アブラハムにではなく神に栄誉を帰しています。これが世の人であれば、ただアブラハムに栄誉を帰すだけで、神については全く言及していなかったでしょう。私たちも、このメルキゼデクのようにせねばならないでしょう。ダビデはこう言っています。『私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。』(詩篇115篇1節)他の箇所でもこう言われています。『力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。』(詩篇29篇1節)

 ここでメルキゼデクは、アブラハムが勝利できたのは神がアブラハムに敵を渡されたからだと言っています。これは非常に重要です。勝敗とは神が定めるのです。つまり、神の欲された者が勝ち、渡された者は必ず敗北します。人間の力や能力は勝敗の究極的な原因とはならないわけです。ですから、小さい者が大きい者に勝利するという人間の目からすれば驚くべき出来事がしばしば起こるのです。このアブラハムもそうでしたし、大男であるゴリアテに勝ったダビデやカトリックの軛を打ち砕いたルターもそうです。いったい誰が背の高くなかったダビデによりゴリアテが打ち負かされると思ったでしょうか。また誰がルターという無名の修道士によりカトリックが大混乱に陥るなどと予測できたでしょうか。誰もこのようなことは予測できませんでした。しかし、神によりダビデとルターは敵に対する勝利を掴めたのでした。ですから、神は勝利がそのうちにある御自身にこそ頼る者をお喜びになります。詩篇146:10~11の箇所でこう言われている通りです。『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。』モーセの時のユダヤ人は、カナンを占領する際、このことを全く知りませんでした。だからこそ彼らはカナンにいた強大な民族を見た際、大いに恐れて退いてしまったのです。

『アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。』
 アブラハムが『すべての物の十分の一を彼に与えた』と言われているのは、この時の戦いで得た戦利品の中から十分の一が与えられたという意味です。つまり、アブラハムが前から持っていた財産における十分の一ではありません。ヘブル7:4の箇所で言われている通り、これは『一番良い戦利品の十分の一』でした。この時にアブラハムが十分の一を胡麻化したと考えるのは、考えるだけでも悪です。何故なら、アブラハムほどの人がどうしてそのような愚行をするでしょうか。もしアブラハムがそのようなことをする人であれば、そもそも神はアブラハムを選び取っておられなかったと思われます。この時にアブラハムが獲得した戦利品とメルキゼデクに与えられた十分の一がどれだけの量だったかは分かりません。しかし、かなりの量があったと思われます。また、このメルキゼデクはアブラハムから十分の一を与えられるほどの人物でした。つまり、それほど偉大でした。ヘブル7:4の箇所で書かれている通りです。私たちキリスト者やユダヤ教徒であれば、アブラハムは人間の中で最高クラスに偉大だったと思うかもしれません。しかし、そのアブラハムよりもメルキゼデクは偉大だったのです。これは別のことで例えるとすれば、誰かが天皇やどこかの国の王からその全財産における十分の一を貰い受けるようなものです。私たちは、高貴な人から十分の一を貰ったその人について恐らく「いったい、あの人はどれだけ凄い人なのだろうか。」と思うはずです。メルキゼデクもそのように凄い人物たったのです。

【14:21】
『ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」』
 ソドム王がアブラハムに民衆の返却を要求しているのは問題ありませんでした。何故なら、民衆には王が必要だったからです。しかし、この王が財産をアブラハムに取らせようとしたのは問題でした。何故なら、ソドム王はアブラムに精神的な借りを作らせようとしていたからです。これは創世記14:23の箇所を見れば分かります。つまりソドム王は善意や無私の心からでなく、ただ自分の欲望のためにアブラハムに財産を取らせようとしました。何と忌まわしいことでしょうか。神に特別的に選び取られたあのアブラハムを自分のために利用しようとしたというのは…。このソドム王の愚かな振る舞いは、ソドムが滅びることの予兆だったと見てよいと思われます。何故なら、神の聖なる僕に対して悪しき愚行を働くというのは、やがて滅びることになる明白な証拠だからです。つまり、既に裁かれねばならないほど堕落しているからこそ、聖なる神の使いに悪いことをするわけです。実際、ソドムはもう間もなく滅びることになりました。パリサイ人たちがキリストに愚行をしたのも、彼らがもう間もなく破滅することの予兆でした。実際、パリサイ人たちがキリストに愚行をしてから40年後に彼らは死に絶えました。

 ここでは明らかにアブラハムが優位な立場となっています。何故なら、ソドム王は下の立場からお願いしているからです。ソドム王はアブラハムに助けられましたから、これは当然でした。もしアブラハムがいなければ、ソドム王はどうなっていたか分からないのです。

【14:22~24】
『しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」』
 アブラハムは神に誓ってまでソドム王の所有物は取らないと断言しています。それは『アブラムを富ませたのは私だ。』とソドム王に言わせないためです。つまり、アブラハムはこの王に僅かさえも貸しを作りたくありませんでした。これが普通の人であれば、欲に動かされてソドム王の所有物を貰っていたかもしれません。しかしアブラハムはそうしなかった。アブラハムは財産よりも、尊厳や自由を優先させたのです。ここにアブラハムの高潔があります。古代ギリシャの哲学者たちがこの話を聞いたら、間違いなく称賛したことでしょう。

 どうやらアブラハムはソドム王の狡猾さを見抜いていたように思えます。善人は悪人の心理を見抜くことができやすい。だから、「あの悪者があんなことをしているのは虚栄心からなのであろう。」などと言ったりします。これは善が悪よりも高いからです。悪人は善人の心理をまったく理解できません。ですから、サドの本に出てくる異常な人物のように「善のために自分を犠牲にするなんて馬鹿らしいね。どうしてそんなことをするのか分からないよ。何で自分を苦しめてまで他人を幸せにしてやるんだ?」などと考えたり言ったりします。これは悪がすなわち善の欠如形態だからなのです。これは、大人が子どもの心理をよく理解する一方、子どもは大人の心理について理解できないのと同じです。低い位置にいる人が、どうして高い位置にいる人を理解できるでしょうか。低い人は高い位置にいることを何も経験していないのです。アブラハムは善人でしたから、ソドム王の心に悪巧みがあるのを見抜き、そのため『それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。』と言ったのでしょう。このように言われたソドム王は恐らく動揺したのではないかと思われます。

 ある一部の人たちは、何であれ誓ってはならないと考えています。それはキリストの次の御言葉を字義通りに理解しているからです。『しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。』(マタイ5章34節)次のヤコブの御言葉もそうです。『私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。』(ヤコブ5章12節)しかし、アブラハムはここで明白に誓っています。アブラハムはここで誓うことにより、主キリストの御心に適わないことをしてしまったのでしょうか。とんでもないことです。アブラハムは主の御心に適ったことをしました。何故なら、主の御心が示されている律法の中では『御名によって誓わなければならない。』(申命記6章13節)と言われているからです。アブラハムは律法の通りに御名において誓いましたから、主の御心に適った正しいことをしていたのです。今述べた一部の人たちは、キリストとヤコブの言ったことを正しく捉えていません。キリストとヤコブが禁じた誓いとは、キリストの時代に横行していた軽々しい間違った誓いを対象としているだけです。誓いを禁じたキリスト御自身が神において誓っておられます。パウロも誓いをしました。更には聖なる御使いさえも誓っています(黙示録10:5~6)。であれば一体どうして神の御名においてであってさえも誓ってはいけないのでしょうか。

 この箇所でソドム王についての言及は全て終わりました。これ以降、聖書には二度とソドム王のことが出てこなくなります。注目すべきなのは、ここまで聖書はソドム王の実名をたったの一回しか記していないということです。それはソドム王が最初に記される創世記14:2の箇所ですが、それ以降は『ソドムの王』としか書かれなくなります。エラム王のケドルラオメルやシャレムの王メルキゼデクであれば、しっかりと実名が記されています。どうして聖書はソドム王の実名を1回きりしか記していないのでしょうか。これは恐らくソドム王が同性愛者であり、その名前を示すのさえ抵抗感が持たれたからだと考えられます。何故なら、名前とはその存在そのものを表示させる本質的なものだからです。人によっても違うかもしれませんが、私たちも一回ぐらいは経験したことがあるのではないでしょうか。ある人があまりにも忌まわしいので、その名前を口にすることさえ吐き気を感じてしまったということが。例えば自分の親族を殺した犯人の名前であれば、多くの人が口にするのさえ嫌がると思いますが、それと同じことです。

【15:1】
『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』
 神は、既に高齢となっていたアブラハムに報いが与えられると言われました。それは『大きい』報いです。つまり、誰が見ても小さいとは思えない報いだということです。何故なら、神の言葉に偽りはないからです。

 また神は、アブラハムが恐れないように励ましておられます。これは、アブラハムが恐れを抱いていたからだと思われます。アブラハムは強大な4人の王を打ち破っていたのです。そのような状況であれば、アブラハムが4人の王か4人の王に属する者たちからの復讐を恐れていたとしても何も不思議ではありません。神は、アブラハムが恐れてはならない理由として、御自身がアブラハムの盾だからということを言っておられます。これは象徴表現であって、敵という剣に対して神が盾になって下さるという意味です。つまり、アブラハムは盾で守られるかのように神が敵から守って下さるので、決して打ち倒されはしないということです。実際、これ以降、死ぬまでアブラハムは敵から完全に守られました。この表現は旧約聖書ではよく見られる表現です。例えば詩篇3:3の箇所にはこうあります。『しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾…、』。言うまでもなく、これは神が文字通りの意味で実際の盾だという意味ではありません。何故なら、神とは物質存在ではなく、物質を越えておられる存在だからです。

 『主のことば』は『幻のうちにアブラムに臨み』ましたが、これはどのような意味でしょうか。これは、黙示録でのヨハネのような仕方で御言葉が与えられたということです。黙示録を読めば分かる通り、ヨハネには霊的な幻が見せられ、その幻のうちに御言葉が与えられました。アブラムにもそのような幻が見せられたのですが、それがどのような幻だったかはここで示されていません。なお、もう今となっては、幻のうちに神の言葉が啓示されるということはなくなっています。何故なら、聖書啓示は既に2000年前において完了しているからです。もし今でも幻のうちに御言葉が与えられるとすれば、新しい聖書の巻が作られることになるでしょうが、そのようなことは起きないでしょう。

【15:2~3】
『そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。』
 アブラハムは既に高齢の身となっていました。老齢になれば細胞の衰えと共に全てが退避的な傾向を帯びてきます。食事もかつてのようには入らなくなり、力と勢いも衰え、性欲もほとんど消えかけ、恋に燃えることがなくなり、若い時のようにあまり刺激を感じなくなり、人間付き合いが煩わしくなり、退職して余生を過ごすことも珍しくなく、騒々しさを避けて田舎に住まうことにもなります。ですから歳をとれば『何の喜びもない。』(伝道者の書12章1節)と言うことにもなるのです。アブラハムの時代は今ほど楽しみと慰めが社会に満ちていなかったでしょうから、なおのこと、老人になった彼には楽しさがなかったはずです。そのようなアブラハムにとって、報いと思えるのは嫡子ぐらいなものでした。しかし、アブラハムには『まだ子がありません』でした。それなのに神は報いがあるとアブラハムに言われたのです。ですから、アブラハムはこれから自分に嫡子が与えられるとでもいうのでしょうか、とここで神に問いかけています。ここでアブラハムはこう言っているかのようです。「まさか私にこれから子どもができるというのではないでしょう。私はもうこんなにも年をとっているのですから。ですから奴隷がこれから私の家を相続するに決まっていますよね。」アブラハムが言っている『ダマスコのエリエゼル』とは奴隷であって、ダマスコ人であるかダマスコで生まれたからこう言われているのでしょう。この奴隷はアブラハムの跡取りになれるぐらいの者でしたから、奴隷の筆頭かもしくは非常に優秀な奴隷だったに違いありません。

【15:4】
『すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」』
 高齢になっていたアブラハムが自分の子をもはや望めなかったのは無理もありませんが、神はアブラハムにこれから子どもが生まれると言っておられます。アブラハムが自分には子が生まれないと思ったのは、アブラハムが問題だったのではありません。何故なら、男は射精さえできれば、高齢になっても子どもを生めるからです。実際、古代ローマの大カトーは80代になってから子を生みました。問題だったのは妻のサラです。何故なら、女は50歳ぐらいで月経が止まれば、もう子を生めなくなるからです。80代にもなって子を生んだなどという話は聞かれたことがありません。それは明らかに自然に反しています。つまり、神はここで、これからサラに子を生めるような変化が起こると言っておられるのです。もしサラが若ければ、たとえアブラハムが高齢であったとしても、難なくサラは子を生めていただろうからです。このように言われたアブラハムはさぞ驚いたに違いありません。老女のサラがこれから出産するというのですから。

【15:5】
『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』
 神は、アブラハムの子孫が星のように数多くなると言っておられます。神がアブラハムを『外に連れ出して』星を見させたのは、アブラハムに事の内容をよく実感させるためです。既に述べたように神とは実際的な御方なのです。ここでアブラハムは明らかに多くの星を見ていますから、この出来事が起きたのは夜だった可能性が高い。何故なら、昼間はあまり星が見えないからです。有名な科学者のガモフによれば、電気による散光のない澄んだ地域で見られる星はだいたい6000ぐらいだといいます。アブラハムの時代にはもちろん電気などありませんでしたから、アブラハムも数千の星を見ていたはずです。ここで私たちは偏屈になり、厳密に事柄を捉えないようにすべきです。すなわち、「アブラハムが見ていた星の数は数千だったから、神がここで言っておられるのは、アブラハムの子孫がたったの数千程度にしかならないということなのか。」などと考えないようにすべきです。このように考えるのはナンセンスです。神がここで星を示して『あなたの子孫はこのようになる』と言われたのは、ただ非常に多い数だということを言っているに過ぎません。これが分からない人はいないはずです。実際、これは実現されています。現在、中東の辺りに数多くいるアラブ人を見れば分かる通りです。

【15:6】
『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』
 この御言葉はパウロがローマ4:3、4:9、ガラテヤ3:6の箇所で引用しています。これは今まで教会の中で幾度となく取り扱われてきた御言葉です。

 ここで示されているのは信仰義認です。人は信仰により神から義と認められます。神がそのような方式による義認を定められたからです。それゆえ、救いは行ないによりません(エペソ2:9)。もし人間の行為により義が得られるとすれば、人間は自分自身の力で救いを達成できるのですから、神の栄光がそこでは排除されてしまうからです。ですから行為義認の教理は誤っています。確かに聖書にはあたかも行為により救われるとでも言われているかのような箇所がありますが、それは信仰義認を教えているわけではありません。もし聖書が行為義認を教えているとすれば、聖書には矛盾があることになります。しかし聖書に矛盾はないのですから、行為義認を教えているかのような箇所は実は行為義認を教えているわけではないのです。

 それにしてもアブラハムの持った信仰は凄まじいと言うべきです。何故なら、アブラハムはよぼよぼとした老女が妊娠し出産すると信じたのですから。これは不可能を可能とすることでした。人間にはどうしても出来ないことが多くあります。しかし、キリストも言われたように『神にはどんなことでもできます』(マタイ19章26節)。アブラハムは神には全く不可能がないと考えました。ここにアブラハムの信仰があります。世の人であれば信仰を持ったアブラハムを見て馬鹿だと思ったかもしれません。「アブラハムはもう年老いているから異常なことを信じてしまっている。彼は老女が子を生むなどと空想しているのだ。」などと思って。しかし愚かなのはアブラハムを愚かだと思った人たちのほうでした。何故なら、その人たちは神の全能性を全く考慮していないからです。

 このようにアブラハムは信仰を持って神から義と認められましたが、その信仰はアブラハムの功績ではありませんでした。もし信仰がアブラハムの功績だったのであれば、それは行為義認ということになってしまうからです。アブラハムの持った信仰は神から与えられた賜物でした。ペテロの持った信仰が神から与えられた賜物だったのと同じです。このペテロの信仰についてキリストはこう言われました。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』(マタイ16章17節)ここでキリストは、ペテロの信仰をペテロやその他の人間に帰さず、完全に神に帰しておられます。このペテロもそうでしたが、確かなところ神がアブラハムに信仰を与えなければ、アブラハムは信仰を持ちませんでした。つまり、アブラハムは信仰を持っていましたが、功績は持っていなかったのです。

【15:7】
『また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」』
 『この地』とはアブラハムのいたカナンの地を指しています。もっと具体的に言えば『エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで』(創世記15章18節)です。神がその地をアブラハムに『与える』と言われたのは、既に述べたように約束において与えるという意味です。その地を実際的に受けたのはアブラハムの子孫たちでした。また、ここで言われているようにアブラハムが『カルデヤ人のウルから』出たのは、神がアブラハムをそこから連れ出されたからでした。すなわち、アブラハムは何か勝手な思いに基づいて無思慮にウルの町から抜け出したというのではありませんでした。