【創世記35:1~37:20】(2021/07/11)


【35:1】
『神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」』
 神はヤコブがベテルに引っ越すよう命じられました。これは、もうシェケムの地にいるべきではなかったからです。もしそこに居続ければ、やがてカナン人から襲撃されて滅んでしまいかねないのです。このようにして神は死滅の危機からヤコブを免れさせて下さいました。ヤコブが行くように言われた『ベテル』とは、主が以前ヤコブに現われて下さった場所です(創世記28:10~22)。そこまで行けばヤコブはもう安全になることができました。

【35:2~4】
『それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。』
 ヤコブはベテルに旅立つ際、家にいる全ての人たちが偶像を手放すよう命じました。ヤコブは、ここまで自分に守りを与え、このシェケムにおける危機からも守りを与え、そしてこれからも守りを与えて下さる神に祭壇を築こうとしていたのです。祭壇を築くのは礼拝が捧げられるためです。そのような神に礼拝するヤコブの家族やヤコブに属する人たちが、偶像などというゴミを持っていてはなりませんでした。また神はヤコブの家にいる人たちを、ヤコブを中心として一つに見做しておられました。ですから、礼拝者であるヤコブの家にいる人たちが偶像を持っていてはならなかったのです。ヤコブの家に偶像があったのは、ラケルがその原因であると思われます。ヤコブが偶像を拝んでいたということは考えられません。私たちは先にラケルが父のテラフィムを盗んだ出来事について見ました(創世記31:19)。これはラケルが偶像崇拝に心を傾けていたということです。このラケルの偶像崇拝が、パン種のようにしてヤコブの家に広まったと考えられます(Ⅰコリント5:6)。ヤコブが偶像をここまで取り除いておかなかった怠惰と臆病は咎められねばなりません。ヤコブはラケルへの愛から偶像を取り除けなかったのでしょう。何故なら、そんなことをすればラケルに嫌われるかもしれませんから。ヤコブが偶像を取り除かなかった代償は小さくありませんでした。ヤコブの家全体に偶像が見られる状況となっていたのです。私たちも愛のゆえ怠惰と臆病に陥ることが時にはあるかもしれません。誰だって自分の愛する人から嫌われたくないのが自然の感情ですから。しかし、そのような怠惰と臆病の代償は大きいと知っておくべきです。改善あるいは除去されるべきその悪が大きければ大きいほど、生じることになる代償も大きくなってしまいます。

 ヤコブの家にいた人たちは、このヤコブの命令に従い、それまで持っていた全ての偶像をヤコブに渡しました。彼らもカナン人の脅威を感じていたのです。すなわち、このままではカナン人に襲撃されて全滅してしまいかねないと。ですから、彼らはヤコブの神―それは真の神であられます―に助けていただくため、自分たちの神々である偶像を捨て去ったのです。これは、ちょうど飛行機が墜落しそうになった時、「神さま。もし無事に帰れたならばこれまでずっと拝んできた仏像をもう拝みません。」などと言うのと似ています。この時に彼らは『耳につけていた耳輪』をもヤコブに渡しました。ヤコブが取り除けと命じたのは『異国の神々』(創世記35:2)だけでした。彼らが耳輪をもヤコブに渡したのは一体どういうわけなのでしょうか。恐らく、この耳輪は偶像崇拝と関わりを持っていたのでしょう。この耳輪は偶像に対する忠誠と愛の現われだったのかもしれません。こうしてヤコブは彼らから渡された物を、『シェケムの近くにある樫の木の下に隠し』ました。ヤコブがこうしたのは咎められるべきでした。何故なら、ヤコブが偶像と耳輪を隠したのは、彼らの気を害さないためだったからです。これでは彼らに対して再び偶像を拝めるようになると期待させるようなものです。木の下を掘り返せば偶像が再び出て来るのですから。この時にヤコブはモーセや宗教改革者たちのように偶像を粉微塵にすべきでした。

【35:5】
『彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。』
 神が、カナン人とペリジ人の心に神への恐れを起こさせたので、彼らはヤコブたちを追いかけませんでした。ヤコブたちは追跡されなかったことについて、奇跡的だと感じたに違いありません。カナン人とペリジ人は、もしヤコブたちに手を出せば神からの復讐が下されるかもしれないと思ったのです。このようになったのは、神がヤコブたちを旅立たせたからです。神の旅には神からの援助があります。こうしてヤコブたちは安全に逃げることができました。

 このように神の御心であれば、事は順序良く進みます。神が全てに働きかけて下さるからです。しかし神の御心でなければ、事は上手に運びません。神が実現されないよう働きかけられるからです。これは私たちの経験からも分かることです。

【35:6~8】
『ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現われたからである。リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。』
 ヤコブは神の命じられた通り、ベテルに行って祭壇を築き、そこで神を礼拝しました。ヤコブはそこを『エル・ベテル』と名づけましたが、これは「ベテルの神」という意味です。ヤコブはこの命名により、神がベテルで現われて下さったことを記念しています。

 この時に、リベカの乳母が亡くなりました。彼女が葬られた木をヤコブは『アロン・バクテ』と名づけましたが、これは「嘆きの樫の木」という意味です。また、ここで『樫の木』と言われているのは「テレビンの木」とも訳せます。ここで疑問が生じるかもしれません。リベカの乳母はどうしてヤコブと一緒にいたのでしょうか。これの答えは次の2つのうちどちらかです。すなわち、ヤコブがカナンからパダン・アラムへと行く際に乳母も一緒に行っていたか、ヤコブがパダン・アラムに行ってからリベカかイサクが補助者として乳母をヤコブのもとへ遣わしたのです。どちらが本当だったかは分かりません。この乳母は土葬で葬られましたが、この時代には土葬が一般的だったのでしょう。アブラハムとサラも恐らく土葬により葬られました(創世記25:8~9、23:19)。

【35:9~12】
『こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」』
 神はベテルの場所で再びヤコブに現われ、ヤコブを祝福し、ヤコブにもう一度イスラエルという名を付けられました。このため、ヤコブはこれ以降、自分をイスラエルと呼ぶことになります。前にも述べた通り、ヤコブという名がヤコブから消されたわけではありません。聖書はこれからも、ヤコブのことをイスラエルと呼ぶと同時にヤコブとも呼んでいるからです。もしヤコブがヤコブという名を失っていたとすれば、聖書はこれ以降、彼のことをイスラエルとしか呼んでいなかったでしょう。神は、このように2度もイスラエルという名をヤコブに付けられました。神は、重要なことは2度、3度、またそれ以上に行なわれる御方なのです。それでは私たちはヤコブについてどう呼んだらよいのでしょうか。私たちはヤコブのことをイスラエルとしか呼ぶべきではないのでしょうか。それともヤコブとも呼んでよいのでしょうか。私たちはどちらでヤコブを言い表しても構いません。何故なら、それは聖書の書き方とまったく一緒だからです。

 また神はヤコブから一つの民族が出ると言われました。これはユダヤ民族のことを指しています。神は『王たち』もヤコブから出ると言っておられます。これは王国時代に現われた多くの王たちのことです。また神は、アブラハムとイサクに与えられたカナンの地を、ヤコブにも与えると言われました。つまり、アブラハムとイサクが約束においてカナンの地を受けたように、ヤコブも約束においてカナンの地を受けました。神は、そのカナンの地を、ヤコブ『の後の子孫にも』与えると言っておられます。この子孫とはイエス・キリストです。これらの約束を、神は御自身が全能であると示されることにより、必ず実現するとヤコブに確信させようとしておられます。全能であれば不可能は一つもないからです。ですから、ヤコブの子孫たちは、これらの約束が実現されるために生んで増えねばなりませんでした。『生めよ。ふえよ。』

【35:13~15】
『神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られた。ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。』
 このように語られた神は、ヤコブを離れて行かれました。もし神が肉体の位格をとってヤコブに現われていたとすれば、神は実際的に天に上って離れられたことになります。もし神が強い臨在においてヤコブに現われていたとすれば、神が離れて上られたとここで言われているのは、その強い臨在が過ぎ去ったことを意味しています。神は現在において、もはやこのような現われ方を聖徒たちに対してなされません。何故なら、神の啓示はもう既に全て示し終えられたからです。

 ヤコブは神が現われて下さった場所に、石の柱を立てて、それに葡萄酒および油を注ぎました。石の柱が立てられたのは、神が現われて下さったことを記念するためです。その柱に葡萄酒と油が注がれたのは、石の柱を聖別するためでした。
v  ヤコブはこの場所にベテルという名を付けたと書かれています。しかし、既にこの場所にはベテルという名が付けられています(創世記28:19)。どうしてこの箇所ではヤコブが再びそこにベテルという名を付けたと書かれているのでしょうか。前に既に付けておいた名前を再び付けるというのは、自然だとは思えません。私の考えでは、この箇所では、この場所にもう一度ベテルと名づけられたということが言われているのではありません。ここで言われているのは、その場所の名がベテルであるということをヤコブが再確認したというだけのことであると思われます。

【35:16~20】
『彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。彼女がひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に、「心配なさるな。今度も男のお子さんです。」と告げた。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、今日のベツレヘムへの道に葬られた。ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている。』
 ヤコブがベテルから旅立つと、ラケルがとてつもない陣痛に苦しみました。神によりラケルが身籠ったこと自体は幸いだったでしょう。しかし、この陣痛について言えば、それはヤコブにとって悲しみをもたらす陣痛でした。それは死に至る陣痛だったのです。この時代では陣痛により死ぬ女性が多くいました。まだ医療が未発達だったからです。医療が発達している現代の先進国では、陣痛で死ぬ女性などほとんど見られません。それどころか無痛分娩などという前代未聞の手段さえ現われているぐらいです。

 この時に助産婦はいい加減なことを言ってしまいました。陣痛で苦しむラケルに『心配なさるな。』と言ったのですが、ラケルは死んでしまったのです。往々にしてこの世界では人の言葉と真逆の出来事が起こるものです。1940年代、50年代においても、コンピューターが広まることなど起こらないと言われていましたが、今やコンピューターは社会に満ち溢れています。しかし、この助産婦の励ましは、ラケルに対する恵みであったとも見做せます。何故なら、この励ましによりラケルがまさか死ぬことはないだろうと思ったならば、ラケルは死ぬと思わないままの状態で死に至ることになったからです。死を意識することせず知らず知らずのうちに死ぬというのは、あのカエサルが望んだ最高の死に方でした。

 こうしてラケルは死んでベツレヘムへの道に墓が作られましたが、ヤコブはその墓の上に石の柱を立てました。これは、先にヤコブが神のために記念として石の柱を立てたのと同じで、ラケルのための記念でした。これが故人に対するヤコブ、また古代ユダヤ人のやり方だったのです。しかし、神のために立てられた柱とは違い、ラケルの柱には葡萄酒および油が注がれませんでした。これはラケルが神ではなかったからです。もしラケルの柱にも液体を注いでいたとすれば、偶像崇拝になっていました。この墓の柱は『今日』まで残っているとここでは言われています。これはもちろん創世記が書かれた時代における『今日』です。これを私たちが今生きている21世紀の『今日』と捉えてはなりません。

 ラケルはこの時に自分の胎内にいた子どもを『ベン・オニ』と命名しましたが、これは「私の苦しみの子」という意味です。このように命名されたのは、この子どもがラケルに凄まじい陣痛の苦しみを与えたからです。しかし、ヤコブは子どもを『ベニヤミン』と命名しました。これは「右手の子」という意味です。恐らく、ラケルがこの子の入っているお腹を右手で触れていたので、こう名付けられたのだと考えられます。ラケルが名付けたベン・オニという名は無効にされてしまいました。このベニヤミンという名前は、今でも「ベンジャミン」という名でユダヤ人に多く付けられています。ウォルター・ベンヤミンもこの名前です。「ベン」というのはベンジャミンという名の愛称です。パウロはこのベニヤミンの子孫でした(ピリピ3:5)。

 それにしても、最愛の妻ラケルを失ったヤコブの悲しみはどれほどだったでしょうか。シェケムの危機から逃れたと思ったら、ひと息つく暇さえなく、すぐにも最も愛する妻が苦しんで他界したのです。このヤコブほど不幸な人生を送った人は、かなり珍しいのではないかと思われます。しかし、ラケルがこうして死んだのは、神の働きかけによりました。神はヤコブの偏愛を改善させようとしてラケルをこのように他界させられました。そうすればヤコブには、今まで愛していなかったレアだけが妻として残ることとなるからです。これでバランスがとれます。ヤコブはラケルが生きている限り、ラケルだけを愛し、レアを蔑ろにすることは決して止めませんでした。ですから、ヤコブの偏愛が改善されるためには、ラケルが死ぬこと以外に有効な手段は無かったのです。それゆえ、神はレアがラケルよりも先に死ぬようには絶対になさいませんでした。そのようになれば、ヤコブは邪魔なレアが消えたというので、ますますラケルに心を傾けていたでしょう。神は憐み深い御方ですから、レアのためにそのようにならないようにされたのです。むしろ、神はラケルを死なせることでヤコブが偏愛の過ちに気付くようになさいました。

【35:21~22】
『イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張った。イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。』
 ヤコブがミグダル・エデルに滞在していた時、長子ルベンがヤコブのそばめビルハと淫行を行ないました。ルベンはレアの子でしたから、ビルハと血の繋がりはありません。しかし、これはヤコブを汚し辱める行為でした。何故なら、ヤコブとビルハは夫婦として一体だったからです。これはレビ記18:8の箇所で教えられていることです。律法はルベンの行為を死罪としています。これはとんでもない愚行です。ですからヤコブは死ぬ前にこの行為を断罪しています(創世記49:3~4)。ヤコブはこの事件を聞いて知りましたが、誰からどのように聞いたのかは分かりません。しかし、たとえ分からなくてもこれは些細なことですから、問題は生じません。このように、またまたヤコブには悲惨が降りかかって来ました。少し前にラケルが死んでしまったばかりだというのに、不幸が更に追い打ちをかけています。これはほとんど拷問でした。しかし、神はこのような不幸を通してヤコブの信仰を鍛え上げ、彼の忍耐心を練られました。こういった不幸の連続により、ヤコブは神のおられる天という祖国をますます求めるようになったはずです。何故なら、不幸が次々に襲いかかるので、ヤコブはこの世に愛着を持つことなど到底出来なくされただろうからです。この世の虚しさを悟るからこそ、天に希望を置くことが出来るようになります。

【35:22~26】
『さて、ヤコブの子は12人であった。レアの子はヤコブの長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。ラケルの子はヨセフとベニヤミン。ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。これらはパダン・アラムでヤコブに生まれた彼の子たちである。』
 この箇所では、ヤコブの12人の子たちが、それぞれ母親ごとに示されています。このように書かれたのは、ヤコブが定められていた数の子を全て生み終えたからです。もうこれ以降、ヤコブが子を生むことはなくなります。なお、ここで書かれているのはヤコブの子のうち男だけです。女については含まれていません。これは日本で言えば皇族のうち男だけが天皇になれるのと似ています。ここで女性が省略されているのを差別として見ないようにせねばなりません。これは差別ではなく自然の秩序です。また、ヤコブの生んだ子が『12人』であったのは、それらの子が選ばれていた者たちだったことを示しています。同様の理由から使徒たちも12人だったのです。

【35:27~29】
『ヤコブはキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。イサクの一生は180年であった。イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。』
 ヤコブは遂にカナンにいるイサクのもとへ帰って来ました。こうして神はヤコブが誓った通りにして下さいました(創世記28:20~22)。家に帰宅したヤコブとイサクまたリベカとのやり取りについては、全く書き記されていません。恐らく書き記すに値するような重要事項は起こらなかったのでしょう。もし何か特筆すべき事柄があったとすれば、聖書はそれについて書いていたでしょうから。大いに推測できることとして、家に帰って来たヤコブと両親は互いに喜びあったに違いありません。

 この後、イサクは180歳で死にましたが、これはイサクが洪水前の人々に超長寿を生じさせていた遺伝子の傾向をまだ僅かばかり持っていたということです。イサク以上に遺伝子が劣化すると、最高でも120歳ぐらいまでしか生きられません。ですからイサクは寿命が今の水準にまで落ちる最後の段階に属していたことになります。死んだイサクはエサウとヤコブの手で葬られました。イサクは『息が絶えて死』にましたが、これは恐らく老衰だったと思われます。この箇所では書かれていませんが、このイサクはアブラハムまたサラと一緒の墓に葬られました(創世記49:31)。イサクも恐らく土葬だったでしょう。ところで、ずっと前にも述べたことですが、創世記5章で示されている寿命が全て10倍されていたと考える人は、この箇所で書かれているイサクの寿命も10倍されていると考えるのでしょうか。その場合、イサクは18歳で死んだことになります。これは有り得ません。ですから、ここでイサクが180歳まで生きたと言われているのを聞いて、創世記5章で10倍の寿命が書かれていると捉える人たちは、大いに悩まされるはずです。しかし、余計な詮索や不信仰な疑いはもうよい。私が真に正しいシンプルな解を示してあげましょう。すなわち、創世記5章で示されている寿命は文字通りの意味で正しく、私たちが今見ている箇所で示されているイサクの寿命も文字通りの意味で正しいのです。つまり、洪水前の人たちは本当に1000歳近くまで生き、イサクも180歳まで生きました。何故なら、詩篇119:160の箇所で言われているように『みことばのすべてはまこと』だからです。

【36:1】
『これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。』
 創世記36章ではエサウの系譜が記されています。エドムとはエサウの別の呼び方です。このエドムとは場所の名前でもあり、それは死海の南側にあり、そこにはセイル山という長い山があり、広い砂漠に面しています。

【36:2~5】
『エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。アダがエサウにエリファズを産み、バセマテはレウエルを産み、オホリバマはエウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらはカナンの地で生まれたエサウの子である。』
 エサウは呪われた人だったので、一夫多妻者となりました。しかも、その妻たちはといえば、カナン人の女が2人、イシュマエル人の女が1人でした。呪われた者は呪われた者に相応しいことをします。この箇所で書かれているエサウの子たちは男だけであり、女は書かれていません。

【36:6~8】
『エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。』
 ヤコブとエサウが再会した後、両者はその財産の多さのために一緒にはいられないことが判明しました。もし一緒にいたとすれば、ヤコブとエサウの持つ家畜たちが次々と草を食べるので、すぐにも草が足りなくなり、家畜たちは餓死していたでしょう。そして、家畜が餓死するので、肉や乳や卵や毛皮などが不足することになります。水も足りなくなっていたかもしれません。もしそうなれば本当に大変でした。このためエサウはヤコブから離れて今までに住んでいたセイル山に再び住むことにしました。ヤコブと一緒に住めないのであれば、すぐ前まで住んでいた地に戻るのが自然だからです。こうして神はまたもやエサウをヤコブから引き離されました。エサウは自分自身の意志でヤコブから離れたでしょうが、実は神がエサウをヤコブから遠ざけられたからそうなったとは思いもしなかったはずです。また、この箇所では、36:1の箇所に引き続き、再びエサウがエドムであると言われています。創世記36章では、これからもエサウがエドムであると繰り返されています(36:19、43)。36章では明らかに「エサウ=エドム」ということが強調されています。これは当時の読者が、エドム人はエサウの子たちだということをよく認識するためでした。それは当時の読者であるユダヤ人たちが、間違ってもエドム人たちと仲良くしたりしないようにするためです。何故なら、ユダヤ人が祝福されたイスラエルの子孫であるのに対し、エドム人は呪われたエサウの子孫だからです。ユダヤ人とエドム人が仲良くするのは、プロテステント教徒とエホバの証人が仲良くするのと似ています。

【36:9~14】
『これがセイルの山地にいたエドム人の先祖エサウの系図である。エサウの子の名は次のとおり。エサウの妻アダの子エリファズ、エサウの妻バセマテの子レウエル。エリファズの子はテマン、オマル、ツェフォ、ガタム、ケナズである。ティムナはエサウの子エリファズのそばめで、エリファズにアマレクを産んだ。これらはエサウの妻アダの子である。レウエルの子は次のとおり。ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ。これらはエサウの妻バセマテの子であった。ツィブオンの子アナの娘でエサウの妻オホリバマの子は次のとおり。彼女はエサウにエウシュとヤラムとコラを産んだ。』
 次は、エサウの子たちについて示されています。注目すべきなのはエリファズの産んだ『アマレク』ですが、この人はアマレク人の祖先です。このアマレク人はユダヤ人の憎き敵でした。モーセもこの民族について『主は代々にわたってアマレクと戦われる。』(出エジプト記17章16節)と言っています。これはアマレク人が神に呪われていることを示しています。このアマレク人はエドムの民族だったのです。

【36:15~19】
『エサウの子で首長は次のとおり。エサウの長子エリファズの子では、首長テマン、首長オマル、首長ツェフォ、首長ケナズ、首長コラ、首長ガタム、首長アマレクである。これらはエドムの地にいるエリファズから出た首長で、アダの子である。エサウの子レウエルの子では、次のとおり。首長ナハテ、首長ゼラフ、首長シャマ、首長ミザ。これらはエドムの地でレウエルから出た首長で、エサウの妻バセマテの子である。エサウの妻オホリバマの子では、次のとおり。首長エウシュ、首長ヤラム、首長コラである。これらはエサウの妻で、アナの娘であるオホリバマから出た首長である。これらはエサウ、すなわちエドムの子で、彼らの首長である。』
 続いてエサウの子で首長となった者たちが示されます。神は、エサウからこのように多くの首長を生じさせました。神とは悪者に対しても慈しみを注いで下さる御方なのです。もっとも、最後の最後には悪者に対して永遠の呪いが下されることになるのですが。

【36:20~30】
『この地の住民ホリ人セイルの子は次のとおり。ロタン、ショバル、ツィブオン、アナ、ディション、エツェル、ディシャンで、これらはエドムの地にいるセイルの子ホリ人の首長である。ロタンの子はホリ、ヘマム。ロタンの妹はティムナであった。ショバルの子は次のとおり。アルワン、マナハテ、エバル、シェフォ、オナム。ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき荒野で温泉を発見したアナである。アナの子は次のとおり。ディションと、アナの娘オホリバマ。ディションの子は次のとおり。ヘムダン、エシュバン、イテラン、ケラン。エツェルの子は次のとおり。ビルハン、ザアワン、アカン。ディシャンの子は次のとおり。ウツ、アラン。ホリ人の首長は次のとおり。首長ロタン、首長ショバル、首長ツィブオン、首長アナ、首長ディション、首長エツェル、首長ディシャン。これらはホリ人の首長で、セイルの地の首長である。』
 今度は、セイルに住んでいたセイルの子孫たちが示されています。このセイルはエサウの子孫ではありませんが、エサウが住んでいたセイル山にいた人なので書き記されています。もしエサウがセイル山に住んでいなければ、セイルとその子孫についてもここでは書かれていなかったでしょう。この箇所では、エサウの妻オホリバマが出てきます。オホリバマはセイルの曾孫でした。このオホリバマの母アナは温泉を発見したとここで書かれていますが、このように書かれているのは、この温泉が有名だったからなのでしょう。普通の温泉を発見したぐらいであれば、どうしてわざわざ普通程度の温泉を発見したことについて書き記す必要があるでしょうか。

【36:31~39】
『イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めた王たちは次のとおり。ペオルの子ベラがエドムで治め、その町の名はディヌハバであった。ベラが死ぬと、代わりにボツラからでたゼラフの子ヨバブが王となった。ヨバブが死ぬと、代わりにテマン人の地から出たフシャムが王となった。フシャムが死ぬと、代わりに、モアブの野でミデヤン人を打ち破ったベダデの子ハダデが王となった。その町の名はアビデであった。ハダデが死ぬと、代わりにマスレカから出たサムラが王となった。サムラが死ぬと、代わりにレホボテ・ハナハルから出たサウルが王となった。サウルが死ぬと、代わりにアクボルの子バアル・ハナンが王となった。アクボルの子バアル・ハナンが死ぬと、代わりにハダルが王となった。その町の名はパウであった。彼の妻の名はメヘタブエルで、メ・ザハブの娘マテレデの娘であった。』
 今度は、イスラエルの共同体が王制となる紀元前1000年頃よりも前に、エドムで王だった者たちが順番に示されています。エドムの国は王制だったのです。この箇所で示されている王の数は8人です。

 この箇所では『イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めた王たちは…』と書かれていますから、創世記の筆記年代はイスラエルに王制が始まってからだったのでしょう。この箇所では、イスラエルが王制となる前のエドム王における歴史が明白に書かれているのですから、明らかにこう考えざるを得ません。近代になるまで教会はモーセが創世記を書いたと考えていました。カルヴァンもルターも全く疑わずにそう考えています。もし創世記がモーセにより書かれたとすれば、この箇所(創世記36:31~39)で示されているエドム王の歴史は預言だったことになります。しかし、この箇所で書かれているのは明らかに預言ではありません。ここでは既に過ぎ去った昔の歴史について書かれています。それは文章を見れば明らかです。もしこれが預言だったとすれば、「~であった。」ではなく「~となるであろう。」と書かれていたはずです。そもそも創世記がモーセにより書かれたとするのは単なる伝統的な理解に過ぎず、この理解の根拠となる聖書箇所はありません。むしろ、私たちが今見ているこの箇所もそうですが、私たちが見いだせるのは創世記がモーセにより書かれたのではないということを根拠づける箇所ばかりです。ですから、私がもし昔の時代に行けるとすれば、このことを聖徒たちに教えてあげたいものです。私の言ったことを聞いた昔の聖徒たちで、よく理解し、考えを改めるようにしてくれる人が幾人かはいるはずです。

【36:40~43】
『エサウから出た首長の名は、その氏族とその場所によって、その名をあげると次のとおり。首長ディムナ、首長アルワ、首長エテテ、首長オホリバマ、首長エラ、首長ピノン、首長ケナズ、首長テマン、首長ミブツァル、首長マグディエル、首長イラム。これらはエドムの首長で、彼らの所有地における彼らの部落別にあげたものである。エドム人の先祖はエサウである。』
 最後は、エサウの子孫である首長たちが、その場所ごとに示されています。ここで書かれている首長は全部で11人です。また、ここでは再びエドム人がエサウの子孫であると繰り返されています。神はこのように繰り返されることで、ユダヤ人たちにエドム人がエサウの子孫であると強く認識させようとしておられます。

【37:1~2】
『ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。』
 ヤコブはイサクが死んで後、イサクの住んでいたカナンに住みました。それは、その地が神によりヤコブに与えられた地だったからです。ヤコブは敬虔な人だったので、神の言葉のゆえに、カナンに住むべきだと強く思っていたでしょう。このカナンという地は、山が多く、自然豊かな場所です。この章から創世記の最後まではヤコブの歴史について書き記されています。

【37:2~4】
『ヨセフは17歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。』
 末っ子である17歳の時のヨセフは、兄たちと一緒に羊を飼っていましたが、兄たちの悪を父に告げる「良い子」でした。これは兄たちからすればたまったものではなかったはずです。

 このヨセフは、ヤコブが老齢の時に生まれたので、ヤコブから最も愛されている子でした。年を取ってから生まれるほど、子は愛しく思えるものです。このためヤコブは特別的にヨセフに『そでつきの長服を作ってやって』いました。ヤコブは他の子たちにはこのような服を作っていなかったはずです。何故なら、もしヨセフ以外のためにも長服が作られていたとすれば、聖書はそのことについて書いていただろうからです。ヨセフの兄弟たちは、父から最も愛されているヨセフを憎んだので、ヨセフとまともなやり取りをすることが出来ませんでした。これは当然でした。兄弟の誰かが自分より親から愛されているのを見ても、精神を平静に保てる子どもなどいるはずがありません。このようにヤコブがヨセフを過剰に愛していたのは間違っていました。そのようにすれば他の子どもたちがおかしくなるのは明らかだからです。ヨセフの兄弟たちがヨセフを妬んだのも間違っていました。何故なら、神は妬みを禁じておられるからです。要するに、ヤコブとヨセフの兄弟たちはどちらも咎められるべきことをしていました。

【37:5~8】
『あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。』
 ある時にヨセフは自分の見た夢を兄たちに告げたところ、ヨセフはますます兄たちから憎悪されることとなりました。その夢が兄たちに気に入らなかったからです。この夢は、実は神の預言による夢であって、これから34年後の出来事が示されていたのですが、当然ながらこの時は誰もそのことに気付けませんでした。このように神は夢をはじめ色々な方法で私たちに語りかけておられますが、人間はそれに気づくことがほとんどありません(ヨブ記33:14)。リンネは神の働きかけに非常に鋭い人でしたが(彼の「神罰」という本を見ていただきたい)、こういった人はごく稀にしかいません。ヨセフの見た夢の内容について言えば、これはヨセフが兄たちに対して支配者になるという預言でした。この夢に出てくる『束』は、それを持っている者を示しています。すなわち、ヨセフの持っている束はヨセフを、ヨセフの兄弟たちが持っている束はヨセフの兄弟たちを示しています。この束について難しく考える必要はありません。

 今でも神が夢で何かをお示しになるということは、あると思います。神が誰かに何かを示そうとされたのであれば、そういった夢が与えられるでしょう。カエサルが死ぬ前には、幾人かの人たちがそれについて示された夢を見ていたということを、歴史は知らせています。例えばカエサルの妻はカエサルが死ぬ前に恐ろしい夢を見たので、カエサルが死なないようにと願ったのです。私もこのような夢を見たことがあります。

【37:9~11】
『ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。』
 ヨセフは再び夢を見ましたが、それは前に見た束の夢と本質的には一緒の夢でした。すなわち、今度の夢も前の夢と同じで、ヨセフが家族たちに対して支配者として立つようになるという預言が示されました。今度の夢においては、『太陽』がヨセフの父ヤコブを、『月』がヤコブの妻を、『十一の星』がヨセフの11人の兄弟を表しています。ヤコブはすぐにこのことを悟りました。この時も、ヨセフの夢について聞いた兄たちは、ヨセフに対して心を憤らせました。ヤコブも、ヨセフが思い上がっていると感じたのでヨセフを叱っています。しかしヤコブは、もしかしたら神がこれからヨセフに働きかけて夢のようにされるかもしれないと考えたのでしょうか、ヨセフが見たと言っている夢を心に留めておきました。これは、ヤコブが神に関することについては非常に勘の鋭い人だったからです。このヤコブの勘は数十年後に当たることになります。

【37:12~14】
『その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。それで、イスラエルはヨセフに言った。「おまえの兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」すると答えた。「はい。まいります。」また言った。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。』
 ヤコブたちは羊を飼う一族でした。ヨセフの兄たちは本格的に羊を飼っていましたが、ヨセフはまだ見習いに過ぎませんでした。ヤコブは、シェケムに行った兄たちが無事であるのかどうか知るために、ヨセフをシェケムに遣わそうとします。ヨセフは父の言ったことに従いました。ヤコブはヨセフを通して兄たちの悪い噂を聞いていました。このためヤコブは兄たちの状況が気になって仕方なかったのだと思われます。愚かな子たちは何かの事件や問題をいつでも引き起こしかねないからです。ヤコブの言葉から推測すると、恐らくヨセフが兄たちのもとへ偵察に遣わされるのは、この時が初めてだったと思われます。

【37:15~17】
『彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて行った。「何を捜しているのですか。」ヨセフは言った。「私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。」するとその人は言った。「ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。」そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。』
 ヨセフが兄たちを捜し回っていると、ある人がヨセフと会いましたが、ヨセフはこの人に兄たちの居場所を尋ねました。すると兄たちがドタンに行ったと分かったので、ヨセフは早速ドタンに行き、そこで兄たちを見つけることができました。兄たちがどうしてドタンに行っていたかは分かりません。群れのために行ったのかもしれませんし、単なる好奇心だったのかもしれません。

【37:18~20】
『彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」』
 兄たちはヨセフが近づいてくるのを見ると、ヨセフを殺してしまおうと企みました。兄たちの妬みという種が、遂に殺害という実を結ぼうとしていたのです。父ヤコブには『悪い獣が食い殺した』と言って誤魔化すつもりでした。彼らは妬みという罪に、殺害と嘘と欺きという3つの罪を加えようとしていました。神の民、しかも族長たちである彼らが、このような極悪に手を染めようとしたのは誠に驚くべきことであり、これは実に酷いことだと言わねばなりません。