【申命記30:5~32:40】(2022/04/10)


【30:5】
『主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。』
 もしユダヤ人が立ち返ってカナンの地に連れ戻されたならば、以前よりもその数が多くされます。ユダヤ人が御心を行なうようになったからです。これは夫婦が喧嘩して仲直りするのと似ています。喧嘩した夫婦が仲直りをすると、以前にも増して夫婦仲は良くなります。悪かった状態がこれまでのどの状態よりも良い状態に転ずるという点で、神に立ち返ったユダヤ人と仲直りした夫婦は同じです。神はこのように立ち返ったユダヤ人を前より増やすと約束されることで、御自分がどれだけ改悛を望まれ喜ばれるのか証ししておられます。

【30:6~10】
『あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。』
 ユダヤ人が罪から立ち返るなら、神は再びユダヤ人の幸せと繁栄を喜ばれるようになります。私たちが自分に良くする人の幸いを喜ぶのと一緒です。もはやユダヤ人に呪いはありません。というのも罪が、この罪こそが、人間に呪いを齎すからです。罪を犯さなければユダヤ人が祝福されるのは自然なことです。このように神は聖徒たちの改悛を本当に喜ばれます。ですから、あらゆる時代の聖徒たちは罪を犯したならば悔い改め、正しく歩むようにせねばなりません。そうすれば神に喜ばれるでしょう。

 また神はユダヤ人が御自分に立ち返るならば、彼らの心における包皮を切り捨て、霊的な割礼を施して下さいます。すると、ユダヤ人は神の御言葉を非常に感じやすくなります。肉体的な割礼を施せば感覚的な敏感度が非常に高まるのと一緒です。御言葉を非常に感じやすくなるとはどういうことでしょうか。それは、御言葉を良く聞き、良く理解し、良く守り行なうようになるということです。こうして神は立ち返ったユダヤ人を『生きるようにされ』ます。正しく歩む者は神に喜ばれ、祝福されるからです。そのような者は滅びの裁きを受けることもありません。しかし、正しく歩まず罪に陥り続ける者は滅びの裁きを受けるので『生きるようにされ』ることがありません。

 また神は、ユダヤ人に注がれていた呪いを、ユダヤ人の敵どもにことごとく移されます。何故なら、神は立ち返って正しく歩むようになったユダヤ人に味方されるからです。神はユダヤ人が正しく歩むならば、ユダヤ人の敵には敵となられます(出エジプト記23:22)。また、ユダヤ人が正しいのであればユダヤ人を呪う者には呪いが注がれます(創世記12:3、27:29)。こうしてユダヤ人は回復され、敵どもは奈落の底に突き落とされるのです。

【30:11~14】
『まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。』
 モーセがここで言っている通り、御言葉があるのは遠い場所ではありません。ですから、誰かが遠くまで行って御言葉を守れるよう持ち帰る必要はありません。もし御言葉が『天』また『海のかなた』にあったとすれば、ユダヤ人のところに御言葉はないわけですから、それを守るため誰かが取りに行かなければならなかったでしょう。しかし、モーセはこう言っています。『まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。』これは神がユダヤ人に御言葉を与えられ、それを心に刻んで口ずさめと命じられたからです(申命記6:6~7)。なるほど、確かに近くにあるというのであればそれを守ることができましょう。11節目で言われている通り、その御言葉は『あなたにとってむずかしすぎるものでは』ありません。つまり、御言葉における道徳規準は人間の諸能力を超えていません。それは人間の能力が守れる範囲内の道徳規準となっています。もし御言葉が『むずかしすぎるもの』であれば、ユダヤ人は決して御言葉を守れませんでした。例えば、御言葉が「誰かが危険な状態にあれば時速100kmの速度で走って助けに行かなければならない。」と命じていたとすれば、ユダヤ人は御言葉を守れませんでした。何故なら、人間の中で最も速く走れる者でも時速44.7kmが限界なのであり(ウサイン・ボルト)、時速100kmで助けよというのは明らかに『むずかしすぎる』からです。しかしながら、このように御言葉の道徳規準が人間能力の守れる範囲内であっても、全ての人間は堕落しているので、ごく簡単な御言葉さえ守ることができません。能力的には守れるのですが、罪深いゆえに守れないのです。御言葉にはキリストを除いた全ての人間が違反してしまいます。『罪を犯さない人間はひとりもいない』(Ⅰ列王記8章46節)とソロモンが言った通りです。それでは、どうして神は人間が守り得ない御言葉を聖徒たちに与えられたのでしょうか。それはアウグスティヌスも度々言った通り、私たちが御言葉を守れない自分の罪深さを痛感し、それを守れるよう神に祈り求めるためでした。

 この箇所で言われていることは新約時代の聖徒でも同様であって、神の御言葉は私たちの近くにもあります。旧約時代のユダヤ人よりも、新約時代の聖徒のほうが、御言葉の近い度合いは優っています。何故なら、昔の聖徒で聖書を持っている人はほとんどいませんでしたが、今の聖徒は誰でも聖書を持っており、どこでもいつでも読むことができるからです。私たちも自分の近くにある御言葉を守り行なうことができます。であれば守り行なうべきです。何故なら、御言葉が私たちの近くにあるのは、それを守り行なうべきだからです。ただ聞くだけであってはなりません(ヤコブ1:22)。聞いて近付けても実行しなければ祝福はないでしょう。しかし、聞いて実行するならば『その行ないによって祝福されます』(ヤコブ1章25節)。私たちには、より近くに、より多くの御言葉があればあるほど望ましいのです。そして、その御言葉を行なえれば行なえるほど望ましいのです。それが主に喜ばれることは間違いありません。

 パウロは、ローマ10:6~9の箇所で、この御言葉をキリストにおいて捉えています。パウロは、この箇所に基づき『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』(ローマ10章6節)と言っています。何故なら、それは『キリストを引き降ろすこと』(同)だからです。つまり、これはキリストの昇天を疑い、否定するということです。『だれが天に上るだろうか』と言うのは、すなわちキリストを含め誰も天に上らないと主張することだからです。またパウロはこの箇所で『海のかなた』と言われている言葉を『地の奥底』(ローマ10章7節)すなわち黄泉として捉えています。パウロは、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』(ローマ10章7節)とも言っています。何故なら、それは『キリストを死者の中から引き上げること』(同)だからです。つまり、これはキリストが死んで黄泉に下られた出来事を疑い、否定することです。『だれが地の奥底に下るだろうか』と言うのは、キリストを含め誰も人類の罪のために死んで黄泉へ下らないと主張することだからです。そして、パウロは『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』(ローマ10章8節)という御言葉が、キリストの救いを啓示した御言葉のことであると示しています。つまり、パウロはキリストを啓示した御言葉が私たちの近くにあるのだから、それを信じるべきであって、誰も天や黄泉へは行かなかったなどという不信仰な思いを持つなと言っているのです。人はただ近くにあるキリストについての御言葉を信じれば良いのであり、「誰が天また黄泉に行ったというのか?」などと疑う人は決して救われません。この御言葉をキリストにおいて捉えるところに、パウロの深遠さと霊的な鋭さが現われています。

【30:15~20】
『見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。』
 ユダヤ人の前には『いのちと幸い、死とわざわい』が置かれました。どちらを選ぶかはユダヤ人次第でしたが、彼らは当然ながら『いのちと幸い』を選ぶべきでした(19節)。もしユダヤ人が御声に聞き従うのであれば祝福されますから、滅び散らされ悲惨になることはありません。しかし、ユダヤ人が背けば呪われるので彼らには『死とわざわい』しかありません。聖書の知識を全く持たない人であれば、このように言われたユダヤ人は当然ながら『いのちと幸い』を選んだに違いないと思うかもしれません。ところが、彼らは愚かにも罪を犯して『死とわざわい』を選び取ってしまいました。ここに彼らの罪深さがあったのです。ところで、人が律法を守り行なうならば、確かに律法により『いのちと幸い』を得ることができましょう。しかし、この律法により命を得られる人はいません。何故なら、誰もが律法に違反してしまうからです。ですから、人が『いのちと幸い』を得るために必要なのは信仰なのです。『義人は信仰によって生きる。』(ガラテヤ3章11節)のだからです。これこそこの箇所の霊的な解釈であって、パウロがガラテヤ書で教えていることです。ですから、私たちは律法の行ないにより義認が得られると考えてはなりません。それは行為義認という誤りだからです。

 20節目で『主はあなたのいのち』だと言われているのは記憶するに値します。主御自身もヨハネ14:6の箇所で御自分が『いのち』であられると言われました。この命なる主にこそ人の救いがあります。主は命であられますから、人はこの主により永遠の命を持ちます。ヨハネが言ったように、主は『永遠のいのち』(Ⅰヨハネ5章20節)そのものであられます。ですから、この命を持たない全ての人間に永遠の命はなく、ただ永遠の死があるのみなのです。この命なる主を持たない人が、今の世の中には多く存在しています。そのような人たちが命に入れるよう、教会はイエス・キリストという命なる御方を宣べ伝えて行かなければなりません。

 19節目でモーセは『天と地とを、証人に立て』ていますが、モーセは先に見た申命記4:26の箇所でもそうしており、後の箇所でもそうしています(申命記31:28)。ここでモーセが主の御名を証人としているようには感じられないかもしれません。誓いのために持ち出す証人は御名でなければいけない、というのが律法の定めです(申命記6:13)。これについては既に申命記4:26の箇所で論じておきましたから、ここで再び論じることはしません。

【31:1~2】
『それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。』
 モーセの言った言葉が引き続き書かれることになります。モーセはもう間もなく死のうとしていました。つまり、これは遺言のようなものでした。遺言ほど重要な言葉はないでしょう。ですから、申命記の著者はこのように書いて、モーセ最後の言葉を読者が強く認識するようにさせているのです。

【31:2】
『私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。』
 モーセが『百二十歳』だったのは、まだ人々の平均寿命が短かった古代では非常な長生きでした。神がモーセをこの年まで生かして下さったのです。『すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。』(ヨブ12章10節)のですから。あらゆる生命の主であられる神が、その生命がどれだけの年を生きるのか決められます。モーセは御心に適った歩みをしていました。ですから、神の祝福が注がれ120歳まで生かされたのです。モーセがイスラエルを率い始めたのは80歳の時でしたから、ここまで40年が経過しています。「40」とは聖書で十分さを意味しますから、これはモーセが十分にイスラエル人を率いたということになります。

 『もう出入りができない。』と言われているのは、2通りの解釈があります。すなわち、老齢のため身体の自由が効かないということか、間もなく死ぬのでヨルダンを渡ってカナンに出入りできないということか、です。前者のように考えるべきではありません。何故なら、モーセは120歳になっても気力が衰えておらず(申命記34:7)、死ぬ少し前には『ピスガの頂に登った』(申命記34章1節)のですから、カナンの地に出入りできないほど身体が衰えていたとは思われないからです。これは後者のほうが正解でしょう。何故なら、モーセは『出入りができない』と言ってから、神がモーセに『「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。』と言っているからです。ヨルダンを渡ってカナンに入れなかったモーセの悲痛はどれほどだったでしょうか。目的地としていたカナンを目の前に見ておきながら、そこに入る直前に死ななければいけなくなったのですから。

【31:3~6】
『あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』
 モーセは、神がカナンをユダヤ人に必ず占領させて下さると言っています。神はカナン占領の言わば前味もしくは前払い金として、ユダヤ人にシホンとオグの国を先んじて占領させられました。この2つの国の占領により、ユダヤ人はこれからカナンの国々も同じように占領することができると確信できました。モーセもシホンとオグの国を占領したようにカナンの国をユダヤ人が占領できると確信しつつこの世を去れました。これは社会的な取引において前払い金を受け取った人が、これから残りのお金も支払ってもらえると確信できるのと一緒です。また、神はユダヤ人を決して見放さないとも言われています(6節)。つまり、カナン侵攻の際にユダヤ人が神から見放されて滅ぼされることはないのです。というのも、ユダヤ人を見放すのは神の名誉に関わるからです。もしユダヤ人を神がカナン侵攻の際に見放されたとすれば、異邦人が「神は彼らをカナンの地で殺し、地の面から断ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」(参照:出エジプト記32:12)などと神を非難することになります。神にとって御自分の名誉ほど重要なものはありませんから、神は決してユダヤ人を見放されないのです。実際、神はユダヤ人を見放されませんでした。このようにユダヤ人には神の約束と臨在があるのですから、決してカナン人を恐れたり慄いたりすべきではありませんでした(6節)。神の約束と臨在がありながら、どうして恐れる必要があるのでしょうか。むしろ、ユダヤ人は強く雄々しくあるべきでした(6節)。もしそうしなければユダヤ人は不信仰だったことになります。そうであれば彼らは神に喜ばれませんでした(ヘブル11:6)。カナン侵攻の際にはヨシュアがユダヤ人を率います(3節)。このヨシュアがカナンの国を占領するのは、主イエスがサタンの国を滅ぼされる予表でした。何故なら、ヨシュアというヘブル語の名前はギリシャ語で「イエス」だからです。

 新約時代の聖徒たちにも、旧約時代の聖徒たちと同様、敵に勝利できるという約束があります。『悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』(ヤコブ4章7節)と書かれている通りです。また、新約時代の聖徒たちも、旧約時代の聖徒たちと同様、神から決して見捨てられません。ヘブル書で新約時代の聖徒に神がこう言われた通りです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』(ヘブル13章5節)ヨハネ6:37の箇所でもキリストがこう言っておられます。『父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。』つまり、主は新約時代の聖徒と共に歩んで下さいます。このように私たちにも神の約束と臨在があるのですから、私たちも旧約時代の聖徒たちと同じように恐れるべきではありません。むしろ、キリストにあって強く雄々しくあるべきなのです(エペソ6:10)。

【31:7~8】
『ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」』
 モーセは、ヨシュアを民全体の前で励まし、カナンを占領すべき自分の後継者として民に示しました。ヨシュアが強められたのはカナン侵攻を力強く遂行させるためです。民の前でヨシュアが後継者として示されたのは、民がこのヨシュアをモーセに続く指導者として認め、彼の統導に服するためです。

 ところで、どうしてヨシュアがモーセの後継者に選ばれていたのでしょうか。これはヨシュアが神からそのように選ばれていたとしか言えません。つまり、ヨシュアが永遠の昔からイスラエルを率いると定められていたからこそ、遂にその定めがヨシュアにおいて実現されたのです。もしそのように定められていなければ、ヨシュアはイスラエルを率いていなかったでしょう。その場合、誰か別の人物がモーセの後継者になっていました。しかし、神はこのヨシュアこそをイスラエルの指導者に指定されたのです。

【31:9~13】
『モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」』
 モーセは御教えの全てを書き記した文書を、イスラエルの霊的な指導者である『祭司たち』と社会的な指導者である『長老たち』に授けました。これが書き記されたのはパピルス紙か羊皮紙か石か動物の皮だったはずです。書き記された文字はもちろんヘブル語です。この文書は祭司たちと長老たちに授けられましたが、一つの文書だったと思われます。すなわち、それは複数ではありませんでした。つまり、祭司たちと長老たちの全体に対し一つの文書として授けられたのでしょう。もっとも、その一つの文書は後ほど書き写されて幾つにも増えたでしょうが。しかし、どうして祭司たちと長老たちにこの文書が授けられたのでしょうか。それは彼らが指導者としてイスラエルの全会衆を管理し、導き、教えるからです。指導者たちに文書を授ければ、彼らはそれを民全体に伝えるでしょう。しかし、一般民衆の誰かに文書を授けても、民の全体にそれが伝えられるとは限りません。そもそも、一般民衆にそれが授けられるのはあまり適切とは言えません。このような重要文書を授けられる一般民衆とは一体どのような人物なのでしょうか。

 ユダヤ人は7年ごとに仮庵の祭りでこの文書を皆揃って聞き、それを心に留めなければなりませんでした。このようにするのはユダヤ人が御教えを守り行ない、神の民として相応しく歩むためでした。これが「7」年ごとに行なわれるのは御教えの聖性が示されるためです。ここで、「どうして7年ごとにこの朗読が行なわれるのか?」と思う人がいるかもしれません。「7か月であれば分かるが7年ではややスパンが長すぎないか?」と思う人もいるかもしれません。しかし、神が7年ごとのスパンに定められたのですから、7年ごとで正しく良いのです。というのも、ユダヤ人は毎週の会合で多かれ少なかれ御教えについて祭司から聞いていましたから、御教えの全部を一挙に聞くのは7年ごとであっても十分であり全く問題ありませんでした。もし7か月のほうが適切であれば、この箇所では「7か月の終わりごとに」と言われていたでしょう。

【31:14~15】
『それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。』
 神は、モーセの死が間際に近付いていることを告げておられます。あらゆる事柄には『時期』(伝道者の書3章1節)があります。モーセがイスラエルの指導者として歩む時期も終わりを告げようとしていたのです。モーセはこのように死を宣告されても全く恐れず動じなかったはずです。命であられる主の御前にシナイ山で総計80日間も居続け、荒野ではいつも顔を合わせて命なる主と面会していたモーセが、死に慄いたと考えることは難しいでしょう。むしろ、やっといつも語り合っていた御方の御許に行けると思って安堵していたはずです。

 神は、ヨシュアをモーセと共に御前に呼び寄せます。ヨシュアはモーセの傍にいる状態で神からの命令を聞くべきでした。何故なら、ヨシュアは間もなくこのモーセに続くイスラエルの指導者となるのだからです。

 モーセとヨシュアが御前に立つと、『雲の柱』がそこに現われ留まりました。これは、主の臨在を示しています。この柱により、会見の天幕にいるモーセとヨシュアだけでなく、会見の天幕の外で状況を見ている他の者たちも、神がそこにおられることを強く感じさせられました。

【31:16~22】
『主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りは、この民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。』
 この箇所で神が言っておられる通り、モーセはもうすぐ死ぬことになります。ここでは死が「眠り」として言い表されています。これはやがてモーセが死から復活するからです。モーセのような聖徒の場合、死は復活という目覚めに至る一時的な休眠状態ですから、やがて起き上がることになる眠りと似ているのです。パウロも新約聖書で聖徒の死を眠りに例えています(Ⅰテサロニケ4:13)。モーセはカナン占領前に死んでしまいますが、ユダヤ人はこれからカナンを占領することになります。このユダヤ人はカナンを占領したら、カナンの偶像を拝むつもりでいました(16、21節)。全てを予知しておられる神は、ユダヤ人が偶像崇拝に陥る未来をここで予め預言しておられます。また、ユダヤ人がこれからカナンに入ったら偶像崇拝をするというのは、ユダヤ共同体にいる人たちの目にも明らかでした。何故なら、ユダヤ人はまだカナンに入る前から既に『星の神、キウンの像をかついでいた』(アモス5章26節)からです。荒野にいた頃から既に偶像崇拝を犯していたとすれば、彼らがカナンに入ってから更に酷い偶像崇拝を犯すのは目に見えていました。荒野には偶像など全く置かれていませんでしたが、カナンの地は偶像で満ちていたからです。

 このように偶像を拝むユダヤ人は、カナンの地で神から裁かれ滅ぼし尽くされてしまいます。これは実際その通りになりました。神は予めそのことを知っておられましたから、ここでそのことを預言しておられます。この偶像崇拝がここでは『淫行』と言われています。これは不倫の例えです。というのもユダヤ人と神とは夫婦だったからです。ユダヤ人という妻が唯一の夫である神を捨てて偶像という他の男のもとで姦通に陥るのは、この世の妻が自分の夫を裏切って不倫に陥るのと一緒だからです。聖書はこれからも多くの箇所でユダヤ人の偶像崇拝を『淫行』と表現しています。また、この箇所で神の顔が隠されると言われているのは、神の恵みが取り去られるという意味です。つまり、『顔』とは恵みを示しています。神は裏切り者にはその御顔を向けて慈しみ深くして下さいません。しかし、正しく歩む者には御顔を向けて恵み深くして下さいます。これはこの世の王が恩恵を与えようとしてある者に顔を傾けるのと同じです。

 モーセにはユダヤ人たちの忘恩と裏切りを示す歌が神から与えられました。この歌は申命記32:1~43の箇所に書かれています。この歌が与えられたのは、やがてユダヤ人たちが神を裏切った際に、弁明の余地を消し去るためでした。予めユダヤ人の罪深い裏切りが歌で示されていたとすれば、やがて裏切りが起きた際、ユダヤ人は口を閉ざさざるを得なくなるからです。つまり、この歌は警告の意味を持っていました。そのような警告があるにもかかわらず、罪に陥るならば、ユダヤ人の罪深さがまざまざと示されることになります。警告がありながら罪を犯したからです。

【31:23】
『ついで主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」』
 先にはモーセがヨシュアを励ましました(申命記31:7~8)。今度は神御自身がヨシュアを励ましています。ヨシュアはイスラエル軍を指揮するのですから、何としても恐れたり動揺したりすべきではありませんでした。だからこそ、神はモーセに続いてヨシュアを励まされたのでした。指揮官が恐れていたら、どうして指揮される兵士たちが勇ましく戦えるでしょうか。恐れ、弱まり、狼狽するしかないでしょう。そうすれば確実に勝利できるはずの戦いでも敗北しかねません。しかし、カエサルのようにいつでも指揮官が意気揚々としていれば、たとえ戦局が悪く思える場合であってでさえ、兵士たちは安心して力強く戦えるようになります(『アフリカ戦記』10:3)。

【31:24~30】
『モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。』
 モーセは、御教えの書をレビ人が契約の箱の側に置くよう指示します。契約の箱は至聖所にありましたから、この御教えの書は至聖所にあったことが分かります。この書が契約の箱から見てどの方向に置かれていたかということは、今の私たちにとってはさほど重要ではありません。これは箱の中に入れられはしませんでした。何故なら、箱には十戒を記した2枚の石の板が入っていたからです。この書は至聖所に置かれたままで、ほとんど手に取って見られることはなかったと思われます。何故なら、至聖所には大祭司が年に1度だけしか入らなかったからです(ヘブル9:7)。この御教えが契約の箱の側に置かれたのはユダヤ人に対し『あかし』とするためでした。『あかし』にするとはどういった意味でしょうか。これは、ユダヤ人が御教えの通りに歩まねばならないことを示しているのです。

 ユダヤ人は、モーセがいたこの時でさえ反逆に反逆を重ねていました。ですから、モーセの『死後はどんなであ』ったでしょうか。モーセという偉大なリーダーに指導されていた時でも反逆的だったとすれば、モーセが死んで他の指導者が指導する時はどれほど反逆的になるでしょうか。というのも、モーセほどの指導者は存在しないからです(申命記34:10)。実際、モーセが死んでからユダヤ人は更に反逆の度合いを深めてしまいました。

 モーセは予めやがてユダヤ人が堕落し神から離反することを知っていたので、神から与えられた歌により、前もって彼らの堕落を証ししようとしています。既に述べた通り、これは警告の意味もありました。このような警告を受けたユダヤ人は、恥じ入ったり恐れたりして、これから万一にも堕落しないよう注意することができたでしょう。しかし、ユダヤ人はその警告を聞きながらも、あたかもそのような警告など聞いていないかのように堕落してしまいました。ですから、この歌を聞いていた彼らに弁解の余地は全くなかったのです。モーセはこの歌を『部族の長老たちと、つかさたち』に聞かせようとしています。彼らは『イスラエルの全集会』です。何故なら、指導者たちは民衆の代表者なのですから、民衆をそのうちに含んでいるからです。

【32:1】
『天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。』
 先に天と地を証人に立てると言っていたモーセは(申命記31:28)、この箇所でその天と地に語りかけています。『天』とは上のほうにある空間の全体です。『地』とは地球の大地の全体です。つまり、モーセはこの世界全体に語りかけています。モーセはどうして世界に対しこの歌を聞かせているのでしょうか。それは、やがてユダヤ人が堕落した際、彼らに言い訳をさせたり無罪を主張させないためです。もしユダヤ人が自分たちの堕落について弁明をしたとすれば、この歌をかつて聞かされていた天と地はこう言って反論することができます。「ユダヤ人よ。あなたがたは自分たちの堕落について弁解しているが、私たちは以前、あなたがたがやがて堕落するとモーセの口から聞かされていたのである。それは預言されていた。だから、その預言が今実現しているのだ。」このように言われたとすればユダヤ人は押し黙るしかなくなります。このような意味でモーセは天と地を証人に立てると言ったのでした。しかし、ここであたかも天と地に耳および人格があるかのように言われているのは、単なる擬人法です。実際に天や地が理性的な生命体であるというわけではありません。つまり、これは詩的な表現です。また、この箇所でモーセが『聞け。私の口のことばを。』と言っているのは、あたかも神から与えられた歌がモーセ自身の歌であると言われているかのように感じられなくもありません。しかし、モーセが語る歌は神から与えられたのであり、モーセ自身から出たというのではありません(申命記31:19)。ただモーセが神の歌を自分の口で伝えるので、ここではそれがモーセから出たかのような言い方で言われているだけです。

【32:2】
『私のおしえは、雨のように下り、私のおしえは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。』
 この箇所でモーセは教えを『雨』また『露』に例えています。雨や露は自然に恵みを齎す現象です。つまり、モーセの与える教えはユダヤ人にとって恵みだということです。御言葉が雨のごとき恵みであるのは私たちでも同じです。しかも、今の聖徒たちは昔の聖徒たちよりも、この恵みに多く与かっています。今の聖徒たちは雨である恵みの教えを66巻も持っていますが、昔の聖徒たちは66巻も持っていなかったからです。私たちにはこの雨が豊かであるべきです。すなわち、聖徒たちは雨のような恵みの教えをより豊かに知り、学び、行なうべきです。そうすれば私たちは霊的な恵みに潤うことでしょう。

 またモーセはユダヤ人を『若草』また『青草』になぞらえています。つまり、モーセの語る神の教えという恵みの雨が、ユダヤ人という若草の上に降り注ぐわけです。ユダヤ人が若々しい草に例えられているのは、これから霊的な教えを降り注がれて更に成長すべき存在だからです。ユダヤ人はまだ神の民とされてから40年しか経過していませんでしたから、確かにまだ若々しかったと言えます。この時のユダヤ人は間もなく枯れて滅びる老いた草ではありませんでした。そのようになるのは紀元1世紀です。

 この箇所では繰り返しの強調がされています。『私のおしえは、雨のように下り、』という部分が1回目であり、それに続く『私のことばは、露のようにしたたる。』という部分が繰り返しの2回目です。これはモーセの恵みの教えがユダヤ人に与えられることを強調しています。また、『若草の上の小雨のように。』という部分は1回目であり、それに続く『青草の上の夕立のように。』という部分が繰り返しの2回目です。こちらのほうも、草であるユダヤ人に雨である恵みの教えが滴らされることを強調しています。

【32:3】
『私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。』
 モーセは自分が主の御名をユダヤ人に告げ知らせると言っています。これは御言葉において主の御名が知られるからです。ですから、ユダヤ人はモーセの語る御言葉を聞くことで、御名について知らされるのです。ユダヤ人はこの御名に栄光を帰さねばなりません。御言葉において御名を知らされた者が御名に栄光を帰するのは義務だからです。詩篇29:1の箇所でも栄光を主に帰せよと言われています。これは新約時代の聖徒である私たちも同様です。私たちも御言葉において御名を知らねばなりません。そして、何であれその御名にこそ栄光を帰さねばなりません。

【32:4】
『主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。』
 主を『岩』に例えている箇所は、ここ以外にも聖書では多くあります。主が岩だというのは文字通りの意味ではありません。これは比喩表現です。つまり、聖徒にとって主は拠り頼むべき精神的な土台だということです。もし聖徒が主に拠り頼むのであれば、堅固な岩に立って揺るがない人のように揺るがなくなるのです。いつの時代であれ聖徒である者はこの岩なる主に立たなければなりません。そうすれば決して揺り動かされることはないでしょう。もし本当に立っているというのであれば確かにそうです。また、『岩』であるのはただ主だけです。『ほかに岩はない。わたしは知らない。』(イザヤ44章8節)と主が言っておられる通りです。異教徒や世の人たちが岩だと思って立っているのは何であれ真の岩ではありません。ですから、その土台は弱々しいのであって揺るがされざるを得ません。その岩と思われているのは岩でなく「無」か柔らかい物体に過ぎないのですから。聖徒の立つ岩こそ真の岩です。それ以外の者が立つ岩は偽りの岩に過ぎません。それゆえ、『まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。』(申命記32章31節)のです。

 主が行なわれる『みわざは完全』です。主は数えきれないほどの御業をこれまで行なって来られましたし、これからも行なわれます。その一つ一つがどれも例外なく『完全』なのです。完全でない御業は一つもありません。そこにはミスや欠けがありません。しかし、御業のうちには不完全な部分も見られるのでは…などと思う人がいるかもしれません。そのように見える部分は、全体的な完全性のために益となる必要あってこその不完全な部分なのです。不完全な部分があるからこそ、かえって完全性を生じさせたり引き立てている、という場合は珍しくありません。部分的な不調和が寧ろ完全のためには必要だという場合も多くあります。例えば、最初から膝の部分が破れて売られているダメージデニム。膝の破れを単体的に見るならば、それは不完全でしかありません。しかし、膝の部分に不完全性があっても、ダメージデニムの場合は全体的なデザインのため膝における不完全性が完全な要素へと転じられています。何故なら、不完全な部分をファッション化するのがダメージデニムだからです。通常の場合、膝の破れは明らかに不完全な要素です。しかし、ダメージデニムのように、全体性のためにはそれが本質的な意味で不完全にならない場合もあるのです。神の御業に不完全な部分があると感じられたとすれば、それはダメージデニムのようなのだと考えねばなりません。私たちは、この完全なる数々の『みわざ』を知り、御名を崇め、神の恵みに感謝すべきです。そのようにするのは敬虔であり良いことです。

 『主の道』と言われているのは律法を指しています。神の律法は『みな正しい』のです。パウロもこう言っています。『ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。』(ローマ7章12節)詩篇119:8の箇所でも『主の戒めは正しくて、…』と書かれています。『まことに』という言葉は強調です。つまり、主の律法は徹底的に正しく、間違った点や非道徳的な要素は塵ほどもないということです。

 主は『正しい方』であられます。全ての点においてそうであられます。これまでもそうでしたし、今もそうですし、これからもそうであり続けます。この正しい御方は『偽りがない』存在であられます。もし主を偽り者と言う人がいれば、その人のほうこそ偽り者なのです。つまり、その人が偽り者だからこそ神を偽り者だと言うのです。また、主は『真実の神』であられますから真実を愛し求められます。それゆえ、主は偽りを忌み嫌われ(出エジプト記20:16)、不正な裁判を望まれません(出エジプト記23:7)。また、主は『直ぐな方』であられるので誠実を喜ばれます。このため、主は二心を嫌っておられます(ヤコブ4:8)。偽善も嫌っておられます(マタイ6:1~6)。

【32:5】
『主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。』
 モーセは、やがて現われる邪悪で忌まわしい世代に呼びかけています。これは大胆な呼びかけです。このような大胆で厳しい言い方は、世俗化により霊性の弱まっている現代教会であれば言えない傾向が強くなっています。ここでモーセが言っている通り、邪悪な世代は『主をそこな』っています。その世代は神との正しい関係を損なっているのです。そこにはひび割れた関係、敵対関係があります。それはユダヤ人の罪が神との間に仕切りを作っているからです(イザヤ59:2)。この世代は罪の汚れに染まっています。罪とは霊的な毒だからです。それは人間を身体においても精神においても霊においても汚染してしまいます。そのような世代はユダヤ人でありながら『主の子らではない』のであり、蛇の子・サタンの子です。悪い者の子であるからこそ主に背くわけです。キリストもパリサイ人たちが主の子でなくサタンの子であると言われました(マタイ23:33)。今のスファラディ系ユダヤ人もユダヤ人ですが『主の子らではない』のです。このような世代は『よこしまで曲がった世代』です。何故なら、神に背いて罪を犯すというのは『よこしま』なことだからです。それは、その人の霊が主の御前に真っ直ぐでなく曲がっている証拠なのです。霊の曲がっている世代がどうして聖なる命令を真っ直ぐに守れるでしょうか。

【32:6】
『あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。』
 神は古代ユダヤ人の父であられました。神は彼らをエジプトでの奴隷状態から贖い神の民として形作られたからです。彼らと同様、新約時代の聖徒たちにとっても、神は父であられます。神は私たちをサタンの支配からキリストにより贖い出し聖なる民として生まれさせて下さったからです。それは、聖書に『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。』(Ⅱコリント5章17節)また『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。』(エペソ2章10節)また『あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。』(ガラテヤ3章26節)と書かれている通りです。しかし、旧約の聖徒と新約の聖徒が神の子であるというのは、あくまでも養子として子であるという意味です。また神はユダヤ人を霊的に堅く建て上げる御方でした。ちょうど建築士が家を建てるかのように。実際、聖書は神の子たちが『家』(Ⅰペテロ2章5節)であると言っています。なお、旧約であれ新約であれ神が聖徒の父であられるというのは、霊の父であるということです。すなわち、神は聖徒たちの肉的な父であるという意味ではありません。神が肉的にも人間の父であるのは、アダムおよびエバだけです(ルカ3:38)。何故なら、この2人だけは神が直接的に御自分の御手で生まれさせたからです。

 やがて現われる反逆的な世代のユダヤ人は『愚かで知恵のない民』でした。これは彼らが神に贖われて良くしてもらったのに堕落し神を裏切ったからです。もし彼らが愚かでなければ神に反逆していなかったでしょう。しかし、彼らには『悟る心と、見る目と、聞く耳』(申命記29章4節)が与えられていなかったので、彼らは平気で神を裏切ってしまいました。このためモーセは反逆のユダヤ人に対し予めこう言っています。『あなたがたはこのように主に恩を返すのか。』モーセはユダヤ人を『知恵のない民』と言っていますが、聖書において『知恵』とは神を恐れることです。ヨブ記にこう書かれている通りです。『見よ。主を恐れること、これが知恵である。』(ヨブ28章28節)アインシュタインのような知性やウァロのような学識に真の『知恵』を求めるべきではありません。高い知性と学識があっても主を恐れなければ、その人は愚か者です。しかし、知性と学識がなくても主を恐れるならば、その人は知恵のある者です。

 神に与えられた尊い恩をユダヤ人が裏切りという悪で返したのは、致命的な罪でした。何故なら、このような罪を犯すならば、その者からは悪性が抜き取られなくなるからです。逆の見方をすれば、もう取り返しの付かないほど腐敗した状態に至っているので、その現われとして善に対し悪を返すということになります。ソロモンはこれについてこう言っています。『善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない。』(箴言17章13節)神に対してであれ人に対してであれ、私たちはユダヤ人が犯したこのような忘恩の罪を決して犯さないようにすべきです。この罪を犯せばもう終わりであって、悪が自分自身の精神に根付いてしまうからです。どうか神がこの罪から私たちを守って下さいますように。

【32:7】
『昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。』
 モーセは、反逆的な世代のユダヤ人に対し、『昔の日々』また『代々の年』すなわち神が働きかけられたイスラエルの歴史を想起せよと命じています。また、それをよく知り考えるため『父』また『長老たち』に尋ねよとも命じています。イスラエルに対する神の素晴らしい働きかけを思い返し、自分たちの反逆を恥じるためです。もし神がユダヤ人にどれだけ良くして下さったのかを昔の歴史を通して知れば、神に逆らうということがどれだけ大きな罪であるのか明白に理解できるのです。

【32:8~9】
『「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。』
 主は、あらゆる国々の境界を御心のままに定められました(使徒の働き17:26)。このようにされる神は、カナンにおける『国々の民の境を決められた』際、その境界線を『イスラエルの子らの数にしたがって』決められました。つまり、カナンの諸民族に定められた場所は、やがてユダヤ人がそこを占領するという前提で定められたということです。神は、カナンの地にカナンの諸民族が住むよりも前から、ユダヤ人が住むようになることを決めておられました。ですから、ユダヤ人がやがて住むべき場所にカナン人は先んじて住むこととなったのでした。それは、そこに住んでいるカナン人をユダヤ人が駆逐することで、その地をユダヤ人が自分の住まいとするためだったのです。要するに、カナン人はいつかユダヤ人に明け渡すためにカナンの地を与えられていたのです。御覧ください。神はこのようなやり方をされる御方です。あらゆる事柄は例外なく最初の最初から既に決定されているのです。しかし、人間はそんなことがあろうとは思いもしません。

 確かにユダヤ人に定められていた地上の相続地はカナンでした。しかし、カナンを相続地とするユダヤ人は『主の相続地』でした。ユダヤ人は自分たちがカナンを相続しているからといって、自分たちも神に相続されていることを忘れてはなりませんでした。ですから、9節目ではそのことが注意されています。旧約時代において『主の相続地』であるのはユダヤ人だけでした。異邦人はユダヤ共同体にいる異邦人は例外として、どの民もサタンの相続地でした。新約時代において『主の相続地』であるのはキリスト者です。新約時代において、キリスト者でない全ての人は、ユダヤ人を含め例外なくサタンの相続地です。

【32:10~11】
『主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。』
 主は、荒野で40年の間、ユダヤ人を『ご自分のひとみのように』守られました。これは神が物質的な目を持っておられるという意味ではなく、単なる比喩表現です。レオナルド・ダ・ヴィンチも言っていましたが、人間は目を他のどの部位にも優って守ろうとします(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』:岩波文庫)。まるで目に命がかかっているかのごとくなのです。これは目が、私たちをこの世界としっかり繋ぐからです。もし目が見えなくなれば、私たちは何も見えなくなりますから、この世界としっかり繋がることが大変難しくなります。このことから、神がどれだけユダヤ人を大切に保護しておられたかよく理解できます。確かに神は目のごとくにユダヤ人を荒野で全く保護しておられました。実際、彼らは守られていたので、敵に襲われて負傷したりせず、罪による災害を除けば災害に悩まされ悲惨になることもありませんでした。また、主は鷲がその雛を守り養い導くようにユダヤ人にもそうしておられました。聖書は他の多くの箇所でも神を鳥に例えています。そのどの箇所でも、鳥として例えられている神に対しユダヤ人は雛として例えられています。これは分かりやすい例えです。

【32:12】
『ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。』
 荒野でユダヤ人を導いている神は、ただ神だけであられました。神でない神々が一体どうして神と並び立ってユダヤを導けるでしょうか。神でない神々とは無であり単なる妄想の産物なのです。無や妄想がまことの神と共にユダヤ人を導く。これは不可能な話です。ところが、ユダヤ人は神でない神々を勝手に自分たちの共同体に持ち込んでいました(アモス5:26)。これは一緒に住んでいる夫婦の家に、妻が夫でない別の男を連れ込んで一緒に生活させるのと同じです。このようにされて怒らない夫はいないはずです。神というユダヤの夫も、当然ながらこの愚行に怒られました。このためユダヤ人は神から滅ぼされても自業自得でした。もし神が御自分の名声を考慮しておられなければ、ユダヤ人は即座に滅ぼし尽くされていたでしょう。

【32:13~14】
『主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」』
 主は40年が経過すると、ユダヤ人を『地の高い所』であるカナンへと導き入れられました。カナンが『地の高い所』と言われているのは、そこが神の住まいとなったからです。霊的に言えば世界で最も高い場所は神のおられるカナンでした。何故なら、神より高い存在は他にないからです。神はユダヤ人にそこで『野の産物を食べさせ』られました。これは荒野では食べることができなかったものです。シナイの荒野には果物や野菜が全く生えていませんでしたから。『岩』と言われているのは、『彼らについて来た御霊の岩』(Ⅰコリント10章4節)であられるキリストです。この岩なるキリストから出る『蜜』とは御言葉を指します。主の御言葉とは甘くて好ましいのであり、蜜以上の蜜だからです(詩篇119:103)。キリストから出る『油』もやはり御言葉を指します。キリストの霊により御言葉は語られましたが、主の霊は聖書で油として象徴されているからです(Ⅰヨハネ2:27)。このようにユダヤ人はカナンの地で主の御言葉により霊的な養いを受けていました。また、ユダヤ人はカナンで『牛の凝乳と、羊の乳』、『バシャンのものである雄羊』、『雄やぎ』、『小麦の最も良いもの』に与かりました。『バシャンのものである雄羊』とは松坂牛のように良質な肉で有名だったのでしょう。このようにカナンに入植したユダヤ人は物質的にも神から恵みを受けていました。またユダヤ人は『あわ立つぶどうの血』も飲んでいました。『あわ立つ』とは葡萄酒の豊かさを、『血』とは葡萄酒が血のように鮮やかで良い質だったことを意味しています。このような物質的恵みのゆえカナンの地は『乳と蜜の流れる地』と言い表されていたのでした。

【32:15~18】
『エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。』
 このように素晴らしい恵みの数々をカナンの地で受けたユダヤ人でしたが、富み栄えた時、愚かにも彼らは自分たちに良くして下さった神を捨て裏切りました。この箇所で『エシュルン』と言われているのはユダヤ人のことです。この言葉は聖書の中ではここで最初に出てきますが、これからも出てきます(申命記33:26、33:5、イザヤ44:2)。ここではユダヤ人の反逆が『足でけった』と言い表されています。これは豚の例えです。肥え太った豚は主人が恵み深く何かを与えてやっても足で蹴ってブヒブヒと生意気に振る舞うものです。ユダヤ人はこのような豚も同然の状態になっていました。その反逆とは神を捨て偶像崇拝に陥ることでした。これは致命的な罪悪であり、ユダヤ人に弁解の余地は全くありませんでした。何故なら、それは意図的な反逆だったからです。彼らは意識して神を捨て、他の神々に帰依したのです。彼らは実際に生贄を偶像に捧げていたのですから、これは完全にアウトでした。これでは神が怒られるのは当然のことです。

 このように、繁栄は人に神から意図して離れさせるほどの傲慢を生じさせてしまいます。もちろん人によっても違いはありますが、傾向として繁栄は人を神から引き離すことが決して少なくありません。このユダヤ人が良い例です。ソロモンも666タラントもの莫大な金が入って来ると、すぐ後ほど堕落して神に背いてしまいました(Ⅰ列王記10:14~11:8)。高価な煌めく金がソロモンを駄目にしてしまったのです。豊かになると神を蔑ろにするのは、豊かさが自分を知者だと錯覚させるからです(箴言28:11)。自分が知者であると誇るのであれば、神に服することは難しくなります。何故なら、神に服するとはアブラハムのように『私はちりや灰にすぎません』(創世記18章27節)と言うような低い精神を持つことだからです。知者であると自認する高ぶった者がこのように言うのは大変難しいはずです。だからこそ、キリストは『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。』(ルカ18章24節)と言われたのです。しかしながら、豊かになると絶対に神に対する傲慢が生じるというわけでもありません。豊かでも謙遜な信仰者がいましたし、今もいるはずだからです。実際、アブラハムは豊かでしたが神の御前に遜っていました(創世記13:2)。ダビデもそうです。私が言いたいのは、豊かになると往々にして傲慢な精神が生じがちであるということです。こういうわけですから、今の時点で豊かな信仰者は、この箇所で言われているユダヤ人のように、傲慢さを身に付けて神から離れ去らないよう注意せねばなりません。豊かなこと自体が悪だというのではありません。豊かさは神の祝福の一つだからです(箴言22:4)。豊かさに伴う高ぶりが悪なのです。豊かでもアブラハムやダビデのように謙遜でいられるなら、豊かであって大いに結構でしょう。豊かであれば教会の財政や貧しい人・困っている人などを大いに助けられるわけですから。しかし、その豊かさが酷い傲慢さを生じさせるのであれば、その豊かさは捨て去ったほうが良いことになります。何故なら、もしそうしなければ、富のため富の与え主であられる御方を捨て去ることになりかねないからです。富よりも富の与え主のほうが重要であることは、いちいち説明するまでもありません。

 17節目で言われているように、偽りの神々である偶像とはすなわち『悪霊ども』です。これは詩篇106:36~38、Ⅰコリント10:20の箇所でも示されていることです。偽りの神々が悪霊であることに例外はありません。古代ローマ人が拝んでいたローマ神話の神々は悪霊であり、古代ギリシャ人が拝んでいたギリシャ神話の神々も悪霊でした。日本における八百万の神々も悪霊です。ヴィシュヌやシヴァやカーリーやブラフマーといったヒンドゥー教の神々も悪霊です。ゾロアスター教のアフラ・マズダー神やアーリマン神も悪霊です。古代エジプト人が拝んでいたラーやホルスやイシスなどの神々も悪霊でした。イスラム教のアラーも悪霊です。アルバート・パイクをはじめとしたフリーメイソン、またイルミナティで拝まれているルシファー(彼ら曰く「光の天使」)も、もちろん悪霊です(ルシファーとはすなわち悪霊の頭領であるサタンですから、彼らは直に悪霊を拝んでいることになります)。これ以外の民族や宗教で拝まれている神々もことごとく悪霊です。もちろん彼らはまさか自分たちが悪霊を拝んでいるなどとは全く思っていないでしょうし、彼らに悪霊を拝んでいるなどと言えば間違いなく反発されるでしょう。しかし、彼らが何を思い何を言ったとしても、聖書は彼らの神々が悪霊であると言っています。要するに、偽りの神々とは悪霊どもが神々という仮面を被った化けの姿に過ぎない存在です。悪霊は偽りの神々に化けて人間たちを惑わしているのです。これまで悪霊どもはずっとそうしてきました。これは、神が悪霊どもに偽りの神々に化けることを許可しておられるということです。また、そのようにして悪霊が人間を惑わすことを許可しておられるということです。神がどうして許可されるかと言えば、それは人間が真の神を求めようとしないからです。神はそのような人間たちを、当然の報いとして、悪霊である偽りの神々に委ねられます。パウロが言っている通り、『神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれ』(Ⅱテサロニケ2章11節)るのです。真の神を求めない人間が偽りの神に向かわせられるというのは、理に適った報いです。これからも今までと同様、不信仰な民族や宗教は、ことごとく「神々」という名のもとに悪霊どもに惑わされ続けるでしょう。悪霊どもは必ずそうします。何故なら、悪霊とは自ら堕落して悪を欲するようになった悪しき霊だからです。今述べた「偽りの神々・偶像=悪霊」という理解は本当に重要です。これは是非とも覚えておくべきことです。そうすれば、私たちは異教徒たちの神々が悪霊であると知れるので、異教の神々に引き寄せられることもなくなるでしょう。というのも誰が悪霊どもを崇めたり悪霊に仕えたりしたいと思うのでしょうか。その神々が悪霊であると認識していなければ話はまだ分かりますが、悪霊であると認識していながら崇めたり仕えたりしたいというのはあまりにも悪趣味です。また、この理解を持てば、異教徒たちが実は悪霊を拝んでいると分かりますから、彼らがどれだけ惨めであるか悟れるようにもなります。彼らの惨めさを悟るのであれば、彼らの救霊に心を傾けるようにも動かされるはずです。このように異教の神々は忌まわしい悪霊なのですから、私たちは絶対に異教の神々に帰依することがあってはなりません。主の民である私たちには主でない神があってはならないからです(出エジプト記20:3)。聖徒が異教の神々を拝むためには、まず主を捨て去らなければできません。何故なら、パウロも言うように私たちが『主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないこと』(Ⅰコリント10章21節)だからです。主の食卓を選べば悪霊の食卓は選べず、悪霊の食卓を選べば主の食卓は選べません。どちらか一つだけなのです。もし聖徒が主の食卓から離れて悪霊の食卓に与かったとすれば、どうなるでしょうか。この箇所で非難されている古代ユダヤ人のように裁かれ滅ぼされてしまうでしょう。

【32:19】
『主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。』
 このような邪悪な世代のユダヤ人に神は怒りを燃やされました。それは彼らがとんでもない裏切りを犯したからです。ここでユダヤ人が『主の息子と娘』と言われているのは、ユダヤ人が神の子だったからであり、ユダヤ人には男と女がいたからです。また、これはユダヤ人が男も女も神に背いたことを示しています。ユダヤ人は男だけでなく『娘』つまり女も神を蔑ろにしていました。ですから、ユダヤ人は女も含めて裁かれてしまったのです。神はこのような世代のユダヤ人を『退けられ』ました。何からユダヤ人を退けられたのでしょうか。それは「神の子としての立場から」です。何故なら、彼らは先に書かれていたように『その汚れで、<主の子らではない>、よこしまで曲がった世代』(申命記32章5節)だったからです。ユダヤ人は自分たちが退けられたからといって、神に文句を言うことはできませんでした。神がまずユダヤ人を退けられたというのでなく、まずユダヤ人が先に神を退けていたからです。神はユダヤ人が御自分を捨て去ったので、それに報いて彼らを捨て去られただけです。ですから、神がユダヤ人を退けたのは何も理不尽ではありません。理不尽だったのは善に代えて悪を返したユダヤ人のほうでした。このようなユダヤ人が私たちの前に教訓として置かれています。それゆえ、私たちは彼らのようになるべきではありません。もし私たちも彼らのように神を退けたならば、神も私たちを退けられるでしょう。神は「報いの神」であられますから。

【32:20】
『主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。』
 神に反逆していたユダヤ人は『真実のない子ら』でした。これは彼らが神とその御言葉を捨てていたということです。というのも、真実は神とその御言葉のうちにあるからです。神に真実があるというのは『神は真実な方』(Ⅰコリント10章13節)と言われていることから分かります。御言葉に真実があるというのは『みことばのすべてはまことです。』(詩篇119:160)と言われていることから分かります。このように彼らは神とその御言葉を捨てていましたから、『ねじれた世代』とも言われています。これは彼らの霊が神とその御言葉に真っ直ぐ向いていなかったからです。

 先に述べたように聖書で神の御顔とは「恵み」を意味しています。邪悪な世代のユダヤ人は神に退けられましたから、神は御自分の『顔を彼らに隠し』てしまわれました。つまり、恵みを全く取り去られたということです。『彼らの終わりがどうなるかを見よう。』とここで神が言っておられるのは、つまりユダヤ人が見放されたことを意味しています。これは「ユダヤ人が報いとして滅び去るのを最後まで眺めるとしよう。」と言っているのです。神は反逆者を裁かれます。そして、その裁きを最後まで御覧になられます。それは神が御自分の下された裁きをその御目で確認されるためなのです。

【32:21】
『彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。』
 反逆世代のユダヤ人は『むなしいもの』である『神でないもの』すなわち偽りの神々により、主に妬みの伴う怒りを燃え上がらせました。妻帯者は、自分の妻が目の前で他の男と熱烈に抱擁し始めた光景を考えて下さい。妻帯者でない人も、自分が妻帯者であったと想像して考えて見て下さい。女性の方は、夫が目の前で公然と他の女と熱く抱き合い始めた光景を考えて下さい。ユダヤ人が神の御前で偶像崇拝をしたのは、これと一緒です。このことを考えれば、神がどれだけ妬みの伴った怒りをユダヤ人に持たれたのか良く分かるはずです。ですから、神が怒りを燃え上がらせたのは当然でした。もし神が怒られなかったとすれば、神はユダヤ民族を愛してなどいなかったのです。それはちょうど、目の前で配偶者が別の異性とイチャイチャしているのに平然としている夫また妻と同じです。そのような夫また妻は配偶者のことなど別にどうでもいいと思っているのです。この箇所では、本質的に同じ事柄を、2回の異なる言い方で述べています。すなわち、『彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、』という部分が一度目であり、それに続く『彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。』という部分が二度目です。

 このようにして反逆のユダヤ人に対し、神は報いとして『民ではないもの』である『愚かな国民』によりユダヤ人を妬みの伴う怒りで満たされました。『民ではないもの』とは「ユダヤ民族でない民族」という意味です。神は、ユダヤ人の敵である民族を引き起こされ、裁きとしてユダヤ人を襲うように働きかけられました。敵である民族は自らの意思でユダヤ人を襲ったと思いますが、その意志は神が与えられた意志なのであり、実は知らず知らずのうちに神の裁きを代行していたのです。その襲撃により反逆のユダヤには申命記28章で書かれている諸々の呪いが降りかかります。その時、ユダヤ人は『略奪され』(申命記28章29節)、男は婚約中の女を敵に寝取られ(申命記28章30節)、せっかく建てた家が敵の住まいとなってしまいます(同)。このようにして神はユダヤ人に妬みと怒りの報いを与えられます。ユダヤ人は神とその命令を蔑んだので、報いとして神と敵から軽んじられたのです。Ⅰサムエル2:30の箇所で神がこう言っておられる通りです。『わたしをさげすむ者は軽んじられる。』

【32:22】
『わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。』
 神の怒りは燃える火としてユダヤの地に降りかかります。神はユダヤ人の敵にユダヤの地を燃やし尽くすよう働きかけられます。その敵は神の裁きの道具また使いなのです。そのため、その敵はユダヤの『地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払』ってしまいます。これは実際に起こりました。アッシリヤはイスラエル王国の地を焼き尽くしましたし、バビロンもユダ王国とそのエルサレム市を焼き尽くしましたし、ローマもやはり同じことをしました。

 また、神の燃える怒りは『よみの底にまで燃えて行』きます。これは反逆世代のユダヤ人が『よみ』すなわち地獄に投げ落とされるということです。というのも、その世代は『主の子らではない』(申命記32:5)のですから。主の子でない者がどうして主のおられる天国に行けるでしょうか。そのユダヤ人はユダヤの地で燃やし尽くされて死んでからも、地獄で焼かれ続けます。このようにして神は御自分の怒りを邪悪な反逆者どもにおいて永遠までも証しされるのです。

【32:23~25】
『わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。』
 神はあらゆる『わざわい』を反逆のユダヤに注がれます。その災いは『彼らの上に積み重ね』られます。つまり、これは災いが次から次へとユダヤを襲うということです。ちょうど出エジプトの際に次から次へとエジプトが災いで苦しめられた時のように。『矢』と書かれているのは神の裁きを象徴しています。つまり、神は矢のように素早く、しかも的確にユダヤへ災いを送られます。神がこの災いという名の矢を『彼らに向けて使い尽くそう』と言っておられるのは、これでもかと言わんばかりに災いが与えられるということです。『飢えによる荒廃』とは、飢えを齎すほどに作物が生じないので土地が荒廃するということです。『災害による壊滅』とは、裁きにより引き起こされた災害でユダヤの地が滅びるということです。『激しい悪疫』とは死体などにより悪性の疫病が起こることであり、『野獣のきば』とは作物がないため山や野からやって来た獣に噛み裂かれるということであり、『地をはう蛇の毒』とは地が荒廃したため町にまで来た毒蛇に殺されるということです。町の城壁の外ではユダヤ人が敵に殺戮されますから『外では剣が人を殺し』ているのであって、城壁の内部にいる人々はやがて自分たちも殺戮されるかもしれないと恐れますから『内には恐れがある』のです。その時には『若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人も』容赦されません。ユダヤの全体が神の御前で罪に定められているからです。私たちは憎き害虫の巣を見つけたとすれば、駆除業者に「生まれたばかりの害虫やあまり害を齎さないような若い害虫は殺さないでほしい。もう動けなくなっている年老いた害虫も。」などと言わないでしょう。神がユダヤにいたどのような種類の者も容赦されなかったのは、これと似ています。何故なら、反逆のユダヤ人は神に害を齎す害虫のごとき存在になっていたからです。

【32:26~27】
『わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。―彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。』と言うといけない。』
 ユダヤ人の反逆は極度に罪深かったのですから、神から裁かれ絶滅しても全く不思議ではありませんでした。事実、神は彼らを絶滅させようかと考えられました。ある民族が自分たちの信じている神を捨てて別の神に帰依するというのは、宗教的な曲芸です。このようにする民族はユダヤ以外にありませんでした。他の民族にこれは出来ない芸当です。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。例えば、イスラム教徒はアラーを蔑ろにしてヒンドゥー教の神々を拝んだりしませんし、ヒンドゥー教徒も彼らの神々を捨ててアラーを拝んだりしません。ところが、ユダヤ人はこのような異常行為に陥っていたのです。狂気と言うべきこのような愚行ゆえ、ユダヤ人は神に絶滅させられても当然でした。この箇所でユダヤ人の絶滅が『粉々にし』てしまうと言われているのは、陶器の例えです。聖書は、人間を陶器師であられる神に造られた陶器として示しています(ローマ9:21、エレミヤ18:1~6)。

 しかし、神はユダヤ人を絶滅させることで、御自分の御名が敵に罵られることを考慮されました。もし神が敵にユダヤ人を絶滅させれば、敵はユダヤ人を絶滅したので、その成果を全く自分たちに帰しかねません。そうすれば彼らは『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。』と言うことにもなります。これは神の名声に関わります。神は御自分の名声を重視されるので、敵にユダヤ人を絶滅させず、ユダヤ人が幾らかは生き残るようになさいました。そうすれば敵は自分たちの力を誇りにくくなるからです。というのも、敵はユダヤ人を絶滅しようとしたのに出来ませんでしたから、自分たちの力不足を痛感し誇りから遠ざけられるからです。しかし、もし神が『敵のののしりを気づかっていない』のであれば、神は敵にユダヤ人を絶滅させていたはずです。

 ところで、神はどうしてこのようなユダヤ人を御自分の民として選ばれたのでしょうか。神は全知ですから、ユダヤ人が御自分に反逆するということは最初から百も承知でした。それにもかかわらず、神はユダヤ人を神の民として選び取られました。つまり、神はユダヤ人の反逆を前提としてユダヤ人が聖徒になるよう選ばれました。神は、ユダヤ人のようではない民族、すなわち神の民となってから決して反逆しないような民族を神の民とすることもできました。しかし、神がユダヤ以外の民を選び取られることはありませんでした。これは何故だったのでしょうか。それはユダヤ人の反逆を後の世代に教訓として与えるためでした。パウロもそのように教えています(Ⅰコリント10:5~11)。ユダヤ人が酷い反逆に陥って滅ぼされたならば、それを知る後の世代の聖徒たちは、自分たちも同じ轍を踏まないよう注意することができます。もしユダヤ人が正しく歩んだので滅ぼされなかったとすれば、教訓も生じないことになります。神は後の世代の聖徒のため、このような教訓が生じるのを望まれました。ですから、旧約時代の聖徒たちが裁かれ悲惨になったとしても、その悲惨が教訓を生じるようにされたのでした。滅ぼされた旧約時代のユダヤ人からすれば「何で俺たちだけ滅ぼされて後の世代のため教訓にさせられるのか。」と思いたくもなるでしょうが、神は後に現われる大勢の聖徒たちのため、旧約時代のユダヤ人が悲惨に陥ることを厭われませんでした。つまり、このユダヤ人は私たちのため「人柱」として定められていたわけです。このように神は、ある目的のため、あえて後ほど悪に陥ることが分かっている民族や人物を特別的に選ばれる御方です。これはイスカリオテのユダもそうでした。主はユダが後ほど御自分を裏切るようになるのを知っておられながら、あえてこのユダを使徒の一人として選ばれたのです。それは、ユダが主を裏切ることにより、永遠の贖いが実現されるためでした。御覧ください。神はこのようなやり方をされる御方です。これは私たちの理性からすれば考えられないことです。どこの誰がやがて裏切ると分かっている者を仲間に加えたりするでしょう。しかし、神はそのようにされます。このため、聖書は神を『不思議』(士師記13章18節)という名で示しているのです。

【32:28~31】
『まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。』
 ユダヤ人に襲いかかった敵は『思慮の欠けた国民』であって、『彼らのうちに、英知はない』と言われています。何故なら、彼らは全く自分たちの力でユダヤ人を打ち負かしたと勘違いしていたからです。しかし、彼らの力がユダヤ人を打ち負かしたのではなく、神がユダヤ人を敵に売り・渡したからこそ(30節)、敵はユダヤ人を打ち負かすことができたに過ぎません。もし主がユダヤ人を敵に委ねられたのでなければ、『どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させた』でしょうか。実に、神がユダヤ人を呪われたゆえ、敵は一人で1000人のユダヤ人を追い、二人で10000人のユダヤ人を敗走させることができたのです。もし敵に知恵があれば、このことを理解できていました(29節)。ここで敵について『自分の終わりもわきまえたろうに。』と言われているのは、敵がユダヤ人を攻撃したので裁きとして自分たちもやがて滅びの終局を迎えることになるのを知らないという意味です。確かに敵はユダヤ人に対する神の裁きを代行するために用いられました。しかし、当の敵はと言えば、まさか自分たちが神に動かされてユダヤ人を攻撃しているなどとは全く思っていません。彼らはただ自分たちの意志でユダヤ人を攻撃していると思っているのみです。このため彼らのユダヤに対する攻撃は、神から出た裁きの代行であるにもかかわらず罪に定められますが、彼らに『英知はない』のでそのことを悟れないのです。もし敵が神の裁きを代行していると自覚していたとすれば、敵は罰されず滅びの終わりを迎えることもなかったでしょう。その場合、敵は神の使いとして神からの任務を忠実に果たしていたことになるからです。これは、ちょうど死刑執行人が死刑囚を自分の手で死刑に処しても、ただ自分の職務を遂行しただけなので何も罰されないのと同じです。

 しかしながら、この敵もユダヤ人の信じる神が自分たちの信じる神々より優っていることは認めていました(31節)。何故なら、ヤハウェが自分たちの神より優っていることは明らかだったからです。ヤハウェは雲と火の柱でシナイの荒野を導いておられましたが、敵の神はそのようなことをしていませんし出来もしません。またヤハウェはユダヤ人を何もない荒野で40年間も養っておられましたが、敵の神はそのようなことをできません。またヤハウェはユダヤ人の前に進まれカナンの諸民族を駆逐されましたが、敵の神はヤハウェが駆逐したほどに数多い民族を駆逐することなどできませんでした。このような事柄を考えるならば、敵の目にもヤハウェ神の偉大さや力強さは明らかでした。数々の奇跡で痛めつけられたエジプト人たちも、ヤハウェがエジプトの神々を越えていると認めたはずです。何故なら、エジプトの神々はヤハウェの御業からエジプト人を守れなかったからです。異教徒であったイテロも『ヤハウェがあらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。』(出エジプト記18章11節)と言って、ヤハウェこそが至高の神であられることを認めました。

【32:32~35】
『ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとはわたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」』
 ユダヤ人に襲いかかる敵の民族は『ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの』ですが、これは敵がソドムとゴモラの民族から派生した民族だということです。つまり、敵はソドム人・ゴモラ人と親戚である民族です。ソドムの木(ソドム人)は邪悪でした。そのため、ソドムの木から派生した敵の木も邪悪です。神はユダヤ人にこのような敵を遣わされます。聖なる民が、最悪に忌まわしいソドムとゴモラの民族と血縁関係を持つ民族に屈服させられるというのは、屈辱の極みです。神はこうしてユダヤ人の反逆が何たるかを思い知らされます。ここで言われている『ソドムの木』は『毒ぶどう』を実らせます。『毒ぶどう』とは罪です。ですから、ソドム人は罪深かったことが分かります。敵はこのソドム人から派生したのです。それゆえ、敵もソドム人のように罪深かったことが分かります。

 敵は罪深い木ですから裁きを齎す実しか結びません。その実による『ぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒』です。毒の葡萄酒を飲めば死ぬでしょう。つまり、敵が罪深い実を結ぶならば裁かれて滅ぼされます。しかし、彼らに対する裁きは、彼らがユダヤ人を滅ぼした時にはまだ『わたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められてい』ます。つまり、その時はまだ敵に裁きの滅びが与えられません。しかしながら、神の裁きを閉じ込めている倉はすぐにも開かれます。ですから、ここでは『彼らのわざわいの日は近』いと言われています。『来るべきことが、すみやかに来る』とは、敵に対する裁きが迅速に行なわれるということです。その裁きは『彼らの足がよろめくときのため』に備えられています。これは敵が自分たちの罪に躓いて滅びることを意味しています。ソロモンが言う通り、『悪者はつまづいて滅びる。』(箴言24:16)のです。

 35節目で『復讐と報いとは、わたしのもの』と言われているのは非常に重要であり、記憶するに値します。『復讐』とは悪に対して与えられる裁きを意味し、『報い』とは裁きと祝福どちらも含めた神の恵み深い、または怒りに基づいた実際的な働きかけを意味しています。この言葉では、復讐が神の専有物だと示されています。復讐は神の専有物ですから、律法は人が復讐することを禁止しています(レビ記19:18)。パウロも復讐を自分でしてはならず、神に委ねなければならないと命じています(ローマ12:19)。ですから、私たちが自分で復讐するのは罪です。しかし、国家が復讐されるべき国や人物に復讐するのはこの限りではありません。何故なら、国家とは神の復讐を地上で行なう代理者であって、神は国家に復讐を行なう権力すなわち『剣』(ローマ13章4節)を与えておられるからです。ですから、国家の場合は寧ろ復讐を必要に応じて行なわなければなりません。もし国家が復讐を行なわなければ、神の代理者として正しく働いていないのですから、職務怠慢の罪でその国家は神から裁かれてしまいます。ダビデも王として政治的な復讐を外国や犯罪者どもに果たしていました。政治的な復讐をしようとしない支配者とは一体どのような存在なのでしょうか。ダビデは司法的に復讐をしていたので問題ありませんでした。しかし、ダビデは私的な復讐であれば行ないませんでした。もしダビデが個人的な怒りや憎しみに基づいて復讐していたとすれば、それは神の専有物である復讐を奪うことですから、罪に定められていました。

【32:36~39】
『主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。今、見よ。わたしこそ、それなのだ。』
 罪深いユダヤ人に対する凄まじい裁きが完了し、ユダヤの地に『奴隷も、自由の者も、いなくなる』と、主はユダヤ人を『あわれむ』ようになります。また主はその時、『御民をかば』われます。これはユダヤ人を顧み助けて良くするということです。これは裁きによりユダヤの地が荒廃し、もう偶像もその偶像を拝む偶像崇拝者どもも消え去ったからです。神がユダヤ人を裁かれた原因はこの偶像と偶像崇拝者にありました。ですから、それが消え去ると、神は再びユダヤ人に情け深く心を傾けられるわけです。

 神は、かつてユダヤ人が拝んでいた偶像に対し、出来るものなら裁かれて惨めになったユダヤ人を助け保護してみよと言われます。しかし、その偶像はもう滅んでいますから、偶像の答えはありません。生き残された少数のユダヤ人も、もはや偶像に助けを求めることはできません。この時、神はユダヤ人に対する助けを促したのに偶像の答えが何もないのでこう言われます。『今、見よ。わたしこそ、それなのだ。』すなわち、今や神こそユダヤ人を助ける存在なのだと。偶像がもはやないので、ユダヤ人はこの神に頼るしかなくなります。こうして神は再びユダヤ人の神となられるのです。神は再び御自分を求めるようになったユダヤ人を拒絶なさいません。何故なら、神は憐れみ深い御方だからです。

【32:39】
『わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。』
 ここで言われている通り、神であるのはただ神だけであられます。イザヤ44:6の箇所でも同じことが言われています。モーセもこう言っています。『主はただひとりである。』(申命記6章4節)パウロもこう言いました。『神は唯一です。』(Ⅰテモテ2章5節)神でない神、すなわち異教徒の間で神と呼ばれている存在は、全く神ではありません。エレミヤ書16:20の箇所で『そんなものは神ではない。』と書かれている通りです。そのような偽物の神は、ことごとく滅んで消え失せてしまいます。『偽りの神々は消えうせる。』(イザヤ2章18節)と書かれている通りです。例えば、古代ギリシャ人が拝んでいたゼウスなどのギリシャ神話の神々は、偽りの神々であって、ことごとく消え失せてしまいました。今の時代で一体どこの誰がゼウスなど拝むのでしょうか。ギリシャの神々を祀っていた神殿も無くなるか廃墟になりました。ゼウスについて言えば、今やゲームや子供向けの玩具などで弄ばれ、完全に「商品」と化しています。「神」から「商品」にまで引き下げられたというのは、何という惨めな退廃ぶりでしょうか!もはやゼウスにかつての栄光はありません。ゼウスは消え失せたからです。カナン人の拝んでいたバアルやアシュタロテといった神々も消え失せました。古代バビロニアで拝まれていたマルドゥクも偽りの神々の一人でしたから消え失せました。これまでに滅び失せた神々を説明した辞典を作ったら面白いかもしれません。それは正に「偽りの神々の死体置き場」また「偶像どもの共同墓地」です。今の時代に存在している神々も、やはり偽物の神ですから、やがて滅び失せます。その神が滅びるのは時間の問題です。ヒンドゥー教の神々はいつか滅びます。イスラム教のアラーもやがて滅び失せます。しかし、これからも新しい偽の神が、この地上には現われるでしょう。カルヴァンも言った通り、人間の心は「偶像製造工場」ですから。ですから、これからもこの地上には偽りの神々が存在し続けるでしょう。ですが、その神々も時間が経てば、これまでに滅びた神々のように滅びることになります。このように偽りの神々が現われては消えるというのが、歴史で起こることです。そのような中で私たちの神だけがいつまでも滅びず存在し続けられるのです。私たちは神『のほかに神はいない』ことを知っています。それゆえ、それを知っている聖徒たちは、決して神以外の神を拝んだり認めたりしてはなりません。それは律法で禁止されているからです。『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』(出エジプト記20章3節)と書かれている通りです。もし聖徒であれ世の人であれ偽りの神々・偶像を拝み続けるのであれば、その最後は燃える火による永遠の裁きです。『偶像を拝む者…の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。』(黙示録21章8節)と書かれている通りです。

 神が『殺し、また生か』し、『傷つけ、またいやす』と言われているのは、ユダヤ人のことです。神はユダヤ民族を裁いて殺されましたが、裁きが完了してからは再び御自身の民として生かされました(申命記32:36~39)。また神はユダヤ人を『傷つけ』て思い知らされましたが、ユダヤ人が悲惨極まりない状態になると『いや』されました。これについてはⅠサムエル2:6の箇所でハンナも言っています。しかし、神はどうして悲惨にさせて回復させるのでしょうか。それは神が至高の主権者だからであり、神には裁きと憐れみとがあるからです。神はその裁きにより御自分の義を現わされます。また神は人を憐れんで回復させることにより御自分の愛を現わされます。このようにして神がどのような存在であるのか実際にまざまざと示されます。これこそ神がこの世界を創造された目的の一つです。また、神は聖徒に対してだけでなく世に対してもこうされます。何故なら、神はこの世に対しても慈しみ深いからです。例えば、神は14世紀の世界を黒死病という凄まじい災いで『傷つけ』られました。しかし、それから間もなく神は出版革命とルネサンスと宗教改革という3つの事象を通し、近代社会が始まるという驚くべき物質的恩恵によりこの世界を『いや』して下さいました。また神は20世紀の世界を2度の世界大戦により打たれました。しかし、戦後になると、神は世界中にそれまでとは段違いの物質的恩恵を注がれることで、疲弊したこの世界を回復させて下さいました。このように神は聖徒だけでなくこの世に対しても、滅びに続く祝福を与えて下さいます。「祝福の前に苦難あり。」という言葉は真実です。  神が何かを行なわれるならば、それを妨げることは誰にもできません。こう書かれている通りです。『万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを引き戻しえよう。』(イザヤ14章27節)ですから、神が誰かを滅ぼそうと決められたならば、または誰かを悲惨にさせようと欲されたならば、その人が滅びたり悲惨になるのを止められる人はいません。ですから、この箇所ではこう言われています。『わたしの手から救い出せる者はいない。』もし神を超える存在があれば、その存在は神の手から誰かを救い出すことができたでしょう。しかし、神を超える存在などこの世界にはいません。

【32:40】
『まことに、わたしは誓って言う。』
 神は御自分の言われたことを必ず実現されます。『偽証してはならない。』と言われた神は、決して偽証されることがありません。ですから、神が言われたことは、たとえ誓っていなくとも誓い同然の確実性を持っています。しかし、ここでは誓わなくてもその言葉が誓い同然であられる神が『わたしは誓って言う。』と言っておられます。これは神が御自分の言った通りに必ず実現させるということを強調しているのです。つまり、神が誓われた事柄は、何があっても間違いなく実現されるということです。人が誓う際は、自分よりも高い存在を指して誓います。ところが神の場合、御自分より高い存在がありません。ですから神が誓われる際は御自分にかけて誓われます(ヘブル6:13)。

【32:40】
『『わたしは永遠に生きる。』
 『永遠に生きる』のが神であられます。この神は時間の始まる前からおられ、永遠的に存在しておられました。神が存在していなかった時はありませんし、これからもそのような時はありません。また、この神は時間を超越しておられますから、あらゆる時間を「現在」として認識されます。神にとっては昔も未来も「今」として捉えられます。あらゆる時間は、永遠におられる神の御前に面と向き合っているからです。しかし私たち人間はと言えば、全く時間に縛られており、今を今として認識することしかできません。ここに神と人間との計り知れない違いがあります。それは永遠者と有限者の違いです。一方は全てを超越しておられ、一方は無数の制約に包まれています。それゆえ、矮小な塵に過ぎない人間は神を恐れなければならないのです。