【創世記15:8~16:14】(2021/04/18)


【15:8】
『彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」』
 アブラハムは、神の言葉をしっかりと信じました。聖書がそう教えています。しかし、アブラハムは自分の持った信仰を更に堅固にするため、神が語られたことの印があればと願いました。ですから、ここでアブラハムは神にその印を示してくれるよう求めています。注意せねばならないのは、アブラハムはパリサイ人のように不信仰だったからこそ印を求めたわけではないということです。もしそうだったとすれば、創世記15:6の箇所では『彼は主を信じた。』などと書かれていなかったでしょう。もし印がなければ駄目なようであれば、それはそもそも『信じた』ことにはならないからです。

【15:9~11】
『すると彼に仰せられた。「わたしのところに、3歳の雌牛と、3歳の雌やぎと、3歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持ってきなさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。』
 信仰を堅固にさせるための印を求めたアブラハムに対し、神は4匹また5匹の生き物を持ってくるよう命じられました。それらの生き物はどれも清い生き物でした。神が御自身の嫌っておられる汚れた生き物を持って来させるはずがどうしてあるでしょうか。アブラハムは言われた通りに生き物を持って来ました。そして、それらの生き物を『真二つに切り裂き』ました。しかし鳥だけは切り裂きませんでした。鳥を全て切り裂いてはならないというのは、律法の中でも命じられていることです(レビ記1:17)。もちろん、まだアブラハムの時には律法が与えられていなかったのですが。しかし、それにもかかわらず、アブラハムは律法に書かれているのと同様のことをしたのです。それでは、神はどうして生き物を持って来るようアブラハムに命じられたのでしょうか。そしてアブラハムはどうしてその生き物を切り裂いたのでしょうか。これは、恐らくイエス・キリストを象徴していると考えられます。何故なら、律法において動物の犠牲とはイエス・キリストを表示しているからです。つまり、これは贖いを示しているということになります。これが贖いでなければ、どのような意味だったのでしょうか。これが贖いでなければ、これはやがてイスラエル人たちの受けることになる苦しみを示しているのでしょう。実際、エジプトで奴隷にされていたイスラエル人たちは切り裂かれた生き物のように大きな悲惨を味わっていました。なお、パウロは、手紙の中でこの箇所について何も解説をしていません。

【15:12】
『日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラハムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。』
 私は先にこの出来事が起きたのは夜だった可能性が高いと述べましたが、この箇所を見れば分かる通り、やはりこの出来事は遅い時間に起こりました。それは夕方ぐらいだったのです。アブラハムが神から命じられた生き物を持って来た時間を考慮すれば、ここで『日が沈みかかったころ』と言われている正確な時刻はだいたい5時ぐらいだったはずです。冬であれば4時頃、夏であれば6時頃だったでしょう。そのような時間帯でも、アブラハムは多くの星を空の場所に見ることができました。何故なら、アブラハムの時代には、今とは違ってまだ大気が非常に澄んでいたからです(電気の散光が激しい今であれば夕方ぐらいでは、まだあまり星を見ることはできません)。ですから夕方であっても多くの星が確認できたはずです。確かに聖書はアブラハムが夕方の時(『日が沈みかかったころ』)までに多くの星を見ていたと言っています。ですから、私が今言っていることは正しいとせねばならないでしょう。

 『暗黒の恐怖が彼を襲った』と言われているのは、神がアブラハムに迫られたことを示しています。何故なら、神は暗闇のうちに住んでおられるからです(出エジプト20:21)。『ひどい』とは、神が非常に強く迫られたということです。

【15:13】
『そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、400年の間、苦しめられよう。』
 神が暗闇の中からアブラハムに語っておられます。まず神は、アブラハムの子孫が400年間も異国の地で奴隷扱いされると預言しておられます。これは実現しました。確かにアブラハムの子孫であるイスラエル人たちは、紀元前1700年頃から紀元前1300年頃までエジプト人に苦しめられたのです。しかし、どうしてイスラエル人はエジプトで奴隷にならなければいけなかったのでしょうか。それは神が、苦しめられている彼らを素晴らしい御業をもって助け出されるためでした。そして、神の大いなる栄光が豊かに現れるようになるためでした。この救出の出来事については出エジプト記で詳しく記されています。

 ところで、アブラハムの子孫はどうして『400年』も苦しまねばならなかったのでしょうか。この400は40かける10として考えることができます。聖書において「40」とは十分であることを示す数であり、「10」とは完全数です。ですから40かける10である「400」とは非常に長い期間であるということです。実際、400年とは私たちにとって非常に長く感じられる期間です。

【15:14】
『しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。』
 エジプト人に苦しめられたイスラエル人は、やがて神により助けられることになりました。その時には『多くの財産を持って』エジプトから出ることができました。神は、それまで400年間もユダヤ人から搾取したエジプト人に、全ての財産を返済させたのです。このことからも分かる通り、神とは真実な御方であって、全てのことに必ず報いられます。これが実現したのは紀元前1300年頃でした。これも、やはり出エジプト記の中で詳しく記されています。

【15:15】
『あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。』
 アブラハムの子孫たちは苦しむと言われたのに対し、アブラハムには平安が約束されました。そして、アブラハムは長生きをすることができるとも約束されています。この2つのことについては、創世記25:7~8の箇所で書かれています。また、ここで神はアブラハムが『先祖のもとに行』くと言われました。『先祖』とは、アブラハムと同じように救いを受けていた神の子どもたちです。例えば、エノクやノアがそうでした。その『先祖』がいる場所に行くとは、つまりアブラハムが天国に行くということです。

【15:16】
『そして、4代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」』
 ここでは、エジプトから連れ出されたイスラエル人の『4代目の者たち』が、アブラハムのいたカナンの地にやって来ると預言されています。『4代目』とはこういうことです。エジプトから出て来たイスラエル人たちは3世代でした。すなわり、祖父、父、子です。この3世代は、罪のため40年も荒野を放浪しなければいけなくなり、カナンに入ることは出来ませんでした。荒野ではイスラエル人の3代目から4代目が生まれました。この4代目は2代目の孫であり、1代目のひ孫です。この4代目のイスラエル人たちがエジプト脱出後の40年目にカナンに入ることになったのでした。4代目の人たちは普通にカナンに入れました。しかし、イスラエル人の1代目と2代目と3代目のうちカナンに入れたのはヨシュアとカレブの2人だけでした。この2人以外は、たとえモーセとアロンであってもカナンに入ることができませんでした。なお、この『4代目』がアブラハムから4代目という意味でないことは明らかです。そのように理解すると何が言われているのか全く分からなくなってしまいます。

 神がイスラエル人の4代目をカナンに入らせたのは、その時になるまでカナンにいたエモリ人の咎が満ちていなかったからでもありました。神はエモリ人の咎に対する裁きを、しばらくの間、猶予しておられました。しかし神の忍耐にも限界があります。イスラエル人たちが4代目になると、エモリ人に対する神の猶予が限界まで達しました。ですから、神は4代目のイスラエル人たちを御自身の使いとしてカナンに侵攻させて、罪深いエモリ人が裁かれ滅ぼされるようになさったのです。

 神は、多くの場合、悪者たちの悪を最後の時まで猶予され続ける御方です。これはこのエモリ人が良い例です。エモリ人はイスラエル人により神に裁かれるまで、好き放題なことをしていたのでした。神がこのように悪者たちの悪を最後まで裁かないでおられるのは、悪者たちが最後に破滅するためです。もし途中で裁かれて痛い目を見るのであれば、途中で悪を止めることになり、最終的に破滅することがなくなってしまいます。しかし神は悪者たちが地から根こそぎになるのを望んでおられますから、彼らの悪を途中で封じるようなことはなさいません。ですから悪者たちは裁かれないのをいいことに、調子に乗って豚でもあるかのように悪へと突き進み続けるわけです。これについてはソロモンがこう言っています。『悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。』(伝道者の書8章11節)神がこのようなやり方をされるので、今までに多くの人が、悪者は裁かれていないから裁きの神などいないのだと考えてしまったのです。このように考えるのは誤っています。神は悪者を裁かれないのではなく、ただその裁きを最後まで下しておられないだけなのです。神は最後の最後に叩き潰すために途中の行程では手を付けられないのです。これは例えるならば、どこまでも伸び続ける弦を持った弓のようなものです。ある人がその弦をいつまでも伸ばし続けているので、それを見た人は「一体いつになったら矢を発射するんだ。もう数十年も弦を伸ばしているではないか。どうせこのまま待っても矢など発射されないんだろう。」などと微笑しながら言っています。しかし最後の最後でその弦が解き放されますから、矢は物凄い勢いで対象物を破壊してしまうのです。このようにして射手は矢を発射しないのではなく、ただ発射の力を貯めていただけに過ぎないことが明らかとなるのです。神が好き放題にしてふざけているエモリ人を最後の最後に滅ぼされたのも、これと同じです。

【15:17】
『さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。』
 この出来事は何を意味しているのでしょうか。考えられるのは2つのことです。一つ目。これは神がイエス・キリストを表示させている犠牲の動物を受領されたということです。つまり、『煙の立つかまどと、燃えているたいまつ』は神を示しています。二つ目。これはイスラエル人たちが二つに切り裂かれた大海を皆でぞろぞろ歩き進むことを預言しています。つまり、竈と松明はイスラエル人たちを示しています。キリストもヨハネ5:35の箇所で、バプテスマのヨハネという人間を『燃えて輝くともしび』だと言っていますから、ここでイスラエル人という人間たちが燃えている物質として語られていたとしても何もおかしいことはありません。パウロはこの箇所について何も解説していません。エレミヤ34:18~19の箇所を考慮するならば、これは2つ目の意味として捉えるのがよいのではないかと思われます。そこではこう書かれています。『また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。』

【15:18~21】
『その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」』
 神は、アブラハムと契約を結ばれました。それはカナンの地をその子孫に獲得させるという契約でした。神は、やがてカナンにいた民族の邪悪さが許容の限界点を越えるようになると知っておられましたから、その地をイスラエル人に住ませようとされたのでした。これは例えるならば、アパートの大家が異常な住人を追い出して、その部屋に正しい別の人を住まわせるようなものです。その別の人がイスラエル人だったわけです。カナンというアパートにいた人たちは行ないが悪かったので、神という大家から追い出されてしまったわけです。これは紀元前1200年頃に実現しました。この箇所ではカナンにいた10の民族が示されています。「10」の民族が示されていることには何かの象徴的な意味があるのでしょうか。もしあるとすれば、これはカナンの諸民族が<豊かに>排除されるという意味です。何故なら、「10」とは聖書において完全とか豊かであるという意味だからです。

 神は、このようにアブラハムと契約を結ばれる前にも、2回契約を結んでおられます。1回目は堕落前のアダムと結ばれ(ホセア6:7)、2回目はノアと結ばれました(創世記6:18)。ですから、ここで結ばれた契約は3回目だということになります。この次はモーセの時にイスラエル人たちと結ばれることになります。

【16:1】
『アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。』
 サラが不妊の女だったということは、既に見た創世記11:30の箇所でも言われていました。つまり、神はアブラハムの精子とサラの卵子が結合しないようにしておられました。それはサラの体質が原因だったのかもしれませんし、何かの食物が原因だったのかもしれませんが、いずれにせよ神が何らかの原因を発生させておられたのは間違いありません。その原因が何かは私たちの知り得ることではありません。

『彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』
 サラの女奴隷ハガルは、エジプト人でしたからハム系の人間です。この時代において奴隷はまだ一般的な存在でした。アリストテレスが言ったように、奴隷とは古代において「生きた道具」でした。ですから古代の奴隷は主人から好き放題されるような存在でした。このハガルは、アブラハムがエジプトにいた際にパロから受けた贈り物でした(創世記12:16)。既に述べたようにパロはアブラハムに与えた贈り物の返却を求めませんでしたから、アブラハムはパロから貰った奴隷たちをエジプトからカナンへ持ち運ぶことができたのです。

【16:2~3】
『サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから10年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。』
 サラは、自分が不妊である理由を知っていました。子が生まれない原因は神の働きかけであったと分かっていたのです。サラはこう言っています。『主は私が子どもを産めないようにしておられます。』このように考えるのは有神論的であり正しいことでした。今の時代であれば、多くの人が不妊の第一原因として自然しか考えることをしません。正しいのは神を第一原因とし、自然を第二原因として第一原因に帰属させることです。そうすれば科学を斥けずに済むうえ有神論でいることもできます。今の時代、すなわちフランス革命以降の時代は、人々の考え方が明らかにおかしくなっています。人々の思考回路から神の観念が完全に排除されているのです。ですからサラのように『主は私が子どもを産めないようにしておられます。』などと言う人はごく少なくなっています。

 サラは自分では子を産めないので、奴隷のハガルにアブラハムの子を産ませるようにさせました。そうすればハガルの子を自分の子にできると考えたからです。サラが『女奴隷のところにおはいりください。』と言っているのは、要するにハガルを妊娠させよという意味です。聖書は、このように性的なことではあまり露骨な表現をしないのが常です。この要求をアブラハムは受け容れました。その時、アブラハムが悩んでから受け容れたのか即断したのかは分かりません。

 アブラハムがサラの要求を聞き入れたのは、ほとんど信じ難いことだと思われるかもしれません。何故なら、アブラハムは敬虔な人であって、サラの要求は無謀だったからです。これは天皇が一般の中国人の家で毎日食事するようにという求めを受け入れるようなものです。しかし、アブラハムはこのような無謀な要求に従ったのです。この時、アブラハムに神の約束が念頭にあったのは間違いありません。確かに神はアブラハムに子が生まれると約束しておられました。ですから、彼は女奴隷のハガルによってこの約束が実現されると考えたのでしょう。そうすれば確かに老人になっていたアブラハムに子が生まれるようになるからです。またアブラハムだけでなくサラの頭にも、この神の約束があったのは間違いありません。神がアブラハムに約束を与えてからかなりの時間が経っていましたから、サラはその約束について心配になったのだと推測されます。何せこの時には2人とも非常な高齢だったのですから。そのため焦って奴隷をアブラハムに妻として与えたのでしょう。もし神の約束がなければ、恐らくアブラハムはサラの要求に従っていなかったと思われます。サラもこのような普通ではないことをアブラハムに求めてはいなかったでしょう。2人の敬虔さを考慮するならば、これは確かなことだったと言えます。

 2人のしたことは、それそのものとしては、神に喜ばれることではありませんでした。何故なら、神は一夫一妻を御心としておられるからです。それは創世記2:24の箇所を読めば分かる通りです。申命記17:17の箇所では王に対して『多くの妻を持ってはならない。』と命じられています。王でさえ一夫一妻でなければいけないのであれば、全ての人が一夫一妻でなければいけないはずです。それにもかかわらずサラが女奴隷をアブラハムに妻として与えたのは明らかに焦ったからです。もう既に高齢でしたから仕方がない面もあったかもしれませんが、2人は静かにして時が来るのを待つべきでした。しかし、アブラハムがハガルを妻としたのは御計画という観点からすれば御心でした。何故なら、神はアブラハムとハガルの子イシュマエルから多くのアラブ人を生じさせようと願っておられたからです。つまり、神は御心に適わないことを用いて御心を実現されたのです。神とはこのようなやり方をされる御方です。ヨセフが兄弟たちに売り飛ばされたことを用いられたのも、そのうちの一つです。

 この出来事は、アブラハムがカナンに引っ越してから10年目に起こりました。この時のアブラハムは85歳か86歳でした。サラも高齢になっており75歳か76歳でした。つまり、2人はアブラハムに子が生まれると言われてから10年も子がないままの状態でいたのでした。

【16:4】
『彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。』
 アブラハムは、とうとう女奴隷ハガルと一緒になってしまいました。このハガルは不妊の女ではなかったので妊娠しました。このような結婚と出産はその子もろとも呪われます。それは後に私たちが見ることになる通りです。

 ハガルはアブラハムの子を身籠りましたので、サラを見下すようになりました。それはサラが自分のようにアブラハムの子を身籠っていないので、優越感を持ったからです。目に見える成果というものは絶大な力を持つものです。ハガルのお腹にはアブラハムとの結合物があるのに、サラにはそれがないのです。これではハガルがサラを見下すようになっても不思議ではありません。この時、ハガルは笑みを抑えることができず、サラは悔しくてたまらなかったはずです。

【16:5】
『そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」』
 サラは、ハガルが横柄になった理由をアブラハムに帰しています。これは一体どういうわけでしょうか。そもそもアブラハムにハガルを与えて妊娠させたのはサラなのに、そのサラ自身がアブラハムを責めるというのは理不尽に感じられます。これは女に時折見られるあの子どもらしい荒唐無稽さが現われたのでしょうか。私の考えでは、サラがアブラハムを責めたのはアブラハムがハガルに幾らかでも気を傾けたからです。奴隷とはいってもハガルはアブラハムの子を身籠ったのです。であればアブラハムが幾らかでもハガルに気を傾けるのは自然でしょう。その女のお腹には自分の子がいるのですから。ところがサラはそれが非常に気に入りませんでした。夫を純粋に愛しているのであれば気に入らないのは当然です。ですからサラはここでアブラハムを責めているのだと思われます。もしただハガルが横柄になっただけであれば、つまりアブラハムがハガルに気を傾けていなければ、サラにアブラハムを責める正当な理由はないことになるからです。このため、サラはこの問題の解決を神の裁きに委ねています。妻というサラの立場上どうすることも出来なかったので、サラは神に事を任せるしかなかったのでした。

【16:6】
『アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。』
 アブラハムはサラに対して悪いと思ったのでしょうか、ハガルをサラの手中に委ねています。もしアブラハムがハガルに気を傾けていたとすれば、これはハガルから気を完全に断ち切ったことを意味しています。何故なら、そうでなければハガルをサラに渡すようなことはしなかっただろうからです。この敬虔な人は、このようにして問題を切り抜けようとしました。それは正しいことでした。

 サラはハガルの女主人であって、アブラハムからハガルを好きなようにせよと許可が出たのですから、苛立ちを晴らすべくハガルを虐めました。この虐めがどのようだったかは分かりません。虐められたハガルは脱走しました。昔から奴隷が脱走するというのは珍しくなく、捕まれば殺されることもよくありました。この脱走は、ハガルの受けた虐めが耐え難いものだったことを示しています。もし耐え難くなければ脱走する必要もないからです。サラはハガルに子を生ませようとしたのに、結局このようになってしまいました。これでは何のためにハガルをアブラハムに与えたのか分かりません。このように正しくない男女の結合には呪いが注がれるのです。自業自得。

【16:7~8】
『主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」』
 『主の使い』とは天使のことです。モーセやパウロといった人間である神の僕たちも主の使いと呼ぶことができますが、ここで言われているのは霊的な存在のことです。しかし、この『主の使い』とはただの天使ではなく、主が天使のペルソナをもって現われた存在としての天使でした。それは後の箇所を見れば分かります。創世記16:10の箇所でこの天使は神としてハガルに語りかけており、創世記16:13の箇所でもこの天使が神であったと示されています。旧約時代において、主はこのように天使の位格において、しばしば現われておられました。この天使は荒野の泉の畔でハガルを見つけました。これは人間が見つけるようにして見つけたという意味ではありません。何故なら、主はハガルがどこにいるのか完全に知っておられたからです。ここで『見つけ』たと言われているのは、人間が誰かを見つけて近づいた時のように、ハガルのもとにやって来たという意味です。もし見つけなければハガルがどこにいたか分からなかったというのであれば、神は全知でなかったことになってしまうでしょう。このハガルは『荒野』の場所へと逃げていましたが、これは問題を回避するためです。身籠った奴隷が人のいる町にでも行けば何らかの問題が生じかねません。

 この天使は『あなたはどこから来て、どこへ行くのか。』とハガルの歩みについて質問しています。これはこの天使が知らなかったのでされた質問ではありませんでした。何故なら、主は全てを知っておられるからです。主はハガルが『どこから来て、どこへ行くのか』知っておられたにもかかわらず、あたかもそれを知らないかのように質問していますが、それは話の糸口を作るためでした。これは遠足の時に先生が子どもに対して「今日はどこに行くんだったっけかな?」などとどこに行くのかあたかも知らないかのように質問するのと一緒ですから、罪ではありません。24人の長老の一人も黙示録の中でヨハネにこのような仕方で語りかけています(黙示録7:13~17)。聖書では、神がこのような語り方をしている箇所が幾つもあります。ハガルはこの質問に対して正しく返答しました。彼女はここでただありのままを言っており、その言葉には何の隠し立てもありませんでした。

【16:9】
『そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」』
 主は、ハガルがサラのところに戻るよう命じられました。何故なら、ハガルは奴隷であって主人であるアブラハムの家にいるのが自然だからです。また主はハガルがサラに対して高ぶらないようにと命じられました。サラがハガルを虐めた原因はハガルの横柄さにあったからです。主がこう命じられたのはもっともでした。原因が正されれば結果も自ずと変わるからです。このことからも分かるように、主は全ての事柄を弁えておられます。

 何であれ原因に着目するようにすべきでしょう。そうすれば結果をコントロールできるようになります。というのも結果とは原因に基づいているのですから。これは昔からよく言われてきたことです。主もここでハガルが原因を解決するようにと言っておられます。結果だけを解決しようとしても虚しいことになりかねません。例えば、辛い食物ばかり食べているのでしばしば胃炎になる人を考えてみましょう。この人が胃炎という結果を毎回薬で治すことができたとしても、胃炎の原因である辛い食物を食べ続けていれば、いつまで経っても胃炎から解放されませんから、結果だけに対処してもあまり意味がないことになります。この人が胃炎という結果から完全に解放されるためには、原因である辛い食物を諦めるという決断が必要となるのは言うまでもないことです。

【16:10】
『また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」』
 主は、ハガルの子孫が無数に増えると言っておられます。今のアラブ人を見れば分かる通り、これは実現されました。主の言葉は真実です。それは地に落ちることがありません。ですから、ハガルの子孫であるアラブ人たちは、これからも人口の多さを保ち続けることになります。

 この箇所から、『主の使い』は主御自身であったことが分かります。『わたしが大いにふやす』という言葉は主である御方にしか言えない言葉だからです。もしこれがただの天使に過ぎなければ、このように言うのはあまりにも僭越だったことになります。その場合、『わたし』つまり天使がハガルという人間を『大いにふやす』と言われたことになります。しかし、天使が人を増やすというのは有り得ないことです。神こそが人を増やして下さるのですから。

【16:11~12】
『さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」』
 主は、ハガルがこれからイシュマエルを産むと言っておられます。この箇所から分かるように、イシュマエルとは人間ではなく神が与えられた名前でした。私たちは、この箇所に書かれている話が、後世の作り話であるなどと考えるべきではありません。神は全ての事柄を永遠の昔から完全に知っておられます。ですから、ハガルがイシュマエルを産むより前からイシュマエルのことについて語れたのです。このようにイシュマエルの母は女奴隷ハガルでした。少し話が逸れますが私の考えるところでは、イシュマエルの子孫であるアラブ人イスラム教徒たちにおける女性が全身を覆っているのは、このハガルに根本的な理由があります。人間の自然な感覚からすれば、自分たちの母が奴隷であったというのは耐え難いことであるはずです。奴隷というのは卑しい存在なのですから。だから、アラブ人たちはその起源であるハガルを直視したくないという無意識の現われとして女性が全身覆われるようにしたのだと考えられるのです。というのもアラブ人の女性はハガルと性という要素で一致しているからです。フロイトやユングなどの著書を読んだことがある人であれば、この見解は非常に心理学的だということが分かるはずです。人間は嫌いなものについては、無意識的に避けたり隠したりガードしたりするのです。一方、ユダヤ人の起源であるサラは奴隷ではありませんでした。奴隷でなければ抵抗感も起こりません。ですから、ユダヤ人の女性は別に全身を覆わなくても普通でいられるのだと考えられます。

 また主は、イシュマエルが『野生のろばのよう』に性質の粗暴な人となると言っておられます。確かにイシュマエルはそのような人でした。パウロはこのイシュマエルがイサクを迫害していたと言っています(ガラテヤ4:29)。これだけでもイシュマエルが奸悪だったことは明らかでしょう。また、主はイシュマエルが『すべての兄弟に敵対して住』むとも言っておられます。『すべての兄弟』とはイスラエル民族を指します。何故なら、イスラエル人とはイシュマエルの弟イサクの子であるヤコブから生まれた民族だからです。実際、イシュマエルの子孫であるアラブ人たちはユダヤ人たちにこれまでずっと敵対してきました。アラブ人が書いた書物を読んでみたらよいでしょう。どれだけ彼らがユダヤ人を嫌っているかがよく分かります。アラブ人にとってユダヤ人は単なる邪悪な異端者以外の存在ではないのです。これからもアラブ人は自分たちの兄弟であるユダヤ人と敵対し続けるでしょう。何故なら、主の御言葉は全て正しいからです。

【16:13~14】
『そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。』
 ここで言われている『エル・ロイ』とはヘブル語であり、「ご覧になる神」という意味です。『ベエル・ラハイ・ロイ』という言葉もヘブル語であって、「生きて見ておられる御方の井戸」という意味です。ハガルが主の現われた井戸に主にちなんだ名を付けたのは、主の現出と偉大さを記念しているのです。今の時代でも、例えば高貴な人が長らく滞在した場所があれば、それを記念してその人にちなんだ名前に変えられるということが十分起こり得ます。ハガルが井戸に主における名前を付けたのは、それと同じです。後に見ることになりますが、ヤコブもそのようにしました(創世記32:30)。

 この箇所ではハガルに語りかけた『主の使い』が主御自身であったと明白に示されています。もしこれが単なる天使に過ぎなければ、ここでこの天使が主であるとは言われていませんでした。というのも天使とは主なる神ではなく、ヘブル1:14の箇所で言われているように『仕える霊』だからです。