【創世記19:29~21:21】(2021/05/16)


【19:29】
『こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。』
 神はソドムの地域を滅ぼされた時にも『アブラハムを覚えておられ』ましたが、これはアブラハムから恵みを取り去っていなかったという意味です。聖書において神が覚えられるというのは、神の恵みのことだからです。このアブラハムのゆえに、神は『ロトをその破壊の中からのがれさせ』て下さいました。何故なら、ロトはアブラハムの親族だったからです。私たちは、誰か愛する者がいた場合、その人の家族や親戚にさえ多かれ少なかれ好意を抱くはずです。神がロトをアブラハムのゆえに助けられたのも、それと同じことでした。

【19:30】
『その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。』
 ロトはツォアルにしばらく住んでから、恐れのために山に移り住みました。その『山』とはセイル山のことでしょう。ロトがどうして『ツォアルに住むのを恐れた』かは、何も書かれていないのでよく分かりません。恐らく、ツォアル人からの非難を恐れたのかもしれません。すなわち、次のように言われるのを恐れたのです。「おい、お前はどうして自分たちだけでソドムから逃げて来たのか。ソドムにいた人々を一緒に逃げさせてやろうとはしなかったのか。まさか自分たちだけが助かればよいと考えたとでもいうのか。どうなんだ。」このツォアルは、本来であればソドムと一緒に滅ぼされていた町です。ツォアルは、ただロトがそこに逃げさせてくれと願ったので滅びを免れただけに過ぎません(創世記19:20~22)。ですから本来的には滅ぼされる対象であったツォアルは、ソドムと同様に罪深かった可能性が非常に高い。ロトのいたツォアルがそのような町だったとすれば、ロトがそこに居続けられなかったとしても不思議ではありません。このようにしてロトはツォアルから出ましたが、結局のところ、御使いの言った通りに山へと行くことになってしまいました(創世記19:17)。御使いは最初からロトが山に行くべきであることを知っていたのです。しかしロトは目先のことしか見えていませんでしたから山へ行こうとしなかったのです。ロトが少し大変でも最初から御使いの言ったように山へ逃げていたとすれば、このようにしてわざわざツォアルから山へと移り住む手間を取ることもなかったでしょう。この時に山へ移り住んだのはロトとその2人の娘たちだけでした。ロトの妻はソドムを振り返ったので塩になって死んでしまいました。ロトの婿たちは不信仰のためソドムの破滅に巻き込まれてしまいました。ツォアル人でロトたちと一緒に山へ行った者もいませんでした。これから3人だけの共同生活が始まるのです。

【19:31~33】
『そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。』
 3人が山に住んでしばらくすると、姉が子ども欲しさのために、父により子どもを残そうと企みました。酒を飲ませ酔わせれば大丈夫だと考えたのです。酒に酔うと酔っている時の私たちの記憶は失われてしまいます。姉はそれを悪用しようとしたわけです。最近でも酒で酔わせて犯罪行為をする輩のニュースがしばしば流れますが、それは男が女に対してする悪行であって、女しかも娘である女が父にそのような悪行をしたというニュースは今までに聞かれたことがありません。つまり、これは前代未聞の悪事だったのです。姉が言っている通り、確かに山にいれば男女の出会いなどはなかったでしょう。というのも山にまで来る男などいなかったからです。この姉は、自分たちの今いる山が人生における最終ステージだとでも思っていたのでしょうか。すなわち、これからその山を出ることになる日が来るとは考えなかったのでしょうか。または子ども欲しさに精神が翻弄され、目先のことしか見えなくなってしまったのでしょうか。つまり、欲望により未来のことを考えることが出来なくなってしまったのでしょうか。いずれにせよ、この姉がしようとしたことは愚かの極みだったと言わねばなりません。聖書においてこのような行ないは罪に定められています。しかも、それは死罪として定められています。

【19:34~35】
『その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。』
 次の夜は、妹が愚かなことをしました。昨夜したことについてロトが記憶していなかったのを娘たちが知ったからです。妹の場合も、やはりロトの泥酔のため、ロトが記憶していることはありませんでした。酒の力とは実に大きいものです。

 ロトが娘たちからこのようなことをされたのは、究極的に言えば、ロト自身が原因です。ロトは以前、この2人の娘たちを物でもあるかのように取り扱いました(創世記19:8)。その時に娘たちの人権は完全に無視されました。今度はロトが娘たちから物であるかのように取り扱われることになったのです。この時にロトの人権は完全に無視されています。もしロトがかつて娘たちをあのように取り扱っていなければ、ロトもこのようにされることはなかったでしょう。このように人は自分がした通りに人からもされます。それは聖書でこう書かれている通りです。『あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。』(オバデヤ15節)アドニ・ベゼクという王は、かつて王たちの親指を切り取ったので、自分も親指を切り取られることになりました(士師記1:5~7)。ペテロもキリストを3度否んだので、キリストから3度も『あなたはわたしを愛しますか。』(ヨハネ21章17節)と言われることになり、心を痛めました(ヨハネ21:17)。エジプト人たちもユダヤ人から大いに搾取したので、最終的にユダヤ人から剥ぎ取られることになりました(出エジプト記12:35~36)。カエサルを暗殺した数十人の暗殺者たちも、歴史が示している通り、暗殺から数年も経たないうちにそのほとんどの人が殺されて死にました。それゆえ、もし私たちが人に何か良いことをされたければ、まず自分から良いことをすべきです。そうすれば自分にも良いことがされるようになります。もし私たちが人に悪いことをすれば、やがて自分にも悪いことがされるようになります。ですから人に悪いことをするのは、結局のところ自分に悪いことをしているのも同然です。このような理由からキリストは次のように言われたのです。『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』(マタイ7章12節)

【19:36】
『こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。』
 この出来事は、聖書の中で最も目を背けたくなる出来事の一つです。何故なら、この出来事はあまりにも異常だからです。世俗の著作家たちも、このような出来事が聖書に書かれていることを驚いています。驚くのは無理もありません。このような出来事が書かれている書物は聖書以外に全くと言っていいほど見られないからです。あのサドも、流石にここまでの話を書くことは出来ませんでした。彼は近親相姦についてはよく書きましたが、近親相姦により子どもが生まれるという出来事にまでは話を進めませんでした。サドほどの想像力の持ち主でも、ロトに起きたような出来事を思い浮かべることは出来ませんでした。これは正に「事実は小説よりも奇なり」です。しかし、このような出来事が書かれるのは、聖書の目的に適っています。というのも聖書の目的の一つは、真理・真実をありのままに告げることだからです。また、このような出来事があからさまに書かれるのは、聖書が神により書かれたことを証明しています。歴史を書く際には、自分たちにとって不利となる出来事をなるべく記そうとはしたくないものです。それは耐え難いことですから。私たちは韓国人たちが自国の歴史を大いに捏造しているのを知っていますが、それは韓国人にとって過去の歴史は直視し難いほど酷い有り様だったからです。もし韓国人が歴史の教科書などで全てありのままに歴史を記していたとすれば、多くの韓国人が発狂していたでしょう。韓国の大学によれば、日本の歴史教育でも10%は真実が語られていないということです。確かに、いったい誰が自分たちの尊厳を傷つけるようなおぞましい歴史を積極的に記したいと思うでしょうか。しかし、聖書にはこのロトの件をはじめ、それがユダヤ人によって書かれたにもかかわらず、ユダヤ人にとって不利となるようなおぞましい出来事がこれでもかと言わんばかりに書かれています。もし聖書がユダヤ人という人間に書かれた文書に過ぎなかったとすれば、つまりそれが神に動かされた人たちにより書かれた文書でなかったとすれば、ここまでユダヤ人にとって屈辱となるような出来事が聖書に記されていることはなかったはずです。

 ロトの娘たちがこのような愚行に走ったのは、待ち切れない忍耐の無さが原因です。このように忍耐の無さは人を悪徳へと導いてしまいます。すなわち、忍耐できるほどの強さがないからこそ、忍耐できないで悪に打ち負けてしまうわけです。もし忍耐できる力があれば、ずっと忍耐できていたはずですから、悪に陥ることもないのです。このように弱さと悪徳には大きな関連性があります。忍耐において強い人は悪に対しても強く、忍耐において弱い人は悪に対しても弱いというわけです。

【19:37~38】
『姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。』
 ロトの娘たちはそれぞれ1回だけで子を生むことになりました。つまり、行為をした時は生理後ではなかったということです。もし生理後であれば1回だけでは身籠っていなかったでしょうから。神の摂理が、調度良く受精するように全てを仕組んでいたのです。そして、姉のほうは『モアブ人の先祖である』モアブを生み、妹のほうは『アモン人の先祖である』ベン・アミを生みましたが、これら2つの民族はどちらも呪われた民族です。これは、呪われた行為には呪われた民族が与えられるということの良い例です。

【20:1】
『アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。』
 ここから再びアブラハムを主軸とした話に戻ります。聖書ではこれ以降、ロトを主軸とした話は出て来なくなります。ただし、ロトについての言及であれば、新約聖書において幾らか書かれています。

【20:1~2】
『ゲラルに滞在中、アブラハムは自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。』
 既に見たように、以前アブラハムの妻サラは危うくエジプト王パロに妻として娶られるところでした(創世記12:10~20)。今度はゲラルという場所で同じことが起こりました。またもやアブラハムは王に対してサラのことを『これは私の妹です。』と言ってしまったのです。ですからゲラル王アビメレクはサラを自分の妻として召し入れたのです。このアビメレクもそうですが、古代の王において一夫多妻は珍しくありませんでした。このように、この世界では同じことがしばしば短い間に繰り返して起こります。最近でも世界大戦および原爆投下が2度起こりました。それは万物の支配者であられる神がこの世界において事を繰り返し為されるからなのです。伝道者の書3:14~15の箇所で言われている通りです。

 このようにアビレメレクがサラを妻として召し入れたのは、もちろんサラが美しかったからに他なりません。先に見たエジプト王パロの場合でも同様の理由からサラが召し入れられました。この時のサラはもう既に90歳になっています。90歳という高齢になっていたのに、サラは結婚したいと思わせるほどにまだ美貌を保っていたのでしょうか。それとも単にアビメレクは高齢の女性を愛好する王だったということなのでしょうか。アビメレクが高齢の女性を求める王だったというのは考えにくいと思えます。となればサラが召し入れたのはサラの美貌がその理由だったことになります。私たちはこう考えるべきです。すなわち、サラとは絶世の美人であって、その美貌は90歳になってもまだまだ衰えないほどであったということです。こうでなかったとすればアビメレクがサラを求めた理由は説明できないでしょう。カルヴァンもこのように理解していました。またアブラハムの時代は、寿命が今現在と同等の段階にまで下がってからまだ僅かしか経過していなかったということも考えられるべきでしょう。そのように時代には、サラのように高齢になってもまだまだ美を保っている女性が存在していたのです。とはいっても、当時の女性が全てサラのようであったかどうかということまではよく分からないのではありますが。

【20:3】
『ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」』
 神はサラを召し入れたアビメレクの夢に現われ、サラのために死なねばならないと宣告されました。神の御前において他人の妻を奪い取ることは死罪です。ですから神はアビメレクが死なねばならないと言われたのでした。もっとも、これはアビメレクを救うためにされた単なる威嚇に過ぎませんでした。後に続く箇所を見れば分かる通りです。神はこのようにして人の決定と歩みを意のままに動かされます。そうするのが神のやり方なのです。これは特に王について言えることです。何故なら、王とは神の御計画と大きな関わりを持っている存在だからです。このことについてソロモン王はこう言っています。『王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。』(箴言21章1節)

【20:4~5】
『アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」』
 死の宣告を神から夢の中で受けたアビメレクは、神に対して弁明をしています。ここで言われているアビメレクの弁明には嘘も誇張も全くありません。彼のこの弁明は正しい弁明でした。

【20:6~7】
『神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」』
 神はアビメレクの弁明を聞かれ、もしサラをアブラハムに返すのであれば死ぬことはない、と言われました。神は最初からこのようにしてアビメレクを救おうとしておられたのです。何故なら、アビメレクは知らず知らずのうちにしてはならないことをしていたに過ぎないからです。ですから神はアビメレクに情けをかけて下さったのでした。しかし、もしアビメレクがサラをアブラハムに返さなければアビメレクは他の多くの者と一緒に死ぬとも、神は言っておられます。これは本当のことでした。つまり、神は無条件でアビメレクを救われると言われたのではありませんでした。

 アビメレクはサラを召し入れたものの、彼女に触れることが全く出来ませんでした。それは神がサラに触れるのを許されなかったからです。神が禁止しておられるのに誰がそれを行なえるでしょうか。このように、この世界では神の許可なくしては何も起こりません。キリストが言われた通り、雀の一羽でさえ神の許可なしには落ちることがありません(マタイ10:29)。しかし、神が許されるのであれば全てが実現されるようになります。アビレメレクも、もし神が許しておられたのであれば、サラに触れることが出来ていたでしょう。こういった理由からパウロはこのように言ったのです。『すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る』(ローマ11章36節)。

【20:8~9】
『翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」』
 この後、アビメレクは全ての臣下に、自分に起きたことを語り聞かせました。それは人々が神のことで恐れを抱き、アブラハムとその妻に対して悪をしないためです。またアビメレクはアブラハムをも呼び寄せて彼に抗議しました。何故なら、アブラハムは危うくアビメレクとその他大勢の人たちを死なせるところだったからです。ここに書かれているアブラハムへの抗議内容は、もっともであると思えます。このアブラハムの例からも分かりますが、神の人と関わりを持つと、悲惨なことが起こりやすい。何故なら、神の人には神が強く働きかけておられるからです。ミリヤムも神の人モーセのことで悲惨な状態になりました(民数記12章)。私たちは注意せねばなりません。

【20:10~11】
『また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。』
 アブラハムにもサラのことで言うべきことがありました。アブラハムは妬みのゆえに殺意を抱かれないため、サラが自分の妹であると言っていたのです。つまり、アブラハムは自分の命を守るためにサラが自分の妻だと言わなかったということです。ここでアブラハムが言っていることはもっともです。確かにもしアブラハムがサラを自分の妻だと言っていたとすれば、アブラハムは妬みを抱いたゲラル人から殺されていたかもしれません。ですからアブラハムは仕方なくサラについて「これは私の妹だ。」と言っていたことになります。なお、ダビデもこのアブラハムのように自分の命を救おうとしている箇所が聖書には書かれています(Ⅰサムエル21:10~15)。これはダビデにアブラハムの血が流れていたからなのでしょう。ダビデはアブラハムの子孫なのですから。

 この箇所でアブラハムが『この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思った』と言っているのは少なからぬ重要性を持っています。このようにアブラハムが恐れたのは自然なことでした。というのも神と道徳は大いに関わりがあるからです。有神論であればあるほど、人は高い道徳性を持つようになります。何故なら、その人は神の賞罰をあらゆる行為の、また心の思いにおいてさえ前提とするからです。ラーやトトやホルスなどといった偽りの神々ではありましたがバリバリの有神論者であった古代エジプト人の書いた道徳教訓は、その密度と簡潔性においてキケロの有名な「義務について」よりも遥かに優っているほどでした。ゲラル人もこのエジプト人のようであれば、神を恐れて道徳的だったでしょうから、アブラハムを恐れさせることはなかったでしょう。一方、無神論であればあるほど、人が持つ道徳性は低くなります。その人は神の賞罰を全く考慮しないからです。あのサドは徹底的な無神論者でしたから、無数の悪事を犯し、有害な書物を多く書いたのでした。ゲラル人たちがこのような無神論者だったからこそ、アブラハムは彼らを恐れたのです。今の時代で言えば日本人は有神論者たちです。そうでなければ多くの人が神社やお寺に行って合掌することはなかったでしょう。このため日本人は傾向として全体的に高い道徳性を持っています。一方、中国人は昔から無神論的な人たちです。ヴォルテールの時代に中国へ行った宣教師たちは、中国語に「神」に該当する言葉がなく、中国人に「神」という存在をどのように理解させたらよいか分からなかったので、大いに悩まされました(最終的には「天」を神に相当する言葉として選びました)。このため中国人は、孔子や孟子といった少数の者を除けば、全体的に道徳性が低く倫理を無視する傾向があるのです。私たちはと言えば、更に有神論的であることを望むべきでしょう。また、この宇宙における神の真理を更に知得したいと望むべきでしょう。そうして、今よりも更に道徳的であることを望むべきでしょう。何故なら、このように望むのが神の御心に適っているのは明らかだからです。

【20:12~13】
『また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」』
 この箇所から分かる通り、アブラハムがサラを妹だと言ったのは偽りではありませんでした。サラにはアブラハムにとって妻であり妹でもあるという2つの事実がありました。アブラハムはそのうち一つの事実しか告げなかったに過ぎません。これは少し巧妙に思えますが、罪を犯していたわけではありませんでした。何故なら、神は聖書の中で「事実を全て漏れなく告げなければならない。」などと命じておられないからです。少し考えれば分かるように、アブラハムは偽証の罪を犯すような人ではありません。アブラハムが嘘を付くのは、孔子が暴力を振るうのと一緒です。

 ここでアブラハムが言っていることから分かるように、アブラハムとサラの共通の父であるテラは2人の妻がいました。すなわち、テラは一夫多妻者であったか、アブラハムを生んでから離婚して再婚したことになります。この2つのうちどちらが本当なのかは不明です。このようにアブラハムとサラは同父異母でした。今の時代に父を同じくする男女が結婚したとすれば、間違いなくおかしいと思われるでしょう。しかしアブラハムの時代にはそれほどおかしいことではありませんでした。何故なら、アブラハムの時代にはまだ世界の総人口が少なく、結婚できる相手の絶対数も限られていたからです。ですからこの時代には、神もアブラハムとサラのような結婚に対して怒りを発してはおられませんでした。今はもう人口が増えていますから、そのような結婚をすれば間違いなく神の怒りを燃え上がらせることになります。

【20:14~15】
『そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」』
 こうしてアビメレクはアブラハムに贈り物を与え、その妻を返してやりました。またゲラルの好きな場所に住む自由をも与えてやりました。これはアビメレクが夢における神の言葉とアブラハムの言ったことを真正面から受け取ったからです。もしアビメレクが神とアブラハムの言葉を蔑ろにして信じなかったり怒ったりしていたとすれば、このように良くしてはやらなかったはずです。

 このようにしてアブラハムは更に多くの財産を持つようになりましたが、それはアブラハムの努力や能力のゆえではありませんでした。アブラハムは何もしていないのに富むようになったのです。それは神がアブラハムを富ませて下さったからです。このように人が富むのは神の恵みによるのであって、そこに人の労苦は理由として存在していません。ソロモンがこう言っている通りです。『主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。』(箴言10章22節)それというのも、富まない人は、たとえどれだけ労苦しても一向に富むことがないからです。松下幸之助は、死に物狂いで頑張っているのに全く成功できない経営者を多く見てきたと言っています。その一方で、富む人は多くの労苦を重ねなくても富むことができます。これは繁栄がただただ神によってもたらされる恵みであるからに他なりません。このアブラハムがその良い例です。

【20:16】
『彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」』
 アビメレクは、サラのためにもアブラハムに『銀千枚』を与えました。その銀がサラの守りとなり正しさとなるとアビメレクは言っています。お金が守りまた正しさになるというのは一体どういうわけなのでしょうか。富んでいる人は多くの人から尊重されるものです。ですからサラが銀を千枚も持っていれば、人々から尊重されるので危機を免れることができる、という意味なのでしょうか。それともサラが危機に陥った際、銀を渡すならば安全が得られるようになる、という意味なのでしょうか。つまり、その銀が危害を防ぐということなのでしょうか。これはどちらであるか分かりません。ひとまず、私たちはこの銀がアビメレクの言った通り、サラの守りとなり正しさとして作用することになった、とだけ理解していればよいでしょう。これはそこまで大きな問題であるというのではありません。ですから、この銀の意味について分からなかったとしても、困ったことになりはしません。

【20:17~18】
『そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉ざしておられたからである。』
 アビメレクは悪意なしにであったものの知らず知らずのうちに悪を行なっていましたから、彼の妻とはしためたちが不妊になるという裁きを受けていました。アビメレクが人の妻を不当に奪っていたので、彼の家にいる女たちからも出産の能力が奪われたのです。神はこのようにして人の悪に報いられる御方です。何かを奪えば、その奪ったものと同等か同等以上のものを損なわせられる。これが神の裁きにおけるやり方なのです。律法でもこのように教えられています。アブラハムは妻が返されたので、アビメレクについて神へ祈りを捧げました。すると神はアブラハムの願いを聞かれ、アビメレクの家から不妊の裁きを取り去って下さいました。これはアビメレクが自分の家から悪を取り去ったからです。もしアビメレクが悪を取り去らなければ、アブラハムがどれだけアビメレクについて祈ろうとも聞かれなかったはずです。何故なら、アビメレクが悪を取り去らなかった場合、彼は自分のした悪に対して裁きを受けねばならない状態のままだったからです。

 このようにアビメレクの家に不妊が引き起こされたのは、サラをアブラハムから奪い取るというアビメレクの悪が原因でした。ですから、原因が取り去られて後、その原因の結果である不妊も取り去られたわけです。このように何らかの悲惨が起こっている場合、私たちはその悲惨の原因となっている悪を取り去るようにせねばなりません。多くの人がしがちであるように、ただ結果だけを取り去ろうとしても無駄に終わることが多い。結果は原因の実ですから、原因が解決されなければ、結果の根本的な解決も難しいわけです。例えば、異常な食品ばかり食べているのですぐ癌になる人がいたとしましょう。その人が結果である癌を切除して治癒したとしても、癌の原因である異常な食品を止めなければ、あまり意味はありません。何故なら、異常な食品を止めなければ、癌が治癒しても、やがて再び癌になってしまうからです。癌という結果から完全に解放されたければ、その原因である異常な食品に目を向けねばならないのは明らかです。このアビメレクはと言えば、不妊の原因である悪を取り除いたからこそ良かったのです。もしアビメレクが悪を取り去ろうとせず、ただ不妊という結果だけに目を向けていたとすれば、いつまで経っても彼の家から不妊は無くなっていませんでした。

【21:1~5】
『主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは100歳であった。』
 神がかつて約束しておられた通り、サラはアブラハムの子を身籠って出産しました。知識が進んだ現代に生きる私たちは、これがどのようなことかよく分かります。つまり、神は、老いたサラの 子宮のうちに一時的に生理が止まる前のように卵子を生成されたのです。そして、特別的に生成されたその卵子とアブラハムの精子が結合したというわけです。神は全能者であられますから、このようにするのは朝飯前でした。神がサラの子宮に卵子を生成させるより、私たちが1個の卵を割るほうが遥かに難しいほどです。このようにして神は再びアブラハムのところに戻って下さいました(創世記18:10)。神が『戻って来ます。』と創世記18:10の箇所で言われたのは、つまり御業において戻るという意味だったのです。つまり、「アブラハムはサラになされた大いなる御業を通して再び主の存在を感じるようになるであろう。」ということです。主はその臨在観を「戻る」と言われたのです。神は実際的にはアブラハムのところへ以前のようにして戻って来ておられませんから、私が今言ったように考えるしかありません。そして、アブラハムは神に命令された通り、サラの産んだ子を『イサク』と名づけました。この名前はアブラハムとサラが考えた名前ではなかったのです。神が老齢になっていたサラが子を産むと言われた時、アブラハムとサラはそれを信じ難いことだと思いました。しかし今このようにしてサラは子を産んだのです。こうして神の言葉の正しさが明らかに示されました。このような出来事を見たアブラハムとサラは、神の言葉を信じられなかった自分たちを恥じ入ったに違いありません。このアブラハムとサラもそうですが、人の思いは、未来の真実からかけ離れている場合が多い。電気自動車が主流になるとか、コンピューターなんて世界に満ちるはずがないとか、鉄の塊が飛ぶはずはないとか、今まで人間はどれだけ誤った未来を想定してしまったことでしょうか。世界政府の想定も同様です。近代社会の流れを考えるならば、確かに世界政府論者たちの考える通り、今の世界が統合に向かって進んでいる流れを持つことを私は認めます。普通に考えれば明らかにそう考えざるを得ないからです。しかし、歴史を見れば分かる通り、そういった「普通の考え」は昔から外れることが多いのです。一方、神の言われたことは全て真実です。ですから神の言われたことは必ず未来において実現するのです。

 またアブラハムは、神の命じられた通り、イサクに八日目の割礼を施しました。生まれたばかりの幼児に洗礼を施そうとすると死に物狂いで抵抗します。洗礼でさえ激しく抵抗するのであれば、割礼ではどれだけ抵抗したことでしょうか。もっとも、割礼を受けた人自身は自分が抵抗したことについて全く記憶していないのではありますが。既に述べた通り、この割礼は契約と大いに関わりがあります。イサクが割礼を受けたのは、イサクがアブラハムにおける神の契約下に置かれていたことを意味しているのです。

【21:6~7】
『サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」』
 サラがここで『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。』と言ったその「笑い」とは、軽蔑の笑いではなかったでしょう。これは幸福を喜ぶ祝福の笑いだったと私は解します。つまりサラはこう言っているのです。「神は私が老齢であるにもかかわらず子を産む幸せについて微笑まれました。そのように私の出産について知った人たちはその幸せを思って大いに微笑んでくれることでしょう。」しかし、これを軽蔑の笑いと解する人たちの意見を私は批判しようとは思いません。これが軽蔑の笑いだと考える人たちはそのように考えていればよいと思います。

 またサラは老齢の自分が子を産んだことについて、大いに感嘆しています。「誰が老齢のサラに子が産まれると言えただろうか。」と。この時のサラの喜びがどれほどであったのか私たちには知ることができません。恐らくこの喜びはサラにしか分からないでしょう。また、ここで『サラが子どもに乳を飲ませる。』と言っているのは、単にサラが子を産んで育てるという意味でしょう。これは実際にサラが乳を子に与えるという意味ではなかったはずです。何故なら、恐らくサラは子を産んでからも乳が出なかっただろうからです。しかし、もしかしたらサラが自分の乳を子に与えていたという可能性もあります。何故なら、神は全能の御方であって、サラが乳を出すようにできるからです。

【21:8~9】
『その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。』
 イサクの乳離れの日にはアブラハム主催による宴会が催されましたが、その時にイシュマエルはイサクをからかいました。聖書は『からかっている』と書いています。ですから確かにイシュマエルがイサクをからかっていたのは間違いありません。しかし、パウロは更に踏み込んだことを言っています。パウロによれば、イシュマエルのこのからかいは『迫害』でした(ガラテヤ4:29)。つまり、このからかいは単なる兄弟間のイジメではありませんでした。そのイジメの根底には宗教的な理由が存在していたということです。イサクがしたこのからかいが一体どのようなものだったかは、よく分かりません。しかし私たちは、ただイサクのからかいは宗教的な迫害だったということを理解していれば、それで問題ありません。

 イシュマエルがイサクを迫害するというこの構図は、今に至るまでずっと続いています。イシュマエル族とはイサク族を迫害する人たちなのです。実際、歴史を見るとイシュマエルの子孫であるアラブ人たちは、今までずっとイサクの子孫であるユダヤ人たちを嫌ったり見下したりしてきました。アラブ人たちはユダヤ人たちが嫌いで仕方ありません。これはイシュマエルの血がその理由なのでしょう。つまり、イシュマエルの血とは根本的にイサクを嫌う性質の血であるということです。血の性質は変わることがありません。ですから、これからもイシュマエルの子どもたちはイサクの子どもたちを迫害し続けるでしょう。イシュマエルとイサクが仲良く出来なかったように、その子孫たちも仲良くすることは出来ないのです。それは日本人と中国人が、またドイツ人とフランス人が親密になれないのと同じです。

【21:10~11】
『それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。』
 サラはイサクを迫害したイシュマエルを家から追放するように、アブラハムに言いました。イシュマエルがイサクと一緒に跡取りになるべきでないということは、前々から分かり切っていたことです。それにもかかわらずイシュマエルはずっとアブラハムの家にいました。イシュマエルがいつかアブラハムの家から出なければいけないことは明白です。そこでサラはこのような酷い出来事をきっかけとし、今にもイシュマエルを追い出してしまおうとしたわけです。私たちは、何かの事柄がきっかけとなり、それまで心で思っていたことを調度良く実現させようとすることが往々にしてあります。サラがしたのは正にそれでした。もしこのような迫害が起きていなければ、サラがこの時にイシュマエルを追い出そうとしていたかどうかは分かりません。このようにイシュマエルを追い出せと言われたアブラハムは、ここで書かれている通り、非常に悩まされました。サラにとってイシュマエルは自分の子ではありませんから、イシュマエルなど別にどうでもよかったでしょう。女は自分の子でなければ、さほど関心を抱かないものです。ソロモンの前に来たあの遊女も、自分の子ではない子など別に何とも思わず、その子が死ぬのさえ平気に思うぐらいでした(Ⅰ列王記3:16~28)。エリザベス2世女王も、ダイアナが実の子ではなかったので、ダイアナに対して実に淡々としていました。一方、アブラハムにとってイシュマエルは実の子です。自然は人が子を大いに心がけるようにしています。ですからアブラハムはイシュマエルの追放のことで悩まずにはいられませんでした。もしアブラハムが悩んでいなければ、人間らしい心を持っていなかったことになるのです。

【21:12~13】
『すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」』
 神は、アブラハムがサラの言うようにすべきだと命じられました。何故なら、『イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるから』です。イシュマエルがずっとアブラハムの家にいたならば、後継ぎのことで大きな問題が生じていたでしょう。その場合、イサクが跡取りになると聞いたイシュマエルは絶対に反感を持っていたはずです。そうしたらイサクに対して何を仕出かすか分かったものではありません。「あいつばかりずるいぞ。くそっ、イサクの野郎を痛めつけてやろうか。」などと思いかねません。ですから、そのような問題が避けられるためにもイシュマエルはアブラハムの家から追い出されるべきだったのです。神にとっては御自身の御心こそが何よりも第一です。神の御心は、イサクがイシュマエルよりも優先されることでした。ですから神はイサクのゆえにイシュマエルが追い出されるべきだとされたのです。

 しかしイシュマエルもアブラハムの子であることはイサクと変わりませんでした。神はアブラハムを愛しておられました。ですから神はアブラハムのゆえにイシュマエルをも『一つの国民』にすると言っておられます。これは既に実現しています。今現在、世界にイシュマエルの子孫が多くいるのを見れば分かる通りです。このような神の約束を聞いて、アブラハムはイシュマエルのことで慰めを得たのでした。

【21:14】
『翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。』
 アブラハムは神が命じられた通り、イシュマエルをハガルと共に追い出しました。この時、アブラハムはイシュマエルとハガルが死ぬことについて心配しなかったはずです。何故なら、神がイシュマエルを一つの国民にすると約束されたからです。もしイシュマエルが死んでしまえば彼は一つの国民になれません。神は、御自身の約束されたことを実現されないような御方ではないのです。追放の際にアブラハムが『パンと水の皮袋』をハガルに持たせたのは、ハガルとイシュマエルに対する愛の現われです。アブラハムは幾らかでもこの2人が飢えたり乾いたりしないように計らってやったのです。サラは追放の際、この2人に何も持たせようとはしませんでした。サラにとってこの2人は別にどうでもよかったからです。サラの立場とアブラハムの家における家庭状況を考えれば、サラがハガルとイシュマエルに何も持たせようとしなかったのは不思議だと思えません。この追放の時にサラは何を思っていたのでしょうか。「あの2人は惨めになればよい。」とでも思っていたのでしょうか。その可能性は十分にあるでしょう。

 ここでアブラハムは情よりも御心を取りました。アブラハムの個人的な思いからすれば、出来るならばイシュマエルをずっと家に留めておきたかったことでしょう。そうでなければイシュマエルの追放について大いに悩むこともなかったはずだからです。しかしアブラハムは自分の思いよりも神の命令を優先させました。ここにアブラハムの信仰と愛があります。もしアブラハムが神への信仰と愛を持っていなければ、恐らくイシュマエルを家から追放してはいなかったはずです。私たちもこのアブラハムのようにならねばいけないでしょう。そうするのが神の民として相応しいからです。キリストも次のように言っておられます。『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。』(マタイ10章37節)アブラハムは息子を主よりも優先させませんでしたから、明らかに『わたしよりも息子や娘を愛する者』ではありませんでした。もちろん、私は家族を蔑ろにすべきだと言っているわけではありません。私が言っているのは、もし家族か神かの二者択一に迫られたとすれば、その時にはアブラハムがそうしたように、家族よりも神のほうを選ばなければならないというだけのことです。

【21:15~16】
『皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を1本の灌木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。』
 アブラハムから渡された水が尽きた際、ハガルはもうイシュマエルが助からないだろうと感じました。しかしイシュマエルの死を見るのは嫌だったので、ハガルは『その子を1本の灌木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわ』りました。ここで『矢の届くほど離れた向こう』と書かれているのは、50mぐらいだったと思われます。この距離は、「イシュマエルから離れたくないが、だからといってイシュマエルの傍にいてその死を見るのは嫌だ。」という彼女の母親かつ女性らしい心情をよく表しています。ですから、もしハガルが死ぬ時も子どもと一緒にいてやりたいと思っていたならば、ここまで離れることはしなかったでしょう。むしろ近くにいて声をかけてやっていたでしょう。私たちが臨終の人に付き添うのと同じです。福音書の中では、『石を投げて届くほどの所』(ルカ22章41節)と書かれている箇所があります。こちらのほうは恐らく10mか20mぐらいだったと思われます。これが『矢の届くほど離れた向こう』という距離よりも遥かに短い距離であるのは明らかだからです。

【21:17~19】
『神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。』
 『神は少年の声を聞かれ』とあります。これはイシュマエルが渇きと悲しみにより泣き叫んでいたことを示しています。その叫びを神は聞き入れて下さいました。既に述べたように神はアブラハムを愛しておられました。ですから神はアブラハムのゆえにイシュマエルを顧みて下さったのです。神がイシュマエルを顧みて下さったのは、イシュマエルが『大いなる国民』とされるからでもありました。神の御心はイシュマエルが偉大な国民になることです。もしイシュマエルが荒野で死んでしまえば、どうしてイシュマエルは偉大な国民になれるでしょうか。それは何か特殊な出来事でも起きない限り、有り得ないことです。ですから神はイシュマエルがこれからも生きて偉大な国民になるよう、ここで顧みて下さったわけです。こうして神は母ハガルが井戸を見つけるようにして下さいました。その井戸は神の奇跡により突如としてそこに現われたというのではありません。それは前からずっとそこにありました。ですがハガルは心が乱れていたので、そこに井戸があることを認識できなかったのです。私たちも心が乱れている時には、普段であれば簡単に分かるようなことさえ分からなくなってしまいますが、ハガルが井戸を発見できなかったのはそれと同じです。このようにしてイシュマエルは死なずに済むことになりました。もし神がイシュマエルを顧みて下さらなければ、ハガルは井戸に気付かないままだったでしょう。そしてイシュマエルは荒野で死んでいたことでしょう。

【21:20~21】
『神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。』
 こうしてイシュマエルは荒野で野人的な生活をする者となりました。ここで『神が少年とともにおられたので、彼は成長し』と書かれているのは、神がイシュマエルとその成長を守り導いておられたことを教えています。というのも、神が共におられるとは、神の恵みがあるということだからです。私の思うに、イシュマエルの子孫たちが例えばヒュームのように洗練されておらず、悪く言えば粗野、良く言えば素朴であるのは、その始祖であるイシュマエルが荒野生活をしていたのと幾らかでも関わっているのでしょう。何故なら、荒野で若い頃から生きていた者が、精神的に洗練されるはずがないからです。ですからイシュマエルの子孫たちには、宮廷にでもいそうな優雅な人がなかなか見られないのです。また、このイシュマエルは『弓を射る者』でしたから、狩猟により生きていたことが分かります。彼の母ハガルは、このイシュマエルのためにエジプトから妻を迎えることにしました。息子が自分と同じ民族である女を妻に持ってほしいと思うのは、別におかしいことではありません。全ての人が全てそうだとは言いませんが、人は往々にして自分の民族に愛着を持つものだからです。この時代には、このように親が息子に妻を用意してやるというのが一般的でした。今で言えばこれはお見合い結婚です。最近では恋愛結婚が主流となっていますが、そのようになったのはここ最近であって、戦前は私たちの日本でもお見合い結婚が主流でした。

 このようにしてイシュマエルは事実上アブラハムの相続人としての資格を剥奪されてしまいました。もうイシュマエルがイサクと一緒にアブラハムの跡取りになることは出来ません。何故なら、イシュマエルはもうアブラハムの家から追放されたからです。これはハガルとイシュマエルにとって悲惨なことでした。しかし、このようになるのは神の御心でした。この世界においては、昔から今に至るまで、人間の思いよりも神の御心が優先されるようになっているのです。