【創世記30:25~32:8】(2021/06/27)


【30:25~27】
『ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」』
 ヤコブはもう流石に父イサクの家へ帰りたいと思っていました。ヤコブはこんなにも長くパダン・アラムに留まっているつもりはなかったのです。ヤコブは『しばらく』(創世記27章44節)パダン・アラムに住むだけのつもりでした。14年間という年月は明らかに『しばらく』ではありません。ヤコブはもう我慢の限界に来ていたと思われます。それゆえ、ヤコブはもう家に帰らせてほしいとラバンに申し出ました。ところがラバンはヤコブを帰らせたくはありませんでした。それは何故でしょうか。まずヤコブ自身がここで言っているように、ヤコブは優秀な奉仕をしていたからです。優れた人材をやすやすと手放したくないと思うのは人間の自然な感情です。またヤコブが離れると、ヤコブだけでなく娘たちや女奴隷たちや孫たちまでヤコブと一緒に去ってしまいます。それまでずっと一緒にいた人たちが一挙に去るというのは、ラバンにとって出来るだけ避けたいところでした。このラバンの気持ちは私たちにも分からないではありません。1年間一緒のクラスにいた友達と次の学年で別のクラスになるだけでも、多くの人は残念がります。であれば、1年どころではない期間一緒にいた人たちと別れるラバンの残念さは一体どれほどだったでしょうか。

 神はこれまでずっとヤコブを祝福しておられました。これはエサウに与えられるはずだった祝福をヤコブが受けたからです。神はこのヤコブのゆえに、ラバンとその家をも祝福して栄えさせて下さっておられました。祝福された人が組織にいると、その人の祝福がその組織にも及ぼされるものなのです。ラバンはこのことを『まじないで知っている』と言っています。『まじない』は律法の中で罪とされています(レビ記19:26)。それは悪霊どもに自ら自分を惑わさせることです。しかしラバンは異教徒でしたから、そんなことは全く知りませんでした。

【30:28~30】
『さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」ヤコブは彼に言った。「私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」』
 ラバンは何としてもヤコブを引き止めておきたかったので、ヤコブの奉仕に対して報酬を支払おうとします。報酬を支払ってやればヤコブも去ろうという思いを変えるのではないかと考えたからです。しかし、ヤコブにはとにかくラバンの家から出たいという思いがありました。この時のヤコブは既に50の半ばです。壮年も終盤になっており、多くの妻たちと多くの子たちもいるのに、自分自身の家庭を持てないというのは確かに惨めです。このままラバンの家に留まっていれば、いつまで経っても子どものようなままです。ラバンはもしヤコブが留まるというのであれば、自分で言った通りに報酬をヤコブに支払っていたかもしれません。しかしながら、ヤコブにとっての報酬とは、ラバンがヤコブを去らせてくれることでした。

 ここでヤコブが言っている通り、ラバンの家はヤコブが来るまでは繁栄していませんでしたが、ヤコブが来てからは繁栄するようになりました。それは神がヤコブのゆえにラバンの家を祝福して下さったからです。ヤコブは勤勉と仕事の知恵を大いに持っており、そのためラバンの家を繫栄させることができました。しかし、その勤勉と知恵はそもそも神がその祝福によりお与えになったものでした。ヤコブはこのことをよく知っていましたから、自分の成果を自分自身に帰することはしませんでした。むしろ、その成果を神の祝福に帰しています。ここにヤコブの信仰と敬虔が現われ出ています。「オレがこれを成し遂げたんだ。オレの力がここまでやったんだ。」などと自信満々で言う傲慢な精神を持つ者とは大違いです。私たちは、ヤコブのように祝福された人を組織に呼び込むべきでしょう。そうすれば、ラバンの例が示すように、その人のゆえに組織全体が祝福されることになります。また私たちは、自分が成し遂げた成果を神に帰するべきでしょう。何故なら、あらゆる良いものは全て神から与えられるのだからです(ヤコブ1:17)。

【30:31~34】
『彼は言った。「何をあなたにあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」』
 ヤコブは、ラバンの群れのうち特定の家畜を自分に対する報酬として求めました。それはぶち毛とまだら毛と黒毛である家畜です。これらは、あまり良質でない家畜だったと思われます。何故なら、黒毛の羊やまだら毛またぶち毛の山羊は、あまり良いとは感じられないからです。ヤコブがこういった家畜を指定したのは、ラバンの気を騒がせないためだったかもしれません。ラバンは自分のことしか考えない利己的な人間でしたから。ヤコブがこのような家畜を求めたのには目的がありました。それはヤコブの謙遜さと正しさが証明されるためです。この提案に対してラバンは『そうか。あなたの言うとおりになればいいな。』と言いました。この時のラバンはひとまず安心したと思われます。何故なら、ヤコブがこう言ったことにより、ヤコブの旅立ちに関する話が報酬の話の下に埋もれてしまったかのように感じられたはずだからです。

【30:35~36】
『ラバンはその日、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真黒のものを取り出して、自分の息子たちの手に渡した。そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼っていた。』
 ラバンは早速、ヤコブの指定した家畜をそれ以外の家畜から分離させました。こうしてヤコブの指定した家畜はヤコブの所有とされることになりました。この時、ラバンは『ヤコブとの間に三日の道のりの距離をお』きました。これはラバンがヤコブを信用していなかったことを意味します。つまり、ラバンはヤコブが自分の家畜を盗めないように3日かかる距離をヤコブから離したのです。もしラバンがヤコブを信用していたならば、ラバンは半日の距離をさえ離さなかったことでしょう。

【30:37~43】
『ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向いに置いた。それで群れは水を飲みにくるときに、さかりがついた。こうして、群れは枝の前でさかりがついて、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産んだ。ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真黒いものとに向けておいた。こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。』
 ヤコブは知恵を用い、自分の指定した毛を持つ家畜だけが生まれるように工夫しました。しかも、強い個体だけが増殖するように知恵を働かせました。このようにしてヤコブは優れた群れを持ち、ラバンは軟弱な群れしか持たないようになりました。このような知恵をヤコブが持てたのは、神がヤコブを祝福しておられたからです。

【31:1~2】
『さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ。」と言っているのを聞いた。ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。』
 ヤコブはラバンの財産を用いて富んだので、ラバンの息子たちから妬まれてしまいました。このような妬みは罪です。神は妬みを律法の中で禁じておられるからです(出エジプト20:17)。しかし、ヤコブが妬まれたのは、罪深い人間の自然本性からすればそれほど不思議なことでもありませんでした。何故なら、突如としてやって来た壮年の男が身内の女を4人も妻としたばかりか、父の財産を自己のために利用したからです。ラバンもこの時からヤコブを不快に思い始めるようになりました。何故なら、自分がヤコブに利用されているのではないかと感じられたからです。ヤコブは態度の変わったラバンを恐れたに違いありません。この出来事も示している通り、財産が絡むと人は鬼にも獣にもなります。それどころか悪魔にだってなるでしょう。吝嗇の傾向を持っていれば尚更そうです。身近な人の財産が増えるのを間近で見ていながら少しも妬みを抱かないというのは、かなり珍しいのではないかと思います。何故なら、財産とは全てを可能にする魅力的な物質だからです。ソロモンはこう言っています。『金銭はすべての必要に応じる。』(伝道者の書10章19節)もし財産に何の力も無ければ、多くの人は他人が富んでも嫉妬することなどなかったはずです。

【31:3~5】
『主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。」』
 神はもうラバンの家から離れるようにヤコブに命じられました。もうヤコブが旅立つ時が来ていたのです(伝道者の書3章)。何故なら、このままラバンの家にいれば危険だからです。神も、ヤコブと同様、今こそ旅立つべき時だと思っておられました。ヤコブがこの時に離れるのは正しいことでした。何故なら、神の明白な指示があったからです。もし神の指示無しにヤコブが旅立っていたとすれば、それは無謀だったかもしれません。しかし神の指示がなければ、ヤコブが旅立っていたかどうかは分かりません。私たちもヤコブのように神の指示があるのを待つべきでしょう。神の指示が与えられたならば、奮い立って行動すればよいのです。

 ヤコブはラケルとレアを呼び寄せて、ラバンの態度が変わったことについて話しました。しかし、神が共にいて下さるから揺るぎはしないとヤコブは2人の妻に伝えています。確かにヤコブが揺るがされなかったのは間違いありません。何故なら、神とは力強い岩であられるからです。このように聞かされた2人の妻も、恐れ戦いて絶望するということはなかったはずです。何故なら、彼女たちは、神がラバンよりも大きく強いということを知っていたはずだからです。そのような神がヤコブと共にいて下さるのであれば、どうして絶望することがあるでしょうか。

【31:6~7】
『あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。』
 ヤコブはラバンのために大いに働きましたが、ラバンのほうはヤコブに誠実ではありませんでした。ラバンは善に対して悪を返したのです。これは致命的な罪です。ソロモンはこの罪についてこう言っています。『善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない。』(箴言17章13節)善には善が返されるべきでしょう。これは言うまでもないことです。

 しかし、神はラバンが狡猾に振る舞う以上のことまでは許されず、ヤコブに危害を加えさせることはなさいませんでした。パウロも言っているように、ヤコブは髪一筋も失うことがありませんでした(使徒行伝27:34)。このように神は聖徒たちを守って下さる御方です。

【31:8~12】
『彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。群れにさかりがついたとき、私が夢の中で目を上げて見ると、群れにかかっている雄やぎは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のものであった。そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい。』と答えた。すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。』
 ヤコブはそれまでにしてきた豊かな奉仕に対して正当な報酬を受けていませんでした。ですから神は、ラバンの家畜を取り上げ、それをヤコブに報酬としてお与えになりました。どういうことかと言えば、ラバンにより報酬になると指定された家畜だけがラバンの家畜から生まれることになったのです。その家畜とは『しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のもの』でした。このことについて御使いは夢の中でヤコブに語られました。この御使いとはイエス・キリストです。これは被造物としての御使いではありません。

 こうしてヤコブはそれまでに本来であれば受けるべきであった報酬を遂に受けることとなりました。このように神とは人の行ないに報いられる御方です。何故なら、神とは真実で正しい御方だからです。つまり、神は人がその蒔いた種を必ず刈り取るようになさいます。パウロがこう言っている通りです。『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』(ガラテヤ6章7節)しかし、報いられるべき行ないをしたその当人が、生きている間に自己の受けるべき報いを受けることがないケースも時にはあります。この場合、その当人ではなく、当人の子孫が報いを受け取ることになります。これは私たちが今見ているヤコブとは違うケースです。例えば、エジプトにいたユダヤ人たちがこれの良い例です。彼らは400年間奴隷としてエジプト人から搾取され続けていましたが、エジプトを脱出する際に、その子孫たちがこれまでになされてきた親たちの労苦の報いを受け取ることになりました。多くの装飾品や着物をエジプト人から剥ぎ取ったのです(出エジプト12:35~36)。このようにして奴隷として苦しんだ先祖たちは正当な報いを受けなかったものの、その子孫が豊かに富むようになったのです。神は私たちの善に必ず報いて下さいます。場合によっては、エジプト時代のユダヤ人のように、その報いを子孫が受け取ることになるかもしれません。ですが報いそのものが無いというわけではないのです。ですから私たちは気落ちせず善に励むべきでしょう。今の労苦が悲しく感じられるでしょうか。そうであれば、詩篇の御言葉により慰められるのがよいでしょう。こう書かれています。『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。』(126:5~6)しかしながら、悪を行なっていた場合は恐れなければなりません。神は善だけでなく悪に対しても必ず刈り取りをさせられる御方だからです。カリグラ帝は、酷い愚行ばかりしていたので、最後には裁かれ、殺されてしまいました。サルダナパロスも、ふざけたことばかりしていたので、裁かれて最後には悲惨な死に方をしてしまいました。富豪のジェフリー・エプスタインは、少女を売り買いして酷いことばかりしていたので、最後には裁かれて自分も酷い仕方で殺されてしまいました。歌手のフレディ・マーキュリーは、同性愛の行為をしていましたから、神の裁きによりHIVのウイルスが与えられ、最後にはエイズを発症して死んでしまいました。彼らが悪を行なっていなければ、悪の実を刈り取ることもなかったでしょうから、悲惨な最後を迎えることはなかったかもしれませんし、もっと長く生きられたことでしょう。私たちは悪を刈り取る悪者ではなく善を刈り取るヤコブのようになるべきです。

【31:13】
『わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」』
 ヤコブがベテルで誓願を立てたことについては、既に見た通りです(創世記28:20~22)。神はこの誓願の通りにして下さいました。すなわち、ヤコブと共におられ、ヤコブの旅を守って下さり、ヤコブに食物と着物をお与えになり、父イサクの家に帰れるようにし、ずっとヤコブの神であられ続けました。残るはヤコブが父の家に到着するだけです。それが実現されたら、ヤコブの誓願が全て全うされるのです。ですから神はヤコブが父の家に帰るように命じられたのでした。ヤコブ自身も自分で誓った通りに10分の1を神に捧げていました(創世記28:22)。ヤコブも誓いを果たしていたのです。

 このようにしてヤコブは遂にラバンの家を脱出することになりました。ヤコブには期待と不安が、2人の妻たちには大きな動揺があったと推測されます。ラバンはこの後、ヤコブが去ってしまったので失望し困惑することになります。ここで神が『さあ、立って』と言っておられるのは、身体的な動作と捉えるよりは、精神的な構えとして捉えるほうがしっくりします。何故なら、たとえ身体的に立っても、精神的に立っていなければ何になりましょうか。精神的に立たなければ、身体では立っても、勇気と男らしさを持って行動することはないのです。

【31:14~16】
『ラケルとレアは答えて言った。「私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。私たちは父に、よそ者とみなされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」』
 ラケルとレアは、ヤコブの言ったことを歓迎して受け取りました。彼女たちはヤコブに『さあ』と言っています。これは、「さあ、やって下さい。大いに奮い立って下さい。」とでも言うかのようです。この言葉は、ラケルとレアも父ラバンから離れたがっていたことを示しています。彼女たちがラバンから離れたかった理由は3つです。まず第一に、ラバンの家にはもう自分たちが貰えるような相続財産が無いように感じられたからです。つまり、貰える財産のない家にいて何になるのか、というわけです。第二は、父に部外者だと思われているのではないかという疑念に基づく不信感があったからです。ラバンは、娘たちを道具のように売り、売って得た代金を無駄に用いました。これではラケルとレアが父に蔑ろにされていると感じても当然です。人を蔑ろにする者は自分も蔑ろにされます。ですから、ラケルとレアはもはやラバンと一緒に生活したいとは思わなくなっていたのです。第三は、神がラバンから取り上げてヤコブに与えられた富は十分すぎる量だったからです。つまり、ラバンから離れても十分に生きていけるのだから、もはや経済的な意味でラバンに依存する必要はないということです。こういった3つの理由から彼女たちはヤコブにこう言いました。『さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。』

 このように神の御心であれば、全てがスムーズに運ばれるようになります。周りの人が同意してくれるのです。必要な物も全て備えられるのです。しかも調度良いキッカケも与えられます。これは、神が全てに働きかけられるからなのです。逆に神の御心でなければ、事はすんなりと進みません。周りの人が同意しません。心は燃えていても実現のために必要な物が足りません。キッカケも生じないままです。これは、神の働きかけがないからなのです。このことは私たちの経験からも分かります。それが御心であれば全てについて摂理が強力に働くのです。

【31:17~21】
『そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。またヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。』
 ヤコブは自分に属する人間と家畜と財物を連れて遂にラバンという牢獄から脱出しました。聖書はヤコブが逃げたと教えています。そうです、ヤコブは逃げたのです。ラバンという利己心の強い鬼から。

 この時、ヤコブは自分の逃走をラバンには気づかれないようにしました。何故なら、もし逃走が知られたら、ラバンは何をするか分からないからです。ヤコブの逃走がラバンに気づかれなかったのも、やはり神の働きかけによりました。神はヤコブが逃げるのを望んでおられました。だからこそラバンが気づかないように働きかけられたのです。もし逃走が御心でなければ、すぐにもラバンに気づかれていたかもしれません。

 また、ここではラケルについて注目すべきことが書かれています。逃げる際にラケルが父ラバンのテラフィムを盗んだというのです。この『テラフィム』とは何でしょうか。これは偶像です。今の日本で言えば小さな仏像がこれに該当します。ラバンは恐らくこの偶像を拝んでいたでしょう。何故なら、偶像を持っていながらそれを拝まないというのは考えにくいからです。麻薬常習者が、ただ麻薬を家の中に保管しておくだけに留めておくはずがないのと一緒です。つまり、ラバンとは異教徒・偶像崇拝者だったのです。しかし、ラケルはどうしてテラフィムという虚しいゴミをわざわざ盗み出したのでしょうか。ヤコブの妻ともあろう女性がこのようなことをするのは驚かされます。ラケルは父の偶像崇拝を悲しく思っており、父が偶像を崇拝できないように盗んであげたのでしょうか。もしこうだった場合、今の時代から見れば、これは信教の自由に反しています。しかし、ラケルがこのような意図からテラフィムを盗んだわけではないと私には思えます。これはラケルが偶像に心惹かれていたからでしょう。ラケルはヤコブから教えられて真の神信仰を持っていたはずです。しかし、ヤコブから教えられるまでは、長らく父のしていた偶像崇拝に自分も慣れ親しんでいたことでしょう。その昔からの悪癖が完全にはまだ除去されておらず、そのためラケルはテラフィムを恋い慕ってしまったのだと思われます。というのも、ラバンの家から去ったならば、テラフィムを盗みでもしない限り、もうテラフィムには会えなくなってしまうからです。これは二重の罪でした。すなわち、盗むという罪と偶像崇拝という罪の2つです。

【31:22~24】
『三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」』
 ヤコブの逃走がラバンに知らされたのは逃走から三日後でした。ヤコブはこの間に逃げていたのです。これは神がラバンに3日間もヤコブの逃走を隠しておられたことを示しています。神とは恵み深い御方なのです。

 三日後にラバンがヤコブの逃走を知ると、ラバンは7日の距離を進んでヤコブを追いかけ、遂にヤコブに追いつきました。この時のラバンは憤っていたと思われます。

 しかし神はラバンが憤ってヤコブを責めないように夢の中でラバンに命じられました。このためラバンはヤコブと事の善悪を論じませんでした。もし神がこのように命じておられなければ、ラバンはヤコブと事の善悪をあれこれと論じていたに違いありません。神がラバンにこうされたのは、ヤコブのためでした。ヤコブの脱出は神から出たことでした。ですから神はヤコブがラバンから妨げられないように取り計らって下さったのです。

【31:25~30】
『ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。ラバンはヤコブに言った。「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕えたとりこのように引いて行くとは。なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。』と言われた。それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか。」』
 ラバンがヤコブに追いつくと、ラバンはヤコブのしたことを指摘しました。ラバンは神が禁じられた「事の善悪を論じること」はしていません。ラバンはあくまでもヤコブの行為を指摘しているだけです。ラバンは神の命令に従っていました。ラバンはもし去ることが知らされたならば、タンバリンや立琴によりヤコブを送り出していただろうと言っています。ラバンはこう言ったものの、実際にはどうしていたか定かではありません。ラバンにとってヤコブのしたことは実に愚かに思えました。ラバンにとっては奴隷が脱走したのも同然だったからです。

 またラバンは、自分のテラフィムが盗まれたことについてヤコブに話しています。ヤコブの逃走が知られるまでの3日間のうちに、ラバンはテラフィムが無くなっていることに気付いたのです。これはラバンのテラフィムが家の目立つ場所にあったことを示しているのかもしれません。何故なら、目立つ場所に無ければ、無くなっても気付かない可能性があったからです。そうでなければ、どこかに入れており、定期的に取り出して拝んでいたのでしょう。そうでなければ3日間のうちにテラフィムが無くなったことに気付かなかったはずです。ところで、このようなテラフィムは大変虚しい物体に過ぎません。それは人間が勝手に作り出したただの物言わぬ物体であって神などではないのですから。

【31:31~32】
『ヤコブはラバンに答えて言った。「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。』
 ヤコブがラバンに逃走を知らせなかったのは、去る際にラケルとレアがラバンから取り上げられるのを恐れたからでした。確かにラバンはそのようにしていたかもしれません。ラバンであれば、そういうことをするだろうからです。

 またヤコブはラケルがテラフィムを盗んだことについて全く知りませんでした。ラケルはテラフィムを盗んだことについてヤコブに話していなかったのです。このため、ヤコブはまさかラケルが盗んでいたなどとは露知らず、もし盗んだ者が判明したならば死刑に処すると断言しました。このようにしてヤコブは自分の潔白をラバンに分からせようとしています。もしラケルが盗んだことを知っていたならば、ヤコブはこんなことを言っていなかったでしょう。

【31:33~35】
『そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にもはいって見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで捜し回っても見つからなかった。ラケルは父に言った。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。』
 ラバンがどこを捜してもテラフィムは行方不明のままでした。それはラケルの下にあったのですが、ラケルは女らしい巧知を用いてこの危機を乗り越えました。生理を口実にすればテラフィムがある鞍から立ち上がらなくても許されるだろうと考えたのです。これは男には出来ない芸当です。しかし、もしラケルが強制的に立たされていたとすれば、どうなっていたでしょうか。テラフィムが見つかり、ラケルはヤコブが言った通りに死ななければならなかったのでしょうか。確かにヤコブは盗んだ者を生かしてはおくまいと言いましたが、ラバンがそれを許さなかったでしょうし、ヤコブもラケルを殺しはしなかったはずです。何故なら、ヤコブはラケルを愛していましたし、ラバンも悪い者だとは言っても娘を盗みの罪で死なせるほどに悪いというのではなかったからです。

【31:36~42】
『そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことはありませんでした。野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」』
 結局テラフィムが見つからなかったので、ヤコブはラバンに怒りを燃やしました。ヤコブがラバンに言ったことを纏めるとこうです。「私は20年間も誠実を尽くして来たのに、あなたは最後の最後に至るまで私を真っ当に扱ってくれていない。」つまり、ヤコブのこれまでの不満がここにおいて爆発したのです。このヤコブのようになった経験を持っている人は少なくないかもしれません。ヤコブは20年も悩みと労苦に耐えてきました。ここにヤコブの徳が現われています。このようにヤコブから言われたラバンはどのように思ったのでしょうか。恐らく面食らったのではないかと思われます。

 ここでヤコブが言っている通り、神はヤコブの悩みと苦労を顧みて下さいました。このように神とは私たちに報いて下さる御方です。ですから、私たちは神の報いに期待し、日々を歩んでいくべきでしょう。重要なのは気落ちしないことです。ヤコブの例が示すように、最後には神が顧みて下さるのですから。

【31:43~53】
『ラバンは答えてヤコブに言った。「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私は何ができよう。さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」そこで、ヤコブは石を取り、これを立てて石の柱とした。ヤコブは自分の一族に言った。「石を集めなさい。」そこで彼らは石を取り、石塚を作った。こうして彼らは石塚のそばで食事をした。ラバンはそれをエガル・サハドタと名づけたが、ヤコブはこれをガルエデと名づけた。そしてラバンは言った。「この石塚は、きょう私とあなたとの間の証拠である。」それゆえ、その名はガルエデと呼ばれた。またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」ラバンはまたヤコブに言った。「ご覧、この石塚を。そしてご覧、私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。敵意をもって、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたもまた、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。どうかアブラハムの神、ナホルの神―彼らの父祖の神―が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。』
 こうしてヤコブとラバンは、平和を象徴する石塚を共同で建てました。これは2人の安全と友愛の印です。ラバンは敵意を持ってこの石塚を越えてヤコブのもとに行くことがなく、ヤコブもこの石塚を越えてラバンのもとに行かない。このようなことの証拠として石塚が建てられたのです。こういった類の記念碑は今でも各地で建てられていますから、私たちは違和感を持たないはずです。例えば、もう二度と戦争をしないことの誓いとして建てられた記念像がそうです。彼らはこの石塚の傍で共に食事をしました。これはヤコブとラバンの間にある友愛を示しています。この石塚は『ミツパ』と呼ばれました。これは「見張りをする」という意味です。ところで、この石塚はイエス・キリストを象徴しているのでしょうか。石とは聖書においてイエス・キリストの象徴です。しかし、これについてはキリストを象徴しているわけではないと思われます。これは単にヤコブとラバンにおける平和を記念するためだけの物体であると見做すべきでしょう。

【31:54~55】
『そうしてヤコブは山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事をしてから彼らは山で一夜を明かした。翌朝早く、ラバンは子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の家へ帰った。』
 この時、ヤコブはキリストの犠牲を象徴する動物の犠牲を捧げました。このことから、ヤコブもキリストの贖いを受けていたことが分かります。ヤコブも私たちと同様にキリスト者であったわけです。ヤコブは影においてキリストを信じており、私たちは実体においてキリストを信じています。そして、ヤコブとラバンは一緒に食事をして一夜が明かされました。彼らが共に食事と就寝をしたのは、彼らの関係がこの最後の時に良好だったことを示しています。もし関係が良好でなければ、一緒に食事と就寝をしていたかどうかは分かりません。こうしてヤコブたちとラバンたちは互いに離れることになりました。この時のラバンはどういった心情だったのでしょうか。恐らく寂しさと溜め息がラバンにはあったと思われます。何故なら、多くの子たちと財産が一挙に自分の家から去ることになったのですから。

【32:1~2】
『さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。』
 父イサクの家へ帰ろうと旅をしていたヤコブに神の使いたちが現われましたが、これはかつてアブラハムに現われたのと一緒の存在だったと思われます(創世記18:1~2)。神は、このように敬虔な聖徒たちに対し、色々な仕方で御自身を強く示して下さいます。敬虔でない人たちに神は御自身を示されません。何故なら、敬虔でない人たちに御自身を示しても、信じられないか、馬鹿にされるか、文句を言われることになるだろうからです。私たち人間も誰かに蔑ろにされるのが分かっているのであれば、わざわざその人の前に自分から姿を現わしてやろうとは思わないでしょう。神もそれと同じです。このため無神論者はいつまで経っても神のことが分からないままなのです。この時に神の使いたちがヤコブに何をしたかは書き記されていません。何もせずただ現われただけだったという可能性も十分にあります。それでは、どうして神の使いたちはヤコブの前に現われたのでしょうか。それはヤコブを心配から遠ざけて励ますためでした。20年前にパダン・アラムまで旅していた時も、神はヤコブを励まされるために現われて下さっておられました。ヤコブは神が現われて下さった場所を『マハナイム』と呼びましたが、これは「陣営」という意味です。

【32:3~5】
『ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。そして、彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」』
 エサウはセイルの地に移り住んでいました。エサウは自分の意志で自らセイルに移住したと思っていたことでしょう。しかし、エサウがセイルに移り住むようにしたのは、神がエサウの心に働きかけたからでした。神はエサウがカナンの地に居続けるのを望まれなかったのです。というのも、カナンという約束の地は、ヤコブこそが相続すべき場所だったからです。そのような場所に呪われたエサウが住んでいてはなりませんでした。

 このエサウにヤコブは20年ぶりに会おうとしていましたが、会う前に使者を遣わしておきました。これはエサウが長子権の略奪のことで未だに憤っていると思ったからです。つまり、ヤコブが使者を遣わしたのはエサウを少しでも宥めるためであって、エサウに対する恐れがその理由だったのです。それにしてもヤコブのエサウに対するこの恐れは一体何なのでしょうか。恐れのあまりヤコブはエサウを『ご主人』などと言ってしまっています。このように言えば少しでもエサウの怒りが和らげられるとでも思ったのかもしれません。いかなる意味においてもエサウはヤコブの主人ではないのですが…。

【32:6~8】
『使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに400人を引き連れてやって来られます。」そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。』
 戻って来た使者からエサウが400人を連れて来ると聞かされたヤコブは非常に恐れ、全滅させられないようにと宿営を二つに分散させました。ヤコブはエサウが自分を滅ぼしに来ると思ったのです。このエサウの連れて来る人数が『400』だったことには、何も象徴的な意味は潜んでいないはずです。これは単にエサウが多くの者を引き連れてやって来るというだけのことに過ぎません。

 しかし、ヤコブがエサウを恐れたのは単なる杞憂に過ぎませんでした。エサウが連れて来る400人は死の殲滅部隊では無かったのです。それは、むしろ歓迎の400人でした。ヤコブがこのようにエサウを誤って恐れたのは、人間の自然な性質を考えるならば、仕方が無かったと言えるかもしれません。誰にでもこういった経験があるのではないかと思います。それというのも私たち人間には未来と他者の心が隠されており、そのうえ私たちの心はしばしば悪い想像を勝手に抱きがちだからです。