【創世記50:19~26】(2021/08/15)


【50:19~21】
『ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。』
 ヨセフは兄弟たちの悪を非難せず赦しました。というよりは兄弟たちの悪を問題として取り扱いませんでした。それは、ヨセフが、兄弟たちの悪は神が大きな善を実現させるため許可されたことだったのを知っていたからです。神が御自身の良い計画のために兄弟たちの悪を許可されたのです。ですからヨセフはその悪を問題にしませんでした。兄弟たちが悪をしたからこそ、大きな善が生じました。もしヨセフが兄弟たちの悪により売られていなければ、7年の飢饉のために準備をする人がいませんでしたから、多くの人が餓死していたでしょう。それゆえヨセフが兄弟たちの悪を非難することはできませんでした。このように大きな善は往々にして悪から生まれます。少量のウィルスを注射して抗体を作るのがそうです。苦くて吐きそうな薬を飲んで治癒するのもそうです。日本に原爆が落とされたのもそうでした。もし原爆が落とされて終戦となっていなければ、日本人は総決起していたでしょうから、連合軍との恐るべき殺戮合戦が繰り広げられ、広島と長崎における死者の総数より遥かに多い死者が出ていたでしょう。筋肉を傷めつけて肥大化させる筋力トレーニングもそうです。ここで大きな問題となるのは、大きな善のために悪を首肯してもよいかということです。確かに大きな善は往々にして悪の存在なしには実現しません。悲惨な悪が起こるからこそ善も大きく現われ出ます。映画やドラマなんかでも、悲しい出来事が描かれるからこそ感動もそれだけ大きくなります。ですが、だからといって私たちは悪を首肯していいものでしょうか。有名なマンデヴィルは善のためには善を生じさせる悪も認められねばならないと言ったので(『蜂の寓話』)、多くの人から激しく非難されました。彼を非難した人たちは正しかったと私は思います。何故なら、確かに大きな善はしばしば悪によって起こりますが、悪それ自体は否定されるべき事象でしかないからです。神は聖書でこう言っておられるのです。『悪はどんな悪でも避けなさい。』(Ⅰテサロニケ5章22節)『主を愛する者たちよ。悪を憎め。』(詩篇97篇10節)『正義を、ただ正義を追い求めなければならない。』(申命記16章20節)それですから、原爆投下を正当化するのは誤っています。アメリカ人がよく言うように、結果的に言えば原爆投下が終戦と平和に繋がったのですから、原爆投下は正しかったことになります。しかし、原爆投下それ自体を正しいとするのは決して許されません。何故なら、多くの人が住んでいる地域に核兵器を投下するということほど悪いことが他にあるでしょうか。もし原爆投下それ自体を首肯する人がいれば悪魔的だと言わざるを得ません。戦争の終結という善が原爆という悪によって齎されたのは確かです。ですから、戦争が終わったことについては良かったとし、原爆投下については沈黙するというのが正しいと思われます。ヨセフもここでそのようにしているからです。これは非常に哲学的な問題です。ですから、もし堂々と論じたいと思う人がいれば、哲学的な訓練をしっかり積んでからにするのが無難でしょう。

 ヨセフは兄弟たちの悪を問題にしなかったばかりか、兄弟たちに良い言葉を語るということさえしました。ヨセフは自分に悪を行なった兄弟たちとその子どもたちを養うと言っています。何でしょうか。この寛大さは。高潔な人格を持っていなければ決してこのようなことはできません。このヨセフが私たちの見本として示されています。ヨセフはここで私たちにこう語りかけています。「聖徒たる者は私がしたようにすべきである。」しかし、ヨセフのように自分はできるのだろうかと思われる方もいるかもしれません。もし私たちが神に祈り求めるならば、私たちもヨセフのようになれるでしょう。

 神はヨセフにそうされたのと同様、全ての聖徒たちに最後は良くして下さいます。聖徒たちにも多くの悪が起こります。しかし、神はその悪を最終的に善へと結びつけて下さいます。パウロはこう言っています。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8章28節)ですから聖徒たちは神において希望を持つことができます。悪が起こったとしても神は最終的に善を用意しておられるからです。これは感謝なことです。

【50:22~23】
『ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは110歳まで生きた。ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。』
 この後、ヨセフとその家族はずっとエジプトに住みました。彼らのうちでカナンの地にこそ住むべきだと感じていた人が多かれ少なかれいたかもしれません。何故なら、ユダヤ人に約束された地はカナンだったからです。しかし、神はユダヤ人がカナンに戻るのを許されませんでした。何故なら、これからユダヤ人たちはエジプトで400年虐待されることが定められていたからです(創世記15:13)。それは、神が長らく苦しめられたユダヤ人たちを救われることにより、御自身の大いなる栄光を現わされるためでした。出エジプト記で書かれている通りです。そして、ヨセフには長寿と子孫を見る幸いが与えられました。ヨセフはエフライムの子孫を三代目まで、マナセの子孫を二代目まで見ました。こうして最後まで神はヨセフに恵みを注がれ続けました。110歳まで生きたこのヨセフの時期には、もう既に人類の寿命が現在と同水準にまで引き下がっています。このヨセフの時期から3800年間、人間の寿命水準は何も変化していません。

【50:24~26】
『ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。ヨセフは110歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。』
 ヨセフは臨終の際、『兄弟たち』を呼び寄せて遺言を残します。この『兄弟たち』とはもちろんヤコブの子である11人の兄弟たちを指します。ですが、この時の兄弟たちはベニヤミン以外は全て110歳以上であり、ベニヤミンもかなりの高齢でした。ですから全ての兄弟たちがヨセフのもとに集まったかどうかは分かりません。中には既に他界していた兄弟もいた可能性があります。しかし聖書は『兄弟たち』と言っていますから、少なくとも2人か3人はこの時まで生き続けていたはずです。ヨセフは2つの事柄を兄弟たちに言いました。一つ目は、これからユダヤの民が必ずカナンの地へと戻れるようになるという約束です。これは400年後に実現しました。二つ目は、自分の遺体をユダヤの民がカナンに携え上って行くようにというお願いです。ヨセフは自分が約束の地カナンにいるべきだと感じていました。たとえ遺体になってからであっても、です。このお願いも400年後に実現されました(出エジプト記13:19)。ヤコブの子のうち、その遺体がエジプトからカナンへと運ばれたのはヨセフだけです。他の兄弟たちの遺体はカナンへ運ばれませんでした。ここにはヨセフの恵まれた信仰が現われています。つまり、ヨセフが信仰深かったからこそ、ヨセフは自分の遺体を約束の地に運ぶよう命じたのでした。ヘブル11:22の箇所で書かれている通りです。

 ヨセフもヤコブと同様、ミイラにされました。ヨセフが自分をミイラ化するよう指示していたのは間違いありません。このようにヨセフは最後までエジプト的な風習から離れていませんでした。もしヨセフが売られてエジプトに住んでいなければ、間違っても自分をミイラ化しようとは思わなかったでしょう。若い時期にエジプトで過ごしたからこそ、ヨセフはエジプト的になりました。このことからも分かる通り、若い頃に吸収される風習や知識は非常に重要な意味を持っています。何故なら、それらは年老いても抜き去ることができないからです。ですからソロモンはこう言っています。『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。』(箴言22章6節)それゆえ、若い時期に悪い教育を受けさせるのは犯罪的であると言えるのです。