【創世記41:9~43:18】(2021/07/25)


【41:9~13】
『そのとき、献酌官長がパロに告げて言った。「私はきょう、私のあやまちを申し上げなければなりません。かつて、パロがしもべらを怒って、私と調理官長とを侍従長の家に拘留なさいました。そのとき、私と彼は同じ夜に夢を見ましたが、その夢はおのおの意味のある夢でした。そこには、私たちといっしょに、侍従長のしもべでヘブル人の若者がいました。それで彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かし、それぞれの夢にしたがって、解き明かしてくれました。そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、パロは私をもとの地位に戻され、彼を木につるされました。」』
 パロの夢が問題になっていたところ、献酌官長はかつて自分がヨセフから夢を解き明かしてもらったことについて思い返しました。そして、あのヨセフであればパロの夢を解き明かせるのではないかと考えました。それゆえ、献酌官長はパロにヨセフのことを知らせました。ここで献酌官長はパロに対して過ちを申し上げると言っています。これは、本来であれば2年前にヨセフのことを告げるべきだったのに告げていなかったからです。こうして2年後にヨセフの願いが叶えられることになりました(創世記40:14)。この献酌官長の忘却によりヨセフは2年間も監獄にいなければいけなくなったのですから、たまったものではなかったはずです。しかし、2年待たせるのが神の御心でした。それはヨセフがすぐにも解放されることで、思い上がらないようにするため、またヨセフの忍耐心を試すためでした。これからヨセフは支配者になるのですが、もしすぐにもヨセフが監獄から出ていたとすれば、ヨセフは思い上がった忍耐力のない支配者となっていたかもしれないのです。ヨセフもこの2年間を不満に思ったかもしれませんが、私たちが不満に思えても神は常に最善を為しておられます。すなわち、私たちにとって不満に思えることが神には最善なのです。何故なら、人と神の思いはそれぞれ違っているからです(イザヤ55:8~9)。ところが人間はこのことにいつも気付きません。ここに人間の未熟さと矮小さと愚かさがあります。

【41:14~16】
『そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」』
 こうしてヨセフはパロの夢を解き明かすために連れ出されることとなりました。ヨセフは監獄にいる間、髭を剃っていなかったようです。これはヨセフが囚人として惨めな生活をしていたことを示しています。ヨセフがパロの前に連れて来られると、ヨセフはパロの見た夢について『神がパロの繁栄を知らせてくださる』と言っています。ヨセフは、パロの夢を知る前から既に、神がパロに見せられたのはパロの繁栄を知らせる夢だったと確信していました。ヨセフはパロの夢が良いことのための夢であると全く疑っていません。これはヨセフが神により霊的な事柄を事前に察知できる人だったからです。

【41:17~24】
『それでパロはヨセフに話した。「夢の中で、私はナイルの岸に立っていた。見ると、ナイルから、肉づきが良くて、つやつやした7頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。すると、そのあとから、弱々しい、非常に醜い、やせ細ったほかの7頭の雌牛が上がって来た。私はこのように醜いのをエジプト全土でまだ見たことがない。そして、このやせた醜い雌牛が、先の肥えた7頭の雌牛を食い尽くした。ところが、彼らを腹に入れても、腹にはいったのがわからないほどその姿は初めと同じように醜かった。そのとき、私は目がさめた。ついで、夢の中で私は見た。見ると、1本の茎によく実った7つの穂が出て来た。すると、そのあとから東風に焼けた、しなびた貧弱な7つの穂が出て来た。そのしなびた穂が、あの7つの良い穂をのみこんでしまった。そこで私は呪法師に話したが、だれも私に説明できる者はいなかった。」』
 エジプト王パロが自分の見た不思議な夢をヨセフに話しています。献酌官長の言ったところによれば、どうやらヨセフならば夢を解き明かせそうだと感じられたからです。ここでパロの話している夢の内容は、既に書かれたことの繰り返しです。もっとも、その話し方や言葉の内容は前と幾らか違っているのですが。

【41:25~32】
『ヨセフはパロに言った。「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。7頭のりっぱな雌牛は7年のことで、7つのりっぱな穂も7年のことです。それは一つの夢なのです。そのあとから上がって来た7頭のやせた醜い雌牛は7年のことで、東風に焼けたしなびた7つの穂もそうです。それはききんの7年です。これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。今すぐ、エジプト全土に7年間の大豊作が訪れます。それから、そのあと、7年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常に厳しいからです。夢が2度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。」』
 ヨセフの神における解き明かしによれば、パロの見た夢に出て来た『7頭のりっぱな雌牛』および『7つのりっぱな穂』は7年間の豊作を、『7頭のやせた醜い雌牛』および『しなびた7つの穂』は7年間の飢饉を示していました。ヨセフは夢における7という数を、7時間でも7日でも7週間でも7か月でもなく『7年』と断言しています。これはヨセフが神により解き明かしていたからです。これが人間による解き明かしに過ぎなければ、どうしてこれが『7年』だと確言できたでしょうか。またヨセフはこの夢で示された出来事が『今すぐ』起こるとも言っています。このように言ったのもヨセフが神により解き明かしていたからに他なりません。これから本当にすぐ夢の預言が実現され始めることになりました。

 この夢で示された数が『7』だったのは、その期間が十分に長いことを教えています。何故なら聖書において7という数字は長大であることを示すからです。また夢が『2度』繰り返されたのは、神がこの夢を強調しておられることを教えています。何故なら、聖書において2度の繰り返しは強調を示しているからです。

【41:33~36】
『それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の7年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。その食糧は、エジプトの国に起こる7年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」』
 続いてヨセフは、解決策として7年間の飢饉のために7年間の豊作の時期を準備期間にすべきだと言いました。7年の飢饉が起こるのだから7年準備すべきだというのは合理的です。すなわち、1年目に蓄えた穀物を8年目に食べ、2年目に蓄えた穀物を9年目に食べ、3年目以降も同じようにするというわけです。ヨセフがこのように幸いな提言をしたのは知恵と思慮が神から与えられていたからです。ところで蓄えた穀物は7年後になるまで腐らず、安全が保たれ、食べることが出来たのでしょうか。7年というのは非常に長い期間です。これは可能だったとすべきです。実際、聖書の後の箇所を見ると分かりますが、エジプトは飢饉の7年間を乗り越えているからです。ネットで調べたところ、楽天のサイトで10年保存可能な保存食が幾つも売られていました。7年、5年の保存食も多く売られています。エジプトはミイラ作りの国でしたから、死体だけでなく穀物の保存もお手の物だったとすべきでしょう。不思議なことについては一流なのがエジプトです。

 それにしても、ここでのヨセフは何と大胆だったことでしょうか。誰でも容易く死刑に出来るパロの前で、こんなにも堂々とした話しぶりを見せています。これはヨセフが神の人だったからでしょう。神の人は、神のことが関わる際には、臆せず大胆になるものです。使徒たちも『無学な、普通の人』(使徒の働き4:13)でしたが霊的なことについては実に大胆でした。

【41:37~45】
『このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ。」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中で、だれも手足を上げることもできない。」パロはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻にした。こうしてヨセフはエジプトの地に知れ渡った。』
 ヨセフの提言は、パロとその家臣たちに素晴らしいと思えました。またヨセフこそエジプトを救う者に相応しいと思えました。ですからパロはヨセフをエジプトの支配者としました。この時、パロはヨセフを支配者として相応しい状態にさせました。というのも支配者がみすぼらしくては面目が立たないからです。パロが自分の指輪をヨセフの手にはめたのは、王権の授与を表わしています。古代の王が付けていた指輪には文字またマークが掘られており、それは印章としての機能を果たしていたのですが、その指輪で印が押されると絶対に取り消しはできませんでした。『亜麻布の衣服』と『金の首飾り』は王権の象徴です。パロは王位以外の全てをヨセフに譲りました。これはパロがヨセフを『神の霊の宿っている』人だと信じたからです。パロがこのようにしたのは正しいことでした。また、ヨセフがこのように権威を持てたのは、神がヨセフに権威を与えて下さったからです。それは聖書でこう言われている通りです。『神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。』(ローマ13章1節)すなわち、神がパロを通してヨセフに権威を立てられたのです。

 古代の文書を見ると、古代エジプト人は外国人を軽蔑して劣った存在と見なしていたことが分かります。ある文書では中国人が下等民族のように取り扱われています。これはヘブル人も例外ではありませんでした。パロはこのように低く見られていたヘブル人ヨセフをエジプトの支配者としました。これはパロがどれだけヨセフに感嘆していたかということを示しています。これを今の時代で言えば、韓国人が日本人を韓国の大統領に就任させるのと同じです。これはその日本人がとんでもなく凄い人でなければ起こり得ないことです。

 この時にヨセフはパロから『ツァフェナテ・パネアハ』という名を与えられました。これはエジプト人の名です。パロがヨセフにエジプトの名前を与えたのは、常識的に考えて、エジプトの支配者である者はエジプト人の名前を持っているべきだからです。もしヨセフがヘブル人の名前のままで呼ばれていたとすれば、エジプト人の心には疑いや不安が生じかねないのです。またヨセフには『オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテ』が妻として与えられました。この妻はエジプト人だったはずです。ヨセフは特選の民ユダヤの一員として、本来であれば異邦人と結婚すべきではありませんでした。しかし、パロがこうした以上、ヨセフはどうしてもこのエジプト女を妻にせざるを得ませんでした。

 このようにしてヨセフはエジプト全体に知られました。「事態が急変する。」とは正にこのことです。一体誰が監獄にいた囚人がエジプトの支配者になるなどと考えたでしょうか。サウルも突如として王位に就きました。ルターもほとんど一瞬のうちにその名が広範囲に知られることとなりました。神はある人たちに対しては、このような劇的変化を起こされるのです。

【41:46】
『―ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは30歳であった。―ヨセフはパロの前を去ってエジプト全土を巡り歩いた。』
 ヨセフが支配者になったのは『30歳』の時でしたが、このことからヨセフは13年または14年もエジプトにいたことが分かります。何故なら、ヨセフがエジプトに売られたのは『17歳』(創世記37章2節)の時だったからです。ヨセフがこの多感な時期に10年以上もエジプトで過ごしたことは、ヨセフをエジプト人化させていたに違いありません。ここ日本にしても、10年も過ごせば外国人はあまり違和感を生じさせなくなります。その外国人によっても違いはありますが、雰囲気や全体的な動作が我々日本人と非常に似るようになるからです。このため後にヨセフの兄弟たちはヨセフと出会った際、ヨセフがヨセフであるとは全く気付かなかったのです(創世記42:8)。長らく住んでいる場所は、人の性質を内面的にであれ外面的にであれ、根本的にまでとは言わないにしてもその場所に住む地元の人と似たように変化させるものです。

 こうしてヨセフは『パロの前を去ってエジプト全土を巡り歩いた』のですが、これはエジプトの状況をよく知るためでした。つまり、これは調査のための視察です。日産に招かれたカルロス・ゴーンも、日産に来てからまず第一に行なったのは徹底的な調査をすることでした。彼は毎日毎日工場に行き、現場の人の話を直接聞き、それを長らく続けました。このためゴーンは没落寸前だった日産を一挙に再生させることができたのです。上手にやる人はまず徹底的に熟知しようとするものです。というのも、知らないのに一体どうして上手にやれるのでしょうか。知識が無いのであれば成功する度合いは下がるばかりです。

【41:47~49】
『さて、豊作の7年間に地は豊かに生産した。そこで、ヨセフはエジプトの地に産した7年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々にたくわえた。すなわち、町の周囲にある畑の食糧をおのおのその町の中にたくわえた。ヨセフは穀物を海の砂のように非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。』
 ヨセフは、豊作の7年間に産出された穀物を飢饉の7年間のために蓄えました。その量は『海の砂のよう』だったと書かれていますが、実に凄まじい量だったのでしょう。先にも触れておきましたが、この時に穀物が7年間保存できるよう処理されていたのは確かだと思われます。たとえ7年も賞味期限を保たせることが出来なかったとしても、ただ風味が落ちるというだけで、7年後でも食べられないということはなかったはずです。もし7年間の間に腐って食べられなくなっていたとすれば、エジプトや周囲の国々では大量の餓死者が出ていたでしょうが、聖書はそのようなことを述べていません。

【41:50~52】
『ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」からである。また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」からである。』
 豊作の時期にヨセフは2人の子を生みました。この2人の子が豊作の時期の何年目に生まれたかは分かりません。ヨセフの息子はこの2人だけでした。ヨセフに娘はいなかったはずです。ヨセフがこの時期に子を生んでおいたのは正解でした。何故なら、飢饉の時期に子を生んでいたら大変になっていたでしょうから。エジプト人の民衆からも「ヨセフは皆が飢饉で苦しんでいるのに子を生んでいる余裕を持っているのか…」などと不快に思われていたかもしれません。ヨセフは長子に『マナセ』と名づけましたが、これは「忘れる」という意味です。このように名づけたのは、ヨセフがエジプトの支配者になった時、次のように言ったからです。『神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。』カルヴァンは、ここでヨセフが『父の全家とを忘れさせた』と言っていることを非難しています。何故なら、ヨセフの父ヤコブの家に神の教会があったからです。そのような父の家を忘れるなどとはとんでもない話である、とカルヴァンは言うのです。確かにヤコブの家に当時の教会があったのを私も認めますが、私の考えでは、ここでヨセフが忘れさせたと言っているのはヤコブの家で味わった苦しみのことだと思われます。それゆえ、私はここでヨセフが言っていることを非難しようとは思いません。次男は『エフライム』と名づけられましたが、これは「実り多い」という意味です。このように命名されたのは、ヨセフが支配者になった時、こう言ったからです。『神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。』ここでヨセフは拉致されて行き着いたエジプトを『苦しみの地』と言い表しています。このことから、ヨセフがこの13年または14年の間にどれだけエジプトで大きな苦しみを味わっていたかが分かります。支配者とされたヨセフがどれだけ『実り多い者』となったかは分かりません。王は昔から寛大な傾向を持っていますから、ネロがセネカにとんでもない量の財産を授与したように、パロもヨセフにとんでもない量の財産を授与していた可能性が高いでしょう。なお、ヨセフの妻アセナテが何歳だったのかは不明です。ヨセフよりも若かったのかもしれませんし、年が上だったのかもしれません。いずれにせよ聖書はアセナテの年齢について示していませんから、私たちにとって彼女の年齢はどうでもいいことです。

【41:53~57】
『エジプトの地にあった豊作の7年が終わると、ヨセフの言ったとおり、7年のききんが来始めた。そのききんはすべての国に臨んだが、エジプト全土には食物があった。やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」ききんは全世界に及んだ。ききんがエジプトの国でひどくなったとき、ヨセフはすべての穀物倉をあけて、エジプトに売った。また、ききんが全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。』
 続いて7年の飢饉が訪れたので、ヨセフは蓄えておいた穀物をエジプトと他の国々に売りました。こうして多くの人々が助かるようになり、エジプトが富むことになりました。このようになることこそヨセフがエジプトに奴隷として売られた目的でした。もしヨセフが奴隷として売られなければ、多くの人々はこの時の飢饉で餓死していたでしょうし、エジプトが富むこともなかったでしょう。

 この飢饉の時にエジプト王の廷臣たちはヨセフを大いに尊敬したに違いありません。中には尊敬し過ぎるあまり神として取り扱ってしまった人もいたかもしれません。何故なら、本当にヨセフが言った通りに飢饉となり、その飢饉からヨセフが人々を助けていたからです。

 ヨセフのように、将来に起こる不幸のために前々から蓄えをしておくのが知恵です。そうすれば不幸が未来に訪れても多かれ少なかれ対処できるからです。こんなのは言うまでもないことでしょう。箴言でも、蟻の例えにより、蓄えられる時に蓄えておけと教えられています。『なまけ者よ。蟻のところに行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。』(箴言6章6~8節)伝道者の書でも、後の日のために今を犠牲にすべきだと教えています。次のように書かれています。『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。』(伝道者の書11章1節)ヨセフは今見た2つの御言葉を正に実行していました。愚かであったり欲望により近視眼的になっていると、なかなか将来のために蓄えるということができません。つまり、全ての人が将来のために蓄えようとするわけではありません。だからこそ私は啓蒙の意味で今このことを書いたのです。もし全ての人が貯金家だったとすれば今このように啓蒙する必要はなかったでしょう。

【42:1】
『ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」』
 ヤコブの家にもエジプトに穀物があるという情報が入ってきました。ところが、エジプトと聞いたヤコブの息子たちは動揺して顔を見合わせます。そこにヨセフが連れ去られたことを知っていたからです。しかし、ヤコブはまさかヨセフがエジプトに拉致されたなどとは思ってもいませんでした。ですから、ヤコブはどうして息子たちが顔を見合わせているのか分かりませんでした。

【42:2~5】
『そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」そこで、ヨセフの10人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。』
 ヤコブはエジプトから穀物を買いに行くよう息子たちに命じます。家族の命がかかっている以上、息子たちは父の命令に当然従いました。この箇所でエジプトに『下って行った』と書かれているのは、カナンを中心に述べているからです。

 しかしヤコブは、息子たちのうちベニヤミンだけは行かせず残しておきました。何故なら、『わざわいが彼にふりかかるといけないと思った』からです。つまり、ベニヤミンがヨセフのように消えてしまったらいけないと考えたのです。以前は、ラケルの子ヨセフをそれ以外の子と一緒にしたので、ヨセフがいなくなってしまいました。ですから、今回もラケルの子ベニヤミンをそれ以外の子と一緒にしたくなかったのです。

 この箇所では飢饉がカナンにも起こっていたと言われています。これは飢饉が『全世界』(創世記41章57節)に起こっていたからです。この時はどこもかしこも飢饉に悩まされていたということです。

【42:6】
『ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。』
 兄弟たちがヨセフの前にひれ伏したことにより、遂にヨセフの見た夢が実現されました(創世記37:7、9)。あの夢は本当に神から与えられた預言だったのです。もしあれが単なる夢に過ぎなければ、このようなことは起きていなかったでしょう。あの夢には神の言葉が伴っていませんでした。これはヤコブの見た夢とは異なっています(創世記28:12~15)。しかしヨセフの見た夢も、ヤコブの見た夢と同様、神が与えられた夢でした。

【42:7~17】
『ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」彼らは言った。「しもべどもは12人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。』
 ヨセフには兄弟たちのことがすぐにも分かりました。何故なら、兄弟たちはずっとカナンに住んでおり、しかも10人一緒にやって来たからです。こんなにも一斉に兄弟が来れば気付かない方が不思議でしょう。一方、兄弟たちはヨセフのことに気付きませんでした。何故なら、ヨセフは人格形成に重要な10代・20代の時期をエジプトで過ごしていたのでエジプト的な性向を身に纏っていたのであり、エジプト人の名で呼ばれており、エジプトの格好をしており、エジプト人のように振る舞っていたからです。これでは兄弟たちがエジプトの支配者をヨセフだと気づかなくても不思議ではありません。兄弟たちがエジプトの支配者の本名をヨセフであると聞かされていれば、「あっ、あれは確かにヨセフかもしれない。」などとすぐにもヨセフだと気付いていたかもしれません。しかし摂理の働きにより、兄弟たちにツァフェナテ・パネアハの実名が知らされることはありませんでした。このように真実なことが知らされないままでいるというのは私たちにもよくあることです。

 ヨセフは兄弟たちが間者でないことを知っていましたが、兄弟たちが間者であると思っているかのように見せかけ、あえて兄弟たちを試すことにしました。すなわち、兄弟たちがカナンにいる末っ子ベニヤミンをエジプトへ連れて来るかどうかを見ることにより、その誠実さを確かめようとしました。これは兄弟たちが以前のように邪悪な性格のままであったかどうか調べるためです。もし兄弟たちがカナンからベニヤミンを連れて来たとすれば、兄弟たちは誠実になっていたことが分かります。しかし連れて来なければ前と何も変わっていないことになります。このようにヨセフは最初から自分の正体を兄弟たちに明かそうとはしませんでした。まず兄弟たちの誠実さを確かめてからでなければ、兄弟たちがツァフェナテ・パネアハをヨセフだと分かった途端に、また何か悪いことをされてしまう恐れがあったからです。このことからヨセフには非常な思慮があったことが分かります。

 そういうわけですから、ここでヨセフが兄弟たちに粗暴に振る舞っているのを非難できません。ヨセフが兄弟に荒々しく振る舞ったのは、本当の意味ではなく、単に演じていたに過ぎないからです。もし兄弟たちの性格が以前のままであるかどうか荒々しく振る舞うことで確かめもせず、最初から自分の正体を明かしていたとすれば、ヨセフは無思慮な者だったことになります。

【42:18】
『ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。』
 監禁してから三日目に、ヨセフは兄弟たちがカナンにいる家族に穀物を持って行くようにし、その後、そこからベニヤミンを連れて来るよう命じます。ヨセフが『三日目』に兄弟たちを行かせたのは、飢えている両親のためだったはずです。何故なら、ヨセフは親孝行の者だったからです(創世記37:2)。ヨセフのことですから、親をはじめとした家族たちを三日間も飢えたままでいさせることはヨセフにとって耐えられなかったはずです。この時に兄弟の一人をエジプトに人質として監禁しておこうとしたのは、兄弟たちがカナンに逃げないためです。ヨセフは、もし人質を取らなければ、カナンに行ったきりエジプトへ帰って来なくなるのではないか、と思ったのでしょう。しかし人質をエジプトに監禁しておけば兄弟たちは戻って来ざるを得なくなります。ここにヨセフの知恵が現われています。このことからヨセフは支配者として実に相応しい人物だったことが分かります。このような知恵ある支配者は他にもセルジューク朝の宰相ニザール・アルムルク(11世紀)がいますが、こういった支配者は歴史において珍しい存在です。そのような支配者は神の恵みにより与えられます。

【42:21~22】
『彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」』
 兄弟たちはヨセフが連れ去られたエジプトに来たことで、ヨセフに対して行なった悪を思い返して悩まされました。少なからぬ数の人が、ある場所に来た際に過去に犯した悪を思い返したという経験をしたことがあるでしょうから、兄弟たちがエジプトに来たことでヨセフについて悩まされたことは不思議に思われないはずです。また先にも述べましたが、この箇所では売られる際にヨセフが『あわれみを請うた』と書かれています。このヨセフの振る舞いは実際にヨセフが売られたことを記している37章の箇所では省略されています。

 ここで兄弟たちがヨセフを苦しめたから自分たちも苦しんでいると言っているのは間違っていません。兄弟たちはヨセフを悲惨にさせたからこそ悲惨になっていたのです。またヨセフを穴に閉じ込めて動けなくしたからこそ(創世記37:22~24)、自分たちも監禁所に閉じ込められることになったのです。神は人がした通りにその人にもなさいます。ですから兄弟たちが苦しんでいたのは自業自得でした。もし兄弟たちがヨセフを苦しめなければ兄弟たちはこのような苦しみを受けていなかったはずです。

【42:23~25】
『彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに戻って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。』
 兄弟たちの話を聞いていたヨセフは、悲しみを抑えることが出来ませんでした。何故なら、兄弟たちの話により、過去に兄弟たちから受けた苦しみが強く思い起こされたからです。多くの人が、何かをキッカケとして過去の苦しみを想起した経験を持っているはずです。しかし、ヨセフは泣いているところを見せないため兄弟たちから離れました。これは支配者としての尊厳を保つためです。ヨセフがこのようにしたのは賢明でした。

 ヨセフが人質としてシメオンを選んだのは何故だったのでしょうか。どうして他の兄弟ではなく「シメオン」なのでしょうか。これは非常に合理的な選択でした。まず長子ルベンは、ヨセフを救おうとしましたから人質にするのはヨセフにとって気が引けたはずです(創世記37:21~22)。ユダも同様の理由から気が引けたはずです(創世記37:26~27)。ルベンとユダ以外であれば、年齢つまり兄弟としての順番を除けば、条件は誰でも同じです。この2人以外で最も年齢が上だったのはシメオンです。兄弟たちがそれぞれ同一の罪状を有している場合であれば、代表として引き出されるべきなのは一番年齢が上の者であるとしても自然です。このためにヨセフはシメオンを選んで縛り付けたのでしょう。聖書にはヨセフがどうしてシメオンを選んだのか書かれていません。しかし、今言ったように考えるのは問題ありませんし、私が今言ったように考えるのが最も合理的であると思えます。

 こうしてヨセフは兄弟たちの袋に穀物を入れてやりました。これは普通のことです。しかし、ヨセフは兄弟たちが支払った銀を、兄弟たちの袋の中に返しておきました。つまりヨセフは無料で穀物を与えたことになります。これは兄弟たちに対するヨセフの取り計らいでした。またヨセフは兄弟たちが帰りの道で食べる食糧をも与えてやりました。これもヨセフの計らいです。もし兄弟たちが家族でなければヨセフはこのようにしていなかったはずです。もっとも、兄弟たちはまさか家族だからというのでエジプトの支配者がこのようにしてくれたなどとは僅かさえも思わなかったでしょうが。このような出来事は正に「事実は小説よりも奇なり」です。私たちが今見ている話は小説よりもよっぽど驚嘆性に満ちています。なお、この時にヨセフから与えられた穀物が何だったのかはよく分かりません。カナンやエジプトにいた古代の人たちはパンを食べていたでしょうから、恐らく小麦であったと推測されます。

【42:26~28】
『彼らは穀物を自分たちのろばに背負わせて、そこを去った。さて、宿泊所で、そのうちのひとりが、自分のろばに飼料をやるために袋をあけると、自分の銀を見つけた。しかも、見よ。それは自分の袋の口にあった。彼は兄弟たちに言った。「私の銀が返されている。しかもこのとおり、私の袋の中に。」彼らは心配し、身を震わせて互いに言った。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」』
 カナンへと帰ることになった兄弟たちですが、そのうちの一人が自分の袋の中に支払ったはずの銀が入っているのを見つけ、一同は恐怖で満たされました。この時、彼らは一体何が起きているのか理解できなかったはずです。しかし、少なくとも神がこのような出来事を起こされたということだけは分かっていました。何故なら、パウロが言うように『すべてのことが、神から発し』(ローマ11章36節)ているからです。この世界では神の意図無しに何かが起こることはありません。ですから兄弟たちはこう言いました。『神は、私たちにいった何ということをなさったのだろう。』

 この時に銀を見つけた兄弟が誰だったかはこの箇所で書かれておらず、それが誰なのか私たちには推測することさえ出来ませんが、これが誰だか分からなくても何も問題にはなりません。

【42:29~34】
『こうして、彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言った。「あの国の支配者である人が、私たちに荒々しく語り、私たちを、あの国をうかがう間者にしました。私たちはその人に、『私たちは正直者で、間者ではない。私たちは12人兄弟で同じひとりの父の子で、ひとりはいなくなったが、末の弟は今、カナンの地に父といっしょにいる。』と申しました。すると、その国の支配者である人が、私たちに言いました。『こうすれば、あなたがたが正直者かどうか、わかる。あなたがたの兄弟のひとりを私のところに残し、飢えているあなたがたの家族に穀物を持って行け。そしてあなたがたの末の弟を私のところに連れて来い。そうすれば、あなたがたが間者ではなく、正直者だということが私にわかる。そのうえで、私はあなたがたの兄弟を返そう。そうしてあなたがたはこの地に出はいりができる。』」』
 カナンに帰った兄弟たちは、エジプトで起きた出来事を全て父ヤコブに知らせました。この箇所で兄弟たちが話している内容は既に確認済みのことです。

【42:35】
『それから、彼らが自分たちの袋をからにすると、見よ、めいめいの銀の包みがそれぞれの袋の中にあるではないか。彼らも父も、この銀の包みを見て、恐れた。』
 先には一人の兄弟だけが銀の返却に気付いただけでした。それは、恐らくロバに飼料を与えるために袋を開いたのがその兄弟だけだったからです。他の兄弟たちも袋を開いていたとすれば、銀が深い場所に入り込んでいたので、袋を開いたものの銀が返却されていることに気付かなかったのでしょう。しかし、家に帰ってから全員が袋の中を空にしてみると、実は全員の袋に銀が返却されていたことが判明しました。ヤコブも兄弟たちも、まさかヨセフがこのようなことをしていたとは全く思いもしません。このためヤコブと兄弟たちは一瞬のうちに恐怖で凍り付いてしまいました。

【42:36~38】
『父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します。」しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下させることになるのだ。」』
 ヤコブは3度目に子が失われることになるのではないかと思い、大いに嘆いています。多くの兄弟たちが遠くの場所に行ったことで、ヨセフとシメオンがいなくなってしまいました。ですから、これから再び子が失われるのではないかと思えたのです。諺にも「二度あることは三度ある。」とあります。しかし、ヨセフとシメオンが失われたからというのでベニヤミンも失われることになるというのは、非常に弱い根拠しかありません。何故なら、ヨセフとシメオンが失われたからベニヤミンも失われるとは必ずしも言えないからです。もしかしたらベニヤミンの場合はヨセフとシメオンのようにはならない可能性だってあるのです。ですからヤコブは単にベニヤミンも失われるに違いないと思い込んでいたに過ぎません。しかも、ヤコブはシメオンが完全に失われたという思い込みも持っていました。確かなところ、まだこの段階ではシメオンの喪失が決定してはおらず、これからベニヤミンをエジプトに行かせればシメオンが帰って来る可能性は十分ありました。それなのに既にシメオンの喪失を確定しているとは一体どういうわけでしょうか。老いによる知性の衰えでしょうか?そうではなく、これは動揺と恐れにより一時的に正常で冷静な思考が出来なくなっていただけであるとすべきでしょう。

 ベニヤミンもこれから失われるに違いないと思い込んでいたヤコブを見て、ルベンはもしベニヤミンを無事に帰らせなければ自分の2人の子が殺されてもよいと言いました。ルベンはここで必ずベニヤミンを帰らせると自信を見せています。この自信は無思慮に基づいていたとせねばなりません。何故なら、ルベンがベニヤミンを必ず安全に帰らせることができるとどうして言えるのでしょうか。神がベニヤミンを失わせたならば、ルベンが何をしようともベニヤミンは失われるでしょう。そうすればルベンがベニヤミンを父のもとに帰らせることはできなくなります。ヤコブはこのような自信を見せたルベンの言ったことを拒絶しました。何故なら、ルベンが100%の確率でベニヤミンを帰らせることが出来るとは言えないからです。もしベニヤミンが道中で失われたならば、ヤコブからラケルの子は全て失われることになります。少なくともヤコブの頭の中ではそうでした。何故なら、ヤコブの頭の中ではヨセフは死んだことになっているからです。最愛の妻ラケルの子が一人もいなくなってしまうのはヤコブにとって耐え難いことでした。ヤコブにとってベニヤミンはラケルの形見も同然だったと見做して問題ないでしょう。形見を失うことに耐えられる人が果たしているでしょうか。

 ヤコブがこの箇所で『よみ』に下ると言っているのは、単に墓に入る、つまり死ぬということです。この『よみ』という言葉は、ここにおいては地獄を意味していません。何故なら、どうしてヤコブが地獄に行くはずがあるでしょうか。ヤコブはイエス・キリストの贖いを受けていたのですから、地獄に定められていた人ではありません。ですから、ここで『よみ』と言われているのは「墓」として捉えねばなりません。

【43:1~5】
『さて、その地でのききんは、ひどかった。彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、私たちのために少し食糧を買って来ておくれ。」しかしユダが父に言った。「あの方は私たちをきつく戒めて、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない。』と告げました。もし、あなたが弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは下って行って、あなたのために食糧を買って来ましょう。しかし、もしあなたが彼を行かせないなら、私たちは下って行きません。あの方が私たちに、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない。』と言ったからです。」』
 カナンでの飢饉は激しかったと聖書は言っていますから、兄弟たちがエジプトから持って来た食糧は短期間のうちに無くなったと思われます。ヤコブの家は大人数でしたから、尚更そう言えます。そこでヤコブは再びエジプトから食糧を持って来るよう息子たちに命じます。この命令に対し、ユダがベニヤミンを連れてでなければエジプトには行けないと言います。もしベニヤミンを連れて行かなければエジプトの支配者が怒るのは明らかだからです。古代エジプトの文書を見ると、古代エジプト人は厳格さこそあるものの柔和の性質は欠如していたことが分かります。ヨセフもそのようなエジプト人らしく振る舞っていました(創世記42:30)。ですから、兄弟たちはベニヤミン抜きにエジプトへ行くことがどうしても出来ませんでした。

【43:6~7】
『そこで、イスラエルが言った。「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。」彼らは言った。「あの方が、私たちと私たちの家族のことをしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか。』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」』
 ヤコブは息子たちがベニヤミンについて話したことを不満に思い、息子たちは仕方がなかったと弁明しています。ヤコブが不満に思ったのも、息子たちがこのように弁明したのも、どちらももっともです。このエジプトでの出来事は神が起こされたので、ヤコブも息子たちもどうにもならないことでした。一体、誰が神の為されることを引き止められるでしょうか。

【43:8~15】
『ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」父イスラエルは彼らに言った。「もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。それはまちがいだったのだろう。そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」そこで、この人たちは贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った。』
 ユダがベニヤミンについて責任を負うと言ったのは、ヤコブに対して重みがありました。ヤコブの家において、ユダが兄弟たちの中で最大に注目されていたのは間違いありません。何故なら、このユダからメシアが出て来られることをヤコブたちは知っていたからです。このためでしょうか、ヤコブはユダの言葉を聞いて、遂にベニヤミンのエジプト行きを承認しました。ユダまたユダ族の重要性については私たちも良く理解できます。私たちが「ユダヤ」また「ユダヤ人」と一般的に言ったり聞いたりしている言葉は、このユダに由来しているからです。

 ヤコブはもし行くならば贈り物を携えて行くべきだと命じました。これは贈り物でエジプトの支配者から好意を抱かれるためです。好意を抱かれる目的は、もちろん息子たちが安全に帰宅できるためです。ヤコブが贈り物を持って行かせようとしたのは正しいことでした。贈り物は人の好意を獲得するのに有益だからです。持って行くべき贈り物にはカナンの名産品が指定されました。これは支配者に贈る物としては最適な物の一つです。

 ヤコブはこの箇所で『全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。』と言っています。つまり、ヤコブは神が全ての人を動かしておられることについて知っていました。ヤコブがこう言ったのは正しいことです。何故なら、それは聖書が教えていることだからです。神は全ての人を動かしておられますが、特に支配者を強く動かしておられます。エジプトを支配していたヨセフもその一人でした。神がそうなさるのは、昔から今に至るまで変わりません。ネロがセネカを死なせるようにしたのは、神がネロの心を動かされたからです。神はセネカの死を望んでおられました。またマッカーサーがアメリカに来た昭和天皇を死刑にしなかったのも、神がマッカーサーの心を動かされたからです。神は昭和天皇の死刑を望んでおられませんでした。

【43:16~18】
『ヨセフはベニヤミンが彼らといっしょにいるのを見るや、彼の家の管理者に言った。「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり、料理をしなさい。この人たちが昼に、私といっしょに食事をするから。」その人はヨセフが言ったとおりにして、その人々をヨセフの家に連れて行った。ところが、この人たちはヨセフの家に連れて行かれたので恐れた。「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕えるためなのだ。」と彼らは言った。』
 ヨセフは兄弟たちがベニヤミンを連れて来たので、兄弟たちが誠実に振る舞っていることを確認しました。またヨセフは自分のことを兄弟たちに打ち明けるつもりでいました。何故なら、兄弟たちはこのように誠実さを見せたのですから、エジプトの支配者がヨセフだと知っても、前のようにもう愚かなことはしないだろうと思えたからです。ところが兄弟たちは真の事情を全く理解していませんでしたから、ヨセフの家に連れて行かれた際、ただただ恐れるばかりでした。この時に彼らが持った恐れはどれだけ大きかったことでしょうか。