【創世記2:24~3:8】(2021/01/31)


【2:24】
『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』
 神は、最初の男に妻を与えて結婚させられました。これは最初の人間にだけ特有の出来事ではなく、人類の全てに普遍的な出来事です。つまり、結婚とは神の御心なのです。それゆえ、世にいる男女は、最初の人間がそうしたように結婚するのです。要するに、結婚というのは、原初の結婚の再現また繰り返しと言えます。アダムとエバの結びつきは、言わば結婚における始原・型です。神は、この結婚という出来事を、これからもずっと人間のうちに実現させられます。それというのも、神とは既になされたことをずっとなされる御方だからです(伝道者の書3:14~15)。しかしながら、結婚が人類における普遍的な出来事だからといって、全ての人間が絶対に結婚しなければいけないというわけではありません。アウグスティヌスやロックやヒュームやニュートンなど、世の中には結婚しない人もそれなりにいます。主も、天の御国のために独身を選ぶ人のことについて語っておられます(マタイ19:12)。私が言っているのは、結婚が強制的であるということではなく、ただ結婚というのは人間に備えられた一般的な出来事であるというだけのことです。

 もし人が結婚するならば、両親を離れて結婚するのが望ましい。何故なら、この箇所では両親を離れて結婚すると言われているからです。もしそのようにすれば、その夫婦には恵みがあるでしょう。しかし、もし父と離れずに結婚した場合はどうなるのでしょうか。その場合、その人の夫としての権威と家庭における父としての主権が弱められてしまいます。何故なら、その人の父が一緒にいることにより、その人の夫また父としての力と権威が自然と阻害されるだろうからです。では、もし母と離れずに結婚した場合はどうなるのでしょうか。その場合、その人の夫また父としての力と権威はそこまで阻害されはしないでしょうが、その人の妻が大いに苦しむようになるでしょう。多くの例を見れば分かる通り、姑とは義理の娘に対して愛のない場合が常だからです。姑が相当な人格者でもない限り―女性でそういう人は非常に珍しいのですが―、嫁姑問題は避けられないでしょう。では、父も母も一緒にいる場合はどうなるのでしょうか。これは最悪のケースです。この場合、夫婦は多かれ少なかれどちらも共に苦しむようになるでしょう。しかしながら、結婚する際に両親から離れなければ罪になるということではありません。何故なら、離れようにも離れられない、あるいは離れるべきではないケースも場合によってはあるからです。例えば、どうしても介護が必要な時や戦争などといった危急の時代がそうです。ですが、もし離れることが可能であれば、躊躇せず離れるのが幸いな結婚生活への道となります。

 この箇所は、キリストもマタイ19:5の箇所で引用しておられます。またパウロも、エペソ5:31の箇所で引用しています。

【2:25】
『そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』
 原初の人間は男女とも裸でしたが、それが普通であり、何も恥ずかしいとは感じませんでした。これは人間が罪を犯して堕落するまでのことです。このようなことを聞くと、驚かれる人もいるはずです。しかし、聖書はそのように教えています。ですから、人間は最初、本当に裸の状態が恥ずかしいとは思わなかったのです。それというのも、神は全ての存在をよく造られたからです(創世記1:31)。それは人間の身体もそうでした。ですから、よく造られた人間の裸は何も恥じるべきものではなかったのです。もし最初から裸を隠さねばならなかったとすれば、神は人間の身体をよいものとして造られなかったことになります。しかし神は人間の身体をよく造られたので、最初は隠す必要性が全くありませんでした。例えば、ダイヤモンドやバラやメロンを恥ずかしいと思い、それらを布で覆って隠そうとする人がどこかにいるのでしょうか。そんな人は誰もいないはずです。何故なら、それらのものは裸の状態のままでも恥ずべきものではないからです。最初の人間が 裸でも覆われる必要性を感じなかったのは、これと同じことです。

 人間の身体が恥ずべきものとなり覆われねばならなくなったのは、人間が罪を犯したからです。すなわち、罪により人間の存在全体が汚れてしまったので、私たちは自分の身体が恥ずかしいと思うようになったのでした。犯罪者は、恥ずべき者となった自分を見られたくないので顔を隠すものです。それは、恥ずべき存在となった自分が最もよく表われている顔という部位を(顔は人間を代表する部位だと言えます)、しっかりと認識されたくないからです。罪を犯した人間が身体全体を覆うようになったのも、これと同じです。もっとも、私たちの顔だけは罪を犯しても覆われるべき必要性が生じませんでした。顔は人間における最も高貴な部分なので、罪を犯してからも恥辱に侵害されることがなかったのです。イスラム教徒の女性は顔も覆っていますが、あれはやり過ぎだと言わねばなりません。また、全ての動物が裸のままでいるのは、動物が何も罪を犯していないからです。動物は人間のように罪を犯しておらず、その存在が恥ずべき状態とはなっていませんから、誰も動物が裸でも不思議に思いません。もし動物も人間のように罪を犯していたとすれば、動物も服で覆われねばならなくなっていました。最近では犬に服を着せる人が増えていますが、聞くところによると、犬は着衣を嫌がっているそうです。犬の着衣は、つまり犬をあたかも罪を犯した恥ずべき存在と見做すことですから、犬が嫌がるのは当然です。ですから犬に服を着せている人は、何か特別な理由でもない限り、服を着せないほうがよいでしょう。そのほうが犬のためにもよいですし、社会全体に負の影響を及ぼさないで済みます。

 天国で人の状態はどのようになっているのでしょうか。聖書は、天国にいる人たちには罪がまったくないと教えています。既に見たように、人が自分の身体を覆わねばならなくなったのは、罪を犯したからです。とすれば、罪を持たない天国にいる人たちは、裸のままで何も服を着ていないのでしょうか。つまり、堕落以前のアダムとエバのような姿をしているのでしょうか。これは無視できない疑問です。この疑問について私はこう答えます。私たちは、そもそも天国についてほとんど知っていないので、そこにいる人たちの状態についても詳しくは知らない、と。天国にいる人たちは、キリストが言われたように『太陽のように輝』(マタイ13章43節)いているのです。そのような私たちの想像を絶した身体について、どうして私たちが何かを知れるでしょうか。このような分からない事柄については、沈黙したままでいるのが賢慮です。宗教改革者のカルヴァンもたびたびこのように述べたものです。

【3:1】
『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。』
 神の造られた野の動物の中で、蛇が最も巧みに事を成し遂げる動物でした。ここで『狡猾』と言われているのは、ただ巧みに何事かを成し遂げるという意味以外ではありません。つまり、これは邪悪という意味における狡猾ではありません。何故なら、神が邪悪という悪い要素を動物のうちに付与されるということは、絶対に有り得ないからです。創世記1:31の箇所で言われていたように、神が創造された存在は『非常によかった』のです。であれば、どうして邪悪という悪い要素が蛇のうちに最初からあったというのでしょうか。もしそうであったとすれば、神が造られた存在は『非常によかった』のではないことになってしまいます。これでは聖書に矛盾があることになってしまいましょう。しかし聖書に矛盾はありません。ですから、ここで『狡猾』と言われているのは倫理的な意味ではなく知的能力のことだと捉えねばなりません。

『蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』
 蛇が女に語りかけています。この蛇は文字通りの意味での蛇です。つまり、これは比喩表現としての蛇ではありません。この出来事が起きたのは、創造が始まってから、まだあまり経っていない頃です。世界が創造されてから130年以内に起きたのは間違いありません。しかし、正確な時期については全く分かりません。アウグスティヌスは、人間の堕落が創造の6日目に起きたと考えていました。つまり、アウグスティヌスは、蛇が女に語りかけたこの出来事が創造の6日目に起きたと考えていたことになります。何故なら、このように蛇が女に語りかけてから後に人間は堕落したからです。アウグスティヌスのこの考えは全く間違っています。何故なら、神が6日目に全ての創造を完了された時、全ては『非常によかった』からです。6日目の時点で全てが善良であったとすれば、どうしてその6日目に人間が堕落したというのでしょうか。全く有り得ない話です。

 ここで蛇が人間の言葉で女に語りかけていることについて、不思議に思われる方が多くいるに違いありません。それというのも、今の世界を見回してみても、蛇が喋るということはないからです。古代の著書を読んでも、そのような話は書かれていません。蛇が言葉を喋らない生物として造られたのは明らかです。言葉とは、理性と共に、人間にだけ与えられた特別な賜物だからです。しかし、この時には蛇が実際に喋っています。これは一体どういうことでしょうか。原初の時には蛇も人間のように喋れたということなのでしょうか。そうではありません。蛇は創造の初めから喋れない生物でした。事の真相はこうです。サタンが蛇に入り、蛇の身体を巧みに動かして喋るようにさせたのです。蛇が喋っているのは、このようにしか説明できません。実にサタンとは、生物の中に入って意のままに操る存在なのです。福音書で書かれている通り、あのユダも、サタンに入られたので、サタンの意志に従ってキリストを売ることになりました。ヴォルテールの「バビロンの女王」という小著の中では、原初の時には全ての動物が人間のように話せたと言われています。これは完全に誤っています。ヴォルテールは聖書の話に無知ではありませんでしたから、創世記3章で書かれている時代にはまだ動物が喋っていたと空想してしまったのでしょう。しかし、創世記3章を読んで、そのように考えることはできません。

 ここでサタンは、まず何でもないような小さな事柄から話のきっかけを作っています。これは、道が分からないので尋ねている人のようです。そこには全く違和感がありません。これこそサタンのやり方です。彼は最初から大きなこと、刺激的なことを話そうとはしませんでした。何故なら、そのようにすれば最初から抵抗感を持たれるので、後が続かないからです。サタンは何としても人間を悪の道へ引きずり込みたかった。ですから、最初は取るに足らない事柄から話をし始めたのでした。最初が穏やかであれば、相手もその存在との関係を持ちやすくなり、流れが徐々に展開していくようになるからです。これは悪い意味で思慮深いこと、つまり狡賢いことです。もしサタンが狡賢くなければ、最初から巨大な話をして失敗していたはずです。

【3:2~3】
『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」』
 蛇に対して女は敬虔な答えをしました。これは100点満点の答えです。それは、この時にはまだ人が堕落していなかったからです。もし堕落していたとすれば、このような答え方ができていたかどうか定かではありません。ここで注目すべきなのは、女が禁断の実に触れてさえいけないと言っていることです。つまり、女は2:17の箇所における命令を、ただ食べるだけでなく触れることも禁止していると捉えていたわけです。これは正しいことでした。何故なら、禁断の木の実に触れるというのは、食べることの前兆だからです。すなわち、心の中に食べてしまいたいという気持ちがあるからこそ、それに触れるわけです。もし食べようとは思わなければ、そもそもそれに触れることさえしようとしないはずなのです。

 喋る蛇を見た女は、特に驚いたり不思議がったりしていません。これが私たちであれば、多かれ少なかれ精神が動揺していたでしょう。それというのも、私たちの頭の中には「理性を持って喋るのは人間だけである」という認識が前提としてあるからです。この時の人間はまだ創造されたばかりであり、経験と呼べるものはほとんど持っていませんでした。ですから、蛇が喋っているのに何も違和感を持たなかったのです。この時の人は、たとえ豚が人間を生んだとしても驚きはしなかったでしょう。何故なら、まだ「その種族はその種族を生むもの」という認識が経験により形成されていないからです。私たちの場合、既にこのような認識を誰でも持っていますから、もし豚が人間を生んだとしたら大騒ぎせざるを得ません。

【3:4】
『そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。』
 蛇に入ったサタンは、遂に人と会話・やり取りをすることが出来ました。スタート地点に立ったわけです。これから上手にやれば自分の好きな流れに導くこともできます。そうすれば、自分の邪悪な願望を遂げることも可能となります。そのようになれば大きな喜びが生じます。そこでサタンは、まず何をしたでしょうか。ここで書かれているように、まず彼は御言葉を否定することから始めました。すなわち、神が禁断の木の実を食べたならば死ぬと言っておられたのに、死ぬことはない、と言ったのです。『あなたがたは決して死にません。』何と邪悪なことでしょうか。これ以上に邪悪なことは他にありません。何故なら、神の言葉に真っ向から挑戦しているからです。このようにするのは憲法や法律を否定するよりも悪い。天皇やイギリス女王やその他の高貴な権威者たちの言葉を否定するよりも悪い。何故なら、神の言葉とは神がお語りになられた言葉だからです。御言葉を否定するのはそんなにも悪いことなのか、と思われる方もいるかもしれません。確かにこれ以上の悪はありません。何故なら、この世界で神以上の存在はないからです。もし神以上の存在がこの世界にいれば、これが最高の悪とは言えなかったでしょうが、この世界に神以上の存在はいないのです。

 これこそサタンのやり方です。まず御言葉という土台を切り崩す。すなわち、御言葉に対する信仰を破壊する。これが最初になされるべき最も重要な攻撃でした。何故なら、誰かが信仰に固く立っている限り、自分の意のままに動かすことは絶対に出来ないからです。その最も良い例は、荒野におけるキリストの試練です。福音書で言われている通り、キリストを意のままに動かしたかったサタンはキリストが御言葉に背くように何度か働きかけたのですが、キリストは御言葉に固く立っておられたので徒労に終わったのでした(マタイ4:1~11)。

 キリスト者がもし御言葉を否定するか、疑ったりすれば、サタンの勝利となります。何故なら、もしキリスト者が御言葉を蔑ろにすれば、後はサタンが好きな方向に持っていけるからです。ですから、サタンは何よりもキリスト者が御言葉を蔑ろにすることを望んでいます。これはサタンが最も望んでいることの一つです。嘆かわしいことに、既にサタンは幾つもの領域でキリスト者に御言葉を蔑ろにさせることに成功しています。その例としては、人間の由来における領域が挙げられます。進化論が世界に広まるまで、教会は世界が6日で創造され、今はだいたい世界が始まってから5000年ぐらいであると信じていました。聖書がそう教えているからです。しかしサタンが進化論により教会を攻撃してから、教会はこのようなことを信じなくなりました。すなわち、6日による創造ではなく長い時間をかけての創造がされ、今はだいたい世界が始まってから数千万年、数億年も経過していると信じるようになりました。これは教会が聖書に背を向けたことを示しています。ですから今や教会の霊性は悲惨な状態となっています。女性牧師という聖書の禁じている不正な牧師が多く見られるようになったのに誰も問題視せず(問題にしないのが問題なのです)、宗教改革において離れ去ったカトリックと徐々に距離を縮めるようになってきており(これは荒野にいたユダヤ人がエジプトに帰ろうとしているようなものです)、ジョージ・ラッドも言ったように教会が隅に追いやられている状態があるというのに奮起しようともしないのです(まるで奮起しても何の成果もないと言わんばかりです)。このような状況を見て、サタンはほくそ笑んでいます。しかしながら、私たちは御言葉にこそ固く立たねばなりません。そうしなければ容易にサタンの餌食とされてしまいます。そうなれば、神の呪いを受けて悲惨になりかねません。そうなるのは実に恐ろしいことです。

【3:5】
『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』
 サタンは、もし禁断の実を食べるならば神のように善悪を決めるようになると言いました。これは確かにその通りでした。禁断の実を食べたその時点で既に、善悪を神のように自己において決定しているからです。人間がそのような傲慢に陥らないようにと、神は厳重にその実を食べることを禁じられたのでした。ここで『目が開け』と言われているのは、これまでになかったような全く新しい状態が展開されてくるという意味です。何故なら、その時には人間が神の目を通してではなく自分の目を通して全てを判断するようになるからです。また、言うまでもないことかもしれませんが、これはそれまで人間の目が生まれたばかりの赤子のように閉じていた、という意味ではありません。もしそういう意味であったとすれば、人は両目が見えないので、そもそも禁断の木がどこにあるのかさえ把握できていなかったでしょう。

 要するに、サタンは人に自己神化願望の炎を燃え上がらせようとしました。神になりたい。神のようになりたい。これ以上に強烈な欲求はありません。何故なら、この世界には神以上の存在がないからです。サタンは人が何を望んでいるのかよく知っています。サタンは、私たちの意識であれ無意識であれ、内面的な詳細を常に見ているからです。ですから、彼は人の欲望を通じて働きかけようとします。最初の人に対しては「神のようになれる」という欲望を通じて働きかけました。人にはそれぞれ異なった感覚や欲求があるので、サタンはその人にもっとも有効的な欲望で働きかけます。ある人には地位で、ある人には名誉で、ある人には快楽で、ある人には便宜で、ある人には金銭で、ある人には権能で。ロバート・ジョンソンにサタンがギターで働きかけたというのは、あまりにも有名な話です。この話が本当だったとすれば、このよく知られたギター奏者はギターによる力および名誉と引き換えにサタンに魂を売ったことになります。というのも、彼にはギターで働きかけるのが最も有効的だったからです。このように欲望が私たちを悪への罠に引きずり込んでしまうことになります。そして最後には滅びに至ります。ですから、欲望というのは実に恐ろしいものであることが分かります。私たちは、次のヤコブの言葉を心に留めるべきでしょう。『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコブ1章14~15節)

 欲望に働きかける。これがサタンの常套手段です。これは欲望の度合いが強ければ強いほど、それだけサタンに陥りやすくなるということを意味しています。これは大変に恐ろしいことです。何故なら、もし欲望に打ち負けたならば、ここで語られている女のように神に背いてサタンに付き従うことになるからです。私たちはよくよく注意せねばなりません。

【3:6】
『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。』
 サタンに誘惑された女は、禁断の木を自分の目で見ました。その方向に顔を向けたのです。その木を見ること自体には何も問題はありません。問題なのは、その木を見る時の心の状態です。次の2つの場合、木を見たとしても罪とはなりません。すなわち、食べようと思う気持ちを全く持たないで木を確認するか、無意識的に、または何となく木を見る。しかし次の場合は、木を見ることさえも罪となります。すなわち、食べたいと思う気持ちを持ちつつ木の方向に顔を向けること。何故なら、この場合、既に心の状態が神の御心に違反しているからです。どうしてそうなのでしょうか。それは、神とは心の中をご覧になられる御方だからです(Ⅰサムエル16:7)。

 この箇所から分かるように、神は、善悪の知識の木を良く造っておられました。創造の時には全てが非常に良く造られましたが(創世記1:31)、それは善悪の知識の木も例外ではなかったのです。神がこの木をも幸いな木として造らないというのは有り得ないことでした。何故なら、神とは大いなる存在であられるからです。卓越した芸術家は、良い物しか造らないものです。神もそれと同じです。

 この善悪の知識の木のように、罪とは多くの場合、私たちの目に好ましく見えるものです。これは私たちの経験を振り返れば明らかでしょう。だからこそ、人は罪に陥るのです。もし罪が魅力的でなければ、人はこれほどまでに罪へ走ることなどなかったはずです。というのは、魅力のないどうでもよい嫌悪すべき事柄を、誰があえて自分から進んで行なおうとするでしょうか。ただそこには抵抗感があるだけなのです。ですから、人間がこれほどまでに罪深いということは、多くの場合において罪が魅力的であるということを意味しているのです。その良い例としては、ダビデのあの出来事が挙げられます。ダビデにとって、バテ・シェバは善悪の知識の木でなくて何だったでしょうか。あの時のダビデは、原初の時の女と一緒の状況に置かれていました。ダビデは、バテ・シェバにおける罪の魅力に打ち負けてしまった。それゆえ、女が善悪の知識の木から取って食べ罪を犯したように、ダビデはバテ・シェバのことで罪を犯してしまいました。

『それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』
 遂に女は禁じられていた実を食べました。この時に女が恐る恐る食べたか、わくわくしながら食べたか、という細かな考察はどうでもよい。私たちがここで考察の目を向けなければいけないのは、次のことです。すなわち、この時に人は自分を神として仕立て上げたのです。何故なら、この時に人は神とその命令を至高の位置に置かず、むしろ自分とその欲望を至高の位置に置いたからです。これは神をその玉座から押しのけて自分がそこに座ることでした。何という傲慢でしょうか!

 女は、禁断の実を夫にも食べさせてしまいました。女は、夫も罪の共犯者にしようとしたのでしょうか。それとも単に美味しかったから夫にも味わわせようとしたのでしょうか。そうではなく、夫も自分と同じように神のようにさせようとしたのでしょうか。聖書に女の心理は何も書き記されていませんから、女がどのような心をもって夫にも木の実を食べさせたのか私たちには分かりません。しかし、そのようなことは別にどうでもよいことです。どうでもよいからこそ、恐らく聖書も女の心理について何も書き記していないのだと思われます。私たちが考察すべきなのは、次のことです。すなわち、まず第一に女が禁断の実を食べ、次に男がそれを食べたのです。ここにおいて私たち人間には死が与えられることになりました。また、ここで注目すべきなのは、サタンがまず女のほうを罪に堕としたということです。聖書が教える通り、男はサタンの手に堕ちませんでしたが、女は堕ちてしまいました。パウロはこう言っています。『また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。』(Ⅰテモテ2章14節)創世記には書かれていませんが、男にもサタンは禁断の実のことで働きかけていたのです。だが、男を堕とすことは出来ませんでした。ですから、サタンは方針を変え、まず女を攻略し、その攻略した女を通して男をも攻略しようとしたわけです。この目論見は大成功しました。男はサタンには惑わされませんでしたが、女を通してサタンの手に堕ちてしまったのです。人や組織は、外部からではほとんど切り崩されることがないものです。キリストも外部からはやられませんでしたが、ユダという内部にいる者によりやられることになってしまいました。このようにサタンは、より弱い者を通して、また内部から働きかけることにより、人や組織を切り崩そうとします。というのも、弱い者に対しては誰でも安心の精神を持つものですし、距離的に近いというのは攻撃力の強さを意味するからです。例えば、まだ10歳にもならない小さな親戚の子どもであれば、ほとんど全ての人は警戒感など抱かないはずです。ですから、もしその子どもを通してサタンが働きかけたとすれば、いとも簡単にサタンの罠に陥ることになります。実にサタンのやり方はこのようです。私たちは、よくよく注意せねばならないでしょう。

 先にも述べた通り、善悪の知識の木を食べるという行ないそのものに悪質性はありませんでした。これは、殺人や暴力がそれ自体として悪質であるのとは違います。問題だったのは、禁断の実を食べるということ自体というよりは、その実を食べて神に背くという反逆でした。もし神がこの木から取って食べてもよいと言われたなら、人がこの木から食べても罪とはならなかったでしょう。しかし、神はこの木から食べることを禁止されました。ですから、禁断の実を食べることが問題だったのです。

 また、これは人間がサタンに服従することでした。何故なら、この時に人は神の声にではなくサタンの声に従ったからです。このように言われると、事の重大性がよく分かるのではないかと思います。「ただ木の実から取って食べただけではないか。」などと不満がる人は、神に背いてサタンに従うという反逆の面を見ていません。もし誰から自分の配偶者から心を離して不倫の思いを抱くのであれば、その思いがどれだけ小さかったとしても、その配偶者からすれば致命的な悪となります。また僅かでも国家に対する反逆を心で企てたならば、もうその時点で致命的な思いを抱いたことになります。人間が禁断の実を食べるということも、これと同じで、致命的なことだったのです。配偶者が不倫の思いを抱いているのというのに、人は我慢し続けるでしょうか。誰かがクーデターを計画しているのに我慢し続けるのでしょうか。これは我慢すべきではないことでしょう。神が禁断の実を食べた人に我慢ならなかったのも、それと同じでした。

 この出来事において人類は全く堕落してしまいました。これ以降、人間は原罪を持って生まれることになりました。ですから、キリストを除く全ての人間は、必ず罪を犯してしまいます。そのため聖書はこう言っています。『義人はいない。ひとりもいない。』(ローマ3章10節)また、この時から人は罪のゆえに死ぬことになりました。聖書はこう言っています。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった』(ローマ5章12節)。私たち人間の堕落と死は、全てここから始まったわけです。

【3:7】
『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』
 この時から、人はそれまでとは全く違った目で物事を見るようになりました。それまでは神の目で物事を見ており、人間の目は言わば閉じられていました。しかし、罪を犯すことにより、神の目が閉じられ、人間の目のほうが開かれてしまいました。『ふたりの目は開かれ』と言われているのは、このような意味です。また、この時に人は『自分たちが裸であることを知』りました。これは、自分たちの裸を恥ずべきものとして感じるようになった、ということです。それまでも人間は裸でしたが、それは私たちが今感じているような意味合いにおいて恥ずかしいものではありませんでした。何故なら、当時は裸であることが正常な状態だったからです。人間が罪を犯したので人間の全体性が汚らわしくなりました。ですから、裸の状態が正常ではなくなり、恥ずかしさを伴うようになったのです。もし私たちが罪を犯さなければ、今でも裸は恥ずべき状態ではなかったでしょう。というのも、罪により人間の存在自体が醜くなってはいないからです。

 この時、人間は恥ずかしい状態となった裸を隠そうとして覆いを作りました。報道陣に撮られる犯罪者が顔を手で隠すように、裸を隠さずにはいられなかったのです。どこを隠したかと言えば、『腰』です。どうして下半身を隠したのでしょうか。それは下半身にある性器という部分は、人間性が充満しているところだからです。この性器から人間が出ます。この器官は人間を製造する部位です。この器官以外の部位は人間を製造することがありません。つまり、性器とは人間の全存在をもっともよく示しているところです。ですから、罪に汚れて醜くなった人間は、自分たちをもっともよく表すそのような部位を恥ずかしいと感じるようになったわけです。しかしながら、ここで「一部の未開民族などでは性器を隠さずとも平気でいる者たちもいるではないか。」などと思われる人もいるでしょう。私は言いますが、彼らは極度に呪われた、神から遠く引き離されている者たちです。彼らはその他の民族よりも遥かに大きな呪いを受けています。それは、裸を恥じるというごく正常な感覚さえ取り去られていることからも分かります。要するに、彼らは例外的な人たちです。ですから、そのような例外的なケースを挙げて、創世記の記述に疑義を呈することはできません。それは、狂人や精神障害者という普通ではないケースを例に挙げて、人間の一般的な性質に疑義を呈することができないのと一緒です。

 人は『いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った』のですが、どうして『いちじく』だったのでしょうか。聖書において、いちじくとはイスラエルの象徴です。しかし、人の覆いがイスラエルを表わしているというのは意味不明です。それでは、人はこの時にいちじくを使うことにより、あらかじめ神に選ばれることになるイスラエルを預言していたとでもいうのでしょうか。これは強引なこじつけです。人がどうしてこの木から覆いを作ったのかは分かりません。恐らく、人は、ただ心の赴くままにいちじくの葉から覆いを作ったのでしょう。私たちが自動販売機で飲み物を買う際には、気の赴くままに飲み物を選ぶものです。人がいちじくを選んだのも、そのようだったと思われます。

 ところで、ここでは人が「腰」の覆いを作ったとだけ書かれています。女が胸を隠したとは書かれていません。この時に女は胸を隠したのでしょうか。ただ男と同じように腰を隠しただけなのでしょうか。これについても何も書かれていないので分かりません。私たちは、そもそも女がいつから胸を覆うようになったのかさえ知りません。もしかしたら原初の時からある時期までは、女が胸を隠していなかったという可能性もあります。腰を隠していない民族はほとんどいないのに対し、女性が胸を隠していない民族はそれなりに見られるという事実は、一考に値します。私としては、ただこの時には女が胸をも隠した可能性はないわけではない、とだけ言うに留めたいと思います。

 このいちじくによる腰覆いが、服の起源です。私たちは、日々服を備えて下さっておられる神に感謝せねばなりません。しかし、服を生じさせることになった原因、すなわち善悪の知識の木を食べるという罪については感謝すべきではありません。何故なら、罪を犯したこと自体について感謝するというのは狂気の沙汰だからです。神は、この堕罪の出来事を、人間の多様性のために用いられました。人間が罪を犯して服を着るようになったからこそ、私たちには多種多様な個性が現われるようになりました。服があることで、人はどれだけ区別がつくことでしょうか。もし罪を犯さず、服を着ることもなければ、私たち人類の外観と印象はどれだけ単調になっていたでしょうか。その場合、個性のあまりないつまらない人類社会となっていたはずです。しかし、だからとって私たちが罪を犯したことについて首肯してよいということにはなりません。罪の結果として人類に多様性が生じたことは幸いだったのですが、その罪とはそもそも犯されるべきではなかったことだからです。悪により生まれた幸いな結果に基づいてその原因である悪そのものをも首肯したマンデヴィルは大いに非難されてしまいました(「蜂の寓話 私悪すなわち公益」)。彼が非難されたのは当然のことです。私たちは思い違いをしないように気をつけねばならないでしょう。

【3:8】
『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』
 神が『園を歩き回られる』とは、どのような意味なのでしょうか。これは、エデンの園における神の臨在を言っています。この言い方は、あたかも神が物理的な身体を持っているかのようです。しかし、『園を歩き回られる』という言葉は、神が私たちのような身体を持っているということではありません。何故なら、神とは見ることのできない御方だからです。パウロがⅠテモテ6:16の箇所で言っている通りです。ある偽典の中では、園において神が人間のような身体を実際に持って存在しておられたとしています。神が、王座に座ってそこを統べ治めておられるのです。これはただの空想に他なりません。

 人は、この神の声を聞きました。それは頭の中で鳴り響いたというのではなく、誰もが聞こえるようにして聞こえたはずです。キリストが地上におられた時、雷のように神の声が鳴り響いたように(ヨハネ12:28~30)。また、シナイ山の時に、神がその御声を鳴り響かせたように。この時はまだ、神がこのようにして直接的に御声を聞かせておられました。何故なら、この時はまだ人間の霊的な繊細さと感受性が全く損なわれていなかったからです。一方、今の時代において神はもうほとんどこのようにはなさいません。何故なら、今の時代の人間が持つ霊的な繊細さと感受性はほとんど損なわれているからです。プライドの高い卓越した巨匠の料理人は、自分を馬鹿にする者たちに対し、熟練された凄腕による豪華な料理を振る舞うことで自分の力量を誇示しようとはしないでしょう。むしろ、「そんな者たちに俺の料理は絶対食わせない。」と言うでしょう。神が現代人に対して直接的に御声を聞かせて下さらないのも、それと同じなのです。

 この御声を聞いた人間は、『神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠し』ました。怖かったのです。また恥ずかしかったのです。それは、犯罪を犯した悪人が、警察の声やパトカーの音を聞いて逃げ隠れようとするのとまったく一緒です。また夫に不義を働いた妻が、夫の顔を直視できず、夫と一緒にいることを避けるようになるのと一緒です。この時の人間は、罪を犯したので大いに恐れて恥じることができました。まだ霊的に純粋だったからです。しかし、今の時代は(私が今の時代と言うのはフランス革命以降の時代です)、たとえ罪を犯したとしても、多くの人が神に対して恥じたり恐れを抱いたりすることはほとんどありません。何故なら、実に多くの人たちが無神論的になり、この世のことだけを考え、霊的に純粋ではなくなったからです。京セラやKDDIの創業者である稲盛和夫は、悪いことをする度に「神様。ごめん。」と言って反省していると著書の中で書いていましたが、このような人は現代において稀なのです。

 この箇所を読めば分かる通り、人は善悪の知識の木を食べて罪を犯しましたが、即座には死にませんでした。先に見た創世記2:17の箇所で、神はこの木から食べたならば死ぬと言っておられました。もうお分かりでしょう。神が『死ぬ』と言われたのは、物理的な意味において即座に死ぬということではなかったのです。もしそういう意味だったとすれば、人間が善悪の知識の木から取って食べた際、猛毒を口にするかのように即死していたでしょう。神が言われたのは、人間が死ぬ存在になるという意味でした。確かに、人間は禁断の実を食べたので、死すべき存在になってしまいました。これは誰も疑えないことです。また、神が言われたのは、霊的に死ぬという意味だったと捉えることもできます。キリストの御言葉から分かる通り、堕落後の人は再生しない限り、霊的に死んでいるからです(ヨハネ5:25)。ですから、人間が禁断の実を食べても即死しなかったというので、次のように言って聖書を批判することはできません。「神は人間に善悪の知識の木を食べたら死ぬと言われたが、実際に食べた際には死ななかったではないか。」

 ところで、ここで『そよ風の吹くころ』と書かれているのには、何か深い意味があるのでしょうか。これは直訳すれば『日の風のころ』となります。これは神が風において園を歩き回っておられたことを示しているのだと思われます。聖書では神が風をその乗り物とされると教えられているからです(詩篇18:10、104:3)。この『そよ風の吹くころ』という言葉が無意味に書き記されたとは私には思えません。