【創世記3:19~4:5】(2021/02/14)


【3:19】
『ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』
 これは、アダムがそのまま生き続けることは出来ないということです。もしアダムが罪を犯さなければ、そのまま地上で生き続けられました。しかし残念ながらアダムは罪を犯しました。ですから、アダムは自分がそこから取られた土に戻らねばならなかったのです。この言葉はアダムにどれだけ大きな打撃を与えたでしょうか。アダムはこう言われて、驚愕し、その顔は歪みに歪んだと思われます。というのも、これは死刑宣告だからです。しかしながら、罪を犯して神に反逆したほど狂っていたアダムですから、もしかしたらこのように言われてもそれほど動揺しなかったという可能性もあります。ちょうど、死刑を宣告された犯罪人が、何か他人事でもあるかのように自分に言われた宣告を聞くように。

 聖徒であるならば、人間は塵であるということを弁えなければなりません。これは押し付けではありません。何故なら、それは真理だからです。真理を真理のままに捉えたり受け入れるようにと言っても、押し付けにならないのは明白です。例えば、赤は赤ですから、赤を赤として認識しなければいけないと言ったとしたらどうでしょうか。赤が赤であるのは間違いなく真理です。ですから、赤を赤として認識せねばならないと言っても、全く押し付けにはなりません。それと同様に、人間が塵であると弁えねばならないと言っても、全く押し付けにはなりません。聖徒の場合、自分たちが塵に過ぎないと認識しても、その精神が卑屈になることはありません。何故なら、聖徒たちは、自分たちが塵であると認識するだけでなく、自分たちは神の似姿(創世記1:26~27)であり王(Ⅰペテロ2:9)であるとも認識しているからです。また、聖徒たちが自分たちを神の似姿、王として認識しても、その精神が僭越になることはありません。何故なら、聖徒たちは自分たちが塵であるとも認識しているからです。要するに、聖徒の自己認識は非常にバランスが取れています。自分が塵だからといって低くなりすぎることはなく、高貴な存在だからといって高くなりすぎることもない。ですから、私たちが自分を塵だと認識しても、絶望したり自殺したりすることにはなりません。未信者の方の場合、自分たちが塵であると認識したならば、その精神はただ卑屈になるばかりでしょう。何故なら、自分たちが高貴な存在だと思うことはないからです。自殺する人が自殺してしまうのは、徹底的に自己の存在を低く見做すからです。もし彼らが僅かでも自分の存在を首肯的に捉えていたとすれば、恐らく自殺するには至らなかったでしょう。今の時代において多くの人たちは、自分たちが猿から進化したなどという自己認識を持っています。これは馬鹿げた、忌まわしい、気色の悪い、到底受け入れられないことです。実際、進化論を普及させたダーウィン自身が、この自己認識に抵抗感を持っていました(『人間の由来』)。聖書の述べるように、人間は塵から神により造られたと認識するほうが、どれだけ健全であり自然でしょうか。

 人間がそこから取られた地に帰るということは、ソロモンも伝道者の書の中で書いています。彼はこう言っています。『ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝道者の書12章7節)『みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。』(伝道者の書3章20~21節)これを書いた時、ソロモンの頭の中に創世記の内容があったのは間違いありません。文章的にどちらも似通っていますし、ソロモンは聖書のことをよく知っていたのですから。ソロモンは、霊についても述べています。この『霊』とは、私たちの魂、すなわち自我のことです。ソロモンが言っている通り、この霊は死により神の御前に引き戻されます。そこで贖われていた人は永遠の命を許され、贖われていない人は地獄の刑罰に入れられるのです。アダムに対し、神はこの霊のことについては何も触れておられません。これは何故かといえば、もし霊について言ってしまえば、死の宣告における恐ろしさが弱まるからです。もし霊のほうは神のもとに戻されて永続するなどと言ったならば、これから死んで終わるというメッセージがかすめられてしまいます。ですから、霊について触れるのは、少なくともここでは神の御心ではありませんでした。

【3:20】
『さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。』
 男は自分の妻に『エバ』(ヘブル語:ハバ)という名前を付けました。これは一般的にイヴとも言われます。アダムが女をこのように呼んだのは、『彼女がすべて生きているものの母であったから』でした。『すべて生きているもの』とは、人間のことです。これは人間以外の生きている生物は含まれていません。何故なら、エバは全ての人間を生んだ全人類の母であると言えますが、動物は全く生んでいないからです。もしこれが動物をも含めるべきだとすれば、エバは動物をも生んだことになってしまいます。また、男が女に命名したのは、男が自分の妻に対して権威を持っていたことを意味しています。『助け手』(創世記2:18)という名が示す通り、妻とは男の権威の下にいる存在者です。ですからアダムが女に命名したのは合法的でした。

 アダムという名前とは違い、このエバという名前を子に付ける親はそれほどいないように思われます。これもアダムの場合と同様、親の気持ちがよく理解できません。どうしてエバという名前を子に付けるのでしょうか。彼女は人類を堕罪に陥れた存在です。このエバが善悪の知識の木から取って食べていなければ、私たち人類に罪と死はなかったのです。ですから、この名前を付けられた女性は、非常に不名誉であると私には感じられます。これは、むしろ多くの人たちを罪や悪徳へと引き込んだ女性犯罪者に付ける呼び名として相応しいものです。

【3:21】
『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』
 神は、人間に皮の衣を与えて下さいました。これは神の愛によりました。先に人はイチジクの葉で自分の腰覆いを作っていたのですが(創世記3:7)、それではあまりにも不憫でした。ですから、神が取り計らって下さったのです。キリストが言われたように、神とは恩知らずの悪人にさえも良くして下さる愛の御方です(マタイ5:45、Ⅰヨハネ4:8)。神は、人が愚かにも御自身 に反逆してサタンに付き従ったのにもかかわらず、人のことを思って皮の衣を恵んで下さったのです。どうか、このような慈しみ深い神が褒めたたえられますように。この『皮の衣』がどのようなものだったかは、聖書に何も書かれていないのでよく分かりません。ただ、しっかりとした作りだったのは間違いないでしょう。何故なら、神とは完全であられ、完全に事をなされる御方だからです。また、神が皮で作られた衣を人に与えられたというのは、神が何かの動物を殺されたということを意味しています。何故なら、動物を殺してこそ皮の衣が作られるからです。もし殺されたというのでなければ、ただある動物から生きたままで皮を剥ぎ取ったということになります。その皮が取られた動物が何だったかは、私たちに知らされていません。ただ、その動物は一種類だったはずです。すなわち、人に与えられた皮の衣は、複数の動物の皮から作られてはいませんでした。何故なら、律法では合成された素材による服を作ってはならないと言われているからです。申命記22:11、レビ記19:19の箇所で書かれている通りです。

 ところで、神が動物を殺されたということは、一体どういうことなのでしょうか。本当に動物が殺されたかどうかは分かりません。動物を殺さなくても、動物の皮は手に入るからです。ただ、もし動物が殺されたとすれば、それは一体なにを意味しているのでしょうか。これは、イエス・キリストを象徴していると、ある人は考えました。つまり、動物が殺されてその皮が人に着せられたのは、イエス・キリストという屠られた犠牲の小羊を人が着ることを意味していると。なるほど、これは霊的であり、なかなか鋭いと感じさせられる見解です。確かに、イエス・キリストによって救われるとは、イエス・キリストをその身に着ることです。パウロは次のように言っています。『バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。』(ガラテヤ3章27節)私としては、この見解について何も言えません。何故なら、そもそも動物が本当に殺されたのかどうか不明だからです。この見解の持主は、霊的ではあるものの、論理学の訓練が幾らか足りないと思われます。それというのも、神が『皮の衣を作り、彼らに着せてくださった』というのは、必ずしも動物が殺されたことを意味しないからです。先にも述べた通り、もしかしたら動物が生かされたままで皮が剥ぎ取られたということもあり得るのです。また聖書の他の箇所を見ても、これがイエス・キリストとその救いを象徴しているなどとは明示されていません。明示されていないからこそ、今まで教会はこの皮の衣がイエス・キリストを象徴しているなどとは言わなかったわけです。もし明示されていたとしたら、もうとっくの昔からそのことが多くの教会において語られていたでしょう。

 この『皮の衣』も、やはり人類における服の始まりです。先に見た『腰のおおい』(創世記3章7節)も、服の始まりでした。もっと厳密に言えば、先に見た『腰の覆い』は下着の始まりです。何故なら、それは腰を覆い隠すものだったからです。一方、この箇所で書かれている『皮の衣』はシャツや上着などの始まりです。何故なら、これは腰を覆うだけのものではなく、身体の全体を覆うものだったからです。

【3:22】
『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」』
 人間は罪を犯したことにより、自己を自己の神としました。それまでは神の御心に生き、何かをしていました。善悪の基準を神に据えていたのです。しかし、これからは自分の心の命じるままに生き、何かをするようになりました。善悪の基準が自分の感覚や判断に据えられるようになったのです。神を中心にするのではなく、自己を中心にする。これはあまりにも大きすぎる変化です。それは、天動説から地動説に切り替わるぐらいの変化だと言えます。この大きな変化のことについて、神はここで『見よ。』と言っておられます。つまり、注目せよということです。これは、この時に起こった出来事の重大さをよく示しています。

 人が罪悪に陥ったため、人からは命の木が取り上げられてしまいました。前に神はもし人が罪を犯すならば永遠に生きることはない、と言っておられました(創世記2:17)。ですから、人が罪を犯した以上、この命の木から取って食べて永遠に生きることは許されませんでした。もし罪を犯したのにこの木から食べられるというのであれば、神は創世記2:17の箇所で虚しい言葉を発されたことになるからです。この命の木から食べるならば永遠に生きれるようになったというのは確かです。それは、この3:22の箇所を読めば分かることです。しかし、どのような食べ方により永遠に生きるようになっていたのかはよく分かりません。もしかしたから、一回だけ食べればもうそれ以降は永遠に生きれるということになっていたのかもしれません。一回食べたらもう当分は食べなくてもよいが、しばらく経過したらまた再び食べなければいけないということだったのかもしれません。短いスパンで定期的に食べるべきだったという可能性もあります。なお、この命の木を単なる象徴表現として捉えることはできません。つまり、この命をもたらす木が実際には存在していなかったということは考えられません。これは実際に園の中央に生えていた手で触れることができた物理的な木です(創世記2:9)。私たちは、オリゲネスがしたような創世記の比喩的解釈を斥けねばなりません。彼は創世記の創造の記述を全て比喩的に解釈するというとんでもないことをしたのでした。

 ここで『われわれのひとり』と言われているのは、神の3つの位格、すなわち父、子、聖霊のことです。『ひとり』とは、ここでは、どれか特定の位格を指しているのではありません。これは、単に位格を一般的に言っているだけです。また、『われわれ』と言われていますが、これは複数の神がおられるというわけではありません。それは聖書の教えではなく、多神教です。聖書が教えているように、神とは『唯一』(Ⅰテモテ2章5節)であられ『ただひとり』(申命記6章4節)です。ただその神のうちには固有性を持つ3つの位格があるのです。一人の神であられながら、3つの区別された位格がある。これは人間の理性によっては理解し得ないことです。ところで、私たちは神の三位一体を考える際にも語る際にも慎重にならなければなりません。何故なら、これはキリスト教の根本教義であって、少しでも間違えば大変なことになるからです。神の存在について誤るのは実に恐ろしいことです。ですから、私たちは神の三位一体における神学を軽率に取り扱わないように注意すべきでしょう。

【3:23】
『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。』
 人は罪を犯したので、園から追放されてしまいました。これは当然でした。社会を見ても分かるように、悪いことをした悪人が追放されるということは日常的に起きています。例えば、会社のお金を不正に自分のものとした会社員は、容赦なくその会社から追い出されてしまいます。ある団体の規則を守らない人がいれば、その団体にはいられないでしょう。アダムとエバもそれと同じでした。彼らは罪を犯したのです。ですから、園から追い出されても文句は言えませんでした。しかし、人がこの時に心の中で何かを呟いた可能性はかなり高いと思われます。何故なら、もうこの時には、人の心が堕落していたからです。このエデンからの追放は、ノアの大洪水やユダヤ人が自分たちのために遂に現われて下さったキリストを斥けたのと同様に、もっとも凄まじい悲劇の一つです。この追放の出来事と同等程度の悲劇はあるかもしれませんが、これ以上に悲しむべき出来事はないでしょう。

 このために人は『自分がそこから取り出された土を耕すように』なりました。それまでも人は土地を耕していました(創世記2:15)。しかし、その時の耕す仕事は祝福されており、楽しみそのものでした。何故なら、たとえ人が何もしなくても地が素晴らしい実りを自然に生じさせてくれたからです。エラスムスの『対話集』の中で、肉屋が原初のエデンについて次のように言っているのは正しい。「とりわけ大地は、人間が汗水流して働かなくても、すべてを十分豊かに産出していました。…こういう庭園を耕すのは、労働というよりは、むしろ、まったくの楽しみだったのです。」(『対話集』13魚料理 p243:知泉学術叢書8)つまり、堕落前の仕事には苦しみや奴隷的な要素が何も伴っていませんでした。しかし、堕落後は、人間と共に地も呪われてしまいましたから、地がそれまでのようには実りを生じさせてくれなくなりました。ここにおいて地を耕す仕事に苦しみと奴隷的な要素が伴うようになったのです。これこそ正に呪いです。ですから、堕落以降の人間は、エデンから追い出されて以降、どうしても土地を耕して労苦しなければ生きていけなくなってしまったわけです。楽しみから苦しみへ、自由から強制へ、祝福から呪いへ。これが人にもたらされた悲惨でした。

 もし人間が罪を犯していなければ、人は園から追い出されることも、奴隷的に苦しみながら労働をすることもなかったでしょう。死ぬこともありませんでした。また争いや不幸、病気といったものもありませんでした。しかし人間は罪を犯したので、諸々の悲惨を味わわねばならなくなってしまいました。実に罪が人をこのようにしたのです。ですから、罪とは実に恐ろしい、嫌悪すべきものであることが分かります。

【3:24】
『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』
 神は、人が命の木から食べることを禁じられました。ですから、神は人が2度とこの木のある園へ近づけないようにされました。園を封鎖されたのです。

 園の封鎖された場所は『東』でした。これは、エデンの園の入口が東にだけあったことを示しています。つまり、北と南と西からは園に入れない地形となっていたのです。恐らく、この3つの方角には崖か急斜面があったのでしょう。園に続くなだらかな道は東にしかなかったのです。もしそうでなければ、ここでは北と南と西も封じられたと教えられていたはずです。

 その東の場所には2つの被造物が置かれました。その一つは『ケルビム』です。これは天使の一種であり、「智天使」という意味です。これは実際の天使であって、エゼキエル書1章に出てきます。律法の中では、『槌で打って作った2つの金のケルビム』(出エジプト25章18節)を贖いの蓋の両端に作らなければならないと書かれています。こちらのほうは像であって、実際に生きている天使としてのケルビムではありません。このケルビムが園の東に置かれたので、人はもはや2度とエデンの園に入れなくなりました。ちょうど警備員が立っているので、ある場所や建物の中に入れないようなものです。もう一つは『輪を描いて回る炎の剣』です。これは何かを象徴していると捉えるのではなく、実際の剣だったと捉えるべきです。これは、理性は持たないけれども、神により生かされている無人格の被造物だと思われます。これは星と一緒です。星には理性がありませんが、しかし神により生かされているので無人格の存在として活動しているのです。園の東にはこの剣も置かれていたので、人は園に入ることができませんでした。これは、ちょうどある場所や建物の周りに有刺鉄線が張られているようなものです。園の東に置かれたこの2つの被造物には、「絶対に人間をエデンの園に入らせない。」という神の強い意志が現われています。これらを見た人間は、どれだけ驚愕したのか想像ができません。恐らくアダムの顔は恐怖により歪みに歪んだのではないかと思われます。というのも、この2つの被造物が置かれたのは神の威嚇に他ならないからです。

【4:1】
『人は、その妻エバを知った。』
 ここからは堕落後の話となります。創世記の章を区分した人がここから新しい章としたのは正しい判断でした。私に創世記の章区分が任されたとしても、やはりこうしたことでしょう。

 ここで『知った』と言われているのは、要するに秘事のことです。これは知的・認識的に知ったという意味ではありません。聖書は、秘事を露骨に表現せず、このようにソフトな言い方で語っています。何故なら、聖書とは聖なる書物であり、そこでは人の情欲を刺激するような言い方がされるべきではないからです。聖書はサドが書いたような本とはまったく真逆に位置している書物ですから、聖書がこのようにするのは当然です。この表現は、聖書の中で非常に多く使われています。ですから、この表現は覚えておくのが益となります。マリヤも、ルカ1:34の箇所でこの表現を使っています。

 アダムが堕落後に初めてエバを知ったかどうかは分かりません。堕落前にもエバを知っていた可能性があります。しかし、「それではどうしてエバは堕落前には妊娠しなかったのか。」と問われる方もいるでしょう。この問いには、「アダムは堕落前にもエバを知ったが、その時にはまだ妊娠しなかった。」と答えることができます。身ごもらせるのも、胎を閉じるのも、全ては神の御心次第です。ですから、堕落前にエバが妊娠しなかったとしても、何も不思議なことはありません。今の世界でも、不妊の女性は世の中に少なくないのです。

『彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。』
 エバは一人の子を産み、その子をカインと名づけました。これは人類史上最初に生まれた子どもです。子に命名するのは、最初からあったことが分かります。私の知る限りでは、欧米人の中で、このカインという名を子に付ける人はまず見られません。後にも語られますが、このカインとは最初の殺人者ですから、当然と言えば当然でしょう。しかし、何かの創作話の中では、この名前を持つ登場人物が時折見られます。

 この箇所では、エバにおける生みの苦しみについては何も触れていません。ですが、エバが大いに苦しんだことは間違いありません。しかし、この時の生みの苦しみと、今の時代における生みの苦しみが同等程度のものであるかどうか私たちには分かりません。今のほうが生みの苦しみは大きい可能性があります。何故なら、巨大な身体を持つ人の死骸が昔から度々発掘されていることを考えるならば、今の人間の身体は古代人に比べて小さくなっていると思われるからです。ですが、今のほうが苦しみは少ないという可能性もないわけではありません。何故なら、今の時代の人間が持つ諸感覚は、遺伝子の劣化により、古代人と比べると鈍くなっている可能性があるからです。今の人間が古代人に比べて年齢も身体の大きさも劣っているのであれば、感覚が劣っていたとしても何も不思議ではありません。しかし、この問題はあくまでも推測の域を出ませんから、もうこれ以上何かを言うのは止めておきたいと思います。このエバは、生みの苦しみを通して自分に与えられた呪いをまざまざと感じたはずです。そして、恐らく罪を犯さないほうがよかったと思ったのではないかと推測されます。何故なら、エバが罪を犯したために、このような生みの苦しみを味わわねばならなくなったのですから。

【4:2】
『彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。』
 カインの次に産まれたのはアベルでした。このアベルがカインから何年後に生まれたのかは全く分かりません。カインと同様、このアベルという名前を子に付ける人も、私の知る限りでは、欧米人の中にいません。

『アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。』
 神は、アベルには羊飼いの仕事を、カインには耕作者の仕事をお与えになりました。アベルは義人でした。そのアベルのしていた羊を飼う仕事が良い仕事だったのは言うまでもありません。カインは、後の箇所で書かれているように、殺人者です。ですが、だからといって彼のしていた耕作の仕事まで悪いということにはなりません。それは、堕落前のアダムが耕作の仕事をしていたことからも分かります(創世記2:15)。もし耕作が悪い仕事だったとすれば、堕落前のアダムは悪い仕事をしていたことになりますが、そんなことがどうしてあるでしょうか。その場合、それは神がアダムに悪しき仕事をお与えになったことを意味します。それはありえないことです。ですから、カインのしていた仕事も良い仕事でした。世にある仕事は、そのほとんどが良い仕事です。悪い仕事は、一般的に人々がいかがわしいと思うものですが、そのような仕事はあまり多くはありません。なお、この時にアベルがどれだけの羊を飼っていたのか、またカインが何を育てていたのかは、全く分かりません。何故なら、聖書には何もそのことについて書かれていないからです。

【4:3~5】
『ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。』
 この箇所を読むと、神への奉献行為は、最初の時代からあったことが分かります。古代世界に満ちていた神々への犠牲行為は、ここに端を発していたのです。しかし、この行為がどのようにして始まったのかは分かりません。堕落後に神をなだめようとして奉献行為が始まったのかもしれません。もしかしたら、堕落以前から、作物の奉献だけは既に行なわれていたという可能性もあります。しかし、堕落前に動物の奉献はされていませんでした。何故なら、堕落前にはまだ死がなかったからです。動物を死なせることなしに、神へ動物を奉献できないのは、誰でも分かることでしょう。

 ある時になると、アベルは自分の持っている最上の羊の初子を自主的に神へと奉献しました。これがアベルのやり方でした。一方、カインは耕作者でしたから、自分の持っている作物を神へ奉献しました。しかし、カインの奉献物は最上のものではなく、しかもカインは恐らく他の人間に奉献を代行させました。これがカインのやり方でした。神に何かを奉献するという点では、どちらも変わりません。しかし、そのやり方、精神状態、奉献物における質の度合いには天と地ほどの違いがありました。

 神は、アベルとその献納物を喜ばれました。アベルが誠実に奉献したからです。彼が最良の羊の初子を自分で捧げに行ったのは、彼の心における純粋さをよく現わしています。一方、神はカインとその献納物を喜ばれませんでした。カインの奉献が純粋ではなかったからです。カインは神などどうでもよいと思っていたのでしょう。だからこそ、最良のものではない作物を誰か別の人に奉献させに行ったわけです。心が敵対していれば、その人の行ないには荒が出ます。これは、ソロモンが『裏切り者の行ないは荒い。』(箴言13章15節)と言っている通りです。要するに、「別にどうでもよいと思っている者のために、どうして手間をかけて時間と精神を犠牲にしなければいけないんだ。」ということなのです。カインは心において敵対している神のために、わざわざ良質なものを丁寧に捧げたくはなかったのです。ここで、アベルとカインに対する神の態度が不公平だなどと思ってはなりません。神は、両者に対して相応しい態度を取られただけに過ぎません。私たちは、自分に好意を持って良くしてくれる人と、悪意を持っていい加減に何かをしてくる人に、まったく同様の態度で接するでしょうか。恐らくしないでしょう。前者には笑顔や丁寧な態度で接し、後者にはあまりそうしないはずです。であれば、神がアベルとカインにそれぞれ異なった態度を取られたことを何か問題視すべきではないでしょう。

 私たちは、このアベルのようにならねばいけないでしょう。その理由は3つあります。まず、人間の目的とは神だからです。私たち人間は、そもそも神に生きるために創造されました。ですから、私たちがアベルのように御前で誠実になるのは正しいことなのです。また、神は聖徒たちの主であられるからです。「主」とはすなわち主権者という意味です。であれば、聖徒たちはアベルのように主の御前で仕えるのが当然とせねばなりません。そして、私たちに正しい倫理が保たれるためです。昔から無神論は人を獣のようにすると言われてきました。表向きは慈善団体という仮面を被っているフリーメイソンも(これはNWO実現のために一翼を担っている陰謀団体です)、昔から無神論者は入会できません。確かに、神を無視して歩むならばサドやネロのように愚かな振る舞いをしたり、私たちが今見ているカインのように極悪を行なったりするようになります。何故なら、神を無視するカインのような人は、天罰の恐れを持たないからです。ですから、有神論者とは違って、無神論者は悪行に歯止めが効きにくい状態を持っています。

 神がカインとその献納物を喜ばれなかったので、カインは『ひどく怒り、顔を伏せ』ました。アベルとその献納物は喜ばれたのに、自分は喜ばれなかったからです。つまり、嫉妬の炎が燃え上がったわけです。カインが『顔を伏せた』のは、権威者の前で怒る人に見られる振る舞いです。権威者がいる場所で怒りを持つと、権威者が目の前にいる手前、その怒りを曝け出すことはなかなか出来ません。ですから、自分の感情を押し殺すと共に顔を下に向けるようになるのです。私たち人間とは、何か不満があると怒りを持ちやすい性質があります。怒る度合いは人によってそれぞれ違いますが、まったく怒らないという人は恐らくいないと思われます。この箇所を読むと、人間は、カインの時代から既に怒りを持つ生物だったことが分かります。