【士師記5:17~8:4】(2022/06/05)


【5:17】
『ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。』
 『ギルアデ』とは、マナセの子マキルの子ギルアデの地です(民数記26:29)。このギルアデの地はヨルダン川の東にあります。このギルアデ族が『ヨルダン川のかなたに住んでいた』とは、何を言っているのでしょうか。これは彼らが自分たちの住まいから戦うためやって来なかったということです。この箇所ではあからさまな非難がされていません。しかし、この箇所で言われているのは事実上の非難です。宿題をやって来なかった生徒に対し「あなたは宿題を忘れた。」とだけ言えば、ただこれだけで、明白な非難の言葉がなくとも事実上の非難になるのと同じです。彼らはヨルダン川を渡って戦いに協力すべきだったのです。

『なぜダンは舟にとどまったのか。』
 ダン族も、先に見たギルアデ族と同じで、主の戦いに来ようとしませんでした。ダン族は戦うため少しでも動こうとさえしませんでした。何故なら、ダン族がここで留まっていたと言われている『舟』は地中海にあるのだからです。この『舟』は表現ですが、つまり、これはダン族が地中海の場所にいて出動しなかったと言うことで、ダン族が戦地から遠く離れたままでいたことを示しています。というのも、地中海はダン族の相続地における最も西にあるのであって、戦地から非常に離れているからです。この箇所で言われているのも、ダン族に対する非難です。彼らには神への愛と信仰が足りませんでした。

『アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。』
 アシェル族も主のため戦おうとしませんでした。彼らが座っていた『海辺』とは地中海です。彼らは『その波止場のそばに住んでいた』のですが、そこから立ち上がろうとさえしませんでした。聖なる戦いが行なわれるのに他人事でもあるかのようです。アシェル族には敬虔さが不足していました。

【5:18】
『ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野の高い所にいるナフタリも、そうである。』
 この時のゼブルン族とナフタリ族は主に恵まれていたので、『いのちをも賭して』戦う民でした。このような勇敢さはただただ神の恵みによります。というのも、勇敢さや力や勢いといった性質は神に属するからです。この2つの部族は、つい先ほど見たルベン族やギルアデ族やダン族やアシェル族とどれだけ違っていたことでしょうか。獅子とウサギほどにも違っていたと言ってよいでしょう。

【5:19】
『王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。』
 シセラがユダヤ軍と戦った際には、『カナンの王たち』もシセラに協力していました。『王たち』と書かれていますから王は複数いましたが、具体的にどれだけの王がいたのかは分かりません。この王たちは、メギドから10kmほど南に離れた『タナク』でユダヤ人たちと戦いました。このタナクはユダヤ人が登ったタボル山から南西にあります。つまり、ユダヤの戦士たちはタボル山から南西へと戦いの歩みを進めました。王たちは、分捕り品を齎す勝利をユダヤ人に対して得ませんでした。これは敵がユダヤ人の手に渡されていたからです。それゆえ、王たちは『銀の分捕り品を得なかった。』と言われています。

【5:20~21】
『天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。』
 この箇所で『天からは、星が下って戦った。』と書かれているのは、何のことでしょうか。これを恒星や惑星が下って来たと解することはできません。しかし、『星』という言葉は隕石としてであれば解することが可能です。もしこれが隕石のことだとすれば、あの時に雹が敵を痛めつけたようにして(ヨシュア記10:11)、隕石がシセラ軍を痛めつけたことになります。また、聖書において星は聖徒を象徴します(ダニエル12:3)。『星』が聖徒を示しているとすれば、この箇所で言われているのは聖徒たちがシセラ軍と戦ったことです。この解釈の場合、『その軌道を離れて』と書かれているのは「偶像崇拝をしていた歩みから遠ざかって」という意味になるでしょう。また、聖書で星はキリストの象徴でもあります(マラキ4:2)。『星』が主を示しているとすれば、主が御使いのペルソナにおいて現われて下さり、シセラと戦われたことになります。この解釈の場合、この箇所で書かれている『星』は、3節後で書かれている『主の使い』と同じ存在であることになります。この20節目は解釈が容易くできません。今述べた3つの解釈のうち、どれも可能性としてはありえます。読者はそれぞれ尤もらしいと思える解釈をすればよいと思います。

 シセラ軍は、タナクの場所から『キション川』のほうに追い詰められました。キション川はタナクのすぐ近くにあります。こうして敵の軍勢はキション川に押し流されて滅びました。この箇所で『昔からの川、キションの川』と書かれているのは、この川について強調しているのであり、またこの川の印象をより濃くしようとしています。というのも、この川とその付近で敵の軍勢が打ち滅ぼされたからです。そのような場所を聖徒たちに強く記憶させるため、ここではこのように書かれています。ですから、『昔からの川、キション川。』と書かれている部分は余分ではありません。

【5:21~22】
『私のたましいよ。力強く進め。そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬はけりまくる。』
 ここでデボラは自分で自分の魂を励まし強めています。これは主が『目ざめよ、目ざめよ。』(士師記5章12節)とデボラに奮起するよう命じておられたからです。この時には、ユダヤの戦士たちが乗っていた馬も大いに奮い立っていました。これは馬がその乗り手の気概や周囲の状況に同調するものだからです。この時のユダヤ陣営には勝利の気概が満ち満ちていました。ですから、馬たちも張り切っていたのです。

【5:23】
『主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』』
 『主の使い』とは、士師記2:1の箇所と同様、キリストのことでしょう。すなわち、被造物としての御使いではありません。

 主は『メロズをのろえ』と命じておられますが、これはメロズの住民が主の戦いに協力しようとしなかったからです。『激しく』呪うよう命じられているのは、メロズの人が酷い偶像崇拝に陥っていたからだと考えられます。つまり、主の戦いへの参加を頑なに拒むほど偶像に心酔していたのでしょう。そうでなければ、『激しく』呪うよう命じられたのは説明できないと思われます。この呪いは言葉だけの呪いではありませんでした。これは実際の悲惨を齎す呪いの言葉です。私たちも主から呪いを受けないよう注意しなければなりません。もし私たちが主に協力しようとしなければ呪われてしまいかねません。

【5:24~27】
『女の中で最も祝福されたのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与え、高価な鉢で凝乳を勧めた。ヤエルは鉄のくいを手にし、右手に職人の槌をかざし、シセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し通した。ヤエルの足もとに彼はひざをつき、倒れて、横たわった。その足もとにひざをつき、倒れた。ひざをついた所で、打ち殺された。』
 この箇所では、シセラを打ち倒したヤエルが称揚されています。このヤエルは『女の中で最も祝福され』ていました。だからこそ、敵の将軍シセラを打ち殺せたのです。最も重要な敵シセラを殺したのは、ユダヤ人の妻でなくケニ人の妻でした。神はこのように手柄を異邦人の妻に与えることで、罪深かった当時のユダヤ人に思い知らせようとしておられたのだと思われます。彼女は、シセラが水を求めたのに、水よりも良い乳を、しかも『高価な鉢』に入れて与えました。これはシセラに対する殺意を隠すためです。人は大いに善を行なわれると、善を行なってくれたその相手を疑わないようになるものです。何故なら、善をしてくれるのは心に良い思いがあるからだと感じるからです。ですから、凝乳を与えられたシセラがヤエルについて僅かほどの不信感も抱いていなかったことは間違いありません。26節目で言われている殺害の記述は、先に見た士師記4:21の箇所とほとんど同じ内容です。この時にヤエルの使った『鉄のくい』がどれだけの長さだったかは分かりません。ここで「力のない女でも男、しかも将軍であるほどの男を殺すことができたのか。」と思う人がいるかもしれません。しかし、熟睡中の男を先端の鋭い杭で刺し通すぐらいならば、あまり力のない女でも十分に可能でしたし、実際にヤエルはそれを成し遂げました。頭部を刺し通されたのですからシセラは即死だったはずです。しかし、即死する場合でも身体が僅かばかりの間は動くものです。実際、ある有名な海賊の身体は、首を切断されてからも10秒ぐらい歩き続けたと言われています。ですから、即死したであろうシセラはヤエルの足元に『ひざをつき、倒れて、横たわった』のです。

【5:28~30】
『シセラの母は窓越しに、格子窓越しに外を見おろして嘆いた。『なぜ、あれの車の来るのがおそいのか。なぜ、あれの車の歩みが遅れているのか。』知恵のある姫君たちは彼女に答え、彼女も同じことばをくり返した。『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。めいめいひとりの勇士にひとりかふたりの娘を。シセラには染めた織物の分捕り物を。染めた織物の分捕り物、色とりどりに刺繍した織物、分捕り物として、首には二枚の刺繍した織物を。』』
 母は、子が壮年また老年に達しようが、その身を相変わらず案ずるものです。何故なら、どれだけ年を取っても子はあくまでも「子」だからです。年老いたからといって子どもが母親にとって子どもでなくなるわけではりません。シセラのこの時の年齢がどれほどだったかは分かりませんが、彼の母親もやはりシセラのことで心配していました。シセラの帰りが遅かったからです。このよう時に母は「もしかしたら何かあったのでは」などと心配するのです。このような心配はだいたい杞憂に終わります。しかし、稀にその心配が正しい場合もあります。この時が正にそうでした。シセラの母が抱いた悪い予感は当たっていたのです。ですから、周りの女たちが気を和らげようとして母に与えた言葉は全て無意味となりました(30節)。ところで、この箇所では『姫君たち』がシセラの母を落ち着かせようとしていますから、この母の子であるシセラはかなりの地位にあったはずです。シセラは900両の戦車を委ねられ、他の国の王たちも指揮していたぐらいですから、相当の英傑であったと考えられます。

【5:31】
『主よ。あなたの敵はみな滅び、主を愛する者は、力強く日がさし出るようにして下さい。」』
 デボラは聖徒たちの敵が滅びるよう願っています。『敵』とはヤビン王と将軍シセラを筆頭に戴くカナン人です。何故なら、彼らは主の民を支配し苦しめていたからです。御民を痛めつけ悲惨にさせるのは大きな罪です。そのため、デボラはこれまでユダヤ人を屈従させていたカナン人の滅びを願っているのです。また、これは普遍的な意味としても捉えるべきです。すなわち、いつの時代であれ聖徒たちの『敵はみな滅び』るべきです。キリストも敵たちの滅びを宣言されました(マタイ23:33)。黙示録に書かれている聖徒たちも、敵が復讐され滅びることを願いました(黙示録6:10)。詩篇の多くの箇所でも敵の滅びが求められています。敵の滅びを願わないのは神を愛さないことです。しかしながら、私たちは敵の滅びを願わないようにすべきでもあります。つまり、敵が救われるように私たちは願うべきです。何故なら、滅びるべき敵が救われるならば、もはやその敵は滅びるべき敵ではなくなるからです。敵が滅びるより私たちの仲間となったほうがどれだけ良いでしょうか。『あなたの敵を愛せよ。』という御言葉はこのような意味なのです。しかし、その敵は神に敵する者としては滅びるべき存在です。つまり、私たちは、敵の滅びを願うべきであるが願うべきでもないのです。こうするのは正しい信仰を持っていなければ難しいでしょう。多くの人は、徹底的に敵の滅びを願うだけか、敵の救いだけを一心に願うか、どちらか一方の極端に陥りがちです。前者は神の愛を忘れており、後者は神の刑罰を考えようとしていません。

 『主を愛する者』とは聖徒を指しています。デボラは彼らに『日』が照るよう願い求めています。この『日』とは降り注ぐ太陽の自然的な恩恵のことです。これを義の太陽であられるイエス・キリストとして解する必要はありません。つまり、デボラは神を愛する聖徒たちが恵まれ、その道が良い歩みとなるよう願っています。『力強く』と書かれているのは、聖徒たちに対する恵みが<豊かであるように>という意味です。

『こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。』
 イスラエルがヤビンとシセラに勝利してから『40年』ほどの平穏が与えられました。これは「40」ですからその期間の十分さを示していますが、オテニエルの時の期間と同じです(士師記3:11)。デボラは敵に勝利してから40年ほど生きイスラエルを母として教え導きました。その間にイスラエルは平和を享受したのです。これは士師記2:18の箇所から分かります。デボラが死ぬと平穏はイスラエルから消え去りました。

【6:1】
『イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。』
 デボラが死んで平穏でなくなると、イスラエル人たちはまたもや偶像崇拝の極悪に逆戻りしてしまいました。彼らはこれまでの惨めな経験から何にも学んでいなかったのです。つまり、彼らは愚かでした。神が彼らに知恵と悟りを与えておられなかったからです。

【6:1~5】
『そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすためにはいって来たのであった。』
 神はこれまでと同じように偶像崇拝に対する裁きを下されましたが、次にユダヤ人を支配するためやって来たのは『ミデヤン人』でした。ミデヤンはモーセが40歳から80歳までいた場所であり、シナイ半島の東にあります。神はこのミデヤン人にユダヤ人を支配させることで、ユダヤ人を懲らしめられました。このため、ユダヤ人はこの異邦人から諸々の悲惨を受けることとなりました。ユダヤ人はミデヤン人に虐げられたので、まともな場所に住むことさえできませんでした(2節)。また、ユダヤ人がせっかく種を蒔いても、ミデヤン人がやって来てユダヤ人の労苦を全て台無しにしました。これは律法の呪いで言われていたことです(申命記28:30、33)。ミデヤン人は少数でなく『いなごの大群のようにして』襲いかかってきました。これも呪いの一つです。また、この時に襲ってきたのはミデヤン人だけでなく『アマレク人や、東の人々』も襲ってきました。呪いによる悲惨は往々にして何重にも積み重なって降りかかるものなのです。敵が荒らしたのは『ガザに至るまで』もでした。ガザはユダヤの端にある場所ですから、つまりユダヤの全領域が荒らされたということなのでしょう。しかし、ユダヤ人は敵の襲撃に対してどうすることもできませんでした。何故なら、これは呪いであって、神がミデヤン人たちにユダヤ人を襲わせておられたからです。神に文句を言うことはできませんでした。『ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか。」と言いえよう。』(ヨブ9章12節)と書かれている通りです。この時に支配された期間が『七年』だったのは、その期間が裁きの期間として完全だったことを意味しています。

【6:6~8】
『それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。』
 ユダヤ人は敵の支配から解放されたいと願ったので、切なる叫びを神に向かってあげました。神は憐れみ深い御方ですから、この叫びを聞かれ、『イスラエル人にひとりの預言者を遣わし』て下さいました。この預言者がどのような名前だったか、またどのような人物だったかは不明です。神はこのように遜る者の声を聞いて下さいます。『正しい者の祈りは主に喜ばれる。』(箴言15章8節)と書かれている通りです。しかし、高慢なままでいようとする不遜な者の声を神は聞いて下さいません。『耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。』(箴言28章9節)と書かれている通りです。

【6:8~10】
『預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」』
 神はこの預言者を通してイスラエル人に、まず御自分がユダヤ人をエジプトでの奴隷状態から贖い出されたことから話し始められます。そして、神はユダヤ人をカナンの地に導き入れ、そこを占領させて下さいました。その時、神は『エモリ人の神々を恐れてはならない。』と言われユダヤ人に偶像崇拝を禁止されました。ところが、ユダヤ人はこの禁止命令を撥ねつけました。彼らはエモリ人の神々を恐れ、崇め、それに仕えたのです。ですから、神は『あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。』と言ってユダヤ人を率直に断罪しておられます。この箇所で神は『あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。』と言うだけでユダヤ人を断罪されました。このように神の断罪は短くシンプルになされます。法廷のように長々しい弁論はありません。マタイ7:23の箇所でも主はただ『不法をなす者ども。』と短く言われるだけで断罪を済ませておられます。この箇所もそうなのですが、神の断罪は罪の事実を挙げるだけで完全な断罪となります。納得させるための弁証や証人は必要ではありません。何故なら、神の言葉はそれ自体が既に証拠だからです。

【6:11~12】
『さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」』
 『主の使い』とはキリストであり、被造物としての御使いではありません。何故なら、後の箇所を見ると分かる通り、この使いは『主』とはっきり言われているからです(士師記6:16)。もしこれが被造物としての御使いであれば、この使いについて『主』とは書かれていなかったでしょう。その場合、この使いは『主よ。』と言ったギデオンに対して「いや、私は主ではない。」と応じていたはずです。

 マナセの半部族であるギルアデ族に属する『ギデオン』は(民数記26:30)、ミデヤン人から逃げて酒ぶねの中で作業をしていましたが、神はこのギデオンを士師として選ばれました。これからギデオンは勇士として力強く歩まなければなりません。つまり、恐れを抱いてはなりません。ですから、主はこのギデオンに『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』と言って励ましておられます。このように言われたのは、主が共におられるならば恐れる必要などなくなるからです。というのも主はどんな敵でもひねり潰せる無敵の御方だからです。ギデオンが逃げた場所は『山々にある洞窟や、ほら穴や、要害』でした。また主が現われた場所である『オフラ』はベテルのすぐ北東にあります。ここは山々でした。ところで、神はどうして次の士師としてこのギデオンを選ばれたのでしょうか。これは「ギデオンが士師として定められていたからだ。」としか言えません。それはヤコブが救いに定められていた理由を聞かれたならば、「それはヤコブが救いに定められていたからだ。」としか言えないのと一緒です。

【6:13】
『ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」』
 主が共におられると聞かされたギデオンでしたが、ギデオンには主が何を言っておられるのか分かりませんでした。何故なら、主が共におられるといってもイスラエル人はミデヤン人の支配で苦しんでいたからです。「もし主が共におられたなら、どうしてミデヤン人から今のユダヤ人が苦しめられているのか。」というわけです。確かに、ユダヤ人は神に捨てられたのでミデヤン人から支配され苦しむこととなりました。すなわち、この時の酷い屈従はユダヤ人たちが神から捨てられていたことをまざまざと物語っていました。しかし、主がギデオンに言われたのは、これまで主がユダヤ人と共におられたということではありませんでした。そうではなく、主が言われたのは「これからは主が共におられるのだからもう間もなくイスラエルは救いに与かれるようになる。」ということでした。要するに、ギデオンは主が何を言われたのかよく理解していませんでした。

【6:14~15】
『すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」』
 主の御心はギデオンによりミデヤン人からイスラエルが救い出されることでした。ですから、主は何としてもギデオンを遣わそうとされます。主に召し出されたのであれば必ず行かねばなりません。行かないことは決して許されません。主が遣わされるのです。であれば、どうして遣わされることを拒んでいいのでしょうか。私たちは神なのでしょうか、神より偉いのでしょうか、神に対する主権を持っているのでしょうか。絶対にこんなことはありません。

 しかし、ギデオンは自分がマナセ族の中で最も弱い分団に属しており、しかも家族の中で最も若いという理由を挙げ、どうして自分などにイスラエルを解放することなど出来るのか、と疑問に感じています。ギデオンは主に対しこんなことを言うべきではありませんでした。しかし、普通に考えれば、ギデオンがこのように思ったのはそれほどおかしいことでもありませんでした。というのも、これはどこかのコンビニでアルバイトをしている普通の高校生に対し、「今から首相になって国家の経済危機を克服しなければならない。」などと命じるようなものだからです。こんなことを命じられたらその高校生は茫然として目を丸くするでしょう。ですから、これが人間であれば決してギデオンを選びはしなかったでしょう。人間だったら優秀で実績のある高名な強者を選んでいたに違いありません。しかし、神はあえてギデオンのような無名で取るに足らないと思えるような一般人を選ばれました。これは私たちにとって理解するのが難しいことです。ですから、聖書は神が『不思議』な御方だと言っているのです。

 ギデオンが召されたことからも分かる通り、神は往々にして低い者をこそ召されたり恵まれたりされる御方です。これは聖書に多くの事例があります。神の救いに選ばれていたのは、兄のカインではなく弟のアベルでした。神に愛されていたのは弟のヤコブであって、兄のエサウは憎まれていました。神がより高い地位に引き上げたのは弟のモーセであり、兄のアロンはモーセの下に置かれました。神の民として選び取られたユダヤ民族は取るに足らない人々の群れでした。あのダビデも末っ子でした。エジプトの支配者にまで引き上げられたヨセフも12人の兄弟のうち11番目に位置していました。使徒たちも使徒として召されるまでは取るに足らない無名の漁師と取税人でした。ルターも誰にも知られていない普通の修道士に過ぎませんでした。これ以外にも多くの事例があります。神がこのように下にいる者をよく召されるのは、Ⅰコリント1章の箇所からも分かる通り、人間を誇らせないためです。もし地位や評価などの高い者が召されたとすれば、その者は召されたことを自分自身において誇りかねません。「私が神から召されたのは私が素晴らしい地位にあったからである。」などと言って偉そうにしかねないのです。しかし、低い者、小さい者、蔑まれている者、取るに足らない者、このような類の者が召されたとすれば、召されたことを自分自身において誇ることはできません。寧ろ「何で私のような者が召されたのだろうか…。」と思うでしょう。高い者はこのように思いませんから、神に栄光を帰そうとしない可能性が高いのです。それどころか召されたことを自分の功績に基づかせようとしかねません。神にとって御自分の栄光より重要なものはありません。ですから、神はギデオンのような何でもない者を召されるのです。こういうわけで、召されたその時から既にもう偉大であった人はほとんどいません。ルターを見ても分かる通り、神の召しを受けた偉大な人物は、召されて神の恵みを受けてから偉大になったケースがほとんどなのです。

【6:16】
『主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」』
 主からの召し出しに弱気となるギデオンでしたが、主は『わたしはあなたといっしょにいる。』と言ってギデオンを強めておられます。主が共におられるのであれば『ひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺』せるからです。普通の場合であれば、ミデヤン民族の全体を滅ぼすのは一人のミデヤン人を殺すよりも遥かに難しいはずです。しかし、無敵の神が共に戦って下さるのであれば、民族の全体を滅ぼすのも一人だけを殺すのも、その難しさは変わらなくなります。ですから、主が共にいて下さるとの約束を受けたギデオンは1マイクロメートルほどでさえ恐れたり動じたりすべきではありませんでした。

【6:17~18】
『すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、主は、「あなたが戻って来るまで待とう。」と仰せられた。』
 ギデオンは自分の前に現われて下さった御方が本当に主であるという確信を得るべく、『しるし』を主に対し求めます。『しるし』とはつまり証拠です。主はギデオンの求めを問題にしたり叱ったりされませんでした。何故なら、ギデオンが印を求めたのは不信仰だったからではなく更に確信を強めるためだったからです。もしギデオンが不信仰から印を求めたとすれば、主に咎められていたはずです。神は信仰のない者を喜ばれないからです(ヘブル11:6)。ギデオンはこのように印を求めましたが、私たちもギデオンと同じように印を求めていいのでしょうか。キリストは何と言っておられたでしょうか、また使徒たちは何と言っていたでしょうか。キリストも使徒たちも、ただ神を信じ愛せよとだけ言っており、印については何も言っていません。ですから、私たちは神を信じ愛するのであれば、それだけで十分であり、印のことなど考えなくても構いません。

【6:19~22】
『ギデオンはうちにはいり、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で粉を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。これで、この方が主の使いであったことがわかった。』
 ギデオンが印のため主への捧げ物を持って行くと、主はその捧げ物を焼き尽くしてしまわれましたが、これは主がギデオンの捧げ物を受納されたということです。これはこの世の王で言えば、王が民の持って来た献納物を受け取ることです。こうして主はギデオンに印を与えて下さいました。このためギデオンは自分に現われた御方が本当に主だったと確信できました。この出来事が起こると、主はすぐに『去って見えなくなっ』てしまわれました。残ったのはギデオン一人だけです。主が奇跡を行なわれる際は、このようにすぐ元の状態に戻るのが常です。キリストが変貌された際にも、凄い光景が生じると、すぐに元通りの状態となりました(マルコ9:2~8)。これは奇跡がこの世において奇跡として保たれるべきだからです。少しだけ、また一時的にだけ実現されるからこそ、それは「奇跡」と呼べるのです。もし奇跡の出来事や状態がずっと続いていれば、それが普通になるのですから、もはやそれを奇跡と呼ぶのは難しくなるのです。

【6:22~24】
『それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。』
 ギデオンは主を直にその目で見たので、大いに動揺します。主を見たので殺されるのではないかと感じました。マノアも主を見たので殺されるに違いないと感じました(士師記13:22)。主を直接的に見ておきながら精神を揺るがされない人などいません。もし主を見るならば誰でも平常ではいられなくなります。しかし、主はギデオンの命を奪おうとしてギデオンに現われたのではありません。そうではなく、主はギデオンを用いるためギデオンに現われました。ですから、主はギデオンに『安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。』と言って落ち着かせようとしておられます。このように言われた時は、もう既に主の姿が見えなくなっていました(士師記6:21)。ですから、『安心しなさい。』との御言葉を語っておられる主の姿は見えませんでした。つまり、この御言葉はただ音声だけで聞こえたということです。

 ギデオンは、主が現われて下さったその場所に、感謝と崇敬を示すため『祭壇を築』きました。主が現われて下さった際には、このように感謝と崇敬を物質において残そうとするのが、古代ユダヤ人の常でした。この祭壇に付けられた『アドナイ・シャロム』という名前は、「主(アドナイ)は平安(シャロム)」という意味です。主がそこでギデオンに平安の御言葉を与えて下さったので、このような名が祭壇に付けられました。この祭壇は士師記が書き記された時代における『今日まで』ずっとオフラの地に残っていました。

【6:25~26】
『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」』
 この箇所から分かる通り、ギデオンの父はユダヤ人なのに偶像崇拝者でした。その父はバアルの祭壇を持ち、その祭壇の近くにはアシェラ像が置かれていました。バアル崇拝とアシェラ崇拝という忌まわしいダブルパンチを神に放っていたのです。このようにして神を侮辱するとは何と酷いことでしょうか!!!しかし、このようにしていたのはギデオンの父だけではありませんでした。他のユダヤ人たちも、その多くがこのような偶像崇拝に陥っていました。だからこそ、神はユダヤ人を裁かれミデヤン人の手に渡されたのです。しかし、ギデオンは父や他のユダヤ人が行なっていた偶像崇拝を免れていたはずです。何故なら、もしギデオンも偶像崇拝者だったとすれば、神は恐らくギデオンを解放者なる士師として召しておられなかっただろうからです。偶像崇拝者は神に嫌われます。ギデオンがそのような嫌悪されるべき者であれば、どうして神はギデオンを選ばれたのでしょうか。イスラエル解放という聖なる用のために邪悪な偶像崇拝者が選ばれるとでもいうのでしょうか。まさか、そんなことはないはずです。

 神は、ギデオンが父の持つ邪悪な祭壇と偶像を蹂躙するよう命じます。ギデオンは父の忌まわしい遊び道具を滅茶滅茶に破壊し、ゴミカスとなったその偶像を使い神への生贄を捧げなければいけません。神がこのように命じられたのは、ギデオンの信仰を試し、また鍛えるためでした。父の魂そのものである崇拝対象を打ち壊すのは、神を何よりも第一とする敬虔な信仰が必要です。これは肉親の情を超越できるほどの信仰がなければいけません。ですから、ギデオンが父のゴミクズを破壊できれば、それは真の信仰を持っていた証拠となるのです。また、そのように出来ればギデオンの信仰は筋金入りとなります。何故なら、邪悪な祭壇と偶像という汚物を壊すことで、自分の信仰を行ないとして現わしたのだからです。こうすればギデオンの信仰が鍛えられます。ギデオンはこれからイスラエル解放のためミデヤン人を打ち滅ぼすのですから、まず彼に信仰があること、そしてその信仰が堅固であること、この2つが確認されておくべきでした。そのため、神はまずギデオンが父の祭壇と偶像を滅ぼすよう命じられたのでした。ギデオンが『父の雄牛』を神に捧げるべきだったのは、その雄牛は本来的に神へと捧げられるべき動物であって、バアルやアシェラに捧げられるべきではなかったからです。父は雄牛を偽りの神々に捧げていたのです。その雄牛が『七歳』であるべきだったのは、その雄牛が神に捧げられる「聖なる」生贄だからです。また、これが『第二の雄牛』と書かれているのは、いつも偶像崇拝の儀式で2番目に捧げられている雄牛を意味しています。すなわち、これはバアルまたアシェラに対し第一番目に捧げられる雄牛ではありませんでした。

【6:27】
『そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。』
 ギデオンは主から霊的な恵みを受けていたので、主の命令通りに行ないました。恵みを受けていなければ神に従うことはできません。しかし、ギデオンは恐れのため、偶像と祭壇を昼ではなく夜に破壊しました。パウロは聖徒たちが昼また光の子どもだと言っています。すなわち、聖徒たちは夜や闇の子どもではありません。ギデオンは『昼間それをせず、夜それを行なった』のですが、これは彼が夜や闇の子どもであったことを意味していません。確かにギデオンは暗い時にこそこそ事を成し遂げました。しかし、彼が行なった時間帯は夜であっても、その行ないは光でした。何故なら、神に従うのはいかなる時であっても光の行為だからです。ギデオンがこの時に僕たちを『十人』引き連れたのは、引き連れた僕たちの数が十分で不足していなかったことを示します。聖書で「10」は完全さを象徴するからです。

【6:28~32】
『町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。そこで、彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ。」と言った。ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい。」という意味である。』
 この時のユダヤ人はバアルやアシェラを主としていましたから、その偶像や祭壇が壊されるのは大きな事件でした。自分たちの奉じる神の像や祭壇が壊されたのに騒がない信者は恐らくどの宗教にもいないはずです。これは私たちが今見ている古代ユダヤ教徒もそうでした。この大事件を行なった犯人が誰であるか調査されると、犯人はギデオンであると判明します。ギデオンは誰にも見られないよう夜に事を行なったのですが(士師記6:27)、バレずにいることはできませんでした。キリストも言われた通り、隠れている事柄で顕わにされないものはないからです。恐らくギデオンの破壊行為を密かに見ていた人がいたのかもしれません。つまり、ユダヤ人が犯人探しをしている際、その目撃者が「私はギデオンが夜に祭壇と像を打ち壊しているのを見た。」と証言したのだと考えられます。

 ユダヤ人にとって偶像と祭壇の破壊は許し難いことでしたから、犯人であるギデオンを死刑にすべきだと言いました。これは実に狂ったことでした。神の民が神に正しく従った信仰者を殺そうとしていたのですから。「異常」とは正にこのことです。ところが、殺されようとしていたギデオンは、父ヨアシュの介入により危機を免れます。ヨアシュは「もしバアルが本当に神であれば自分自身でギデオンを殺すはずである。」と言って人々に死刑を思い直させようとしました。この言葉に人々はすぐ納得します。ヨアシュがこのように言った時、もしユダヤ人がヤペテ人であれば哲学的また論理的に考察したかもしれませんし、ハム人であれば聞く耳を持とうとしなかったかもしれません。ユダヤ人はセム人でしたが、セム人はこのように神の事柄ではすぐ納得するのが特徴です。

 このギデオンの事例を見ても分かりますが、神に従う者は神が何らかの方法により守って下さいます。何故なら、『命令を守る者はわざわいを知らない』(伝道者の書8章5節)からです。神に従っているのにどうして神から守られないことがありましょうか。これはダビデについて考えても分かります。ダビデは幾度となく命の危機に晒されましたが、神に従っていたので、いつも神により難を免れることができました。アウグスティヌスもこのようでした。ある日、アウグスティヌスがいつも通っている道に、ドナトゥスの徒が待ち伏せしていましたが、もしアウグスティヌスがいつも通りにその道を通っていれば、襲われ殺されていたところでした。ところが、たまたまその日は違う道を通ったので、アウグスティヌスはドナトゥス派の信者から殺されずに済んだのです。これにはアウグスティヌスも驚かされました。彼が神に従っていたので、神が働きかけて彼を守って下さったのです。またルターもそうでした。ルターが異端の嫌疑でヴォルムス国会に召喚された際、ルターはそこに行けば殺されると分かっていながら、聖なる福音を語るため行きました。ところが、ルターが国会にいる際、突如として仲間が乱入してきてルターを拉致したのでルターは教皇主義者たちから殺されずに済んだのです。ルターはどうして教皇主義者たちからずっと殺されないままでいたのか自分でも驚き不思議に思っていましたが、ルターは神に従っていたので、神から守られていたのです。一方、神に従わなければ神から守られることもなくなります。そのような者には神から災いが下されるからです。こういうわけですから、私たちは神に従わなければいけません。もし神に従わなかったのならば、守られなくても自業自得だからです。

 こうしてギデオンはバアルに対した行なった働きかけのため『エルバアル』という名で呼ばれることとなりました。これは綽名であって、ギデオンの実名が変えられたというわけではありません。このように、その人が行った事柄に関連した綽名を付けるのは、昔から今に至るまで多くの民族で行なわれていることですから、特に不思議なところはありません。

【6:33】
『ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな連合して、ヨルダン川を渡り、イズレエルの谷に陣を敷いた。』
 ユダヤ人を苦しめていた敵が連合してカナンの北にある『イズレエルの谷に陣を敷いた』のは、士師記6:3~6の箇所から分かるように、ユダヤの地を荒らすためでした。このような召集は、これまでの時であればユダヤ人に対する呪いとして起こっていました。しかし、この時は呪いとしてこのような出来事が起きたのではありません。敵どもは神から滅ぼされるためイズレエルの谷に集合していたのです。というのも、もう「神の救いの時」がユダヤに来ていたからです。敵どもはまさか自分たちがこれから滅ぼされるために陣を敷いていたとは思いませんでした。

【6:34~35】
『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。』
 ギデオンが神の霊に満たされたので、彼が戦士たちを召集すると、まず彼と同じ分団の者が集まってきます。そして、ギデオンと同じ部族であるマナセ族および『アシェル、ゼブルン、そしてナフタリ』の相続地からもユダヤ人が集まってきました。地図を見ると、ギデオンのもとに集まったのは、敵が集まったイズレエルの谷に近い場所にいたユダヤ人ばかりだったと分かります。ユダヤの南のほうからは集まりませんでした。この時に集まった戦士たちは、後の箇所から分かるように3万2000人でした(士師記7:3)。

【6:36~38】
『ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」すると、そのようになった。ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。』
 ギデオンは神がギデオンを通してイスラエルに救いを与えて下さるという確信を更に得ようとして、再び主に対し印を求めます。先の場合と同じで、これは不信仰に基づく要求ではありません。ギデオンはますます確信を強めようとして主に要求したのです。ですから、主はこの要求を咎めることなく、ギデオンの言った通りにして下さいました。ここでギデオンはそれが実現されれば必ず印となる出来事を主に求めています。ですから、ギデオンはその出来事を見た際、本当に祈りが聞かれたことを悟りました。この時、主はギデオンの求めにしっかり応じられました。ですから、ギデオンの用意した羊毛からは『鉢いっぱいになるほど水』が出ました。神はこのように祈りに対してしっかり答えて下さる御方です。それは祈りが聞かれたことを人間に疑わせないためです。もし少し、または中途半端にしか求めが叶えられなければ「あれ?本当に願いが聞かれたのだろうか…。」などと思って確信を持てないことにもなるのです。先にも述べておきましたが、私たちがこのギデオンに倣い、神に印を求めることはする必要がありません。キリストは「印を神に求めなさい。」などと言われませんでしたし、使徒もそのようなことは言わなかったからです。

【6:39~40】
『ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。』
 ギデオンは更なる確信を得ようとし、再び主に対し印を求めます。今度は前の現象と逆の現象が起きるように求められています。神は寛大な御方なので、再びギデオンの願いを聞いて下さいました。このためギデオンの確信は更に堅固となりました。しかし、ギデオンにはもう一度印を求めることについて恐れがありました。すなわち、またもや印を求めるのは僭越ではないかと思えたのです。ですから、ギデオンは印を求める前に『私に向かって御怒りを燃やさないでください。』と前置きしています。

【7:1】
『それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。』
 ギデオンは召集された戦士たちを引き連れてイズレエルの平原の東にある『ハロデ』に陣を敷き、ミデヤン人たちはその北側にある谷へ陣を敷きます。北のミデヤン陣営に対し南のギデオン陣営があり、南のギデオン陣営に対し北のミデヤン陣営があります。この位置関係について何か意味を見出そうとする必要はないでしょう。

【7:2~3】
『そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょににる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。』
 ギデオンは集められた戦士たちを率いてこれから敵を打ち倒すのですが、神は戦士たちの数が多過ぎると言われます。神が共におられるのですから既にユダヤ側の勝利は決定しています。しかし、戦士の数が多いと、敵に勝利した際、戦士たちが勝利の栄光を自分たちに帰してしまいかねませんでした。すなわち、戦士たちは勝利したら「私たちが敵に勝てたのは私たちの数が非常に多かったからだ。」などと言って誇りかねません。これは神の御心に適いません。何故なら、神は御自分の栄光のためイスラエルに勝利を与えられるのだからです。ですから、数が多いままであれば神はイスラエルに勝利を与えて下さいませんでした。

 神は戦士たちの数を減らすため、臆病さが僅かでも心にある戦士たちを帰還させます。そうすると3万2000人いた戦士が『二万二千人』も帰って行き、残りは『一万人』となりました。恐らく帰って行った戦士たちは、神への信仰が十分でなかったか、強くて数も多いミデヤン軍を見て動じてしまったのだと考えられます。この箇所で書かれている『一万』また『二万二千人』という数字に何か意味を見出そうとする必要はないと思われます。

【7:4~8】
『すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。』
 残された戦士たちは1万人でしたが、これでも神は多過ぎると言われます。1万人であってもユダヤ人は勝利した際に誇りかねませんでした。

 このため、神は更に戦士の数を減らそうとされます。その減らす方法は戦士たちを試すことによりました。まず戦士たちは水のある場所に行き、そこで水を飲むよう指示されます。そして、膝を付かないで飲んだ者だけを残し、膝を付いて飲んだ者は家に帰らせます。これは明白に区別できるやり方です。この時に水をどうして飲むか前もって説明されることはなかったはずです。ですから、戦士たちは心の赴くまま好きな仕方で水を飲むことになりました。もし事前に説明すれば調査が台無しとなります。

 このようにした結果、膝を付かないで飲んだ戦士は『三百人』でした。彼らが忍耐強く高潔に傾く傾向を持っていることは明らかです。ですから、この300人が戦いに連れて行かれます。彼らであれば名誉欲に動かされて勝利の栄光を神から横取りすることもないだろうからです。しかし、残りの9700人の戦士たちは膝を付いて飲んだゆえ家に帰らされました。彼らが膝を付いて飲んだのは、小カトーのように高きを求める高潔な精神を持っていない証拠だったからです。そのような者であれば、自己を無にし神の栄誉をこそ求めるということは難しいのです。この戦いは神の栄光のため行なわれるのですから、このような者たちは必要ありませんでした。帰らされた多くの戦士たちは文句を言えませんでした。何故なら、神が彼らに帰れと命じられるのだからです。彼らが何を思い何を言ったとしても、膝を付いて飲んだというその振る舞いが、神の戦いに参与すべきでないことをまざまざと証明していました。行ないはどのような言葉よりも遥かに雄弁だからです。

 このように神が残された戦士たちは『三百人』だけとなりました。3万2000人の戦士を1万人に減らし、それからまた300人にまで減らす。このようにしたのが人間であれば極度に狂ったとしか思われなかったでしょう。歴史を振り返っても、こんなことをした将軍など見られません。いったい、どの将軍がこんなことをしろと言われて納得するでしょうか。しかし、神はこのようにされました。何故なら、神が勝利を定められたならば、どのような数であっても必ず勝利が生じるからです。これはヨナタンが次のように言ったことからも分かります。『大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。』(Ⅰサムエル記14章6節)神が戦って下さるならば、たとえ1人だけでも1億人の敵に勝利することができます。ですから、300人にまで戦士の数が減っても、神にとっては全く問題ありませんでした。こういうわけですから、私たちは悟るべきです。霊的な事柄において人間の数は重要な要素ではない、ということをです。数ではなく神が働きかけて下さるかどうか。この神の働きかけこそが霊的な事柄においては最も重要なのです。

【7:9~14】
『その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め上れ。それをあなたの手に渡したから。しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまではいり、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。』
 敵どもは恐ろしいほど多く集まっていました(12節)。これが普通の場合であれば、たったの300人で敵に立ち向かうというのは、狂気の行ないだったでしょう。俗に言う「無理ゲー」というやつです。敵には『海辺の砂のように多くて数えきれな』いほどラクダがいましたが、これは敵が多くの食糧や戦争に必要な武器また道具を持っていたということです。というのもラクダは運搬用の動物だからです。戦いにラクダが参加することはありません。このような状況は、通常の場合であれば、ユダヤ人に対する神からの呪いでしかありませんでした。しかし、この時の状況が呪いとして起こったのではありませんでした。というのも、この時にはもう神からの救いがユダヤ人に与えられようとしていたからです。

 主は、ギデオンが大勢の敵どもを見て動じないよう、更に印を与え、ギデオンが揺るがないように働きかけられました。すなわち、主は敵のある者にギデオンがミデヤン陣営を打ち倒す夢を見させ、その夢を別の者が解き明かしている出来事をギデオンに見せられました。今回は主のほうから印をギデオンに与えておられます。前回と前々回ではギデオンのほうから印を求めました。神はこのようにしてギデオンが勝利の確信を持てるようにされました。その出来事を見たギデオンは、印を与えて下さった主を礼拝し崇めました。彼がこのようにしたのは当然でした。私たちも神が確信を得させて下さったのであれば、このように主を礼拝すべきです。主は礼節に反する振る舞いを嫌われるのですから。この時にギデオンと一緒に行った『若い者プラ』の詳細はよく分かりません。

【7:15~18】
『そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」そして、彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼとを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせた。それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。私と、私といっしょにいる者がみな、角笛を吹いたなら、あなたがたもまた、全陣営の回りで角笛を吹き鳴らし、『主のためだ。ギデオンのためだ。』と言わなければならない。」』
 神からイスラエルが勝利する印を見せられたギデオンは、敵に必ず勝てるという確信で満たされたので、勇気1000倍になりました。そして陣営に戻り、主がイスラエルに敵を渡して下さったと知らせ、戦いの準備を始めさせます。まずギデオンは戦士たちを『三隊に分け』ますが、これは敵の陣営を3つの場所から取り囲むためです。アウグスティヌスであれば、これは神の「三位格」を示しているなどと言うかもしれません。しかし、これは今述べた通りに捉えるのが自然でしょう。この時に戦士たちが『角笛』を持ったのは、それを吹き鳴らして敵の陣営をかき乱すためです。『つぼ』はミデヤン人を示します。『たいまつ』はユダヤ人を示します。準備が整ったら、まずユダヤ人は敵の陣営を3箇所から取り囲みます。そして取り囲んだら、ギデオンが角笛を吹いたのに続いて戦士たちの全員が角笛を吹き鳴らします。このようにして敵の陣営を大混乱に陥れるのです。

【7:19~23】
『ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。イスラエル人はナフタリと、アシェルと、全マナセから呼び集められ、彼らはミデヤン人を追撃した。』
 イスラエル人がミデヤン陣営に着くと、ギデオンに続いて全ての戦士たちが角笛を吹き鳴らします。この時に戦士たちが松明の入った壺を打ち壊したのは、この時においてミデヤン人の支配が終わったことを示します。先に述べた通り『つぼ』はミデヤン人です。『たいまつ』はイスラエル人です。つまり、これはユダヤ人が壺の中に閉じ込められた松明のような状態から解放されたことを象徴しています。壺に入れられた松明は身動きできず自由がありません。ユダヤ人がミデヤン人から支配されているのは正にこのような感じだったのです。しかし、もうミデヤン人の支配はこの時で終わりましたから、壺が破壊されたのです。こういうわけで、この壺と松明に実利的な意味は全くありませんでした。この2つは単なる象徴の意味しか持っていません。ですから、この時には壊された壺に入っていた松明を『堅く握り』はしましたが、それに火を付けて灯りとすることはしなかったのです。イスラエルの戦士が角笛を吹き鳴らしたので、敵の陣営は大混乱に陥り、主による『同士打ちが起こるように』なりました。敵が自分の仲間を敵だと思って殺したのです。古代の戦争では昼間でさえこういう同士打ちがよく起こりました。たとえ太陽が照らしているので明るくても、恐怖により混乱して訳が分からなくなってしまったからです。昼でさえこうです。であれば尚のこと夜にはこういった同士打ちが起こるのです。このようにして神はたったの300人でも御自分にとっては十分であることを御示しになられました。神はもっと少なくても敵の陣営をかき乱すことがお出来になられました。敵がこのような仕方で滅ぼされたので、ユダヤの戦士たちは勝利を自分たちの功績に帰することが全くできませんでした。何故なら、今回の勝利が神により齎されたことは火を見るより明らかだったからです。

 両手で救い上げた米粒が手の端からこぼれ落ちるかのようにして、この時に殺されなかった残りの敵どもが逃走しました。彼らは神からユダヤ人の手に渡されていました。ですから、少しも生かしておくことはできません。このためギデオンは『ナフタリと、アシェルと、全マナセ』の相続地から戦士たちを召集し、逃走した敵どもを追撃します。これらの相続地はどれも戦いが起きた場所の近くにありました。ゼブルンとイッサカルの相続地も戦いが起きた場所の近くにありましたが、この時には召集されませんでした。このような勝利の出来事が起きたのは、もうイスラエルに救いの時が来ていたからでした。もしまだ呪いの時が続いていたとすれば、このようにはならなかったでしょう。敵の逃げた『アベル・メホラ』は、戦場からかなり南東に離れた場所です。

【7:24~25】
『ついで、ギデオンはエフライムの山地全体に使者を送って言った。「降りて来て、ミデヤン人を攻めなさい。ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取りなさい。」そこでエフライム人はみな呼び集められ、彼らはベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。また彼らはミデヤン人のふたりの首長オレブとゼエブを捕え、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、こうしてミデヤン人を追撃した。彼らはヨルダン川の向こう側にいたギデオンのところに、オレブとゼエブの首を持って行った。』
 敵は南のほう、すなわち『エフライムの山地』のほうに逃げたので、ギデオンはエフライム族に逃げて来た敵どもを打ち倒すよう命じます。この時にエフライムに送られた『使者』は、恐らく駿馬に乗って行ったはずです。何故なら、敵がエフライムの地へと着くまでに伝令が告げられねばならないからです。この時には例のように王たちも殺されないまま逃げていましたが、結局は王たちもエフライム人に打ち殺されました。これは王たちも含めて敵どもがユダヤ人に渡されていたからです。神により渡されるならば、たとえ逃げても必ず殺されてしまうのです。私は言いますが、たとえ宇宙の果てまで逃げたとしても殺されるでしょう。

 このようにしてイスラエルは敵に勝利しました。神が敵をイスラエルに引き渡して下さったからです。そういうわけですから、神が敵を渡して下さるならば、私たちは必ず勝利します。敵の強さとか数とかは別にどうでもいい要素です。神が敵を渡して下さるか渡して下さらないか。聖徒たちの勝利はただこの一点にかかっています。この世の要素に聖徒の勝敗がかかっていると思うならば、その人はまだまだ霊的な理解が足りていません。

【8:1~3】
『そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。ギデオンは彼らに言った。「今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。」ギデオンがこのことを話すと、そのとき彼らの怒りは和らいだ。』
 先に士師記6:34~35の箇所で見た通り、この時の戦いでエフライム族は召集されていませんでした。エフライム人は遅れてこの戦いに参加したのであり、しかも逃げて来た敵どもを返り討ちにするという役目だけが与えられました。最初から召集されなかったエフライムは、ギデオンに不満をぶつけます。エフライム人の不満は私たちにも納得できるはずです。誰でも自分だけ声をかけられなければ「何で俺だけ呼ばれないのか。」などと不満になるだろうからです。この時に召集されなかったのはエフライムの相続地より南の相続地にいたユダヤ人たちも同様でした。このエフライム族に対し、ギデオンはギデオン率いるユダヤ人の戦績とエフライム族の戦績を比較させることで、エフライム族の怒りを鎮めようとします。この箇所で『アビエゼルのぶどうの収穫』と言われているのはアビエゼル人ギデオンと共にいた戦士たちが打ち倒した王を含めない敵どものことであり、『エフライムの取り残した実』とはエフライム族がギデオンたちの打ち倒せなかった王たちを打ち倒したことです。誰がどう考えても、ギデオンたちの戦績よりエフライム族の戦績のほうが優れています。というのも王より重要さにおいて優る獲物は他にいないからです。ですから、このような比較を示されたエフライム人たちは納得させられ、その怒りは和らぎました。最初は召集されず後からの参戦となったものの、王たちを討ち取れたほうが遥かに良いからです。

【8:4】
『それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。』
 ギデオンとギデオンの率いる戦士たちは疲れていましたが、ヨルダン川を渡って追撃し続けます。既に敵はユダヤ人に渡されていました。つまり、敵は神から委ねられた打ち取るべき獲物でした。そのような敵どもを、疲れているからというので、逃げ去らせていいはずがありません。そんなことをしたら神の御心を損ない、せっかく得られるはずだった勝利を台無しにしてしまいます。異邦人でさえこのような場合は多かれ少なかれ無理をしてでも敵を追いかけます。であれば神の民は尚のこと敵を追いかけなければいけません。というのも疲れているからというので敵を逃がしたとすれば、異邦人の場合は自分たちの名誉に傷を付けるだけで済みますが、神の民の場合は自分たちの名誉に傷を付けるだけでなく神の名誉に傷を付けることにもなるからです。つまり、異邦人から「ユダヤの神は自分の民を使って敵を打ち倒すことができなかった。」などと言われてしまうことになります。ですから、ユダヤ人は自分の身体に鞭を打って追撃し続けねばなりませんでした。