【創世記16:15~17:18】(2021/04/25)


【16:15~16】
『ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であった。』
 アブラハムがハガルの産んだ子をイシュマエルと名づけたのは、ハガルが荒野で起こった出来事をアブラハムに知らせたからです。そして、アブラハムはハガルに主が現われて下さったことを信じました。だからこそ、アブラハムはイシュマエルと命名したわけです。もし彼がハガルの話を信じていなければ、他の名前を付けていたでしょう。このようにイシュマエルという名前は、第一に神により、第二にアブラハムにより与えられました。神とアブラハムから命名されるというのは幸いなことです。しかし、当のイシュマエル自体は幸いな人ではありませんでした。何故なら、イシュマエルはイサクの迫害者であり神の敵だったからです。

 アブラハムは『86歳』という高齢で初めて子を持ちましたが、先にも述べたように男であればこの年齢でも子を生むことは可能だったのです。この「86」という数字には象徴的な意味は潜んでいません。この数字に特別な意味はなく、単に高齢であることが分かるだけです。

【17:1~2】
『アブラムが99歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」』
 イシュマエルが産まれてから13年後、アブラハムが99歳になった時、神は再びアブラハムの前に現われました。前に現われた時からここまで長い間、神はアブラハムに現われていないままだったのでしょうか。これはよく分かりません。もしかしたら神が現われていたのかもしれませんが、単に書かれていないだけということもありえます。この時に神が現われたのは、実際的なことを言っています。つまり、神はアブラハムに対して物質的に感知できる仕方で現われました。

 神はここでアブラハムに対して契約を結んでおられますが、それはアブラハムの子孫を大いに増やすという契約でした。これは今も無数にいるアブラハムの子孫を見れば分かるように、実現されました。つまり、アブラハムの子孫が増え広がったのは単なる偶然などではありません。それは神の御言葉の実現なのです。

 神は御自身と契約を結んだアブラハムが、契約を結んだ者として正しく歩まなければならないと言っておられます。というのも、聖なる神との契約関係を持つ人が、愚かな歩みをしていいはずがないからです。哲学者が悪徳を避け、警察官が法律違反を避け、スポーツ選手がルール違反を避けなければいけないのと同じです。契約と従順また服従は切っても切り離せません。それゆえ、神との契約に導き入れられたアブラハムは御心に適った正しい歩みをせねばなりませんでした。また、ここで神がアブラハムに『あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』と言われたのは、選ばれている全ての聖徒たちにも向けられていると捉えねばなりません。何故なら、聖徒たちもアブラハムと同じように契約の民だからです。

 神はここで御自身の全能を語っておられます。『わたしは全能の神である。』このように言われたのは、「神は全能であるからアブラハムが高齢であっても子孫を無数に増やすことができる。」ということであると考えられます。そうでなければ、これはアブラハムを安心させるための言葉です。つまり、『わたしは全能の神である。』とはこのように言われていることになります。「神は全能であるからアブラハムを全ての歩みにおいて完全に守ることができるのだ。」各人は、この2つのうち好きなほうの解釈を選べばよいでしょう。

【17:3】
『アブラムは、ひれ伏した。』
 アブラハムは神を礼拝しました。神にこうするのは正しいことです。しかし、神でない存在にこうするのは正しくありません。ヨハネは御使いに、コルネリオは使徒ペテロにひれ伏しましたが、どちらもたしなめられています(黙示録22:8~9、使徒の働き10:25~26)。これは被造物に過ぎない存在への拝礼が罪だということを示しています。もしそうでなければ御使いもペテロも、自分に対する拝礼を拒絶していなかったでしょう。私たちもヨハネやコルネリオのようにならないように注意すべきです。神でない存在を拝むのは悪であって、同性愛への道を開くことです(ローマ1:21~27)。

【17:3~5】
『神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。』
 ここで神が言われた通り、アブラハムは『多くの国民の父とな』りました。ユダヤ人がそうですし、アラブ諸民族もそうです。エドム人もそうでした。既に100歳近い高齢であって子もまだ一人しかいなかったアブラハムから多くの民族が出るというのは、普通に考えればほとんどありそうもないと感じられたはずです。しかし、神はそのようなことを実現されました。主は、人間理性からすれば不思議なことをなされる御方なのです(士師記13:18~19)。

 また神はアブラハムが多くの民族の父祖になることを示すため、彼の名前を変更されました。最初からあった『アブラム』という名は人間が付けた名前であり、この時に変更された『アブラハム』という名は神が付けた名前です。神は、何かを示すために名前を変化させられる御方です。アブラハムの妻サラも名前を変えられました(サライ⇒サラ)。私たちも、やがて天国に行けば名前を変えられることになります(黙示録2:17)。何故なら、天国に入った人は全てが一新されるからです。ある偽典の中では、モーセが死んでから天国で「メルキ」(すなわち「義なる者)」)に名前を変えられたと書かれています。私は偽典など信頼していませんし、モーセの名前が本当にメルキとなったのかも知りませんが、死後に名前が変更されると言われている点では正しい。黙示録3:12の箇所を見ると、天国ではキリストにも『新しい名』があると示されています。私たちが天国に行った際には、どのような名が新しく付けられるのでしょうか。

【17:6】
『わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。』
 ここではアブラハムから複数の国民と王が出ることになると預言されています。これは既に実現されました。しかし、アブラハムはそのことについて、自分の目で確認することはできませんでした。何故なら、アブラハムから多くの国民と王たちが生じるようになったのは、アブラハムが死んでからのことだからです。

【17:7】
『わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。』
 神は、アブラハムとその子孫に対して契約を結ばれました。アブラハムにはこの時に契約が立てられました。アブラハムの子孫には、モーセの時にホレブの場所で契約が立てられました。申命記5:2の箇所に書かれている通りです。神が契約を結ばれるというのは、すなわち神がその人たちの神となり、その人たちが神の民になるということです。ですから神はアブラハムの神であられました。また神はアブラハムの子孫たちの神でもあられました。このような契約が立てられた民族はユダヤ以外には古代でいませんでした。

【17:8】
『わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」』
 神はカナンをアブラハムとその子孫に与えられました。アブラハムは約束において与えられるだけで満足しました。後の子孫たちは実際に与えられることで満たされました。神は、御自身みずからアブラハムとその子孫に対して神になられました。ですから彼らは真の神を持つ人たちでした。このため神は彼らにカナンの地をお与えになったのです。何故なら、神とは万物を所有される全能の主権者だからです。この神は、御自身の所有される地を御心のままに分け与える自由を持っておられるのです。

【17:9~11】
『ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の皮を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。』
 神は、契約の印としてアブラハムとその子孫が割礼を受けるよう定められました。これは男子の陰茎における包皮を切り捨てることです。男子の陰茎には、切り取っても差し支えない余った皮の部分があります。そこを切り取るわけです。古代のユダヤには、割礼専用の刃物があり、割礼をする専門の人がいました。これは人間の自然な感覚からしても、確かに契約の印として相応しいと感じられます。この割礼が行なわれたのはこの時が世界で最初だったのでしょうか。それとも他にも既に割礼をしている民族がいたのでしょうか。キリスト教徒として、割礼の実施はアブラハムが最初だったと思いたくなるものです。しかし、これは聖書が世界で最初に書かれた本だと思うのと一緒で根拠が欠けていますから、アブラハムの時が最初だったと断言することはできません。もしかしたらアブラハム以前にも割礼をしていた民族がいたかもしれないのです。この割礼は古代のユダヤ人であれば誰でも受けていました。何故なら、これは神の民であることの印だからです。ですから古代の異教徒たちは、ある人が本当にユダヤ教徒なのか分からなかったり疑ったりした場合は、しばしばその人の陰茎を調べたものです。もし割礼がされていれば、その人はユダヤ人として確定されたわけです。キリストも当然ながらこの割礼を受けていました。今でもユダヤ教徒はこの割礼を受けています。このユダヤ教徒以外にも、今の世界で割礼を受けている民族は多くはありませんが存在しています。

 女性は、この割礼を受ける必要がありませんでした。何故なら、ここでは『すべての男子は』と書かれているからです。ですから古代ユダヤ人の女性は割礼を受けていませんでしたし、今のユダヤ教徒における女性も割礼を受けていません。もちろん、女性でも割礼を受けようと思えばできたでしょう。しかし女性の場合、割礼は印というよりは拷問と言ったほうが相応しいと思われます。というのも女性が割礼を受ければ、恐らく日常生活に支障が出るだろうからです。神は、女性についてはここで何も言っておられません。もし女性も割礼をすべきだとすれば、ここでそのことについて言われていたはずです。ですから女性は割礼をしなくても罪とはなりませんでした。しかし、それだと女性は契約の印を持っていないので契約に属していないことにならないか、と思われる方もいるかもしれません。これはとんでもないことです。女性は割礼を受けていないものの神との契約に属しています。何故なら、女性とは神との契約の印を持っている男性に服属している存在だからです。女性が男性に従属する補助者として創造されたというのは、既に創世記2:18の箇所で見た通りです。これは、親が日本国籍を持っていれば子も親と共に日本国籍を持つことになるのと一緒です。では、女性も割礼を受けたければ受けてよかったのでしょうか。古代ユダヤ人の女性で割礼を受けていた人がいたのかどうかは分かりませんが、もしいたとすればその女性は愚かだったと言わねばなりません。何故なら、それは例えるならば、男が髪を短く切っているからというので女性である自分も髪を短く切るのと同じだからです。そもそも女性は割礼をするようにデザインされていないと思えます。もし女性も割礼をすべきだったとすれば、神は女性を割礼に適した身体としてデザインされたはずです。しかし実際はそのようにデザインされていないのですから、女性の割礼は自然に反しているとせねばなりません。

 注意せねばならないのは、これは割礼という行為によって神の救いに入ることを教えているのではないということです。割礼とは、あくまでも信仰によって救われたことを印づけたものです。アブラハムは割礼を受けるよりも前から既に信仰において神の救いへ入れられていました(創世記15:6)。割礼はその信仰の証印としての意味がありました。これはパウロも教えていることです。これを何かに例えるならば、結婚した男女が結婚式という結婚の証明披露宴を挙げることです。結婚という結びつきを結婚式という印において証示するように、アブラハムも信仰による義認を割礼という印において証示されたのです。この割礼を行為義認と捉えるのは完全に誤っています。そうなると救いは行ないによることになります。これでは救いが神の救いではなくなってしまいます。というのも行ないによるのであれば、もはや恵みの救いではないからです。パウロはこう言っています。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11:6)ですから、もし割礼という行為により救いが得られるとすれば、創世記15:6の箇所で『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と言われているのと矛盾することになってしまいます。

 新約時代になった今では、もはやこの割礼を実施する必要はなくなっています。何故なら、今や割礼はバプテスマに置き換えられているからです。救われた全ての聖徒は、今や割礼を受けず、このバプテスマを受けることになっています。これは割礼とは違って女性でも受けられる契約の儀式です。ですから新約時代では、全ての聖徒が契約の印となる儀式を受けています。もし今でもまだバプテスマではなく割礼を受ける聖徒がいたとすれば、完全に間違っています。パウロが言っている通り、バプテスマこそが新約時代におけるキリスト的な割礼なのです(コロサイ2:11~12)。ですから、今でも割礼を受ける人は、バプテスマを無視または否定していることになります。そのような人は必ず呪われるでしょう。その人は聖書のことを全く弁えていないからです。

 確かに今となっては宗教的な意味において割礼を受けてはなりません。しかし、宗教的にでなければ割礼を受けても問題ありません。すなわち、生活上の便宜のためというのであれば今でも割礼を受けることができます。割礼を受けることには幾つかのメリットがあります。割礼を受けるのであれば、より衛生的になり、病気のリスクが低まることになります。また夫婦との行ないの際には感度が良くなり、垢が溜まりにくくなるので妻の子宮ガンにおけるリスクが下がります。割礼を受けても、人に見られるわけではありませんから、生活していくうえで恥ずかしくなるという問題も生じません。割礼を受けることによるデメリットはといえば、私の考えでは2つあります。一つ目は、割礼を受けていることが知られた場合、いちいち説明しなければいけなくなるということです。特に兄弟姉妹に知られた場合、躓きを避けるためにも絶対に説明しなければいけなくなります。二つ目は、割礼を受けた際に痛みが生じることです。シェケムの人々も割礼を受けた際には痛みに苦しめられました(創世記34:25)。肉体の一部分を切除するのですから、これは仕方がないでしょう。ということですから、もし宗教的な心持ちで受けないというのであれば、どうしても割礼を受けたい人は、医師や医学博士などといった医学の専門家のもとで割礼を受けたらよいでしょう。事前に所属する教会の牧師に話すべきであるのは言うまでもありません。一般信徒には、小耳に挟んだだけで詳細をよく知らない兄弟姉妹が躓く可能性もありますから、大々的に周知する必要はないと思います。

【17:12~13】
『あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。』
 アブラハムの家にいた男子は、全て例外なく割礼を受けなければなりませんでした。どうしてかといえば、神とは契約的に事を取り扱われる御方だからです。神は、アブラハムの家にいた男子をアブラハムに帰属する存在として見ておられました。ですから彼らもアブラハムの一族として割礼を受けなければいけなかったのです。これは、企業のトップが良く言われたり悪く言われたりするのと似ています。企業のトップが良く言われたり悪く言われたりすれば、その企業にいる全ての人も世間から良く言われたり悪く言われたりするようになります。これは、企業がトップのもとに構成される契約的な有機体だからです。アブラハムの家にいれば外国人であっても割礼を受けなければいけませんでした。これはアルバイトであっても、企業のトップに対する評価から影響を受けるのと似ています。つまり、企業のトップの評価次第で、アルバイトで働いている自分に対する外部からの評価も変わるということです。トップの運命は構成員全てに波及するわけです。これは契約の概念を考慮すれば何も不思議なことではありません。

 また子どもは『生まれて八日目に』割礼を受けねばなりませんでした。これは、その子どもも神の契約のうちに属していることが示されるためです。どうして『八日目』であるかといえば、「8」とは聖書で<新生>を意味しているからです。つまり子どもが8日目に割礼を受けるというのは、その子どもが神の御前において新しくされているという意味合いを持ちます。ですから『八日目』とは象徴的な意味が込められています。8日より前でも8日より後でもいけませんでした。キリストもやはり8日目に割礼をお受けになりました(ルカ2:21)。

 新約時代における神の民が幼児洗礼を受けるのは、この8日目の割礼に根拠があります。これは契約の概念を考えれば何もおかしいことではありません。新しく生まれた旧約の民が神の契約のうちに服属しているのと同様、新しく生まれた新約の民も神の契約のうちに服属しているのです。ですから旧約における契約の民の子が契約の印を受けるべきだったように、新約における契約の民の子も契約の印を受けるべきなのです。今でもほとんど全てのキリスト教グループは、プロテスタントであれカトリックであれ、この幼児洗礼を施しています。

 今述べたように幼児洗礼は8日目の割礼に根拠がありますが、バプテスト派は、他の教派とは違って例外的に幼児洗礼をしていません。バプテストでは幼児洗礼が徹底的に否定されます。その理由は2つあります。一つ目は、バプテストは洗礼が信仰抜きに行なわれるべきでないという考えを持っているからです。それは、新約聖書の中で、信仰を持ってからバプテスマを受けるべきだと示されているからです。それゆえ、信仰を告白したくても出来ない幼児には洗礼が施されるべきでないと考えるわけです。二つ目は、バプテストが契約についてよく弁えていないからです。バプテストは古い契約と新しい契約の連続性をよく理解していません。また神が契約の神であられるという理解もあまり持てていません。幼児洗礼とは、8日目の割礼と同じで、契約抜きに考えることができません。ですからバプテスト派は幼児洗礼の必要性が分からないのです。幼児洗礼を施すべきであるのは明らかです。神が契約的な御方であるのを考えれば、幼児洗礼は何もおかしいことではないからです。この幼児洗礼においてはバプテスト派が何を言おうとも無駄です。もしバプテスト派が考えるように信仰の告白抜きには洗礼を受けるべきでないとすれば、古代のユダヤ人たちも8日目の割礼を子どもに施すべきではなかったことになります。つまり、洗礼における考え方を古代の割礼の場合にも適用しなければいけなくなります。何故なら、割礼という儀式も、バプテスマと同じで信仰が与えられたことを示す証印だったからです。それはパウロがローマ4:11の箇所で明白に述べている通りです。つまり、信仰の印として割礼を受けたアブラハムに属する子たちがアブラハムのように割礼を受けねばならなかったのと同様、信仰の象徴としてバプテスマを受けた新約の聖徒たちに属する子たちも親たちのようにバプテスマを受けねばならないのです。もしバプテスト派の言うように信仰告白抜きにバプテスマを授けられるべきではないとすれば、同じく古代のユダヤ人たちも信仰告白抜きに割礼を子に授けるべきではなかったことになりましょう。バプテスマと割礼は信仰の証示手段という点で一致しているのですから。古代教会も幼児洗礼を行なっていました。実際、幼児たちを水に沈めるための洗礼盤が今でも残っています。これは使徒の時代にも幼児洗礼が行なわれていたことを示している可能性が幾らかでもあります。しかし、バプテスト派がバプテスマは浸礼であるべきだと言っているのは正しい。何故なら、バプテスマのヨハネもキリストの弟子たちも、バプテスマを川で授けていたからです。これはキリストの時代にバプテスマが浸礼式だったことを示しています。更に、キリストが浸礼式でバプテスマを受けられたという最も強力な実例が福音書の中で示されています。私も改革派なのですが、改革派はバプテスト派の浸礼論に対し、滴礼の正当性を主張します。ですが聖書に浸礼の実例が多く記されているのですから、改革派も浸礼にすべきであるのは言うまでもありません。アウグスティヌスの頃の教会でもバプテスマは浸礼だったのです。党派心を抜きにして考慮すれば、どう考えてもバプテストの浸礼論のほうが説得力があります。改革派も説得力のあることを幾らか言いますが、バプテスト派のほうが説得力のある言説は数において優っています。要するに、最も正しいのは幼児洗礼を首肯し洗礼は浸礼であるべきだということです。改革派にもバプテスト派にも洗礼について改善すべき点があります。すなわち、改革派は浸礼にてバプテスマを施すべきであり、バプテスト派は幼児に洗礼を施すようにすべきです。

【17:13】
『わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。』
 神は、割礼という契約の印が永遠的であると言っておられます。これはユダヤ教徒たちがキリスト教徒を批判する口実となるかもしれません。「キリスト教徒は自分たちが神の民であると言っているが、それではどうして永遠の契約を示す割礼を受けないままでいるのか?」と。このような批判に対処するのは簡単です。キリスト教徒も言わば割礼を受けているのです。すなわち、洗礼という新しい形に置き換えられた割礼を、です。既に述べたように今や割礼は洗礼という形になっています。ですから、ユダヤ教徒がするかもしれないこのような批判は容易に斥けられるのです。もし割礼が今でも新しい形に更新されていなければ、私たちは今でも割礼を受けていたでしょう。しかし、もう割礼は洗礼という更新バージョンになっているのですから、その更新バージョンを受ければそれでよいのです。古い契約しか知らないユダヤ教徒たちには、このことが決して分からないでしょう。

 ところで、この割礼ほど厳しく守るように言われている命令は、聖書の中で珍しいです。この割礼以外でこれほどまでに厳しく守るよう言われているのは、安息日と血を食べることについてぐらいです。これは神がどれだけ割礼を重視しておられるかということを示しています。神は、割礼をそれなしでは神の民として認められないほどに根本的な定めとされました。ですから、割礼はこれほどまでに厳しい命令とされているわけです。もし割礼がそれほど重要でなかったなら、ここまで厳しい命令とはなっていなかったでしょう。

【17:14】
『包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」』
 割礼を受けていない人はユダヤの共同体から追放されねばなりませんでした。つまり、もはやユダヤ人とは見做されず、異邦人と同一に取り扱われるということです。これは実に悲惨なことでした。生きながらにして地獄に入れられるようなものです。このように割礼とはそれをもってユダヤ人をユダヤ人たらしめるほどに本質的な定めでした。ですから、ここまで厳しい命令になっているのです。例えば、医師であるのに医師免許を持っていない人がいたとします。その人が無免許で医師の業務をしていることを知られたら、どうなるでしょうか。非常に高い確率で、これまでのように医師の職務をしていることはできなくなるでしょう。割礼を受けていない男がユダヤ社会から排除されることになっていたのは、それと同じです。

 ここでは無割礼の男はユダヤ人とは見做されなくなると定められています。確かに無割礼であれば問答無用にユダヤから追放されることになっていました。しかし、だからといって、割礼を受けることで救いをもたらす義認が得られるというわけではありませんでした。あくまでも義認が得られるのは信仰によったからです。割礼とはあくまでも信仰を示す証印に過ぎません。これは新約聖書で、悪を行なう者は天国に決して入れないと言われているのと同じです。確かに悪を行なっているのであれば天国は相続できないでしょう。しかし、だからといって悪を行なわないというその行為が私たちに救いを得させるわけではありません。何故なら、救いが得られるのは、ただイエス・キリストを信じる信仰にのみかかっているからです。割礼を受けなければユダヤ人として認められないと言われているにもかかわらず割礼が義認の要件とならないのは、悪を行なっているならば天国に入れないと言われているにもかかわらず悪を行なわないというその行為が救いの要件にならないのと一緒です。もし割礼という行為が人に義認を得させるとすれば、もはや救いは人の救いとなってしまいます。それは神の救いではありません。その場合、神は別に必要でないことになります。何故なら、人は神なくして自己の行ないにより救われることができるのだからです。これでは宗教が完全に崩壊してしまいます。超越者とその必要性を説かない宗教は真の宗教と言えないからです。

【17:15】
『また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。』
 神は、アブラハムの妻サライをサラという新しい名とされました。サラとは「女王」という意味に解されます。これは、次の節でも言われているように、サラが多くの王たちの母となるからです。もしサラから多くの王たちが出て来なかったのであれば、その名はサライのままだったことでしょう。サラ・ペイリンやサラ・ブライトマンなどサラという名を持つ女性が今でも多くいますが、これはアブラハムの妻サラから取った名前なのでしょう。というのもサラとは見習うべき優れた妻だと聖書で言われており(Ⅰペテロ3:5~6)、恵まれた女性だったからです。ファンタジー作品でもこの名前はよく使われています。これは非常に印象の良い名前です。これ以降、聖書でアブラハムの妻はサライと呼ばれなくなります。

【17:16】
『わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」』
 神は、サラから多くの国々とその王たちが出て来ると言っておられます。実際これは実現しています。これは実に大きな祝福でした。まだ一人も子を生んでいない90歳になるサラから幾つもの国々と王たちが出て来るというのですから。

【17:17】
『アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「100歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、90歳の女が子を産むことができようか。」』
 アブラハムはひれ伏して神を礼拝しましたが、これは当然為すべきことでした。神がアブラハムの前に現われて語って下さったからです。これは例えばエリザベス女王がわざわざ遠くから訪ねて来て貴重な話をしてくれたことに似ています。このようにされたならば誰でも女王の前で深々と頭を下げるのではないでしょうか。もしアブラハムが神を軽視していたとすれば、ひれ伏すようなこともなかったはずです。

 このようにアブラハムは神を礼拝しましたが、神の言われたことはアブラハムにとって信じ難いと感じられました。ですからアブラハムは笑ってしまいました。神が普通に考えれば起こりそうもないことを言われたからです。100歳の夫と90歳の妻が子を産んだなどという話は聞かれたことがありませんでした。アブラハムが笑ったのは人間的な感覚からすれば、それほどおかしいとは思われないかもしれません。しかし神の御前では愚かなことでした。何故なら、神に不可能はないからです。不可能なき神の言葉を笑う人こそ笑われねばならないのです。この出来事からも分かりますが、人間は経験に反したことを拒絶するという愚かさがあります。アブラハムもそのような性質を持っていました。つまり、アブラハムはそれまでに高齢の夫妻が出産したという話を聞いたことがありませんでしたから、高齢の夫妻は出産できないと考えてしまったわけです。このような性質のゆえ、昔の人たちは飛行機の可能性や電気の存在を否定してしまったのでした。何故なら、昔の人たちの経験からすれば飛行機も電気も考えられないことだったからです。「経験に反している=ありえない」という図式が弱い私たち人間の頭脳には前提としてあります。しかし、今までどれだけ経験に反したことが実現されてきたことでしょうか。ですから、経験に反していることはありえないという図式こそ「ありえない」と言わねばなりません。

【17:18】
『そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」』
 アブラハムにとって神の言葉は信じ難いことでしたから、アブラハムは既に生まれていたイシュマエルから多くの国々と王たちが出て来るのだろうと考えました。ですから、アブラハムはサラの出産についてではなく、イシュマエルが御前で生き続けることを神に願い求めました。このアブラハムでさえ神の言葉を信じられなかったとは驚かされます。アブラハムがこうだったのであれば、それ以外の全ての人たちは尚のこと容易に不信仰に陥ってしまうでしょう。