【創世記46:31~48:21】(2021/08/08)


【46:31~34】
『ヨセフは兄弟たちや父の家族の者たちに言った。「私はパロのところに知らせに行き、申しましょう。『カナンの地にいた私の兄弟と父の家族の者たちが私のところに来ました。この人たちは羊を飼う者です。家畜を飼っていた者です。彼らは、自分たちの羊と牛と彼らのものすべてを連れて来ました。』パロがあなたがたを呼び寄せて、『あなたがたの職業は何か。』と聞くようなときには、あなたがは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます。』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」』
 ヨセフはこれからのことに関する打ち合わせとでも呼ぶべき話をしています。ヨセフはこれからパロに自分の家族について知らせることにしました。またヨセフはパロに家族たちが呼び出された際に言うべき事柄を指示します。この時には、この2点以外のことも、もしかしたら話されていたのかもしれません。ヨセフは家族たちが羊飼いであることを隠したり偽ったりしないよう指示しています。何故なら、そうすれば家族たちはゴシェンの地に住めるからです。このゴシェンとは、肥沃であるもののあまり人は住んでいないような地でした。ですからエジプト人に嫌われる羊飼いであった家族にとって、そこは最適な地だったのです。すなわち、そこに住めば牧草に困ることがない上、エジプト人の近くに住むこともありません。このような地を神はヤコブたちに用意しておられました。神とは慈しみ深い御方なのです。

【47:1~3】
『ヨセフはパロのところに行き、告げて言った。「私の父と兄弟たちと、羊の群れ、牛の群れ、そして彼らのものすべてがカナンの地からまいりました。そして今ゴシェンの地におります。」彼は兄弟の中から五人を連れて、パロに引き合わせた。パロはヨセフの兄弟たちに尋ねた。「あなたがたの職業は何か。」彼らはパロに答えた。「あなたのしもべどもは羊を飼う者で、私たちも、また私たちの先祖もそうでございます。」』
 ヨセフは5人の兄弟を選んでパロに謁見させました。『5人』だったのは、多すぎもせず少なすぎもしない人数にすべきだったからでしょう。10人も来れば多すぎですし、2人か3人だけだと少ない感じがするからです。昔から王や支配者の前では往々にして「中庸」が好まれるものです。この5人が誰だったのかは書かれていません。この兄弟たちはパロから職業を尋ねられたので、ヨセフの指示通りに答えました。

【47:4~6】
『彼らはまたパロに言った。「この地に寄留しようとして私たちはまいりました。カナンの地はききんが激しくて、しもべどもの羊のための牧草がございませんので。それでどうか、あなたのしもべどもをゴシェンの地に住ませてください。」その後、パロはヨセフに言った。「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところに来た。エジプトの地はあなたの前にある。最も良い地にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。彼らはゴシェンの地に住むようにしなさい。もし彼らの中に力のある者がいるのを知っていたら、その者を私の家畜の係長としなさい。」』
 兄弟たちは自分たちがエジプトに来た経緯をパロに話し、エジプトに住めるようお願いしました。彼らは媚びへつらうのでもなく尊大でもありませんでした。この時にパロに話したのが5人の兄弟のうち誰だったかは分かりません。

 パロはこの後、ヨセフに兄弟たちの求め通りにするよう命じました。このことから、この時代のパロは物分かりの良い幸いな人物だったことが分かります。モーセ時代のパロとは大違いです。

 パロはまた、ヨセフの家族に優秀な者がいたならば、その者をヘッドハンティングしようとしました。その者を家畜の係長としてエジプトの国力を更に高めようというわけです。このように、このパロは国家の経営者としても恵まれていたことが分かります。

【47:7~10】
『それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は130年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。』
 ヨセフは続いてヤコブをパロに謁見させました。ヤコブはパロに年齢を聞かれたので130歳であると答えます。このような高齢であるというのにヤコブの頭脳は衰えているように見えません。それは彼の言葉がしっかりしているからです。私は古代の文書を多く読んできましたが、古代人で高齢になってから痴呆になったというのは全く聞かれません。もし痴呆の老人がいれば古代人はその人について書いていたと思われますが、古代の文書にそのような記述はないのです。このことから考えるに、痴呆とは食事において取りこむ化学物質が原因であると思われます。古代には食品に使われる化学物質はまだなかったのですから。

 ヤコブは自分の130歳という年齢が、先祖の年齢に比べれば少ないと言っています。ヤコブが言及した『私の先祖』とは、洪水前の人たちか創世記11章で書かれている洪水後の先祖を指していると思われます。確かにこれらの人たちに比べればヤコブの年齢は『わずか』でした。またヤコブは自分の人生が『ふしあわせ』だったと言っています。ヤコブの人生における諸々の悲惨をこれまで私たちは見てきました。このヤコブほどに不幸な人生を送った人はなかなか珍しいと言わねばなりません。

【47:11~12】
『ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。』
 ヨセフはパロの命令通りに行ない、家族を『ラメセスの地』に住ませました。ラメセスというのはゴシェンの地にある一つの地域であって、エジプトの北部にあります。またヨセフはそこに移り住んだ家族たちを全て養うようにしました。ヨセフは支配者になってからパロにより富みましたから(創世記41:52)、69人もの家族を養うことができました。ヨセフが公金で家族を養ったとは考えにくい話です。何故なら、ヨセフはそのようなせこいことをする人物ではなかったはずだからです。こうして『太陽と月と11の星』(創世記37:9)がヨセフにひれ伏すという預言は実現されました。『11の星』である兄弟たちは既にヨセフを伏し拝んでいます。『太陽と月』であるヤコブとその妻がヨセフを実際に伏し拝んだとは書かれていませんが、社会的な意味では彼らもヨセフを伏し拝んでいました。というのも、ヤコブとその妻がヨセフに支配者としての権威と立場を認めていたのは間違いないことだからです。支配者としての権威と立場を認めるというのは精神においてひれ伏していることです。

【47:13~14】
『ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく、エジプトの地もカナンの地もききんのために衰え果てた。それで、ヨセフはエジプトの地とカナンの地にあったすべての銀を集めた。それは人々が買った穀物の代金であるが、ヨセフはその銀をパロの家に納めた。』
 飢饉の時にヨセフは諸国から穀物の代金として銀を集めました。この時代には銀が一般的なお金として使われていました。飢饉で飢えていれば穀物がどれだけ高くても買わざるを得ません。ですから、ヨセフは高めの価格に設定しても穀物を十分に売ることができたでしょう。例えば水のない砂漠であれば1本のペットボトルを100万円で売ることも可能です。この時は世界中が飢えていたのですから、ヨセフは砂漠で水を売る時のように強気の価格にできたでしょう。実際にヨセフがどのぐらいの価格で穀物を売ったのかは分かりませんが。こうして諸国は穀物を買うために銀を払い尽くしました。ヨセフは代金として集まった銀をパロの家に納めましたが、着服することはありませんでした。欲深い人であれば少しぐらい私腹を肥やしていたかもしれませんが、ヨセフは善良な人だったので、そのようなことはしませんでした。国家にはこういった支配者が必要です。最近は国家運営に正しさなど不要だとする傾向がありますが、全く馬鹿げています。聖書は正義により国家が運営されるべきだと教えているからです(箴言8:12~21)。今も昔も国家には正しさが往々にして欠如しています。ヨセフのようでない政治家が多く存在しています。

【47:15~17】
『エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき、エジプト人がみなヨセフのところに来て言った。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなたさまの前に死んでよいでしょう。」ヨセフは言った。「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」彼らがヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは馬、羊の群れ、牛の群れ、およびろばと引き替えに、食物を彼らに与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えた食物で彼らを切り抜けさせた。』
 穀物を買うための銀が尽きると、ヨセフは家畜と引き替えに穀物を渡すようにします。家畜と穀物を引き替えなければ人々は餓死してしまいます。これは悲惨なことです。ですから、人々は助かるために家畜を手放しました。前と同様、ヨセフはこの時も穀物と引き換えた家畜をパロの家に納めたでしょう。こうしてパロの家はますます力が増すことになりました。人々は家畜を殺して食べるという選択もできたでしょう。しかし、そうはしませんでした。何故なら、家畜を食べても飢えが一時期的に凌げるだけだからです。そのようにするよりは、家畜を売って穀物を得るほうが遥かに長く飢えを凌げます。ヨセフがこれまでにしていたのは、やがて将来に必要となる物を前もって豊かに備えておくということでした。すなわち、将来の飢饉のために数年前から穀物を大量に蓄えておきました。その飢饉の時が今来ており、前から準備しておいたため、ヨセフは大いにパロの家を繁栄させることができています。もしこれがビジネスか投資であればヨセフは最高の経営者またはトレーダーになっていたことでしょう。

【47:18~20】
『やがてその年も終わり、次の年、人々はまたヨセフのところに来て言った。「私たちは、あなたさまに何も隠しません。私たちの銀も尽き、家畜の群れもあなたさまのものになったので、私たちのからだと農地のほかには、あなたさまの前に何も残っていません。私たちはどうして農地といっしょにあなたさまの前に死んでよいでしょう。食物と引き替えに私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして、土地も荒れないでしょう。」それでヨセフはエジプトの全農地を、パロのために買い取った。ききんがエジプト人にきびしかったので、彼らがみな、その畑地を売ったからである。こうしてその土地はパロのものとなった。』
 次の年になると、もはやエジプト人には農地しか渡せる所有物がなくなっていました。銀と家畜はもう全て穀物と引き替えてしまったからです。通常であれば、土地と穀物では釣り合いが取れません。しかし、この時は飢饉のため土地と引き替えにしてでも穀物を手に入れる必要がありました。ですから、エジプト人たちは穀物のため土地の売却を厭いませんでした。土地を売らなかったために餓死すべきではないからです。このように危機とは通常の概念を覆します。その時、常識は通用しなくなります。いつの時代にもそのような危機を捉えて大いに繁栄しようとする人が存在します。それはヨセフのような良い人の場合もあれば、とんでもない悪人である場合もあります。

【47:21~26】
『彼は民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させた。ただ祭司たちの土地は買い取らなかった。祭司たちにはパロからの給与があって、彼らはパロが与える給与によって生活していたので、その土地を売らなかったからである。ヨセフは民に言った。「私は、今、あなたがたとあなたがたの土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなければならない。」すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」ヨセフはエジプトの土地について、五分の一はパロのものとしなくてはならないとの一つのおきてを定めた。これは今日に及んでいる。ただし祭司の土地だけはパロのものとならなかった。』
 エジプト人とその農地はパロの所有となったので、ヨセフは彼らから買い取った農地で彼らを働かせました。エジプト人たちは自分たちが奴隷として取り扱われるのを拒絶しませんでした。それどころか、自ら進んで奴隷になるとさえ言っています。これは当然でした。何故なら、命の恩人に奴隷として奉仕したとしても、それは全く自然なことだからです。パロとヨセフはエジプト人にとって命の恩人でした。

 ヨセフは農地から得た穀物の『五分の一』を税としてパロに捧げるよう定めました。これはつまり法律です。その法律は『今日』すなわち創世記の著者が生きている時代まで、ずっとエジプトで適用され続けていました。ヨセフがこのような法律を定めたことから、ヨセフの持っていた権威と権力がどれだけ大きかったか分かります。ヨセフは要するに立法者だったからです。つまりヨセフは国の最高の地位にいたことになります。何故なら、ロックが『統治二論』の中で言ったように、立法権を持つ者が国家における実質的な最高の支配者だからです。それは国が法によって統治される共同体だからです。この法次第で国はどうにでもなるのです。それゆえ、国の実質的な王は立法者であることになります。ヨセフが正にそれでした。

 エジプトの祭司たちにはパロから給与が与えられていましたから、一般のエジプト人のように土地と引き替えに穀物を得る必要はありませんでした。祭司たちは給与で穀物を買えばよいからです。この祭司たちがエジプトにどれだけいたかは不明ですが、パロは十分なだけの給与を祭司たちに与えていたでしょう。古代ローマもそうでしたが、このエジプトを含め古代では国家と宗教が完全に一体となっていました。また、その宗教は国家の運命を左右すると考えられていました。ですから古代人は宗教の祭司たちを大いに尊重し高く見ていました。このため、あのキケロでさえ鳥卜官に強い憧れを持ち、実際に鳥朴官に就任したほどでした。また、古代ローマでは戦争の際に祭司が執政官と共に戦地に向かうのが常でした。それは宗教によって戦争の行方を占うためです。こういうわけですから、古代エジプトの祭司たちがパロから給与を受けていたのは、古代の常識を考えるならば何も不思議なことではありません。

 ここでヨセフは収穫の『五分の一』を奴隷に課すべき税として定めています。これは普遍的に捉えることができます。すなわち、こういうことになります。「もし国家が国民から五分の一以上の税を取っているのであれば、それは国家が国民を奴隷として取り扱っている状態である。」と。否、サムエル記Ⅰによれば『十分の一』(8章17節)の税でも国民が奴隷にされることだと教えられています。ですから私たちは、国家が国民に課している税率を見ることにより、その国民が国家から奴隷として扱われているかどうかを知れます。もし国家が9.9%以上の税を国民から取っているのであれば、その国は国民を事実上奴隷にしています。国民を奴隷にしない善良な国家は9.9%以上の税を国民に課しません。今の日本は国民からおよそ40%ぐらいの税を取っています。ですから日本国民は完全に国家の奴隷にされています。だからこそ、国家は国民を無視したことばかりしているわけです。国民も奴隷のようにぶつぶつ言いながらも仕方なく屈従しています。もし日本が国民から税金を1割未満しか課していなければ、状況はこのようではなかったでしょう。これは日本以外でも9.9%以上の税を課している全ての国に言えることです。

【47:27】
『さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。』
 こうしてヤコブはエジプトのゴシェンで残りの生涯を過ごすことになりました。ヤコブにとってエジプト住まいは本望でなかったはずです。彼にはカナンが約束の地として与えられていたのですから。しかしヤコブがエジプトに住むのは神の御心でした。何故なら、神はこれからヤコブの子孫がエジプトで虐げられるように予定しておられたからです。ですから、どうしてもヤコブの家はエジプトに移されねばなりませんでした。このエジプトの地でヤコブの家は大いに増殖しました。ユダヤ人たちは実に多産でした。というのも彼らは人間に対する神の増殖命令を知っていたからです。神は最初、人間にこう命じられたのです。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。』(創世記1:28)しかしヤコブは流石にもう子を生まなかったでしょう。何せヤコブは130歳にもなっていたのですから。子を生んだのは、主にヤコブの孫たちと曾孫たちだったはずです。もしかしたらヤコブの息子たちも、ヨセフは除きますが、エジプトに移住してから子を生んでいだ可能性があります。とは言っても聖書はそのことについて何も書いていないのですが。

【47:28】
『ヤコブはエジプトの地で十七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は百四十七年であった。』
 ヤコブはエジプトに移住してからも17年生き続けました。ヤコブはもう130歳にもなっていたのですから、ヤコブも他の人たちも先は長くないと思ったかもしれません。ですが神はヤコブに17年という年月をお与えになりました。ヤコブのように謙遜で主を恐れる者には、このように長寿が与えられるのです。更に富と栄誉も与えられます。箴言22:4の箇所に書かれている通りです。もしヤコブが高慢で主を恐れていなければ、更に17年も生きられはしなかったでしょうし、そもそも130歳まで生きてさえいなかったはずです。この箇所に書かれている「17」と「147」という数字には何も象徴的な意味が含まれていません。

【47:29~31】
『イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」するとヨセフは言った。「私はきっと、あなたの言われたとおりにいたします。」それでイスラエルは言った。「私に誓ってくれ。」そこでヨセフは彼に誓った。イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした。』
 ヤコブの本来的な住まいは約束の地であるカナンでした。ですからヤコブの最終地点、つまり葬られるべき場所はカナン以外ではありませんでした。もしヤコブがヨセフに何も指示しなければ、ヨセフはヤコブをエジプトに葬っていたかもしれません。何故なら、ヨセフがヤコブをカナンに葬ったとすれば、エジプト人は侮辱されたと感じるだろうからです。「おい、何でヨセフは父をエジプトではなくカナンに葬ったのか。もしかしたらヨセフはエジプトなんて別にどうでもよいと思っているのではないか。ヨセフにはカナンこそが重要であってエジプトは取るに足らないのではないか。」などと。しかし、ヨセフとエジプト人がどう思おうとも、ヤコブはカナンの地に葬られねばなりません。ですから、ヤコブは死んだら自分の遺体をカナンに運ぶようヨセフに誓わせました。ヤコブがヨセフに誓わせたのは、自分を必ずカナンに葬らせるためです。ヨセフが誓ったのであれば、ヨセフは誓った以上、そのようにするしかなくなるからです。この後、ヨセフは誓った通りに行ないました。また、ヤコブが誓わせる際、ヨセフの手を『ももの下に入れ』させたのは、古代人全体もしくは古代ユダヤ人特有の誓わせ方でした。古代人がどの民族も全てこのようにしていたか、ユダヤ人だけがこうしていたかは分かりません。アブラハムもこのようにして僕に誓わせています(創世記24:2、9)。

 ヤコブはここで『先祖たちとともに眠りについたなら』と言っていますが、『先祖』とはアブラハムとイサクのことであり、『眠り』とは死のことです。これは要するにヤコブが死んだらアブラハムとイサクの行った天国に入るという意味です。聖書において「眠り」は死の暗喩です。

【48:1~2】
『これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。』
 どのような病気かは分かりませんが、ヤコブが病気になったので、ヨセフは2人の子を連れてヤコブのもとに行きます。ヤコブは病気でしたが頑張れば床に座れる状態でした。脳疾患か心疾患であればこうするのは難しかったでしょう。しかし、癌であれば、たとえ末期であって衰弱していても、死ぬ瞬間まで身体を動せる人も少なくありません。よって、病気というのは癌が一つの可能性として考えられます。この時にヨセフが2人の子を連れて行ったのは、ヤコブが臨終だったからです。現代の日本でも家族が臨終の際には血縁関係を持つ多くの人がやって来ますが、そのようにするのはヨセフの時代からずっと変わっていないのです。

【48:3~4】
『ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』』
 ヤコブはヨセフに対し、まず神がカナンで約束を与えて下さったことから話を始めます。神は、ヤコブに多くの子を与えると約束されました。これは12人の息子と1一人の娘が生まれたことで実現されました。また神はヤコブを増やすとも約束されました。これはヤコブから出た多くの子孫たちによって実現されています。何故なら、子また子孫とは親また先祖の分身なのですから。また神はヤコブを『多くの民のつどい』にすると約束されました。これはヤコブの持っていた信仰にやがて諸国の民が入って来るようになるという意味です。この約束はイエス・キリストにおいて成就されました。ですから、私たち日本人クリスチャンであれ、その他の国のクリスチャンであれ、今や本当に多くの民がヤコブとその信仰に集っていることになります。昔すなわち旧約時代には多くの民がヤコブに集うなどということはなかったのです。また神はカナンの地をヤコブの『後の子孫』に与えると約束されました。この『子孫』とはイエス・キリストを指しています。何故なら、この約束では『子孫』と言って複数者ではなく一人を指定しているからです(参照―ガラテヤ3:16)。この約束はイエス・キリストにおいて実現されましたから、今やカナンすなわちパレスチナの地はキリストがその所有者であられます。だからこそ、主は現代においてユダヤ人たちのためにアラブ人たちをあそこから追い払って下さらないのです。何故なら、今のユダヤ人たちはパレスチナの永久の所有者であられるイエス・キリストに敵対しているからです。

【48:5~6】
『今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンとシメオンと同じように私の子にする。しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。』
 ヤコブはヨセフの子である2人の孫を、自分の子にしようとします。これは、つまりエフライムとマナセがイスラエルの一族また族長になるという意味です。これが普通の場合であれば拒否されていてもおかしくありません。「どうして私の子を父の子にしなければいけないのか?」などと。しかしヨセフは全く拒否しませんでした。何故なら、これはとんでもなく名誉なことだからです。もしヨセフが2人の子をヤコブの子にしていなければ、ヨセフは獣じみた判断をしていたことになります。これを日本で例えるならば、自分の子が天皇に養子として引き取られて皇族になるのと一緒です。このようにヤコブの子であるイスラエルの一族になったのは、ヨセフの子のうちエフライムとマナセだけでした。これ以降に生まれたヨセフの子は、イスラエルの一族とはなりませんでした。その子たちは兄であるエフライムの一族かマナセの一族に編入されねばなりませんでした。

【48:7】
『私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」』
 続いてヤコブはラケルの悲しい思い出について話します。彼が臨終の時にラケルのことを話したことから、彼がどれだけラケルを愛していたかが分かります。もし愛していなければ臨終の時にわざわざ話すようなことはなかったでしょう。このラケルの死はヤコブにとって本当に悲しい出来事でした。というのも喪失の悲しみは愛の度合いに比例しているからです。しかし、ラケルが死ぬのは神の御心でした。

【48:8~10】
『イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。』
 ヤコブはエフライムとマナセを祝福するために抱こうとしましたが、老いのため目が見えなくなっていたので、ヨセフが2人の子をヤコブに近寄らせます。この時にはまだ眼鏡が発明されていませんでしたから、ヤコブはどうしても見ることができませんでした。この時にヤコブが与えようとした祝福は、ヤコブがイサクから受けたあの祝福と同じで、儀式的な祝福でした。つまりそれは一般的な祝福ではありませんでした。また、この箇所でヨセフが言っているように、子どもとは神が人に与えて下さる賜物です。神が与えられるからこそ子が与えられます。神が与えられなければ子は生まれません。ただこれだけなのです。詩篇127:3の箇所で『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。』と言われている通りです。

【48:11~12】
『イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。』
 ヤコブがヨセフとその子を見れたのは神の恵みでした。このようになったのは単なる偶然ではありません。このことにヨセフも神の働きを認めたので、恐れ入って『顔を地につけて、伏し拝』みました。ヨセフが拝んだのはヤコブその人に対してではなかったはずです。ヨセフはヤコブのうちに、またその背後におられる神へ崇拝を捧げたはずです。もしヨセフがヤコブを拝んでいたとすれば偶像崇拝の罪を犯したことになります。

【48:13~14】
『それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。』
 ヨセフは、長子マナセをヤコブの右手の側に、次男エフライムをヤコブの左手の側に進ませました。ところがヤコブは、右手をエフライムのほうに、左手をマナセのほうに置きました。『手を交差して置いた』のです。普通であれば右手を右側にいるマナセのほうに、左手を左側にいるエフライムのほうに置くのが自然です。しかしヤコブはそうしませんでした。今はあまりそう思われなくなっていますが、中世まで人々は右のほうを左よりも優位に置いていました。ですから左利きの人はよく差別され、悪魔の子と見做されるケースもあったぐらいです。聖書もやはり右を左よりも優位に置いています。つまり、ここでヤコブは長子マナセよりも次男エフライムを優先させたことになります。これは一体どういうわけでしょうか。ある人たちによれば、ヤコブが手をクロスさせたのはキリストの十字架を象徴しているとのことです。確かに十字架はクロスとして見做すことができます。イルミナティやフリーメイソンも反キリストを示す際にはクロスの仕草(×)を使います。しかし、この理解は強引でしょう。これは単なるこじつけでしかありません。それゆえ私はこの理解を退けます。聖書はヤコブがどうして手を交差させたのか語っていません。私の考えでは、ヤコブがこうしたのは自分の体験を再現しています。私たちが既に見た通り、ヤコブは神の摂理により、本来であれば祝福を受けるべきだった長子エサウよりも優先させられたので次男なのに祝福されました。これはヤコブにとって計り知れない幸いでした。ですからヤコブはその幸いな体験を過去をなぞるかのようにして再現したのだと思われます。もっとも、前の時が一方の者(ヤコブ)だけしか祝福されなかったのに対し、今回は両者(エフライムとマナセ)がどちらも祝福されたという点で違っているのですが。私たちが、このヤコブの行為を真似する必要は全くありません。これはヤコブが個人的にしたことであって、聖徒たちの規範にする必要性は何もないからです。

【48:15~16】
『それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。』
 ヤコブはまずヨセフの祝福から始めます。普通に考えて、ヨセフはエフライムとマナセよりも先に祝福されるのが自然だからです。この祝福もやはり儀式的な祝福でした。

 ここでヤコブは複数の言い方で神を呼んでいます。まずヤコブは神を『私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。』と呼んでいます。確かにアブラハムとイサクは神の御前に服従しつつ最後まで歩みました。これはヤコブもそうでした。次にヤコブは『きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。』と神を呼んでいます。ヤコブに対してだけでなく、神は全ての聖徒たちに対して牧者であられます(詩篇23:1)。ですから神という羊飼いは聖徒という羊を従わせ、後者は前者に服従するのです。そしてヤコブは『すべてのわざわいから私を贖われた御使い。』と神に呼びかけています。これは御使いの位格において現われて下さったイエス・キリストを指しています。キリストはヤコブをあらゆる苦難から守り、助け出しておられました。ここでヤコブはこれ以外の呼び方を更に付け加えることもできたでしょう。しかしヤコブは今見た3つの呼び方だけに留めています。

【48:16】
『この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。』
 ヤコブは神に対して自分の子孫が祝福されるように願っています。またヤコブは自分の名がアブラハムとイサクの名と共に子孫において忘却されないように願いました。これは実際にその通りになりました。何故なら、ユダヤ人たちはヤコブすなわちイスラエルの名において歩んだからです。古代ユダヤ人の民族的な思いはこうでした。「我々は神に選ばれたイスラエルである。」ユダヤ人とは要するに「アブラハムとイサクとヤコブに連なる者たち」です。ですから、アシュケナージ系ユダヤのように先祖を辿ってもこの3人に行き着かないユダヤ人たちは真のユダヤ人では決してありません。そして最後にヤコブは子孫たちが『地のまなかで、豊かにふえ』るよう願っています。『地のまなか』とは何のことでしょうか。これは神の国を持っていたユダヤ人こそが地上の中心にいるという意味だと解せられます。この願いの通り、確かにユダヤ人たちは豊かに増えました。歴史が示している通りです。

【48:17~19】
『ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手をこちらの頭に置いてください。」しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」』
 ヨセフは、右手すなわちより豊かな祝福が長子マナセに割り当てられるべきだという自然な思いから、ヤコブの手の位置を正そうとします。ところがヤコブはヨセフの介入を拒みました。ヤコブは自分の体験を再現したいと思っていたでしょうし、何よりも次男のほうが長男より祝福されるようになるということを御霊により悟っていたからです。ですからヤコブが手を交差したのは正しかったのです。それは神の御心でした。このように神は下位の者を上位の者よりも優先される御方です。ヤコブは次男だったのに長男エサウよりも優先されました。ダビデも末っ子だったのに引き上げられて兄たちよりも遥かに高くされました。これは神が有る者を引き下げて虚しくされるためです(Ⅰコリント1:26~29)。しかし、これはあくまでも一般的なことであり、神が全ての場合において必ず下位の者を優先されるというわけではありません。上位にある者でも選ばれているのであれば神に恵まれ、更なる高みに引き上げられます。何故なら、この世界では神の選びが全てだからです。この時に祝福されたマナセとエフライムの部族は、どちらもカナン侵攻の際に土地の割り当てを受けました。ですから古代ユダヤには、マナセ族の住まう地域とエフライム族の住まう地域がありました。しかし祖先において右手を割り当てられたマナセ族のほうが祝福されていたので、マナセ族の地域はエフライム族の地域の7倍ぐらいありました。ところで、エフライムの部族は黙示録7:5~8の箇所で書かれていません。というのもエフライム族は、致命的な罪を犯したためイスラエル12部族から追放されてしまったからです。聖書にこう書かれている通りです。『エフライムは打たれ、その根は枯れて、実を結ばない。』(ホセア9章16節)『エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。』(同12章14節)『エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。』(同13章1節)『エフライムの人々は、矢をつがえて弓を射る者であったが、戦いの日には退却した。彼らは、神の契約を守らず、神のおしえに従って歩むことを拒み、神の数々のみわざと、神が見せてくださった多くの奇しいこととを忘れてしまった。』(詩篇78篇9~11節)『わたしは、かつて、…エフライムのすべての子孫を追い払った』(エレミヤ7章15節)。この黙示録の箇所でマナセ族のほうはしっかり書かれています(7:6)。

【48:20】
『そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。』
 こうしてヤコブはヨセフとその2人の子に儀式的な祝福を与えました。このことから、マナセとエフライムがヤコブの子とされたのは実に幸いだったことが分かります。世俗的な言い方をすれば、この2人は「ラッキー」でした。何故なら、もしヤコブの子にされていなければ、この2人がこのような祝福を受けることはできていなかったからです。

【48:21】
『イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる。私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」』
 ヤコブが間もなく死ぬことになるのは、ヤコブ自身にも息子たちにも明らかでした。この大族長であり神の預言者である人がいなくなれば、息子たちは大いに悲しむはずです。しかし、神の民である者たちが気落ちして絶望するようなことがあってはなりません。ですからヤコブは2つの約束を与えて、息子たちが気落ちしないよう励ましています。まずヤコブは、神が息子たちと共にいて下さると言っています。神の使いであるヤコブが死んでいなくなったからといって、神まで息子たちの前から遠ざかってしまわれるというわけではありません。ヤコブを支配し共におられたその神が、ヤコブの死後も、ヤコブの息子たちを支配し共にいて下さるのです。ですから、そのことを思って絶望しないようにとヤコブは息子たちに語ったのです。またヤコブは、息子たちがやがて『先祖の地』すなわちカナンに帰れるようになるとも言っています。つまり、息子たちはずっとエジプトの地にいるわけではないということです。ヤコブがこう言ったのは、カナンがアブラハムとイサクとヤコブとその子孫に与えられるという神の約束に基づいています。―今のユダヤ人たちは契約から切り離されているので、ヤコブの子孫である本当のユダヤ人たちにも契約の地が与えられることはありません。―この約束は子孫において実現しました。それは、ヤコブが死んだ時からおよそ450年後のことです。

 ヤコブはまた、かつて自分がエモリ人から取ったシェケムの地を他でもないヨセフに与えました。ですから、このシェケムはヨセフ族の相続地となりました(ヨシュア24:32)。他の兄弟たちがカナン侵攻の際に得た相続地は、神の約束により侵攻前から既に彼らの所有地となっていましたが、それはヤコブが直接自分の手で獲得した土地だったのではありません。しかし、ヨセフが相続したシェケムはヤコブが自分の手で獲得した土地でした。つまり、他の兄弟たちとは違って、ヨセフだけは手から手へと渡すかのようにして相続地を受け取りました。これはヨセフが息子たちのうちで最もヤコブから愛されていたからです(創世記37:3)。私たちも特別に愛する者には特別な物を与えるものです。ですから、ヤコブがここでヨセフだけを特別扱いしているのは、特に不思議なこととは思われないはずです。