【申命記32:41~34:12】(2022/04/17)


【32:41~42】
『わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。』」』
 時が来たならば、神はユダヤ人を攻撃した敵に対し当然与えられるべき復讐を与えられます。神は敵をユダヤ人に対する裁きの道具として用いられましたが、その敵はと言えば、ただ自分たちの罪深い意志で自らユダヤを攻撃していました。これは罪に定められます。ですから、彼らはユダヤ人を攻撃した罪に対し神から復讐されねばならないのです。この箇所では、その復讐について書かれていますが、詩的な表現が多用されています。『きらめく剣』と言われているのは神の復讐です。煌めく剣は人間を真っ二つに切り裂きます。兵士たちは敵を切り裂くために煌めく剣を研ぎます。神もそのように復讐という名の剣を研いで、敵の民族を真っ二つに切り裂かれるのです。『手にさばきを握る』とは、「敵の裁かれる時が来たら」という意味です。兵士が剣を手に握るならば、敵を打ち倒そうと出て行きます。そのように神も復讐という剣を手に持たれたら、敵を打ち倒されるのです。『仇』と『わたしを憎む者たち』とは同一の存在です。敵はユダヤ人の神を憎んでいました。ですから、敵は神にとって『仇』でした。『矢』とは神が迅速に果たされる復讐を、武器としての矢に例えています。先に見た申命記32:23の箇所でも、復讐が『矢』に例えられていました。その矢を『血に酔わせ』ると言われているのは、擬人法であって、神の裁きが敵に葡萄酒のごとき鮮やかな血を流させるということです。裁きに例えられている『剣』が敵の肉を食うと言われているのも(42節)、やはり擬人法です。敵が『髪を乱している』というのは、大量の死者が生じ悲惨な状態になっているので、生き残った敵がパニック状態になり髪を掻き乱しているということです。神はそのように『髪を乱している』敵をも容赦されず滅ぼされます。何故なら、敵はユダヤを自分たちから出た罪深い意志により攻撃したからです。

【32:43】
『諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。』
 神が敵に対する復讐を為されたならば、『諸国の民』は『御民のために喜び歌』うべきだと言われています。この箇所はパウロがローマ15:10の箇所で引用しています。これはパウロがローマ15章で言っていることから分かる通り、異邦人も神の民として招かれる新約時代を預言しています。これは内容自体からして明らかです。何故なら、もしこれが異邦人も御民となる新約時代の預言でなかったとすれば、つまり旧約時代における預言だとすれば、まだ御民として招かれていない異邦人が一体どうして御民ユダヤのために為された神の復讐を喜ぶというのでしょうか。旧約時代の異教徒たちにとってユダヤ人など別にどうでもいい民族だったからです。しかし、新約時代に神の民とされた異邦人であれば、御民ユダヤのために神が果たして下さった復讐を喜べます。ですから、この箇所では新約時代の到来が預言されていることになります。もしこれが旧約時代の預言だと言う人がいれば、旧約時代におけるどの異邦人がユダヤ人のために為された復讐のことで喜んだのか示さなければなりません。そのような異邦人はいなかったはずです。旧約時代において、異邦人はユダヤ人を変な民族とか反抗的で取り扱いにくい不良民族ぐらいにしか思っていなかったからです。異教徒であったイテロがユダヤ人のことで喜んだのはまた別の話です(出エジプト記18:9)。というのもイテロはモーセの義父だったからこそ女婿モーセの属するユダヤ民族のことで喜んだのであり、この箇所ではユダヤ人と関わりを持たない異教徒の全体について言われているからです。聖書を読み慣れた人であれば、旧約聖書の多くの箇所で、異邦人も神と御民のことで賛美するようになる時代(すなわち新約時代)が来ると言われているのを知っているはずです。私たちが今見ているこの箇所もその一つなのです。こういうわけですから、この箇所で言われている預言はもう成就しています。この預言は今の新約時代に生きる私たちに対して言われていたのです。それゆえ、私たちは『御民のために喜び歌』います。すなわち、御民のために神が敵討ちをされたことを喜び、賛美し、感謝します。何故なら、私たちも御民の一員だからです。自分の同胞のことで喜ぶというのは自然なことです。

【32:44】
『モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。』
 モーセは、これらの歌をことごとく『民』に対し語り聞かせました。『民』とは『部族の長老たちと、つかさたち』(申命記31章28節)を指しています。モーセの前に集められた指導者たちがどれだけいたのかは分かりません。聖書は指導者の数を具体的に何も示していないからです。100人いたのかもしれませんし300人ぐらいだったのかもしれません。いずれにせよ、彼ら指導者たちは、この歌をモーセの声により直接聞いたはずです。すなわち、モーセは120歳の高齢だったからといって、大勢の指導者に聞こえる声を出せないほど老衰していたのではなかったはずです。何故なら、モーセという人は神に祝福されており、120歳になっても気力が衰えていなかったからです(申命記34:7)。モーセの声が小さいため、誰か別の人がモーセの声の拡声器となる必要はなかったはずです。この時には、モーセの代わりに語るアロンも既にいなくなっていました(出エジプト記4:14~16)。ですから、この歌はモーセが媒介者なしに語っていたはずです。また先述の通り、この歌はモーセ自身から出たのではなく、神がモーセに与えられた歌でした(申命記31:19)。この歌はヨルダン川の東に広がるモアブの地で、今から約3300年前に語られました。

【32:45~47】
『モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」』
 ユダヤ人は、神の御教えをことごとく心に記憶させねばなりませんでした。これは前にも言われていたことです(申命記6:6)。これは御言葉が心に刻まれていなければ、御言葉を行なったり教えたりすることが出来ないからです。御言葉が心に無くても、御言葉の内容と合致していることを行なったり教えたりする、ということは十分に起こり得ます。しかし、それは無意識的に御言葉の内容を実践しているに過ぎず、意識的に実践してはいません。神は聖徒たちが意識的に御言葉を実践するよう望んでおられます。何故なら、意識的な御言葉の実践にこそ神への愛があるからです(ヨハネ14:15、Ⅰヨハネ5:3)。ですから、神は聖徒が意識的に御言葉を実践するため、御言葉を心に納めるよう命じられたのでした。新約時代の聖徒たちも、旧約時代の聖徒と同様、御言葉を心に納めねばなりません。パウロは新約時代の聖徒に対し、『キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ』(コロサイ3章16節)なさいと命じています。新約時代の聖徒がキリストの御言葉を心に刻むべきだとすれば、使徒や預言者による御言葉、またそれ以外の御言葉をも心に刻むべきです。また、ユダヤ人は御教えを子どもたちに教えなければなりませんでした。これは申命記6:7の箇所でも言われていました。これは御教えが聖徒たちの全世代に与えられているからです。神の御教えが、ある世代にだけ限定されるべきではありません。新約時代の聖徒も、やはり御教えを子どもに教えなければなりません。それは教会の未来のためです。また、聖徒たちは子どもたちに教えたその御教えを『守り行なわせな』ければなりません。もし御教えを守らせなかったばかりに、子どもたちが世俗化して堕落したらどうするのでしょうか。私たちが堕落した子どもたちのことで神にどう申し開きできるというのでしょうか。決してできないでしょう。ですから、子どもたちに御教えを守らせようとしないのはよくありません。それは御心に適っていません。

 神の御教えは祝福を伴っていますから決して『むなしいことばでは』ありません。寧ろ、それは「有益な言葉」です。もし御言葉を守るならば、主に喜ばれ、呪いから遠ざけられ、多くの恵みを受けることができます。こんなに有益な言葉が他にあるでしょうか。それゆえ、御教えを虚しいと言う者は虚しいことを言っています。また、この御教えはそれを守るのであれば、その人に『いのち』を得させます。レビ記18:5の箇所でも、『それを行なう人は、それによって生きる。』と言われています。しかし、御教えを完全に行なえる人は誰もいませんから、私たちは御教えによって命を得ることができません。ところが、キリストはこの御教えを完全に守られ、私たちに代わって命を獲得して下さいました。このため、キリストを信じる者は、行ないではなく信仰によって永遠の命を持つことができるのです。

 もしユダヤ人が御教えを守るならば、ユダヤ人は『ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができ』ます。神は、御前に正しく歩んでいる民を、カナンの地から追い払われないからです。しかし、ユダヤ人が御教えを守らなければ、呪いによりカナンの地から追い払われます。申命記28:63の箇所で言われていた通りです。ですから、ユダヤ人はカナンの地でずっと住むため、御教えを守り行なわねばなりませんでした。残念でしたが、ユダヤ人はカナンの地で神に従い通しませんでした。このため彼らはカナンの地から引き抜かれてしまいました。

【32:48~52】
『この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」』
 神は、ルベンの相続地となった『モアブの地』にある『ネボ山』すなわちピスガへモーセを登らせ、そこから西に拡がるカナンを眺めさせました。その山から西側には死海が、その先にカナンの地が、その先になると地中海が見えます。モーセはこの山でカナンの地を確認せねばなりませんでした。神はモーセにカナンを見させることで、カナンにイスラエルを導き入れるという御自分の約束を確かめさせようとされたのです。モーセはカナンの地をその目で見るので、神の約束は真実だったと知ることができます。しかし、モーセはカナンを見るだけで、そこに入ることはできません。ちょうどショーケースに入っている時計を眺めるだけで入手することはできないのと同じです。それは彼がメリバで不信の罪を犯したからです。先述の通り、もしモーセが罪を犯していなければ、ヨシュアたちと一緒にカナンへ入れていたでしょう。

 このことから、罪を犯すのがどれほど悲惨なのか理解できます。罪を犯すならばその人に不幸が注がれるからです。モーセはカナンの地に入りたいと思いました(申命記3:25)。神はモーセの罪ゆえこの願いを聞いて下さいませんでした。全ての人が罪を犯すと悲惨になります。しかし、特に地位の高い人であれば、このモーセもそうでしたが、その悲惨は段違いに大きくなります。何故なら、地位の高さと責任の大きさは比例関係にあるからです。地位が高ければ罪を犯した際に悲惨も大きく、地位が低ければ罪を犯しても地位の高い人ほど悲惨は大きくありません。このためヤコブはこう言ったのです。『私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。』(ヤコブ3:1)

 アロンは既にホル山で死んでいましたが、モーセはこのネボ山で死のうとしていました。聖書はモーセの死因を示していません。モーセは壮健だったのですから(申命記34:7)、病気や老衰が死因ではなかったはずです。あくまでも推測に過ぎませんが、モーセは特別な人物だったのですから、神から直に命を取られたと思われます。モーセの死については34章で後ほど書かれます。『あなたの民に加えられよ。』という言葉の意味は既に述べておきました。

【33:1】
『これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。』
 33章で書かれているのはモーセ最後の言葉です。彼は死ぬ直前にイスラエルの諸部族を祝福しました。最後に祝福の言葉を告げるというのは自然です。何故なら、最後に良い言葉を語っておけば後味が良くなるからです。このため往々にして教師たちも、卒業式で卒業生を送り出す最後の時には、「上手にやれよ!」などと良い言葉を語るわけです。この言葉も、先に見た歌の場合と同様、モーセが媒介者無しに自分で語ったはずです。これは先の場合と同様で申命記34:7の箇所から裏付けが取れます。ヤコブも死ぬ直前に、ユダヤの諸部族について、もうそれで終わりとなる最後の言葉を告げました(創世記49章)。

 『神の人モーセ』と言われているのは、モーセが神から特別的に選ばれた神と親密な人間だったという意味です。サムエルもモーセと同様に『神の人』(Ⅰサムエル9章6節)と言われています。この言葉は新約聖書において使われていません。

【33:2】
『彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。』
 『主はシナイから来られ』とは、主がシナイの荒野からカナンへとユダヤ人を連れて行かれたということです。神はシナイから北上しカナンへ向われました。『セイルから彼らを照らし』とは、神があたかも闇夜を照らす光のようにしてユダヤ人をセイルの地で導かれたということでしょう。つまり、もし神が光としてユダヤ人を導かれなければ、ユダヤ人はエドム人の住むセイルの地を正しく歩めなかったということです。『パランの山から光を放ち』というのも、神が光としてユダヤ人をパランで導かれたということです。『メリバテ・カデシュから近づかれた』とは、神がユダヤ人を引き連れてメリバテ・カデシュからカナンの地へ向われたということです。確かに主はカナンに『メリバテ・カデシュから近づかれた』のですが、ユダヤ人は愚かにもカナンに近づくことを拒絶しました。

『その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。』
 『いなずま』とは、裁きか恐れを意味しています。というのも、神がシナイ山の場所で裁きを示された際、ユダヤ人を稲妻により威嚇されたからです(出エジプト記19:12~13、16)。この稲妻が主の御手に握られているというのは、神がユダヤ人にいつでも裁く態勢を取っておられたか、ユダヤ人を裁きの宣告により恐れさせていた、ということです。ですから、これは祝福とか喜びといったニュアンスが全くありません。この稲妻が『右の手』に握られていると言われているのは、神の裁きまたは威嚇が能動的だったことを意味しています。何故なら、人間の多くは右利きだからです。聖書はこのような人間の一般的性質を、能動性や主体性を示すために表現として用いています。左利きの人は別として、誰でも左で何かをするのはやりにくいはずです。ですから、この箇所もその一つですが、聖書で能動性を示す際に「左の手」という言葉は使われません。この「右手」という表現の意味は是非とも覚えておくべきです。この表現は聖書で良く出てくるからです。

【33:3】
『まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。』
 この箇所では新約時代の到来が預言されています。すなわち、これは今の時代のことです。主は『国々の民を愛する方』ですから、異邦人も神の民になるよう招かれました。しかし、それは新約時代になってからの話です。旧約時代においては、ただユダヤ人だけが神の国に定められていました。その時代において滅びに定められていた異邦人が神の国に入りたければ、割礼を受けてユダヤ人の一員とならなければなりませんでした。実に、異邦人も神の国に入れる『時期』がもう来ています(伝道者の書3:1)。『御手』とは神の支配を示します。ですから『あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。』とは、「あらゆる時代の聖徒は神の支配のうちにある。」という意味になります。今や、もう『国々の民』が『あなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける』時代となっています。もう昔のようにユダヤ人だけが集められ教えられる時代は終わっています。異邦人も集められ教えられる時代は、キリストの十字架において到来しました。キリストがこう言っておられる通りです。『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』(ヨハネ12:32)このようにモーセは、神から教えられて、異邦人も救いに入れる時代が到来するのを予め知っていました。しかし、一般のユダヤ人にとってこれは想像を絶することだったはずです。何故なら、古代ユダヤ人は神が自分たちだけを選び愛しておられると聞き、そのように理解していたからです(申命記7:6~8)。汚れており滅びに定められていた異邦人が、やがて自分たちと同じ地位に引き上げられるというのは、古代ユダヤ人にとって考え難いことでした。使徒でさえ、異邦人も遂に救われる時代が到来した際、本当に異邦人に神の真理を伝えていいのか戸惑ったほどです。

【33:4】
『モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。』
 モーセが神の御教えをユダヤ人に命じましたから、それはユダヤ人の『所有』となりました。モーセが御教えを告げて明らかにしたのは、すなわちユダヤ人がそれを所有することでした。何故なら、『現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のもの』(申命記29:29)だからです。御教えがユダヤ人の所有になったのは、ユダヤ人がそれを守り行なうためです。何故なら、もし守り行なうべきではないのであれば、どうして御教えが与えられたのでしょうか。ただ聞くためだけに与えられたのでしょうか。それは神の民に相応しくないことです。実に、ユダヤ人はただ御教えを聞くだけで守り行なわなかったからこそ、裁かれ滅ぼされてしまったのです。

 この箇所を読んで、「これはモーセ本人が語った言葉なのか?」と思う人がいるかもしれません。何故なら、この箇所では話者がモーセを第三者として取り扱っているからです。日常生活の中で、ある人が自分を第三者的に話すことはごく稀です。例えば、湯川一郎という名前の人がいれば、その人は「湯川一郎が皆にこう言った。」などと言ったりしないでしょう。ですから、この箇所が後世の挿入であると考えたとしても不思議ではないかもしれません。しかし、ここではモーセがこのように語ったのです。ユダヤ人は自分を第三者的に取り扱いつつ話す民族です。ヨセフスも著書の中で自分を第三者として取り扱って書いています。また、この時のモーセは神に動かされて語っていたのです。ですから、モーセは人間的な言い方に縛られていなかったと考えるべきです。

【33:5】
『民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。』
 ここで言われている『民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき』とは、いつでしょうか。これはシナイ山の時でしょう(出エジプト記19:7)。何故なら、この5節目は、シナイ山での出来事が言われている4節目に続いて書かれているからです。これは長老たちがエジプトで集まった時ではないでしょう(出エジプト記4:29~31)。その時にも長老たちは集まりましたが、まだ御教えは告げられていなかったからです(4節)。『エシュルン』とは前述の通りユダヤ人を意味します。この時、主はユダヤ人の『王となられ』ました。これ以降、ユダヤ人は御教えに従うことで主なる王への服従を示さなければいけませんでした。

【33:6】
『「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」』
 ルベン族の数は少なくなりますが、だからといってルベン族が滅びてはなりません。何故なら、ルベンはイスラエルの長子だからです。イスラエルにとって『力の初めの実』(創世記49:3)であるルベンがどうして滅んだりしていいでしょうか。実際、ここでモーセが願った通り、ルベン族はダビデの時代になっても滅びていませんでした。シメオン族の場合、ユダ族に吸収されて滅んでしまいました。このシメオン族ですが、この申命記33章の箇所では全く言及されていません。イスラエルの子で申命記33章が全く述べていないのはこのシメオン族だけです。

【33:7】
『ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」』
 ユダについては何が言われているのでしょうか。この箇所では具体的なことが何も言われていません。この箇所は、比喩的に解釈したり斜めから読み解こうとすべきでないと思われます。ただ普通に言われている事柄を理解しようとすれば良いでしょう。ここではユダ族が悲惨な状況に陥ってもユダヤ共同体に戻り、敵との戦いがあっても守られるようにと、モーセは神に懇願しています。何故なのでしょうか。それはユダ族からキリストが出られるからです。この最も重要な部族にはキリストがかかっているのですから、ユダヤ共同体から引き離されたり、敵に打ち負けて滅びるということがあってはならないのです。実際、神はキリストの時代になるまでユダ族をユダヤ共同体に保ち、敵から守られました。これは神の恵みによることです。こういうわけですから、ここで『ユダの声』と言われているのをキリストの象徴表現だと解釈したり、『敵』という言葉をパリサイ人や律法学者たちのことだと捉えたりする必要はありません。このような解釈には自然さがないと思えます。

【33:8】
『レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。』
 モーセは、レビ族がマサとメリバで神の不興を買ったからといって、レビ族から祭儀用の道具である『トンミムとウリム』を取り去らないでほしいと神に懇願しています。何故なら、イスラエルの祭儀はレビ族が担うよう定められていたからです。他の部族が祭儀を行なうのは御心に適っていません。レビ族以外は祭司として選ばれていないのですから。

【33:9】
『彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。』
 レビ人たちは、アロンが民に偶像崇拝を行なわせた際、偶像崇拝に陥った者たちを、『父と母』であれ『兄弟』であれ『子ども』であれ考慮せず死刑に処しました(出エジプト記32:25~29)。これは偶像崇拝を行なった者たちが、誰であれ極悪の反逆人として死ななければならなかったからです。この時にレビ人たちは人間的な情より神の命令を優先させたので、神の御心に適いました。ここではそのことが評価されています。キリストも、もし主と家族どちらかを選ばなければならない場面があれば、主のほうを選ぶべきだと言われました(ルカ14:26)。ですから、キリスト者である者は、そのようにせねばなりません。使徒たちも主のために家族を無視しました(マタイ4:21~22)。

【33:10】
『彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。』
 レビ人たちは、主の御教えをユダヤ人の全てに教える教師集団でした。ユダヤ人は安息日ごとにこのレビ人たちから神の真理を聞いて学んでいました。これは今で言えば牧師に該当します。この教育について、ここでは2度述べられて強調されています。またレビ人たちはイスラエルの祭儀を任されている集団でもありました。一般のユダヤ人が神に動物犠牲を捧げる場合、このレビ人たちを通して犠牲を捧げました。祭儀をレビ人でないユダヤ人が勝手に行なうことはできませんでした。これは国家資格を持っていないのに、国家資格が必要とされる仕事を勝手に行なうのと一緒です。この祭儀についても、モーセはここで2度述べて強調しています。モーセ自身もこのレビ族でした。

【33:11】
『主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」』
 モーセは、レビ人の資産と職務が祝福され恵まれるよう願っています。レビ人がこのように願われたのは当然だったでしょう。何故なら、レビ人にユダヤ人の霊性がかかっているからです。もしレビ人が経済的に乏しければ、日々の生活にさえ悩むようになり、祭儀に支障が出かねません。また彼らの職務が恵まれなければ、正しい祭儀と教育が行なわれないので、ユダヤ人の霊性に悪影響が及ぼされてしまいます。しかし、レビ人の資産と職務に幸いが与えられたならば、ユダヤ人の霊性に良からぬ影響が齎されることもなくなるでしょう。モーセはレビ人の敵が神から復讐を受けるようにとも願っています。これも、やはりユダヤ人の霊性に関わるからです。もしレビ人が敵に妨げられたならば、レビ人の職務が正しく行なわれないことにも繋がり、民全体の霊性に問題を与えかねません。レビ人を憎むというのは、すなわちユダヤ人の全体と神を憎むことでもあります。レビ人とは神からユダヤ人の霊的領域を任されている部族だったからです。ですから、レビ人への攻撃は、神とユダヤ全体への攻撃になります。これは大変に忌まわしいことです。そのため、モーセはレビ人の敵が『二度と立てないようにしてください。』とここで願うのです。このように聖なる職務を遂行している者たちに対する憎しみは、神の裁きによる破滅を齎します。昔もそうでしたし、今もそうですし、これからもそうです。その憎まれている者たちが本当に正しく職務を遂行しているのであれば、確かにそうです。神の使いに悪を為してただで済むはずがどうしてあるでしょうか。そんな者たちはローマやナチスのように滅びるのです。

【33:12】
『ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」』
 ベニヤミン族が『主のそばに住ま』うと言われているのは、ベニヤミン族の相続地についてです。彼らの相続地は、ユダ族の北側にあり、しかも神のおられるエルサレムにその相続地の南端部分が接していました。このような相続地を持つのはベニヤミン族だけです。これを今の日本で例えれば、皇居から歩いて10分ぐらいの場所に住まいを持つようなものです。モーセがここで言っている通り、主は確かにベニヤミン族と共におられ、この部族を守られました。これは彼らが『主に愛されている者』だったからです。

【33:13~16】
『ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。』
 「ヨセフ族」の相続地というのはありません。ヨセフ族は、「マナセ族」と「エフライム族」として相続地を受けたからです。ですから、この箇所ではヨセフ族としてマナセ族とエフライム族が纏められて書かれています。この2部族には諸々の祝福があるよう願われています。『天の賜物の露』とは雨が降る祝福のことです。『下に横たわる大いなる水の賜物』とは、井戸水における飲料水の祝福です。『太陽がもたらす賜物』とは太陽光線が降り注ぐことによる自然への祝福です。『月が生み出す賜物』とは月が見えることによる視覚的な祝福を言っているのでしょう。『昔の山々からの最上のもの』とは、この2部族の相続地にある山から収穫される良質な作物のことです。『太古の丘からの賜物』というのも、彼らの相続地にある丘に生じる良い作物のことです。この『山々』と『丘』は『昔』から、また『太古』からあったと強調されています。確かにこの2部族の相続地にある山と丘は昔からありました。彼らの相続地には南北に山々と丘が連なっています。『地とそれを満たすものの賜物』とは、地に生じる作物と地に生きる動物たちにおける祝福です。『柴の中におられた方』とモーセが言っているのは、もちろん主が初めてモーセに現われて下さった時のことです(出エジプト記3:1~6)。モーセがこのように言ったのは、神がモーセに御自分を現わして下さったような大きな恵みをヨセフの2部族にも願っているのだと思われます。

 ヨセフについて『その兄弟たちから選び出された者』と言われているのは、ヨセフがエジプトの支配者として神から選ばれたことです。ヨセフが兄弟から引き離されてエジプトに連れて行かれたのは、単なる偶然などではありませんでした。神がヨセフをエジプトの支配者として選んでおられたからこそ、ヨセフは兄弟たちから離れてエジプトへと移されたのです。では、どうしてヨセフはエジプトを支配する者として選ばれていたのでしょうか。これは神がそのように選ばれたからだとしか言えません。モーセがイスラエルの指導者として選ばれていたのも、ダビデが王として選ばれていたのも、これと同様のことが言えます。

【33:17】
『彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾人、このような者がマナセに幾千もいる。」』
 マナセ族とエフライム族には、諸国の民族を打ち負かせるような戦いの猛者が多くいました。その猛者について、『このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。』とモーセは言っています。つまり、猛者は両部族に沢山いるのですが、エフライム族のほうにより多くいるということです。そのような強者がここでは『牛の初子』に例えられています。これは彼らの力強い生き生きとした威厳を示しています。猛者は力強いので威厳があるからです。『牛の初子』も、自分が一番なので威厳があるのです。『野牛の角』というのも彼らの力強さを示しています。このような者たちが幾千も幾万もいたのは、この2部族が神に祝福されていたからです。神の祝福がなければ、どうしてこのような猛者が多く現われるでしょうか。祝福がなければ弱々しい者ばかりになっていたはずです。

【33:18~19】
『ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」』
 モーセはゼブルン族とイッサカル族を纏めて語っています。これはゼブルン族とイッサカル族が一緒に事を為していたからであり、またこの2部族の対極性を示すためです。

 ゼブルンが『外に出て行って』『喜べ』と言われているのは、どういう意味でしょうか。これは黙示録21:15などの箇所で言われているような悪い意味で「出て行く」と言われているのではありません。何故なら、モーセはここで『祝福のことば』(申命記33章1節)を告げているからです。ゼブルン族が外に出るというのは、つまりゼブルン族がエサウのように外に出るアクティブな性質を持っていたということです(創世記25:27)。エサウの場合は神の祝福から退けられましたが、ゼブルン族の場合は祝福されており同じく祝福されていたイッサカル族と『民を山に招き、そこで義のいけにえをささげ』ます。印象としてはエサウと似ているのに、祝福においてはエサウと似ていないというのは、確かに喜ぶべきことです。

 イッサカル族は、ヤコブのように『天幕の中にいて』過ごすような性質を持っていました(創世記25:27)。つまり、イッサカル族はヤコブのように穏やかな部族でした。創世記25:27の箇所で『ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。』と書かれています。このイッサカル族と先に見たゼブルン族は共に『民を山に招き、そこで義のいけにえをささげ』ます。『山』とは神のおられるエルサレムです。エルサレムは山にありました。つまり、この2部族は他の部族をエルサレムに連れて行き、皆で『義のいけにえ』である動物犠牲を捧げさせるということがここでは言われています。エサウと活動性において似ているゼブルン族がヤコブと似ていたイッサカル族と一緒に他の部族をエルサレムでの神礼拝に導くというのは、何と素晴らしいことでしょうか。これこそ正に『祝福のことば』です。エサウは祝福されていたヤコブとそんなことはしませんでした。この2部族がどうして他の部族をエルサレムに誘うかと言えば、『彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るから』です。つまり、この2部族は『海』であるキネレテの海もしくは地中海および『砂』であるユダヤの土地から得られる利益により、経済的に栄えていたからです。経済的に栄えているのであれば、より多くの、またより高級な『義のいけにえ』をエルサレムで捧げることができます。このため、多くの犠牲を用意することができたイッサカル族とゼブルン族は、他の部族たちにも自分たちの用意した犠牲を一緒に捧げさせようと誘えるのです。これは王や大金持ちが宴会に多くの人を招いて無料で食事を提供してやれるのと似ています。イッサカル族とゼブルン族は海と土地から多くの物質的な利益を得ていたということ。これは覚えておくべきです。

【33:20~21】
『ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」』
 既に見た通り、ガド族はカナン侵攻の際に他の部族に先立って進むと誓いました(民数記32:17)。実際にガド族はそのようにしました。その時のカナン侵攻がここでは『主の正義と主の公正』と言われています。何故なら、カナン侵攻とは、堕落しきっていたカナン人に神が公正なる正義の裁きを下すことだったからです。このような神の正義と神の公正をガド族は他の部族に先立って遂行したのですから、モーセは『ガドを大きくする方は、ほむべきかな。』と言っています。『大きくする』とは名声と力と富において豊かにするという意味です。正しく認められるべき者たちを豊かにするのは良いことですから、神の誉れとなるのです。このガド族は『雌獅子』に例えられています。雌獅子は伏していても、獲物が近づけば起き上がって獲物の『腕や頭の頂をかき裂く』でしょう。そのようにガド族も戦いの時が来れば奮起して敵を打ち滅ぼしたのです。

 これも既に見た通り、ガド族はモアブの地を相続地として求めたので、ルベン族と共に他の諸部族に先んじてその地を相続地として持ちました(民数記32:1~27)。その地は彼らの所有していた多くの家畜にとって望ましい場所―『最良の地』―だったからです(民数記32:1)。ここでは、その地に『指導者の分が割り当てられていた』と書かれています。つまり、ガド族(またルベン族)がモアブの地を求めたのは、ガド族の指導者の意向が強く働いていたということです。恐らくガド人の族長は考えられないほど多くの家畜を所有していたのでしょう。一般のガド人たちも族長ほどではないにしても家畜を多く所有していたので、族長が自分と民衆のためモアブを相続地として欲したということなのでしょう。

【33:22】
『ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」』
 ダン族が『獅子の子』と言われているのは、ダン族の強さを示しています。この『獅子』は、ここで強さを示すために象徴として用いられています。この象徴はキリストとサタンについても用いられています(創世記49:9、Ⅰペテロ5:8)。ダンが獅子の『子』とされているのは、彼らの父祖ダンが『獅子』のように強かったからです。それゆえ、そのダンから生まれた子孫であるダン族は『獅子の子』なのです。彼らの相続地は、ユダの相続地の北側、ベニヤミンの相続地の西側、マナセの相続地の南側にありました。それは『バシャン』の地域に属していません。しかし、ここではダン族が『バシャンからおどり出る。』と言われています。これは、ダン族の一部が本来の割り当て地から離れて北上し、バシャンにあったライシュ(またはレシェム)を更なる相続地としたからです。バシャンに得た新しいこの相続地はレバノン山の麓にあり、かなり小さな面積でした。このようにモーセは、ダン族がバシャンの地に躍り出ることを、神から教えられ予め知っていました。つまり、モーセは神によりこのような預言をしたのです。

【33:23】
『ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」』
 ナフタリ族は神からの祝福、恵みを大いに受けると言われています。これはナフタリ族に対する神の好意です。何故なら、神の好意を受けていなければ、どうして神から祝福・恵みを大いに受けられるでしょうか。このナフタリ族に『西と南を所有せよ。』と言われているのは、どこの場所を基点とした『西と南』なのでしょうか。これは前節に書かれていた『バシャン』すなわちダン族が新しく得た相続地から見た『西と南』です。何故なら、この23節目は明らかに前の22節目に続いて書かれているからです。もしこの『西と南』がダン族の相続地から見た方角でなければ、これはマナセの半部族に割り当てられた相続地から見た『西と南』ということになります。というのも、ナフタリ族の相続地が『西と南』の方角に見える相続地は、ダンかマナセの半部族しかないからです。これがマナセの半部族の得た相続地から見た『西と南』であるとは考えられません。この23節目はダン族について言われた22節目を念頭に置いて書かれたと考えるのが自然だからです。

【33:24~25】
『アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」』
 モーセは、アシェル族がイスラエル諸部族の中で最も祝福されていると言っています。メシアがそこから出られるユダ族よりも祝福されていたとでもいうのでしょうか。モーセによればそうでした。ナフタリは主の祝福に満たされており(申命記33:23)、レビとヨセフは祝福されるよう願われています(申命記33:11、13)。この3部族よりもアシェル族は祝福されていたのです。アシェル族は善良な部族だったのでしょう。ですから、『その兄弟たちに愛され』るようにモーセは願っています。善良な者が他者から愛されるのは自然なことだからです。『その足を、油の中に浸すようになれ。』と言われているのは、そのまま捉えれば良いでしょう。これはアシェル族に、その足を浸せるほどの油が与えられるように、ということです。前述の通り、古代人は油を皮膚に付けることを文化的な嗜みにしていました。つまり、ここではアシェル族が豊かな油を持てるほど経済的に繁栄するよう願われています。足を油に浸すというのは贅沢なことですが、このように出来るのは物質的な祝福が注がれている証拠です。それゆえ、ここで書かれている『油』を聖霊として解したり、叙任に使われる儀式の油に関わらせて捉えたりする必要はありません。このようにアシェルが『最も祝福されている』と言われたのは、物質的な祝福であったことが分かります。もちろん、アシェルは物質的な祝福だけでなく、霊的また精神的な祝福も大いに受けていたはずです。25節目で『あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり』と書かれているのは、相続地についてです。これは、アシェル族の相続地が敵であれ味方であれ誰からも侵害されないように、ということです。何故なら、もし『かんぬきが、鉄と青銅であ』れば、その閂のある場所は許可なく入られたりしないでしょうし、その閂が破壊されることもないだろうからです。『あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。』と言われているのは、アシェル族が霊においても経済においても生活においても神の恵みにより幸いであるように、ということです。もし力が失われたならばアシェル族は悲惨になってしまいます。『最も祝福されている』この部族が、そのような悲惨を味わうべきではありません。

【33:26~27】
『「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ。』と命じた。』
 最後にモーセは『エシュルンよ。』と言って、ユダヤ人の全体に祝福の言葉を語っています。モーセが言っている通り、『神に並ぶ者はほかに』ありません。一体どのような存在が神に並び立てるというのでしょうか。神は創造者であられますが、それ以外の存在は神に創造された矮小な被造物なのです。造られた第二次存在が造った第一次存在に並べるなどと少しであっても考えること。これほど滑稽な考えはなく、この考えは妄想の極みです。

 『天』また『雲』とは権威を示します。イザヤ19:1の箇所でも、権威の象徴として『雲』が用いられています。つまり、神は御自分の権威においてカナン侵攻を行なうユダヤ人を守り、助け、導いて下さいます。ですから、ユダヤ人はカナンに侵攻する際、神に信頼して堂々と突き進むことができました。権威ある神がユダヤ人を助けつつ導いて下さるのであれば、どうして臆するべきでしょうか。

 『永遠の腕が下に。』という部分はそのまま読み解けば良いでしょう。すなわち、これは神の『永遠の腕』が『下』である地上世界においてユダヤ人を助け守って下さる、という意味です。人間の腕など弱いうえに朽ち果ててしまいます。しかし神の御腕は力強く永遠です。ですから、ユダヤ人は自分の腕でなく神の『永遠の腕』に頼って侵攻を行なえば良いのでした。ユダヤ人がやがて滅び去る自分の腕に頼ったところで何になりましょうか。しかし神の御腕に頼れば確実な勝利が齎されました。

 神はユダヤ人の『前から敵を追い払』って下さいます。それは敵が極度に堕落しており裁かれるべきだったからです。その『敵』とはもちろんカナン人を指します。神がこのカナン人を『根絶やしにせよ。』と命じられたのは、申命記7:2、9:3の箇所においてです。誰もこの殺戮命令を非難してはなりません。非難されるべきは神でなく、堕落の極みに達していたカナン人だったからです。カナン人は自分たちの子を偽りの神々に捧げるほど堕落していました。

 『昔よりの神』と言われているのは、神が永遠の昔から存在しておられたという意味です。この神は聖徒たちにとって『住む家』です。何故なら、聖徒たちは神の支配のうちにおり、この神に属しており、また神から守られているからです。これは確かに『住む家』に例えることができます。モーセは詩篇90:1の箇所でも神が『私たちの住まい』であると言っています。このように神は私たちの住まいですが、私たちも神の住まいです。何故なら、聖徒たちは『神の神殿』(Ⅰコリント3章16節)だからです。神御自身が聖徒たちについて、『わたしは彼らの間に住み、また歩む。』(Ⅱコリント6章16節)と言っておられます。

【33:28】
『こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。』
 このようにしてユダヤ人はカナンの地を占領し、その地において自然の恵み、経済的な恵み、物質的な恵みを『ひとりで占める』のです。カナン人は駆逐されますから、この恵みを共に享受することができません。『天もまた、露をしたたらす。』と言われているのは雨の恵みを指しています。カナンの地は神に祝福されているからです。ユダヤ人がかつて住んでいたエジプトの地は、かなり暑く、ナイル川もしばしば氾濫しますので、あまり望ましい土地とは言えませんでした。こうしてユダヤ人はカナンの地で『安らかに住まい』ます。神がユダヤ人を祝福して下さるからです。この箇所で『ヤコブの泉』と言われているのはユダヤ民族を意味します。これはヤコブから生じた無数のユダヤ人たちを、泉が無数の水泡を噴出させることに例えています。つまり、ヤコブは泉であり、ヤコブから出た多くのユダヤ人たちは水泡です。ですから、ここで書かれている『ヤコブの泉』とは『イスラエル』と同じ意味です。

【33:29】
『しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」』
 ユダヤのような民族は、旧約時代において、他にありませんでした。ただユダヤだけが神から特別に取り扱われていました。例外はありません。ですから、モーセはユダヤ人が『しあわせ』だと言っています。ユダヤ人がどうして『しあわせ』なのかモーセは幾つかここで述べています。まず、ユダヤが幸せだったのは『主に救われた民』だったからです。旧約時代において神に属しており、天国に入れた人々の群れはこのユダヤ民族しかありませんでした。他の民族は全く神から見放されていたのです。またユダヤが幸せだったのは、『主はあなたを助ける盾』でもあったからです。人間の作った盾は、敵の攻撃を必ずしも防げるわけではありません。しかし、神という盾があれば、あらゆる攻撃が無効とされます。また主はユダヤ人にとって『勝利の剣』でもあられました。人間の作った剣で敵を必ず打ち倒せるとは限りません。狙いが外れたり、斬りつけても切断できなかったり、盾で防がれたり、鎧に当たって折れたり欠けたりすることも少なくありません。しかし、神という最強の剣は、それを持つ者に確実な勝利を齎します。確かにこのような剣を持っていたユダヤは『しあわせ』でした。また、ユダヤ人には神が共におられるので、ユダヤ人の敵が媚び諂うのに対し、ユダヤ人は媚び諂っている敵を踏みつけます。ユダヤ人は聖なる民であり神が共におられますが、敵は汚れた民であり神が共におられないからです。これはカナン侵攻の時に実現しました。その時、カナンの諸民族が侵攻して来るユダヤ人に媚びても無駄であり、容赦なく殲滅されました。ダビデが王の時にもこれは実現しました。ダビデが自分で言っている通り、ダビデに対し諸国の民は諂って何でも命令を聞いたのです(Ⅱサムエル22:44~46)。

【34:1~4】
『モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」』
 神はモーセが死ぬ前に、彼をモアブにあった『ネボ山』の『ピスガの頂』に登らせました。これはモーセにそこから約束の地カナンをその目で見させるためです。神はカナンをモーセに見せることで、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに対し『あなたの子孫に与えよう。』と誓っておられた誓いが真実であることを確認させられました。これは神が誠実な御方だからです。もしカナンの地を見るならば、モーセは神の約束が本当に真実であったと実感できます。もちろん、カナンの地を見なければモーセが神の約束における真実性を信じなかったというわけではありません。言うまでもなく、モーセはカナンの地を見る前から既に神の約束が真実であると少しも疑わず信じていました。しかし、実際に約束の地をその目で見るならば、それを見たことにより、約束の真実性を「実感」することができるのです。もしカナンを見なければ、神の約束における真実性を肌で感じることはできなかったでしょう。しかしながら、モーセはその地を見るだけで、そこに入ることまでは許されませんでした(4節)。寿命がその理由なのではありません。モーセがカナンに入れなかった理由は罪です。すなわち、罪に対する報いのため神はカナンの手前でモーセの生涯を終止させられたのです。モーセがこの山から見たのは、カナンの全域でした。『ギルアデをダンまで』とは、ユダヤの相続地における最北端であり、そこはギルアデ山の麓でした。『ナフタリの全土』はギルアデにあるダンの相続地の西側部分です。『エフライムとマナセの地』とは、ネボ山から北西に拡がる地域であり、それはヨルダン川の西側にありました。『ユダの全土』はネボ山から西に拡がる地域です。『西の海』はユダの全土の西にある地中海を指します。『エリコの谷をツォアルまで』と言われている場所は、死海の西における沿岸部分を指します。

 このようにモーセは120歳であるのに、山に登り、そこからカナンの地を遠くまで眺め、そこをしっかり認識することができました。モーセがこのように出来たのは、神が彼の体力と視力と知力を恵みにより保っておられたからです。120歳にもなって登り、眺め、悟るというのは誠に大きな御恵みです。多くの人であれば高齢になると膝に痛みが生じますから、山に登れなくなる場合は決して珍しくありません。まだ眼鏡のないこの時代に、裸眼で120歳なのに遠くまで見れる視力が保たれていたというのも凄いことです。120歳になって全く呆けていなかったというのも注目に値します。今の時代であれば、そもそも120歳にまで達することさえ不可能に近いでしょう。ですから、モーセはとてつもなく大きな神の祝福に与かっていたことが分かります。その恵みはとこしえまで。

【34:5~6】
『こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。』
 こうしてイスラエルの偉大な指導者であったモーセは死にました。モーセの死因は『主の命令』でした。寿命や病気や事故が死因なのではありません。神がモーセの命を直に取られた。モーセの死因はただこれだけです。モーセのこのような死に方が、最も恵まれた死に方の一つだったことは間違いありません。何故なら、モーセは生命の主であられる神から、言わば手招きされるようにして死へと導かれたからです。このようにして死ねるのは僅かな人物だけです。特別に選ばれていた人間しか、このような死に方はできません。このように神が手で誘うようにして直接その生涯を閉じられたのは、聖書の例で言えば、モーセの他にエノクとエリヤぐらいしか存在していません。

 6節目で書かれている通り、主はモーセの死体を『モアブの地の谷に葬られ』ましたが、アルキメデスの墓が見つけられたのとは違い、その墓は21世紀の今に至るまで見つかっていませんし、これからも見つからないでしょう。使徒ユダは、この墓の件でサタンがミカエルと論争したと述べています(ユダ9)。サタンは神がモーセを葬られた様子を見ていました。ですから、サタンとミカエルの論争は、間違いなくサタンが全くの出鱈目を主張したから起きたのです。というのもサタンとはキリストが言われたように、『偽り者であり、また偽りの父である』(ヨハネ8:44)からです。もしサタンが偽りを主張したというのでなければ、一体どうしてミカエルとの言い争いが起きたというのでしょうか。また、旧約偽典の「モーセの昇天」という文書でも、モーセが死んだ出来事についてあれこれ言われています。この文書によれば、モーセは死ぬ際、キリストのようにして天にそのまま引き上げられたということです。しかし、この文書に書かれていることを参考にすべきではありません。何故なら、これは偽典であって全く霊感されていないからです。偽典などは隅に追いやり、私たちは聖書にだけ立つべきです。

【34:7】
『モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。』
 モーセは120歳まで生きましたが、これは神の祝福によります。この時代から今に至るまでの基準で言えば、これは非常な長生きです。しかし、創世から洪水後の数百年までの基準で言えば、これは長寿と言えませんでした。その時の基準からすれば、120歳というのはまだまだ若かったからです。モーセは120歳になっても『目はかすまず、気力も衰えていなかった』のですが、これも神の祝福によります。かつて神はモーセに、もし命令を守るならば病から免れると約束されました(出エジプト記15:26)。つまり、モーセが忠実に歩むならば、ずっと壮健でいられるということです。もしモーセが不敬虔な人物であったとすれば、目は霞み気力も衰えていたでしょう。

【34:8】
『イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。』
 イスラエル人はモーセの死を泣き悲しみましたが、喪の期間にモーセの死体はありませんでした。この時の悲しみは非常に激しかったと思われます。というのも、この時の聖徒たちには復活の信仰がまだ明白でなく堅固でもなかったからです。新約時代の今となっては復活の信仰が明白ですし、その信仰を堅固に持つこともできますから、亡くなった聖徒のためそこまで激しく泣き悲しむ必要もありません。パウロがテサロニケ人に対し、死んだ者のことであまり悲しむなと戒めた通りです(Ⅰテサロニケ4:13)。喪の期間は『三十日間』でしたが、これは十分な期間であることを示しています。キリストが公生涯を始められるまでの年数も「30」年でした。イスラエルのためには『七十日間』(創世記50章3節)の喪が定められました。

【34:9】
『ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。』
 モーセがかつてヨシュアの上に手を置きましたから、ヨシュアは『知恵の霊に満たされてい』ましたが、これは指導するために知恵を与える霊です。神はモーセの按手を通し、モーセの上にあった知恵の霊を、ヨシュアにも分与されたのです。キリストにもこの知恵の霊が留まっておられました(イザヤ11:1~2)。御民は、このヨシュアを次なる指導者として認め、モーセに聞き従うごとく彼に聞き従いました。偉大な一番手に続く二番手が現われたならば、人々は「この人だ。」と気付くものなのです。ダビデに続くソロモン、プラトンに続くアリストテレス、ルターに続くカルヴァン、また偉大ではありませんがレーニンに続くスターリンがそうです。モーセに続くヨシュアもこの通りでした。

【34:10~12】
『モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。』
 モーセはこの時だけ特別的に起こされた人物でした。モーセは限定的な存在だったのです。ですから、この箇所ではこう言われています。『モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。』確かにこの申命記が書かれた時代に至るまで、イスラエルにモーセのような人物は現われませんでした。ダビデやソロモンはモーセのように力強くイスラエル人を統御しました。しかし、この2人はモーセのように奇跡を行ないませんでした。サムエルも同様です。また、エリヤやエリシャはモーセのように力強い奇跡を行ないました。しかし、この2人はモーセのようにイスラエル人を支配することがありませんでした。支配と奇跡をどちらも行なったのはモーセだけです。ですから、確かにモーセは例外的に起こされた特別な人物だったことが分かります。このモーセは神が『顔と顔とを合わせて選び出され』ました。これは、神が実に親密な態度でモーセを選出されたという意味です。この表現は出エジプト記33:11や申命記5:4の箇所でも使われています。モーセが神から特別的に選び出された理由は2つありました。一つ目は、モーセが神の奇跡をエジプトに対して行なうためでした(11節)。この奇跡により、エジプト人はヤハウェの偉大さを知り、自分たちの信じている神々が弱く虚しい存在であることを感じました。このようにして神はモーセを通して御自分の栄光を現わされたのです。二つ目は、『モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうため』でした。つまり、神はモーセを通してイスラエル人を支配し、御自分に対する恐れをユダヤ人が持つようにされました。このモーセが持っていた『権威』と『威力』はモーセから出たのではなく、神から与えられたものでした。