【創世記18:27~19:28】(2021/05/09)


【18:27~28】
『アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしや50人の正しい者に5人不足しているかもしれません。その5人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが45人を見つけたら。」』
 アブラハムは恐る恐る45人の場合はどうなのかと主に尋ねています。彼が再び尋ねたのは、45人の正しい者がその他の悪者どもと一緒に滅ぼされるのも、50人の正しい者がその他の悪者どもと一緒に滅ぼされるのと同様、不条理なことだからでした。アブラハムはこのように尋ねる際、勇気を出さねばならなかったはずです。何せ相手は決して誤ることのない神なのです。ですからアブラハムは、『私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。』と前置きを語っています。主は、このアブラハムの質問に対し、50人の場合と同じで、45人の場合でもソドムを滅ぼしはしないとお答えになりました。しかし、ソドムには45人の正しい人がいませんでした。ですから、これからソドムは滅ぼされることになるのです。

 ここでアブラハムは自分を『ちりや灰』と言っています。これはアブラハムが人間の創造について知っていたからです。私たちは人間が塵や灰から創造されたということを、既に創世記2章の箇所で見ました。確かに私たち人間は地面の素材から取って造られました。ですから人間は塵や灰も同然の存在なのです。現代人は、進化論などという悪魔の嘘に騙され、聖書の真理から遠く離れていますから、人間が塵や灰から出来たなどとは思いもしません。ですから、現代人はしばしば僭越にも人間の勝利を宣言して誇り高ぶります。スティーヴン・ホーキングは、科学の発展に恍惚としてしまったので、科学において人間の勝利を宣言しました。啓蒙主義者たちも、高ぶって人間理性の勝利を宣言しました。そのような愚かな高ぶりは消え去れ。もし現代人が聖書の真理を知っていたとすれば、このような勝利宣言は決して行なっていなかったでしょう。むしろ、アブラハムのように遜っていたことでしょう。自分が塵や灰に過ぎないと感じているのに、どうしてそのような勝利宣言をあえて行なえるのでしょうか。

【18:29】
『そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに40人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その40人のために。」』
 続いてアブラハムは40人の場合も尋ねましたが、主は前と同様のことをお答えになりました。アブラハムは「もしかしたら40人ぐらいは正しい者がいるのかもしれない。」と思って幾らかの期待を抱きました。しかし、残念なことにソドムに40人の正しい者はいませんでした。ところで、アブラハムがこのように繰り返して尋ねたのに、主はアブラハムに対して全く憤激しておられません。これは主が、アブラハムを僕であると同時に「友」であるとも見做しておられたからなのでしょう。確かにキリストは御自身の僕たちが『友』であると言われました(ヨハネ15:14~15)。友であったというのであれば、アブラハムのこのような繰り返しに憤らなくても、不思議ではありません。何故なら、友情とは寛容になることだからです。

【18:30】
『また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに30人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが30人を見つけたら。」』
 主は30人の場合でもソドムを滅ぼさないと言われました。しかし残念ながらソドムには30人の正しい者もいませんでした。ところで、ここで言われている『正しい者』とは、ソドムにいながらソドムの悪徳に染まっていない善人のことを指しています。すなわち、ソドムの住民なのに同性愛を憎み、避けているまともな人のことです。これは例えるならば、中世におけるコペルニクスやケプラーです。この2人は、天動説という誤謬が常識中の常識であった当時の世界にあって、地動説という真理の宇宙観に立ち続けていたのです。

【18:31】
『彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに20人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その20人のために。」』
 主は20人の場合でも先と同じように返答なさいました。主にとって、20人の正しい者が滅ぼされないのは、無数の悪者どもが滅ぼし尽くされることよりも大事だったのです。何故なら、たとえ20人であっても正しい者が悪者と一緒に滅ぼされてしまうというのは、理に適っていないからです。ですから主はそのようになるぐらいならば、その20人のゆえにソドムにいた悪者全てを赦すほうが遥かに良いとされたのでした。もっとも、ソドムにはたったの20人さえも正しい者がいなかったのですが。

【18:32】
『彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに10人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その10人のために。」』
 主は10人の場合もソドムを恩赦すると言われました。ユダヤが非常に堕落していた時期には、ユダヤが堕落していたにもかかわらず、そこには正しい人がまだ7000人もいると主は言われました(Ⅰ列王記19:18)。ユダヤが酷い状態にあった時でさえそこには7000人もの正しい人がいたのですから、悪徳に満ちていたソドムにも10人ぐらいは正しい人がいてもよさそうに思えます。しかし、ソドムには10人さえも正しい人がいませんでした。ですから、ソドムは滅ぼされてしまいます。何故なら、10人の正しい人さえ生じさせないほどソドムには邪悪さが満ちていたからです。アブラハムは、もうこれ以上、同じようなことを尋ねることは止めました。というのも、10人の正しい人さえいないようであればソドムは滅ぼされて当然だと感じられたからです。それでは、「9人」だったらどうなのでしょうか。これは10人にたったの一人だけ不足している数ですが、9人の正しい人がいたとしたら、その9人は正しいにもかかわらずソドムの滅びに巻き込まれてしまったのでしょうか。わたしの考えでは9人の場合では「アウト」だったはずです。何故なら、アブラハムは10人の時点で尋ねるのを止めているからです。これは例えるならば、投票において僅差で敗けるのと同じです。投票において僅か1票差で敗けたとしても、敗けは敗けなのですから、敗けた人は悔しいかもしれませんがその1票差のために要職に就けなかったり退場したりしなければいけないのです。つまり、この考え方によれば、9人の場合は恩赦の条件を満たさなかったことになります。

【18:33】
『主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。』
 こうして主はソドムのほうに行かれ、アブラハムは帰宅しました。アブラハムが僕としてソドムのほうまで主に付いて行かなかったのは何故でしょうか。それは、ソドムで主が行なわれる仕事にアブラハムが付随している必要はないからであり、またアブラハムには家で為すべきことがあったからです。もしアブラハムがソドムにまで主に付いて行ったとすれば、それは過剰奉仕になっていたでしょう。何にでも適切さがあるものです。

【19:1】
『そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。』
 ここで御使いが『ふたり』と言われているのは一体どういうわけなのでしょうか。アブラハムに現われた御使いは『ふたり』だけではなく『3人』(創世記18章2節)だったはずです。もう一人の人は誰だったのでしょうか。またその一人は『ふたり』から離れてどこへ行ったのでしょうか。まず、この『ふたりの御使い』は、純粋な御使いだったはずです。それは19章で彼らが語っている発言内容を見れば分かります。この『ふたりの御使い』は創世記19:13の箇所で『主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされた』と言っていますから、明らかに御使いそのものです。もう一人の人は、純粋な御使いではなく、御使いの姿を持たれた主だったはずです。主は2人の御使いから離れて、天の場所に戻られたと思われます。それは天からソドムに裁きの火を降り注ぐためです。つまり、主は2人の御使いにソドムの視察を委ね、御自身は裁きの座に着くことにしたわけです。というのも主は裁き主として天の場所に座しておられるのが相応しかったからです。

『ロトはソドムの門のところにすわっていた。』
 ロトが『ソドムの門のところにすわっていた』のは、ロトが裁判者としての役割を持っていたからです。今ではあり得ないことですが、古代では門で裁判が行なわれていました。実際、ソドムの人たちはロトが『さばきつかさのよう』(創世記19章9節)であったと言っています。これはロトが裁いていたことを示しています。恐らくソドムの人たちはロトに裁判者としての職務を任せたのでしょう。ソドムの人たちはどうしようもない悪徳人間でした。一方、ロトは義人です。ですからソドムの人たちがロトに裁きを委ねたとしても不思議ではありません。私たちも何かの問題が生じた際、よりしっかりとした人に問題の解決を任せようとするはずです。ソドム人たちがロトを裁判者にしたのは、それと同じことです。

【19:1~2】
『ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」』
 ロトは、アブラハムと同様、聖なる客人たちをもてなそうとしています。ロトがほとんどアブラハムと同様のもてなし方をしているのは、血がその理由だと思われます。ロトはアブラハムの甥ですから、アブラハムと同じように、テラとその妻の血を持っています。血が一緒であれば似ることになるのは必然です。

 ロトがしたような旅人へのもてなしは、非常に大事なことです。先にも創世記18:2~5の註解で引用しましたが、ヘブル書13:2の箇所で言及されているのは、アブラハムだけでなくロトのことでもあるからです。その箇所の御言葉をもう一度引用したいと思います。こう書かれています。『旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。』

【19:2】
『すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」』
 2人の客人たちは、ロトのもてなしを受けようとはしませんでした。むしろ、ソドムの広場で一夜を過ごそうとしました。これは、ソドムが本当に同性愛者の町であるか確かめるという主から与えられた任務をしっかりと遂行するためです。もし御使いたちが広場に泊まるのであれば、広場とは多くの人が集まる場所ですから、ソドム人たちは御使いたちの姿をその目で見るはずです。もしソドム人たちが本当にどうしようもない同性愛者だったとすれば、夜にやって来て、広場にいる御使いたちと男色をしようとするはずです。というのも、人間の姿を持ってやって来た御使いたちは外見上は男であって(創世記19:5)、決して醜くなかったことは確かだからです。もっとも、同性愛者たちはたとえ醜くとも男色をしようとするものであって、中には醜いほうが良いと感じる者もいるのですが。そうすれば、すぐにもソドム人たちが男色家どもだったということを確かめられるわけです。もし御使いたちがロトの家に泊まってしまえば、このようにして確かめるのは難しくなるでしょう。ですから御使いたちはロトの勧めを受けようとしなかったのでした。もちろん、御使いたちとしては、ロトのもてなしを出来れば受けたいと思っていたに違いありませんが。

【19:3】
『しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。』
 しかしながら、ロトがどうしてもと勧めたので、御使いたちはロトのもてなしを受けることにしました。この御使いたちもそうですが、聖なる存在は、罪に関わることにでもならない限り、寛大な性質を持っています。キリストも、このロトのように人々から勧められた時、その勧めによく従われました。というのも聖なる存在は、罪を犯す危険性がないのであれば、愛の精神で大いに応対するものだからです。もしロトの勧めが罪を犯す危険性を持っていたとすれば、御使いたちは決してその勧めに従っていなかったでしょう。

 この時に御使いたちがした食事は、実際的な食事でした。アブラハムが御使いたちをもてなした時と同じです(創世記18:8)。つまり、ここでは象徴的な意味として『食事をした。』と書かれているのではありません。この時の食事がどのようであったかはよく分かりません。ロトが『パン種を入れないパン』を出したのは確かです。しかし『ごちそう』というのが、どのような料理であったかは全く不明です。

【19:4~5】
『彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」』
 秘事は昔から夜に行なわれるものです。これからもそうでしょう。何故なら、朝や昼には為すべき仕事があり、秘事と夜にはある種の共通性があるからです。ソドムの町も例外ではありませんでした。ソドム人たちは、ロトの家に泊まった2人の人たちと男色しようとして、夜、ロトの家に集まって来ました。ソドム人たちは2人の人たちが気になって仕方なかったのでしょう。男なのに男を求めるとは不自然も甚だしいと言わねばなりません。状況はこのようになりましたから、御使いたちは広場に泊まらなくても、結局は望んだ結果を得られたことになります。つまり、ソドム人たちが同性愛者であることを確認できるという結果です。ソドム人たちには、2人の人たちがロトの家に隠されていたとしても、全く問題ありませんでした。ロトの家から2人の人を連れ出せばよいと考えたからです。彼らは自分たちの気になる男がいたとすれば、たとえ地獄にでもその男を求めて行っていたことでしょう。

 ここで次のような疑問を持つ方がいるかもしれません。「ソドムの人たちは本当に男色を目的としてロトの家に集まったのか。この箇所では『彼らをよく知りたい』と書かれている。これは単に情報として2人の人を知りたいというだけのことではないのか。」ソドム人たちが男色目当てにあの2人を求めて来たのは間違いありません。何故なら、聖書において「知る」という言葉は、秘事を意味しているからです。マリアもまだ処女だった頃、自分が秘事を経験していないことについて、こう言っています。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』(ルカ1章34節)また使徒も、この『知りたい』という言葉が男色のことであると、私たちに示しています。使徒ユダはソドム人たちが『不自然な肉欲を追い求めた』(ユダ7節)と言っています。ペテロもロトが『無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた』(Ⅱペテロ2章7節)と言っています。これらの言葉から、明らかにソドム人は同性愛を求めてロトの家にやって来たことが分かります。使徒たちは聖書の正しい解釈者です。ですから、使徒の言葉から考えるならば、この『知りたい』という言葉は男色のこと以外には理解できません。またロトが3節後の箇所で、自分の娘たちが『まだ男を知らない』と言っていることも考えるべきでしょう。ロトがこのように娘たちについて言ったのは、男色をしようとしている人たちを相手にしていたからです。つまり、ロトはこう言いたかったのです。「あなたがたソドム人はあの2人の人と男色をしようとしているが、私の娘たちはまだ秘事を知らないから、あの2人の人の代わりに私の娘たちと秘事を行ないなさい。そうすれば、あなたがたも満足するでしょうから。」この3節後の箇所については、また後ほど見ることになります。もしこの『知りたい』という言葉が単に情報として知りたいという意味に過ぎなければ、ソドム人たちはそれほど邪悪でなかったことになります。何故なら、情報として知るというのであれば、悪いことではないからです。使徒のように敬虔な人たちでさえ誰かのことを情報として知りたいと思うのです。もし『知りたい』がそのような意味だったとすれば、「どうして神はソドムを滅ぼされたのか?」という疑問が出てきます。ソドム人が単に2人を情報として知ろうとしたに過ぎなければ、それが滅ぼされる理由とはなり得なかっただろうからです。その場合、ソドムは不自然な肉欲のため滅ぼされたという聖書の教えと矛盾してしまう上、全く訳が分からなくなってしまいます。ですから『知りたい』というソドム人たちの言葉は聖書的な意味において捉えなければなりません。なお、聖書で「知る」と書かれていた場合、その全てが秘事を意味しているのではないという点に注意する必要があります。本当に情報として単に知るという意味で、またそれ以外の意味で「知る」と言われている箇所もあります。

 ここではソドムにいた『すべての人が』ロトの家に集まって来たと言われています。『すべて』とは「例外なくあらゆる人」という意味です。つまり、ソドム人の中にはまったく正しい者がいませんでした。先に見た主とアブラハムのやり取りでは、10人の正しい人さえいなければソドムは滅ぼされるということが示されていました。ソドムには10人さえ正しい人がいなかったのですから、これから滅ぼされてしまいます。しかし、ここで次のような疑問を持つ方もいるかもしれません。「ソドムにはロトという正しい人がいたではないか。神はこのロトのゆえにソドムを恩赦すべきではなかったのか。」ロトは確かに正しい人でしたが、彼は寄留者であって、ソドム人ではありません。ですからロトの存在は、ソドムが滅ぼされないことの理由とはなり得ませんでした。

【19:6~8】
『ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでくだい。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」』
 ロトは、2人の客人たちの代わりに2人の娘たちを差し出そうとしました。ソドム人たちの求めているのは秘事でした。ですから処女である娘たちを与えて秘事にふけらせれば、彼らの欲望も満たされると考えたわけです。この時にロトが『うしろの戸をしめた』のは、もちろん家の中にいた客人たちを守るためです。ロトには客人たちを何とか守りたいという思いがありました。

 ロトがこのように娘を差し出そうとしたのは、正しい判断でした。ロトの家に泊まっていた客人はただの客人ではなく、御使いだったのですから、尚のことそのように言えます。ロトは知らず知らずのうちに御使いを守っていたのです。もしロトが客人よりも娘の安全を優先させ、客人をソドム人に渡していたらどうだったでしょうか。考えるだけでも恐ろしいことです。ロトは御使いたちを同性愛者に与えたことになるからです。しかし、ロトが娘たちに人道を無視した取り扱いをしたので、やがてロトも娘たちから人道を無視した取り扱いをされることになります。人は自分のした通りに誰かからもされるのです。そのことについては、また後ほど見ることになります。

 先にも述べましたが、ロトがここで娘たちを『まだ男を知らない』と言っているのは、少なからぬ重要性があります。ロトがこう言ったのは、男色をしに来た同性愛者たちを相手にしているという文脈においてでなければ理解できません。もしソドム人たちが情報として知るために2人の客人を引き出せと言ったのであれば、ロトが娘たちの処女について言及したのは、非常に不自然だからです。もし情報としてソドム人たちが2人の客人を知りに来たのであれば、ロトは娘たちが処女であるなどと言う必要はなかったでしょう。しかし、ロトは娘が処女であると言っています。これは間違いなく秘事を求めて来たソドム人たちにロトが応対しているからに他なりません。

【19:9】
『しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。』
 高ぶった者は指図されるのを嫌います。何故なら、指図されると自分が下に引き下げられているようだからです。高慢な精神にはこれが耐えられません。ですから高慢な精神の人は、指図する人を憎み、往々にして反発します。不良がこれの良い例です。ソドム人たちもそうでした。ここに書かれているソドム人の振る舞いには、彼らの醜い粗暴さがよく表われています。この箇所からも察することが出来るように、彼らは、高慢そのもの、腐ったゴミくず、気色の悪い蛆虫でした。ですから間もなく滅びの火で焼き尽くされることになるのです。

【19:10~11】
『すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。』
 御使いたちは、ロトの危険を見て、助けの手を差し伸べました。というのもロトは何も悪いことをしておらず助けられるべきだったからです。この御使いたちはソドム人たちに『目つぶし』を与えましたが、これは何を言っているのでしょうか。これは恐らく何かの物理的な衝撃か、御使いたちが目にも止まらぬ速さで繰り出した突きの攻撃だったと思われます。御使いがこのようにしてソドム人の目を傷めつけたのには、2つの理由がありました。一つ目は彼らが持つ男色の目を罰するためであり、二つ目はロトに安全と安心を与えるためです。

【19:12~13】
『ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」』
 ここで客人たちは、ロトに自分たちのことを明らかにします。もうこの時には明らかにしてもよい時が来たからです。この御使いたちは、ソドムの神罰にロトの親族が巻き込まれないようにせよ、と命じています。これは神が契約の神だからです。すなわち、神は契約的に物事を取り扱われるので、正しい人に属している人も助けられるべき存在とされるのです。このようにして神は大洪水の際、ノアだけでなくノアの妻およびノアの息子たち夫婦をもノアと一緒に救われたのでした。

 ところで、ここで『彼らに対する叫び』と言われているのは何のことでしょうか。先に見た創世記18:21の箇所でも『わたしに届いた叫び』と言われていました。これは2つのことが考えられます。一つ目は「サタンの訴え」です。黙示録12:10の箇所で書かれている通り、サタンとは聖徒たちを訴えている者です。ヨブ記1章・2章では、サタンが聖徒ヨブを観察しましたが、全く訴えるべき点が見当たらなかったことについて示されています。サタンは聖徒だけでなく聖徒でない人たちも神に訴えていると考えられます。ソドム人たちもそうだったでしょう。その神に対する訴えがここでは『彼らに対する叫び』と言われているのかもしれません。というのもサタンは訴える時、大いに叫んで訴えていたでしょうから。誰でも人の悪徳を訴える際には堂々と叫びつつ訴えるものです。「あいつはあんなことをした!とんでもないことだ!」などと。二つ目は「ソドム人に痛めつけられたり殺されたりしたソドム人たちの叫び」です。ソドム人から痛めつけられたソドム人は、天に向かってその理不尽さを叫んでいたと考えることができます。「おお、天よ。私の同胞であるソドム人は私にこんな酷い仕打ちをした!どうか天からの罰が彼らに下されんことを!」などと。またソドム人に殺されたソドム人の血は、アベルの血がそうだったように、地から神に向かって復讐を叫んでいたはずです(創世記4:10)。そのソドム人に対する復讐を求める叫びがここでは『彼らに対する叫び』と言われているのかもしれません。私としては、この2つのどちらも間違っているとは思えません。各人はおのおの自分の好きなほうの解釈をすればよいでしょう。

【19:14】
『そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。』
 ロトは客人たちの言ったことを信じて疑いませんでした。「この人たちは何を言っているのだろうか。」などとは思いませんでした。というのもロトは最初からこの客人たちが並々ならぬ存在であると認識していたからです。ですからロトは、御使いの命令に従い、自分の婿たちをソドムの破滅から救い出そうとしました。婿たちもロトに属していたので助けられるという恵みを受けることが出来たのです。もし婿たちがロトに属していなければ、このように救われる機会は決して与えられていなかったでしょう。その場合、婿たちはロトと何の関係もなかったからです。

 ロトの言ったことを聞いた婿たちには、それが信じられませんでした。何故なら、婿たちは同性愛の邪悪性を理解していなかったからです。だからこそ、同性愛の町が滅ぼされることの当然性を悟り得なかったわけです。罪を罪だと思っていなければ裁きがどうして下されるのか分からなくて当然です。もし婿たちが同性愛の邪悪さを知っていれば、ロトの言ったことを信じていたでしょう。

【19:15~16】
『夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。―主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。』
 御使いたちは、ロトが家族を連れてソドムから逃げるようにと命じています。そのようにしなければロトはソドム人と一緒に滅んでしまうからです。しかし、どうしてかロトはソドムから離れるのを躊躇していました。これは一体どうしたことでしょうか。何がロトを躊躇させたのでしょうか。一つの可能性として考えられるのは、ロトがソドムの地における豊穣さを愛好していたということです。ロトがソドムの地方を選んだのは、既に見た通り、そこが豊穣であり魅力的だったからです(創世記13:10~11)。つまり、ロトは現世的な利益という欲望に心奪われてソドムから離れることを躊躇ったのです。経験からも言えるように、魅力的な幸いをせっかく手に入れたのにそれを手放さなければいけなくなるのは残念なことです。ですから、ロトの躊躇の理由がこうであったとしたら、私たちにもその気持ちは分からないではありません。誰でもロトのように躊躇ってしまった経験があるはずですから。しかし、ロトがそのように躊躇したのは、弱さに基づく愚かな過ちだったと言わねばなりません。しかし、身体が老いていたので逃げ切れるか分からず困惑したという可能性もあります。または逃げた際にソドム人から追いかけられて酷い目に遭わされることを恐れたという可能性もあります。これら以外の理由があった可能性もあります。いずれにせよ、聖書にロトが躊躇した理由は何も書かれていませんから、本当のところはどうだったのか私たちには分かりません。

 このように脱出を躊躇っていたロトを、御使いたちは強制的に脱出させることにしました。それは主の憐れみによりました。このようにしてソドムから離されるのはロトにとって幸いでした。何故なら、もしそのままソドムにいたら悪者どもと一緒に死んでいたのですから。

 この時に御使いたちは、ロトとその妻子は助けましたが、婿たちは助けませんでした。後の箇所を読んでも、御使いが婿たちをソドムから連れ出したことは否定されます。つまり、ロトの婿たちは邪悪なソドム人と一緒に滅ぼされてしまったことになります。それは婿たちが、御使いから聞いたことを告げたロトの言葉を信じなかったからです(創世記19:14)。主にとって不信仰の罪とは誠に許し難い罪です。ですから主は、不信仰の徒にまで憐れみをお与えになることはなさいません。不信仰者にはただただ不幸があるのみ。これが聖書の教えていることです。キリストも『信じない者は罪に定められます。』(マルコ16章16節)と言われました。すなわち、信じなければ救われないで滅びるのです。

【19:17】
『彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」』
 映画の最終章でも観ているかのようです。状況が状況でした。これは原爆が落とされる数時間前の長崎また広島のようです。つまり、緊急事態そのものだったのです。ですから御使いたちは『いのちがけで逃げなさい。』とロトに命じています。もし全力で逃げなければロトはソドムの破滅に巻き込まれてしまうからです。原爆投下の数時間前に長崎また広島にいた人が、「これから原爆が落とされるから早く遠くの町に逃げなさい。」などと言われたと考えて下さい。そうすれば、この時の状況がどれだけ切迫していたかがよく分かるはずです。ここで御使いたちが逃げる場所として指定している『山』とは、恐らくセイル山だと思われます。何故なら、後の箇所ではロトが『ツォアル』に逃げたと書かれているからです。このツォアルという町のほうにあったのがセイル山でした。このセイル山はソドムの南のほうにありますから、ロトは南に向かって逃げていたことが分かります。

【19:18~20】
『ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが近づいて、たぶん私は死ぬでしょう。ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」』
 ロトは山に逃れるのは困難だと感じましたから、山ではなく、山よりも近い場所にあった小さい町に逃げさせてくれと願っています。地図を見ると、その町であれば確かに容易に逃げられる場所にあることが分かります。しかし、山のほうはかなり遠い場所にありました。ですから、ロトがこのように願ったのは緊急の必要性から出た願いだったことが分かります。すなわち、この願いはロトのわがままから出た願いではありませんでした。ちょうど高校に通っている人気芸能人が、徒歩や自転車だと注目されて通学しにくいので、特別的に車で通学できるよう校長に願うのと一緒です。

【19:21~22】
『その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。』
 主は、ロトの願いを聞いて下さいました。というのもロトの願ったことはもっともだったからです。こうしてロトはそこなら逃げられると感じた小さな町へ逃れることになります。

 ロトが逃げさせてくれと頼んだ小さい町は後にツォアルと呼ばれることになる町ですが、その町は死海の南端に接した場所に位置しています。そこにロトは逃げたのです。つまり、ソドムとゴモラの町々は今現在死海のある場所に存在していたことになります。裁きが下される以前、ソドムのあった死海の場所は海ではなかったのですが、裁きの火が注がれたので死海がそこに出来上がったというわけです。だからこそ、死海という特別極まりない性質を持った海は、地球上であそこにしかないのです。何故なら、ソドムとゴモラは後世への見せしめのため、あのような死海と化したからです。ソドムとゴモラが裁かれて見せしめにされたということについてはユダ7の箇所で書かれている通りです。確かに、死海が裁かれて滅んだソドムの亡骸だというのは、非常に納得がいきます。何故なら、あのように奇異に感じられる海は世界中であそこにしかないからです。このようにロトがツォアルにまで逃げたからこそ、死海の最南端はツォアルの場所までとなりました。神は、ロトが逃げた場所のギリギリまでソドムとゴモラのあった地を滅ぼされたのです。地図を確認できる方は確認してみて下さい。それゆえ、もしロトがツォアルよりも更に南のほうまで逃げていたとすれば、死海は今私たちが知っている大きさよりも南にもっと長かったことでしょう。

 ロトが逃げ込んだこの町は後に『ツォアル』と呼ばれることになりますが、これはヘブル語の「小さい」という言葉に基づいています。

【19:23】
『太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。』
 ロトがソドムから連れ出されたのは『夜が明けるころ』(創世記19章15節)でした。そしてロトがツォアルに着いたのは『太陽が地上に上ったころ』ですから、ロトは数時間かけてツォアルにまで逃げたことになります。具体的には3時間ぐらいであったと推測されます。ロトが3時間の間、平均時速8kmで走っていたとします。この場合、ツォアルはソドムから24km離れていたことになります。確かに、そのぐらいの距離であれば、もっと遠くにある山に比べると、十分に辿り着けそうに思えたのも頷けます。このようにしてロトは破滅から救われ、ソドムの地は遂に滅ぼされることになったのです。

 この箇所からも分かる通り、どうやらソドム人たちはロトの後を追いかけて来なかったようです。もし追いかけていたら聖書はそのことについて記していたでしょう。恐らく、ロトは御使いたちによりソドムの郊外に瞬間移動させられたのかもしれません(創世記19:16)。ですからソドム人はロトがソドムの外に出ていたことに気付かなかったわけです。そうでなければ、ロトが郊外にまで走って出て行ったことをソドム人が知らなかったということなのでしょう。つまり、ロトがまさか郊外にいるとは思わなかったので、ソドムの町中を捜し回っていたと。いずれにせよ、ロトがソドム人から追跡されなかったのは神の恵みでした。

【19:24~26】
『そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。』
 ロトがツォアルに着くと、主から注がれた裁きの火がソドムのあった一帯を焼き滅ぼしてしまいました。こうしてソドムの地は火の海と化しました。この時には、ソドムの地が塩の塊で満ちたはずです。そして月日の経過と共に、塩が液体化し、今知られているような死海になったということなのでしょう。それ以降、死海はヨルダン川から注がれる塩水により、ずっと昔のままに塩分濃度が保たれているというわけです。このため死海の塩分濃度は異常に高くなっているのです。この死海の面積は非常に広大です。そこにソドムとゴモラの町々が建っていました。主は、その地域一帯をことごとく焼き滅ぼしてしまわれました。その時、主は全く容赦されませんでした。死海の大きさがそれを示しています。これは主がソドムにおける邪悪さをどれだけ憎悪していたかということを私たちに分からせてくれます。

 ある古代の文書では、ソドムが滅んだのは激しい雷によったと言われています。これは、ソドムが滅亡したと考えている点では間違っていません。しかし、その滅亡が雷によると考えている点では間違っています。何故なら、それは聖書の教えと違うからです。私たちは、聖書に書かれている通り、ソドムは天から降り注がれた『硫黄の火』により滅んだと考えねばなりません。もしソドムの一帯が雷により滅んだとすれば、あそこが死海と化したのは説明できなくなります。神の裁きはソドム一帯の地面を焼け溶かすほどだったのです。雷が落ちたぐらいであれば、たとえそれがどれだけ激しかったとしても、地面が溶けるほどのところまではいかないはずです。また、ふと次のような思いが浮かぶ方もいるかもしれません。「ソドムのあった地域の古代文明は非常に発展していた。それは核兵器を製造できるほどの文明であった。ソドムはその核兵器により自滅してしまったのであろう。」これは単なる思い付きであって、聖書の教えと合致していませんから、検討するまでもなく退けられねばならない空想です。

 ロトの妻はと言えば、この時に『振り返った』のですが、これは御使いの命令に対する違反でした(創世記19:17)。ですからロトの妻は裁かれてしまうことになります。『塩の柱になってしまった』のです。彼女が後ろ、すなわちソドムの町を振り返ったのは、彼女がソドムの魅力に多かれ少なかれ未練を持っていたことを示しています。「ああ、あの町から離れることになるなんて残念なこと…」という精神が彼女にはあったのです。ですから彼女の運命はソドムと一緒になってしまったのでした。このように離れ去った悪や過去のステージに愛着を抱いて離愁家になるのは、己に悲惨を招くことです。荒野にいたユダヤ人たちも既に離れ去ったエジプトとその生活を恋焦がれましたから、裁かれて40年も荒野を放浪する羽目になりました。人はその愛するものと運命を一緒にするものなのです。私たちは、このロトの妻を教訓とし、彼女のようにならないよう注意せねばなりません。ところで、福音書のある箇所では、キリストが彼女に起こったこの出来事に基づいて弟子たちを教えておられます。その箇所とはルカ17:28~37です。

【19:27~28】
『翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。』
 アブラハムは、前に主とやり取りとした場所に再び戻りましたが、そこでソドムの地域が悲惨になっているのを見ました。こうしてアブラハムはソドムには少しも正しい者がいなかったことを知ったのです。もし正しい者が少しでもいればソドムの悲惨を見てはいなかったでしょうから。このようにして神はアブラハムにソドムの末路を確認させられました。アブラハムはこの時、ソドムの破滅を確認したと同時に、ロトの安否についても心配したものと思われます。何故なら、アブラハムはロトがソドムの方面に行ったことを知っていたからです(創世記13:5~12)。この時のアブラハムは、心の中で色々なことを思い、非常に動揺させられていたのではないかと推測されます。