【創世記21:22~24:16】(2021/05/23)


【21:22~23】
『そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」』
 アビメレクは、アブラハムに神がいつも共におられるのを見ていました。これはアブラハムが何をしても上手に成し遂げていたからです。神が共におられて援助して下さっておられたので、アブラハムの行ないは祝福されていました。アビメレクは思慮のある王なので、このような人と敵対してはならないと思いました。そのためアブラハムがアビメレクとその国に対して害をもたらさないように、神によって誓うことを求めました。アブラハムが誓えばアビメレクはもはやアブラハムのことで恐れなくて済むようになるからです。この王がこのようにしたのは正解でした。何故なら、アブラハムのゆえにかつてアビメレクの家は滅びる寸前のところまで行ったからです。そのような人物と平和の誓約を結ぶべきであるのは言うまでもありません。その誓いを『将軍ピコル』も王と一緒に求めたのは、事柄の重大さをよく示しています。つまり、これは国家の存続に関わるほどの重大さを持っていたということです。そうでなければ将軍まで王と一緒に出て来たことは説明できないでしょう。

【21:24】
『するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。』
 このアビメレクの求めに対し、アブラハムは『私は誓います。』と言って応じました。アブラハムにはアビメレクの言った通りにするのが正しいと思えたからです。確かにアビメレクは何か愚かなことをアブラハムに求めたわけではありません。このようにアブラハムが誓ったのは正しい誓いでした。何故なら、律法では神によって誓うべきだと命じられているからです(申命記6:13)。アビメレクがアブラハムに求めたのは『神によって』(創世記21:23)誓うということでした。

【21:25~26】
『また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」』
 アブラハムは、この出来事を機会に、かつて自分がアビメレクの僕たちから被った損害について解決しておこうと思い、そのことをアビメレクに知らせました。平和の誓約を結んだ以上、自分がかつて相手から受けた被害が原因となり、未来の関係に支障が出ないよう今のうちから問題を解決しようとしたのです。今ここで問題を解決しておけば、もうこれからその問題が2人の関係を打ち壊すことはなくなるからです。実はアブラハムはこの問題をそれまでアビメレクに知らせていませんでした。ですから、アビメレクは今までにそんなことがあったなどとは全く知りませんでした。この王がここで『私もまたきょうまで聞いたことがなかった』と言っているのは明らかに嘘ではありません。

【21:27~31】
『そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。アブラハムは羊の群れから、7頭の雌の子羊をより分けた。するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの7頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、7頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。』
 アブラハムはアビメレクに非がないことを知ったので、安心して平和の契約を結ぶことにしました。アビメレクが井戸の事件について何も知らず、ただアビメレクの僕どもが悪いに過ぎないと分かったからこそ、このような契約が結ばれたのです。こうしてアブラハムとアビメレクの関係は永続的な堅固さを持つことになりました。私たちも、ここでアブラハムがしたように、まともな契約をまともな相手と結ぶというのであれば別に構いません。聖書はこのアブラハムの契約を非難していないからです。私たちは電話会社と電話の契約を結ぶでしょう。こういった律法と敬虔さを損なわない社会的な契約であれば私たちにも契約を結ぶことは許されています。

 また、この時にアブラハムは自分がアビメレクに与えた羊の群れから7頭の雌の子羊を取り、それをアビメレクに与えました。これはアブラハムが井戸を掘ったことを証明する印となる贈り物でした。これは何かに例えるならば、約束を破らないことの証拠として大事な所有物の一部分を友達に分け与えるのと似ています。この与えられた子羊の数が『7頭』だったのは、その証拠が完全であることを示しています。何故なら、聖書で「7」とは完全数だからです。聖書では「10」も完全数ですから、アブラハムは10頭の子羊を与えることも出来たでしょう。ところで、この「7」という数字ですが、これは聖書以外の古代文書やユダヤ人以外の民族でも、特別な意味を持つ数字として取り扱われていました。古代の文書を読んだことのある人であれば、よく分かるはずです。例えば、あの有名な「ギルガメッシュ叙事詩」の中でも、7がこれでもかと言わんばかりに特別的な数字として出てきます。また今でもこの数字は良い意味を持つ数字として取り扱われています。一週間も7日です。このようなことを考えるならば、7という数字は特別数として神がこの世界の原理に組み入れられたとするのが妥当な理解でしょう。

【21:32~34】
『彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。アブラハムはベエル・シェバに1本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。』
 こうして契約が結ばれると、アビメレクと将軍ピコルは帰って行きました。一方、アブラハムは契約を結んだ場所に『1本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈』りました。彼が柳の木を植えたのは、祭壇の代わりとしてだったのかもしれません(創世記12:7~8、13:18)。そこでアビメレクと契約を結んだ以上、そこに神の祭壇を築くのは抵抗が感じられたのでしょうか。しかし、柳の木であれば問題にはならないと考えたということなのでしょうか。こうであった可能性は幾らかでもあります。この『柳の木』については、他にもⅠサムエル22:6や31:13の箇所でも出てきます。しかし、そちらの箇所を、私たちが今見ている箇所における解釈の助けとすることはできません。こうして後、アブラハムは『長い間ペリシテ人の地に滞在した』のですが、これはそこで致命的となる問題が何も起こらなかったことを示しています。何故なら、もし致命的な出来事が起きていれば、アブラハムはそこから離れ去っていただろうからです。ロトとの問題が起きた際、ロトから離れることでその問題を解決したように(創世記13:5~12)。また、ここで言われている『ペリシテ人』とは後にユダヤ人の宿敵となる民族です。「パレスチナ」という地名はこの『ペリシテ』に基づいています。

【22:1】
『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。』
 22章では有名なアブラハムの試練について書かれています。この出来事は非常に印象的です。

【22:1~2】
『神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』
 神はアブラハムにその子イサクを生贄として捧げるよう命じられました。神は、アブラハムの子イサクから無数の人たちが生まれ出ると約束しておられました。神は、アブラハムが神を本当に信じていたのかテストされたのです。もしアブラハムが神を信じていたとすれば、イサクを神への生贄として捧げていたでしょう。何故なら、神を信じているので、神がイサクを死から蘇らせて下さることも信じただろうからです。そうして死より蘇ったイサクからアブラハムの子孫たちが生じるようになるということです。これについてはヘブル11:17~19の箇所でも書かれています。しかしアブラハムが神を信じていなければ、イサクを捧げることはしなかったはずです。何故なら、その場合、アブラハムは神を信じていないので、神が死者を蘇らせる全能者であられるとも信じていなかっただろうからです。このようにアブラハムの行ないが、神に対するアブラハムの態度を如実に示すことになっていたのです。また、この箇所ではイサクが『ひとり子』と言われています。ヘブル11:17の箇所でも、イサクが『自分のただひとりの子』と言われています。つまり、神にとってイシュマエルはアブラハムの正式な子ではありませんでした。もしイシュマエルもアブラハムの正式な子だったとすれば、ここではイサクが『ひとり子』などと言われていなかったでしょう。イシュマエルはアブラハムの家から追い出されたので、もはやアブラハムの正式な子ではなくなってしまっていたのです。

【22:3】
『翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。』
 アブラハムは神に従うことを躊躇いませんでした。『翌朝早く』出かけたと言われているのは、つまりそういうことです。アブラハムは恐らく神の命令に従うことについて、全く悩まなかったはずです。もし悩んだのであれば『翌朝早く』出かけることはなかったでしょうから。このようにアブラハムとは神の前に真面目で敬虔な態度を持っている人でした。このゆえに彼は「信仰の人」と言われているわけです。私たちはこのアブラハムと似ているでしょうか。世俗化と誤謬の波に呑み込まれてしまっている現今の教会において、多くの聖徒たちが多かれ少なかれ反省しなければいけないと感じられます。アブラハムがこの時に連れて行った『若い者』とは奴隷のことでしょう。彼が奴隷を連れて行ったのは、奴隷たちが従順であったからだと考えられます。『ろば』と一緒に行ったのも同様の理由からなのでしょう。ロバとはおとなしくて従順な動物ですから。アブラハムは神の命令を絶対に守りたいと思っており、そのため妨げられることを嫌ったのだと思われます。ですから、奴隷とロバというあまり命令の順守を妨げることのなさそうな存在と一緒に行ったのでしょう。

【22:4~5】
『三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。』
 アブラハムが神に指示された山に行き着くまでは『三日』もかかりました。いや、三日経ってもまだその山には到着していませんでした。すなわち、三日目になって初めてその山が見えて来たのでした。神が行くように命じられた場所とはそんなにも遠い距離にありました。

 山が近くなると、アブラハムは2人の奴隷をそこに残し、イサクという生贄を神に捧げに行こうとしました。アブラハムが奴隷をそこに留まらせたのは、神の命令を確実に実行するためです。もし奴隷たちまで付いてくれば、アブラハムがイサクを生贄として捧げようとした際、それを阻止しようとしていたかもしれないのです。アブラハムはどうしても神の命令を実行せねばなりませんでした。彼にとって神への服従は何よりも重視されるべきことでした。それゆえ、彼は奴隷たちをそこに残しておかずにはいなかったわけです。

【22:6~8】
『アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。』
 イサクは肝心の動物だけが見当たらなかったので不思議に思い、そのことをアブラハムに問いましたが、まさか自分が生贄にされるなどとは思ってもいませんでした。自分の一人子を屠って犠牲とする。これが神の命令抜きに行なわれていたとすれば、アブラハムは狂気に陥っていると見做されても仕方ありませんでした。しかし、この時のアブラハムは実に正しく敬虔でした。何故なら、アブラハムは自分の情を無視して神に服従していたからです。ただ神を愛して問答無用で神への服従を貫き通す。これよりも敬虔なことが他にあるでしょうか。

【22:9~10】
『ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。』
 アブラハムは遂にイサクを神への犠牲として捧げようとしました。無神論者であれば、アブラハムの行為は狂気の沙汰としか思われないでしょう。しかしアブラハムは何も狂っていませんでした。ここにおいてアブラハムの信仰が目に見える形となって表出されたのです。この出来事は、アブラハムが神を信じ愛していることの紛れもない証拠でした。イサクからすれば悲惨だったかもしれません。アブラハムも個人的な思いからすれば、出来ればイサクを殺したくないと思っていたに違いありません。ですが神の御前においてこれは実に素晴らしいことでした。この時に縛られて生贄とされたイサクがどのような振る舞いをしていたかは分かりません。泣き叫んでいたのかもしれませんし、黙って静かにしていたのかもしれません。反抗期の少年でもあるかのように暴言を吐いたということは恐らくなかったでしょう。ある人は、この時のイサクが大いにもがいていたと言っています。しかし、このように言うのは行き過ぎです。何故なら、聖書はただ『イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。』としか書いておらず、イサクがどのように振る舞っていたかは示していないからです。

【22:11~13】
『そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。』
 主はアブラハムがイサクを捧げようとするのを阻止されました。もし主が阻止しておられなければイサクは死んでいたでしょう。主が最後の最後で阻止されたのは、主の求めておられるのがイサクの死そのものではなかったからです。主が求めておられたのは、アブラハムがイサクを犠牲にしてまで神に従うかどうか確認することでした。ここにおいてアブラハムには神に対する本物の信仰があると判明しました。ですから、確認ができた以上、神はここでテストを終わらせたのです。

 そして神はイサクの代わりに捧げられるべき『一頭の雄羊』を近くに備えておられました。この雄羊をアブラハムはイサクの代わりに犠牲として捧げました。先にアブラハムは『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』と言っていましたが、心の中では羊ではなくイサクを捧げるつもりでいました。ですが神は情け深い御方なので、本当にアブラハムの言った通りのことを実現し、イサクが捧げられずに済むようにして下さいました。

 神はこのようにして人を試されます。それは人の真の姿をまざまざと浮き彫りにさせるためです。神は別にそのように試されなくても、最初からその人の真の姿がどのようであるか完全に知っておられます。しかし、それにもかかわらず神は試練によりその人の真の姿を明るみに引き出そうとされます。これは神が実際の確認をとてつもなく重要視しておられるからなのです。神がこのように人を試すのは悪ではありません。何故なら、神は人の上に主権を持っておられるからです。しかし人が神をこのように試すのは悪です。申命記6:16の箇所で『あなたがたの神、主を試みてはならない。』と言われている通りです。どうして人が神を試してはいけないかと言えば、それは人が神の上に主権を持っていないからであり、また神は試されるまでもなく真実で正しい御方であるとされねばならない存在だからです。神が人を試されると聞くと次のように思う方がいるかもしれません。「そのような試練を受けても私は大丈夫なのだろうか。それに耐えられるのだろうか。」聖書はこのような不安に対して「大丈夫である。必ず耐えられるであろう。」と教えています。それはパウロがこう言っている通りです。『神は真実で正しい方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(Ⅰコリント10章13節)アブラハムに与えられた試練もアブラハムにとって耐えられない試練ではなく、最後には『脱出の道』が備えられることになりました。

【22:14】
『そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。』
 この試練が起きた山の場所をアブラハムは『アドナイ・イルエ』と呼びましたが、これは「主が備えて下さる」という意味です。

 この場所は『今日』に至るまで『主の山の上には備えがある』と呼ばれてきました。『今日』とはいつでしょうか。もちろん創世記の著者が生きている時代における『今日』です。具体的に言えば紀元前10世紀頃でしょう。つまり、アブラハムの時代から1000年近くもの間、その場所はアブラハムが名付けた通りの名前で呼ばれ続けていたということです。

【22:15~18】
『それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」』
 アブラハムが神に服従したので、神はアブラハムの子孫を大いに増し加えると約束されました。『空の星、海辺の砂』とは子孫の数多さを象徴しています。この約束は既に実現しています。

 また神はアブラハムの子孫が敵の門を勝ち取るとも言っておられます。『子孫』とはイエス・キリストのことです。『敵』とはサタンのことです。『子孫』であるイエス・キリストが『敵』であるサタンの門を勝ち取るとは、つまりキリストの贖いによりサタンが滅ぼされるということです。これも既に実現しています。ヘブル書2:14の箇所でキリストが『その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし』てしまわれたと言われている通りです。また神はアブラハムの『子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる』とも言っておられます。この『子孫』もやはりイエス・キリストのことです。これは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによりあらゆる民族が救いの祝福に招き入れられるようになる、ということです。これも既に実現しています。パウロはこのことについてこう言っています。『このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』(ガラテヤ3章14節)ユダヤ人たちはこの『子孫』がまだ現われていないと考えています。しかし、そのように考えるのは誤っています。何故なら、この『子孫』とはイエス・キリストのことであると新約聖書では教えられているからです。

 アブラハムにこのような約束が与えられたのは、アブラハムが『わたしの声に聞き従ったから』でした。つまり、これらの約束は、アブラハムが神に服従したことに対する報いの祝福なのです。神はアブラハムが神に従ったので、このような約束を受けるに相応しいとされたのでした。このように神に服従することには祝福があります。聖書全体がそのように教えています。例えばヤコブ1:25の箇所ではこう書かれています。『こういう人は、その行ないによって祝福されます。』申命記28:2の箇所でもこう書かれています。『あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。』神からの祝福が欲しければ神に従わねばなりません。そうすればアブラハムのように報いが与えられるでしょう。もし従わないのであれば神の呪いが注がれることになります。私たちが服従するにせよしないにせよ、神からの賞罰は必ず与えられることになります。

【22:19】
『こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。』
 神からの試練が終わると、アブラハムは息子と若者たちを連れてベエル・シェバに行き、そこに住むようにしました。この場所は前にアブラハムとアビメレクが契約を結んだ場所です(創世記21:31)。この時にアブラハムが神から受けた試練のことを若者たちに告げたかどうかは分かりません。不安と反感が生じないよう告げなかったのかもしれませんし、教化と敬虔のために告げたという可能性も十分にあります。

【22:20~24】
『これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら8人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。レウマというナホルのそばめもまた、デバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。』
 それから後、アブラハムには兄弟ナホルがその妻ミルカにより8人の子を産んだと知らされました。既に見た通り、ミルカとはアブラハムの兄弟ハランの娘ですから(創世記11:29)、ナホルは姪と結婚していたことになります。ナホルとミルカの子である長男『ウツ』とは、ヨブのいた地域の創建者です(ヨブ1:1)。その弟の『ブズ』とはエリフのいた地域における創建者です(ヨブ32:2)。ケムエルの父として『アラム』と書かれていますが、この名前はセムの子孫にもあります(創世記10:22)。しかし当然ながら、ここで言われている『アラム』とはセムの子と同一人物ではありません。末っ子の『ベトエル』はリベカの父です。このリベカはイサクの妻となる女ですから重要な存在です。

 ナホルには『レウマ』というそばめがいましたが、そのそばめも4人の子を産みました。今では考えられませんが、この時代においてそばめを持つのは一般的なことでした。

【23:1~2】
『サラの一生、サラが生きた年数は127年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。』
 サラは127歳まで生きましたが、これが長生きであったのか普通程度の寿命であったのかは分かりません。何故なら、私たちはアブラハムの時代の平均寿命を知らないからです。しかし、今の時代からすれば127歳まで生きるというのはかなりの長生きです。アブラハムはサラの死を嘆いて泣きました。これは当然のことでした。何故なら、妻の死を悲しまない人がどこにいるでしょうか。妻を憎んでいたか、離婚したいと願っていた人以外にはいないはずです。アブラハムがこのように悲しんだのは人間らしい心を持っていたからです。しかしながら、アブラハムはサラが天国に行ったと信じていたでしょうから、異邦人でもあるかのように極度に悲しむということはしなかったはずです(Ⅰテサロニケ4:13)。ただ会えなくなり寂しいので悲しんだというだけのことだったと思われます。サラが死んで天国に行ったということについて言えば、それは悲しむべきどころか幸いなことだからです。

 ここでは『アブラハムは来て』と書かれていますが、『来て』という言葉は一体どういう意味なのでしょうか。アブラハムはサラと一緒に住んでいたのではなかったのでしょうか。そうではなくアブラハムはサラと別居していたのでしょうか。それとも一緒に住んでいたのですが、サラがカナンで死んだ時にアブラハムはカナンから離れて旅をしていたとでもいうのでしょうか。残念ながらこの『来て』という言葉については、聖書で詳しくその意味が示されていませんから、どういうことなのか私たちには分かりません。ただアブラハムとサラが一緒にいなかったからこそ、サラが死んだ時にアブラハムが『来て』と言われているのではないかとは感じられます。もし一緒に住んでいたとすれば『来て』とは言われていなかったでしょうから。何故なら、一緒にいればどうして一緒にいる人の所へ行かなければいけないのでしょうか。

【23:3~6】
『それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」』
 サラはカナンの地で死にました。ですからアブラハムはカナンの地にサラを葬りたいと思いました。そのためアブラハムはカナンにいたヘテ人たちから墓地を得ようとしました。ここでアブラハムがヘテ人に言っている言葉からは、アブラハムの高い人格性が感じられます。このアブラハムの求めに対しヘテ人たちは最上の墓地を、しかも無料で差し出すと答えました。これはアブラハムがヘテ人にとって『神のつかさ』だったからです。これはアブラハムが神と共にいるのでヘテ人たちの司も同然だということです。このように人間は高貴な人に対して最上のものを差し出そうとするものです。それは高貴な人には極上品が相応しいと思えるからです。また高貴な人から良く思われたい、もしくは嫌われたくない、という無意識の心理が働くからです。もしアブラハムが有力者でなければ、ヘテ人はこんなことを言っていなかったはずです。

 この『ヘテ人』ですが、これは後にユダヤ人が滅ぼすことになる民族です(出エジプト23:23)。何故なら、ヘテ人は非常に邪悪だったからです。神はユダヤ人を通してヘテ人たちを滅ぼしてしまわれました。ここで次のように思う人がいるかもしれません。「何だって。アブラハムはそんな邪悪な民族から墓地を得ようとしたのか?」確かにヘテ人は滅ぼされねばならないほどに邪悪でしたが、アブラハムの時代にはまだそれほど邪悪さが高まっていませんでした。モーセやヨシュアの頃になるとその邪悪さが最高潮に達したので、その邪悪さに相応しく滅ぼされてしまうことになりました。もしアブラハムの頃から既にその邪悪さが最高潮に達していたとすれば、アブラハムはこのように彼らから墓地を得ようとはしていなかったはずです。つまり、この時はまだヘテ人の倫理性を問題にしなくてもよかったわけです。なお、この『ヘテ人』とはカナンの子であるヘテを始祖とする民族ですから(創世記10:15)、呪われた民族でした。

【23:7~9】
『そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」』
 アブラハムはヘテ人たちから友好的な応対をされ、心を揺り動かされたに違いありません。何故なら、ヘテ人から無料で墓所を譲ると言われたアブラハムは『立って』『ヘテ人にていねいにおじぎをして』いるからです。もし心を揺り動かされたのでなければ、普通はこんなことをしないはずです。アブラハムがここで言っている言葉と彼の振る舞いは、まるでヘテ人の土地に墓所を設けるのが本来であれば不謹慎なことであると言わんばかりの低い態度です。彼は「大変申し訳ない。しかし感謝したい。」とでも言おうとしているかのようです。このアブラハムは『エフロン』の所有している土地を求めました。アブラハムにはそこが墓地としてベストに思えたのでしょう。またアブラハムはその土地を金で買うと言っています。どうしてアブラハムはヘテ人からそれを無料で受け取ろうとしなかったのでしょうか。それは恐らくアブラハムがヘテ人に精神的な貸しを作りたくなかったからだと思われます。先に見た箇所でも、アブラハムはソドムの王に精神的な貸しを作ろうとは決してしませんでした(創世記14:17~24)。ヘテ人とは後にその土地から追い払われるべき存在として神が示しておられた民族です(創世記15:18~21)。そのような呪われた民族にアブラハムが精神的な貸しを作ろうとしなかったのは何も不思議ではありません。また、ここでのアブラハムの言葉から、アブラハムは多くの財産を持っていたことが分かります。何故なら、アブラハムはここで『十分な価をつけて』と言っているからです。もし富んでいなければ『十分な価』が付けられた墓所を買うことは出来なかったはずです。

 ここでのアブラハムの言葉と振る舞いからは、アブラハムの律義さがよく表われています。ここまでしっかりした人がいるのかとさえ感じられるほどです。私たちもこのアブラハムのようになるのを求めねばならないでしょう。そのようにするのは明らかに神の御心に適っているのですから。

【23:10~11】
『エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門にはいって来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」』
 アブラハムの言葉を聞いたエフロンは、自分の土地を無料で譲ると応じました。これはエフロンがアブラハムに良くしてやりたいと思ったからなのでしょう。例えとしてはあまりにも不謹慎であって本来であれば私もこのような例えなど書きたくないのではありますが、例えば皇族の誰かが亡くなった際、天皇が来て「あなたの土地を墓地として使いたいのですが譲っていただけませんか。もし問題ないようであれば土地の代金を教えて下さい。」などと言われたらどうするでしょうか。恐らく多くの人が「いえいえ、お金を頂くなんてとんでもございません。お金なんていりませんから、あの土地をご自由にお使い下さい。」と応じるのではないでしょうか。最近でも皇族である眞子さまの婚約相手の母が多くの借金を抱えているので、漫画家の小林よりのり氏が「たった400万円くらいくれてやるぜ」などと言って借金問題を解決しようとしました。やがて皇籍を離脱する皇族女性の皇族でない婚約相手が抱えている借金トラブルでさえこのように解決しようとする人がいるぐらいであれば、皇族その人が求める事柄にはどれだけ多くの人が自ら進んで解決しようとするでしょうか。エフロンがアブラハムに無料で墓所となる土地を譲ろうとしたのは、正にこれと同じことでした。というのもアブラハムはヘテ人にとって天皇のような人も同然だったからです。私たちも当然ながら皇族の方には、このようにするのが望ましいのは言うまでもありません。しかしながら、私たちキリスト者の場合、先祖から受け継いだ土地だけは相手が皇族であろうがアブラハムであろうが譲ってはなりません。これだけは例外です。何故なら、聖書では『あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。』(箴言22:28)と命じられているからです。

【23:12~13】
『アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあながた許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」』
 エフロンの言葉を受け、アブラハムはまたも丁寧に応じつつ、その土地を買いたいとヘテ人たちの前で伝えました。これは先にも述べたように彼がヘテ人に貸しを作りたくなかったからです。やがて自分の子孫によりその住んでいる土地から除外される民族に貸しを作るのは、自殺行為です。それゆえ、アブラハムが土地を買おうとしたのは正解でした。相手は呪われた民族なのですから、もし貸しを作れば後ほど何をされるか分かったものではないのです。

【23:14~18】
『エフロンはアブラハムに答えて言った。「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀400シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀400シェケルを計ってエフロンに渡した。こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。』
 人格者たちの会話ややり取りにおいては、事が穏やかに進むものです。何故なら、人格者とはすなわち紳士であって、自己を抑制し、相手の意志が重んじられるべきことを弁えているからです。このアブラハムとエフロンもその通りでした。ですからエフロンは、無料でアブラハムに土地を譲りたいという思いを抑え、出来るならば土地を買いたいというアブラハムの願いを尊重したのです。このためエフロンは対象となっている土地に2人にとって適切であると思われる『銀400シェケル』の値段を付けることにしました。こうしてアブラハムはエフロンの所有する土地を買い取ることになったのです。この箇所で『銀』が交換手段として使われており、「金」でなかったのは、恐らくアブラハムの時代には銀がお金として使用されていたからなのでしょう。アビメレクもサラのために『銀千枚』をアブラハムに対して与えています(創世記20:16)。この時代には明らかに銀が価値ある物質として見做されています。しかしソロモンの時代になると、銀は無価値な物質として見做されることになっています(Ⅰ列王記10:21)。アブラハムはここですぐに土地の代価を支払っています。恐らくアブラハムはすぐにも土地を買えるようにと、十分な財産を携えて来ていたのでしょう。

【23:19~20】
『こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。』
 このようにしてアブラハムはサラをカナンの地へと葬りました。私は先にサラがカナンに葬られることになったのはカナンで死んだからだと述べましたが、アブラハムがサラをカナンに葬ることにしたのは、カナンがアブラハムとその子孫に与えられた土地だったからでもあるのでしょう(創世記17:8)。カナンはやがてアブラハムの子孫が実際に自分たちの所有とすることになります。つまり、カナンの地はやがてアブラハムの所有地となるわけです。そのような約束の地に妻を葬ったのは当然だったと言えます。

【24:1】
『アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。』
 アブラハムほどの人でも老いの運命から逃れることは出来ていませんでした。人は生まれた以上、必ず老いなければなりません。しかし老いるのを嘆いたところで、どうしようもありません。嘆いたからといって誰が老いの運命に逆らえるでしょうか。大切なのは老いるのを嘆くことではなく、神を愛し、神に喜ばれることです。何故なら、人間とは神のためにこそ創造されたからです。アブラハムはこのことをよく理解している人でした。

 神は、老いのうちにあるアブラハムを全ての面で祝福しておられました。つまり、アブラハムは健康であり、何をしても上手に成し遂げることができ、不安や恐れもなく平安だったということです。ご覧ください。神を愛して神に服従する人には、このような祝福が与えられるのです。私たちもアブラハムに与えられたような祝福を望みたいところです。何故なら、神の祝福とは実に好ましいものだからです。

【24:2~4】
『そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」』
 アブラハムには『自分の全財産を管理している家の最年長のしもべ』がいました。アブラハムには多くの財産がありました。それを管理するのは易しいことではなかったはずです。このように財産が管理されていたなら、アブラハムの家にいた奴隷や家畜、また社会的な行政手続きなども管理されていたに違いありません。このことから次のように言えます。すなわち、アブラハムの家にはよく行き届いた管理体制と秩序があったはずです。アブラハムともあろう人が、管理されていない領域の存在や惨めに思える無秩序を許したままでいるはずが一体どうしてあるのでしょうか。

 アブラハムはこの僕に誓いを立てさせています。それは僕の手をアブラハムのももの下に入れるという方式でした。恐らく、これが当時の誓い方だったのでしょう。この誓い方がアブラハムから始まったのか、それともアブラハムよりも前からあったのかは、よく分かりません。また、僕がアブラハムのももの下に手を入れたのは、アブラハムのももの下からやがて生まれるキリストを念頭に置いていると考える人もいます。アブラハムがこのように誓わせたのは間違っていませんでした。何故なら、アブラハムは『天の神、地の神である主にかけて誓わせ』ているからです。これは律法に適った誓いです。

 この僕は非常に信頼されていたのでしょう。彼にはイサクの妻探しさえ任されています。アブラハムはこの僕なら不忠実なことはしないだろうと思っていたに違いありません。この時のアブラハムは、イサクにそろそろ結婚してもらわねばと思っていたはずです。この時のイサクは既に40歳にもなっていたからです。ですから、アブラハムはこの僕にイサクの妻を探すように命じています。ここで私たちは、イサクが親に妻を手配してもらわねばならないほど未熟で独立心に欠けていたと思うべきではありません。これが今の時代であれば、そのように思われても仕方ないかもしれません。しかし当時においてイサクがこのようにされたとしても、イサクは未熟だったことにはなりません。何故なら、古代では親が子に妻を娶らせるというやり方が一般的だったからです。このアブラハムは、僕が、カナン人の中からイサクに妻を娶らせるのを禁止しました。何故なら、アブラハムはカナン人が呪われているのを知っていたからです(創世記9:25)。呪われた民族から息子に妻を娶らせようとするのは誰が考えても狂気の沙汰でしょう。ですから、アブラハムは自分の故郷にいるアブラハムと同国人の女から妻を娶らせるように命じています。そのようにすればアブラハムも親としても安心できるからです。確かに自分と同じ国民の人が自分の子どもと結婚するということほど私たちにとって平安となる結婚はないはずです。ハガルも自分と同じ民族であるエジプト人の女をイシュマエルに妻として娶らせています(創世記21:21)。

【24:5~8】
『しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」』
 僕は、もし結婚相手かと思われた女が結婚するために来なかったらイサクをアブラハムの出身地に連れ帰らなければいけないのか、と尋ねています。これは彼の思慮深さを示す質問です。このように思慮深いからこそ、アブラハムは全財産を彼に任せていたのでしょう。この質問に対し、もしその女が来ようとしなければ僕との誓いは無効になるとアブラハムは答えました。何故なら、女が行くのを拒んでいたら、どうすることも出来ないからです。アブラハムは、結婚は両性の合意に基づくべきであるということを、よく理解していたのです。確かに結婚とは当事者である2人を含めた誰もが首肯するようにして実現されるべきです。それは聖書でこう言われている通りです。『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。』(ヘブル13章4節)またアブラハムは、女が一緒に来ようとしなかった場合でも、イサクをアブラハムの故郷に連れ戻してはならないと言っています。これには2つの理由がありました。一つ目は、アブラハムとその子孫は、カナンの地にこそ住んでいるべきだからです。神はアブラハムとその子孫にカナンをお与えになったのですから(創世記17:8)、これは当然のことです。二つ目は、アブラハムの故郷には偶像崇拝が満ちていたからです。神の契約を持つイサクが、そのような場所にいて霊性を衰えさせるなどということはあってはならないことでした。このようにアブラハムの心はイサクがアブラハムの生まれ故郷に留まらないことでした。ですから、アブラハムはこのことを厳重に注意させています。

 またアブラハムは、旅立つ僕に対して神が御使いを遣わして下さるとも言っています。アブラハムは、自分をこれまで導き誓いを立てて下さった神が御使いを遣わして下さるから全てが上手に行くはずだ、と言いたかったのです。確かに神が御使いを遣わして下さるのなら、万事は上手に進むことでしょう。この『御使い』とは実際の御使いのことです。これは何かの象徴表現ではありません。

【24:9】
『それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。』
 僕は聞くべき事柄を聞いたので、アブラハムの言った通りにして誓いを立てました。これでこの僕がイサクにカナン人の娘を娶らせることは出来なくなりました。誓いを立てた以上、そのようにすれば裁きが下されるのですから。

【24:10】
『しもべは主人のらくだの中から10頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。』
 こうして僕は旅立ちましたが、その時にはラクダ10頭とアブラハムの持つ貴重品を携えて行きました。これは女に結婚する気を起こさせるためです。顔は不細工ですが金持ちなので美人の妻を持っている男性を見たことがあるでしょうか。私はあります。また、極めて愚かですが金持ちなので才色兼備の妻を持っている男性を見たことがあるでしょうか。アビガイルの夫ナバルが正にこれでした(Ⅰサムエル記25:2~3)。女性では、お金さえ多くあれば男の内容はそれほど問題にしない、という人が少なくありません。何故なら、お金があれば良い生活ができ困らないからです。ラクダと貴重品を持って行ったこの僕がこのような女の心理をよく理解していたのは間違いないと見てよいでしょう。もちろん、全ての女性がこのようだと私は言っているわけではありません。「私は愛していない男性とは結婚しません。例え相手がクズ屋でもイギリス国王でもね。」と言ったダイアナの姉セーラのように、お金よりも愛を第一とする女性も多くいます。ただ愛があろうとなかろうと、結婚および夫婦生活において財産は重要な要素とならざるを得ません。実際、財産の乏しさが理由となって夫婦関係が壊れたり離婚に至るケースは珍しくありません。ですから、この僕がラクダと貴重品を女に見せつけてイサクにおける財力の度合いを知らせようとしたのは正しいことでした。

 僕が行った『ナホルの町』とは実際の町の名前ではなく、単にアブラハムの兄弟ナホルが住んでいた町という意味に過ぎません。この町はメソポタミア地域にありました。

【24:11~14】
『彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」』
 僕は、イサクの妻となる女を確実かつ迅速に知れるようにと、その指標となる事象を神に指示しています。すなわち、僕が『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言ったことに対して『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と応じた女性こそがイサクの妻だと分かるようにして頂きたい、と。僕はどうしてこのような女性を願い求めたのでしょうか。それはイサクに幸いな妻が与えられるためです。僕である自分のラクダにさえ気を使ってくれる慈愛があるならば、夫には尚のこと慈愛を持って従うであろう。僕がこのように考えたと私は推測します。キリストが言われたように『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実』(ルカ16章10節)です。ですから確かに、僕とそのラクダに良くするという小さな善が出来るのであれば、夫のために良くするという更に大きな善も必ず出来ることでしょう。カルヴァンはこの僕の願いが肉的であると否定的に見做しています。カルヴァンは正しいことを言っている場合が多いのですが、これについては私はそのように思えません。何故なら、この時に僕は「何としてもイサクのために妻を迎えねばならない。」という義務感と熱心さの精神から、こう願ったからです。それゆえ、私はこの僕の願いを、僕における真面目さの現われとして見做したいと思います。

 ここで僕は『この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。』と言っていますが、古代において水汲みは娘たちのする仕事でした。キリストの時代にも、やはり女が水汲みの仕事をしていました(ヨハネ4:7)。

【24:15~16】
『こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。』
 僕が祈っている間に、僕の祈りは聞かれました。イサクの妻となるリベカが僕のところにやって来たのです。僕の願いは神の御心に適っていました。ですから即座に祈りが聞かれたのです。このように御心に適った祈りであれば、即座に祈りが聞かれることもあります。ダニエルもこのようにして祈りが聞かれています(ダニエル9:20~22)。イザヤ書で次のように書かれている通り、天国でも事情はそのようです。『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』(イザヤ65章24節)しかし、私たちが御心に適った祈りを捧げても、すぐに祈りが聞かれないこともしばしばあります。そのような時、私たちは決して失望すべきではありません。何故なら、神はその祈りが実現されるべき時期を完全に知っておられるからです。明らかに御心に適った祈りを捧げているのに、私たちがなかなか聞かれないと思っているのは、まだ神の時が来ていないからなのです。それゆえ、私たちは忍耐を持って祈り、神に信頼することを止めない必要があります。

 僕のところに来たリベカは美人でしたが、ここではその美しさが首肯されています。聖書では他にも美人の美しさを肯定している箇所があります(エステル2:7、ヨブ42:15)。これは当然です。何故なら、美人における美しさとは、神から与えられた大きな恵みだからです。誰がこれを疑うでしょうか。ですから、その美しさそのものを否定するのは感覚の崩壊を意味しています。聖書には女性の美しさを否定的に取り扱っている箇所もありますが(箴言31:30)、これは美しさそのものを否定しているわけではありません。この箴言の箇所では、単に「神を恐れることに比べれば美しさなど取るに足らない」という比較的な意味において女性の美しさが否定されているだけに過ぎないからです。

 このリベカは『泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た』のですが、これが彼女の日課だったことは疑い得ません。このようにしてリベカは僕の見ている前で、日々の仕事をいつも通りに行なったのでした。