【士師記21:16~25】(2022/07/10)


【21:16~18】
『そこで、会衆の長老たちは言った。「あの残った者たちに妻をめとらせるにはどうしたらよかろう。べニヤミンのうちから女が根絶やしにされたのだ。」ついで彼らは言った。「べニヤミンののがれた者たちの跡継ぎがなければならない。イスラエルから一つの部族が消し去られてはならない。しかし、私たちの娘を彼らにとつがせることはできない。イスラエル人は、『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる。』と言って誓っているからだ。」』
 ベニヤミン族を存続させなければいけないのに、生き残ったべニヤミン族には200人もの女が足りないものですから、またもやユダヤ人は悩まされることになりました。べニヤミン族の子孫がイスラエルから絶えることは絶対に阻止せねばなりません。しかし、ユダヤ人はもう自分たちの娘をベニヤミンの男に娶らせないと誓っていましたから、ユダヤ人の娘がベニヤミンの男に嫁ぐことはできません。もしユダヤ人がこの誓いを破れば罪となります。「しかし、べニヤミン族はもう400人も子孫を残せる状態になったのだから、あとの200人は何とか我慢してもらえないだろうか。」などと考えることは許されませんでした。このように考えるのは不公平だからです。神は人を不公平に取り扱われません。ですから、その神の民であるユダヤ人たちも、べニヤミン族に対して不公平な取り扱いをしてはならないのです。何となれば神の民は神に似るべきなのですから。何とかして200人のベニヤミン人にも子孫を残させなければいけないからというので、愚かにも異邦人を娶らせることはできませんでした。こうするのは清い純水に汚れた毒水を混入させるようなものだからです。綺麗で美味しい水(ユダヤ人)にどうして汚い毒(異邦人)を混ぜていいでしょうか。

【21:19~23】
『それで、彼らは言った。「そうだ。毎年、シロで主の祭りがある。」―この町はベテルの北にあって、ベテルからシェケムに上る大路の日の上る方、レボナの南にある。―それから、彼らはべニヤミン族に命じて言った。「行って、ぶどう畑で待ち伏せして、見ていなさい。もしシロの娘たちが踊りに出て来たら、あなたがたはぶどう畑から出て、めいめい自分の妻をシロの娘たちのうちから捕え、ベニヤミンの地に行きなさい。もし、女たちの父や兄弟が私たちに苦情を言いに来たら、私たちは彼らに、『私たちのため、彼らに情けをかけてやってください。私たちは戦争のときに彼らのひとりひとりに妻をとらせなかったし、もしそうしていたら、あなたがたは、罪に定められたでしょう。』と言います。」べニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって、連れて来た。踊っているところを、彼らが略奪した女たちである。それから彼らは戻って、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。』
 ベニヤミン族の跡継ぎに関わるこの問題は、ユダヤ人にとって解決の難しい問題だと感じられました。しかし、ユダヤ人は妙案を思いつきます。シロで主の祭りが行なわれる際、200人のベニヤミン族が、そこで踊りに出て来るシロの娘たちを捕えればいいと考えたのです。つまり、シロにいたユダヤ人の娘たちを娶るようにしてでなく奪うようにして我が物にするということです。これはユダヤ人がカナンの町を滅ぼした際、戦利品として女を獲得したのと同じやり方です。この『シロ』はシェケムとベテルの中間に位置しており、『レボナの南』にあります。ここはかつて契約の箱と聖所があった場所です(ヨシュア18:1)。こうして残されたべニヤミン族のうち200人の者も、子孫を残すため妻を獲得しました。この時のやり方が正しかったのかどうか私には何も言えません。聖書がこのやり方について善悪を述べていないからです。しかし、ユダヤ人たちはこれが強奪行為であると分かっていました。ユダヤ共同体からべニヤミン族が滅んではいけませんから、この略奪は黙認すべきだったのかもしれません。これからべニヤミン族は、聖絶され荒廃していた自分たちの相続地に帰り、そこを再建しそこで住み続けました。この時にユダヤ人たちはべニヤミン族もそれ以外の部族も大きな悲しみを持っていたはずですが、この事件は、これにて一件落着となりました。

【21:24】
『こうして、イスラエル人は、そのとき、そこを去って、めいめい自分の部族と氏族のところに帰って行き、彼らはそこからめいめい自分の相続地へ出て行った。』
 べニヤミン族の事件が全て終わりを迎えたので、ユダヤ人はそこを去り、それぞれ自分たちの相続地へと帰って行きました。やっと家に帰れるといっても喜びは全くなかったはずです。寧ろ、悲しみしかなかったでしょう。ところが、このような悲しむべき事件も神により引き起こされたのでした。それはソロモンがこう言っている通りです。『これもあれも神のなさること。』(伝道者の書7章14節)では、神はどうしてこのように悲惨な事件を起こされたのでしょうか。神はもちろんこの事件を起こさないでおくこともできましたが、起こされたのですから、起こされた目的が何かあるはずです。神が意味もなく何かを行なわれることはないからです。有意味そのものであられる存在が、どうして無意味な事件を引き起こされるはずがあるでしょうか。神がこの事件を起こされた目的は2つあると考えられます。一つ目はべニヤミン族の悪を罰することで神の審判者としての栄光が現わされるためであり、二つ目はユダヤ人たちを苦難に忍耐させ鍛えるためです。

【21:25】
『そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。』
 この時代のイスラエル社会にはまだ王が立てられていませんでした。王が出て来るのはもう少し経ってからです。アビメレクは王として立てられましたが(士師記9:6)、この人物は王としてカウントされるべきではありません。何故なら、アビメレクは不正に支配者となった僭主に過ぎず、正式な王とは言い難いからです。モーセやヨシュアやギデオンをはじめとした士師たちも王ではありませんでした。彼らはイスラエル人を統導する指導者に過ぎなかったからです。この箇所も、士師記が王制以降に記された文書であることを示しています。『そのころ、イスラエルには王がなく』という文章は、王制以降のユダヤ人により書かれた文章だとするのが、自然な解釈だからです。

 この時代のユダヤ人は『めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた』のですが、これはユダヤで律法が忘れ去られていたことを意味します。律法という聖なる規範が無かったからこそ、各々のユダヤ人が自由に振る舞っていたわけです。箴言ではこう言われています。『幻がなければ、民はほしいままにふるまう。』(箴言29章18節)『幻』すなわち神の示された律法が無ければ、民は宙をあちこちへと動き回るタンポポ胞子のようになってしまいます。それでは、どうしてこの時代にはユダヤから律法が忘れ去られていたのでしょうか。それは神の裁きがユダヤに注がれていたからです。エジプト脱出後からここまでの歴史を振り返れば明らかに分かる通り、ユダヤ人はこれまでずっと律法に背き続けていました。ですから、神もそのようなユダヤ人に対する裁きとして律法をユダヤから取り去られたのです。このため、ユダヤ共同体からは律法が失われていたのでした。

 この箇所は、既に見た士師記17:6の箇所と全く同じ文章です。