【創世記4:6~24】(2021/02/21)


【4:6~7】
『そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」』
 神は、カインがどうして憤っているのか、どうして顔を伏せているのか、知らないわけではありませんでした。しかし、ここで神はカインに『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。』と言っておられます。これは知らないから質問をしているわけではなく、神がカインの状態に心を向けておられることを示しているのです。

 神は『あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。』と言っておられます。カインは正しく行なっていませんでした。もっとも誠実を尽くさねばならない至高の存在を相手に、いい加減なやり方で事をなした。これは確かに正しいことではありません。カインも自分が正しく行なっていないのを感じていたと思われます。何故なら、人には良心が備えられているのであって、カインも例外ではなかったはずだからです。

 確かにカインは正しく行ないませんでした。そのため、彼は弟のアベルに対して嫉妬の炎を燃え上がらせました。そして、嫉妬がカインを殺人の罪に引きずり込もうとしていました。罪はカインにこう言っていたのです。「なあ、カインよ。早くアベルを殺してしまったらどうか。そうしたら、お前の怒りも消え失せ、スッキリするんじゃないのか。」このような罪の誘惑がカインにあったので、神はカインにこう言われました。『罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。』この時のカインは非常に危険な状態にありました。人類初の殺人を犯すか犯さないかの瀬戸際にいたのです。こんなにも戦慄すべき状況があるでしょうか。

 このことから分かりますが、嫉妬とは恐るべき心の働きです。これがあると、その嫉妬している対象に害を与えようとする方向に引き寄せられてしまいます。何故なら、人とは他人の幸いに耐えられないことが多いからです。例えば、何かの賞を取った人に嫉妬して嫌がらせをする人は少なくありません。ヨセフの兄弟たちも、ヨセフを嫉妬していたので、ヨセフを売り飛ばしてしまいました(創世記37章)。カインの場合、嫉妬のゆえに弟のアベルを殺してしまいました。この嫉妬とは、殺人と暴力と中傷に結びつく種子のようなものです。嫉妬の念が、実際の危害行為へと昇華するのです。この嫉妬は憎しみの一種です。だからこそ、神は律法の中でこれを罪として禁止されたのです(出エジプト20:17、申命記5:21)。

 ここで言われているカインが『治めるべき』であった『それ』とは何を指しているのでしょうか。これは、罪と捉えるかアベルと捉えるか、2つの意見があります。罪と捉えるならば、カインが殺人の罪を犯さないよう自制すべきだったと言われていることになります。アベルと捉えるならば、カインがアベルの兄、すなわち年長者としてアベルをリードすべきだったと言われていることになります。宗教改革者のカルヴァンは、この『それ』をアベルとして捉えていました。これはアベルとして捉えるべきでしょう。というのも、カインは兄としてアベルをリードすべきだったからです。次の節である3:8の箇所を見ると、確かにカインはアベルを野に導いています。つまり、神はこのように言われたことになります。「あなたには殺人の罪が強く迫っているが、その罪に同意せず、むしろ弟のアベルをしっかりとリードせねばならない。」とはいっても、これは無視すべき問題ではありませんが、最高に重要な問題であるというわけでもありません。ですから、これを罪と捉えるにせよアベルと捉えるにせよ、意見の相違が関係の対立を生じさせるべきではありません。

【4:8】
『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』
 カインは神の声に聞きませんでした。『しかし』という逆説の接続詞が、そのことを示しています。このためカインは弟アベルを殺してしまいました。これが人類最初の殺人事件でした。カインはどのようにしてアベルを殺したのでしょうか。刺殺でしょうか、撲殺でしょうか、絞殺でしょうか、圧殺でしょうか、それともこれ以外の殺害方法だったのでしょうか。これは分かりません。何故なら、この箇所では『襲いかかり、彼を殺した。』とだけしか書かれていないからです。

 カインがアベルを野に導いたのは、野の場所でアベルを殺そうと定めたからです。では、どうして『野』なのでしょうか。それは殺人行為を誰にも知られたくなかったからです。というのも、これ以外の理由は考えられないからです。もしアダムとエバに殺人行為を見られたり、アベルの叫び声を聞かれたりすれば大変なことになります。ですから、両親から遠く離れた野にアベルを導いたわけです。往々にして闇の行ないは闇の場所でなされます。それは、悪の実行者が光を恐れるからです。しかし、カインは愚かな人間でした。確かに野でアベルを殺せば、人には見つからず、知られることもないかもしれません。ですが、神は天にも地にも満ちておられ(エレミヤ23:24)、野の場所でも目を光らせておられました。カインは、この神の目をまったく考慮していませんでした。ですから、カインは神の目の前で殺人行為をしていたことになるのです。もしカインが真に賢ければ、神は野においてもおられることを考慮していたでしょう。そして、アベルを殺すことはしていなかったでしょう。警察官の見ている前で公然と殺人行為をする人がいないのと同じです。

【4:9】
『主はカインに、「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」』
 神が罪のことでアベルに迫っておられます。『あなたの弟アベルはどこにいるのか。』神は人に対する話し方を知っておられます。これはカインにとっては非常に手痛い語りかけでした。

 カインは神に対してとぼけています。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』これは、警察に問い詰められている不良が「知らねえよ。」などと言うようなものです。この時のカインは罪の責任を負うつもりなどまるでなかったように思われます。

【4:10~12】
『そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」』
 アベルの血は、殺人行為の際、地へと流されました。そのアベルの血が、地から神に向かってこう叫んでいました。「神よ。早く復讐をあの男にお与え下さい。」これは、ちょうど殉教者たちの魂が次のように神へ叫んでいたのと一緒です。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』(黙示録6章10節)しかし、どうしてここでは血が人格を持って神へと叫んでいるのでしょうか。これは血とは人の命そのものだからです。レビ記17:14の箇所でこう言われている通りです。『すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。』17:11でもこう言われています。『肉のいのちは血の中にあるからである。』ですから、血が人格を持って叫んでいる様子がここで書かれているのは、何もおかしいことではありません。

 神は、即座にこのアベルの血による叫びを聞かれました。神は、アベルの血が流された土地を呪うことで、カインに対する復讐とされました。このため、カインが『その土地を耕しても、土地はもはや、…その力を生じない』ことになりました。それまでは実りを生じさせていたのですが、呪いのために不毛の地とされたのです。それゆえ、カインはそこに住めなくなり、『地上をさまよい歩くさすらい人』とならねばならなくなりました。これはカインにとって大きな不幸でした。何故なら、住み慣れた地から強制的に離されるのは辛いものですし、人類の始祖である2人の人間からも遠ざからねばならなかったからです。このカインのように、その住んでいる土地から追放されるのは、呪いの一つです。ユダヤ人も、呪いを受けたので、それまで長く住んでいたユダヤの地から追放されてしまいました。それ以降、彼らがユダヤの地に戻るならばローマによる死刑を受けねばならなくなりました。追放の悲惨が呪いの一つであるというのは、律法の呪いについて書かれている箇所の中で次のように言われている通りです。『あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。主は、地の果てから地の果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。』(申命記28章63~64節)

 殺人により血を地に流すことでその地が呪われてしまうというのは、流血を伴う殺人の呪いです。ですが、流血殺人をしたからといって、必ずこの呪いが与えられるというわけではありません。これは、あくまでも呪いの一つに過ぎません。ですから、殺人により、地には呪われないものの、即座に自分も殺されるという呪いが与えられることもあります。自分ではなく家族が殺されるという呪いの場合もあるでしょう。つまり、ここで言われている呪いの内容は、一般的なことを言っているのではありません。何故なら、神は御心のままに呪いを与えられるからです。詩篇135:6の箇所で『主は望むところをことごとく行なわれる。』と言われている通りです。ただカインの場合は、殺人に対して地における呪いが下されたというだけのことです。

 この呪いのため、カインは『地上をさまよい歩くさすらい人』となりました。つまり、定住の地を持てないということです。ある場所に住んでも、そこをいつかどかなければいけず、定期的に放浪をせねばならないのです。これは正に呪いです。何故なら、カインは好きで住む場所を変えるのではなく、強いられて住む場所を変えなければいけなかったからです。スファラディ系のユダヤ人にも、紀元70年において、この呪いが与えられました。紀元70年以降、確かに彼らは世界中を転々としており、民族的に確定された住まいを持ってはいません。「今ではイスラエル国家がユダヤ人のためにあるではないか」と思われる方もいるでしょうが、あそこに住んでいる90%のユダヤ人はアシュケナージ系であって、スファラディ系ユダヤ人の多くはあの国家およびあの国家を生じさせたシオニズム思想に良い感情を抱いてはいません。

 なお、この箇所を読むならば、アベルが殺された際に血が流れたことは明らかです。何故なら、この箇所では『土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。』と書かれているからです。しかし、血が流されたからといって、アベルの死因が刺殺また撲殺だったとは限りません。絞殺また圧殺、それ以外の殺害方法だったとしても、血が流れたのは間違いないからです。私たちは、4:8の箇所でカインがアベルに『襲いかかり』と言われているのを見落とすべきではありません。死因が何であれ、アベルを直接死に至らせた殺害方法の前に襲撃がされていたのであれば、刺殺また撲殺以外の殺害方法だったとしても血が流されていて何も不思議ではないからです。

【4:13~14】
『カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」』
 カインは観念しました。何故なら、自分に語りかけているのは神だからです。この御方が相手では、どのような言い逃れをすることも出来ないのです。また、カインが観念したのは、神が裁きを宣告されたからでもあります。いくらかの犯罪者は、宣告が明白に下されるまでは平気な感じを漂わせていますが、宣告が下されると態度が変わり真っ青になるのです。そして、自分に訪れた不幸な境遇をやっとのことで直視し始めるようになります。カインもそのようでした。ここでカインは神の裁きを避け得ない託宣として受け取っています。これは、まだこの時の人間は霊的な感覚が衰えていなかったからです。つまり、簡単に言えば非常に宗教的だったからです。現代人の多くはニーチェが鋭く指摘したように心の中で神を死なせていますが、現代人であれば、神の託宣を聞いたり知ったとしても次のようなことを言うはずです。「神が裁きを下すというが、そんなことが本当に起こるのだろうか。そもそも神など本当にいるのだろうか。」無神論的な現代社会は実に惨めであると言わざるを得ません。現代人は自己を自己における基体として神のごとくに振る舞っていますが、その代わりに神から遠く退けられてしまっていることに全く気付いていないのです。

 カインは未来に想定される不幸を嘆いて恐れています。『それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』彼がこのように恐れたのは自然なことでした。人を殺した者は当然ながらその者も容赦なく殺されるべきである。カインは、人間がこのようなことを思わないと考えるほど愚かではありませんでした。ですから、人間の自然な感覚を考えるならば自分もやがて誰かから殺されるに違いない、と思ったのです。この時のカインの恐怖はどれほどだったでしょうか。実際に殺人を犯したことのない私たちには、彼の持った恐怖を知ることは難しいでしょう。

 カインはここで『私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』と言っていますが、これはどういうことを示しているのでしょうか。カインがこう言ったのは、この時には既に多くの人間がこの地上に存在していたことを意味しているのでしょうか。例えば、20人、30人ぐらいの人間が既に生まれて成長していたのでしょうか。それとも、カインがこう言ったのは単に未来の世界状況を推し量ってのことだったのでしょうか。つまり、「今はまだ人間の数が少ないものの、これから必ず人間の数が増えてくるだろうから、その時になれば私は増加した人間のうち誰かから殺されることになるだろう。」という意味でこう言ったのでしょうか。これについては分かりません。何故なら、聖書を読む限りでは、カインがアベルを殺した時の世界状況がどのようであったか何も分からないからです。

【4:15】
『主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、7倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。』
 神は、カインを殺すならば7倍の罰が与えられると約束されました。これはカインが万が一にも殺されないためです。神は、このように言うことで、他の者たちを威嚇されたのです。確かにカインは殺人の罪を犯しておきながら、自分は殺されることがなくなりました。ですが、これはカインにとってラッキーだったとは言えません。何故なら、確かに彼は殺人のせいで死ぬことにはならなかったものの、放浪することにより死んだほうがましだと思えるぐらいの苦しみを味わったはずだからです。しかし、神がカインに対する殺人を阻止されたのは何故だったのでしょうか。それは、カインが人間で初めて生まれた者であるという名誉を持っており、またこの時には人の数が減らされるべきでなかったからだと考えられます。人間の中で最初に生まれた者が殺されるというのは少し悲惨ですし、これから増殖していかねばならないというこの時期に人が減るのはあまり望ましいことではないのです。なお、ここで『7倍』と言われているのは文字通りの意味として捉えるべきではありません。これは明らかに象徴数です。これは「7」という完全数ですから、神の復讐が容赦なく強力に下されることを示しています。

 ここで言われている『一つのしるし』とは何なのでしょうか。これは昔からよく着目される事柄です。最も有名な魔術師であるイギリスのアレイスター・クロウリーは、これが黙示録に書かれている666の刻印であると言いました(黙示録13:18)。しかし、これは単なるこじつけに過ぎません。聖書で、この印が666であることを示す根拠箇所はないからです。この印が何だったか私たちには分かりません。それは、パウロに与えられた『一つのとげ』(Ⅱコリント12章7節)が何だったのか誰にも分からないのと一緒です。私の推測を言わせてもらえば、これは恐らく身体の障害だったのではないかと思えます。もしくは、DNAに働きかけることにより、第三の目やモンスターのような角やサタンを思わせる翼が生じさせられたということだったのかもしれません。そのように外面的に特徴的な印がカインに生じさせられたので、それを見た人々は驚きや恐怖や憐憫のゆえに、カインに手を出すことを差し控えたという可能性があります。つまり、カインの奇異な外形を見ることで「こういう奴に手を出すのは止めておいたほうがよい。」という心理が心の中に生じたのだと思われます。しかし、何か確定的なことを言うことは出来ません。聖書にはこの印が何だったのか全く示されていないからです。

【4:16】
『それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。』
 カインは、追放されたので、『エデンの東、ノデの地』に移り住みました。これは現在のイランの場所にあたります。ここでは『住みついた』と書かれていますが、これは一時的に住みついたという意味です。カインはしばらくの間ノデに住めたでしょうが、いくらか経つとそこから出て行かねばならなくなったはずです。何故なら、彼は呪われて『地上をさまよい歩くさすらい人』(創世記4:12、14)とされたからです。

 ここで『主の前から去って』と言われているのは、物理的な意味として捉えるべきではありません。神とは世界のどこにでもおられる遍在者なる御方だからです。神はこう言っておられます。『天にも地にも、わたしは満ちているではないか。』(エレミヤ23章24節)このような神から物理的な意味において去るというのは、出来ない話です。もし出来るとすれば、それは存在そのものがこの地上から消し去られる場合だけでしょう。『去って』とは、明らかに霊的な意味で言われています。つまり、これはカインが神に無頓着になった、神を捨てた、神に敵対して歩むようになった、という意味です。私たちは、背教した人について「あの人は神から去って行った。」と言います。カインが神から去ったというのは、これと同じ意味です。もしこれが物理的な意味で言われていると主張するのであれば、その人は次の質問に答えなければなりません。すなわち、神とは地球のあらゆる場所に例外なく豊かに満ちておられるのではないのか、という質問です。もしこの質問に対して「そうだ。」と答えるとすれば、これが物理的な意味で言われていると主張することは出来なくなるでしょう。

 カインが『東』の方角へと移ったのは、このカインの場合、彼が呪われていることを示していると思われます。というのも、自然の流れとは往々にして西に進むものだからです。例えば、太陽は東から上って来て西へと移動します。ヘーゲルやその他の学者が言ったように、歴史の最先端における流れもやはり西に向かって進んでいます。祝福されていたヤペテの子孫たちも、その多くが西へと移住し、ヨーロッパ人となったのです。一方、呪われていたハムの子孫たちの多くは、例えば中国人がそうですが、東の方面へと行きました。アジアにいる民族はその大部分がハム系なのです。つまり、東に行くというのは自然の流れに沿っていない。ですから、カインの場合、彼は呪われていたがゆえ東に行ったと推測されるのです。

【4:17】
『さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。』
 『知った』という表現は、既に前の箇所のところで見た通りです。カインの妻が誰だったのか、その名が何だったのか、聖書は何も記していません。ですが、その妻は間違いなくカインと血の繋がった姉妹でした。つまり、カインは姉妹と結婚し、近親相姦をしていたということです。律法においてこの近親相姦は明白に禁じられています(レビ記18:6~18)。確かにこれは、忌まわしい、ふざけた、気持ちの悪い、異常極まりない愚行です。しかしながら、この時においては、このようなことをするしかなく、それは仕方のないことでした。それというのも、もし姉妹と結婚して子を産まなければ、人類は存続できなかったからです。もし近親相姦を拒絶して子を産まなかったとすれば、どうなっていたでしょうか。人間の数がほとんど増えず、間もなく人類は滅亡することになっていました。その場合、アダムとエバしか子を産めなかったことになりますから、人類は2000年以内に地から消えていたでしょう。というのも、その場合、2人の男女しか子を産めず、またその時の人間の寿命は1000歳近くまであったからです。神は、律法に反することであっても、止むを得ない場合はそれを罪となさいません。ダビデも祭司しか食べられないと定められていた捧げ物を食べてしまいましたが、ひもじかったためにしたことなので、神はダビデを咎められませんでした。ただ律法の命令を徹底して文字通りに守ることしか考えないパリサイ的な者は、その狂信的な精神のゆえに破滅してしまいます。それは、その者たちが律法の本質は愛であることを知らないからです(ローマ13:9~10、ガラテヤ5:14)。これは古代ユダヤ人が良い例です。彼らは戦時中であっても安息日の定めを文字通りに厳格に順守しましたから(つまり戦いを休んだ)、安息日になるのを待ち構えていた敵たちに多くのユダヤ人が殺され、戦いに打ち負けてしまったのです。確かに初期の人類は近親相姦ばかりしていたと聞かされると、多くの人が嫌悪感を持つに違いありません。ですが、今核戦争が起こったとして、あなたと他の一人の女性だけが残されたとすれば、どうでしょうか。その場合、子どもたちが近親相姦をしない限り、人類はすぐにも滅びてしまうことになります。このように考えると、初期の時代だけは近親相姦がされても仕方なかったということがよく分かるのではないでしょうか。もっとも、中には近親相姦が犯されるぐらいならば人類など滅びたほうがましだと思う人もいるかもしれませんが。

 カインは自分の建てていた町に、自分の子であるエノクという名を付けました。これは今で言えば「エノクタウン」とか「エノク市」という呼び方になるでしょう。ある人たちは、カインが子どもの名を町に付けたのは、カインの自己顕示欲の現われだと考えました。この命名がカインの自己顕示欲を示しているのかどうか私には分かりません。ただ、カインが自分のこと、またこの地上のことしか考えていなかったというのは、確からしいと感じられます。恐らくカインは自分の子の名前を町に付けることで、自分の名誉と尊厳を高めようとしたのでしょう。何故なら、子が有名になれば、その親である者も高められることになるのは自然だからです。なお、このエノクという名は、神により地上から取られたあの義人エノクと同一の名前です。私たちのよく知るあのエノクという名前は、もしかしたらカインの子どもであるエノクにちなんで付けられたのかもしれません。つまり、カインの子であるエノクは、その名が他の人にも付けられるぐらいの卓越した尊敬に値する人物であった可能性があります。このエノクは町に名前を付けられたぐらいですから、確かに優れた人物であった可能性はかなりあるでしょう。

 ここではカインが町を建てていたと書かれていますが、町とは言っても、近代社会に見られるような町を想像するわけにはいきません。これは、ちょっとした家が寄り集まっている有機的な小規模社会だったと考えるべきです。今の時代からすれば、これは町というよりは「村落」または田舎にある集落と言ったほうがイメージ的に近い。発展途上国にある貧しい地域を想像すれば、当時の町にかなり合致していると思われます。何故なら、カインの時代にはまだ文明がぜんぜん発達していなかったからです。しかし、当時としては、カインの建てていた町は明らかに最先端でした。というのも当時はまだ世界が始まったばかりだからです。「最先端」とは、言うまでもなくその当時の文明水準に基づいて判定されるべきものです。今では当時の町など何でもないかもしれませんが、当時の文明水準を考えれば、カインの建てた町は間違いなく先進地域だったでしょう。最近の例で言うと、20年ぐらい前であれば、500万画素のカメラであっても超最先端の性能でした。しかしながら、2021年の今となっては技術の水準が上がっていますから、500万画素ぐらいでは大したことがないと見做されることになります。

【4:18】
『エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。』
 ここではエノクから5代目までの人間が記録されています。それぞれの人が何歳の時に子を生んだのかは何も書かれていません。しかし、創世記5章の内容を読むならば、この箇所(4:18)に書かれている人たちは、恐らく60~200歳ぐらいの時に子を生んだと考えるのが妥当だと思われます。創世記5章から分かるように、当時においては、そのぐらいの年齢が子を生む適切な年齢だったのです。

【4:19】
『レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。』
 レメクはカインと似てとんでもない者であって、一夫多妻者でした。このレメクは恐らく人類初の一夫多妻者であったと思われます。もし彼よりも前に一夫多妻者がいたとすれば、聖書はそのことを記していたに違いないからです。この一夫多妻は、明らかに良くないことです。神は、一人の男と一人の女が組になるよう定めておられます。それは『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる』(創世記2章24節)と言われていた通りです。古代では、一夫多妻はそれほど珍しくありませんでした。聖書の人物でも、ヤコブやエルカナやダビデやソロモンが一夫多妻者でした。神は、古代においては、一夫多妻に目をつぶっておられました。何故なら、その時はまだ大いに人が地に満ち広がらねばならない状態だったからです。ですが、だからといって一夫多妻を神が御心とされていたというわけではありません。今では、既に世界中が人で一杯になっています。しかも、一夫一妻しか出来なかったとしても、自然と人口は増加していきます。ですから、今となってはもう一夫多妻は絶対に行なわれるべきはありません。「では、一妻多夫だったらよいのか。」と問う人がいるかもしれません。一妻多夫ももちろん駄目です。何故なら、神の御心に適った夫婦の状態とは、一夫一妻だけだからです。一夫多妻を行ないたいと思う人は、好きにしたらよいでしょう。しかし、その人は一夫多妻であることにより、多くの呪いを受けることを知らなければなりません。何故なら、一夫多妻とは神の御心に適っておらず、それをするならば神を怒らせることになるからです。

【4:20~21】
『アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。』
 アダの子の一人は『ヤバル』という人でした。彼がアダの長子だったかどうかは分かりません。もしかしたらヤバルには兄がいたという可能性もあります。このヤバルは天幕に住んでいました。彼は天幕住まいの先祖でした。諸々の遊牧民族における先駆けだったのです。彼の作った天幕がどのようであったか私たちには分かりません。非常にしっかりとした芸術的な天幕だったのかもしれませんし、古代らしいまだ未熟さの見られる天幕だったのかもしれません。また、彼の天幕住まいがどのようであったのかも私たちには分かりません。非常に制度的な生活様式が構築されていたのかもしれませんし、あまり規律的でなかったという可能性もあります。このヤバルはまた家畜を飼う者でもありました。彼は家畜飼いの先駆です。今に至るまでこの世に現われた家畜を飼う者たちの原型が、彼にあるのです。しかし、ここで次のように問う人もいるでしょう。「家畜を飼う者の先駆はアベルではないのか。」確かに創世記4:2の箇所を見ると、ヤバルよりもアベルのほうが先に家畜を飼っていたことが分かります。確かに時間的に先に家畜を飼っていたのはアベルのほうです。ですが、このアベルは家畜を飼う者の『先祖』とは言えませんでした。何故なら、アベルには権威がなかったからです。これは、コペルニクスよりも先に地動説を考えたり主張したりした人がいたにもかかわらずコペルニクスこそが地動説を最初に考えたり主張したりしたかのように取り扱われたり、ダーウィンよりも前に進化の思想を持つ者がいたにもかかわらずダーウィンこそが進化論の父と言われるのと一緒です。どの領域でもそうですが、人々は権威ある偉大な巨人をこそ先祖とか父とか先駆けなどと呼ぶものです。それ以前にも同じことを考えたり行なったりしていた人がいても、その人に権威がなければ、いなかったも同然の存在として無視されてしまいます。ここでヤバルが『家畜を飼う者の先祖』と言われているのも、そういうことです。このヤバルが偉大な人物であったことは間違いありません。音楽で言えばバッハ、物理学で言えばニュートン、キリスト教で言えばルターのようなものです。もっとも、今となっては誰もこのヤバルについて語ることはなくなっているのではありますが。

 ヤバルの弟は『ユバル』という者でした。このユバルは楽器使いの先駆けでした。ロックで言えばチャック・ベリーのようなものです。彼が、霊感された卓越した音楽家だったことは間違いありません。そうでなければ『先祖』とはなっていなかったでしょう。キケロやその他の知者たちが言ったように、人は霊感を受けない限り偉大になることが出来ません。甚大な影響力を持った人を見ると、やはりそのほとんどが霊感を受けていると思わされます。その人自身がそれをしているのではなく、何か別の存在がその人を動かしているかのようなのです。あのジョン・レノンも、自分はただ天から送られてくる楽曲をそのまま演奏するだけであり自分は何もしていない、と言いました。最も有名なロックバンドの一つであるメタリカのジェイムズ・ヘッドフィールドも、「光の天使が音楽の力を与えてくれるんだ。」と言いました。つまり、霊が選ばれた人に驚嘆すべきことをさせているわけです。ユバルもそういう人だったのでしょう。ある教父は、この『ユバル』とはアポロンのことだと言いました。確かにギリシャ神話においてアポロンは立琴を奏する音楽神です。ギリシャ人たちが、このユバルをアポロン神として仕立て上げた、というのは非常にあり得る話です。

【4:22】
『ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。』
 ツィラの子どもの一人は『トバル・カイン』でした。彼は鍛冶屋であったと言われていますが、ヤバルとユバルのように先祖とは言われていません。恐らく、彼は多くいる鍛冶屋の一人だったのではないかと思われます。彼の妹は『ナアマ』でしたが、私たちはこの女について何も分かりません。どうしてここではナアマについて書かれているのでしょうか。名前を記すに値する女だったということなのでしょうか。

 このトバル・カインは、アダムから8代目です。8代目の時代になると、もうかなり文明が発達していたのが分かります。その頃には既に鍛冶の技術がありました。鍛冶が行なわれていたのであれば、木造でない建造物も造られていたと推測されます。食器なども、かなりしっかりとしたものがあったと考えられます。戦いに必要な剣や槍や兜などもあったかもしれません。また、その頃には音楽もありました。これは精神的な余裕があったことを意味しています。生活するだけで一杯ですと、精神に余裕がなく、音楽の領域が発達しないからです。ですから今の時代において発展途上国ではあまり取るに足らない音楽が多く、先進国では全体的に音楽の領域が豊かなわけです。文明の水準はどうしても上昇していく必要がありました。何故なら、やがて地球には大洪水という破滅のイベントが起こることになっていたからです。その時までに箱舟を作れるほどの文明水準となっていなければ、ノアは箱舟を作ろうにも作れませんから、大洪水により全ての人間が滅んでしまうことになりますが、そのようなことはあってはなりません。ですから、神は徐々にではありますが文明の水準を引き上げておられたのです。このように神は、あることが起こるまでに、全てをあらかじめ備えられる御方です。それは神の御計画が確実に実現されるためであり、また私たち人間が困ったり苦しんだりしないためなのです。

【4:23~24】
『さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍。」』
 レメクは何を言おうとしているのでしょうか。彼は、自分がカインよりも忌まわしい存在であることを示そうとしています。カインは、弟に対する妬みにより殺人行為を犯しました。一方、レメクは打ち傷のために殺人行為を犯しました。嫉妬のゆえに殺人を犯すというのは、私たちに理解できないことではありません。今でも嫉妬により危害を加える人が多くいるからです。しかし、傷を付けられたので人を殺すというのは、少しやり過ぎです。これは1の行為に対して1000を報いることだからです。ですから、レメクは自分がカインよりも邪悪性において優っていると言いたいわけです。このためレメクは『カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍。』と言っています。つまり、カインにでさえ7倍の復讐があれば、カインよりも邪悪なレメクにおいてはどれだけの復讐が下されるだろうか、と。ここで77倍と言われているのは、文字通りの意味として捉えるべきではありません。これは完全数7を2つ並べた数字ですから、カインにおける7倍の復讐よりも更に強力な復讐がなされるであろうということです。この『カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍。』という言葉は、神がレメクに言われた言葉ではないと思われます。すなわち、これは単にレメクが勝手に言ったに過ぎない言葉だと思われます。当時の人たちがカインに言われた創世記4:15の御言葉をよく知っていたのは間違いありません。レメクはそのよく知られていた御言葉を使って、つまりそれに基づいて、こう言ったのでしょう。2人の妻を娶ったうえ、殺人を犯し、更にはこのようなことさえ言うレメクという者は、本当に忌まわしい存在だったに違いありません。

 レメクはこのように言って、2人の妻たちを抑制しようとしたと考えられます。というのも、複数の妻には何かと問題があるものだからです。どちらの妻も夫を独り占めしたいと思いますから、陰険なライバル関係が生じ、互いに憎み合うようになります。より愛されているほうの妻は喜びと誇りに舞い上がりますが、そうでないほうの妻は悲しみと悔しさに満たされます。嫉妬が高じて夫を殺すに至ったというケースは珍しくありません。複数の妻を持つ家庭は、昔から往々にしてこのようになりがちです。いったい、どの夫が複数の妻を仲良くさせることができましょうか。また、どの夫が妻の嫉妬を抑えることができましょうか。ですから、レメクはこのように言うことで、妻たちが自分を恐れるようにしたのでしょう。恐れが生じれば、妻が自分に危害を加えることもなくなるからです。何であれ恐れには行動を縛り付ける鎖のような効果が伴っているのですから。誰でも恐れのゆえに行動が封じられてしまった経験を持っているはずです。特に子どもの頃に、そういう経験が多かったはずです。レメクは妻たちにそれを狙ったわけです。

 ここでのレメクの言葉には、強調表現が見られます。まず妻たちに対する呼びかけに強調がされています。一度目は『アダとツィラよ。私の声を聞け。』と言い、二度目にもう一度『レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。』と繰り返すことで。これは、つまり妻たちに大いに呼びかけているのです。またレメクは殺人のことも強調しています。一度目は『私の受けた傷のためには、ひとりの人を(殺した)』と言い、二度目にも『私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。』と同じことを繰り返しています。これも、自分のした殺人行為を大いに伝え知らせているのです。このレメクの言葉から察するに、彼は気性の荒い、傲慢な、とんでもない低劣人間であったと思われます。