【創世記3:9~19】(2021/02/07)


【3:9】
『神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』
 神は、人がどこに隠れたのかと問われました。これは、あたかも人の隠れた場所が分からないかのような言い方です。しかし、神は人がどこに隠れたのか知っておられました。何故なら神とは全知の御方だからです。神は、人が木の間に隠れるよりも前から、そもそも世界の始まる前から、人が隠れることを、そしてその隠れるところがどこであるかを知っておられました。また、神は、人が自分が隠れていることを知っているよりも豊かに人が隠れていることについて知っておられました。何故なら、人は限られた観点からしか物事を捉えられませんが、神は全ての観点から物事を捉えられるからです。例えば、人は自我を通して、つまり自分が認識している状況と方角からしか自分の隠れていることについて捉えられませんでしたが、神は全ての方角とその時におけるあらゆる状況から、また科学的な意味から、そして人の自我をからも人が隠れていることについて捉えておられました。人が自分の隠れていることについて1を知っていたとすれば、神はそのことについて1000を知っておられたと言えます。では、神はどうして人が隠れていることについて何もかも知っておられたのに、あえてどこに人が隠れたのか分かっていないかのような言い方をされたのでしょうか。これは、人がどこに隠れたのか分からないからこう言われたのではなく、人の罪悪を咎めようとしてこう言われたのです。ちょうど大人が子どもの行なった悪について全てを知っているにもかかわらず、何も知らないかのように「お前は何をしたのか。」などと問うようなものです。黙示録7:13の箇所でも、長老の一人が事柄を何も弁えていないかのような言い方でヨハネに質問をしています。これも、やはり事柄を弁えていないからそう言ったのではなく、実際は事柄を弁えているのですが、ある目的のためにあえて事柄を弁えていないかのようにこう言ったのでした。

【3:10】
『彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』
 神の呼びかけに対し、人は素直に答えています。そこに偽りや誇張は全くありません。神とは全てをご存知の御方です。この時の人は、そのことについて知っていました。ですから、正しい答えを神に対してしたのです。つまり、出鱈目を言ったとしても神の前では全く意味がないと分かっていたのです。

【3:11】
『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」』
 神が、罪に陥った人を咎めておられます。これは実に強烈でした。罪を犯した人間は、神の責めに対抗することができません。何故なら、神は正しくあられ、常に正しく責められるからです。

 これは人類最初の審判でした。裁判官は神、被告人は人とその妻、またサタンとサタンに入られた蛇、法廷はエデンの園です。このようなことが起きたのは罪のゆえです。もし罪を犯さなければ、こんなことは起こりませんでした。このように、罪とは私たちを悲惨にさせてしまいます。恐れ、不安、動揺、逃避、批判、告発、暴露、逮捕、抑留、訴訟、裁判、判決、刑罰…。経験からも言えることですが、罪を犯すならば、必ずトータルでマイナスとなります。ですから、人が罪から離れようとしないのは愚かさの表われなのです。

【3:12】
『人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』
 人は、自分に与えられた妻に罪の責任をなすりつけようとしています。「全てはあの女が原因だ。」人はあたかもこう言わんばかりです。この時に人は、このように言えば罪を免れるとでも思っていたのでしょうか。その可能性はかなりあります。実に、人間が他人に責任転嫁しようとするのは、この時からそうでした。自分が罪を犯したのに、それを他人のせいにして、刑罰の悲惨を回避しようとする。これは昔から人間の根本的な傾向だったのです。今でも人間はこのようです。このようなことを考えると、人類の知性は歴史が進むごとに高まっているなどという見解は、正しくないように思えます。その犯された罪を全て自分の責任に帰する昭和天皇のような存在も、いることにはいます。しかし、そのような人はこの世において決して多くはありません。ほとんど全ての人間は自己愛が強すぎるからです。

 人に謝罪の言葉は全くありませんでした。キリストの例え話に出てくるあの取税人の場合、次のように言いました。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18章13節)しかし、人がこのように言うことはありませんでした。何故なら、心が傲慢になっており、そのような低い姿勢を持つことはできなかったからです。ここにおいて人間の罪深さがまざまざと表われています。害を与えたその対象よりも自己保身のことだけを考える。そればかりか、害を与えたその対象に文句のようなことさえ言う。人間はこの時から倫理的に狂っていたのです。

【3:13】
『そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』
 神は、続いて女に語りかけておられます。今度は女を咎めようとされたのです。

 女も、やはり他の存在に責任を押し付けようとしています。女も男と同様に罪深かったのです。ここで女は、すぐさま悔い改めるべきでした。自分の罪を示されたダビデが即座に御前において悔い改めた時のように。しかし、女はこのダビデのようではありませんでした。確かに女は罪深かったのですが、しかしながら、私たちはここでこの女に対して強烈な批判をすることができません。何故なら、私たちの親を辿れば、この最初の女に行き着くからです。私たちは例外なく、元はといえばこの女から出てきているのです。すなわち、私たちもこの女のDNAを持っているのです。ですから、私たちもこの女のように罪深い。であれば、どうして私たちがこの女よりも優れているかのようにこの女を批判することができましょうか。

【3:14】
『神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』
 続いて神は、蛇に対して語っておられます。しかし、蛇が何かを言う機会は与えられませんでした。男と女の場合、何かを言う機会が与えられました。蛇はそうではなかった。ただ神の断罪を一方的に聞くのみでした。これは何故だったのでしょうか。それは、サタンが偽りや愚かなことしか言わないからです。神はそのことについてよく知っておられました。だからこそ、蛇に何かを言う機会をお与えにならなかったのです。例えば、嘘と愚かなことしか口にしない気の狂った詐欺師がいた場合、あえて何かを言わせようとするほどに無頓着な人がいるのでしょうか。特別な理由でもない限り、恐らく誰もいないと思われます。神がサタンに返答させなかったのも、それと同じです。実際、これ以降の箇所を見ると、サタンは何も言っていません。神が一方的に裁いておられるだけです。このように断罪されたサタンが、歯ぎしりするか悔しがったりしたのは間違いありません。何故なら、サタンは高慢であって、上から何かを言われるのが嫌いだからです。もっとも、ここでサタンがそのような態度を取ったなどということは何も書かれていないのですが。しかし、書かれていないからと言って、そのようでなかったということにはなりません。

 この3:14の箇所では、実際の蛇が裁かれています。この動物としての蛇は、もしサタンに入られなければ、恐らく人を惑わしてはいなかったはずです。ですが、蛇はその中に入ったサタンと共に人を惑わしました。ですから、蛇もサタンが裁かれるように裁かれねばならなかったのです。ちょうどサタンに入られたのでキリストを売ったユダがサタンと共に裁かれるべきであったのと同じです。次の3:15の箇所では、今度はサタンという霊的な蛇に対して語られています。こちらの箇所で言われているのは、実際の動物としての蛇ではありません。3:15の箇所でも実際の蛇について言われていると解するならば、そこで何が言われているのかよく分からなくなってしまいます。

 神は、まず動物としての蛇から断罪しておられます。この3:14の箇所で言われている通り、蛇は、もっとも呪われた動物となってしまいました。何故なら、蛇はサタンと共に人を堕罪に陥れたからです。この蛇以外に人間を惑わした動物はいません。ですから、蛇が動物の中でもっとも呪われたのは理の当然なのです。このため、蛇は『一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならな』くなりました。実際、蛇は今に至るまで腹ばいで歩き、塵を食べています。この蛇ほど惨めな地上の動物が他にあるでしょうか。ずっと手足もないままで地面を這いずり回っている。これは蛇が動物のうちでもっとも呪われたからに他なりません。私たちも蛇を見れば、たいていの人は気持ち悪いと思ったり、避けたりするはずです。もし蛇がもっとも呪われたのでなければ、こういうことはなかったはずです。中には蛇を好ましく思ったり飼ったりする人も見られますが(マイケル・ジャクソンは蛇を飼っていました)、聖書から言えば、これは少しおかしいのです。もっとも呪われた動物、しかも人類の堕落を生じさせた動物を愛好するというのは、普通とは言えません。なお、この蛇はもっとも呪われた地上の動物でしたが、蛇にとっては幸いなことに、ノアの大洪水の時に箱舟に入れられて救われました。もし蛇が箱舟に入っていなければ、今の世界に蛇は見られなかったでしょう。一方、恐竜のほうは蛇のように残されないで絶滅させられました。つまり、神は蛇がもっとも呪われているのを知っておられましたが、それでもこの世界に蛇が存在し続するのをお望みになったのです。恐竜の場合、彼らが残るのは神の御心ではありませんでした。ここまで6000年もの間、蛇がこの地上で生かされ続けており、しかも至る場所でその姿を見かけることを考えれば、恐らくこれからも蛇はずっとこの地上に残され続けることになるのだと思われます。

 ヘンリー・モリスは、この箇所から、蛇にはもともと手足があったと考えています。すなわち、蛇は手足のある動物として創造されたのですが、呪われた際にその手足が切り落とされて地を『腹ばいで歩き』ながら生きねばならなくなった、と。なるほど、この考えには無理がなく、それゆえ検討に値します。もしこの考えが正しければ、今私たちが知っているような姿の蛇が女を木の場所で誘惑しているよく見る絵は間違っていることになります。私としては、モリスの考えを受容したいと思います。この考えは強力であり、反対意見が出せません。何故なら、呪われた蛇が呪われて以降、ずっと腹ばいで歩かねばならなくなったということは、すなわちそれまではずっと腹ばいで歩く必要がなかったということを意味しているからです。もし蛇が最初から地面を這い続けねばならないように造られていたとすれば、神が呪われた蛇に対して『おまえは一生、腹ばいで歩き…』と言っておられるのは非常に不合理だということになります。というのも、呪われてからも蛇がそれまでのように這い続けなければならないことに変わりはないからです。これは例えるならば、大犯罪を犯して裁判にかけられた人が、判決として「あなたはこれからずっと2本足で歩き続けねばならない。」などと言われるようなものです。これでは前と何も変わっていません。もし蛇の手足が切り落とされたのでなければ、これと同じことがこの3:14の箇所でも言えるわけです。つまり、蛇の生き方に変化が生じたからこそ、『おまえは一生、腹ばいで歩き…』と言われているわけです。恐らく、呪われる前の蛇は、多くの人が頭に思い描く竜のようであったでしょう。その時の蛇には、手と足、そして翼があったのです。実際、聖書では蛇であるサタンが竜とも言われています(黙示録12:9)。頭の中で今、縄のような姿の蛇に短い手足と2つの翼を付けて巨大化させて下さい。竜に似ている動物になるはずです。とすれば、竜とは実は架空の動物ではなかったことになります。そうであれば、多くの人たちが竜を格好いいと思っているのは(格好いいと思っているからこそタトゥーとして掘ったり、車にステッカーを貼ったりするのです)、実に自然であることになります。何故なら、それはまだ蛇が呪われていない時の状態だからです。前から何度も述べているように、神は全ての生物を非常によく造られました(創世記1:31)。蛇すなわち竜も例外ではありません。ですから、そのような竜を格好いいと思うのは何も不思議ではないのです。今書かれたことを受け入れた人は、それまでに持っていた蛇の堕落前の姿に関する認識を変えるべきです。私も以前は、堕落前の蛇の姿を、他の人たちと同じような姿としてイメージしていました。しかし、今はもうそのイメージを変えています。

 ここでは蛇について、『おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。』と言われています。これは蛇以外の動物も呪われたことを示しています。ただ蛇以外の動物たちは、蛇よりも呪われる度合いが弱かっただけです。全ての動物たちは人間の呪いに巻き込まれてしまったわけです。もし呪われていない動物が何かいたとすれば、その動物は死ぬことがなかったでしょう。しかし、あらゆる動物は例外なく死んでしまいます。ですから、全ての動物は例外なく呪われてしまったことになります。何故なら、呪いにより死がこの世界へと入ってきたのですから。

【3:15】
『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」』
 今度は、サタンという霊的な蛇に対する宣告がされています。こちらのほうは実際の動物としての蛇に言われているのではありません。もしそうだとすれば、ここでは女の子孫が動物としての蛇の子孫を踏み砕くと言われていることになります。女の子孫が動物としての蛇の頭を踏み砕くというのは、一体どういうことでしょうか。これでは意味が分かりません。ですから、この3:15の箇所では霊的な蛇について言われていることになります。それとは逆に、先の3:14の箇所では霊的な蛇について言われているのではありません。こちらのほうは動物としての蛇について言われています。もし3:14の箇所で霊的な蛇すなわちサタンについて言われているとすれば、サタンは呪われて以降、あらゆる野の動物よりも呪われて、ずっと地を這い廻らなければいけなくなったということになります。しかし、そもそもサタンは動物ではありません。また、彼はエペソ2:2の箇所によれば『空中の権威を持つ支配者』なのですから、言うなればずっと空を飛んでいるわけです。それゆえ、3:14の箇所ではサタンについて言われていると捉えることはできません。人間に与えられた思考の力を大いに発揮して下さい。そうすれば私の言ったことがよく分かるはずです。

 ここで言われているのは、いわゆる「原福音」と呼ばれるものです。「福音」とは、イエス・キリストの救いを告げ知らせる聖なる音信のことです。その福音が、この時におぼろげながらではあるものの、初めて語られました。ですから、これは「原福音」と呼ばれるわけです。お望みであれば「初福音」と呼んでも問題ないでしょう。言葉の印象からすれば、こちらのほうが多くの人にとって分かりやすいのではないかと思います。この原福音は紀元前4000年頃に語られたものです。この箇所に書かれている言葉を見て行かねばなりません。まず『おまえ』とはサタンのことであり、『女』とは人類最初の女のことです。つまり、ここではサタンと最初の女とが敵対し合うと言われています。サタンと女において起きた不幸な出来事の内容を考えれば、サタンと女が敵対し合うのは当然です。次に『おまえの子孫』とはサタンの子どもであるパリサイ人や律法学者、長老たちのことであり、『女の子孫』とはイエス・キリストのことです。つまり、これはキリストが現われた時代に、キリストとサタンの子どもらであるユダヤの指導者たちが敵対し合うということです。これは福音書を見れば分かる通りです。実際、キリストはユダヤの指導者たちに対して『蛇ども、まむしのすえども』(マタイ23章33節)と言われました。そして『彼』とは既に確認した『女の子孫』ですから、イエス・キリストです。つまり、ここで言われているのは遂に現われたキリストがサタンの頭を踏み砕いて滅ぼされ、サタンはといえばそのキリストの踵に噛みつく程度のことしか出来ない、ということです。

 この預言は既に成就しています。何故ならば、これはキリストについての預言であり、そのキリストは既に現われたからです。具体的な説明はこうです。イエス・キリストはこの地上に現われ、その十字架の死により、サタンの頭を踏み砕いて滅ぼしてしまわれました。次のように言われている通りです。『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださるためでした。』(ヘブル2章14~15節)キリスト御自身も地上にまだおられた時、こう言われました。『今がこの世の裁きです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。』(ヨハネ12章31節)このように言われたのは、もう間もなくキリストが十字架の死によりサタンを打ち砕かれることになるからです。このため、全世界の民は、キリストを信じるならばサタンの支配から逃れられるようになりました。それまでユダヤ人以外の民族はサタンの支配から逃れようとしても出来ませんでした。何故なら、その時にはまだサタンの頭が打ち砕かれていなかったからです。『おまえは、彼のかかとにかみつく。』と言われているのは、既に述べたようにサタンがキリストの踵に噛みつく程度のことしか出来なかったということです。サタンはキリストを迫害し、攻撃し、最後には殺してしまいました。しかし、それはキリストにとっては踵を噛みつかれるぐらいの小さなことに過ぎませんでした。何故なら、主はその十字架の死により逆にサタンを滅ぼされ、しかも死んでから3日目に復活されて死に打ち勝たれたことを御示しになったからです。つまり、サタンのキリストに対する働きかけは徒労に終わったわけです。

【3:16】
『女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」』
 女には2つの呪いが与えられました。すなわち、生む際における苦しみの増加と妻における力の弱体化です。これらは、どちらも深く考察されるに値します。注意せねばならないのは、女にはこの2つの呪いだけが与えられたというわけではない、ということです。ここでは単に女に特有の呪いが2つ言われているだけに過ぎません。当然ながら、女はこの2つの呪い以外にも、男と同じように、知性の低下、霊性の剥奪、道徳心の腐敗、良心の不安などといった諸々の呪いを受けました。

 女は呪われたので、『みごもりの苦しみを大いに増』されることになりました。これは陣痛のことを言っています。この陣痛は、大型トラックに衝突されたかのようだとか、最も酷い便秘のようだなどと言われます。陣痛を味わったことのない人に、その痛みと苦しみは実感できません。一度味わったことのある女性であれば、恐らく出来るならばもう2度と味わいたくないと思うのではないかと思われます。この陣痛という悲惨な現象は、呪いのために現われたものなのです。確かに、このような巨大な苦痛をもたらす現象は、呪いという他ありません。この生みの苦しみにおける呪いは、動物の雌にも与えられました。動物の雌も、子を生む際には、大いに苦しむものです。私たちが動物が出産する様子を、何かの映像や実際の現場で見る通りです。女に与えられた生みの苦しみの呪いに、動物の雌も巻き込まれてしまったわけです。最近の時代では無痛分娩が現われましたが、これは神の呪いを強制的に取り除こうとする人為的な抵抗です。女から罪が全く取り去られない限り、女から生みの苦しみの呪いが取り去られることもあり得ません。この地上にいる女から罪が取り除かれることはありません。ですから、これからどれだけ社会に知恵と技術が増し加わったとしても、世にいる女が生む際の苦しみを全く味わわなくて済むようになるという時代は来ません。

 また、女には夫の呪いが下されました。これは簡単に言えば、夫が暴君的になるということです。この箇所で書かれているように、妻は『夫を恋い慕う』ものです。女は男に比べて抽象の力がほとんどありませんから、背後の面までなかなか思考できず、目の前にある対象に精神が縛り付けられる傾向を持っており(女の描く絵がどれも平面的だったり、女がよく道に迷うのもこれが理由です)、そのため自分の配偶者に対しても心を一直線に傾けるものです。特に結婚したばかりの女がそうです。彼女たちは、自分と結婚したばかりの夫を何か非常に貴重な文化品でもあるかのように、まじまじと見つめています。しかし、その夫はといえば、自分の妻に粗暴になりがちとなるようになります。『彼は、あなたを支配する』とは、そういう意味です。妻に怒鳴り散らす夫は珍しくありません。妻に手を上げる夫も少なくないでしょう。最近の日本でも、ドメスティックバイオレンス(DV)がニュースでしばしば取り上げられています。対外的には不仲でなさそうに振る舞っている夫婦は、多く見かけるものです。しかし、家の中ではどのような関係があるのか他人には分からないものです。仲が良さそうに見えるが、実際は離婚寸前の関係だったという夫婦もいます。このように夫が暴君的な傾向を持って妻を支配するようになったのは、妻が夫を堕落させたからに他なりません。夫である男は妻により堕落したので、愛のない、高慢な、自己中心人間となりました。そのため、自分より立場的にも身体的にも弱い妻に対して、高圧的に振る舞う人が多いのです。これこそ女が罪を犯したことに対する神からの呪いでした。もし女が罪を犯さなければ夫は堕落しなかったでしょうから、夫は愛のある非常に道徳的な聖人として妻に接していたでしょう。未婚の女が優しい夫を求めるのは、自然なことです。何故なら、夫が妻に高圧的に振る舞うのは呪いのゆえであり、呪われていなければ夫は高圧的でなかったからです。これからも夫は妻に対して暴君的な傾向を持つことを止めないでしょう。世界的な倫理の陶冶により、いくらかでも夫婦関係が改善されるということは起こるかもしれません。しかし、罪がある限り、夫が全く妻に高圧的でなくなるということはありません。何故なら、女が罪を犯したからこそ、呪いとして夫が暴君的な支配性を妻に対して現わすようになったからです。もし本当に優しく堕落していないかのように思える夫を持っていれば、その人は神に感謝すべきでしょう。しかし、優しいからといって調子に乗り、夫を尻に敷くようになってはいけないのですが。

 もし女が罪を犯していなければ、今見たこの2つの呪いは女に下されませんでした。その場合、女は子を生む際に全く痛みを味わわないか、味わったとしても取るに足らない程度の痛みしか感じなかったでしょう。また夫も、暴君的に妻を支配する傾向を持たず、良き主人として妻を心地よく支配していたでしょう。しかし、今となっては、もうそのような状態は夢に過ぎなくなりました。それは女が罪を犯したからなのです。罪とは何と大きな悲惨をもたらすことでしょうか。

【3:17】
『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。』
 続いて男に対する断罪がなされています。どうして男は3番目に断罪されたのでしょうか。ここでは、罪の度合いが深い順に宣告されています。3者のうち、もっとも罪が深かったのは、サタンでした。何故なら、このサタンは人類を堕落させた張本人だからです。それゆえ、まずサタンが第一に宣告を受けました。女はその次に罪深かったので、第2番目に宣告を受けています。女は男を堕罪に陥れたからです。男はサタンと女に比べれば罪の度合いが弱いので、第3番目に宣告を受けています。というのも男は誰をも堕罪に引き込まなかったからです。男は女がいなければ罪を犯していなかったかもしれません。しかし、男は女のゆえに罪へと陥ってしまいました。男が女を原因として罪に陥ったのは確かですが、それでも男は自分の意志により自発的に罪を犯しました。ですから、男も当然ながら断罪を受けねばなりませんでした。

 ここで書かれている『アダム』とは、最初の人の名前です。これは神が直接名付けられた名前であって、土という意味です。人が土から取って造られたので、その名前も土だというわけです。実に合理的です。聖書においてアダムという名前は、ここで初めて出てきます。アダム・スミスなど、欧米人では、昔からこの名前を持つ人がそれなりに見られます。もし親が最初の人間の名前から取ってアダムと命名したのであれば、私には理解できません。何故なら、人間はこのアダムにおいて堕落したからです。このアダムは私たち人間の汚点です。そのような人間の名前を自分の子どもに、どうして付けることが出来るのでしょうか。

 アダムが呪われたので、地もアダムと一緒に呪われてしまいました。どうして地もアダムの呪いに巻き込まれねばならなくなったのでしょうか。それはアダムに地が委ねられていたからです。神はアダムに地を支配するようにと、こう言われました。『地を従えよ。』(創世記1章28節)つまり、地とはアダムに委ねられた管理物だったわけです。地は言わばアダムに与えられた所有物だったと考えても間違いではありません。ですから、アダムが呪われたことにより、その所有物である地も一緒に呪われたわけです。誰かが悪性の強いウイルスに感染した場合、その人の所有物やその住んでいる場所も汚されたと見做され、容赦なく消毒されるでしょう。アダムが呪われたので地も一緒に呪われたのは、これとよく似ています。また、地が呪われた範囲は、もちろん地球の全土です。すなわち、呪われた範囲は、どこかの一部分だけというわけではありませんでした。何故なら、アダムには地の全てが神から委ねられていたからです。

 アダムが罪を犯したのは、『妻の声に聞き従』ったからでした。アダムが妻の声をはねつけるべきだったのは言うまでもありません。アダムは、神の声をではなく妻の声を神としました。つまり、アダムは妻を神の座に据えたわけです。ですから、神に従わないで妻に従ったのでした。これでは裁かれて当然といえます。夫たちは、妻の声に聞き従ってはならない時があります。それは、サタンが妻を通して働きかけている時です。このアダムの場合がそうでした。サタンが妻を通して夫であるアダムを堕とそうとしていたのは明白です。また、ヨブが悲惨な状態になった時に語りかけた妻の声もそうです(ヨブ2:9)。ヨブの妻が『神のをのろって死になさい。』とヨブに言ったのは、サタンが働いていたからでなくて何でしょうか。ヨブはこの妻の声をはねつけていますが(ヨブ2:10)、それは正しい判断でした。このような時、妻の声を聞き流したり拒絶したとしても、何だか悪いことをしたかのように気にする必要はありません。何故なら、もしその声に従った場合、大変なことになるからです。これとは逆に、妻の声に聞き従うべき時もあります。それは神が妻を通して夫に働きかける時です。例えば、ラケルがヤコブに女奴隷を通して母とならせようとした時がそうです(創世記30:1~8)。まだ妻ではありませんでしたが、アビガイルがダビデの悪を止めようとして懇願した時もそうです(Ⅰサムエル25章)。このような場合、妻の声に聞き従わないと大変なことになります。何故なら、その場合、神の御心に背くことになるからです。私たちが注意せねばならないのは、サタンは妻を通して男を堕とそうとするということです。何故なら、男は女よりも堕としにくく、男はサタンよりも妻である女を通して堕ちやすいからです。なお、この堕罪の出来事から、妻の声には全く聞き従ってはならないと結論するのは誤っています。そのように考えるのは少し行き過ぎです。

【3:17~19】
『あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、』
 土地が呪われたので、土地は『いばらとあざみを生えさせ』るようになりました。この植物を見たアダムは、動揺したり恐れたりしたに違いありません。もう地は、前のように果物や穀物を豊かに実らせるということはなくなったのです。つまり、どうでもよい邪魔な食物が多く生えるようになりました。このため、アダムは『一生、苦しんで食を得なければならない』ことになりました。それまでも労働はあり、アダムは畑仕事をしていたわけですが、そこに苦しみの要素は全くありませんでした。しかし、その仕事が大いに苦しいものとなりました。これこそ正に呪いなのです。ところで、ここでは『あなたは、野の草を食べなければならない。』と書かれていますが、これは地が果物を全く実らせなくなったので野の草を食べるしかなくなったという意味なのでしょうか、それとも果物が少ししか実らなくなったので野の草を大いに食べねばならなくなったという意味なのでしょうか。これは、なかなか難しい問題です。現在の私としては前者のほうが正しいと思います。というのも、ノアの時になるまでは、地に果物が全く実らないという呪いがあったと考えるからです(創世記5:29)。だから、人は野の草を食べるしかなかった。このため、人間には食における欲求不満が大いに生じたと思われます。ですから、洪水が起こる直前の時代には、その欲求不満を解消させるため神からまだ許可されていない肉食が勝手気ままに行なわれていたのだと考えられます。レメクが創世記5:29の箇所で、ノアにより人間には慰めが与えられると言っていることからも、このように考えるのが妥当ではないかと思われます。いずれにせよ、確かにアダムは『いばらとあざみ』を見て、大いに嘆いたはずです。もう以前のような快適さと幸せは戻って来ないのです。仕事が順調に進まない、茨やアザミなどといった邪魔な植物が生えてくる、草を大いに食べなければならなくなった。それはアダムが罪を犯したからでした。このようになったのは、もっとも凄まじい悲劇の一つです。

 アダムの呪いにより土地から果物が全く生じなくなったということであれば、人類はノアの時代まで、非常に悲惨だったことになります。果物が全く手に入らないどころか、それを見ることさえできないからです。地はリンゴもミカンも葡萄もパイナップルもバナナもメロンも実らせてくれません。そこからは『いばらとあざみ』といった食べられないか、食べられてもあまり美味しくないものしか生じない。これは実に惨めであると言わねばなりません。しかし、これこそ正に呪いなのです。というのも、もし惨めでなければ、それは呪いとは言い難いからです。ですが、ここで言われているのが、地から全く果物が生じなくなったということなのかは分かりません。もしかしたら、実際は果物が僅かしか生じなくなっただけであった、という可能性もあります。この果物のことについては、創世記5:29の箇所が来たら、再び考察される予定です。

 この箇所から『いばらとあざみ』は、呪われた植物だということが分かります。何故なら、それは人間が堕落してから生じた植物だからです。この2つの植物を見て下さい。正に呪いとしての植物というより他ありません。これは明らかに良くない植物です。見ていても痛々しいだけです。神は、全てを良く造られました(創世記1:31)。ですから、この2つの植物が初めから神により創造されていたとは思えません。また、これは『いばらとあざみ』以外の植物でもそうです。例えば、ラフレシアがそうです。ラフレシアとは世界一臭い植物ですが、こんな植物をどうして神が造られたのでしょうか。これは気持ち悪いうえに臭くて忌まわしい良くない植物ですから、明らかに創世記1:31の記述に合致していません。これは間違いなく人間の罪に対する裁きとしてこの地上に生じさせられた後発的な植物です。また、先にも述べましたが、これは動物でも同じことが言えます。例えば、ゴキブリとダニは呪いとしての生物です。神は生物をどれも良く創造されました。ですから、神が最初からこんなにも気持ち悪い生物を造っておられたとは考えにくいのです。これは蛇が竜の堕落形態であるのと同じで、何らかの昆虫からの堕落形態であると思われます。

 男に対するこの労働の呪いは、今に至るまでずっと続いています。男がしている労働を見て下さい。その大半は大いに苦しみながら糧を得ています。中には楽々と稼ぐ人もいるでしょうが、そういう人はあまり多くありません。労働が苦しすぎて過労死してしまう人もいるぐらいです。365日働いた日本電産創業者である永守重信のような人もいますが、こういう人は稀です。近頃では「働いても働いても生活が良くならない。」といった苦しみの声もよく聞かれます。これは男が罪を犯して呪われたからなのです。もし罪を犯さなければ、仕事がこんなに辛いものにはなっていなかったでしょう。これからも地上にいる男たちは、労働において苦労し続けねばならないでしょう。この地上に罪がある限りは、確かにそうです。何故なら、労働における苦しみとは罪を犯したことに対する呪いにより付与されたからです。