【創世記17:19~18:26】(2021/05/02)


【17:19】
『すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』
 神は、既に生まれていたイシュマエルから多くの国々と王たちが出ると言ったわけではなく、サラの産む子どもから多くの国々と王たちが出ると言われました。これはアブラハムにとって驚くべきことだったはずです。恐らくアブラハムは唖然としたのではないかと思われます。しかし、計り知れない喜びも感じていたはずです。高齢である自分の妻から子が生まれるというのですから。ここで言われている通り、サラから産まれた子がイサクと名づけられたのは神の命令に基づいています。これは今でもユダヤ人に時折見られる名前です。

 また神はこのイサクと契約を結ぶと言っておられます。その契約は後の子孫にまで継続される永遠なる契約でした。つまり、後の子孫であるモーセ率いるイスラエル人たちと神が結ばれた契約は、イサクに対して神が結ばれた契約と同一の契約であるということです。その契約とは、神が人を御自身の民とし、人が神を自分の神にする、という主従関係における契約でした。

【17:20】
『イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は12人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。』
 アブラハムは不信仰に基づく勘違いからイシュマエルが御前で生き長らえるのを願いましたが、神はその願いを聞き入れて下さいました。何故なら、イシュマエルがアブラハムの願い通りになるのは神の御心だったからです。神は御心に適った願いであれば何でも聞いて下さいます。Ⅰヨハネ5:14~15の箇所に書かれている通りです。

 神はイシュマエルについて2つのこと、すなわち名誉と子孫の増殖を約束されました。これは既に実現しています。イシュマエルの名は今もアラブ人という民族において輝いていると言えます。また、このアラブ人というイシュマエルの子孫は、今や4億人も存在しています。これら2つのことは、どちらも神の約束により実現されました。もし神がこのような約束をされなければ、イシュマエルは大いなる者とはなっておらず、またその子孫も沢山にはなっていなかったはずです。ところで、このイシュマエルの子孫ですが、ウィキペディアを見たところ、よく知られた人には次のような人たちがいます。マホメット、サダム・フセイン、オサマ・ビンラディン、ヤセル・アラファト、カルロス・ゴーン。どの人も最高峰に高い知性と哲学的な深さを持ってはいませんが、自分の目的を純粋に遂げる力を持っていると感じられます。彼らの顔から、その始祖であるイシュマエルがどのような顔立ちをしていたのか完全ではないにしてもイメージすることが出来るのではないかと思います。

【17:21】
『しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」』
 神はイサクの産まれる時期をアブラハムに知らせておられます。あらゆる出来事は神により永遠の昔から定められていますから、神は全ての出来事をそれが起こる前から知っておられます。ですから神は、イサクの産まれる前にこのようなことを告げることができたのです。この預言を聞いたアブラハムが驚き喜んだことは間違いありません。

【17:22】
『神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。』
 神はアブラハムから『離れて上られた』のですが、どこに上られたのでしょうか。それは天です。しかし天といっても大気圏の場所ではありません。これは霊的な世界のことを言っています。神がアブラハムに現われておられた時間は、そう長くありませんでした。神はもっと長くこの世に留まることもできました。しかし、神はそうされませんでした。これは、神がこの世界に長く留まるのを望まれなかったからなのでしょう。それというのも、この世には不信仰という醜い悪徳が満ち満ちているからです。神はこの不信仰を大いに忌み嫌われ、それを耐え難いことだと思われます。実際、人となって来たイエス・キリストは、弟子たちの不信仰に耐えることができず、憤りの念を抱かれました。主は不信仰な弟子たちを嘆いてこう言われたのです。『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。』(マタイ17章17節)ですから、神がアブラハムとさえ長くいようとされなかったとしても不思議なことはありません。

【17:23~27】
『そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、99歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、13歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。』
 アブラハムは、神が割礼を受けるように言われたその日、自分に属する全ての男子たちと一緒に割礼を受けました。アブラハムは日を跨ぐことはしませんでした。この割礼を受けたのはアブラハムの家にいた『すべての男子』でした。例外となる人はいなかったのです。それでは性同一性障害の人はどうだったのでしょうか。男性性器があれば本当の性別は女性であっても割礼を受けたでしょうが、そもそもアブラハムの家にそのような人がいたのか分かりませんし、この時代に性同一性障害が知られていたのかどうかも不明です。では、動物はどうだったのでしょうか。動物もアブラハムの家で飼われているのであれば、アブラハムの契約に属していたのではないでしょうか。そうであれば動物の雄たちもやはり割礼を受けねばならなかったのではないでしょうか。動物は割礼を受けなかったはずです。何故なら、動物とは契約の民ではなく、契約の民に属している所有物に過ぎないからです。神が割礼の対象としておられるのは御自身の似姿として創造された人間だけでした。

 アブラハムは、割礼の命令を受けるとすぐに割礼を実施しました。彼は躊躇しなかったのです。ここにアブラハムの素晴らしい信仰があります。これは詩篇記者が次のように言っていることです。『私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。』(詩篇119:60)もしアブラハムが信仰深くなければ、このようにすぐには割礼を実施していなかったことでしょう。ここにアブラハムという模範があります。私たちもこのアブラハムのようになる努力をしなければいけないでしょう。そのようにするのは明らかに神の御心に適っているのですから。

【18:1】
『主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。』
 神は再びアブラハムの前に現われて下さいました。他の人に対して主は一度さえも現れておられなかったと思われます。それなのにアブラハムにはこのように何度も御自身を現わしておられます。これは神のアブラハムに対する好意を示しています。私たちは自分の好きな人であれば何度も会いたいと思うはずです。神はアブラハムに対して、そのようだったのです。神がアブラハムの前に現われた現われ方は、実際的な現われ方でした。それは創世記18章の内容を見れば分かります。

 アブラハムはといえば『天幕の入口にすわってい』ました。アブラハムはそこで何をしていたのでしょうか。もうかなりの高齢でしたから座って休んでいたのかもしれません。誰かが訪れたら即座に応対できるよう待機していたという可能性もあります。創世記で示されているように、アブラハムは非常にしっかりした人でしたから。

【18:2】
『彼が目を上げて見ると、3人の人が彼に向かって立っていた。』
 アブラハムの前に現われた『3人の人』とは誰だったのでしょうか。これは『人』と言われていますが、実際的な人間、つまり私たちのような本物の人間ではありませんでした。このうち2人は、人間の姿をもって現われた御使いです。これは創世記19:1の箇所を読むと分かります。もう一人は、人間の姿をもって現われた主です。こちらのほうは御使いではなく神でした。これは創世記18:33~19:1の箇所を読めば分かります。この『3人の人』が3人とも神であったと捉えてはなりません。すなわち、この3人は神の3つの位格を現わしている存在であると捉えるべきではありません。創世記19:1の箇所から明らかなように、このうち2人は神ではなかったのですから。

【18:2~5】
『彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」』
 アブラハムは、聖なる来訪者たちをもてなそうとしています。このアブラハムのもてなしには、少しの過不足も感じられません。アブラハムが足を洗う水を持ってこようとしたのは、当時の習慣です。この時には靴がまだ簡素でしたから歩くならば足がすぐにも汚れてしまったのです。このもてなしについてはヘブル13:2の箇所で教訓としてこう書かれています。『旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。』アブラハムは恐らくいつの場合でも来客たちをこのようにもてなしていたというわけではなかったでしょう。この時に来た3人の来客たちは明らかに高貴であったため、アブラハムはこのようなに丁重なもてなしをしたと見るべきでしょう。これはカルヴァンも述べていたことです。というのも獣のように異常な来客に対してもこのようにもてなしていたとすれば、それはちょっと普通ではないからです。

 この時にアブラハムは『天幕の入口から走って行き』ました。走ったというのは、つまり急いだわけです。ここにアブラハムの敬虔さが現われています。スピードの速さは熱心さの度合いと比例します。どうでもよいと思っている人や事柄に対して人は怠惰になりがちだからです。私たちはこのアブラハムのような敬虔さを持っているでしょうか。考えなければいけないでしょう。

【18:5】
『彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」』
 3人の聖なる人たちは、アブラハムの勧めを受け入れ、そのもてなしを受けることにしました。主は御自身の法に違反していなければ、寛容に振る舞われる御方です。ですから、ここでもアブラハムの言った通りに全てを任せています。後にも見ることになりますが、主はロトの言った通りにもしました(創世記19:18~22)。キリストも人々の勧めに従うことを拒まれませんでした。これは、つまりこういうことです。パウロが言うように『愛は寛容』(Ⅰコリント13章4節)です。またヨハネが言っているように『神は愛』(Ⅰヨハネ4章8節)です。よって愛である神は寛容な御方なのです。

【18:6~8】
『そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、3セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな小牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。』
 アブラハムは早速、もてなしの準備に取り掛かりました。サラにはパン菓子の調理を命じています。それは良質な小麦粉で作られるのがアブラハムの求めでした。若い者には小牛の料理を任せています。この子牛はアブラハムが自らの目で選んだ最良の子牛でした。アブラハム自身は『凝乳と牛乳』を用意しています。これも間違いなく最上のものだったでしょう。こうしてアブラハムは『凝乳と牛乳と、それに料理した小牛を持って』聖なる人たちのもとに行きました。しかし、ここではサラに命じた『パン菓子』が運ばれたとは言われていません。これは一体どういうわけなのでしょうか。サラはパン菓子制作に手間取ってしまったのでしょうか。それとも実際にはサラの手によるパン菓子も運ばれたのですが、ただ単にそのことについて触れられていないだけなのでしょうか。後者のほうはないと見るべきでしょう。何故なら、もしパン菓子も持ち運ばれたのだとすれば、聖書はそのことについて書いていたはずだからです。

 アブラハムは高齢であって多くの人たちを管理する有力者だったにもかかわらず、聖なる人たちに給仕をしていました。アブラハムといえども主の前においては一人の僕に過ぎなかったのです。ですから、アブラハムがこのように召使いとして給仕していたのは何も不思議ではありません。主の民で主の僕でない者は一人もいないのです。

 ここでアブラハムは最上の捧げ物を主のために用意しました。東方の博士たちも、キリストに対して最上の贈り物を捧げました(マタイ2:11)。ソロモンも主についてこう言っています。『それゆえ、彼が生きながらえ、彼にシェバの黄金がささげられますように。』(詩篇72:15)神に対しては最上の捧げ物がされるべきです。例えば献金であれば、最も綺麗なお札また硬貨を選別すべきです。私はいつもそうしています。神への献金で無造作に選ばれたお金を用意すると、どうしても古汚いものが混入してしまいますから、気をつけるべきなのです。神は、御自身の御子というそれ以上ない御方を私たちにお与え下さったのです。それなのにどうして私たちが最上の捧げ物を用意しなくていいはずがあるでしょうか。

【18:8】
『こうして彼らは食べた。』
 アブラハムが用意した食事を、この聖なる3人の客人たちは食べました。この3人は単に人間の姿を取って現れたに過ぎず、元から私たちのような人間であったというわけではありませんでした。しかし、それでも3人の身体は内臓に至るまで人間そのものでした。だからこそ、このように食事をすることができたのです。つまり、彼らの身体は幽霊のような幻想形態ではなかったということです。また、ここで『食べた』と言われているのを象徴的な意味として捉えるべきではありません。この言葉は実際的に捉えるべきです。

【18:9】
『彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。』
 この箇所から分かる通り、サラはどうやら3人の客人が来た時、彼らに顔を見せなかったようです。これ自体は別に何も問題なかったでしょう。何故なら、アブラハムに菓子制作を命じられたのですから顔を見せている余裕などなかったでしょうし、アブラハム一人だけが客人たちと応対していればそれで事足りたからです。

【18:10】
『するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」』
 3人のうちの一人が、サラに子どもが生まれることについて預言しています。サラが子を間もなく生むということについては、創世記17:19、21の箇所でも記されていました。このように神とは御自身の僕に前もって未来のことを告げられる御方です。それはアモス書3:7の箇所でこう書かれている通りです。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」

 ここでアブラハムに語りかけている『ひとり』とは、恐らく主でしょう。これを御使いと考えるのは不自然だと思われるからです。これは主と考えたほうが文脈に適っています。

【18:10~12】
『サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」』
 サラは主の言葉を『うしろの天幕の入口で、聞いていた』のですが、主の言われたことが信じ難かったので、心の中で笑ってしまいました。それというのもサラには『普通の女にあること』すなわち生理が既に止んでいたからです。今の日本人女性では50歳ぐらいで生理が止みますが、サラの時代の女性も恐らくそのぐらいで生理が止んだと推測されます。つまり、サラが笑ったのは「生理がもう止んでいるのにどうして子どもが生めるのか?」ということです。サラが心の中で笑ったのは、一般的に考えるならば、それほどおかしいとは思われないかもしれません。しかし神の御前においてサラは致命的に愚かでした。何故なら神に不可能は何もないからです。主はサラが御自身のすぐ近くにいるのを知っておられましたが、サラの心の思いを見るために、サラが聞こえるようにしてサラの出産についてアブラハムに語ったのでした。

【18:13~14】
『そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」』
 神は、人には隠されていたサラの心の思いをまざまざと御覧になっておられました。サムエル記16:7の箇所で言われているように『主は心を見る』のです。ペテロも主に対してこう言っています。『すべての人の心を知っておられる主よ。』(使徒の働き2章24節)キリストもパリサイ人たちの心をまざまざと御覧になっておられました(ルカ5:21~22)。このように神とは人の心を見ておられる御方です。それゆえ、神を愛すべき私たちキリスト者は、心の正しさを切に求めねばなりません。神が私たちの心を見ておられるというのに、どうしてその心を正しく保とうとしなくていいはずがあるでしょうか。ほとんど全ての人は、神がまさか自分の心を見ておられるなどとは思っていません。このサラでさえ、そのようなことは思っていませんでした。もしそう思っていたとすれば、心の中で神の言葉を笑ったりはしなかったでしょう。このように神が人の心を見ているはずはないなどと考えるのは、全く誤っています。

 この箇所では『主に不可能なことがあろうか。』と言われています。これは正にアーメンというべき言葉です。ルカ1:37の箇所でも神の全能についてこう言われています。『神にとって不可能なことは一つもありません。』エレミヤ32:27の箇所でも、神がこう言っておられます。『わたしにとってできないことが一つでもあろうか。』確かに神にはあらゆることがお出来になります。神に不可能はあると考えることが私たちにとっては不可能です。ですから、神の御心であれば私たちは神により山をさえ動かせるでしょう。キリストがマタイ17:20の箇所で言っておられる通りです。

【18:15】
『サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」』
 サラは心が見られていることに恐怖したので神の言葉を打ち消しましたが、主の御前では意味がありませんでした。神はサラの心をまざまざと御覧になっておられました。ですから、サラが何を言っても無駄だったのです。これは、警察官が罪の現場をその目で見ていたので現行犯逮捕が避けられなくなるのと一緒です。このように神に対して抗弁することは絶対にできません。どれだけの知者であっても、どんな図り事を立てても、です。ソロモンはこう言っています。『主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。』(箴言21章30節)私たちが何を言おうとも、主は「いや、これこれこうなのである。」と言われるのです。ところで、女性とは『弱い器』(Ⅰペテロ3章7節)であって、往々にしてこのサラのようになりがちですから、教会を管理するのには全く相応しくありません。パウロも女性が教会を管理することを禁止しています(Ⅰコリント14:33~35)。エリザベス女王は英国国教会の首長であり、女性なのに不正にも教会のリーダーになっていますが、やはり当然のことだったと言うべきでしょうか、カトリックの教皇と面会して和解するなどというとんでもない愚行をやらかしています。こんなことをしたのは英国国教会の500年の歴史上、エリザベス女王が初めてでした。既に離れ去ったエジプトのパロと再び仲直りするとは不敬虔もいいところだと言わねばなりません。教皇が悔い改めてプロテスタントの教義に鞍替えしたというのであれば話は別でしたが、そのようなことではなかったのです。このエリザベス女王もそうですが、女性の教会リーダーは、傾向として真理よりも和を重視しがちです。それだと教会がすぐにも揺らいでしまうことになりますから、サラと同じ性を持つ女性たちは教会を統御すべきではないのです。もし女性が教会を管理するならば必ず呪われるでしょう。今いる女性牧師たちは遜ってパウロの言葉に服従しなさい。だいたい「女性牧師」という言葉自体からしておかしいのです。これは例えるならば「子供親」とか「僕主人」などという言葉と一緒です。

【18:16】
『その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。』
 3人の客人たちは、ソドムの方面に行こうとしていたのでした。その旅の途中でアブラハムにもてなされたわけです。とはいっても、主は偶然、アブラハムにもてなされたというわけではありませんでした。主は最初から途中にアブラハムとやり取りするつもりで、ソドムに旅をしに来られたのです。アブラハムのもてなしが終わると、3人の人たちはソドムのほうへ向かいました。アブラハムも僕らしく3人と一緒に歩いて見送ろうとしました。サラはどうやら3人に付いて行かなかったようです。アブラハムの奴隷たちはアブラハムと一緒に行ったのかよく分かりません。

【18:17~19】
『主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」』
 主は、アブラハムに『わたしがしようとしていること』を知らせるべきかどうか時間の中において考えられました。『わたしがしようとしていること』とはソドムやゴモラを裁いて滅ぼすことです。主は即座に、アブラハムにそのことを知らせるべきだと結論されました。何故なら、アブラハムは『大いなる強い国民』とさせるため主が特別的に選ばれた人物だったからです。主は、そのような特別的な人物であるアブラハムに御自身の計画を告げるのは相応しいと考えられました。このように主の御計画が知らされるのは、特別的に選ばれた人たちに与えられる特権です。ちょうど妻を愛する愛妻家の夫が、妻にだけ自分の特別な秘密を知らせるようなものです。

 アブラハムが偉大な者となったのは、『わたしが彼を選び出した』からでした。神がアブラハムを特別に選んで偉大な国民となるよう祝福された。アブラハムが偉大となった理由は、ただこれだけです。アブラハムが何か優れた者だったというのではありません。もしそうだったとすれば、アブラハムは自分を誇ることができますから、神に栄誉が帰されなくなります。神は御自身にこそ栄誉が帰されるのを望んでおられます(イザヤ48:11)。また、アブラハムが偉大となったのは、アブラハムが神を自ら求めたからでもありませんでした。確かにアブラハムは神を求めましたが、そもそも神を求める思いと精神を生じさせられたのは神だったのです。もしアブラハムが自分自身の力と意志により神を求めていたとすれば、アブラハムは自分の敬虔さを誇れるのですから、神に栄誉が帰されなくなってしまいます。このアブラハムであれモーセであれ誰であれ、選びと召しは、ただただ神の一方的な好意に基づいています。そこに人間の功績は一切ありません。これが聖書の教えていることです。

【18:20~21】
『そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」』
 ここで主が言っておられる通り、ソドムとゴモラはあまりにも酷い状態でした。そこにいる人たちは同性愛にふけっていたのです。この同性愛とは神が最も忌み嫌われる罪の一つです。これは、例えるならば電池の直列接続でプラスとプラスを合わせるようなものです。そのようにしても電流が流れません。つまり男と男が接続されても子どもが生まれません。そのようにするのは不自然かつ危険であって、それは言語道断なのです。電池であれば発熱や発火や破損の恐れがあり、同性愛であれば性病、最近で言えばHIVに感染する恐れがあります。この同性愛という罪は滅びに相応しい罪です。ですから、同性愛にふけっている町や人は滅ぼされても当然です。実際、同性愛に満ちていたソドムとゴモラの町は、これから見ることになるように、神の裁きにより滅ぼされてしまいました。

 主は、実際性を重視されます。主は実際家であられます。ですから、自らの目で物理的にソドムとゴモラの出来事を確認しようと欲されたのです。先に見た創世記11:5の箇所でも、主がバベルでの出来事を実際にその目で確認されるためにやって来られたことについて書かれていました。これは、例えるならば聡明な政治家のようです。その政治家は、ニュースや誰かからある出来事を聞いただけでは良しとせず、その出来事が起きている場所まで出向いて自分の目でそれを確認しようとします。そうすることで、リアルに事柄を把捉することができるのです。そのようにしてその政治家は人々から称賛されるようになるのです。主は、たとえソドムとゴモラを視察しに行かなくても、ソドムとゴモラで行なわれていた出来事を完全に把捉しておられました。何故なら、神とは全知の御方だからです。神は、素粒子一つ一つの動きをさえ完全に把捉しておられます。それにもかかわらず主はソドムとゴモラでの出来事を実際にその目で物理的に確かめようとされたのです。これは、つまり神にとって実際の確認はあまりにも重要であるということを示しています。もし重要でなければ、わざわざ人間の姿を取って天から降りて来られることもなかったでしょう。

【18:22~23】
『その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。』
 3人の人たちはソドムの惨状を確かめようと旅を続けましたが、アブラハムはずっとその傍に付いて行きました。見送りをする最後の最後まで一緒に歩くというのは忠実な僕に相応しいことでした。このアブラハムはソドムへの裁きについて心に思うところがありましたから、次のように主に対して提言しました。

【18:23~25】
『「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」』
 アブラハムには2つの憂慮がありました。一つ目は、もしソドムに50人の正しい人間がいれば、その人たちも悪者どもと一緒に殺されるのか、という憂慮でした。正しい人がただ悪い人と一緒に住んでいるからというので、悪い人たちに巻き込まれて滅ぼされる。これは不条理だと感じられます。ですからアブラハムはそのような不条理が実現されるのかと心配していたのでした。二つ目は、今述べた不条理なことを主が本当に為さるのかという憂慮でした。アブラハムは主が義そのものであられることを知っていました。ですから、主が本当にそのようなことをされる御方なのかと心配していたのです。この提言内容からアブラハムの徳性の高さがよく分かります。私たちもこのアブラハムのようになれるのを望むべきでしょう。

 アブラハムがこのように提言している相手は、決して誤ることのない義なる神でしたから、アブラハムのこの提言は厚かましかったと思われる方もいるかもしれません。これはタイガー・ウッズにゴルフのことで何かの注文を付けるよりも大胆なことです。しかし、聖書は、その内容さえ義に適っていれば、このような提言をしても問題ないと示しています。モーセも神に対して提言をしました。詩篇でも義の感情に基づいた提言が書かれています。エレミヤもそのようにしました(エレミヤ14章)。主は、そのような提言に心を動かされます。しかし、その提言内容が正しくなければもちろん駄目です。その場合は愚かにも厚かましいことをしたと言われねばならないでしょう。何故なら、その人は神に対して愚かなことを提言したのですから。

【18:26】
『主は答えられた。「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」』
 神はアブラハムの言葉をもっともだと思われました。ですから、もし50人の正しい者がいたらソドムを裁かず恩赦するように決められました。というのも、50人の正しい者をその他の悪者どもと一緒に殺すのは、明らかに神の義に適っていないからです。そのようなことをすれば、神は正当に批判される理由を持つことになってしまいます。そのようにして批判されるのであれば、神の栄光が台無しになってしまいます。神にとって御自身の栄光よりも重要なものはありません。ですから、神は御自身の栄光のため、すなわち御自身に正当なる批判の矛先が向けられないため、もし50人の正しい者がソドムにいたらそこを滅ぼさないようにされたのでした。もっとも、ソドムの町には50人も正しい者がいませんでしたから、これから滅ぼされることになってしまうのですが。