【創世記27:14~28:19】(2021/06/13)


【27:14~17】
『それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。』
 ヤコブは母の命令に従うことにしました。これは恐らく、ヤコブにも祝福を受けたいという願いがあったからであり、もし企みが上手に行かなくても母が何とかしてくれると考えたからなのでしょう。母リベカは『子やぎ』(創世記27章9節)を求めました。これはイサクの大好物が山羊であったことを示します。ここ日本ではあまり馴染みのない山羊肉ですが、ネットを見ると結構美味しいようであり、世界で一番美味しいなどと言っている人もいるぐらいです。人によっても食の好みはありますが、イサクにとっては山羊が好ましかったということです。またリベカはエサウの晴れ着と山羊の毛皮により、イサクをエサウに化けさせました。なるほど、このようにすれば確かに視力の弱っていたイサクを騙すことが出来たでしょう。このリベカの行為からも言えますが、昔から女性は化けるのが大の得意です。批判しているのではなく私は単に真実を言っているだけに過ぎません。最近の有名な曲でも女性歌手が「いつでも女は女優よ」「顔で笑って 心で泣いて」と歌っています。ある女子大生も「あたし隠すの得意だから」と言っていました。確かに女性が化けることを得意とするのは、私たちの実際的な経験からも言えることです。このようにリベカにより外面はエサウに化けることのできたヤコブですが、問題なのは「声」です。声を他人に化けさせるのは発達した現代技術でもかなり難しいと思われます。というのも声とは全くその人に特有のものだからです。今でさえ声の成りすましが難しいのであれば、尚のことイサクの時代には難しかったはずです。この声の問題をどのようにしてヤコブが切り抜けたのか、続く箇所を見て行きましょう。

【27:18~23】
『ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。』
 やはり外面で騙すことは出来ましたが、声で騙すことは出来ませんでした。イサクの耳が老いで遠くなっていたら声でも欺けたかもしれません。しかし、イサクは高齢になっても耳が遠くなっていなかったようです。また、イサクの知能が衰えていれば、声でも騙せたかもしれません。しかし、先に述べたように、イサクは高齢になっても知的に衰えていませんでした。リベカがイサクにエサウを演じさせたのは、そもそも最初から無謀だったと思えます。これは針の穴に太い紐を通すようなものです。つまり、成功はほとんど不可能に近い。しかしながら、続く箇所を見れば分かるように、神はこの企みを成功させられました。神の御心であれば、たとえ人間からすれば不可能に思えても、最終的には必ず成功するのです。

 それにしても、これは驚くべき欺きです。聖徒たちはこのヤコブの振る舞いを真似るべきではありません。確かにヤコブは神に愛された聖なる族長でした。ですが、だからといってヤコブの悪を私たちが見習ってよいことにはなりません。そのようにすれば私たちは罪を犯すことになるからです。神は私たちがヤコブに倣って罪に走ることを望んではおられません。私がこのようなことを言うのは、昔の偉大な聖徒たちであれば、何でもかんでも模倣の対象とする思慮のない人たちが世の中には存在しているからです。

【27:23~25】
『それでイサクは彼を祝福しようとしたが、「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。すると答えた。「私です。」そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。』
 とうとうイサクはエサウに化けたヤコブを祝福しようとします。それは、ヤコブが自分のことをエサウだと言ったからです。すなわち、『私です。』とヤコブは言いました。パウロが言っているように、愛とは疑わずに全てを信じることです(Ⅰコリント13:7)。イサクはエサウを愛していました(創世記25:28)。このためエサウを愛していたイサクは、自分がエサウだと言った偽エサウを信じきったのです。もしイサクがこの時に偽エサウの言ったことを疑っていたとすれば、イサクはエサウを愛していなかったことになります。ですから、イサクが騙されたのは彼の知的衰えが原因だった、と考えるのは誤っています。イサクが騙されたのは衰弱した知能のせいではありません。そうではなく子への愛がその原因でした。この時に持って来られた料理は最上の山羊肉でした。酒も料理と同様、最高級品だったと思われます。

【27:26~29】
『父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」』
 イサクは祝福する前に口づけを求めました。これは親愛を示す印です。子が親愛の念を抱いていないことには、祝福しようにもできません。誰が自分を憎んでいる者に祝福を与えるでしょうか。ですから、まずイサクは口づけを子に求めたのです。古代においてこのような口づけは珍しくありませんでした。パウロも聖徒たちが互いに口づけするように命じています(ローマ16:16、Ⅰコリント16:20、Ⅱコリント13:12、Ⅰテサロニケ5:26)。現代にも、数は多くありませんが、口づけで挨拶する民族が存在しています。今ではこのような風習はほとんど廃れてしまっています。今の時代にこのようなことをしたら、どうなるでしょうか。異性に対してすれば裁判沙汰になりかねません。同性に対してすればあちら系の人だと思われかねません。今こういったことをすれば、まずいことになるのは目に見えています。このような風習は復活させられるべきなのでしょうか。性的にふしだらになっている今の社会状況では到底無理だと言わねばなりません。しかし、性的にクリーンな社会が実現されたならば、こういった風習が復活しても不自然ではなくなるでしょう。要するに性の社会性が問題となります。

 ここではヤコブに3つの祝福が与えられています。一つ目は、生活上の祝福です。イサクは神が偽エサウ(ヤコブ)の生活を恵んで下さるように願っています。『天の露』とは豊かな雨のことであり、『地の肥沃』とは豊穣のことです。二つ目は、ヤコブに国々の民が服従することです。これは、つまりヤコブの子孫であるイエス・キリストにあらゆる国民が平伏する新約時代のことです。キリストが来られて以降、全ての民族が信仰においてキリストに帰依するようになりました。私たちもこのキリストに跪いています。ですから、これは1500年以上も未来に起こる預言でした。三つ目は、ヤコブに対して向けられた祝福と呪いがその人自身に返って来るということです。神はヤコブの味方には味方となり、敵には敵となられました。これは要するに主が傍近くヤコブと共にいて下さるという祝福です。

 それにしてもヤコブは驚くべきことをしたものです。狐が巧妙に働きかけても、ここまで巧みに騙すことは出来なかったでしょう。エサウは本来であれば自分に与えられるはずの祝福がヤコブに奪われたので、大いに憤激しました。しかし、こうなったのはエサウに対する裁きでした。既に見たようにエサウは自分の長子権を愚かにもヤコブに売り渡していました。この長子権により本来であれば長子であるエサウが祝福されることになっていたのです。ですが、その長子権はもうヤコブに移行されてしまっています。ですから、神は奇しき仕方で、ヤコブが弟であるにもかかわらず長子権に基づく祝福を受けるよう働きかけられたのです。これこそ長子権を売ったエサウに対する神の復讐でした。ですから、このようになったのはエサウにとって自業自得です。エサウはあの時に長子権を売らなければよかったのです。そうすれば、このように祝福を弟に奪われることもなかったでしょうに。

【27:30~32】
『イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」』
 何ということでしょうか。ヤコブが祝福を受け終わると、エサウがその時に猟から帰宅しました。そして、美味しい料理を持ってイサクのもとに行っています。しかし、もう既に祝福はヤコブに与えられてしまっています。しかも『おまえはだれだ。』などと父から言われてしまう始末。これは悲劇としか言いようがありません。これが今の時代であれば間違いなく裁判沙汰になることでしょう。

【27:33】
『イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」』
 イサクは騙されたことに気付いて驚愕しています。気持ちは分かります。あまりにもとんでもないことが起きたのですから。ここでイサクが言っていることから分かる通り、イサクが与えた祝福は絶対的な意味と効力を持っていました。しかも、それはただ一回限りだけ与えることの出来る祝福でした。何故なら、それはただの祝福ではなく儀式としての祝福だったのですから。

【27:34~36】
『エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」』
 エサウは、この衝撃的な出来事により、大声で泣き叫んで絶望しました。こうなったのはエサウにその原因がありました。しかし、エサウが泣き叫んだ気持ちは私たちにも分からないことではありません。例えば、ある人が自分の持つ1位の王位継承権を1杯のラーメンと引き替えに売り渡したとしましょう。それまで王位に就いていた王が崩御する時になると、この人は既に王位継承権を売ってしまったので、王になりたくてもなることが出来ず絶望するばかりです。エサウがこの時に絶望したのは、これと同じでした。『私を、お父さん、私も祝福してください。』この慌てた言葉はエサウの大きな動揺を示しています。

 ここにおいてエサウはもはや後戻りすることが出来なくなりました。もしエサウが悔い改めたのであれば、ヤコブに与えられた祝福に幾らかでも与かることが出来たかもしれません。何故なら、神とは悔い改める人には憐み深い御方だからです。しかし、エサウがこの時に泣いたのは悔い改めたからではなく絶望したからでした。それゆえ、彼から希望は完全に断たれてしまいました。ヘブル12:17の箇所ではこう言われています。『彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。』

 ここでエサウは、ヤコブが祝福を横取りしたのは、ヤコブの名がその理由であったと言っています。確かにヤコブという名は「押しのける」という意味です。実際、ヤコブはエサウから2つのものを押しのけるかのようにして奪い取りました。すなわち『長子の権利』と『祝福』の2つです。確かに人の名とはその存在そのものを示しています。例えば、土から創造された「アダム」の名前は「土」という意味です。愚か者であった「ナバル」の名前は「愚か」という意味です(Ⅰサムエル25:3)。赤毛だった「エサウ」の名前も「赤い」という意味です。もっとも、全ての人がその名前の通りの存在であるというわけでもありません。私が言っているのは一般的なことに過ぎません。つまり例外の人もそれなりにいます。例えば、「ユダ」という名前は「神を褒め称える」という意味です。イスカリオテのユダはこの名前を持っていましたが、このユダはその名前が示す通りの人間ではありませんでした。あの裏切り者ユダは神を褒め称えるどころか、その邪悪な振る舞いにより神を汚すことさえした愚か者です。一般的には名がその人の存在を示しているというのは、今の時代でもそうです。よく性格を知っている人とその人の名前を考察してみるとよいでしょう。そうすれば確かに名がその人を示していることに気付くはずです。もちろん、名がその存在を示していないような人もそれなりにいることを予め弁えておかねばいけません。

【27:36~38】
『また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。』
 エサウのために祝福は全く残されていませんでした。祝福は唯一だったのです。例えば、ある人が大統領になれば、それ以外の人は絶対に大統領となれません。大統領の椅子は一つだけだからです。エサウに祝福が残されていなかったのは大統領の椅子と同じです。これは正に「後悔先に立たず」です。私たちはこの出来事を教訓にせねばなりません。

【27:39~40】
『父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを、自分の首から解き捨てるであろう。」』
 イサクはエサウに呪いを告げ知らせています。その呪いは全部で3つでした。『見よ。』という短い言葉は、ここで言われていることの重要性を意味しています。つまり、これは話の内容を強調 しているわけです。一つ目は、エサウが生活的に悲惨になるという呪いでした。エサウの『住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない』ことになりました。つまり、エサウの住む場所には雨と豊穣の恵みがないということです。エサウの住み家はセイル山でした(創世記36:9)。二つ目は、エサウが『剣によって生き』るという呪いでした。これはエサウが戦場の兵士でもあるかのように野蛮な生き方をするということです。エサウに文明的・学究的な生活は与えられなかったのです。これは戦いながら生きていた騎馬民族スキタイと似ています。三つ目は、エサウが『弟に仕えることになる』という呪いでした。これについてはリベカにも神が『兄が弟に仕える。』(創世記25章23節)と言っておられました。私たちはこの預言を疑ってはなりません。何故なら、ここで言われている呪いは神の真理だからです。しかし、これはエサウその人がヤコブその人に仕えると言っているわけではありません。後の箇所を見れば分かる通り、エサウがヤコブに仕えることは無かったからです。ここで言われているのは2人の子孫についてです。すなわち、ダビデ王朝の時において、エサウの子孫であるエドム人たちがヤコブの子孫であるイスラエル人たちに仕えるということです。エドム人とはエサウに他なりません。イスラエル人とはヤコブに他なりません。この3つの呪いに加えて、ここではもう一つのことが言われています。そちらのほうは呪いではありません。イサクはエサウの子孫たちがやがてヤコブの子孫たちの支配から脱する時が来るであろうと言っています。これはヨラムの時代に実現しました(Ⅱ列王記8:20~22)。そういうことですから、ここで言われている呪いは既に全て実現されています。

【27:41】
『エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」』
 エサウはヤコブが祝福を横取りしたのでヤコブを殺そうとしましたが、この殺意は純粋でした。しかし、エサウはイサクが生きている間は、ヤコブを殺すつもりがありませんでした。イサクが死んでから早速実行しようとしていたのです。これはエサウがイサクの怒りと悲しみを心配したからです。しかしイサクが死ねば、たとえヤコブが殺されてもイサクの怒りや悲しみを恐れる必要はなくなります。これは悪人らしい考えです。エサウはここで2重の罪を犯しました。第一に人の血を流そうとする罪です(レビ記19:16)。第二に身内の者を憎むという罪です(レビ記19:17)。ここにこの男の邪悪性がまざまざと現われ出ています。

【27:42~45】
『兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。「よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、カランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。1日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう。」』
 エサウは心に抱いていたヤコブの殺害計画を、誰か別の者に打ち明けました。もしくは独り言として呟きました。その計画がリベカに知らされることになりました。神が、その計画をリベカに知らせて下さったのです。それでリベカはヤコブを伯父ラバンのもとに逃げるようにさせました。そうすればエサウがヤコブを殺すことは出来ないと考えたからです。もしエサウがラバンの家にまでヤコブを追いかけてきても、ラバン家の人がヤコブを殺害させないようにしてくれるはずです。このようにしてエサウの邪悪な思いがリベカとヤコブに知らされたのは、神の恵みでした。神は恵み深い御方ですから、このようにして聖徒たちを死や危害から守って下さるのです。私たちがこのような恵みを受けた場合は、神に感謝するのを忘れてはなりません。

 リベカがエサウの怒りを時の流れで鎮めようとしたのは正解でした。セネカも、怒りの薬は時間だと言っています。私たちも怒った際には、怒りを暴走させるのではなく、時間の経過にしがみ付くとよいでしょう。そうすれば、気付いた時にはかつての怒りがまったく鎮火しているはずです。

 リベカはこの箇所で『ふたりを失う』と言っています。『失う』とは死のことです。カルヴァンは、この『ふたり』がヤコブとエサウだと理解しています。すなわち、エサウがヤコブを殺したならば、殺人を犯したエサウも社会的に裁かれて死刑に処せられてしまうと。しかし、これはヤコブとイサクのことでしょう。イサクが死ぬと、エサウが「待ってました。」とでも言わんばかりに即日、ヤコブを殺すことになります。ですからリベカは『1日のうちに、あなたがたふたりを失う』と言っているのです。もしリベカがヤコブとエサウについて言っているとすれば、確かにヤコブは死ぬでしょうが、エサウがヤコブと同一の日に死ぬことになるかどうか定かではありません。つまり、『1日のうちに』ヤコブとエサウが一緒に死ぬことになるかは分かりません。というのも、エサウがヤコブを殺したからといって、ヤコブが殺された日にエサウが死刑になるかは分からないからです。しかも、もしかしたらエサウは死刑にならなくて済む可能性もあるわけです。もしカルヴァンの理解が正しいとすれば、リベカはこの箇所で「1日のうちに、あなたがた三人を失う」と言っていたはずです。つまり、イサクは寿命により死に、ヤコブはエサウにより死に、エサウは死刑により死ぬということです。ですから、この『ふたり』とはヤコブとイサクと理解するのが自然です。

 リベカがエサウの怒りを時間により消そうとしたのは間違っていませんでした。この点で問題はありません。しかし、リベカは遠くにいる兄弟ラバンのもとへヤコブを行かせることで解決を求めるべきではありませんでした。何故なら、ソロモンがこう言っているからです。『あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。』(箴言27章10節)リベカは、ソロモンが言っている通り、もっと近くにいる兄弟でない隣人に助けを求めたらよかったのです。実際、ヤコブは母の兄弟のところへ行きましたから、後に書かれている通り、とんでもない悲惨を何度も味わうことになってしまいました。伯父のラバンがヤコブを酷く取り扱ったのです。もしヤコブが『近くにいる隣人』のところに行っていれば、そのような悲惨を味わわずに済んだかもしれないのです。

【27:46】
『リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」』
 ここでリベカがエサウの妻たちについて嘆いているのは本当だったでしょう。この嘆きに偽りは無かったはずです。教会の中で異端者が長らく偶像崇拝をし続けているとすれば、誰がそれに耐えられるでしょうか。普通の聖徒であれば誰も耐えられないはずです。ところが、リベカとイサクはそのような状況を耐え忍ばなければいけなかったのです。これは地上の地獄と言っても間違いではありません。リベカはエサウの妻たちを口実として、ヤコブがエサウから離れるようにしています。つまり、リベカはここでヤコブがこの地からカナンの妻を娶らないために、別の場所へ旅をするべきだと求めたのです。そうすればヤコブがエサウの怒りに滅ぼされることはなくなるからです。リベカはここでヤコブがエサウから殺されようとしているから逃げるようにしてほしい、と言うことも出来ましたがそのようにしませんでした。女は、このようにして自分の願いを遂げようとする傾向があります。男は女に比べると、あまりこういった傾向は持たないように思われます。ここでリベカはエサウの殺害計画を語りませんでしたから、イサクがその計画を知ることはありませんでした。しかし、イサクも後にその計画を知ることになったはずだと私は推測します。

【28:1~5】
『イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。』
 イサクはリベカの言ったことがもっともだと思ったので、ヤコブを伯父ラバンのところに行かせるようにしました。ラバン一家の中から妻を娶らせるためです。確かに、呪われたカナン人を妻にするよりは、親戚を妻にしたほうが遥かに良いことでした。今でもユダヤ人たちは同族としか結婚しない傾向を持っています。もっともリベラル化が進んでいる最近では、異邦人と結婚するユダヤ人もかなり増えているのではありますが。こうしてヤコブは親戚の家に向かうことになりました。この旅行は『しばらく』(創世記27章44節)の間だけに過ぎないとリベカは思っていました。ところが、後に見る通り、この旅行期間は14年間にもなってしまいました。まさかこれほどまでにヤコブがエサウから離れることになるとは、リベカもヤコブも予想できなかったはずです。

 この箇所でイサクはヤコブに多くの子孫が与えられるように願っています。これは実現されました。これから数百年後にヤコブは、壮年の男子だけでも『60万人』(出エジプト12:37)となるまでに増えました。神がヤコブを子孫において増殖させられたのです。またここでイサクはヤコブが『多くの民のつどいとなるように』願っています。これはヤコブの子孫であられるイエス・キリストにおいて実現しました。キリストは救い主として『多くの民』から崇拝され信じられています。これはキリストが『多くの民のつどい』であるということです。またイサクはヤコブとその子孫がカナンの地を相続するようにとも願っています。これも既に実現しています。ヤコブは約束におけるカナンの相続者でした。ヤコブの子孫たちは実際的にカナンの地を相続することとなりました。

【28:6~9】
『エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。』
 エサウはヤコブに起きたことを全て知りました。同じ家に居れば同居人のことはすぐ分かるもの。エサウがヤコブに起きたことに気付くのは時間の問題でした。幸いだったのは、エサウに気付かれるよりも前に、ヤコブが逃げ出したことです。もしヤコブが出かける前にエサウが気づいていたとすれば、エサウは何をしていたか分かったものではありません。神が、エサウが気づくよりも先に、ヤコブを逃げさせて下さったのです。神は御自身の聖徒たちに慈しみ深い御方なのです。またエサウは父イサクがカナン人の妻たちに抵抗感を持っていることについて知りました。それは、イサクがヤコブに対してカナン人を妻としてはならないと命じたからです。人間は何かをきっかけにして、あることに気づくものです。これは、イサクがカナン人の妻たちを嫌悪していながらも、その嫌悪感を表に現していなかったことを意味しています。何故なら、カナン人の妻たちはエサウの配偶者だったからです。イサクがエサウを愛していたというのは既に私たちが見た通りです(創世記25:28)。それにしても、イサクがカナン人の妻たちに対する嫌悪感を隠し続けていたことには驚かされます。

 エサウは自分の妻が父から良く思われていないので、気分を害しました。そのため、父が更に嫌がるようなことをしました。『アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった』のです。イシュマエルとは奴隷の子であり、捨てられた子であり、相続から遠ざけられた子です。イサクにとってこのイシュマエルは好ましくない存在でした。そのようなイシュマエルの娘をエサウが娶ったというのは、父イサクに対する反発と抗議の現われです。私たちも、自分の嫌っている人の嫌がることを積極的にした、あるいはしようと企んだことがあるはずです。そのような経験を思い起こせば、ここでエサウが一体どういうことをしたのかよく理解できるはずです。それにしても邪悪なことをしたものです、このエサウという男は。エサウは呪われていたので、呪われた者に相応しく、呪われたことをしたのでした。

 このエサウの例からも分かりますが、人は一度自分が悲惨であることに気付くと、悲惨に無感覚となりがちです。エサウの場合、自分が父に嫌われている状態であるのを知ったので、更なる汚れへと自分を陥れてしまいました。例えば、私たちが全身を洗ったばかりであれば、身体が汚れる作業に抵抗を持つはずです。何故なら、せっかく身体を洗って綺麗にしたばかりなのですから。しかし一度身体を汚してしまうと、もう仕方がないと思い、徐々に汚れに無感覚となっていくのです。盗人も、最初は盗むことに抵抗感を持ちますが、一度盗みが成功すると盗むことに抵抗を持たなくなっていきます。私たちが汚れに無感覚となるのを避けたいならば、そもそも最初から汚れることを避けるしかありません。もし既に汚れていた場合、即座にその汚れを断ち切らねばなりません。そうしなければ、すぐにも汚れに抵抗を持たなくなることとなりましょう。エサウはすぐにも悲惨を断ち切らなかったので、ますます悲惨な状態に進むことになってしまいました。

【28:10~11】
『ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。』
 ヤコブは旅の途中、夜になったので野宿をすることにしました。この旅にどれだけの僕および家畜が付いて来たのかは分かりません。もしかしたらヤコブ一人だけであった可能性もあります。

 話の本筋とはあまり関係ありませんが、この箇所を読むと、ヤコブの時代から「枕」があったことを知らされます。私は前から枕はいつからあるのかと思っていました。まさかヤコブが枕の考案者であるというわけではないでしょう。ヤコブは一般的な風習に従っていたに過ぎないはずです。枕はヤコブよりも前からずっとあったに違いありません。恐らく人間の身体が自然と枕を求めたのだと思われます。つまり、枕とは自然な流れで人間社会に一般化したのでしょう。この枕についての話はこれぐらいで終わるべきでしょう。

【28:12~15】
『そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」』
 神は、夢においてヤコブに語りかけられました。それは啓示でした。神は、旧約時代においては、夢において語りかけておられました。民数記12:6の箇所に書かれている通りです。神は、サウルにも夢においてお語りになっておられました(Ⅰサムエル28:6)。ですから、ヤコブが見た夢はただの夢ではありませんでした。ヤコブの前には、天使たちが上り下りしている一つの梯子が現われました。この出来事はヨハネ1:51の箇所と対応しています。その箇所でキリストは、御自身の上を天使たちが上り下りすると言っておられます。このキリストの御言葉から考えるならば、ここで言われている梯子とはイエス・キリストを示しています。この梯子は天と地とを繋いでいました。つまり、この梯子は、イエス・キリストこそ天におられる神と地に住む罪人たちを結びつける唯一の仲介者であられることを示しています。また、この夢を見ている時、ヤコブの傍らには主が立っておられました。主は、旧約時代にはこのようにして父祖たちに何度も御自身を現わしておられました。この時の夢がどれだけの長さだったのかは分かりません。

 主がこのようにして夢でヤコブに語りかけられたのは、ヤコブに約束と励ましとを与えるためです。主は、ヤコブが横たわっている場所を、ヤコブとその子孫に与えると約束されました。ヤコブは霊的にその場所を受けました。ヤコブの子孫たちは実際的にその場所を所有することになりました。また主は、『地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される』とも約束しておられます。これは、ヤコブの子孫であるイエス・キリストにより、全ての民族が祝福された救いに導かれるという意味です。これは既に実現しています。また主はヤコブの子孫が大いに増えるとも約束しておられます。これも既に実現されました。また主は、ヤコブをカナンの地に連れ戻して下さるとも約束しておられます。後になると、ヤコブはエジプトからカナンの地へと帰還することになります(創世記50:1~14)。神は約束されたことを実現して下さったのです。そういうわけですから、ここで言われている約束は全て実現しています。また主はヤコブと共にいて守られると言われることで、ヤコブを励まされました。ヤコブには恐れと心配がありました。ですから主はこのようにしてヤコブを強めて下さったのです。

 神が夢で未来のことを示されるというのは今でもあると思います。というのも、私自身が何度もそのような夢を見ているからです。しかし、その夢には御言葉が伴っていません。つまり、その夢は確かに未来のことを示しているのですが、ただ色の無い映像として現われるだけなのです。私のように未来のことが示された夢を見たことのある人も、恐らく私と同じなのではないでしょうか。しかし、ヤコブの夢にはしっかりとした御言葉が伴っていました。これは私たちの見る予告夢とは、あまりにも大きな相違点です。私たちの夢にヤコブの見た夢のような御言葉が伴っていない以上、これ以上私たちの夢について何かを言うことは差し控えるべきでしょう。もし御言葉が伴っていたとすれば、私たちの夢についても、もっと多くのことを語るべきだったのですが。

【28:16~17】
『ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家に他ならない。ここは天の門だ。」』
 ヤコブは自分に対して主が現われて下さったので、非常に驚かされました。例えば、尊敬する人や愛好しているスターや王族が突然家に尋ねて来れば、多くの人は大いに驚くはずです。ヤコブに起きたのは、これ以上のことでした。何故なら、神とは人間よりも遥かに優った御方だからです。私たちはヤコブに起きたのと同じ出来事を体験したことがありません。それゆえ、この時にヤコブがどれだけ驚いたのか明白に察することは難しいと言わねばなりません。私たちは、ヤコブがあまりにも驚かされた、ということを理解していればそれで問題ないでしょう。ヤコブは、目の前に現れた梯子がイエス・キリストを示しているという明白な認識は恐らく持てていなかったでしょう。ですがヤコブは、この梯子が天と地を結びつける門であるという理解を持っていました。これは事実上イエス・キリストを信じていることに他なりません。すなわち、ヤコブは梯子の形象において朧気ながらもメシアを信じていました。ですからヤコブはキリスト信者であったことが分かります。

【28:18~19】
『翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。』
 ヤコブは自分が枕としていた石を祭壇として築き上げ、そこに油を満たしました。これは石の聖別であり、神への礼拝行為です。またこの祭壇には主が現われて下さったことを記念する意味をあったでしょう。ここにヤコブの信仰と敬虔が現われ出ています。私たちはヤコブのように石で祭壇を築く必要がありません。今の時代にそのようなことをすれば、それはおかしいことです。むしろ、私たちは自分を石として霊的に築き上げられなければなりません(Ⅰペテロ2:5)。聖なる族長ヤコブがしたからといって、何でもかんでも無思慮に真似たりしないように。ヤコブはこの場所に『ベテル』という名を付けましたが、これは「神の家」という意味です。