【創世記2:15~23】(2021/01/24)


【2:15】
『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』
 前にも述べましたが、人がどこから取られてエデンの園へと置かれたかは分かりません。しかし、分からないということは、色々な想定が可能であるということでもあります。例えば、もしかしたら人間は中国の場所で創造されたのかもしれません。そうしてからエデンの園へ移されたと。オーストラリアで創造されたということもありえます。そうしてからエデンの園へ移されたと。しかし、中国であれオーストラリアであれそれは可能性に過ぎず、実際はどこで創造されたのか謎に包まれたままです。神がエデンの園へ人を移されたのは、瞬間移動によったはずです。ピリポが突如としてその場所から消えて移動されたのと同じです(使徒行伝8:39~40)。聖書が教える通り、神に不可能は一つもありません。ですから、神は人を瞬間的に移動させることがお出来になる御方です。人がエデンの園まで歩いて移動させられたというのは考えられません。何故なら、ここでは神が『人を取り、エデンの園に置き』と書かれているからです。しかしながら、空中に上げられて飛行機でもあるかのように移されたということであれば、それは有り得る話です。なお、このことのうちには神の人に対する主権が示されています。神が人間に対して主権を持っておられるからこそ、神は『人を取り、エデンの園に置』かれたのです。もし神に主権がなければ、人間をこのようにして自由に取り扱える権利はありませんでした。確かに神は、全ての人間に対して主権を持っておられます。ですから、神は人を御心のままに取られ、置かれます。ある人はここから取られてあそこへと置かれます。別の人はあそこから取られてここへ置かれます。

 このようにしてエデンの園に移された人には、2つのことが任されました。すなわち、エデンの園を耕し、そこを守ることです。まず耕すというのは、文字通りの意味です。神は、人が地を耕してこそ豊かで綺麗な実りが地から生じるように、この地球を設計しておられます。地が耕されずにいていいはずはありませんでした。だから、人はエデンの園を耕さねばならなかったのです。また人はエデンの園を守ることもせねばなりませんでした。人はエデンを何から守るべきだったのでしょうか。それは、エデンが管理不足により損なわれて悲惨になるということから、です。つまり、これは敵や害をもたらす生物から守るという意味ではありません。何故なら、この時にはまだ敵や害虫などといった存在はいなかったからです。既に見たように、神は全てを完全に良く造られました。であれば、どうして当時の世界に悪い存在がいたのでしょうか。それは有り得ないことです。私たちは知るべきです。この世界に敵や害をもたらす虫や獰猛な獣や悪しき細菌が見られるようになったのは、サタンと人間の堕落により世界全体が悲惨になってからのことであると。ですから、ここで『そこを守らせた。』と言われているのは、戦闘的また防犯的な意味合いにおいて守るということではありません。

 このエデンの園はパラダイスでしたが、そのパラダイスは昔から無為徒食の場所としてしばしば思い描かれてきました。そこにはお花畑が広がっていて、そこにいる人たちはただ食べて、遊んで、休んで、寝る、ということをするだけのイメージです。これは労働を嫌うインディアンが喜びそうな場所です。しかし、このように考えるのは間違っています。この箇所を読めば分かる通り、パラダイスには労働があるからです。黙示録7:15の箇所でも、天上のパラダイスにいる人たちは『聖所で昼も夜も、神に仕えている』と書かれています。仕えるとは、つまり労働に他なりません。パラダイスに苦痛が全くないからといって、そこには労働もないということにはなりません。ある人たちは、パラダイスには苦しみがないのだから、そこには労働もないと考えてしまいました。私は言いますが、パラダイスには労働がないのではなくて、労働に苦しみが全く伴っていないだけなのです。私たちは思い違いをすべきではありません。パラダイスには、労働を嫌悪したり労働しようとしない人は一人もいないのです。何故なら、そこでは労働が祝福されて喜ばしい営みとして存在しているからです。原初の時に人が任された耕作と守護の仕事も、そこにはパラダイスがあったのですから、やはり苦しみを全く伴わないものでした。

【2:16~17】
『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』
 神は、人に園に生えているどの木からでも心の赴くままに食べて楽しんでよいと言って下さいました。これは神の恵みであり、神が人間に対して好意を持っておられることを示しています。人は、葡萄を食べたければ葡萄の木から実を取って食べればよかったのです。リンゴを食べたければリンゴの木のある場所に行けばよかったのです。このようなことを許可された神は実に慈しみ深い御方だと言わねばなりません。今でも神は人類が好きなものを食べる自由を持てるようにして下さっておられます。実に神とは愛なのです。Ⅰヨハネ4:8の箇所で言われている通りです。

 神は、人に『思いのまま』木から取って食べてよいと言われました。『思いのまま』とは、種類的な意味だけではなく、量的な意味でも言われています。すなわち、人はどの木からでも『思いのまま』に食べてよいうえ、量的にも『思いのまま』食べてよかったのです。つまり、これは腹一杯に食べても問題ないということです。神は寛大であられ、人の幸せを願っておられます。申命記12:20~21の箇所を見て下さい。そこでは、神が御自身の民に肉を食べたいだけ食べてもよいと言っておられます。こう書かれています。『あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊とをほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。』このように神は私たちに特に禁欲を求めてはおられません。「腹八分目までにしなければいけない。」などと神は言われませんでした。健康のために節食したり仕事や敬虔のために禁欲するというのは、完全に私たちの個人的な判断に任されているのです。しかしながら、昔の教会は長い間、どうしてか食べすぎを悪と見做してきました。アウグスティヌスがそうでした。宗教改革者であるブリンガーの有名な「第二スイス信条」の中でも、大食が極悪でもあるかのように断罪されています。これは明らかに聖書の思想と一致していません。今見た通り、神は私たちが『思いのまま』また『食べたいだけ』食べることを明白に許可しておられるからです。昔の教会は、どうして食べ過ぎてはいけないなどと言って、聖書と一致していなかったのでしょうか。それは、昔の教会が禁欲的なギリシア思想に感化されていたからです。ギリシャの哲学者たちはそのほとんどが禁欲的であり大いに食べることは恥ずかしいと考えていましたが、その考えに教会が影響を受けてしまっていたのです。ですが、今となっては、もう教会が大食を罪悪視することはほとんどなくなっています。それは、教会からギリシャ思想の影響が薄れたからです(もっとも、その代わりに進化論や世俗に強く影響されることになっていますが…)。改革派の著名な神学者であるヴァン・ティルも、聖書は満腹することを罪に定めていないと正しいことを言っています。聖なるキリストでさえ、この地上におられた時、大いに食べて満腹されたのです(マタイ11:19)。であれば、どうして思う存分に食べることが罪なのでしょうか。まさか、キリストが大いにお食べになったことも断罪せねばならないとでもいうのでしょうか。とんでもないことです。そもそも、食べるという営みは神の栄光のために考案されました。私たちが食べるならば心は喜びます。心が喜ぶのであれば、その食物を与えて下さった神に感謝するようになります。そうして感謝すれば、神の恵みの栄光が豊かに現われることになるのです。パウロが次のように言ったのは、実にこのためです。『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』(Ⅰコリント10章31節)私たちは食べるという行ないにより、神の栄光を現わすべきなのです。何故なら、食物および食事とは神の栄光のために造られたからです。もし神が「腹八分目までにしておきなさい。」などと言っておられたとすれば、食べることに幾らかでも心理的な抵抗が起こり、それだけ私たちは思う存分に食物を楽しめなくなりますから、より感謝の度合いが少なくなり、神の栄光もそれだけ現われなくなってしまいます。神は御自身の栄光が現わされることを望んでおられます。ですから、神は『思いのまま食べてよい』と言われ、食べる食物の種類や量に制限を設けられなかったわけです。

 しかしながら、神は例外となる木を生じさせておられました。それは『善悪の知識の木』です。例外となったのは、これ一つだけでした。この木については、既に幾らかのことが述べられました。神は、この木から食べるならば人が死ぬとここで言っておられます。というのも、この木は人間の服従を試すテストとなる木だったからです。この禁断の木における姿、またその木が命の木から見てどの位置に生えていたかということを知りたいと思われる方がいるのでしょうか。これは問題にしなくてもよいことです。何故でしょうか。それは、私たちがこの木について考えるべきなのは、その木における姿などとった付随的な事柄ではなく、その木が設置された意味と目的という本質的な事柄だからです。

 創世記3章で記されている通り、人間は愚かにもこの木から取って食べてしまいました。つまり、神に逆らったのです。もし人間が神に従い通していたとすれば、人間はこの木から取って食べはしなかったでしょう。このため人間には死の刑罰が与えられることになりました。パウロも『罪から来る報酬は死です。』(ローマ6章23節)と言っています。神は、ただ単に威嚇するために『あなたは必ず死ぬ。』と言われたのではありませんでした。つまり、威嚇されたのは確かですが、本当に死ぬことになるからこそこのように言われたのです。神は空文を言われる御方ではありません。しかし、神が『あなたは必ず死ぬ。』と言われたのは、その実を食べたら即死するという意味ではありませんでした。これは、人のうちに死の原理が入り込むようになる、という意味です。ですから、人は善悪の知識の木から食べてすぐに死んだのではなく、その後も死ぬまで長い間生き続けることができました。最初の人間がこのように神に逆らったので、人類全体に死がもたらされました。その時には最初の人間であるアダムの腰に全人類がいたのですから、アダム一人の腐敗により、全ての人間が罪に腐敗させられてしまったのです。これについてはパウロがローマ5:12の箇所で、『ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった』と言っています。

 神は、この違反行為により、全ての人間に死の刑罰を下されました。私は言いますが、私たち人間が死ぬようになったのは『善悪の知識の木』から取って食べたからです。しかし、ここで次のような疑問を持たれる方もいるでしょう。すなわち、神はどうしてこんなに小さな悪が犯されただけで全人類を死に引き渡されたのか、と。このように考える人は、見るべき点がいくらかずれています。神が問題視されたのは、禁断の木から取って食べるという行為の度合いではありませんでした。禁じられた実を食べるという行為そのものは、確かなところ、そこまで大きい悪事とは言えません。それよりも殺人や強盗のほうが遥かに大きい悪事だからです。神が問題視されたのは、禁じられた実から食べるという神の戒めに対する違反また不従順でした。つまり、神は人間の反逆にお怒りになられたわけです。ですから、反逆者となった人間は、その反逆のゆえに死ななければいけませんでした。国家や王に対する反逆について考えてみて下さい。昔から国家や王に反逆する者は、その反逆がどれだけ小さかったとしても、容赦なく死刑に処せられてきました。何故なら、反逆とはその国家や王の存在を根本的に覆しかねないからです。人が禁じられた実を食べて反逆したので死なねばならなくなったのは、これと同じことなのです。

 神が禁じられたのは『善悪の知識の木』だけであったと私は述べました。それでは、同じく園の中央に生えていた『いのちの木』からは取って食べて良かったのでしょうか。人は、この『いのちの木』については何も禁じられていませんでした。人が神に服従し続ける限り、人はこの木から取って食べ、永遠に生き続けることが出来たでしょう。しかしながら、どうやら人はこの木を一度も食べることなく園を追放されたようです。それというのも、創世記3:22の箇所で、神は人がまだ一度もこの木から取って食べていなかったような言い方をしておられるからです。もし『いのちの木』からも取って食べてはいけなかったとすれば、神はこの木についても禁止命令を出しておられたはずです。しかし、神はこちらのほうについては何も禁じられませんでした。

【2:18】
『その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」』
 ここで言われている『助け手』とは妻のことを指しています。女性とは男のサポート役として創造されたのです。それはどうしてであったのでしょうか。神は、その理由について『人が、ひとりでいるのは良くない』からであると言っておられます。つまり、男が男一人だけだと生きていく際に生活上の不便が起こるということです。確かに男のことを考えてみると、特に家のことがそうですが、生活上の細かい配慮をする性質が女性に比べると欠けています。アインシュタインは女性がタンスのことなど常に家のことばかり口にしていると言いましたが、確かに女性は生活上の細かい点に心を傾けるという性質を男よりも強く持ち合わせています。これは女が『助け手』として造られたからに他なりません。アウグスティヌスは、ここで『助け手』と言われているのを、人類の保存すなわち子どもを生むという意味においてだけ捉えました。つまり、女は男が子どもを生んで人類が存続されるようにするための『助け手』なのだと。何故なら、生活上のサポート役であれば女よりも男のほうがずっと役立つからだと彼は言っています。この教父はあまりにも卓越した神学者でしたが、この点では誤っていました。というのも、この『助け手』とは生活上の意味合いとしか捉えられないからです。独身であったアウグスティヌスにとって、独身であるのは、他の教父たちと同じように「徳」でした。もしここで言われている『助け手』を生活上の意味として捉えると、助け手を持ったほうが、つまり結婚したほうが彼にとって利益になることになります。つまり、女性が男性の生活をサポートする存在として造られたという真実が、アウグスティヌスの独身を攻撃することになってしまいます。「聖書は女性が生活上のサポート役として造られたと教えているのに、どうしてあなたは独身のままでいようとするのか。」と。このためアウグスティヌスには無意識的な心理が働き、この『助け手』という言葉を子を生むということにおいて捉えてしまったのだと思われます。もしこれを生活上のサポート役という意味に捉えれば、独身でい続けたいアウグスティヌスにとって困ったことになるからです。

 このように女性とは助け手としての役目をもって創造されました。ですから、女性は男性に従うのが自然なのです。このため聖書は、妻が自分の夫に服従すべきだと命じています。パウロはこう言いました。『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。』(エペソ5章22節)ある女性は「もし結婚したら3歩下がって夫に従う。」と言っていました。彼女は正しいことを言ったのです。また、教会でも女性たちは謙虚にしているようにと聖書は教えています。それは助け手として創造された女性に適っているからです。パウロがこう言った通りです。『聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。』(Ⅰコリント14章33~35節)『女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。』(Ⅰテモテ2章11~12節)これは、服従するという観点から見れば、子どもが親に従うのと同じです。子どもが親に従うのは非常に自然です。妻が夫に助け手として服従するのも、それと同様に自然なのです。

 ここ50年ぐらいにおいては、徐々に性の区別が曖昧になっている傾向が見られます。2021年の今では、女性が男性を支配しているケースはもはや珍しくありません。アメリカや日本でも、女性管理者がどんどん増えています。教会でも、これはあまりにも嘆かわしいことですが、女性の牧師が普通に見られるようになりました。昔はこうではありませんでした。昔は女性の支配者などは、女王など一部の存在を除けばほとんど見られませんでした。教会でも女性牧師は一人さえも見られませんでした。どうして、昨今においてはここまで女性が支配するようになってきたのでしょうか。それは、啓蒙主義が最近になって実を結び始めたからです。18世紀に現われて世界中に広まった啓蒙思想は、神を除外し、人間だけによる社会を理想とします。実際、啓蒙主義者たちの本を読むと、どれだけ啓蒙主義が神を毛嫌いしているかよく分かります。神を無視して人間だけでやっていこうとするこのような理念は、究極的に言えば、性の区別を廃棄することに他なりません。何故なら、元はと言えば神が人間に男と女という性の区別を設けられたからです。その神を無視するのですから、自然と神の創造された性別に関する意識や区別が弱弱しくなっていくのは理の当然です。20世紀の中頃になると、この啓蒙主義が目に見える形で実を結ぶようになってきました。ですから、今や世界全体が男女観をしっかり持てなくなっており、そのため女性が多くの領域で支配するようになってきているというわけです。しかしながら、教会はこのような世の基準に調子を合わせてはなりません。姉妹たちは、世のおかしい常識などは無視し、妻は夫に服従すべきであるという主の御心を実現させるべきです。また、私は天地が引っくり返っても教会で女性が牧師の任務に就くことを許しません。どうして、私たちはこのようにせねばならないのでしょうか。それは私たちの基準は聖書だからです。私たちはパウロの次の言葉を心に留めるべきです。『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(ローマ12章2節)女性が男性でもあるかのように支配する今現在の傾向は、もしこの世が教会の影響を受けるか、教会が更にこの世界に広まるかしない限り、ずっと続いていくはずです。しかも、その惨状は更に酷くなり、ますます多くの同性愛者が見られるようになり、ソドムの状態にどんどんと近づいていくはずです。この日本にも、既に同性愛者が多く見られるようになってきています。夫が妻のように家事をする夫婦も多くなっていくはずです。願わくは、この世の男女観が聖書的なものとなっていきますように。アーメン。

【2:19】
『神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。』
 既に述べたことですが、この箇所を見ると、やはり陸上の獣と鳥は土から創造されたことが分かります。また、これも既に述べましたが、恐らく水の生物も、同様に土から造られたはずです。とはいっても、水の生物のほうは、陸上にある土からではなく海中にある土から創造されたという違いがありますが。

 神は、陸上の獣と鳥に対する命名を、人に任せられました。これは、人間が彼らに対する主人であることを教えています。何故なら、名前とはその存在そのものを示す表示物であって、その名前を付けるというのは、それに対する主権を持っていることが前提だからです。親は生まれたばかりの子に名を付けますが、これは親が子に対して限定的ではあるものの主権を持っているからに他なりません。この時に人がどのような名を付けたのか私たちには分かりません。ただこの時の人は知性的な祝福を受けていたので、その動物の本質を見事に言い表す、分かりやすい、覚えるのにも口にするのにも簡単な短い名前を付けたはずです。最初の人であるアダムが、これから後、自分の付けた名前でその動物たちが全人類に認識されるということを知らなかったはずはありません。ですから、アダムはシンプルな名前を付けたはずなのです。それでは、水の生物に対する命名はどうなっていたのでしょうか。この箇所では水の生物についての命令が何も触れられておらず、聖書の他の箇所でもそのことについては何も言われていません。私たちは、この箇所では『人のところに連れて来られた』生物だけが語られているという点に注意すべきです。水の生物については、アダムのいた場所に歩いて来るわけにはいきませんでしたから、アダムが海に出向いて命名をした可能性があります。しかし、聖書にはそのようなことが書かれていませんから、これについてはただ推測することしかできません。アダムが出向いて水の生物を命名しなかったとは必ずしも言えません。

 この命名の仕事は、恐らく人に与えられた第一の仕事であったはずです。これよりも前に何か仕事が与えられていたということがあるのでしょうか。それは考えにくいことです。この仕事は、1日の間に、すなわち創造の第6日目の時に成し遂げられました。何故なら、続く箇所を読めば分かる通り、この命名の仕事が終わってから女性が造られたからです。創世記1:24~31の箇所を見れば分かるように、女性が創造されたのは創造の第6日目でした。しかし、ここで「最初の人間はたったの1日で沢山いたであろう全ての生物に名を付けることができたのか。」と言われる方がいるかもしれません。私はこの疑問に答えましょう、最初の人は祝福の極みに満ちていたので、24時間以内に全ての動物を命名することができました。アインシュタインが特許局に勤めていた時には他の人が数日かかって行なう仕事を1日以内で成し遂げて余った時間を好きなように使っていたということですが、神の恵みが注がれていると、一挙に素早く仕事を成し遂げられるものなのです。最初の人間が神の恵みに満ちていたことを誰が疑うでしょうか。

【2:20】
『こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。』
 人が命名したのは、陸上の獣と鳥における全ての生物でした。つまり、例外はありませんでした。神が、全ての生物に命名がされるようにと、全ての生物をアダムのところへ連れて来られたのです。当時の生物はまだ素直で従順だったので、このようなことが可能でした。もし堕落後の時代であれば、このようなことはされなかったかもしれません。それというのも堕落後の時代に生きる動物たちは、人間を恐れたり嫌悪したりするようになったからです。しかしながら、ノアの大洪水の時だけは、例外的に再びこのようなことが起こりました。すなわち、ノアが箱舟に入る際、神はあらゆる生物をその箱舟に入れようとして連れて来られたのです(創世記7:7~9)。神がこのようにされたのは、もしこのようにしなければ、動物たちが大洪水により地球から完全に滅びてしまうからでした。恐らく、これから後、もうこのようなことは起こらないのではないかと思われます。

 ところで、この時に人が使っていた言語、すなわち神が最初から基本要素として人にお与えになっておられた言語は何だったのでしょうか。アダムは、何語で動物に名を付けたのでしょうか。あるフランス人は、愚かにもそれはフランス語だったと述べました。昔からそれなりに言われてきたのは、人類の最初の言語はヘブル語だったというものです。この見解は何だかもっともらしい感じがします。何故なら、神が旧約聖書を書かれる際に用いられた言語がこれだったからです。また、これは人類がバベル事件まで使用していた言語が何であったか問うことでもあります。何故なら、アダムからバベル事件まで約2000年の間、人間は単一の言語しか持っていなかったからです。人に初めから備えられていた言語が何であったかは分かりません。それというのも何も確かな手掛かりがないからです。しかし、たとえ分からなかったとしても、神学上における致命的な問題が生じるわけではありませんから、その点では心配する必要がありません。

 人が名付けた動物のうちには『人にはふさわしい助け手が、見あた』りませんでした。これは正にその通りでした。動物のうちに人の助け手として相応しい生物は何もいません。最も人間に従順な動物の一つである犬はどうでしょうか。犬を助け手にするのは、かなり物足りないと言わねばなりません。では、人間と似たような姿をしているうえ、訓練すればかなりのことをこなす猿はどうでしょうか。猿は確かに多くのことを行なえるかもしれませんが、愚かな生き物ですから、猿よりは犬のほうがまだましです。では従順かつ温和で役立つことの多い象はどうでしょうか。象は確かに利口で従順な生き物ですが、あまりにも大き過ぎると言わねばなりません。今挙げた3つの動物以外の動物は、更に人間の助け手として適切ではありません。これは、神が人の助け手となるための動物を全く創造されなかったことを意味しています。つまり、動物が人間の助け手となることは神の御心ではありませんでした。もしそれが御心であれば、人間の助け手となるに相応しい動物が何か創造されていたことでしょう。

 ここで言われていることから、次のことが分かります。神は、人を自律的な存在としては創造されませんでした。他の存在により補完されてこそ初めて十全な営みが実現されるようにされたわけです。言い方がよくありませんが、人は欠けた不完全な存在として造られたのです。これは、映画やドラマやゲームの音楽を作ることに例えたら、どうなるのでしょうか。そのような音楽を作る場合、ただ一人だけで全てを制作する人もいますし、複数の人が協力して作るという場合もあります。人間は明らかに後者として創造されています。つまり、人間とは、複数の人が音楽を制作している映画やドラマやゲームでもあるかのようです。しかし、どうしてそうなのでしょうか。神は、どうして人が助け手により補完されてこそ上手に歩んでいけるようにされたのでしょうか。それは、神の御性質が人において現われるためです。神の三位間においては完全な協同があります。御父は命じられ、御子はそれに従われ、御霊はそのことで働きかけて下さいます。この協同は実に素晴らしい。神は人において御自身の存在が鏡のように現われるのを望んでおられます。ですから、人間社会には、神の社会を示す協同という要素がそこら中に見られるわけです。男が妻の協同により上手に生きていけるようにされているのも、そのうちの一つです。もし男が妻無しで全てをこなしていける自律的な存在であったとすれば、人において神の御性質が豊かに現わされるということにはならなかったはずです。

【2:21~22】
『そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。』
 ここで教えられているように、人間の女は男の『あばら骨』から造られました。この骨が取られたのは右の胸からだったのでしょうか、それとも左の胸からだったのでしょうか。聖書には何も書かれていませんから、どちらの胸のほうから取られたのか私たちには分かりません。私たち男のあばら骨を調べても、これは分かりません。それというのも、最初の人からあばら骨が取られたことは、子どもたちに遺伝しなかったからです。それは、誰かの腕が切断されたからといって、その人の子どもが腕のない状態で生れてくるわけではないのと同じです。科学者たちが言うように、後天的な要素は遺伝されません。最初の人であるアダムは、あばら骨を取られたことによる痛みを全く味わいませんでした。何故なら、骨が取られる時、アダムには深い眠りが与えられていたからです。また、人は自分の骨が胸から取り出されるというショッキングな場面を見せられずに済みました。これは神が人に配慮されたからです。それでは、女はあばら骨からどのような仕方で造り上げられたのでしょうか。これについては何も書かれていませんので、よく分かりません。これは、キリストの復活が具体的にどのようにして実現されたのか聖書で教えられていないため分からないのと同じです。しかしながら、私たちはただあばら骨から女が創造されたとだけ知っていれば、それで十分です。

 このように女は男から取って造り上げられました。ここに女が男に従属すべき理由があります。パウロも、女が第二に造られたからこそ男に従属すべきだと教えています(Ⅰテモテ2:11~13)。それというのも、第2の存在が第1の存在に従属するのは理に適っているからです。それは親と子どもを見ても分かるでしょう。第1の存在である親に第2の存在である子どもが従うということを不思議に思う人がどこかにいるのでしょうか。恐らくいないはずです。ですから、妻の尻に敷かれている夫というのは、聖書から言えば非常におかしいのです。それは第1の存在が第2の存在に従属しているかのようだからです。これは親が子どもに服従しているのと全く一緒です。女に男が従うようになるのは呪いです。祝福されていれば、そのようなことは起こりません。祝福されているというのに、どうして男が女に服従しなければいけないのでしょうか。ありえないことです。しかし、男が女に従っていても呪いではないケースが、少しだけあります。それは男の子どもが母親に従ったり、女の保育士に従属するケースです。というのも、これは男対女の関係として見られるべきではなく、子ども対管理者の関係として見られるべきだからです。

 動物たちにおける第二の性も、人間の場合と同じで、第一の性から取って造られたと思われます。つまり、あばら骨を持つ動物はそのあばら骨から雌が造られ、あばら骨を持たない動物は胸または心臓付近にある器官や部位から雌が造られた。何故なら、そのように考えるのが自然だからです。人間における第二の性が第一の性から取られたのであれば、動物もそのようだったに違いありません。もしそうでなければ、動物の場合は第二の性がどのようにして造られたのでしょうか。誰も分からないはずです。動物の場合も、人間と同じで、その多くが第2の性は第1の性よりも弱く、小さく、従属的です。ライオンがそうですし、カブトムシやクワガタもそうです。であれば、そのことから動物たちも第二の性は第一の性から造られたと言えるのではないでしょうか。

 神は、男に対して妻を『連れて来られ』ました。つまり、人は妻を持つために何もしませんでした。助け手となる妻を探したり、求めたりはしなかったのです。このことから、妻とは神が御心のままにお与えになるということが分かります。キリストもそのように教えておられます。主は、夫婦について『神が結び合わせたもの』(マタイ19章6節)と言われたからです。これは、神が男に妻を結び合わせたということでなくて何でしょうか。確かに妻とは神が男に与えられる存在です。しかし、だからといって男が妻を持つために何も努力をしなくてもよい、ということにはなりません。結婚したいと思っている人は、妻を持つために努力してもよいと私は言います。結婚を前提とした恋愛やお見合いでもすればよいのです。多くの夫婦を見れば分かりますが、自分に見合った調度良い異性がいない人などいません。少子化に悩まされている先進諸国の人であれば、国の未来のためにも是非そうしたほうがよいと思います。パウロも、結婚のために妻を求めてよいと示しています。Ⅰコリント7:2、9の箇所を見れば分かる通りです。ただ私が言いたいのは、たとえ人が妻を求めたとしても、究極的には人が妻を求めたから妻を持つようになるというわけではなく、神が妻をその人にお与えになるから妻を持つようになるということです。というのも、もし妻を誰かが求めたとしても、神がその人に妻を結び合わせなければどうして妻帯者になることがありましょうか。妻とは神が男に『連れて来られた』存在なのですから。

【2:23】
『すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」』
 この時に、第2の性である人間は『女』と呼ばれるようになりました。ヘブル語で、『男』は<イシュ>であり、『女』は<イシャ>です。この女が、誰もが知っているあの「イブ」または「エバ」です。実に、女とは男により名づけられました。これは聖書を読まねば決して分かりません。また、人間が動物に名を付けた場合と同じで、これもやはり男が女よりも優位にあることを意味しています。何故なら、先にも述べた通り、名を付けられた存在は、通常の場合、自分に名を付けた存在よりも優位な立場にはいないからです。女が男よりも優位的でないのは自然を見れば明らかでしょう。もっとも、最近においては倒錯の呪いが全世界に注がれているので、男の優位性が罰により弱まっているという悲惨な状況が見られるのではありますが…。

 女に対するこの命名は、実に知性的です。それは論理的であり非常に簡潔です。また、そこには即時性があり、熟慮をした形跡が感じられません。熟慮をしていないのに、熟慮をしたうえで決められたかのようです。これはまだ堕落が起きておらず、そのため人の知性が呪いの影響を受けていなかったからです。即座に熟慮したかのような知的解決を考え、それを言ったり行なったりする。これが知性的に祝福されるということです。動物の命名も、このような感じで行なわれたに違いありません。最初の人であるアダムを日本人だと仮定すれば、このようになります。アダムのもとに、ある動きの鈍い動物が連れて来られました。その動物を見たアダムは即座にこう言ったのです。「この動物はほとんど動かず怠けているかのように見えるから<ナマケモノ>と名づけよう。」なお、これはあくまでも例えばの話であり、原初の時から既にナマケモノがいたかどうかは分かりません。というのも、ナマケモノとはその性質から推測すると、ダニや未開部族と同様に、恐らく正規の状態から逸脱した呪われた系譜に属する動物ではないかと思われるからです。

 ところで、人はどうして女が自分の身体から取って造られたことを知れたのでしょうか。女が男から取られた時、男には『深い眠り』(創世記2:21)が与えられていました。眠っているのであれば、女が自分の身体から造られたことを感知できなかったはずです。この疑問の解決はこうです。つまり、最初の人は知性的に大きな祝福を受けていたので、女が造られた光景を実際に見てはいなかったのに、女が自分から取られたことを即座に悟れたのです。知的に祝福されていれば、往々にしてある少しの存在や事象を見るだけでも、その背景にある根本原理や構造や経緯などをすぐに理解できるものです。ニュートンが重力の存在を悟ったのも、これと同じです。彼は、ある少しの事柄に基づき、その背後にある目に見えない重力という力を悟ることができました。アダムがエバの創造について知れたのは、ニュートンが重力の存在について知れたのと一緒です。知的に祝福されていなければ、決してこのようなことはできません。神が人に女の創造について実際的に語って教えられたということはありません。何故なら、この箇所を見ても、そのようなことは読み取れないからです。アダムは女が連れて来られると、その祝福された知性により即刻女の創造について理解し、その理解に基づいて命名をしています。神が女について「人よ。女はこのようにして造られたのだ。」などと言ったとは、どこにも書かれていません。