【創世記25:27~27:13】(2021/06/06)


【25:27~28】
『この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。』
 2人は成長してそれぞれ全く異なる者となりました。エサウは男らしいものの野蛮な人となりました。彼は猟の仕事をしていたようです。ヤコブは天幕で穏やかに生きている人でした。恐らく、親に従って家事の手伝いをしていたのでしょう。ヤコブは大変な財産家だったからです。ヤコブが何もしないで怠惰にしていたと考えるのは難しい。後の箇所を見れば分かるように、ヤコブは忍耐強く労苦する人だったからです。それに、イサクとリベカが怠けていることを許さなかったはずです。ここまでヤコブとエサウが違うと、ただ一緒に生まれて来たというだけで、もはや双子とは思えないほどです。しかし、ここまで異なる性質を持つのが神の御心でした。

 イサクは、『猟の獲物』を持って来てくれるエサウのほうを愛していました。これはイサクの過ちでした。神はリベカに対してイサクの優越を告げ知らせておられました(創世記25:23)。イサクはそのことを知っていたはずです。また、この2人の子に関する神の言葉はこうです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9章13節)神に憎まれたエサウを神の子であるイサクが愛するのは相応しくありませんでした。イサクは実のところ、神がヤコブをエサウの上に置いておられると知っていたのですが、エサウにより齎される美食に騙されてしまっていたのです。目の前に差し出された快楽が人を惑わすことは否定できません。しかし、イサクがその快楽を乗り越えて神の意志に心を留めなかったのは間違っていました。一方、リベカはヤコブのほうを愛していましたが、これは正解でした。何故なら、リベカは神の愛されたヤコブを愛していたからです。私たちはイサクのようにならないようにせねばなりません。神の判断こそが私たちにとっては大事なのですから。

【25:29~30】
『さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。』
 ヤコブが煮物を料理している時、飢え疲れて野から帰って来たエサウがそれをヤコブに求めました。ヤコブが料理していたのは、親のためか、自分のためか、客人または友人のためか、僕のためだったはずです。エサウのために料理していたというのは考えられません。何故なら、ここでエサウはそれを自分用の料理として取り扱っていないからです。もしこれがエサウの食事として作られていたとすれば、続く箇所でヤコブが長子の権利と引き換えにそれをエサウに食べさせようとしていることが説明できなくなります。つまり、エサウにはヤコブの作っていた料理を食べる権利が無かったことになります。ここまでの出来事には何の問題もありません。義人でさえ空腹になれば食物を求めることがあるからです。問題なのはこれからです。

 この出来事のゆえエサウは『エドム』と呼ばれることになり、エサウの子孫は「エドム人」と呼ばれることになりました。「エドム」とは「赤い」という意味です。

【25:31~33】
『するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。』
 ヤコブは、もしエサウの長子権を譲渡するならば食物を与えよう、と言いました。ヤコブがこの時にふと長子の権利を求めたということはないと思われます。恐らくヤコブはずっと前からエサウの長子権が欲しいと思っていたはずです。その思いが時至って言葉に表されたということです。というのも、キリストが言われたように『心に満ちていることを口が話す』(マタイ12章34節)からです。これはあまりにも凄まじい取引でした。これを例えるならば、遠い未来に有効となる100億円の引換券を1000円で引き渡させるようなものであり、1位の皇位継承権をレストランの食事と交換するようなものです。このような取引に応じる者がどれだけ愚鈍であるかということは、わざわざ説明する必要もないでしょう。

 ところがエサウは愚鈍でしたから、この取引に応じてしまいました。ヤコブは確証を得るために誓いを要求しましたが、エサウはその通りにしてしまったのです。もしエサウが誓ってはいなければ撤回することも出来たかもしれません。しかし『エサウはヤコブに誓った』のです。このためエサウの持っていた長子権がヤコブに移行することは確定事項となってしまいました。

 私たちは、長子の権利を譲渡するぐらい別に何でもないではないか、と思うかもしれません。現代は平等崇拝のため階級意識が薄れてしまった時代ですから、昔の人に比べて、尚のこと私たちはこの取引の重要性について理解しにくいところがあるかもしれません。私は言いますが、実のところこの譲渡はあまりにも重大な意味を持っていました。何故なら、エサウの長子権とは、エサウの人生全体に、いや、それどころかエサウの子孫たちにさえ大きな影響を及ぼす権利だったからです。それは、この長子権のゆえに与えられた幸いな祝福が書かれている後の箇所を見れば分かる通りです(創世記27:26~29)。この時のエサウはまだ長子権の重要性についてよく悟っていませんでした。後になるとその重要性を悟ったので、食物と引き換えにしたことを泣き悲しむことになってしまいました(創世記27:38)。つまり、これはそれほど重要な意味を持った権利だったということです。

 私たちはこのエサウのようにならないようにすべきです。そのようになったら私たちはお終いだからです。エサウのような者を神は喜ばれません。それゆえ、私たちはヘブル書の次の言葉を心に留めるべきです。『一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。』(ヘブル12章16~17節)

【25:34】
『ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。』
 このようにしてエサウは自分の長子権をヤコブに売り渡しました。この時のエサウは長子権などゴミも同然でした。永続的な幸いを齎す権利を僅かな食物と引き替えにして捨て去る。これは愚かの極みと言わねばなりません。腐った狂気がエサウを占領していたのです。エサウのような者に災いあれ。

【26:1】
『さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。』
 再び飢饉が起きた『この国』とは、イサクが住んでいたカナンの地です。聖書が教える通り、飢饉とは罪に対する罰として起こる災いです。イサクの時代には全世界が偶像崇拝で満ちていましたから、大々的な飢饉が起こることは珍しくありませんでした。この飢饉のため、イサクはかつてアブラハムがそうしたように、ペリシテ人のアビメレク王のもとへ行きました(創世記20章)。同じことは繰り返されるものです。

【26:2~5】
『主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」』
 神はイサクに現われてエジプトへ行くなと命じられました。イサクはエジプトに行くべきでなかったからです。エジプトとは邪悪さと倒錯に満ちた国でした。そのような国にイサクが住めば信仰が歪んでしまいかねません。ですから神はイサクの信仰を守ろうとしてエジプトに行ってはならないと言われたのです。神は、むしろゲラルに住むようにとイサクに命じておられます。ゲラルであればイサクの信仰がおかしくならずに済むからです。

 また神はイサクを祝福されるとも言われました。これはイサクとその子孫とにカナンの地が与えられるからです。カナンの地を受けるような人間であるイサクは、祝福されるべき存在だったわけです。このカナンはイサクには約束において与えられただけでした。しかしイサクの子孫であるイエス・キリストには実際的に与えられました。ここで『子孫』と言われているのはキリストのことです。この『子孫』とはユダヤ人の全体のことではありません。何故なら、この『子孫』とは明らかにある個人を言っているからです。神がここで言っておられるように、イサクの子孫は『空の星のように増し加え』られました。これは歴史を見れば分かる通りです。また、ここで『こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。』と言われているのは、つまりイサクの子孫であるイエス・キリストによりあらゆる国民が御国の祝福へと入れられる時代すなわち新約時代のことを言っています。これはパウロがガラテヤ書で示している通りです。

 これらの恵みがイサクとその子孫に与えられるようになったのは、アブラハムが神に服従したからでした。しかし、ここではアブラハムの服従に報いが与えられると言われているのではありません。これは単にあたかもアブラハムの行ないに見返りが与えられるかのように言っているだけに過ぎません。何故なら、良いものは全て神の恵みにより生じるのだからです。これはヤコブ1:17の箇所を見れば分かる通りです。もし人間の行ないによって良いものが得られるとすれば、もはや神の恵みは恵みでなくなってしまうことになります。聖書には、このようにあたかも人間の行ないに功績としての報いが与えられるかのような言い方をしている箇所が、多く見られます。

【26:6~7】
『イサクがゲラルに住んでいるとき、その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です。」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。』
 イサクは、父アブラハムと同様、その妻が美人でした。同じ出来事は繰り返されるものです。イサクは、アブラハムがそうしたように、ゲラルの人々に対して自分の妻を「妹」と思わせるようにしました。アブラハムが妻を妹として取り扱ったことについては、創世記20:1~2の箇所で見た通りです。イサクはアブラハムのゲラルにおける出来事を知っていたのでしょうか。これはどうだったか分かりません。もし知らなかったとすれば、イサクのうちにあるアブラハムと同一の遺伝子が、知らず知らずのうちにアブラハムと同一の振る舞いを引き起こさせたことになります。親と同じ遺伝子を持つ子が、親と同一の振る舞いをしたとしても不思議ではありません。もし知っていたとすれば、イサクは意識的にアブラハムの真似をしたのでしょう。「父と一緒のことをすれば助かるはずだ。」などと思って。しかし、この2人の振る舞いには幾らか違った点がありました。アブラハムが妻を妹と言ったのは本当でした。一方、イサクが妻を妹と言ったのは本当ではありませんでした。何故なら、妻のリベカはイサクにとって親戚だったからです。つまり、イサクはアブラハムと違って嘘を付きました。神の律法では嘘が罪に定められています。ところで、このイサクの件もそうですが、昔から美人を妻に持つと不幸や悲惨に陥ることが少なくありません。古代ではよく「美人を妻にすると所有できない。」と言われていました。何故なら、美人の妻は夫以外の人たちにもその美が視覚的に賞味されることとなるからです。美人の妻をジロジロと見られる夫の気持ちは快くはないはずです。若い人で、そのようになりたくない人は、美的に並か、並よりもやや上ぐらいの女性を妻にするのがよいでしょう。

【26:8~9】
『イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクが妻のリベカを愛撫しているのが見えた。それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です。』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」と答えた。』
 ゲラルの王アビメレクは、イサクがリベカを愛撫している光景を見て、リベカが実はイサクの妻であることに気付きました。何故なら、普通であれば姉妹を愛撫する人などいないからです。そのようにするのは獣的な精神を持った愚か者だけです。この出来事からも分かる通り、この世では何かをずっと秘密にし続けることは絶対にできません。それはキリストがこう言われた通りです。『隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。』(マルコ4章22節)それは神が秘密にされていることを闇から明るみへと引き出されるからです。こうしてアビメレク王はイサクを呼び寄せてイサクの罪について指摘しました。アビメレク王がこうしたのは当然です。これはイサクのほうに非がありました。

 イサクは恐れのため仕方なく嘘を付いたのかもしれません。アブラハムの場合はまだ許せる振る舞いでした。何故なら、アブラハムは妻を妹と言ったものの嘘を付いておらず、ただ事実を半面しか告げなかったに過ぎないからです。しかしイサクのほうは嘘を付いたのですから、弁解の余地がありませんでした。これでは非難されても文句を言えません。イサクは嘘を付くのでなく、むしろ万物の支配者であられる神に助けと守りを求めるべきでした。

【26:10~11】
『アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」』
 アビメレクはアブラハムの時に起きた出来事から大いに教訓を得ていました。すなわち、民が聖なる人の妻と、たとえ知らず知らずのうちにであったとしても寝るならば、その国には裁きが下されることになるという教訓です。このため、アビメレクはイサクを呼び寄せて彼の嘘を糾弾したのでした。それというのも『もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった』からです。

 これからゲラル人の誰かがイサク夫婦と淫行をすれば、ゲラルの国とアビメレク王は大変なことになってしまいます。そうなったら、ゲラル人の全てが滅ぼされることにもなりかねません。何故なら、聖なる人イサクまたはそのイサクの妻が汚されるからです。これはゲラル人が神に対して宣戦布告をすることも同じです。神に宣戦布告をする民がどうして安全なままでいられるでしょうか。実際、後に見ることになりますが、シェケム人たちはこのことのために全滅させられてしまいました。シェケム人は聖なる人ヤコブの娘ディナを犯したからです。神は御自身の民を犯す者たちに復讐されます。このため、アビメレク王はゲラル人がイサク夫婦に触れることさえ禁止しました。このようにするのが、神の裁きを招来させないためには最も手っ取り早く確実だったからです。しかし、ここでこう思う人もいるかもしれません。「裁きを招来させないためであったとしても、触れてすらならないというのは少しやり過ぎではないのか。」私は言いますが、アビメレクの禁止命令はやり過ぎではありませんでした。何故なら、姦通はほんの小さな一歩から始まるからです。魅惑的な異性に触れられて情欲を刺激されないような人はごく少ないのです。このため、お金の魅力に取りつかれている娼婦たちはまず触れるということから事を始めようとするわけです。この後、イサクの生活には恐らく支障が出たと思われます。例えば、物の受け渡しをする際にイサクとゲラル人は注意しなければいけなかったと推測されます。それはゲラル人がイサク夫婦に接触するのを恐れただろうからです。しかし、それは王が厳命を出したからそうなったのですから、イサク夫婦にとっては仕方がないことでした。

【26:12~13】
『イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。』
 イサクは神に祝福されたので大いに繁栄することとなりました。この繁栄は誰から見ても神の祝福を思わせるものだったに違いありません。何故なら、ここまで短期間のうちに繁栄するというのは、神の祝福抜きには考えられないことだからです。現代の私たちは裕福になったと聞くと、金銭的な意味における裕福さを想像しがちです。つまり、例えて言えば100億円のお金を持っている 人を想像しがちです。しかし、イサクの時代における金持ちは、金銭的な意味合いで金持ちと認識されているわけではありませんでした。当時の繁栄における基準は、家畜や奴隷の数だったからです。恐らくイサクの時代に生きていたと推測されるヨブが裕福であると聖書の中で言われているのも、やはりその判定基準は家畜および奴隷の数に置かれています(ヨブ1:3)。このイサクも、そのような基準において『裕福になった』とここでは言われています。私たちはまだイサクの時代には現在のような貨幣制度が全く構築されていなかったことを知るべきでしょう。

 このイサクの例からも分かりますが、人の成功と繁栄は、全く神の祝福によります。神が祝福されると全てが成功に結び付き繁栄するに至るのです。ヴォルテールはこう言ったものです。「成功の流れに乗ると、何をしても上手に行き、何を言っても注目される。その流れに乗れば自分の良いと思うようにすればよい。」(「ルイ14世の世紀」)確かに神の祝福とはこのようです。神はこの祝福を悪人にもしばしばお与えになります。ある人によれば、悪人も祝福されて繁栄するのは、悪人が悔い改めに導かれるためだといいます。しかし、この理解は間違っていると私には思えます。何故なら、祝福されて金持ちになった人で悔い改めに導かれた人がどこにいるのでしょうか。金持ちになった人は、むしろ大いに高ぶるようになるのが普通です。つまり、悔い改めからますます離れるようになります。ソロモンもこう言っています。『富む者は自分を知恵のある者と思い込む。』(箴言28章11節)ここで『知恵のある者と思い込む。』と言われているのは、つまり高ぶるということです。聖書によれば、悪人も祝福されて繁栄するのは、悪人が大いに高ぶって人一倍厳しい裁きを地獄で味わうようになるためです。詩篇92:7の箇所でこう言われている通りです。『悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者がみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。』つまり、忘恩の咎が更に増し加えられるために彼らは繁栄させられるわけです。

【26:14~16】
『彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいた。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」』
 裕福になったイサクを、ゲラルのペリシテ人たちは愚かにも妬みました。そして、その妬みに突き動かされるかのようにしてイサクの父アブラハムの僕たちが掘った井戸を全て塞いでしまいました。これは今の時代で言えば、大いに成功した企業を妬んだ人がその企業の工場を片っ端から火事にさせるようなものです。まだ水道も無かった当時において、井戸を塞がれるという仕打ちは、多くの僕たちと家畜を抱えるイサクにとっては大きな試練となったはずです。水が無ければ人も動物も死んでしまうのですから。アビメレク王も、イサクにゲラルから出て行くように求めました。何故なら、イサクがゲラル人のうちにあって強大になり過ぎたからです。ここで「イサクという一個人に過ぎない者がゲラルという一国をも凌駕するほどの強大さを持てたとでもいうのか。」などと思う人がいるかもしれません。私たちは、ゲラルという国がそこまで巨大な国ではなかったと考えるべきです。そうだとすれば、イサクという個人がゲラルという国の脅威となるほどに力を持ったとしても不思議なことはありません。このゲラルは小規模な国だったとすべきでしょう。

 この出来事からも分かる通り、妬みは害へと昇華されるに至ります。妬みの度合いが激しければ激しいほど、害の度合いも激しくなります。つまり、害の度合いは妬みの度合いを反映しています。また後ほど見ることになりますが、ヤコブの子どもたちは、ヨセフを妬むあまりヨセフを殺そうとしました。このことからヤコブの子どもたちの妬みがどれだけ激しかったか分かります。私たちは、人を妬まないようにせねばなりません。主なる神はこう命じておられます。『すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。』(出エジプト20章17節)私たちが妬まなければ、妬みに基づく害も引き起こされることはありません。害という名の実を生らせる妬みという名の種は、先ずもって心という名の地面に蒔かないようにすべきなのです。

【26:17~18】
『イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。』
 ゲラルから追い出されて谷間に住むようになったイサクは、かつてアブラハムにより掘られたのですが後に塞がれてしまっていた井戸を、再び掘り直しました。まったくペリシテ人たちは、とんでもないことをしたものです。彼らがサタンに取り憑かれていたことは間違いありません。サタンに動かされていたのでなければ、どうして聖なる人アブラハムの掘った井戸を封じるということがありましょうか。イサクはその井戸にアブラハムが付けていたのと一緒の名前を付けました。これはイサクの父に対する敬意からされたことです。このイサクという人は親を蔑ろにする人ではありませんでした。

【26:19~20】
『イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。』
 水道を回せば水を得られる現代とは異なり、古代は水に計り知れない重要性がありました。古代人にとって水は常に生きるか死ぬかにかかっていました。そのような大切な水の発生源である井戸を憎きイサクが所有するのは、ゲラル人にとって耐え難いことでした。このため、ゲラル人の羊飼いたちはイサクの僕たちが見つけた井戸を横取りしようとしました。聖書は、この井戸の発見者がイサクの僕たちだったと言っています。ですから非はゲラル人にあったことが分かります。この出来事があったのでイサクはその井戸を『エセク』すなわち「争い」と名づけました。これはその井戸が最終的にイサクの所有になったからではないかと考えられます。というのも自分の所有でない井戸に名前を好き勝手に付けるというのは考えにくいことだからです。

【26:21】
『しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。』
 前にも述べましたが同じようなことは何度も起こるものです。イサクの僕たちは再び新しい井戸を掘りましたが、再びゲラルの羊飼いたちがそれを横取りしようとしました。イサクはその井戸に『シテナ』という名を付けましたが、これは「敵意」という意味です。この出来事がイサクにとって大きな試練だったのは間違いありません。しかし、神はこのような苦しみを通して、イサクの信仰と忍耐心を更に鍛えられました。このような試練は意味もなく起こるものではないのです。

【26:22】
『イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」』
 3度目に掘った井戸ではゲラル人との問題が起こりませんでした。その井戸にイサクが『レホボテ』と名づけたのは「広々とした所」という意味です。ここでイサクが『ふえるようにしてくださった。』と言っているのは、僕たちと家畜の増殖についてです。これはイサクとリベカが増えることを言っているのではありません。何故なら、これから後、イサクとリベカが子を産むことはないからです。彼らの子はヤコブとエサウの二人だけですが、その子たちはもう既に産まれています。

【26:23~24】
『彼はそこからベエル・シェバに上った。主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」』
 ゲラルからベエル・シェバへと移ったイサクに神が現われ、イサクを強め励まされました。それはイサクに小心なところがあったからです。『恐れてはならない。』という神の言葉がそのことを示しています。神はイサクに『わたしがあなたとともにいる。』と言われました。これはイサクが神により完全に守られるということです。『わたしはあなたを祝福し』と言われているのは、イサクの為す業が上手に進むということです。つまりイサクは呪われていませんでした。『あなたの子孫を増し加えよう。』という約束は既に実現されています。イサクの子孫であるユダヤ人たちは数百万人の規模まで増え広がったからです。これらの恵みを神は『しもべアブラハムのゆえに』イサクへ注がれると言っておられます。つまり、アブラハムがいなければ、イサクにはこのような恵みはなかったということです。神は祝福されたアブラハムのゆえにこそ、その子であるイサクも祝福に相応しいとされました。ですから、アブラハムを抜きにしてイサクが祝福されるというのは考えられないことなのです。

【26:25】
『イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。』
 イサクは神が現われて下さった場所に祭壇を築いて、神に祈りました。つまりイサクは礼拝しました。ここにはイサクの敬虔さが現われています。その祭壇には、神が現われて下さったことを感謝する徴の意味もあったはずです。また、神が現われて下さったことを記念する意味もあったはずです。例えば、王族や有力者が大きな病院を建ててくれた場合、その病院の入口か庭にはそれが王族または有力者によることを示す記念碑が作られることにもなりましょう。また天皇家や有名人が訪れたお店であれば、その時の写真が記念としてお店にずっと飾られているものです。イサクが神の現われた場所に祭壇を築いたのは、これと似ています。イサクはこの場所に天幕を張り、そこで生活することにしました。何故なら、そこは神が現われて下さった場所だからです。イサクの僕たちも、そこに井戸を掘りました。これはその場所を生活の拠点とすることになったからに他なりません。

【26:26~29】
『そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」』
 アビメレク王は、イサクが神に祝福されていることを悟っていました。私が先に述べた通り、イサクが短期間に繁栄した幸いのうちには、誰でも神の祝福を感じずにはいられなかったのです。そのように祝福された人に敵対されたら、致命的な脅威となることは目に見えています。そのためアビメレク王は、イサクと平和の契約を結ぼうとやって来ました。そのような契約を結べば、もはやゲラルの国はイサクを脅威とせずに済むからです。アビメレク王は何としてもイサクによりゲラル国が滅びるのを避けたかったので、このように契約を結びに来たわけです。この時にアビメレクが『将軍ピコル』と一緒にやって来たのは、事柄の重要性をよく物語っています。『友人のアフザテ』という人物についてはよく分かりません。これは貴族か大富豪だったかもしれません。アビメレク王は、かつてアブラハムともこのような契約を結んでいました(創世記21:22~24)。既に何度も述べましたが、同じ出来事は何回も起こるものです。これは私たちの経験も証ししています。私たちキリスト者は、このような社会契約であれば結んでも問題ありません。それは敬神と信仰を傷つけないからです。

 この箇所からも分かりますが、神に祝福されている人は、その敵に恐れを抱かせるようになります。これは当然と言えば当然です。祝福された人には無敵の神が共にいて下さるのです。そのような人を敵が恐れたとしても何も不思議ではありません。ちょうど屈強なボディーガードに囲まれている要人が、そのボディーガードのゆえに恐れられるのと一緒です。ダビデもキリストもルターも父なる神に祝福されていたので、大勢の敵から恐れられることになりました。

【26:30~31】
『そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。』
 イサクはこの平和の契約に合意しました。契約を結ぶ前に、両者が飲み食いしたり寝たりしたのは、両者に平和が構築されていることを証示させるためです。というのも、平和が構築されていない者たちが飲み食いしたり一緒に寝たりするというのは、普通であれば考えられないからです。そして翌朝になって契約が結ばれ、イサクは彼らを平和のうちに送り出しました。こうしてゲラルの国はもはやイサクを脅威とせずに済むこととなりました。イサクもゲラルおよびアビメレク王と問題を起こさずに済むこととなりました。このようになったのは神の恵みです。すなわち、神が両者の間に平和を与えて下さったのです。私たちもイサクのように平和を求めるべきでしょう。それは神の御心に適っているからです。神はこう言っておられるのです。『平和を求めてこれを追い求めよ。』(Ⅰペテロ3章11節)『平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。』(マタイ5章9節)

 聖徒であればイサクのように善には積極的になりたいものです。平和の締結や和解の要求や救援の要請といった事柄には素早い姿勢を取るということです。離れ去った者が悔い改めて戻って来た場合も、そうです。つまり「来る者拒まず」ということです。もっとも、相手が悪魔だったり、欺かれることが明白であったり、神とその命令に背く結果が生じるという場合であれば、話は別です。そのような場合は頑固になってはねつけねばなりません。例えば、エホバの証人が私たちと協同また愛の関係を結びたいとやって来た時には、その要求を受け入れてはなりません。「もう悪く思い合うのはよそう。平和が何より大事じゃないのか。」と言っても駄目です。何故なら、彼らは悪魔なのですから。

【26:32~33】
『ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。』
 イサクの僕たちはまたも井戸を掘り当てました。彼らが井戸を掘り当てたと言われているのは、これで4度目です。このことからイサクの僕たちは非常に勤勉であったと思われます。私たちもそのような勤勉さを持ちたいものです。何故なら、勤勉とは神に似た性質であって、神に喜ばれることなのですから。この箇所では、その井戸のある町の名が『今日に至るまで』ベエル・シェバと呼ばれていると書かれています。この『今日』とは、この文章を書いているユダヤ人が生きていた時代における『今日』です。

【26:34~35】
『エサウは40歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。』
 エサウはカナン人の女を妻にしました。これは主の御心に適わないことでした。エサウはカナン人が呪われていることについて知っていたはずです(創世記9:25)。それなのに彼はカナン人を娶ったのです。これはエサウが呪われていたからなのでしょう。しかも、彼は2人もカナン女を妻にしました。これは2重に不正な結婚です。これは、例えるならばホコリのある所にホコリが集合するようなものです。ホコリはホコリらしくホコリと一緒になるのが相応しいのです。似た者同士は集まります。エサウとカナン人はホコリでした。エサウが結婚したのは『40歳』の時でしたが、これは十分な時間が経過してから結婚したことを示しているのかもしれません。何故なら、聖書で「40」とは十分なだけの量また期間であることを示すからです。イサクが結婚したのも40歳の時でした(創世記25:20)。

 イサクとリベカはこの2人の妻たちに悩まされました。これはカナン女たちが異教をイサクの家に持ち込んだからだと思われます。当時の教会はイサクの家にありましたが、教会に偶像が持ち運ばれるというのは大きな悲惨です。ユダヤ人たちは、カリグラがゼウス像を神殿に持ち込んだ際、大いに戦慄したものでした。敬虔を弁えている人であれば、教会に異教が持ち込まれることの悲惨をよく悟れるはずです。例えば、教会堂に千手観音像が10体持ち運ばれ、礼拝の時にそれを異端者たちが崇拝したとすれば、どうでしょうか。正に阿鼻叫喚の状態。もはや絶望する以外にはなくなってしまうでしょう。このようにして両親を妻により悩ませたのは、エサウが呪われていたことの証拠です。呪われていなかったヤコブは、このように両親を悩ませることがありませんでした。

【27:1~4】
『イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」』
 イサクは死ぬ前にエサウを祝福しておきたいと思いました。そのため、エサウに大好物の食事を持って来るよう求めました。ここで疑問が起こるかもしれません。どうしてイサクは祝福を与えるために大好物を求めたのでしょうか。イサクは美味しい料理を作ってもらわなくても、エサウに祝福を与えることができたのではないでしょうか。確かにイサクは何も受けなくてもエサウを祝福することが出来たでしょう。ですが、イサクはエサウに美味しい食事を持って来させることで、エサウこそが祝福されるに相応しいことを実際的に示したかったのです。つまり、イサクはこう言いたいのです。「エサウよ、お前がいつもしてくれているように、私に美味しい食事を持って来てくれ。そのようにした後、私はお前を祝福しよう。何故なら、そのようにしてくれるお前が祝福を受けるのは相応しいことなのだから。異教徒たちも良いことをする者にこそ祝福が与えられるべきであるということを認めているではないか。」この祝福はただの祝福ではありませんでした。これは1回だけ与えられる特別な祝福でした。これを例えるならば大統領就任式です。大統領就任式が2度も3度も、またはそれ以上行なわれることはありえません。この祝福は一種の儀式であって、契約の恵みを引き継がせる意味がありました。神は御自身の救いの契約に属している者たちに恵みをお与えになります。この時にイサクはその契約のうちに属していました。イサクはその契約の恵みにエサウを与からせようとしたわけです。もちろん、イサクに契約の恵みを引き継がせる権能があるというわけではありません。実際に契約の恵みを引き継がせて下さるのは、他でもない神御自身です。ですから、これはとてつもなく重要な意味を持った祝福でした。2度とないチャンスがエサウに訪れたのです。

 イサクは、神がエサウよりもヤコブを恵んでおられることに無知ではありませんでした。神がリベカに対して『兄が弟に仕える。』(創世記25章23節)と宣言しておられたのを、イサクは聞いていたはずです。それなのにイサクはヤコブを無視してエサウのほうを祝福しようとしました。これは一体どういわけなのでしょうか。本当であればヤコブにこそ祝福が与えられるべきだったのではないでしょうか。答えは簡単です。イサクはエサウが持って来てくれる美味しい食事に惑わされてしまっていたのです。イサクはその大好物のゆえにエサウこそが祝福を受けるべきだと思ってしまっていました。つまり、イサクはエサウが目の前に持って来てくれる美食により、神の宣言に注意を払えなくなっていたわけです。何ということでしょうか、これは?あたかも肉の欲情を満たすほうが神の約束より大事であると言わんばかりではないですか。それゆえ、イサクがエサウを祝福しようとしたのは大きな過ちでした。このことから、聖なる族長イサクも神に選ばれてはいたものの肉の弱さを持った罪人に過ぎなかったことが分かります。

【27:5~10】
『リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」』
 リベカはイサクとエサウの会話を密かに聞いていました。神が、リベカにその会話を聞かせておられたのです。神はヤコブにこそ祝福を得させようとしておられました。ですから、御心が実現されるため、リベカがこの2人の言葉を聞くようにされたのです。リベカは、神がヤコブについて言われた託宣を心に留めていました(創世記25:23)。またリベカはエサウよりもヤコブのほうを愛していました(創世記25:28)。このためリベカはヤコブにエサウへの祝福を横取りさせるように企みました。イサクの視力が衰えているのを利用すれば(創世記27:1)、ヤコブがエサウの代わりに祝福されることも可能だと考えたのです。リベカがイサクの老いによる知的衰えを利用したというのは考えられません。何故なら、イサクが祝福を与えている時の言葉を見るならば、イサクが高齢になっても知的に衰えていなかったのは明らかだからです(創世記27:27~29)。この時のリベカの行動は実に迅速でした。リベカはあたかも前々からこのような計画を立てていたかのようです。これはリベカが神の託宣を直視しており、ヤコブを大いに愛していたからに他なりません。もしヤコブへの祝福が神の御心でなかったとすれば、リベカがイサクとエサウの会話を聞けていたかどうかは分かりません。その場合、エサウはそのまま祝福を受けてしまっていたでしょう。

 ある人は、このリベカの行動に問題があったと考えています。リベカは強引に祝福を横取りしようとするのでなく、神の時が来るのをじっと待つべきだったと。しかし、この時のリベカの行動は信仰の面で見れば称賛に値します。何故なら、リベカはとにかく神の託宣を実現させようと熱心だったのですから。病人の仲間を持っていたユダヤ人たちは、どうしても病人をキリストに癒していただきたかったので、家の屋根を剥がしてまでキリストのもとに病人を連れて行きました(ルカ5:17~26)。この時に主は彼らの無作法に対して憤られるどころか、その信仰をお認めになられたのでした。お分かりでしょうか。神は、御自身に対する信仰の熱心を蔑まれはしないのです。むしろ、その信仰に報いて下さるほどなのです。あのユダヤ人たちも願っていた病気の癒しを与えられました。もちろん、リベカのした欺きと偽りそのものについては首肯できません。それは律法で罪に定められているからです。ですから、リベカを手本として私たちも信仰のためなら欺きおよび偽りに走っていいということにはなりません。ただリベカの場合、そのやり方には幾らか問題があったものの、結果的には良かったというだけのことです。

【27:11~13】
『しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」』
 ヤコブは、兄と自分の毛深さの違いから、イサクを騙すことは出来ないのではないかと心配しています。確かにヤコブとエサウでは毛深さにあまりの違いがありました。またヤコブはもしバレたら呪われるのではないかと恐れています。これはもっともな恐れでした。ところがリベカは、もしバレたならば呪いをヤコブの代わりに受ける覚悟でいました。つまり、リベカは何としてもヤコブに祝福を受けさせたかったのです。これはリベカが神の託宣を大いに重視していた証拠です。また、これはリベカがヤコブを大いに愛していた証拠でもあります。

 それにしても、このリベカの熱心さには驚かされます。女性は、信仰に忠実な人であれば、このように一途に突き進むような人が少なくありません。「周りの状況も自分も顧みない」といった感じなのです。神学と方向性さえ間違っていなければ、このような熱心さは喜ばしいことです。何故なら、神は御自身に一途な信仰者を喜ばれるのですから。