【創世記1:28~2:14】(2021/01/17)


【1:28】
『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』
 神は、この人間に対して増殖を命じられました。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。』というのがそうです。これは水の生物と鳥および陸上生物に命じられた増殖命令と同じです。今に至るまで人間はこの命令の通りに増殖しています。何故なら、増殖するのは人間にとって本質的なことだからです。それゆえ、これからも人間は増殖していくことでしょう。神がこのように増えよと人間に命じられたのは、御自身の栄光のためでした。もし人間が増えなければ、この地上世界にはやがて人間がいなくなります。そうすれば人間を通して神の栄光が現わされるということもなくなるのです。ところで、人口削減論者たちは、増え続ける今の世界人口を見て大いに不安を感じています。このままでは地球が増え続ける人類を養うことはできなくなる、と彼らは言います。そのため世界の人口は10億人ぐらいまで減らされなければならない、と。彼らは理性に基づいて事を考えています。すなわち、聖書に基づいて事を考えてはいない。私たちの理性は、今の人口増加を見て危険性や不安を感じてしまいます。しかし、聖書は何と言っているのでしょうか。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。』と言っています。ですから、人間は増え続けてよい、いや、増え続けなければならないのです。この地球は、人間が地球に収められる最大限度にまで増加しても、全ての人間を養っていけるように設計されています。もしそうでなければ、神は愚かだったことになりましょう。何故なら、その場合、神は地球がある一定の人数を越えたら人間を養えなくなるということを知っているにもかかわらず、制限抜きに増殖の命令をされたことになるからです。今の世界において人口が増えたために諸々の問題が生じているのは事実です。しかし、だからといって人口増加を止めねばならないとか、人口を削減しなければならない、ということにはなりません。そのように考えるのは、単に問題の解決から逃げているだけです。それは、身体に障害を持つ人が、障害があって働きにくいから何も働かないで生きよう、などと考えるのと一緒です。人口が増えたために色々な問題が起きているのは、人間の罪に対する罰がその原因です。ですから罪を解決するならば罰も止み、人口増加により生じている問題はなくなるようになります。人口削減論者たちは逃げてはなりません。罪が犯されないようにすること。そうすれば祝福があるので人口が増え続けても問題は起こらなくなります。さて、人間は可能であれば最低でも3人の子を生むようにすべきです。何故なら、2人しか生まなければ世界の人口はそのままであり、一人しか生まなければ世界の人口は減るからです。3人以上生んで初めて『ふえよ。』という神の命令が実現されることになります。

 また神は、人間に対してこの地上世界とそこにいる動物たちを支配するように命じられました。このことからも分かる通り、人間とは地上を支配する王者です。実際、これまで人間はこの地上とそこにいる動物たちを支配してきました。これからも人間はこの世界を支配し続けることになります。何故なら、そのようにするのが地上における人間の存在意義また理由なのですから。この支配命令は、水の生物と鳥および陸上生物たちには与えられていません。これは、彼らが地上を支配する王者としての被造物ではないからです。

 この増殖と支配の命令は、祝福されたうえで与えられました。これは、神の好意のうちに人間が増殖し支配していけるということです。つまり、堕落する前の人間は増えて治めるに際して、失敗したり異常なことが起きたりしなかったのです。何故なら、祝福されるとはそういうことだからです。もし上手に行かなかったり、異常なことが起こるのであれば、それは祝福されているとは言えないのです。動物に対しても、やはり祝福されたうえで増殖するように命じられました。これについては既に語られた通りです。

 先に見た1:26の箇所では、陸上生物が3つの言葉で語られていました。しかし、こちらの箇所では陸上生物が一つの言葉だけ、しかも陸上生物のうち最も取るに足らないと思える『地をはうすべての生き物』だけしか語られていません。これはどういうわけなのでしょうか。どうして今度は陸上生物がそのうちの最低の生物である「這う生き物」としてしか語られていないのでしょうか。ここで陸上生物が『地をはうすべての生き物』としか言われていないのは、部分により全体を言い表す提喩法です。つまり、ここでは『地をはうすべての生き物』と言うことにより、陸上生物の全体を示しています。ですから、ここでは陸上生物のうち『地をはうすべての生き物』だけを支配すればよいということが言われているのではありません。聖書において、このような語法が使われている箇所は非常に多い。ですから、このような語法による記述は覚えておいて損にならないことです。

【1:29】
『ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。』
 人間には、食物として植物が神から与えられました。これは人間の生命が維持されるためです。人間は、どの植物からも心の望むままに食べることができました(創世記2:16)。しかし、園の中央にある『善悪の知識の木』からは食べてはなりませんでした。もしそれを食べるならば人間は死の刑罰を受けることになっていました(創世記2:17)。つまり、人間は最初、植物以外には何も食べませんでした。今で言えばこれはベジタリアンです。しかし、最初の人間であるアダムとエバは肉が食べられないからといって、欲求不満になることはありませんでした。何故なら、この時には全ての植物が祝福に満ちていたので、植物しか食べられなかったとしても何も不満は起きなかったからです。また、当時において動物を殺して食べるなどということは、そもそも心に思い浮かぶことさえありませんでした。では、どうしてこの時にはまだ肉食が許されていなかったのでしょうか。それはアダムとエバが「パラダイス」にいたからです。肉食には必然的に「死」と「苦しみ」の要素が伴います。そのような要素があれば、アダムとエバがいた場所は「パラダイス」などと言えなかったでしょう。

 肉食が許されるようになったのは、ノアが大洪水から生き残った後です(創世記9:3)。すなわち、それは紀元前2300年頃でした。それまで人が肉食のため屠殺するのは罪でした。何故なら、その時にはまだ神が肉食を許しておられなかったからです。しかし、ノアの時代以降は、肉食のための屠殺が罪とされなくなりました。何故なら、その時にはもう神が肉食を許可されたからです。ですから、今でも肉食および食肉のための屠殺を悪と見做すのは間違っています。そのように考えるのは、神が肉食を許可されたことに対して文句を言い立てることだからです。私たちは肉を食べたければ、健康と精神を害さない程度に自由に食べたらよいのです。もちろん、個人的に肉食をしないでいたいというのであれば、それはまったく個人の自由なのではありますが。

【1:30】
『また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。』
 地と空の動物たちにも、やはり食物として植物が与えられました。神は動物たちにも心を配っておられたのです。ですから、これまで神は動物たちに食物をずっとお与えになっておられました。これからも神は動物たちに植物を食物としてお与えになり続けるでしょう。それというのも詩篇147:9の箇所で言われている通り、神とは『獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方』だからです。このように最初に動物たちに許されていたのは草食だけでした。ですから、この時にはまだ動物が動物を殺して食べるということは起こりませんでした。しかし、動物たちは肉が食べられないからといって欲求不満になることがありませんでした。それは人間が最初、肉無しでも欲求不満にならなかったのと同じです。このように神は動物たちにも食物を供えて下さる慈しみ深い御方です。私たちは、このことのゆえにも神の恵みを言い表さなければなりません。詩篇136:25の箇所で次のように言われている通りに。『主はすべての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで。』

 ところで、この箇所では陸上の獣と鳥にだけ触れられており、水の生物たちには何も触れられていませんが、これはどういうことなのでしょうか。水の生物たちは何を食べて生きればよかったのでしょうか、神は彼らに何を食物としてお与えになったのでしょうか。まさか、水の生物たちだけは肉食が許されていたとでもいうのでしょうか。そんなことはありませんでした。何故なら、この時にはまだ罪が存在していなかったからです。水の生物といえども、罪を犯すことなしに生物を傷つけて食べることはできません。では、水の生物たちは何を食べたらよかったのでしょうか。答え。それは間違いなく「海草」です。何故なら、それ以外には考えられないからです。第3日目の時、既に海の中には植物が創造されていました。ですから4日目に創造された水の生物たちは、その海草を食べればよかったのです。それでは、どうしてこの箇所では陸上の獣と鳥についてだけを語っており、水の生物については語っていないのでしょうか。これはよく分かりません。実際は水の生物についても語られたのに単に何も書き記されていないだけ、ということなのかもしれません。水の生物たちには特に何も言われなかったということもありえます。それ以外の理由が何かあったのかもしれません。いずれにせよ、これは巨大な問題であるというわけではありませんから、たとえ分からなかったとしても困ることにはなりません。

【1:31】
『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』
 神が造られたものはどれも完全完璧でした。というのも、神とは良い御方であって、良いことを求められるのであり、良い創造をなされたからです。それゆえ、神は御自身による被造物を見て、それをよしとされました。

 先にも述べましたが、神が造られたものはどれも『非常によかった』のですから、この時にはまだ忌まわしいと思える生き物が存在していませんでした。例えば、地獄で用いられる蛆(マルコ9:48)は、原初の時代にはまだ存在していませんでした。何故なら、蛆は明らかに良くないからです。良くないからこそ、それは地獄で刑罰のために使用されるわけです。もし神が忌まわしい蛆を創造しておられたとすれば、神が造られたものはどれも『非常によかった』のではないことになります。これは、同性愛者が神の呪いにより異常な人間の形態として後発的に現われたのと一緒です。同性愛者が本来的に神の創造された人間ではないように、蛆をはじめとした忌まわしい生き物も原初において神が創造されたのではないのです。蛆などのような汚物は、人間における同性愛者もそうですが、遺伝的な呪いにより正規の状態から逸脱また腐敗した形態なのです。いったい、どうして聖なる完全な御方である神が、蛆や同性愛者を御自身の御手により創造されるということがあるでしょうか!

『こうして夕があり、朝があった。第六日。』
 これは世界が始まってから144時間が経過したということです。この『第六日』という言葉を非常に長い期間として捉える人たちの夢想的な考えを、私は聖書に基づいて断罪します。

 この6日間の創造内容を日ごとに示すと次のようになります。
【第一日目】宇宙空間と時間および地球が生じさせられ、光が造られた(1:1~5)
【第二日目】地球を覆っていた大水が上と下の場所に移された(1:6~8)
【第三日目】下に移された大水から地が現われ、その地に植物が造られた(1:9~13)
【第四日目】無数の星が造られた(1:14~19)
【第五日目】水の生物と鳥が造られた(1:20~23)
【第六日目】陸上の生物と人間が造られた(1:24~31)

【2:1】
『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。』
 ここで『天』と言われているのは、既に説明されたように「大気圏」のことです。何故なら、私たちが今見ている箇所では、この物理世界のことが語られているからです。つまり、ここでは霊的な世界について何かが言及されているというのではありません。それゆえ、これを「霊の世界」としての『天』として捉えるのは間違っています。

 神は、創造の完成までに6日間を費やされました。ここで次のような疑問を持たれる方もいるでしょう。「どうして神は一瞬のうちに創造を完成されず6日間もかけられたのか。」確かに神は一挙に創造を完成させることもおできになりました。何故なら、聖書には『神にとって不可能なことは一つもありません。』(ルカ1章37節)と書かれているからです。それなのに神が創造に6日もかけられたのは何故だったのでしょうか。これは神が人間に手本を示されるためでした。すなわち、神が一週間のうち6日を働きにあてられたように、人間も神に倣って一週間のうち6日労働をしなければならない、ということです。これについては安息日について定められた律法で、次のように言われている通りです。『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。6日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―それは主が6日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、7日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』(出エジプト記20章8~11節)もし神が一挙に創造を完成しておられたとすれば、どうなっていたでしょうか。その場合、神が人間に手本を示されることにはならなかったはずです。何故なら、私たち人間は往々にして何かを一挙に完成させるということを成し得ないからです。

【2:2~3】
『それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。』
 神は第七日目に創造の業をお止めになりました。すなわち、それまでに行なってきた創造を休まれました。何故なら、6日目で全ての創造が完成したからです。それゆえ、神は第七日目を他の六日と区別して聖とされました。それは、つまり第七日目を特別な日として捉えて神聖視せねばならないということです。旧約の民が7日目に休むように命じられたのは、実にこのためでした。神の似姿として創造された人間は神に似なければなりません。だから、神は人間の真理が与えられているユダヤ人に対し、御自身が7日目に休まれたように7日目に休まなければならないと言われたのです。

 しかしながら、今となっては、7日目が聖であるということはなくなっています。7日目が聖であるというのは、旧約の民が聖俗の区別を学ぶためのものだったからです。旧約のユダヤ人は、7日目を聖なる日として休むことで、聖であるとはどういうことか感覚的に学んでいました。キリストが現われて新約時代となった今や、もはや7日目の安息日は撤廃されています。何故なら、安息日の本体はイエス・キリストだったからです。本体であるキリストが現われた以上、影に過ぎなかった安息日はもう宗教的な意味を何ら持たなくなりました。ですからパウロは安息日についてコロサイ人にこう言っています。『こういうわけですから、…安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。それらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。』(コロサイ2章16~17節)今でもまだ安息日を宗教的に守るのは、キリストという安息日の本体を蔑ろにすることです。そのようにする人は、安息日の本質がイエス・キリストにあることを弁えていません。これは初歩的なことですが、私たちは間違わないように注意すべきです。

 このように神は「7」日目を聖であるとされました。聖書では、他の箇所でもこの数字が聖だけでなく完全であるとか無限などといったことを示すために使われています。例えば、詩篇には次のように書かれています。『あなたの義のさばきのために、私は日に7度、あなたをほめたたえます。』(119:164)ここで『7』と書かれているのは、文字通りの意味で7度だけというのではなく、『7』と言って「何度でも」「幾度となく」ということを示しています。また、黙示録は「7」つの教会に対して書き送られました。『ヨハネから、アジヤにある7つの教会へ。』(黙示録1章4節)と書かれている通りです。これは単に7つの教会に対してだけ手紙が送られたというのではなく、その手紙に書かれていることは他の諸教会にも語られているということ、またそれらの諸教会が神聖な存在であるということを示しています。エノクもアダムから「7」代目の人間でした。『アダムから7代目のエノクも、…』(ユダ14節)と書かれている通りです。これも、「7」代目なのですから、その数字によりエノクという卓越した父祖における特別性が示されています。今挙げたこれらの例はほんの一部に過ぎません。この7という数字における象徴性は絶対に覚えておかねばならないことです。そうしなければ、聖書の理解力が向上しないままとなるからです。

【2:4】
『これは天と地が創造されたときの経緯である。』
 ここから話の流れが変わります。これまでの箇所を第1話とするのであれば、ここからは第2話といったところでしょう。ところで、聖書に割り振られている章と節は人間が便宜のため勝手に付けたものですから、それを神聖視する必要はありません。聖書の原文には章と節は何も割り振られていないからです。ですから、今私たちが見ている通りの章と節の区分にはなっていなかった可能性もあったわけです。もし私に章の区分が任されていたとすれば、この2:4の箇所からを2章目として区切っていたでしょう。さて、ここからは6日の創造における備考的な詳細が書き記されます。これまでの箇所では、6日間の創造における流れを示すことに重きが置かれていました。当然ながら、そこで書いたならば流れを妨げるような内容が幾らかありました。そのような内容をこれまでの箇所で書くのは適切ではなかった。それゆえ、この2:4の箇所から言わば新しい段落が始まり、改めてまだ語られていなかった創造の詳細について語り始めるというわけなのです。しかし、―これは冒頭であらかじめ述べておくべき内容だったかもしれませんが―、ここでこのように書いている人間は一体誰だったのでしょうか。伝統的な見解では、この創世記(および出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を書いた人間はモーセであるとされてきました。しかし、モーセを創世記の著者であるとするのには根拠が欠けています。聖書を調べても、モーセが著者であったことを証明する箇所はありません。ただ「モーセが書いたのでは…」と感じられるのは確かです。しかし、それは単なる「感じ」であって確固たる根拠がないのですから、ひとまず私たちは「創世記は恐らくモーセが書いたかもしれない。」と考えるだけに留めておくのが思慮です。

【2:4~6】
『神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ1本の野の灌木もなく、まだ1本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。』
 ここでは創造の第3日目になるまでは、まだ地に何も植物が生じていなかった、ということが言われています。その時には『地には、まだ1本の野の灌木もなく、まだ1本の野の草も目を出してい』ませんでした。そこはまだつるつるの場所だったわけです。私たちは、まだ植物の生じていなかった地球の大地を思い描けるでしょうか。私は難しいと思います。何故なら、私たちは植物の生じている大地しか知らないからです。つまり、私たちは植物の生えていない地球の姿を知らないので、今のようではない大地の状態を十全に想像するのが非常に難しいのです。これは黒い毛の猫しかいない島の人が、白い毛の猫をなかなか思い描けないのと一緒です。

 この時にはまだ雨が降っておらず、『霧が地から立ち上り、土地の全面を潤してい』ました。この霧は雨がないために必要となるものでした。この霧のため、雨が降らなくても土地はひび割れずに済んだわけです。もし霧が地に満ちていなければ、雨が降らなかったのですから、地はすぐにもひからびて砂漠のようになっていたかもしれません。この霧は『土地の全面を潤していた』と書かれている通り、文字通り地球の全土を覆っていたと考えねばなりません。それというのも当時は地の全ての場所がパラダイスだったからです。もし霧に潤されていない部分があれば、その部分がひからびてしまうことになります。そうなれば、もはや地の全面がパラダイスだとは言えなくなってしまいます。部分的にであれ乾燥した悲惨な場所があるのに、そこをパラダイスと言えるでしょうか。私は言えないと思います。

 アメリカの水力学の博士であるヘンリー・モリスは、この箇所に基づき、この世界には大洪水が起こるまで雨が降らなかったと考えています。大洪水が起こるまで霧が地を潤していたので、別に雨が降らなくても問題はなかったということです。この博士は、水力学の見地に基づき、そのような状態は可能であると論じています。しかし、この箇所から大洪水が起こるまでは雨が降らなかったと結論するのは難しいと言わねばなりません。というのも、ここでは単に第3日目に植物が創造されるまでの状態について言っているに過ぎないからです。もしこの箇所から雨が大洪水の時まで降らなかったと考えねばならないとすれば、大洪水が起こるまではこの地球に『土地を耕す人もいなかった』と考えねばならないことになります。そのうえ、大洪水までは『まだ1本の野の灌木もなく、まだ1本の野の草も目を出していなかった』とさえ考えなければいけないことになります。何故なら、ここでは雨が地上に降らなかったということだけでなく、土地を耕す人がいなかったということ、また植物が全く生じていなかったということも記されているからです。この博士の専門は水力学であって聖書および神学ではありません。彼の水力学の知見は蔑ろにできませんが、この件については聖書の読み込みが足りなかったとせねばなりません。

【2:7】
『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。』
 ここからは6日目の創造における詳細が記されています。それは時間的に言えば1:24~31の箇所と対応しています。確かにこれから記される内容を1章で記していたとすれば、創造の流れを示すという目的が妨げられていたでしょう。ですから、場所を改めて以前語られなかったことをここで語るというわけなのです。その内容は3章に入るまで続きます。3章からの内容は、もっと時間が進んでいます。

 ここで言われているように私たち人間は『土地のちり』により造られました。私たちは元はと言えば土だったのです。アブラハムが神の前で『私はちりや灰にすぎません』(創世記18章27節)と言ったのは、実にこのためです。アブラハムは、人間が土から造られたということを父祖たちからの聖なる伝承により(その伝承が口伝であったか文書によるものであったかは定かでありません)、よく知っていたのです。

 このこと、すなわち人間が土から造られたということは、進化論の学説と全く異なります。進化論の場合、次のように教えます。「人間は下等生物から徐々に進化して今の状態へと至った。」これは例外なく進化論の学者が持つ見解です。つまり、進化論では人間が土から出来上がったなどとは想像することさえしないのです。ですが、この進化論の学説は誤っています。何故なら、もし進化があったとすれば、どうして今の時代には進化の現象が見られないのでしょうか。これは、昆虫について深い知識と理解を持っていたあのファーブルもした批判です(ファーブルは純粋な創造論者でした)。もし進化があったのであれば、今でも人間に進化しかけている中間的な生物が多かれ少なかれ見られるはずですが、世の中を見てもそのような生物はどこにもいません。ですから進化の現象はなかったとせねばならないことになるのです。もし進化の学説が真理だと主張するのであれば、今現在進化をしている生物、しかも進化に失敗している異常な形態の生物を多く示さねばなりません。何故なら、進化があるのであれば、必ずそのような生物が一杯いるはずだからです。しかし、そのような生物を示せる人は一人もいないのです。今やアメリカ人の半分もの人が進化論を信じていない時代となっています。進化論に反対する数百人規模の科学者グループもアメリカには存在しています。この進化論が欠陥した学説であることは明らかです。それにもかかわらず、どうしてここまで進化論が世界中に広まったままの状態がずっと続いていたのでしょうか。答えは簡単です。ほとんど全ての人が深く思索する余暇と能力を持っていなかったため、ただ学者や団体や教師などの権威が提示する進化論を無批判に受け入れるだけとなってしまっていたのです。「生徒よ、これが進化論なのだ。」「ほうほう、そうですか。生物は進化して今の状態になったのですか。先生。」「その通りである。」「では私たちはこれからもそのように考えればよいのですね。」「そうだ、忘れないようにしたまえ。」「ダーウィン様が生物における真実を見いだして下さいました。」「うむ、我々はダーウィン先生に感謝せねばならないな。」これはあくまでも例えですが、このように表面的にしか考えない思索的に怠惰な状態が今の世界には満ち広がっているのです。

 『いのちの息』とはすなわち魂のことです。私たちが今正に感じているこの自我。これこそが『いのちの息』です。人間は最初、死体または人形のようでした。しかし、神が『その鼻にいのちの息を吹き込まれ』ました。すると、人間は生きて動くようになったのです。ですから、こう言われています。『そこで、人は生きものとなった。』神が私たちの身体に魂を吹き入れて下さったので、私たちは生き物となりました。もし神がそうされなければ、私たちは今でもずっと地に横たわったままだったことでしょう。それゆえ、魂である『いのちの息』を人間に与えて下った神は賛美されねばなりません。神は人間に魂を与えるというよいことをして下さったからです。なお、この魂は被造物であるということに注意せねばなりません。すなわち、魂とは神つまり神の部分なのではありません。ある人たちは、人間の魂が神から派生した神の部分であるゆえ人間は神の一部なのだと考え、酷い誤りに陥ってしまいました。

 死とは、この『いのちの息』である魂が身体から分離することです。ある人たちは、死ぬ際に人間の魂が身体から脱離するというので死んでから体重が変化したかどうかを調べましたが(つまり魂の重さを知ろうとしたわけです)、これは愚かでした。それというのも、魂とは物質ではなく、重さという要素とは無関係だからです。しかしながら、本当に純粋な信仰を持った人には、神が誰かが死ぬ際に魂の脱離する場面を実際に見せて下さることがあります。実際、アウグスティヌスがそのような場面を見たと言っていますし、私の母も私の祖父と一緒に私の祖母が死んだ時に口から白いものが上昇して行くのを見たと言っていました。その時に私の母と祖父は「あれは何だったのだろう。」と言ったそうですが、その後に魂であったことに気付いたようです。不信仰であったり純粋でない信仰を持っている人には、このような場面は絶対に見せられません。主も、エルサレムや御自分の郷里など不信仰な人が満ちている場所では、ほとんど奇跡をお見せにならなかったのを私たちは知っています。これは、凄腕の高尚な料理人が、味の違いを解さない未熟な舌を持った子どもたちには自分の力作料理を堪能させようとしないのと同じです。そのような子どもたちに高級料理を食べさせても、豊かな感動や心からの称賛などといったその料理に相応しい反応の対価が全く得られないからです。旧約時代では、死によりこの魂が身体から分離されると、その魂は魂のままに留め置かれました。聖徒たちの魂は安息のうちに、聖徒でない人たちの魂はハデスの場所に。何故なら、その時にはまだ身体の復活が起きていなかったからです。しかし聖書が明白に教えている通り、パウロと共にいた聖徒たちが『生き残っている』間に、復活の出来事が起こりました(Ⅰテサロニケ4:16~17)。それ以降、人の魂は身体から脱離して後、すぐにも新しい永遠の身体に一体化させられるようになっています。すなわち、聖徒たちの魂は御霊の身体に、聖徒でない人の魂は刑罰を受けるための悲惨な身体に。

 ここで言われている通り、人間は土から造られました。既に述べたように、陸上生物もやはり土から造られたはずです。それと同様に鳥も土から造られたに違いありません。何故なら、それ以外には考えようがないからです。人間は土から造られたが陸上生物と鳥は土から造られなかった、とでもいうのでしょうか。それでは陸上生物と鳥は何から造られたのでしょうか。恐らく誰も説明できないはずです。それでは、水の生物たちはどのようにして造られたのでしょうか。水の生物も、やはり水に覆われていた地球の大地から創造されたのでしょう。そうでなければ、水中にある微小な粒子から創造されたに違いありません。それというのもこの2つ以外には考えられないからです。水の生物たちは一旦地上で人や陸上生物と同じように造られ、その後に彼らの住みかである水の中に移されたとでもいうのでしょうか。これは少し想像を働かせすぎです。このようであった可能性は非常に低いと思われます。

 ところで、神はどうして人間を土から造られたのでしょうか。神が土で人間を造った目的は何だったのでしょうか。それは人間から高ぶりを遠ざけるためでした。人間は神の臣下として創造されたゆえ、高ぶるべきではありませんでした。ですから、私たちは土により造られたのです。人間が土から造られたからこそ、人間からは高ぶりが遠ざけられるようになります。何故なら、土とは取るに足らないものだからです。もし人間がダイヤモンドやエメラルドなどで造られていたとすれば、どうだったでしょうか。その場合、私たちは自分が非常に卓越した素晴らしい存在だと思って高慢になっていたに違いありません。何故なら、ダイヤモンドやエメラルドといったものは価値あるものだからです。実に、サタンは高価な宝石で飾られていたからこそ、高ぶって堕落したのです。これはエゼキエル書28:11~19の箇所を見れば分かる通りです。聖書にはこう書かれています。『神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる』(Ⅰペテロ5章5節)。つまり、神とは高ぶりを忌み嫌われる御方です。ですから神は、人間が高ぶらないようにと土により人間を創造されたのでした。このように人間が土で造られたのは、私たち人間自身にとって非常によいことでした。何故なら、私たちが土で造られているからこそ、私たちはより高ぶりにくくなり、より破滅しにくくなるからです。私たちは高ぶりの危険性を次の御言葉から豊かに知るべきです。『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』(箴言16章18節)しかしながら、この世における多くの人は人間が土から創造されたという聖書の教えを否定するでしょう。それは、人々のうちに神の全能に対する疑念と高慢な精神があるからです。しかし人間が何と思おうとも、聖書は確かに人が土から創造されたと教えています。ですから、人は土から創造されたというのが真実なのです。

【2:8】
『神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。』
 神は、エデンという場所に園を造られました。それは『東の方』にありました。これは創世記を書いたユダヤ人のいたパレスチナの場所から見て『東の方』という意味です。つまり、そこはバビロンまたペルシャにある場所でした。今で言えばイラクとイランの場所です。このエデンの正確な位置は、ノアの箱舟の漂着したアララト山がよく知られているのとは違い、今に至るまで全く分かっていません。恐らく、これからも分からないままの状態が続くのではないかと感じられます。もちろん、これから神の恵みによりその場所が判明することになる、という可能性もないわけではありません。このエデンの園は、聖書において非常に素晴らしい場所として語られています。そこは神の恵みが満ち満ちている場所だったからです。

 神は、このエデンの園に人間を置かれました。『置かれた』とは、そこに住んで生きるようにされた、という意味です。それでは、どこから人間はエデンの園に置かれたのでしょうか。つまり、人間はエデンの園に置かれる前にはどこにいたのでしょうか。これについては分かりません。それというのも聖書には何も書かれていないからです。では、人間はどうしてエデンの園に置かれたのでしょうか。それは人がその園を耕し、そこを管理するためでした。また、そこから子孫が地上の全地に満ち広がっていくようになるためでした。何故なら、神は人間に対して『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。』とお命じになったからです。

【2:9】
『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』
 神は、人間に食物として無数の喜ばしい木をお与えになられました。ここで次のように思われる方がいるかもしれません。「今のフルーツは品種改良を施されて今の状態になった。つまり、昔のフルーツはあまり良いとは言えないものが多くあった。であれば、原初の時にあったフルーツは全く品種改良がされていないのであまり喜ばしい状態ではなかったに違いない。」このように考えるのは誤っています。何故なら、原初のフルーツは『見るからに好ましく食べるのに良い』状態だったからです。この時にはまだ被造物が堕落していなかったので、全てのフルーツは品種改良をする必要が何もないほどに素晴らしい状態にありました。『見よ。それは非常によかった。』と創世記1:31の箇所で書かれている通りです。ですから、現在のフルーツにおける経緯に基づいて原初のフルーツについて推論することはできません。つまり、品種改良されなければ良くならない状態にフルーツがなったのは、フルーツも人間の堕落に巻き込まれて呪いの効力を受け取ったからなのです。神は、このように多くの喜ばしい木でもって最初の人間を祝福なさいました。神とは本当に慈しみ深い御方なのです。この神に栄光が永遠に至るまでもありますように。アーメン。なお、各自はフルーツを食べる際、それをよく観察してみるとよいでしょう。そうすればそのフルーツの創造者であられる神のことが、その観察の度合いに応じて、いくらかでも分かるようになるはずです。これは野菜についても言えることです。

 エデンの園の中央には、特別な2つの木が生えていました。これは明らかに園の中央にだけ限定的にあったものです。一つ目の『いのちの木』とは、それを食べるならばずっと生命を保てるようになる実が生る木です。この木について神は創世記3:22の箇所でこう言っておられます。『今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』黙示録22:2の箇所でもこの木が出てきますが、そこではこの木に『12種の実がなり、毎月、実ができた。』と書かれています。この黙示録のほうは永遠の天国について言われていますから、エデンの園にあった命の木も12種の実を生らせていたかどうかは分かりません。また黙示録のほうでは、この木の葉に治癒の効能があると言われています。エデンの園にあった命の木にある葉にも、そのような効能があった可能性があります。この木とその実および葉とがどのような姿だったのかは分かりません。これは想像することさえできません。何故なら、それらについて聖書は何も書いていないからです。この『いのちの木』は、昔からイエス・キリストを象徴していると少なからぬ人たちから言われてきました。私としては、イエス・キリストにこそ永遠の命があると言うだけに留めておきたいと思います。もう一つの木は『善悪の知識の木』です。これは人間が神に服従するかテストするための木です。神は、人間にこの木からだけは取って食べてはならないと命じられました(創世記2:17)。人間がこの木から食べるならば、それは人間が善悪の価値基準を自己の理性に置くことになります。しかし神に従ってこの木から食べなければ、人間は神の御心に善悪の価値基準を置くことになります。神は、このようにしてこの木を通して人間が御自身に従うかどうかを試されたのです。ある人は、この木が生らせる実に善悪を弁えさせる成分が含まれていたなどと考えましたが、これは誤っています。また昔から今に至るまで、この木はリンゴとして捉えられる傾向があります。これをリンゴだとするのは完全に間違っています。神が食べてはいけないと言われたのは『善悪の知識の木』からであって、リンゴの木からは食べてよかったのです。また、男に喉仏があるのはこの木から取って食べた際、その実が喉につっかえてしまったからである、という考えがあります。想像の好きな方には申し訳ないのですが、私はこのように考える方々に問いたいと思います、聖書のどこにそのようなことが書かれているのですかと。これら2つの木がエデンの園の中央に生えていたのは間違いありませんが、それぞれ何本ずつ生えていたのかは聖書に何も書かれていないので不明です。それぞれ1本ずつしか生えていなかったのかもしれませんし、複数の木が生えていたのかもしれません。

【2:10~14】
『一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、4つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシェルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。』
 エデンの園には、そこを潤すために『一つの川』が流れていました。この川の水の発生源は、地下から湧き上がってきたか、そうでなければ上にある大水から流れてきたものです。それというのも、この2つのどちらかしか川の発生源を考えることができないからです。この川は、4つの川の源を生じさせていました。そのうち2つはティグリス川とユーフラテス川です。このような大きな川を2つも生じさせていたのですから、この『一つの川』がどれだけ巨大であったかよく分かります。この4つの川を生じさせていた大きな川のあるエデンがどこにあったのかは、先にも述べた通り、分かりません。というのも、今の地図を見るとティグリス川とユーフラテス川においては交わっている場所がありますが、他の2つの川についてはティグリス川およびユーフラテス川と交わっている場所が確認できないからです。これは恐らく、地球の状態は洪水前と洪水後では幾らか変化したからだと思われます。洪水が理由ではなかったとしても、時間の経過と共に変化が生じたのでしょう。

 エデンから出ていた4つの川について個別的に見て行きたいと思います。まず『ピション』が第一の川です。これはどの川を指しているか不明です。それは『ハビラの全土を巡って流れ』ていましたが、このハビラとはエジプトとアッシリヤに近い場所です。また、そこには金およびブドラフとしまめのうがありました。『ブドラフ』というのはしまめのうと同じく宝石の一種でしょう。『ギホン』が第二の川です。これは『クシュの全土を巡って流れる』川でしたが、この『クシュ』とはエチオピアを指します。ですから、この『ギホン』とはナイル川であると思われます。ナイル川と言えば、あまりにも大きな川です。そのような川をエデンの園にあった川が生じさせていたのであれば、その川は一体どれだけの大きさを持っていたことでしょうか。その川には常に莫大な量の水が供給されていたに違いありません。『ヒデケル』が第三の川です。これはティグリス川のことです。それは『アシェルの東を流れ』ていました。このアシェルとはセムの子であるアシュル(創世記10:22)が入植した地域であり、それはアッシリヤのことです。『ユーフラテス』が第四の川です。これについては説明する必要がありません。