【創世記49:1~50:18】(2021/08/15)


【49:1~2】
『ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。』
 ヤコブは死ぬ前に息子たちを集め、『終わりの日』すなわち神がユダヤ人との契約を終わらせる時期に、イスラエルの諸部族がどのようになっているか預言しました。ユダヤが神の契約の民として完全に終わったのは、紀元70年9月です。それは彼らが契約の主であられるイエス・キリストを殺して退けたからです。ですから神は彼らからユダヤ人の根源とでも言うべき神殿を容赦なく取り上げられました。この神殿にこそ神が住んでおられたのですから、契約のうちにあった古代ユダヤ人にとって、神殿は正にユダヤ人の本質そのものでした。しかし、もはやキリストを拒絶したユダヤ人は契約から追い出されたのですから、ユダヤ人が聖なる神殿を持つ資格はないのです。―このゆえにユダヤ人の切なる願いである第三神殿の建設がこれからパレスチナに実現されることは全くありません。―聖書で『終わりの日』と言われているのは、長期的な意味においては、だいたいキリストがお生まれになってから紀元70年になるまでの期間です。ユダヤが神との契約関係から完全に排除されるという精密な意味で言えば、『終わりの日』は神殿が完全に崩壊した紀元70年9月2日です。ここでヤコブが言っているのは精密な意味ではなく長期的な意味のほうです。つまり、ヤコブは紀元1世紀の時期におけるユダヤ諸部族について預言したのでした。ユダヤと神の契約関係が終わるのは、ヤコブから1500年以上も未来です。ですからヤコブは遥か未来の預言をしたことになります。このような預言は神の霊によりました。人間が自分自身からこんなにも遠い未来について預言することなど出来ません。H・G・ウェルズなどは100年後のことさえしっかり預言できていません(「世界はこうなる」)。神抜きに預言するとこの程度のものなのです。この49章に書かれている預言は、その内容といい言葉といい非常に天上的であり霊的です。このような文章が書かれているのは聖書以外では見られません。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語り」や「シビュラの予言書」やアレイスター・クロウリーの狂った小品でも、このような文章はありません。これは神がヤコブを通してお語りになったからです。一体、人間に過ぎない者がどうして自分自身からこのような言葉を語れるでしょうか。この預言の解釈方法について言えば、普通に考えるのが正解です。私たちはこの預言を簡単に解釈しようとすれば良いでしょう。物理学者のように難しい考え方をする必要性はないと思います。

 ヤコブは2節目で古代ユダヤ人特有の語り方をしています。そこでヤコブが『聞け』と違った言い方で2回言ったのは、つまり強調しているのです。ヤコブは「集中してよく聞きなさい!」とでも言っているかのようです。今のユダヤ人はもはやこのような語法を用いていません。

【49:3~4】
『ルベンよ。あなたはわが長子。わが力。わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。―彼は私の寝床に上った。―』
 まずは長子ルベンから始められます。

 ルベンはヤコブの力が最初に現れた分身体でした。このルベンにおいて初めてヤコブの力が複製されました。ですからルベンは『わが力。わが力の初めの実。』と言われています。彼が『すぐれた威厳』を持っていると言われているのは、長子が全ての兄弟に優越しているからです。また彼が『すぐれた力』を持っていると言われているのは、長子としての力動感や能力の高さのことでしょう。ルベンにこのような恵みが与えられていたのは、長子が兄弟たちの言わば王者またはリーダーだからです。

 このようにルベンは長子としての恵みを受けていましたが、彼は『水のように奔放』な人でした。すなわち、これは『父の床に上』ったビルハとの不品行のことを言っています。ルベンが父の側室ビルハを犯したことについては既に見た通りです(創世記35:22)。長子という兄弟のうち最も制限されない立場の者は、自分の上に兄弟がいないわけですから、どうしても自然と奔放になり易い面があります。そのような奔放さがルベンを不品行の罪へと導いたのです。この近親相姦は致命的な罪でした。律法はこの罪を死に定めています。ルベンはこの罪のため、子々孫々に至るまで呪われました。すなわち、『もはや、あなたは他のしのぐことがない』という呪いです。つまり、ルベン族はこれからずっとイスラエルの他の部族に優越することがないという呪いです。実際、キリストの時代になるまでルベン族はごく普通の部族でしかありませんでした。もしルベンが呪わるべき不品行の罪を犯していなければ、ルベン族はもっと力のある部族になっていたでしょう。

 このルベンが示す通り、制限されず自由であるということは奔放さをもたらし、その奔放さは罪や愚かさをもたらします。これを今の世界で言えば、成功して有頂天になった企業です。自分の成功に酔い痴れた企業は、自分が全能であるかのように感じて自由に何かを行なおうとしますから、経営を多角化してしまいます。しかし多くの場合、慣れていないことを急にやり出すものですから、失敗して恥を見ることになるのです。これは正にルベンであるかのようです。私たちは、自由は奔放さと、奔放さは罪と友人関係にあることを知るべきでしょう。

【49:5~7】
『シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。』
 ヤコブは、シメオンとレビが行なったあの忌まわしい大量虐殺をずっと覚えていました。その虐殺はヤコブにとって耐え難い愚行でした。もしヤコブの魂がシメオンとレビに同調するならば、ヤコブも殺人者の味方になってしまいます。何故なら、キリストも言われたように、敵対しなければ味方だからです(マルコ9:40)。ですからヤコブの魂は、シメオンとレビを拒んでいました。それゆえヤコブはこう言っています。『わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。』ここでヤコブはこの2人の虐殺行為を呪っています。虐殺が起きた当時において、ヤコブは呪いについて何も言わないでおきました(創世記34:30~31)。しかし、当時も彼らの行為を呪いたい気持ちで一杯だったはずだと思われます。この呪いのため、シメオンとレビの部族は、他の部族の中に散らされることになりました。すなわち、シメオン族とレビ族は、一人前の部族として自前の土地を獲得することができませんでした。レビの子孫であるレビ部族について言えば、彼らには相続地の割り当てがありませんでした。ですからカナンを占領した際、レビ族は諸部族に割り当てられた領地の一部に住まわせてもらうよう定められました。シメオンの子孫であるシメオン部族について言えば、彼らはユダに与えられた相続地の一部がその割り当てでした(ヨシュア19:1~9)。ですからシメオン族の土地はユダの土地に内包されていました。しかも、シメオン族は後にユダ族に併合されてしまいます。このようにして殺人者のシメオンとレビに対する呪いは、子孫において全うされたのです。この2人が殺人を犯していなければ、その子孫たちはしっかりと自前の土地を持てていたことでしょう。

 もし殺人を犯すならば呪われてしまいます。呪われるならば散らされることにもなります。これはユダヤ人がその良い例です。古代ユダヤ人は神から送られた預言者たちを幾人も殺しましたから、アッシリヤに滅ぼされ、生き残ったユダヤ人たちは各地へと散らされました。その散らされたユダヤ人たちがどこに行ったかは今でも色々と言われています。また紀元1世紀のユダヤ人は、それまでに犯した預言者殺しの罪にキリスト殺しという罪を付け加えましたので、ローマ人により滅ぼされて散らされてしまいました。それから今に至るまで2000年の間、ユダヤ人たちは世界中に離散し続けています。もし散らされたくなければ殺すべきではありません。何故なら、散らされるのは悲惨だからです。散らされても構わないと感じても殺すべきではありません。何故なら、殺人は悪いことだからです。『殺してはならない。』と義であり聖である神が禁じておられる通りです。

【49:8~12】
『ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。』
 次はユダ族についてです。これはユダ族というよりはキリストについての預言です。ユダヤ人の救いはこのキリストにかかっていました。またキリストはユダヤ人だけでなく全人類の救い主であられます。それゆえ、ユダの預言は、ヤコブがここでしている諸部族に対する預言の中で最も重要な意味を持っています。

 まずユダ族から出られるキリストは、兄弟たちに称えられると言われています。確かに主は、ユダヤの諸部族から信じられ称えられました。というのも比率的に言えばキリストを信じたユダヤ人は多くなかったかもしれませんが、絶対数として見ればかなりのユダヤ人がキリストを信じたからです。使徒行伝でも多くのユダヤ人が救われたと書かれています。このキリストの『手は敵のうなじの上にあ』ると言われています。『敵』とは全人類の敵であるあの最初の蛇、すなわちサタンのことです。つまり、これはキリストがサタンを滅ぼされるということです(ヘブル2:14)。何故なら、どうしてキリストの手は敵のうなじの上に置かれているのでしょうか。それはサタンを滅ぼすためでなくて何でしょうか。ヤコブはキリストを『獅子の子』と言っています。これはキリストが獅子のように力強いということです。実際、キリストは獅子のように揺るがされることがない御方でした。このキリストという獅子が『うずくまり、身を伏せる』と言われているのは、2通りの解釈が可能です。一つ目はキリストが死の中に3日間伏されるという解釈であり、二つ目はキリストが30歳になられるまで身を伏せて隠れておられたという解釈です。アウグスティヌスやルターは死のことだと解釈しています。どちらの解釈をするにせよ、『だれがこれを起こすことができようか。』という言葉と調和します。誰も死の中にうずくまっておられるキリストを死から引き起こすことなどできませんし、公の活動をする以前のキリストを強制的に公の活動へと引き出せるような人もいないからです。この「獅子」は聖書においてサタンの象徴でもあります(Ⅰペテロ5:8)。また、それは暴君の象徴でもあります。しかし、ここではそのような意味で『獅子』と言われているのではありません。続いてヤコブは『王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。』と言っています。これは昔から多くの人が深く考察してきた箇所です。これは非常に重要な箇所です。一般的な理解によれば、この箇所で言われているのは、キリストが現われるまでユダ族にユダヤ人の王権が保持されるということです。しかし、このように解釈する人たちはこの解釈に問題があるのを認めており、そのため悩まされています。何故なら、歴史を見てもキリストが現われるまでに王権がユダに留まっていないからです。バビロンに捕囚されてからのユダヤには、そもそも王さえいませんでした。ですから、解釈者たちはこの問題を解決できません。王さえユダヤにいない時期にどうしてユダヤに王権があったと言えるでしょうか。ということは、つまりこの一般的な解釈は採用すべき解釈ではないということになるのでしょう。この箇所は別の解釈をすべきなのです。私はこの箇所についてこう考えたいと思います。この箇所では、ユダ族であられるキリストに永遠の王権が付与されると預言されているのです。このように解釈すれば悩まされずに済みますし、解釈上の問題もありません。何故なら、キリストとは永遠の王であって、その王権は決して失われないからです(聖徒のうち誰がこれを疑うのでしょうか)。つまり、ここで『ユダ』『その足の間』と言われているのはキリストのことなのです。次にヤコブは『ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。』と預言しています。『シロ』とはユダヤの地名であって、エルサレムの30km北にありますが、そこには契約の箱がかつて置かれていました。契約の箱とは、つまり契約を示しています。ですから『シロが来て』と言われているのは、キリストが新しい契約を実現されるという意味です。何故なら、契約の箱のあったシロがキリストにおいて来るからです。そして、『国々の民は彼に従う』ことになります。つまり、諸国の民がキリストにおける神との契約に入って、キリストに従うようになるのです。要するにこれは新約時代のことを言っています。11節目では、キリストがロバたちを『ぶどうの木』しかも『良いぶどうの木』に繋ぐと言われていますが、これはキリストにある神の豊かな恵みを象徴しています。何故なら、普通の場合、ロバは何でもないような木に繋ぐものだからです。ところがキリストは葡萄の木にロバを繋がれます。これはキリストが葡萄の木を沢山所有しておられるということです。しかし、ここではキリストが実際に葡萄の木を所有しておられると言っているのではなく、あくまでもキリストが大いに恵まれているということを言っています。何故なら、ロバを葡萄の木に繋げるほどに葡萄の木を持っている人は神から恵まれた人だからです。キリストが衣服を葡萄酒で洗うと言われているのも、やはりキリストが葡萄酒を洗濯の水として使えるほどに葡萄酒を持っておられるということです。つまり、キリストには非常に大きな恵みが神から与えられているということです。ここで『ぶどうの血』と言われているのは、その葡萄の液汁が血のように鮮やかで綺麗だという意味です。つまり、キリストの葡萄酒は濁った低級品ではないということが示されています。キリストは素晴らしい良質な葡萄酒(すなわち恵み)に満ちておられるのです。12節目でキリストの『目はぶどう酒によって曇』っていると言われているのも、キリストは目が葡萄酒で充血してしまうほどに飲むための葡萄酒を所有しておられるという意味です。もちろん、これも実際的なことを言っているのではなく、あくまでも恵まれていることを表現しているに過ぎません。キリストの『歯は乳によって白い』と言われているのも、同様の意味です。つまりキリストは、いつも歯が乳で白くなるほどに乳を出す家畜を沢山持っておられるということです。これは乳を出す家畜を多く持っている財産家のようにキリストが恵まれているということです。

【49:13】
『ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。』
 次はゼブルン族についてです。この部族は場所しか言われていません。ゼブルン族がカナン侵攻の際に相続した土地については、ヨシュア記19:10~16の箇所で書かれています。彼らがカナン侵攻の時に得た地は、海と全く接しておらず、シドンにも接していませんでした。しかし、ここではゼブルンが海岸沿いに住んでおり、そこはシドンに接していると言われています。ですから、ここではカナン侵攻の際に得た土地について言われているのではなく、キリストの時代のことが言われているとせねばなりません。つまり、紀元1世紀においてゼブルン族は海に近い場所に住んでいたということです。聖書の他の箇所で、このことを裏付けられる箇所はありません。しかし、私たちにはヤコブのこの預言だけあれば根拠として十分です。ところで、このゼブルン族は、その存在感といい住まいといい、あまりパッとしない部族です。しかしながら、ゼブルン族もイスラエルの立派な部族の一つなのですから、蔑ろにされるべきではありません。神がゼブルンをイスラエルの部族として選ばれたのです。またゼブルンは天国の門にその名が刻まれているほどの部族なのです(黙示録21:12~13)。

【49:14~15】
『イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。』
 続いてイッサカル族について預言がされます。イッサカル族が『たくましいろば』と言われているのは、この部族の屈強さを示しています。つまりイッサカル族は女々しくありませんでした。士師記5:15の箇所では、イッサカル族が『歩兵とともに谷の中を突進した』と書かれています。これは『たくましい』ことです。この部族が『二つの鞍袋の間に伏す』と言われているのは何のことでしょうか。これは彼らがあまり目立たない部族だったということなのでしょう。何故なら、二つの鞍袋の間に隠れている物は見つけにくいからです。士師記5:16の箇所でも、イッサカル族が『二つの鞍袋の間にすわって』いたと書かれています。これは、もしかしたらマナセ族の巨大な領地にイッサカルの領地が挟まれていたことを言っている可能性もあります。地図を見ると、確かにイッサカル族の地は鞍袋の間に潜んでいるかのようにマナセ族の地に挟まれています。イッサカル族の相続地は豊穣で快適でした。住んでいる土地が良いと精神は心地よさを感じます。ですからイッサカル族は『休息がいかにも好ましく』感じられました。ところが彼らは奴隷として苦難を味わうことになりました。『たくましいろば』のようなイッサカル族が惨めな奴隷にさせられるとは一体どういうわけでしょうか。彼らが奴隷になった事情についてはよく分かりません。

【49:16~18】
『ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。主よ。私はあなたの救いを待ち望む。』
 ダン族が、他の部族のように民を裁くと言われているのは、どういった意味なのでしょうか。これは、イスラエルの民を裁いたダン族のサムソンのことだと思う人がいるかもしれません(士師記15:20、16:31)。しかし、これはサムソンについてではありません。何故なら、ここではダン人がダン族を裁くことについて言われているからです。すなわち、ここではダン人がイスラエルの全部族を裁くと言われているわけではありません。ここでヤコブが言っているのは、つまりダン族は自己統治能力を持った一人前の部族だということです。17節目では、ダン族が蛇として馬に乗る者を落とすと言われています。これは、蛇が馬の踵を噛んで乗る者を落とすかのように、ダン族がイスラエルという馬乗りに不幸を齎すという意味でしょう。つまり、ダン族がイスラエルから断ち切られて大きな悲しみをユダヤ人に齎すということです。ダンはイスラエルから除外されましたから、黙示録7:5~8の箇所でもその名が書かれていません。エイレナイオスは、この箇所に基づき、黙示録に書かれている666はダン族から現われるであろうと言っています。この考えは全く間違っています。何故なら、666はすなわちネロだからです。666の獣とダン族を結びつけるのは強引なこじつけです。この箇所と666を関係づけることに正当な根拠はありません。ではどうしてエイレナイオスはこの箇所から666はダン族であると言ったのでしょうか。それは単に何となくそう感じられたからに他なりません。

 ヤコブはここで主の救いを待ち望むと言っています。ダン族が悲惨を齎すと言った後で主の救いを求めているのは一体どういうわけでしょうか。これは、ダン族が悲惨をイスラエルに齎したとしても絶望せず主の救いから目を離してはならないと言いたいのでしょう。その救いとはもちろんキリストによる救いのことです。

【49:19】
『ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。』
 ガド族が相続した地についてはヨシュア13:24~28の箇所で書かれています。この部族を『襲う者』とは、ガドの相続地のすぐ東に住んでいたアモン人を指しています。アモン人は度々ガドの領地に侵入していました。しかし、ガド族はその都度、アモン人を撃退しました。ですから、こう言われています。『彼はかえって彼らのかかとを襲う。』そえゆえ、この箇所を分かりやすく言い換えると次のようになります。「ガドについては、アモン人がガド族を襲うが、ガド族はかえってアモン人を追い払う。」ヤコブは御霊によりガド族の未来を予め知っていました。ですから、このようにガド族がどうなるか預言することができたのです。

【49:20】
『アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。』
 アシェル族の住んでいる地では『食物が豊かになり』ました。これは神からの大きな祝福です。この部族は食物だけでなく油も多く持っていました。モーセはこの部族についてこう言っています。『アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。』(申命記33章24節)アシェル族は食物に恵まれていたので、『王のごちそう』を献上するようになります。この『王』とはもちろん王制時代におけるユダヤ人の王を指します。

【49:21】
『ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。』
 次はナフタリですが、この部族が『放たれた雌鹿』と言われているのは、その俊敏さや快活さを示しているのでしょう。この部族が『美しい子鹿を産む』と言われているのは、ナフタリ部族はその子孫においてずっと恵まれているという意味なのだと思われます。溌剌とした民族や誰かを思い浮かべて下さい。ナフタリ族はそのような人たちだったのです。彼らの相続地は、ユダヤの最も北側にありました。ヨシュア記19:32~39の箇所でナフタリ族の相続地について書かれています。

【49:22~26】
『ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』
 12部族への預言ではこのヨセフが最も長く、それはユダの預言よりも長い預言です。これはヨセフに対する愛の現われとして見てよいでしょう。つまり、愛しているからこそ量も長くなってしまうわけです。まずヨセフが『実を結ぶ若枝』と言われているのは、ヨセフ族の繁栄と活発さを示しています。ヨセフは富んだ活動力のある人でしたが、その子孫もそのようだったのです。『その枝は垣を越える』と言われているのは、ヨセフ族に対する恵みの大きさを言い表しています。ヨセフが弓を射る者から悩まされたと言われているのは、どういった意味でしょうか。『弓を射る者』とはヨセフを苦しめた者のことです。10人の兄たちやヨセフを買い取ったイシュマエル人の商人、ポティファルとその妻、ヨセフを顧みなかった献酌官長がそうです。彼らは、弓を射る者が戦場で苦しみを齎すかのように、ヨセフに苦しみを齎しました。しかし、それにもかかわらずヨセフの『弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい』ままでした。つまり、ヨセフは戦場で弓を射られるかのように苦しめられましたが、その精神は弱まりませんでした。確かにヨセフは酷い目に遭わされていたのに気力を保持し続けていました。それは牢獄の中にいた時の彼の話しぶりを見れば分かります。その時、ヨセフに絶望や鬱といった精神状態は起こっていませんでした。ヤコブは、このようにヨセフの気力が保たれたのを、ヨセフ自身の能力ではなく神の恵みに帰しています(49:24~25)。ヤコブはあたかも「神がヨセフを苦難のうちにあって支えておられたのだ。」とでも言っているかのようです。その際、ヤコブは4通りの言い方で神を表現しています。これは神を強調させるためです。25節目の後半部分では、この神の祝福が3つ挙げられています。『上よりの天の祝福』とは雨と雨による豊穣の祝福であり、『下に横たわる大いなる水の祝福』とは飲み水における祝福であり、『乳房と胎の祝福』とは出産における祝福です。26節目では、ヨセフに対するヤコブの祝福がアブラハムやイサクの祝福よりも優れていると言われています。何故なら、ヤコブは愛するヨセフに大きな祝福を与えたからです。その祝福が『永遠の丘のきわみにまで及ぶ』と言われているのは、ヨセフに対する祝福の永続性のことです。26節目の後半部分で『ヨセフのかしら』『その兄弟たちから選び出された者』と言われているのはキリストのことです。何故なら、キリストこそヨセフの頭であって、キリストは12人の兄弟であるイスラエル12部族の中から選ばれていた御方だからです。ヤコブはこれまでに述べたヨセフへの祝福が、ヨセフというよりは、むしろキリストにあることを願っています。ヤコブがこのようにヨセフの祝福をキリストに願ったのは、ヤコブがキリストの現われとその幸いを大いに求めていたからです。

【49:27】
『ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。』
 最後の預言は末っ子ベニヤミンです。ベニヤミン族については、イスラエル人がベニヤミン族と戦った時のことが言われています(士師記)。その時のベニヤミン族は獰猛な『かみ裂く狼』のようでした。そえゆえ、神も彼らを打つようイスラエル人に命じられました。ここでベニヤミン族が『朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。』と言われているのは、彼らの野蛮さを示しています。ベニヤミン族がこのようになったのは不幸でした。その時、イスラエルには大きな悲しみが起こったからです。しかし、このベニヤミン族からはパウロが後に出ることになりました(ピリピ3:5)。

【49:28】
『これらすべてはイスラエルの部族で、12であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。』
 ヤコブが預言したのは自分の生んだ12人の子についてだけでした。マナセとエフライムはイスラエルの正式な部族とされましたが、ヤコブは彼らについて何も言っていません。それは、マナセとエフライムは後からイスラエルの部族に付け加えられた部族だからです。ヤコブはここで生来的なイスラエルの部族についてだけ語ったのです。

 これまでにヤコブが語った預言は『祝福』であったと書かれています。しかし、中には祝福とは言えない内容も含まれているのではないか、と思われる方がいるかもしれません。例えば、49:5~7の箇所では、シメオンとレビが祝福されるどころか呪われてさえいます。49:27の箇所でも、ベニヤミンとその部族が祝福されているようには感じにくいと思われるかもしれません。しかしながら、これらは彼らに対する『祝福』でした。このような祝福もあるのです。私たちが何を思うにせよ、確かに聖書はこれらを『祝福』と述べているのですから、それは祝福だったとせねばなりません。これは全体としては祝福であったけれども、その全体における詳細部分では呪いや祝福でない言及も含まれていた、と考えるのが正しいのかもしれません。

【49:29~32】
『彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」』
 ヤコブは死ぬ直前に、自分が埋葬される場所を指定しました。ヤコブはカナンの地に埋葬されることを希望しました。そこは彼の祖父アブラハムおよび父イサクが葬られた墓です。ヤコブは神からカナンの地を受けていましたから、カナンに埋葬されるべきでした。神御自身も、ヤコブを必ずカナンに連れ戻すと約束しておられました(創世記46:4)。このようにヤコブが埋葬の指示をしたのは、これで二度目です(創世記47:29~31)。たとえ神の約束がなかったとしても、祖父や父と一緒の墓に葬られたいと願うのは自然な感情だと思われます。ですから、ヤコブが祖父および父と一緒の墓を願ったのは、私たちにも分からないことではありません。先祖たちとは別の墓が良いと思われる人であれば話は別ですが。

 この箇所でヤコブはレアがカナンに葬られたと言っています。レアは既にカナンで死んでいたのです。しかし、神はレアの死と埋葬の記述を省略しておられます。ですから、ここまでレアが他界したことについて何も書かれていなかったわけです。このためレアが何歳ぐらいで死んだのか、またどのようにして死んだのか、私たちには分かりません。レアの妹ラケルはヤコブから大いに愛されていたにもかかわらず偉大なアブラハムおよびイサクと一緒の墓に埋葬されませんでした(創世記48:7)。しかし、レアの墓はアブラハムおよびイサクと一緒でした。つまり、埋葬に関してはレアのほうが恵まれていたのです。何故なら、アブラハムおよびイサクと一緒の墓に入れられるというのは非常に名誉なことだからです。

【49:33】
『ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。』
 ヤコブは言うべき事柄を全て言い終えると、遂に天へと召されました。ヤコブが全て言うべき事柄を言ってから他界したのは、神の大きな恵みでした。言うべき事柄を言っている途中で亡くなったり、そもそも話す機会さえ与えられずに亡くなる人も少なくないのですから。彼が『足を床の中に入れ』てから死んだのは、幸いな亡くなり方でした。このようにしてヤコブが死んだのは、彼の律義さがよく現われています。最後の最後まで文化的に振る舞えるというのは、何としっかりしたことでしょうか。これも神の恵みです。ヤコブが『自分の民に加えられた。』と言われているのは、既に述べたように、天国の一員に加えられたという意味です。聖書はヤコブが天国に行ったと教えています。このヤコブは『息絶えて』死に、最後の最後までしっかり話すことができたのですから、やはり死因は癌だった可能性が高いと私には思えます。幸いな癌患者の場合、衰弱するだけでほとんど癌による痛みを味わわず、電解質の低下がピークに達した時点で突如として痛まず絶命します。眠りに落ちる時と一緒で本人も死ぬことに全く気付かず死にます。あるイギリス人も、癌で衰弱していたのですが、いつものようにゲームをやろうとして椅子に座ってから突如として死にました。ヤコブも恐らくこのようだったのではないでしょうか。創世記48:1の箇所ではヤコブが『病気』と言われていますから、老衰による自然死だったということはないでしょう。このような死に方から、ヤコブは最後まで神の恵みを受けていたことが分かります。

【50:1】
『ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。』
 ヨセフは他界したヤコブのために嘆いて泣き崩れました。この時のヨセフは大いに悲しかったでしょう。何せ、自分を生んで育ててくれた親、やっと再会できた親、他の兄弟に優って自分を愛してくれていた親が亡くなったのですから。このようにヨセフがヤコブの死を悲しんだのはおかしいことではありません。キリストもラザロが死んだ時に涙を流されました(ヨハネ11:35)。しかしながら、ヨセフはこの時、あまりにも悲しみ過ぎたように思えます。すなわち、異邦人でもあるかのように悲しんだと思えます(Ⅰテサロニケ4:13)。私がこう言うのは、まだこの時期には復活についてまざまざとした意識が持たれていなかったはずだからです。今の時代は既に復活の真理が明白に知られていますから、聖徒たちの死をそれほど悲しまなくても済みます。それどころか、むしろ喜び感謝することさえ可能です。何故なら、その死んだ聖徒は神のおられる天国に入れてもらえたからです。神御自身も聖徒たちの死を尊く見ておられます(詩篇116:15)。既に述べた通り、以前神がヤコブに『ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。』(創世記46章4節)と言われた約束は、この時に実現しました。

【50:2~3】
『ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。そのために40日を要した。ミイラにするにはこれだけの日数が必要だった。エジプトは彼のために70日間、泣き悲しんだ。』
 ヨセフはヤコブをミイラにしましたが、ミイラ化には多くの費用が必要でした。そのためエジプト人の全てが遺体をミイラにできるわけではありませんでした。しかしヨセフは金持ちであり、専属の医者たちもいましたから、ヤコブをミイラにすることができました。ここでミイラ化の作業に『40日を要した』と書かれているのは、重要な歴史的資料です。創世記10章の記述と同様、私たちはこの箇所の記述を信頼すべきです。なお、創世記48:1の箇所でヤコブが病気であることを告げたのは、ヤコブをミイラ化したこの医者たちだったのかもしれません。このようにヨセフがヤコブをミイラ化したのは、エジプトの風習です。ヨセフがこうしたのはエジプトの空気に染まっていたからでしょう。これはユダヤ人の風習ではありません。ですから、ヤコブも自分をミイラにしてくれとは頼みませんでした。ヤコブのために喪が『70日間』も設定されたというのも、やはりエジプトの風習です。古代エジプト人は高貴な人のために多くの日数を喪に充てる人たちでした。ユダヤ人たちもモーセが死んだ時には『30日間』(申命記34章8節)喪に服しましたが、ヤコブの場合はそれ以上の日数です。古代人たちはどうやら多くの民族が喪に多くの日数を充てていたようであり、中国人などはエジプト人やユダヤ人以上でした。古代中国の『礼記』という文書を見ると、古代中国の人々は目上の人が亡くなった際、数年も喪に服していたことが分かります。確かに目上の人を尊ぶべきではありますが、これはいくら何でもやり過ぎでしょう。

 現代に生きる私たちは、この箇所に書かれていることを真似る必要はありません。すなわち、私たちは故人をミイラにしなくてもよく、また70日も喪に服さなくて構いません。何故なら、これらはどちらも古代エジプトの風習であり、その風習に影響されていたヨセフが個人的にしたことだからです。私たちは故人を普通の仕方で葬り、数日間喪に服せばそれでよいでしょう。数日間しか喪に服さないというのは、古代人からすれば愛に欠けていると感じられるでしょうが。

【50:4~6】
『その喪の期間が明けたとき、ヨセフはパロの家の者に告げて言った。「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない。』と申しました。どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」』
 ヨセフはヤコブをカナンに葬らせてくれとパロの家の者を通してパロにお願いしました。ヨセフが直接パロにお願いしなかったのは、ヤコブをカナンに葬ることについてパロの反応を恐れたか、単にパロにはパロの家の者を通じて何かを伝えるしきたりになっていたからです。どちらが本当だったかは分かりません。パロはヨセフの願いを即座に快諾します。それはパロがヨセフを神の霊の宿っている聖者だと認識していたからです(創世記41:38)。宗教的だったこのパロにとって、そのようなヨセフの願いを退けるわけにはいきませんでした。

【50:7~11】
『そこで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともにパロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、ヨセフの全家族とその兄弟たちおよび父の家族たちも上って行った。ただ、彼らの子どもと羊と牛はゴシェンの地に残した。また戦車と騎兵も、彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行ない、ヨセフは父のため7日間、葬儀を行なった。その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。』
 パロの許可が出たので、ヨセフは家族だけでなくエジプトの有力者・高官たちをも伴ってカナンへ向かいました。この時にヨセフが子どもをエジプトに残しておいたのは、何かの理由があったからでしょう。その理由はこの箇所に何も書かれていませんから私たちには分かりません。地位の高い人たちも一緒に行ったのは、エジプトでヤコブが偉大な人物だと見做されていたからです。神がヤコブをエジプトで『大いなる国民にする』(創世記46章3節)と言っておられた約束は、実際に実現していたのです。もしヤコブが偉大だと思われていなければ、地位の高い人たちがわざわざカナンまで葬式に行ったりはしなかったでしょう。この時にパロはカナンへ行きませんでしたが、それは政治的な理由からです。普通に考えてパロはエジプトで統治しているべきだからです。『戦車と騎兵』も一緒に行ったのは、ヤコブの偉大さを示す装飾です。ちょうど天皇や大統領が車で移動する際、前後に長い車の列が配置されているのと一緒です。偉大な人間にはこのような装飾が大きな意味を持ちます。何故なら、そのような装飾は偉大さという目に見えない要素を目に見える形で表現しているからです。ヤコブが葬儀に『7日間』を費やしたのは、「7」ですから葬儀に完全性の意味を付与させています。「10日間」であっても意味を付与する効果は同様でした。11節目ではカナン人がヤコブの葬儀を見て、『これはエジプトの荘厳な葬儀だ。』と言っています。確かにこれはエジプト式の葬儀であり、カナン式ではありませんでした。このような葬儀を行なったヨセフは実にエジプト的だったと言わねばなりません。

【50:12~14】
『こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行なった。その子らは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。ヨセフは父を葬って後、その兄弟たちおよび、父を葬るために彼といっしょに上って行ったすべての者とともに、エジプトに帰った。』
 ヨセフは為すべきことをし終えると、一緒に行った人々を全て引き連れてエジプトへ帰ります。カナンからエジプトまでは、だいたい300~400kmほどあります。こんなにも長い距離を大勢の者が往復したのです。これは壮大な行列だったに違いありません。この旅では、人々が必要とする食糧や水、葬儀のための道具、家畜に与える穀物など多くの物が運ばれたはずです。ですから費用も多くかかったに違いありません。

【50:15~18】
『ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」』
 兄弟たちは、父ヤコブの死後ヨセフがどのように振る舞うか心配しました。つまり、兄弟たちはヨセフの豹変を恐れました。彼らには、ヤコブがいたからこそヨセフはこれまで復讐を差し控えていたように思われました。何故なら、もしヨセフが兄弟たちに復讐すれば、それを知ったヤコブがヨセフを咎めるのは間違いないからです。ヨセフがヤコブに咎められることをするはずはありません。ヨセフは父を尊んでいたのですから。ところが今やそのヤコブがいなくなりました。ですから兄弟たちはヨセフの態度が変わらないか気になったのです。これは、先生が遠くに行ったので、遠慮なく虐めることができるようになった不良少年のようです。この不良少年にはもはや先生から虐めの現場を見られる恐れがなくなりましたから、安心して虐めることが可能となったのです。この時の兄弟たちにとってヨセフはこの不良少年のようでした。このように兄弟たちは危機感を持ったので、ヤコブの言葉を持ち出してヨセフが赦してくれるように願います。彼らがこうしたのは、ヤコブが赦すように言ったとなればヨセフも赦さざるを得ないからです。そしてヨセフが赦すならば、もはや復讐されることもなくなります。この箇所では『ことづけして』と書かれていますから、確かにヤコブは死ぬ前にヨセフが兄弟たちを赦すよう命じたのです。つまり、ここに書かれているヤコブの言葉は、兄弟たちが復讐を免れようとして勝手に作り出した嘘ではありませんでした。この時の兄弟たちはヨセフを本当に恐れたはずです。何せヨセフは今やパロも同然の立場です。それに比べて兄弟たちはただの一般人に過ぎません。もはやかつてのようにヨセフに力を振るうことはできません。これはライオンの前にいる羊のようです。

 このように赦しを請うと兄弟たちはヨセフの前でひれ伏しました。こうしてまたもやヨセフの見た夢が実現しました。あの時の兄弟たちはヨセフの夢を聞いても、まさかそれが実現するなどとは思わなかったはずです。実際、兄弟たちはヨセフの見た夢を聞いて、『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。』(創世記37章8節)とヨセフに言いました。しかし今やその夢の通りになっています。ですから兄弟たちはかつてヨセフの夢を蔑ろにしたことについて、大いに反省し、恥じ入ったのではないかと推測されます。