【創世記37:21~41:8】(2021/07/18)


【37:21~25】
『しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が来ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。それから彼らはすわって食事をした。』
 ヨセフが殺されようとしている時、長子ルベンがヨセフの殺害を阻止しようとしました。殺すのではなく穴に放り込むことで我慢すべきだと兄弟に指示したのです。ルベンは後ほど穴からヨセフを引き上げて父のもとへ帰すつもりだったのです。弟たちはルベンの指示に従い、父がヨセフに与えた服を剥ぎ取り、ヨセフを穴に投げ込みました。こうしてヨセフは死なずに済みました。こうなったのはヨセフに対する神の憐れみによります。ヨセフの殺害を阻止したルベンは、既に見た通り、かつて父の妻と不貞を働いていました(創世記35:22)。これは誠に由々しきことでした。このような愚行をしたルベンが、今度はヨセフに対して正しいことをしたというのは一体どういうわけなのでしょうか。考えられるのは3つです。1:ルベンはかつて父の妻に行なった悪を償おうとしてヨセフが殺されないように働きかけた。2:ルベンは不貞により父の気を損ねてしまったと感じていたので、もうこれ以上、父を悩ませたくなかった。3:ルベンが前に不貞を働いたのは性的に弱かったからであり、兄弟を愛するという点においては良好な性質を持っていた。これらのうちどれが正解なのかは分かりません。また、この時にヨセフが投げ入れられた穴がどれだけ深かったのか、またどのような形状をしていたのかは全く分かりません。この穴がどういった理由から生じたのかもよく分かりません。

 ここでルベンが言っている通り、私たちは間違っても誰かの血を流し、その命を打ってはなりません。もしそうすれば、神の裁きにより、私たちも血を流され、命を打たれることになりましょう。神がこう言っておられるからです。『あなたがしたように、あなたにもされる。』(オバデヤ15節)神の原理はこうです。『いのちにはいのち。』(申命記19章21節)この原理は、神の代行者である国家が司法により執行しています。ですから、殺人者は逮捕され、裁判にかけられ、死刑に処せられることで自分のした通りに自分にもされるのです。すなわち、人を死なせたように自分も死なされます。もし国家がこの原理を執行しなければ、怠惰で無能な国家に代わって神が直接、その殺人者を死刑に処せられます。カエサルを殺した40人以上の者たちや、キリストを殺したユダヤ人たちは、国家の司法により死刑となることがありませんでしたから、神が国家に代わってこれらの殺人者どもを死なせられました。これは歴史がしっかり記録している通りです。先ほど書いたリンネの「神罰」という本も、このことを知るためには非常に役立ちます。

 兄たちはこのようにヨセフを穴に投げ込んだ後、何と『すわって食事をし』ました。いったい何なのでしょうか。この冷酷過ぎる無関心さは。この時の兄たちは人間らしい温情など塵ほども持ち合わせていませんでした。兄弟が酷い状態になっているのに平気で食事をするというのは、誠に邪悪であると言わねばなりません。

【37:25~28】
『彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹謬と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀20枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。』
 ルベンに引き続き、今度はユダもヨセフを殺してはならないと兄弟たちに言い聞かせようとしました。このユダの言葉には重みがありました。何故なら、メシアはこのユダの子孫から生まれることになっていたからです。ヤコブの兄弟たちは皆、このことについて知っていました。ですからメシアの生まれる家系における先祖ユダが言った通り、兄弟たちはヨセフの殺害を思い直しました。こうしてヨセフはまたも死から免れました。神はヨセフの死を望んでおられなかったのです。兄弟たちはイシュマエル人の商人が近くに来ていたので、その商人にヨセフを売り渡しました。この箇所では『ミデヤン人の商人』についても書かれています。しかし、これはイシュマエル人の商人のことです。つまり、ここに書かれている商人は2人でなく1人だけです。このイシュマエル人はイシュマエル人であると同時にミデヤン人でもあったということです。これは創世記37:36の箇所を見れば分かります。こうしてヨセフは『銀20枚』で売られましたが、これが高額だったのか少額だったのかは分かりません。昔はこのような人身売買がまだ珍しくありませんでした。特に奴隷の売買であれば一般人でも普通に行なっていました。有名なあのイソップも元はと言えば奴隷でした。今であればこのような売買は考えられないことです。

 この箇所では、イシュマエル人に売られる時のヨセフの振る舞いについては、全く書き記されていません。創世記42:21の箇所を見ると、この時にヨセフは『あわれみを請うた』ようです。しかし兄弟たちはヨセフの懇願を全く無視しました。兄弟たちの心は妬みにより鉄よりも固くなっていたのです。神はこのような兄弟たちの冷酷さに後ほど報いられます。これから34年後、兄弟たちはヨセフにした通りに自分たちもされることになりました。

 この酷い出来事はイエス・キリストを予表しています。何故なら、キリストも正しい人でありながら売り渡されたからです。そして、ヨセフと同様、キリストも売られて後、多くの人々に救いを実現されました。銀貨で売られたという点も同じです。キリストとヨセフでは銀貨の数が10枚ほど違いますが(マタイ26:15)、これは些細な違いに過ぎません。このヨセフ以外にも、例えばダビデやヨナがキリストを予表しています。ダビデはキリストの王権と支配またその受ける苦しみなどを予表する人物でした。ヨナという預言者は、鯨の中に3日間閉じ込められたことにより、キリストが3日の間死んだ後に復活されることを予表しています。

【37:29~35】
『さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。』
 兄弟たちがイシュマエル人にヨセフを売った時、たまたまルベンは兄弟たちと一緒にいませんでした。このためルベンが帰って来た時には、もうヨセフが穴の中からいなくなっていました。これではルベンを穴から引き出して父のもとに返すことができません。それゆえルベンは嘆きのあまり『自分の着物を引き裂き』ました。このようにするのが、古代人が嘆きを示す時のやり方だったのです。兄弟たちは、とてもじゃないが父にヨセフを売り渡したなどとは言えなかったので、ヨセフを獣に噛み裂かれたと見せかける偽装工作を行ないました。ヨセフの長服を雄山羊の血で満たしたのです。ユダヤ人たちは昔からこのような工作活動が大の得意です。今でもユダヤ人たちは異邦人を何とかして欺こうとしていますが、これはユダヤ人のDNAが強く作用しているわけです。福音書でもこのような工作活動について書かれています(マタイ28:11~15)。

 ヤコブは血に浸されたヨセフの長服を見て、ヨセフが獣に殺されてしまったと信じてしまいました。このためヤコブは絶望のあまり『着物を引き裂き、荒布を腰にまとい』、その悲しみを実際的に表明しました。このような古代人の振る舞いを虚栄心の現われとして捉える人も中にはいるかもしれませんが、古代人は悲しんだ際にこうするのが慣習だったのです。今の時代でこんなことをすれば偽善的に思われることもあるはずです。こうしてヤコブにはまたまた酷い悲惨が降りかかることになりました。すぐ前にラケルが死んで、ルベンもとんでもない不貞を働いたばかりだというのに、更に不幸がヤコブに追い打ちをかけています。私たちはヤコブの人生における不幸の度合いを、明瞭に実感することは出来ないでしょう。何故なら、私たちの人生はヤコブの人生より不幸ではないはずだからです。人間は自分が体験していない事柄についてはよく実感できないのです。例えば、酒をまだ飲んだことのない子どもが、酒の刺激性について感じようとしても絶対に出来ないでしょう。何故なら、その子どもは酒を実際に体験していないのですから。

【37:36】
『あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。』
 ミデヤン人は、エジプト王の侍従長にヨセフを売り渡しました。ポティファルが幾らでヨセフを買い取ったのかは分かりません。

 このようにヨセフがエジプトに売り渡されたのは、神の御心でした。確かにヨセフの兄弟たちはヨセフに極悪を行ないました。しかし、神はその悪を善のために用いられたのです。神は、この後、ヨセフを通してエジプトおよび諸々の国に恵みを与えようとしておられました。

【38:1】
『そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。』
 ユダは兄弟たちから離れてあるアドラム人の近くに引っ越しをしました。ユダがどうして住む場所を変えたのかは不明です。この38章では、ヨセフの話が一時中断され、ユダのことが書かれることになります。この章ではユダの罪深さが示されています。これは、ユダの卓越性や価値高さのゆえに、ユダがメシアを出す部族として選ばれたのではないことに私たちを気付かせるためでした。ユダが罪深い人だったと分かれば、ユダが素晴らしかったのでメシアの家系にされたのではないということがよく分かるからです。このように聖書は、人間に決して栄誉を帰させようとはしません。このユダをはじめ聖書に出てくる選ばれた人は、ほとんど全てその罪深さや未熟さが示されています。これは栄誉がただただ神にのみ帰されるべきだからです。

【38:2~5】
『そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところにはいった。彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。彼女はまたみごもって、男の子を産み、その子をオナンと名づけた。彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名づけた。彼女がシェラを産んだとき、彼はケジブにいた。』
 ヤコブは兄弟たちから離れて後、カナン人の娘を妻にしました。これは良くないことでした。ヤコブの子らは、カナン人が呪われており(創世記9:25)、これから征服されることになる民族だとよく知っていたはずだからです(創世記15:18~21)。このような悲惨な民とどうして神の民が結び合ってよいでしょうか。これは今の日本で言えば(すなわち2021年7月11日の時点で言えば)、眞子さまが小室さんと結婚するようなものです。何故なら、眞子さまは明らかにユダのような選ばれた特別的な方であり(つまり皇族であるということです)、それに対し小室さんは一般的に言われている通りカナン人のように諸々の問題を持っているからです。今の日本人で眞子さまと小室さんの結婚を認めない人は非常に多くいます。それと同様で、ユダとカナン人の女も結婚するべきではありませんでした。メシアの生まれる家系における祖先ユダがこういった結婚をしたというのは驚かされます。ユダはこのカナン人の妻との間に3人の子を儲けています。最初に生まれたのは『エル』すなわち「神」と名づけられた子ですが、どうしてこのような名が付けられたのか理解できません。ユダは一体何を考えていたのでしょうか。このエルは後ほど神により殺されてしまいます。次に生まれたのは『オナン』という子ですが、この子も後ほど神に裁かれて死ぬこととなります。3番目に生まれたのは『シェラ』という子ですが、この子は長子および次男とは違い殺されることがありませんでした。

【38:6~7】
『ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。』
 エルは、父ユダの手配によりタマルという女性と結婚しました。既に述べた通り、古代では親が息子に配偶者を手配するのが一般的でした。しかし、エルは主の怒りを燃やしていたので、裁かれて死んでしまいました。エルがどういった行為により裁き殺されたのかは分かりません。恐らく、聞くのもおぞましい愚行をしていたのでしょう。私たちはこのエルのように主の怒りを燃やさないようにすべきです。何故なら、主は御自分を怒らせる者に報いられるからです。

【38:8~10】
『それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところにはいり、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところにはいると、地に流していた。彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した。』
 ユダは、長子エルが子を残さないで死んだので、エルの弟オナンにより未亡人となったタマルがエルの子として見做されるべき子を生むようにさせました。これは古代の慣習です。古代では、子を持たずに死んだ男は、人間的に何か問題を持っていたのではないかと思われる向きがありました。つまり、人間としておかしかったからこそ、結婚しなかったのではないか、または結婚したのに子を儲けなかったのではないか、と思われる雰囲気がありました。古代人は、このような汚名を故人が受けないように、その故人の兄弟が故人に代わって未亡人となった妻に故人の子を生ませていたのです。これは故人に対する配慮でした。これは律法でも命じられており(申命記25:5~6)、レビラート婚と呼ばれていました。故人となった兄弟に義務を果たそうとしない者は、恥ずかしい思いをしなければいけませんでした(申命記25:7~10)。今の日本人で若い方々は実感が持てないかもしれませんが、昔も日本では子孫と苗字が非常に重要視されていました。私の曾祖母などは、孫の代で苗字が抹消してしまうのを嫌がり(つまり孫は女性だけだった)、曾孫の苗字を変更してほしいとまで懇願したほどです。今では、このような傾向は衰えてきているのではないかと感じられます。

 オナンは、兄嫁と結婚しても生まれる子が自分の子にならないと知っていたので、兄嫁に決して子を生ませようとはしませんでしたが、これは神の御心に適わないことでしたから、神はオナンを裁いて殺されました。オナンは当然為すべきことをしない愚か者だったのです。オナニーという言葉は、このオナンに由来しています。しかし、オナンはオナニーをしたので殺されたのではありませんでした。そもそもオナンはそのようなことをしていません。彼が裁かれたのは、兄嫁と行為に及びながら妊娠させることを意図的に避けたという義務違反のためです。

【38:11】
『そこでユダは、嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい。」と言った。それはシェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家に行き、そこに住むようになった。』
 ユダは、タマルのゆえに三男シェラまでも死んではいけないと思ったので、タマルを実家に帰して未亡人のままでいさせました。子たちの死はもう耐えられなかったのです。ここでユダはシェラが『成人するまで』と言っていますが、ユダはシェラが成人してからもシェラとタマルを結婚させるつもりはありませんでした。しかし言うまでもなく、ユダはシェラが成人してからタマルとレビラート婚をさせるべきでした。

【38:12~19】
『かなり日がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。その喪が明けたとき、ユダは、羊の群れの毛を切るために、その友人でアドラム人のヒラといっしょに。ティムナへ上って行った。そのとき、タマルに、「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ。」と告げる者があった。それでタマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、着替えをして、ティムナへの道にあるエナイムの入口にすわっていた。それはシェラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知っていたからである。ユダは、彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、道ばたの彼女のところに行き、「さあ、あなたのところにはいろう。」と言った。彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。彼女は、「私のところにおはいりになれば、何を私に下さいますか。」と言った。彼が、「群れの中から子やぎを送ろう。」と言うと、彼女は、「それを送ってくださるまで、何かおしるしを下されば。」と言った。それで彼が、「しるしとして何をあげようか。」と言うと、「あなたの印形とひもと、あなたが手にしている杖。」と答えた。そこで彼はそれを与えて、彼女のところにはいった。こうしてタマルは彼によってみごもった。彼女は立ち去って、そのベールをはずし、またやもめの服を着た。』
 ユダがヒラと共にティムナへ行った時、タマルは企みを働かせ、遊女として化け、ユダを騙して身籠ろうとしました。これはタマルが既に成人したシェラと結婚できないのを不満がっていたからです。ユダは三男シェラがエルとオナンのようになることを非常に恐れていたので、シェラにタマルを与えず、自分がタマルを娶っていたのでした。ユダは自分がタマルを娶るのではなく、シェラに娶らせるべきでした。タマルは、タマルだとは知らずに近づいてきたユダに、後ほど子山羊を与える保証としての印を求め、ユダはその印として『印とひも』と『杖』を渡しました。これは後ほどタマルが身籠った際、不倫をしたのではないことを証明するためでした。これらの印をユダに示せば、ユダはタマルが不倫に走ったのではないことを理解するからです。批判しているわけではないのですが、昔から女性は、このように化けたり、自己弁護をするための方策を練るのが得意です。このため女性にまんまと騙されてしまう男も多いのです。ユダもその一人でした。この時にユダが目の前にいた女性をタマルだと気付かなかったのは、神の働きかけによりました。神はユダがタマルに騙されることを望んでおられたのです。何故なら、ユダはタマルにシェラを与えるべきなのに与えていなかったからです。ところで、この時代の遊女には、まだベールで被って自分を隠す恥じらいの精神がありました。この時には遊女でさえ幾らかの慎みを持っていたのです。しかし、今では顔を隠そうとする遊女などいたものではありません。それどころか、顔写真などで大いに自分をアピールして男を引き付けようとする有様。これは今の時代が昔と比べて性的に堕落していることを示しています。

【38:20~23】
『ユダは、彼女の手からしるしを取り戻そうと、アドラム人の友人に託して、子やぎを送ったが、彼はその女を見つけることができなかった。その友人は、そこの人々に尋ねて、「エナイムの道ばたにいた遊女はどこにいますか。」と言うと、彼らは、「ここには遊女はいたことがない。」と答えた。それで彼はユダのところに帰って来て言った。「あの女は見つかりませんでした。あそこの人たちも、ここには遊女はいたことがない、と言いました。」ユダは言った。「われわれが笑いぐさにならないために、あの女にそのまま取らせておこう。私はこのとおり、この子やぎを送ったのに、あなたがあの女を見つけなかったのだから。」』
 ユダは約束していた子山羊を遊女に与えようとしましたが、ユダの友人がその遊女を見つけようとしてもいないようなので、徒労に終わってしまいました。そこでユダは恥ずかしい噂が広まらないように、その遊女を捜すことは止め、3つの印を遊女に取らせておくことにしました。遊女がいた地元の人が『ここには遊女はいたことがない。』と言っているのですから、どれだけ捜しても無駄だと思われたのです。

【38:24~26】
『約三か月して、ユダに、「あなたの嫁のタマルが売春をし、そのうえ、お聞きください、その売春によってみごもっているのです。」と告げる者があった。そこでユダは言った。「あの女を引き出して、焼き殺せ。」彼女が引き出されたとき、彼女はしゅうとのところに使いをやり、「これらの品々の持ち主によって、私はみごもったのです。」と言わせた。そしてまた彼女は言った。「これらの印形とひもと杖とが、だれのものかをお調べください。」ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ。」こうして彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。』
 タマルが売春により妊娠したという知らせがユダに伝えられました。それは先の出来事があってから『約三か月』後の話ですが、今でもだいたい数か月ぐらいで妊娠が分かるようになります。これはユダが日常的にタマルと全く一緒になっていなかったことを意味します。何故なら、3か月の間にただの一度でも寝たとすれば、この時に分かった妊娠が売春によったとは必ずしも言えないからです。もしかしたら、その身籠った子はヤコブの子である可能性もあるのです。ヤコブは売春したと聞かされたタマルを、焼いて殺すよう命じます。これは社会的な裁判無しに即座に焼殺せよという意味なのでしょうか。それとも焼いて死刑にするため社会的な裁判にタマルをかけよという意味なのでしょうか。これはどちらだったか分かりません。いずれにせよ、ユダがタマルが死ぬよう命じたのは律法に適っていました。何故なら、律法では不倫が死罪に定められているからです。しかし、タマルはヤコブから渡された3つの印を示すことで、死を免れました。その印を見せられたヤコブは、とてもじゃないが彼女を死刑にすることなど出来なくなり、自分の非を認めました。つまり、タマルにシェラを与えるべきだったと反省しました。タマルはシェラを与えようとしないユダに抗議する意味で、あのような欺きを働いたのでした。それはこのような抗議です。「あなたがシェラを与えて下さらないのであれば、あなたによって私は身籠ることにします。」この出来事のうちにはヤコブの罪が現われています。その罪とは、当然為されるべきことを実現させようとしなかったという罪です。これについては使徒ヤコブがこう言っています。『こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。』(ヤコブ4章17節)

【38:27~30】
『彼女の出産の時になると、なんと、ふたごがその胎内にいた。出産のとき、一つの手が出て来たので、助産婦はそれをつかみ、その手に真赤な糸を結びつけて言った。「この子が最初に出て来たのです。」しかし、その子が手を引っ込めたとき、もうひとりの兄弟のほうが出て来た。それで彼女は、「あなたは何であなたのために割り込むのです。」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。そのあとで、真赤な糸をつけたもうひとりの兄弟が出て来た。それでその名はゼラフと呼ばれた。』
 タマルは双子を産みました。弟は、兄を割り込んで出て来たので、「割り込む」という意味の『ペレツ』と名づけられました。兄は、助産婦に付けられた糸が赤く輝いているかのような色だったので、「輝く」という意味の『ゼラフ』と名づけられました。先に身体の全体が出て来たのはペレツでしたが、最初に母から身体の部分を出したのはゼラフでしたから、ゼラフが兄でした。タマルが双子を産んだのは、ユダに対する罰の意味があったわけではありません。そもそも双子は呪いとして産まれる子たちではありません。主イエスはこのペレツの子孫として御生まれになりました(マタイ1:3)。ユダヤ教徒たちは、どうしてここでタマルに双子が産まれたことについて記されているか、決して理解できません。何故なら、彼らは双子のうちの一人であるペレツとメシアを関連付けることが絶対にないからです。しかし、ここではメシアと関わりがあるゆえペレツの生誕について書かれています。ですから、メシアがペレツの子孫として産まれたことを知っているキリスト教徒は、この箇所の内容に非常に大きな意味を見出します。このようにしてユダヤ教徒たちには聖書の真理が隠されることになるわけです。

【39:1】
『ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。』
 この箇所では、ヨセフがイシュマエル人からポティファルに売り渡されたことについて書かれています。これは既に創世記37:36の箇所で言われていたことの繰り返しです。この箇所では、創世記37:36の箇所で『ミデヤン人』と言われていた商人が『イシュマエル人』と言われています。ですから、私が以前述べた通り、確かにヨセフとその兄弟たちの前に現われた商人は一人だけだったことが分かります。カルヴァンは、イシュマエル人の商人とミデヤン人の商人が現われ、2人でヨセフを競売にかけたなどと言っていますが、これは間違いです。つまり、この商人はイシュマエル人でしたがミデヤンの地に住んでいたということです。この箇所からヨセフの話に再び戻ります。これ以降、創世記では話が中断されることなく最後まで続きます。

【39:2~6】
『主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。』
 神がヨセフと共におられ彼を祝福しておられたので、ヨセフは主人の側近として家を管理する者とされました。神は、このヨセフのゆえに、ポティファルの家を繁栄させて下さいました。ヨセフはどうして成果を出すことが出来たのでしょうか。それは神がヨセフを祝福して好意的に取り扱っておられたからです。理由はただそれだけです。ヨセフの素質や努力が成果を出したのではありません。それは聖書にこう書かれているからです。『主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。』(箴言10章22節)もし主の祝福がヨセフに注がれていなければ、ヨセフは決して成果を出すことが出来ていなかったでしょう。

 ポティファルがヨセフを家の管理者にしたのは正解でした。何故なら、それは神の祝福を自分の家に招き入れることだったからです。私たちも組織にいる祝福された人を、トップかトップに相当する地位に引き上げるのがよいでしょう。そうすれば組織が栄えるようになるからです。GEがジャック・ウェルチをCEOに引き上げたのが、正にこれの良い例です。このウェルチのお陰で、ダボダボの肥満状態になっていたGEはスリムかつ強靭な体質へと改善されたのでした。この例や私たちが今見ているヨセフの出来事からも分かる通り、何はともあれトップが祝福されているかどうかが大事です。祝福された人をトップに据えることが出来る組織は幸いです。

【39:7~10】
『これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。』
 主人の妻はヨセフを誘惑していましたが、ヨセフは神を恐れていたので、その誘惑を決して受け付けようとはしませんでした。何故なら、もし主人の妻に陥れば、大変なことになるだろうからです。ヨセフが無神論であったならば、やすやすと彼女の誘惑に嵌まり込んでいたかもしれません。既に述べた通り、神観と道徳には大きな関連があります。中国人は神について全く知らない人たちなので、全世界が知っている通り、倫理観が欠如しており、平気で不法をしても恥ずかしがることさえありません。サドも徹底的な無神論だったので、多くの悪事を行ないました。これとは逆に日本人は有神論ですから、自ら進んで善を行なって飽きることがありません。ですから、一部の国を除いたほとんど全ての国から日本人は好ましく思われるわけです。この時にヨセフが主人の妻と関係を持っていたとすれば、ヨセフは大いに非難されていたでしょう。すなわち、神から非難され、主人から非難され、主人の家の者たちから非難され、カナンにいる家族からもやがて非難され、後世の聖徒たちからも非難され、異邦人からも非難され、ヨセフ自身の良心も自分のしたことを非難していたでしょう。しかし、神はヨセフを誘惑から守られました。これはヨセフが神に喜ばれており祝福されていたからです。もしヨセフが神を憤らせている呪われた者だったとすれば、神はヨセフを呪いとして誘惑に引き渡していたはずです。それはソロモンがこう言っている通りです。『他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。』(箴言22章14節)ケネディやネルソン・ロックフェラーやマイルス・デイヴィスのように女に引き込まれている者は、前々から既に神を憤らせている者です。神に喜ばれる者は女の穴に落ち込みません。

 ヨセフは誘惑に陥らないため、主人の妻の近くで寝ることをせず、そればかりか彼女と一緒にいることさえしませんでした。それは彼女の存在そのものがヨセフにとって危険だったからです。恐らく、彼女はあらゆる方法でヨセフを攻略しようとしたでしょう。ですから、ヨセフは何とかして主人の妻を避けなければいけなかったのです。このことからも分かる通り、誘惑を避けるためには、その問題となっている女を避けるべきです。ヨセフでさえそうしました。であれば私たちはヨセフを手本とすべきでしょう。何故なら、ヨセフのようにしっかりした人は非常に珍しく、そのためヨセフは手本とされるに値する人だからです。

【39:11~20】
『ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。』
 主人の妻はヨセフが全く応じようとしなかったので、ヨセフがその服を残して逃げた出来事を利用し、ヨセフを悪者に仕立て上げました。これは女らしい復讐だったのかもしれません。すなわち、全然構ってもらえないことに対する復讐です。今でも男に知らんぷりで無視されるのを怒る女性は少なくありません。こうして、ユダに引き続き、ヨセフも女の欺きにより大変な目に遭ってしまいました。このように欺くことにおいて、女は男よりも勝っています。女は、心では全くそう思っていないのに、あたかも本当にそう思っているかのように見せかけることが出来ますが、男はそんなことには気づかないのです。例えば、本当はどうでもいいのに「すごいですね!」などと笑顔で褒めたりするので、男は「そうだろ?」などと言って大変に気を良くしてしまうのです。この箇所でも、やはり主人がその妻にまんまと騙されてしまっています。遊女ラハブも王の使いたちを上手に騙すことが出来ました(ヨシュア記2:1~7)。エバがアダムに木の実を食べさせることが出来たのも、男に対する欺きだったと見做してよいでしょう。このような次第で、ヨセフは悪い者として監獄に入れられてしまいました。せっかく主人の家で良い状態になったと思ったら、このような不幸が起きてしまいました。人生という船は順風満帆には進まないものです。

 このようにヨセフが監獄に入れられたのは、神の計画の一環でした。ヨセフからすれば監獄に入れられたのは不幸以外の何でもなかったでしょう。しかし、神は良いことのためにこうされたのでした。人間に納得できない不幸な出来事が起きても、神の側では全て筋が通っています。それは未来を知らない人間が短期的な視点でしか物事を把握できないのに対し、未来を知っておられる神は全てを包括的に把握しておられるからです。短いスケールにおいてしか物事を捉えられない矮小な人間が、どうして無限のスケールで事を為しておられる神の御計画を見極めることが出来ましょうか?それは出来ないことです。これについては伝道者の書で教えられている通りです。ですから、この出来事はヨセフにとって短期的には良いとは言えませんでしたが、長期的には良いことのために起こるべき出来事だったことになります。

【39:21~23】
『しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。』
 主がヨセフを祝福しておられたので、ヨセフはまたもや自分のいる場所を管理する者とされました。主は、苦しいと思える状況のうちにあってもヨセフを慈しんでおられました。もし主がヨセフを思いやっておられなければ、ヨセフは管理者になどなれていなかったはずです。ヨセフもこのことについて知っていたでしょう。ですから、彼は決して絶望したり恐れて弱々しくなったりしませんでした。それは、これから後に記されているヨセフの監獄における態度や言葉を見れば分かります。

【40:1~4】
『これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、その主君、エジプト王に罪を犯した。それでパロは、この献酌官長と調理官長のふたりの廷臣を怒り、彼らを侍従長の家に拘留した。すなわちヨセフが監禁されている同じ監獄に入れた。侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。』
 ある時になるとエジプト王パロに仕えていた2人の廷臣が罪を犯したので、侍従長の家に拘留されてしまいました。この出来事は神から出たことでした。神は、この2人の廷臣を通して、やがてヨセフを監獄から助け出そうとしておられたのです。古代では、今とは違い、王が司法の役割を担っていました。つまり、古代の王は王であると共に最高裁判官でもあったわけです。ですから、この2人の廷臣はやがてエジプト王パロから審判されることになっていました。この2人の廷臣がどのような名前だったかは記されていませんが、これは別にどうでもいいことです。また彼らの犯した罪についても詳細が書かれていませんが、これもそこまで重要であるというわけではありません。恐らく、国家運営に支障となる致命的なことをしたか、王の名誉を傷つけることをしたのでしょう。そして、ヨセフは侍従長によりこの2人の廷臣の世話人とされました。神が侍従長を通してヨセフに働きかけて下さったのです。もし神の慈しみがヨセフになければ、ヨセフは世話人とされていなかったでしょう。ところで、ここで侍従長ポティファルがヨセフを世話人に指定したことから推測すると、恐らく侍従長はヨセフが何も悪いことをしていないのに気付いたのかもしれません。そうでなければヨセフに2人の世話を任せたのは説明しにくいと思われます。自分の妻に乱暴しようとした者にどうして世話の任務を委ねるでしょうか。恐らく、ポティファルは一度監獄にヨセフを入れてしまった以上、助け出すことも出来ず、どうしようもなくなっていたのだと考えられます。

【40:5~8】
『さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか。」と言った。ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」』
 監獄に入れられた2人の廷臣はそれぞれ夢を見ましたが、それは神が与えられた預言の夢でした。すなわち、その夢は彼らの未来を示していました。

 しかしながら、2人の廷臣はその夢がどういった意味か分からなかったので、気を苛立たせていました。そこでヨセフがその夢の解き明かしをすることになります。ヨセフはその解き明かしが神の業によると言っています。しかし実際に夢を解き明かすのはヨセフです。つまり、これはヨセフが神により夢を解き明かすということです。また神がヨセフを御自身の道具として、2人の廷臣の夢がどういった意味なのか開示されると言うこともできます。ヨセフはここで夢の解き明かしについて非常な自信を持っています。ヨセフは夢を解き明かせると100%確信しています。これはヨセフが信仰深い敬虔な人だったからです。ヨセフは、神が必ず彼らの夢を解き明かして下さると信じて疑いませんでした。

 聖書は、夢には意味のあるものもあると教えています。それは、この箇所で『その夢にはおのおの意味があった。』と書かれているからです。一般的に夢は実際的に何の意味もないと見做されがちです。フロイトも、夢は単なる無意識の表出に過ぎないと考えていました。しかし、私たちは夢についてこう考えるべきです。「神が夢で何かを示される場合もないわけではない。」と。

【40:9~15】
『それで献酌官長はヨセフに自分の夢を話して言った。「夢の中で、見ると、私の前に一本のぶどうの木があった。そのぶどうの木には3本のつるがあった。それが芽を出すと、すぐ花が咲き、ぶどうのふさが熟して、ぶどうになった。私の手にはパロの杯があったから、私はそのぶどうを摘んで、それをパロの杯の中にしぼって入れ、その杯をパロの手にささげた。」ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。3本のつるは3日のことです。3日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」』
 まずは献酌官の見た夢から解き明かしがされました。献酌官の見た3本の蔓は3日を示しており、彼の夢はこれから3日以内に元の職務に復帰できるようになることを預言していました。これが実現されるのを間もなく私たちは見ることになります。ヨセフがここで3本の蔓を「3日」だと言ったのは、この解き明かしが神による働きかけだったからです。何故なら、ヨセフは「3週」でも「3年」でもなく、『3日』であると断言しているからです。もしこれが神の働きかけによる解き明かしでなかったとすれば、ヨセフは3日だと断言できていなかったでしょう。

 そしてヨセフは、この献酌官が幸いな状態になったならば、その時には自分を顧みてほしいと願っています。これは見返りとして捉えるべきでしょうか。何とも言えないところです。

【40:16~19】
『調理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私も夢の中で、見ると、私の頭の上に枝編みのかごが三つあった。一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物がはいっていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」ヨセフは答えて言った。「その解き明かしはこうです。3つのかごは三日のことです。三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」』
 調理官長も解き明かしをしてもらいましたが、彼の見た3つの籠もやはり『三日』を示しており、その夢は3日以内に調理官長が死ぬことを預言していました。こちらのほうも間もなく実現されることになります。調理官長の見た夢に出てきた『鳥』はそのままの意味であり、籠とその中に入っている食物は調理官長を表わしています。

 この時にヨセフは調理官長の見た夢を大胆に解き明かしました。これは大胆そのものでした。その語っている相手が死ぬと臆せずに告げたのですから。これがヨセフでなければ、恐らく口を閉ざすか、恐る恐る告げていたかもしれません。このような大胆さは、この解き明かしが神によりなされたからに他なりません。神がヨセフという人間を通して解き明かされるのに、どうして人間がその解き明かしを語らなくてよいでしょうか。最近は、あまり聖書の真理を大胆に語らなくなっている傾向があると思えます。教会は人々の反応を気にして罪とか地獄とかについて率直に語らなくなっています。しかし、このようであってはいけないでしょう。教職者たちはヨセフのようでなければいけないでしょう。何故なら、教会が真理を大胆に語らなければ、人々は真理を知れなくなってしまうだろうからです。大胆に語らないのは人々に真理を隠すことです。ヨセフが相手の感情を気にせず真理を告げたように、主も人の顔色を見られませんでした(マタイ22:16)。パウロもヨセフのように人の歓心を買おうとはしていませんでした(ガラテヤ1:10)。今の教会に必要なのはヨセフのように真理を語る大胆さです。罪だ、地獄だ、永遠に裁かれる、しかしキリストという救いが用意されている。このように語らなければ、どうして人々は聖書の真理を知れるでしょうか。バザーだ、英会話だ、コンサートだ、ピクニックだ、ではキリスト教がいつまで経っても活発にならないままの状態でいたとしても自然なことでしょう。このままでは教職者たちが延々と「いつまで経っても日本のキリスト教人口は1%以下のままだ…」と嘆き続けることになるはずです。神がどうか今の教会を繁栄させて下さいますように。

【40:20~22】
『三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。』
 ヨセフが2人の廷臣に夢を解き明かしてから3日後、パロの誕生日パーティーが開かれ、そこに監獄へ入れられていた献酌官長と調理官長も呼び出されました。そして、その時に献酌官長は職務に復帰され、調理官長は死なされました。こうして神がヨセフを通して解き明かされたことは確かに実現されました。パロは祝いの時だったので、献酌官長を特別に赦免してやったのかもしれません。昔から支配者は何かの大きなキッカケがあると犯罪者たちを許してやるものです。この日本でも昔から恩赦が度々行なわれています。しかし調理官長のほうは許してもらえませんでした。恐らく、調理官長は祝いの時でも許されないほどに致命的な罪を犯したのだと思われます(王の料理に毒でも入れようとしたのかもしれません)。

 献酌官はヨセフの解き明かしが実現したのにヨセフを顧みませんでしたが、献酌官を期待していただろうヨセフにとっては大きな失望だったに違いありません。この献酌官長の忘恩のせいで、ヨセフは2年も引き続き監獄に居続けることになります。もしこの時に献酌官長がヨセフのことをパロに話していたならば、ヨセフはすぐにも監獄から解放されていたでしょう。このヨセフの例も示す通り、人生とは自分の思い通りに進まないことが多い。しかし、それは神の人間に対する配慮なのです。もし人間の人生が思い通りに進んでばかりいたらどうでしょうか。その場合、人間は思い上がって高慢になり、すぐさま堕落してしまうはずです。実際、ネロやカリグラは何でもすぐに思い通りに実現させられましたから、すぐにも堕落して腐りきったのです。ですから、人生がなかなか思うように進まないのは、かえって良いことなのです。高慢は全てを駄目にしてしまいますから。神の言葉ではありませんが、外典の中で「罪の始まりは高慢である。」と言われているのは間違っていません。

【41:1~8】
『それから2年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。ナイルから、つやつやした、肉づきの良い7頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った7頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた7頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。それから、彼はまた眠って、再び夢を見た。見ると、肥えた良い7つの穂が、1本の茎に出て来た。すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた7つの穂が出て来た。そして、しなびた穂が、あの肥えて豊かな7つの穂をのみこんでしまった。そのとき、パロは目がさめた。それは夢だった。朝になって、パロは心が騒ぐので、人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。パロは彼らに夢のことを話したが、それをパロに解き明かすことのできる者はいなかった。』
 ヨセフの神における解き明かしが実現してから2年後、パロは不思議な夢を見ましたが、それは神が与えられた預言としての夢でした。この夢にはエジプトの未来が長期的に示されていました。これとは違い、献酌官長と調理官長の見た夢では、彼ら自身のことが短期的に示されていました。

 パロはこの夢の意味が全く分かりませんでした。『エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たち』にも夢の解き明かしは出来ませんでした。この箇所で言われている『呪法師』とは、マジシャンのような奇術を行なって人々を騙す者だったと思われます。このような者が古代エジプトには多くいました。『知恵のある者たち』とは要するに学者のことでしょう。当時のエジプトは最高の先進国でしたから、そこには知的な人が多く住んでいました。