【創世記32:9~34:31】(2021/07/04)


【32:9~12】
『そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖1本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、2つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」』
 ヤコブは神の約束に訴えて、エサウから神が自分を守って下さるよう懇願しました。ここでヤコブはこう言っているかのようです。「主よ。あなたはかつて私に帰るように言われ幸せを約束して下さいましたが、その約束が実現されるためにも、どうかエサウから私を守って下さい。もし私がエサウから守られず、エサウに滅ぼされてしまったのであれば、あなたの約束が実現されなくなってしまいます。神は真実で正しい御方であって、約束を必ず実現なさいます。」このヤコブのように神に守りを求めるのは正しい。神は御自身に信頼する者を守られるからです。また、ここでヤコブが見せている僕としての謙遜さは、見習われるべきことです。全ての繁栄と幸いは神から与えられます。ところが私たちはそのような恵みを受けるに足りない者です。ヤコブもここでそう言っています。何故なら、私たち人間は塵や灰に過ぎない存在だからです。あらゆる恵みはただ神の一方的な好意に基づいています。ですから、私たち自身に恵みを受ける資格や栄誉があるなどと考えるのは正しくありません。

【32:13~21】
『その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。すなわち雌やぎ200頭、雄やぎ20頭、雌羊200頭、雄羊20頭、乳らくだ30頭とその子、雌牛40頭、雄牛10頭、雌ろば20頭、雄ろば10頭。彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。』
 ヤコブはエサウへの贈り物を、一つ一つの群れに持たせ、エサウが個々の群れに会う度にそれを渡そうと考えました。そうすればエサウの怒りも消え去ると思ったからです。ヤコブがエサウのために用意した贈り物は実に多い量でした(創世記32:14~15)。この多さは、ヤコブがどれだけエサウを恐れていたかをよく示しています。ヤコブがこのように媚びへつらうようになったのは、エサウへの恐れがその原因でした。このように恐れとは人を卑屈にさせてしまいます。

 私たちはこのヤコブの振る舞いから、2つの知恵を得ることが出来ます。一つ目は、誰かの気持ちは贈り物により宥められるということです。これは私たちの経験も証しするところです。というのも、人は自分に益を与えてくれる者を好ましく思うものだからです。贈り物が関係を良好にさせるということについてはソロモンもこう言っています。『だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。』(箴言19章6節)『人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く。』(箴言18章16節)二つ目は、危機による破滅を避けるためには分散が重要であるということです。これも私たちの経験が証しするところです。投資家たちも、投資先を集中させず分散させ、リスクが少なくなるようにしています。分散により危機から自己を守ることについては、伝道者の書11:2の箇所でこう言われています。『あなたの受ける分を7人か8人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。』

【32:22~24】
『しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、11人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。』
 ヤコブは夜のうちに早速移動を開始しました。ヤコブは朝になるまで待とうとしませんでした。これはヤコブがエサウに大きな危機感を持っていたからです。つまり、ヤコブは恐れのため居ても立っても居られない状態となり、ゆっくり休みを取るどころでは無かったのです。この時、ヤコブは『ある人』と『格闘』をしました。『ある人』とはイエス・キリストです。これは御使いではありません。何故なら、ヤコブはこの人から祝福されているからです(創世記32:29)。人に祝福を与えるのは御使いではなく主です。では『格闘』とは何でしょうか。これは祈りか、肉体的な格闘―具体的に言えばレスリングのような闘い―でしょう。私としては、これは肉体的な勝負だったと思えます。何故なら、ヤコブはこの闘いにより、腿のつがいが外れて跛になってしまったからです(創世記32:25、31~32)。これが祈りにおける闘いだったとすれば、跛にはなっていなかったと思われます。どれだけ激しい祈りをしたとしても、跛にまではならないと感じられるからです。敬虔で有名だったあのマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドも、祈りに熱心過ぎて失神はしてしまいましたが、腿が外れるということはありませんでした。ヤコブの腿が破壊されたということは、主が実際の肉体を取ってヤコブに現われたということです。つまり、主は幻影のようにしてヤコブに現われたのではありませんでした。もし幻のようにして主が現われたのであれば、ヤコブが肉体的にダメージを受けることはなかったと思われるからです。この格闘を祈りとして解したい人がいれば、そのように解していればよいと思います。私はそのように解する人を問題視しようとは思いません。

【32:25~28】
『ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」』
 ここで神がヤコブに勝てないのを見て取ったと書かれているのには驚かされます。一体、神が人に勝てないとはどういう意味なのでしょうか。これは神が本当の意味でヤコブに勝てないという意味ではありません。何故なら、神には無限の力があるのに対し、人間は単なるミミズに過ぎないからです。ここで言われているのは、神が信仰熱心なヤコブに譲歩されたということです。例えば、ある男が付き合っている女性の熱心な愛に参ってしまい「分かった。分かったよ。」と譲歩しつつ恋人の女性に良くしてやるというのは起こり得ることでしょう。神がヤコブに勝利できそうもなかったとここで書かれているのは、これと同じです。もし神が本当にヤコブという人間に勝てなかったとすれば、神は神で無かったことになります。ですから、この箇所を読んで「人に勝てない神が本当の神だと言えるのだろうか。」などと言うことは許されません。そのように言うのは、神がここで譲歩されたことを理解していないからです。

 ヤコブは祝福が与えられるまでは主を去らせようとしませんでした。腿が破壊されたというのにヤコブは屈することも恐れることもなく神に求め続けています。ここにヤコブの熱烈な信仰がありました。主はこのような熱心さに動かされてしまったのです。私たちもこのヤコブのような熱心さを持ちたいものです。神はそのような信仰の熱心を喜ばれるからです。ヘブル11:6。

 神はヤコブに譲歩して敗北されたので、ヤコブに『イスラエル』という新しい名を与えられました。『イスラ』とは「戦う」という意味であり、『エル』とは「神」という意味です。つまり「イスラエル」とは<神と戦う>という意味です。この名前を人間自身が付けたとすれば、不敬虔な反逆の徒と見做されても文句は言えなかったでしょう。しかし、これは神御自身が与えられた名ですから問題ありませんでした。こういうわけで、イスラエル人とはつまり「ヤコブの子たち」だということです。何故なら、イスラエルとはすなわちヤコブだからです。もっとも、私が今言っているのはヤコブの遺伝子を持っているユダヤ人だけに限られます。ヤコブではなくハザール人に起源を持つアシュケナージ系のユダヤ人たちは偽イスラエルだとせねばなりません。彼らにはヤコブの血がないのですから。また注意せねばならないのは、ここでヤコブにイスラエルという新しい名が与えられたからといって、ヤコブという名が消えてしまったというわけではないということです。実際、聖書はこれからの箇所でも幾度となく彼をヤコブと呼んでいます。ここで言われているのは、従来のヤコブという名に加えてイスラエルという重要な意味を持つ名が新しく付与されたというだけのことです。

【32:29】
『ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。』
 ヤコブは主の御名を知ろうと尋ねましたが、主は御自身の御名を御示しになりませんでした。主に御名がないというのではありません。ただヤコブの時にはまだ御名が示される時期ではなかったというだけのことです。ちょうど、10歳の子どもが金婚式や銀婚式の段取りまたノウハウを知らなくてもよいのと同じです。主の御名は、400年後のモーセに初めて示されることになります。その御名とは、『わたしはある。』(出エジプト3章14節)またヤハウェです。ところで、この「名」とは非常に重要です。何故なら、それは本体の表示物だからです。もし名を知らなければ、その対象を的確に捉えることは難しくなります。

 こうして神はヤコブを祝福されました。ヤコブは祝福されていたので、カナンの地を相続できただけでなく、天国も相続することができました。エサウは呪われていたので、カナンの地も天国も相続できませんでした。

【32:30~32】
『そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。』
 この場所をヤコブは『ペヌエル』と名づけましたが、これは「神の御顔」という意味です。このように命名されたのは、ヤコブが神の御顔をその目で見たからです。ヤコブは神を見たので死ぬと思いました。マノアもその目で神を見たので死ぬと思いました(士師記13:22)。ヤコブまたマノアはどうして神を見たので死ぬと思ったのでしょうか。その理由は、神が完全無欠なる義の審判官であられるのに対し、私たち人間は罪深い死すべき蛆虫に過ぎないからです。つまり、ヤコブやマノアは比較を絶する神の崇高さ・神聖さを前にして、取るに足りない自分たちに裁きが下されると感じてしまったのでした。このため、ヨハネやダニエルは神を見た際に気絶してしまったほどです(黙示録1:17、ダニエル10:5~9)。しかし、神はヤコブを死なせませんでした。これはヤコブがイエス・キリストの贖いを受けていたからです。確かにヤコブ自身は罪深い存在でしたが、イエス・キリストに贖われていたので、神はヤコブを罪清められた存在として見做しておられました(ローマ4:7~8)。このため、ヤコブは神を見たにもかかわらず、裁き殺されることがなかったのです。

 ヤコブは腿の破壊により跛で歩いていました。ヤコブが死ぬまでずっと跛のままだったかどうかは分かりません。跛だったのは一時的に過ぎなかったという可能性もあります。

 このヤコブの出来事のゆえ、ユダヤ人は『今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない』とここでは言われています。『今日』とは、もちろん創世記の著者が創世記を書いている時代の『今日』です。確かに古代ユダヤ人たちは腰の筋肉を食べませんでした。ですが、だからといって私たちまで古代ユダヤ人のようにする必要はありません。何故なら、それを永続的な規則とするのは適切ではないからです。何でもかんでも古代の聖徒たちに倣えば良いとするのは間違っています。それゆえ、今の時代に生きる私たちは腰の筋肉を食べてよいのです。

【33:1~3】
『ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが400人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、7回も地に伏しておじぎをした。』
 遂に20年ぶりの再会が実現されました。この時のヤコブはどれだけ恐れていたことでしょうか。ヤコブがエサウに会うのは地獄に遭遇するのも同然だったはずです。

 ヤコブはエサウの襲撃を想定して、子どもたちを3組に分散させておきました。これはエサウの襲撃により子どもたちが一挙に滅ぼされてしまわないためです。すなわち、最初の組が襲撃されても、2組目と3組目は逃げることができます。1組目と2組目が襲撃されても、3組目は逃げることができます。もし子どもたちを分散させなければ1回の襲撃で即全滅しかねません。この子どもたちとその母の配列には、ヤコブの愛情が示されています。女奴隷たちとその子どもたちは恐らくどうでもよいと思われていたでしょうから、最も危険な最初の組として配列されました。レアとその子どもたちも愛されていなかったでしょうが、女奴隷たちとその子どもたちよりは重要だったはずですから、2組目に配列されました。ラケルとその子ヨセフはヤコブから大いに愛されていたので、最も安全な最後の組として配列されました。この順序配列から、ヤコブのラケルに対する偏愛は捨てられていなかったことが分かります。なお、この3組に分散された子どもたちの宿営は、2つの宿営のうち後ろのほうの宿営でした(創世記32:7~8)。前のほうの宿営には、家族以外の人たちと多くの家畜とが集められていました。そちらのほうは3組かそれ以上の群れに分散されていました(創世記32:19)。

 ヤコブは子どもたちとその母よりも先に進みましたが、これは彼らを守るためでした。ヤコブは夫であり父であり男でしたから、子どもと妻たちよりも後に進むなどというみっともない振る舞いは出来なかったのです。ヤコブは草食系の女々しい軟弱者ではありませんでした。この時にヤコブがエサウに7回もお辞儀をしたのは、「7」回ですから、そのお辞儀が完全であることを示しています。ヤコブが7回のお辞儀をしたのは実際の数でしたが、これには象徴的な意味も含まれています。このお辞儀における7回という数字を、単なる象徴数としてしか捉えないのは間違っています。なお、ヤコブがこのようにお辞儀したのは崇拝ではありませんから、何も問題ありません。これがエサウに対する崇拝だったとすれば、ヤコブは偶像崇拝をしていたことになります。

【33:4】
『エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。』
 ヤコブにとって思いもよらないことが起こりました。エサウの怒りは既に消え去っており、むしろエサウはヤコブに親愛の情を示すほどだったのです。「思い違える」とは正にこのことです。このエサウの例が示すように、人の怒りはやがて消え去るものです。怒りの炎は時間という氷により冷やすべきでしょう。私たちが怒った場合にも、誰か他の人が怒った場合にも。

【33:5~7】
『エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか。」と尋ねた。ヤコブは、「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたちです。」と答えた。それから女奴隷とその子どもたちは進み出て、おじぎをした。次にレアもその子どもたちと進み出て、おじぎをした。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ていねいにおじぎをした。』
 ヤコブが妻子をエサウに紹介すると、妻と子たちがそれぞれ順々にエサウに挨拶をしました。どの妻と子たちについても『おじぎをした。』と書かれていますが、ラケルとヨセフだけは『ていねいにおじぎをした。』と書かれています。これはラケルとヨセフがヤコブと親密な関係だったからです。ラケルとヨセフはヤコブと良い関係を持っていたので、ヤコブの兄に対しても丁重に振る舞ったのです。人は誰でも自分が親しく感じている者の家族には、その家族をあたかもその親しく感じている者であるかのように心優しく取り扱うものです。

【33:8~11】
『それからエサウは、「私が出会ったこの一団はみな、いったい、どういうものなのか。」と尋ねた。するとヤコブは、「あなたのご好意を得るためです。」と答えた。エサウは、「弟よ。私はたくさんに持っている。あなたのものは、あなたのものにしておきなさい。」と言った。ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。』
 エサウはヤコブの贈り物を受け取ろうとしませんでしたが、ヤコブが大いに勧めたので受け取ることにしました。エサウが受け取りを拒否したのですから、ヤコブは贈り物を渡さずにいることもできたはずです。一体どうしてヤコブはエサウに贈り物を受け取らせたのでしょうか。それは、エサウがヤコブを『快く受け入れて』くれたという思いがけない展開となったからです。つまり、ヤコブは喜びと安全が生じたことのために贈り物をエサウへ受け取らせようとしたわけです。今の時代でも、喜びや幸福のため誰かに贈り物を渡そうとする人がどこにでもいるはずです。

【33:12~14】
『エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう。」と言うと、ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。1日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」』
 エサウはヤコブを引き連れて自分の住まいに招こうとしますが、ヤコブは家畜や子どもたちの世話があったので、エサウと一緒に行くことは出来ないと言いました。確かにヤコブには群れを世話する仕事がありました。しかし、ヤコブには実はエサウと一緒に行きたくないという気持ちもあったに違いありません。つまり、群れを世話するという理由は、ヤコブにとってエサウと一緒に行かないための良い口実となったわけです。それを口実とすれば、エサウと一緒に行きたくないという思いを伝えなくても、エサウと一緒に行かなくて済むからです。ヤコブが一緒に行けないと言われたエサウは残念に思ったかもしれません。しかしヤコブには世話の仕事がありましたから、ヤコブと一緒に行けなくても仕方ないと諦める他はありませんでした。

【33:15】
『それでエサウは言った。「では、私が連れている者の幾人かを、あなたに使ってもらうことにしよう。」ヤコブは言った。「どうしてそんなことまで。私はあなたのご好意に十分あずかっております。」』
 エサウはヤコブの忙しさを助けるため召使いを与えようとしますが、ヤコブは既に十分な好意をエサウから受けていたので遠慮しました。ヤコブが遠慮したのは、気が引けるという面もあったはずです。ヤコブは既に長子権というあまりにも重要な権利をエサウから奪い取っていますから、そのうえ更にエサウから何かを受けるということは抵抗があったはずです。もうヤコブは長子権を奪っただけで十分すぎるほどエサウから強奪していたのですから。これはAという人がBという人から1000億円を奪った場合のようです。AはBからもう1000億円も奪っているので、それ以上Bから何かを受けなくても十分なのです。この時にエサウがヤコブに与えようとした者がどれぐらいの数だったかは分かりません。少なかったかもしれませんし、多かったのかもしれません。

【33:16~17】
『エサウは、その日、セイルへ帰って行った。ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。』
 エサウは自分の住まいであるセイルへ戻りましたが、ヤコブはセイルへ行かないでスコテに行きました。実はヤコブはエサウの所に行きたくなかったのです。というのもヤコブはエサウの住まいに寄り道をしている暇など無かったからです。ヤコブの目的地はカナンにあるイサクの家でした。このスコテはイサクの家に辿り着くまでにある通り道です。この箇所で言われている通り、この『スコテ』という地名を付けたのはヤコブでしたが、これは「小屋」という意味です。これはヤボク川沿いにあるギルアデ山の場所にあります。セイルに行くと言っておきながら行かなかったこのヤコブに対して、エサウは残念に思ったはずです。「ヤコブは来ると言ったのに来てくれなかった…」と。しかし、もうエサウのヤコブに対する怒りは全て消え去っていましたから、ヤコブが自分の言った通りにしなくても、エサウはヤコブに対して憤ったりしなかったはずだと思われます。

【33:18~20】
『こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から100ケシタで買い取った。彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。』
 こうしてヤコブはカナンにあるシェケムという町に至り、そこで宿営しました。ヤコブは自分が宿営した地の一部分を、その土地の権力者ハモルの子たちから100ケシタで買い取りました。これはヤコブがそこに祭壇を築くためです。他人の土地で祭壇を築けば抗議されかねません。しかし自分の土地であれば祭壇を築いても抗議される筋合いはないのです。ヤコブはその祭壇を『エル・エロヘ・イスラエル』と名づけましたが、これは「イスラエルの神である神」という意味です。当然ながら、ヤコブはこの祭壇で動物犠牲を捧げ、その前で祈りをしました。これは神がヤコブをエサウの手から守って下さったからです。この祭壇は石で作られていたはずです。

 ところで、ヤコブがセイルに行くと言ったにもかかわらず行かなかったのは罪とされるべきなのでしょうか。これは嘘の罪だと思われます。ヤコブはセイルに行かないのであれば、最初からセイルに行くなどと言うべきではありませんでした。彼はカナンの地に行くべき旅をしていたのですから。ヤコブはエサウの機嫌を損ねないためにセイルへ行くと言ったのかもしれませんが、これはヤコブの弱さの現われだったとせねばなりません。こういうわけで、ソロモンの次の言葉は正に真実であることになります。『罪を犯さない人間はひとりもいない』(Ⅰ列王記8章46節)。

【34:1~4】
『レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。すると、その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはずかしめた。彼はヤコブの娘ディナに心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。シェケムは父のハモルに願って言った。「この女の人を私の妻にもらってください。」』
 ヤコブの娘ディナはシェケムの町の娘たちに会おうとして出かけましたが、その土地の権力者の子であるシェケムに辱められてしまいました。サラやリベカやラケルやアビガイルやバテ・シェバやエステルなどとは違い、このディナについては美しかったと書かれていません。もしディナの容貌が優れていれば聖書はそのことについて書いていたでしょうから、つまりディナの容貌は普通だったのでしょう。それでもシェケムはこのディナを恋してしまいました。容貌は普通でもシェケムの好みに適っていたのだと思われます。シェケムのこの行為は罪でした。聖書はこのような不品行を死罪に定めています。シェケムはディナに心を奪われ、理性を全く失い、そのため不品行に走ってしまったのでしょう。これは致命的な過ちでした。ディナが何のためにシェケムの娘たちを尋ねたかはよく分かりません。家族のためにこの土地の情報を得ようと聞きに行ったのかもしれません。カルヴァンは、ディナが出かけたことを単なる好奇心に過ぎなかったと見做しています。しかし、ディナが好奇心に駆られてシェケムの娘たちのところに行ったのかどうかは分かりません。何故なら、聖書はディナの動機について全く示していないからです。

 シェケムはディナと結婚することを望みました。シェケムのディナに対する愛の炎は激しく燃え上がっていました。それゆえ、彼は父ハモルにディナと結婚できるように願い求めます。シェケムが結婚を親に求めたということ自体には問題なかったと思われます。何故なら、結婚とは全ての人、ことに親に尊ばれるようにして実現されるべきだからです(ヘブル13:4)。このシェケムの例からも分かるように、この時代では結婚を親が主導していました。このようにすれば晩婚化および少子高齢化も防げるでしょう。今の時代では個々人の好みと欲望が全てを主導しているので、必然的に晩婚化が進まざるを得ず、その結果、少子高齢化が改善されない状況となってしまっています。自由だ自由だなどと近代人は個人の権利を主張しますが、その自由の代償が先進国において大きな問題を引き起こす結果となっています。自由が良いのであれば、自由を妨げる配偶者と子どもは邪魔な存在となります。ですから自由が賛美される社会であれば晩婚化と少子高齢化は避けられません。こんなのは当然でしょう。

【34:5~7】
『ヤコブも、彼が自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちはそのとき、家畜といっしょに野にいた。ヤコブは彼らが帰って来るまで黙っていた。シェケムの父ハモルは、ヤコブと話し合うために出て来た。ヤコブの息子たちが、野から帰って来て、これを聞いた。人々は心を痛め、ひどく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行なったからである。このようなことは許せないことである。』
 ヤコブにディナの災いが知らされましたが、ヤコブは冷静だったので、息子たちが野から戻って来るまでは黙っていました。息子たちはこの事件を聞くと、激しく怒りを燃やしました。息子たちは若かったので、老年になっていたヤコブと比べて、露骨に怒りを表したのでした。一方、事件を起こしたシェケムの父ハモルはといえば、ヤコブのもとにやって来たのですが、恐らく謝ることもせず、ただ息子とディナを結婚させることしか考えていませんでした。

 この箇所ではシェケムの行なった不品行が『許せないこと』だと言われています。しかし、これは法的に絶対的な意味でこう言われたのではありません。すなわち、これは不品行が神の御前で許されない罪だという意味ではありません。もし不品行が許されないとすれば、不品行を行なったのに許されたダビデのことが説明できなくなります。確かに神はダビデの不品行を許されたのです。ここで『許せない』と言われているのは、絶対的な意味ではなく、その行為を強く非難し憎悪しているのです。私たちは、例えば「時間を破る奴なんて許せないね。」などと言うかもしれません。しかし、これは何をされても絶対に許さないという意味ではないはずです。このように言ったのは、時間破りを大いに嫌悪しているという意味であるはずです。この箇所でシェケムの不品行が『許せない』と言われているのも、これと同じです。要するに、これは「そんなことがあってはいけない。」と言いたいわけです。パウロも聖徒たちの不品行は許されないと言っています(Ⅰコリント6:15)。しかし、これもやはり絶対的な意味ではなく、あくまでも「そんなことがあってはいけない。」ということです。パウロは法的に絶対に許されないという意味で「許されない」と言ったのではありません。実際、パウロはⅡコリント12:21の箇所で、悔い改めれば不品行が許されると私たちに示唆しています。

【34:8~12】
『ハモルは彼らに話して言った。「私の息子シェケムは心からあなたがたの娘を恋い慕っております。どうか彼女を息子の嫁にしてください。私たちは互いに縁を結びましょう。あなたがたの娘を私たちのところにとつがせ、私たちの娘をあなたがたがめとってください。そうすれば、あなたがたは私たちとともに住み、この土地はあなたがたの前に開放されているのです。ここに住み、自由に行き来し、ここに土地を得てください。」シェケムも彼女の父や兄弟たちに言った。「私はあなたがたのご好意にあずかりたいのです。あなたがたが私におっしゃる物を何でも差し上げます。どんなに高い花嫁料と贈り物を私に求められても、あなたがたがおっしゃるとおりに差し上げますから、どうか、あの人を私の妻に下さい。」』
 シェケムの父ハモルは、ヤコブたちにディナを息子シェケムに与えてほしいと懇願します。またハモルはディナとシェケムだけでなく、その他の男女も結婚し合うようにしたらどうかと提案しています。つまり、ユダヤ人とシェケム人が民族的に融合したらどうかと言っています。そうすればユダヤ人たちはシェケムの地において多くのメリットを受けることが出来ると。「こんなにも良いメリットがあるのですから、どうして私の提案を受け入れないという結論が出されるべきでしょうか?」とでもこの男は言いたいかのようです。シェケムもディナと結婚できるのであれば、ユダヤ人から求められた物は何でも与えると言いました。この言葉に偽りは無かったでしょう。というのもシェケムにとってディナ以上に価値ある宝は他に無かったからです。彼はディナに比べれば、自分の財産など取るに足りないと感じられたことでしょう。このように燃え上がる愛の前では、財産など砂粒も同然に思えてしまうこともあるというのは、このシェケム以外にも、歴史において少なからぬ例が示している通りです。それにしてもシェケムとハモルは、まず何よりも悔い改め、ユダヤ人から赦しを受けるべきでした。本来であればそうするべきなのに、悔い改めをすっ飛ばして、次の段階に話を進めるとは何事なのか。順序が完全に逆になっています。こういう話は謝罪と和解が為されてからされるべきでした。このことから、この2人は大変な愚か者だったことが分かります。

【34:13~17】
『ヤコブの息子たちは、シェケムとその父ハモルに答えるとき、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、悪巧みをたくらんで、彼らに言った。「割礼を受けていない者に、私たちの妹をやるような、そのようなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとっては非難の的ですから。ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。そうすれば、私たちの娘たちをあなたがたに与え、あなたがたの娘たちを私たちがめとります。そうして私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。もし、私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないならば、私たちは娘を連れて、ここを去ります。」』
 ヤコブの息子たちは、シェケムとハモルを忌まわしく思っていたので、悪巧みを考えつきました。割礼の実施と引き替えにシェケムまたハモルの要求を受け入れると見せかけ、シェケム人が割礼を受けるようにし、割礼の傷が痛んでいる時に皆殺しにしてしまおうとしたのです。これは殺人と嘘と欺きの3重の罪です。これは何という邪悪な企みでしょうか。シェケムの不品行も邪悪でしたが、ヤコブの息子たちが企んだことはそれより500倍も邪悪です。ヤコブの息子たちが考えた策略に比べれば、シェケムの不品行は小さな悪だったと思えるほどです。この時にヤコブの息子たちが求めたのは、つまりシェケム人がユダヤ人になることでした。何故なら、割礼とはユダヤ人であることを示す印なのですから。シェケム人が割礼を受ければ、確かに彼らは外面的にはユダヤ人と化していました。しかし、割礼を受けても、ユダヤ人が信じる唯一真の神に帰依していなければ、シェケム人は真に神の子とはなれていませんでした。

【34:18~24】
『彼らの言ったことは、ハモルとハモルの子シェケムの心にかなった。この若者は、ためらわずにこのことを実行した。彼はヤコブの娘を愛しており、また父の家のだれよりも彼は敬われていたからである。ハモルとその子シェケムは、自分たちの町の門に行き、町の人々に告げて言った。「あの人たちは私たちと友だちである。だから、あの人たちをこの地に住まわせ、この地を自由に行き来させよう。この地は彼らが来ても十分広いから。私たちは彼らの娘たちをめとり、私たちの娘たちを彼らにとつがせよう。ただ次の条件で、あの人たちは私たちとともに住み、一つの民となることに同意した。それは彼らが割礼を受けているように、私たちのすべての男子が割礼を受けることである。そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう。そうすれば彼らは私たちとともに住まおう。」その町の門に出入りする者はみな、ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けた。』
 ハモルとシェケムは、ヤコブの息子たちの要求を大変好ましく思いました。何故なら、ただ割礼を受けるだけでユダヤ人と融合でき、ユダヤ人の所有物を全て共有できるからです。「何と!そんな簡単なことでこの人たちと同化できるとは。」などとこの2人は思ったに違いありません。

 シェケムは、この要求を一時も早く実現させようと奮い立ちました。その理由は、シェケムがディナを本当に愛していたからです。行動が速いのは愛の現われです。愛がなければ行動は遅くなりがちです。また、シェケムが迅速に事を行なおうとしたのは、彼が大いに尊重されていたからでもありました。他者から期待されていればいるほど、人は迅速また確実に成果を出そうとするものです。

 シェケムとハモルがこのことを民衆に告げたところ、民衆も受託し、すぐさまシェケム人の全ての男子が割礼を受けることになりました。民衆にもユダヤ人と同化することは好ましく思えたのです。割礼を受けなかったシェケム人の男子はいませんでした。

 こうしてシェケム人は割礼により、外面上はユダヤ人と一緒になりました。シェケム人が割礼を受けると共に、ヤハウェにも帰依していたとすれば、どれだけ幸いだったことでしょうか。しかし、彼らの割礼にヤハウェ信仰がその背景にあったかどうかは分かりません。言うまでもなく、割礼という聖礼典は、神信仰を基礎としていなければなりません。それは信仰の証印としての儀式だからです。つまり、シェケム人が信仰抜きに割礼を受けたとしても、本当の神の子にはなれていませんでした。それは信仰を持たないでバプテスマを受けた人が、天国に入れないのと一緒です。

【34:25~29】
『三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した。こうして彼らは、ハモルとその子シェケムとを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。ヤコブの子らは、刺し殺された者を襲い、その町を略奪した。それは自分たちの妹が汚されたからである。彼らは、その人たちの羊や、牛や、ろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、その人たちの全財産、幼子、妻たち、それに家にあるすべてのものを、とりこにし、略奪した。』
 シメオンとレビは、シェケム人が割礼の傷で弱っている時を狙い、シェケムにいる全ての男子を皆殺しにしました。これは何という残虐でしょうか。神の子である者が、自分たちの宗教を利用して欺き、神が禁じている虐殺行為を愚かにも行なう。異邦人である異教徒たちもここまでのことはしていませんでした。この時にシェケムにいた男子は例外なく殺されました。しかし、女と幼児は殺されませんでした。彼らは弱い立場にあるので、大目に見られるべきだったからです。昔から今に至るまで女と子どもは殺されずに残されておくというのが、戦争や虐殺において一般的なことでした。また、この時にヤコブの子らで虐殺を行なったのはシメオンとレビの二人だけです。それ以外の9人の子たちは殺人の罪を犯しませんでした。この虐殺の際には、シメオンとレビ以外にも家の僕たちが加担していたはずです。何故なら、たったの2人だけで一つの町にいる男子全てを殺すというのは考えにくいからです。シェケム人たちは一人も虐殺から逃れられなかったのですから、僕たちも虐殺のために動員されていたと考えるのが自然でしょう。

 この事件で悪いのは完全にシメオンとレビです。この2人に弁解の余地はありません。しかし、神はこの2人の悪事を用いて、シェケムの不品行に裁きを下されたのでした。シェケムは自分のした不品行を悔い改めてはいません。ですから、神はシェケムを裁かれるため、シメオンとレビが悪に突き進むのを許可されたのです。つまり、シメオンとレビは裁きの道具でした。ユダヤ人が第一次ユダヤ戦争で滅ぼされたのも、これと一緒でした。あの時にユダヤ人を滅ぼしたローマ人が虐殺という悪を行なったことは間違いありません。しかし、神はローマ人の悪を、ユダヤ人を裁くために用いられたのです。それというのも、ユダヤ人は反逆また不敬虔という裁かれるべき悪徳をずっとし続けており、一向に悔い改めることをしようとしなかったからです。このように神とは、人間の悪を用いて、裁かれるべき者を裁かれるようにする御方なのです。その悪の責任は人間自身に帰されねばなりません。しかし、神はその悪を、誰かに対する裁きの手段として利用されるのです。

 このような酷い悪が行なわれたのを聞くと、本当にシメオンとレビは聖徒だったのかと思われる人もいるかもしれません。確かに、このようなことは、善悪を気にしない無神論者でさえも滅多に行なわないことです。しかし、シメオンとレビは神の子である聖徒でした。もし彼らが聖徒でなければ、天国の門に彼らの名が書かれていることもなかったでしょう(黙示録21:12)。シメオンとレビはイエス・キリストの贖いを受けていました。ですから彼らは、大きな悪を行なったものの、あくまでも聖徒でした。重要なのは人がどれだけの悪を行なったかではありません。重要なのは、その人がイエス・キリストの贖いを受けるよう神から定められているかどうかということです。このシメオンとレビであれ、ダビデやテオドシウスであれ、たとい大きな悪を行なったとしても、その人がイエス・キリストにおいて選ばれているというのであれば、その人は天国に定められている聖徒なのです。しかし、あまり悪は行なっていなくても、たとえ日本人のような「良い人たち」であっても、もしイエス・キリストによる選びがないのであれば、どれだけ善良に見えたとしても神の子である聖徒ではありません。シメオンとレビよりも善良だと思える選ばれていない人は幾らでもいるはずです。しかし、後者のほうは聖徒でなく、決して救われません。それは救いと天国が全てイエス・キリストにおける神の選びにかかっているからなのです。非常に罪深くても救いに選ばれていれば天国に入り、あまり罪深く思えなくても選ばれていなければ天国に入れません。私たちは思い違いをしないようにすべきです。

【34:30~31】
『それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」』
 ヤコブはシメオンとレビの愚行を大いに嘆いています。それは、この2人がとんでもない事件を引き起こしたからです。ヤコブは、死ぬ前にこの時に行なわれた愚行を呪っています(創世記49:5~7)。またヤコブが嘆いたのは、シメオンとレビの愚行により、ヤコブたちがカナンにいた民族から憎悪されることになったからです。その憎悪によりカナン人が襲って来るならば、少人数しかいなかったヤコブたちは全滅を避けられないでしょう。そうすれば、ヤコブの子孫が数多くなるという神の約束も実現されなくなってしまいます(創世記28:14)。ですからヤコブはどうしても嘆かずにはいられませんでした。それにしても、このような悲惨に巻き込まれたヤコブの人生は本当に苦しみの連続でした。祝福を横取りしたためにエサウから逃げねばならなくなり、逃げた先でラバンに苦しめられ、一夫多妻による弊害に悩まされ、ラバンの家を去ってからは再びエサウの脅威に揺り動かされ、エサウの脅威を乗り越えたと思ったら今度は子どもたちがとんでもないことをやらかしたのです。しかも、後の箇所を見れば分かる通り、ヤコブの苦しみはこれからも続きます。ヤコブの人生よりも不幸な人生を送った人は、なかなか珍しいのではないかと思われます。実際、ヤコブ自身が自分の人生は不幸だったと嘆いています(創世記47:9)。ソロモンが言った次の言葉は、正にこの時のヤコブに当てはまっています。『愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。』(箴言17章25節)『愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない。』(箴言17章21節)ところで、今の時点で苦しんでいる人がいるでしょうか。もしいたとすれば、その人はヤコブのことを考えるべきでしょう。ヤコブは私たちよりも不幸でしたが、その不幸を耐え忍んだのです。ヤコブでさえ大きな不幸を耐えたとすれば、私たちは尚のこと不幸に耐えねばならないはずです。私たちの不幸がヤコブの不幸に優っているというのでもなければ、確かにそうです。

 このようなヤコブの嘆きを聞かされたシメオンとレビはといえば、ただシェケムの悪に目を留めて憤るばかりであり、自分たちの罪を反省するということはありませんでした。確かに、シメオンとレビが言っている通り、ディナが遊女のように取り扱われるのは良くありません。ですから、彼らが『私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。』と言ったことは正にもっともです。しかし、だからといってシメオンとレビがシェケムの悪を裁いて良いということにはなりません。何故なら、この2人にシェケムを裁く権利などないからです。シェケムを裁くべきなのは、その土地における権力者また法であって、もし権力者また法が裁かなければ神が代わりに裁きを下されます。今の日本でも、誰かが友人を殺されたからといって、その殺人者を勝手に裁くことはできません。その殺人者を裁くのは国家における司法機関だからです。つまり、シメオンとレビは違法な越権行為をしたわけです。この2人に弁解の余地はありません。それなのにこの2人は自分たちのしたことを全く反省していません。それは彼らが愚かだったからでなくて何でしょうか。しかし、彼らが愚かだったのは、彼らがまだ若くて未熟だったからなのでしょうか。それとも、抜き去ることのできない生来的・遺伝子的な性質に基づく愚かさが彼らにはあったのでしょうか。どちらであったのか私たちには分かりません。いずれにせよ、私たちは、この2人のようにならないようにすべきです。悪を行なったならば、重要なのは反省して悔い改めることです。悔い改めもせず誰かに責任を転嫁したり言い訳をしたりするのは、アダムとエバのようです。