【申命記3:1~6:5】(2022/02/13)


【3:1~11】
『私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。そのとき、主は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」こうして私たちの神、主は、バシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残さなかった。そのとき、私たちは彼の町々をことごとく攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国であった。これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々―男、女および子ども―を聖絶した。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で略奪した物とは私たちのものとした。このようにして、そのとき、私たちは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取った。―シドン人はヘルモンをシルヨンと呼び、エモリ人はこれをセニルと呼んでいる。―すなわち、高原のすべての町、ギルアデの全土、バシャンの全土、サルカおよびエデレイまでのバシャンのオグの王国の町々である。―バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。見よ。彼の寝台は鉄の寝台、それはアモン人のラバにあるではないか。その長さは、規準のキュビトで九キュビト、その幅は四キュビトである。―』
 エモリ人の国を占領したユダヤ人は北上してバシャンの国へ進みましたが、バシャン人たちは南からやって来たユダヤ人たちを返り討ちにしようと奮起します。神は、このバシャンの国をもユダヤ人に与えられました。何故なら、バシャン人もレファイム民族の一つだったからです。既に見た通り、『レファイム人』(創世記15章20節)は滅びに定められていた民族です。こうしてユダヤ人はバシャンにあった『六十』の町を奪い取りましたが、この「60」という数字は人間を示す「6」かける完全数「10」ですから、それらの町々に多くの人間が住んでいたことを示しているのかもしれません。それらは『高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々』でしたが、神によりユダヤ人はそこを攻略しました。神が共におられるのであれば天にまで届く城壁もただの平地と化し、ダイヤモンドのような堅固さを持つ要害も少しの力で潰れる卵同然となるのです。『アルゴブ』とはバシャンの国にある地名です。この場所はマナセの半部族が相続することになります。『エデレイ』とはバシャンの南にある首都です。11節目で、バシャンの王オグだけがレファイム人の生存者として残っていたと書かれているのは、どういう意味でしょうか。これは、オグ王とその民が生き残っていた最後のレファイム人だったという意味です。これはバシャン人が殺された際、オグ王だけが殺されずにいつまでも生き残ったという意味ではありません。何故なら3節目の箇所からオグ王が生き残ったことは否定されるからです。では同じ11節目で、オグ王の『鉄の寝台』がアモン人のラバに置かれていたと書かれているのは、どういった意味でしょうか。これは長さ396cm、幅176cmもあるかなり大きな寝台です。『ラバ』というのはアモン国の首都であり、アモン人の王の名前でもあります。そのラバという場所に、バシャン王の寝台が置かれていた。これは恐らく、バシャン人が皆殺しにされた際にオグ王だけ生け捕りにされ、死刑に処せられるまでアモン人の首都で鉄の寝台で監視されていたということなのだと考えられます。この寝台の大きさを考えると、これは一種の牢獄だったと思われます。つまり、その寝台から少しでも出たら即刻殺されてしまうということだったのではないでしょうか。オグ王がアモン王と親交を持っており、オグがアモン王の国に行く際は、この鉄の寝台で寝泊まりしていたというのではなかったはずです。確かに古代ではソクラテスやセネカをはじめ多くの哲学者が鉄や地面といった固い場所で寝ることを好んでいました。そうすると柔弱さを遠ざけられるので、より哲学者らしいストイックな生き方が実現されるからです(ちなみにジョン・ロックも教育論の白眉として名高い『子どもの教育』という本で、子どもを弱くさせないために固い場所に寝させるべきだと書いています)。しかし、オグ王がアモンに行った際にそのようなことをして自己を鍛えていたと考えるのは、あまりにも不自然だと言わねばなりません。このように3節目と11節目では、一見すると矛盾があるかのように感じられます。一方ではオグ王を含めバシャン人は『ひとりの生存者をも残さなかった。』(3節)と書かれているのに、もう一方では『バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。』(11節)と書かれているからです。しかし、これは今見た通り、何も矛盾していません。矛盾していると思うのは私たちが深く考えていないからです。聖書にはこのように、深く考察しないと矛盾していると感じられるような箇所がかなりあるので、よく注意しなければなりません。

【3:12~17】
『この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。ギルアデの残りと、オグの王国であったバシャンの全土とは、マナセの半部族に与えた。それはアルゴブの全地域で、そのバシャンの全土はレファイムの国と呼ばれている。マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との境界までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。マキルには私はギルアデを与えた。ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。またアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。』
 こうして、イスラエルの諸部族のうち、まずガド族とルベン族とマナセの半部族に相続地が定められました。すなわち、ガド族にはエモリ人の地の北半分が、ルベン族には南半分が、マナセの半部族にはバシャンの地が与えられました。当然ながらこれらの部族は既に相続地を受けたので、これからカナンの地で相続地を受けることはありません。マキルに与えられた『ギルアデ』とは、ヤボク川の北側に広がる場所です。ヤイルが取った『ハボテ・ヤイル』とは、バシャンの地の南部に広がる場所です。マキルとヤイルはマナセ族でしたが、マナセ族に与えられた相続地はかなりの広さを持っていました。このようにして、まずエモリ人とレファイム人が殲滅されました。この時から、神がアブラハムに対して与えられた約束が実現され始めました(創世記18:18~21)。モーセはイスラエルによる占領の出来事をこの時はまだ見ることができました。しかし、もうこれ以降の占領は見ることができません。それは、モーセがメリバの場所で罪を犯したためです。

【3:18~20】
『私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」』
 モーセは『あなたがた』すなわちガド族とルベン族が、イスラエル人の先頭に立ってカナン侵攻をするよう命じます。それはこの2部族がそうすると言ったからです(民数記32:17)。民数記の註解書で見た通り、口で誓ったことは必ず果たさねばなりません(民数記30:2)。ですから、モーセはここでこの2部族に何か不当なことを要求したのではありませんでした。この2部族の戦士たちはイスラエル人のカナン占領が終わるまで、自分たちの相続地に帰ることができません。しかし、戦士でないガド人とルベン人は、前もって自分たちの相続地に住み始めることができました。というのも戦士でない者が侵攻に行くことはできませんし、彼らには養うべき無数の家畜がいたからです。

 このように誓ったその誓いは必ず実行されねばなりません。ガド族とルベン族が侵攻の先頭に立たねばならなかったのは、彼らが誓願したからこそでした。もし彼らが何も誓願していなければ、別にイスラエルの先頭に立って進む必要はありませんでした。このことから分かる通り、誓願には勇気と男らしさがどうしても必要となります。誓願と臆病者はあまり相性がよくないのです。

【3:21~22】
『私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」』
 モーセは、自分の後継者であるヨシュアに、エモリ人の王シホンとバシャンの王オグに起きた先例を示し、しっかりと侵攻を成し遂げるよう命じます。すなわち、神はエモリ人とバシャン人にされたように、これから侵攻するカナンの民族にもして下さるのだから恐れてはならない、と。これは完全な励ましの言葉でした。神の人、神の僕、神の友であるモーセがこのようにはっきり言ったからです。これはカナン侵攻が100%成功するということです。ですから、モーセの言葉を聞いたヨシュアから恐れや不安は全く消し去られたはずです。実際、神はモーセが言った通り、ユダヤ人と共におられ、ユダヤ人の前に立ちはだかったカナンの民族をエモリ人とバシャン人のようにして下さいました。このようにして下さった神はほむべきかな。アーメン。

【3:23~29】
『私は、そのとき、主に懇願して言った。「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」こうして私たちはベテ・ペオルの近くの谷にとどまっていた。』
 モーセは、神が遂に占領の約束を実現され始めたので、自分もカナンの地に渡って占領の続きを見たいと懇願します。モーセがこのように願った気持ちは誰でも理解できるはずです。私たちは非常に面白い映画の冒頭を見れば続きを見たいと願うでしょうが、この時のモーセは面白い映画の冒頭を見始めた人に例えることができるからです。しかし、神はモーセにこれ以上の占領をお見せになさいません。これはモーセがメリバで罪を犯したので、その裁きとしてもう死ななければいけなかったからです。このようにモーセは「これからだ!」という時に死んでしまいますが、このような事例は数多くあります。例えば、改革派の神学者として有名なメイチェンは、正にこれからだという時期に天に召されました。ジョナサン・エドワーズもプリンストン大学の学長に就任してから、間もなく天に召されました。ジャズの帝王として名高いマイルス・デイヴィスも、これからが良い時だ、やるべきことが山ほどある、調子が非常にいいんだ、プリンスとの共作も考えているところだ、などと言っていたら死んでしまいました。手塚治虫も「これからが人生の本番ですよ。あと40年は描くつもりですから。」などと言っていたら数年以内に亡くなりました。このようにこれからだという時に死ぬことを、古代の哲学者たちは「妬みによる死」と表現したものでした。つまり、「嫉妬氏」がこれからだという人の将来を嫉妬してその人を殺すというわけです。もしモーセがメリバで罪を犯していなければ、これからも幾年か生きて、カナンにおける占領の歩みを見ることができていたでしょう。これまではモーセがイスラエル人の占領を指揮していましたが、これからはヨシュアに指揮が交代されます。ですから神はモーセにヨシュアを励ますよう命じます(28節)。この時のモーセの気持ちはどのようだったでしょうか。悲しくどうしようもない気持ちで一杯だったかもしれません。神は、モーセに『ピスガの頂』すなわちネボ山から占領すべきカナンの地を眺めることしか許されませんでした。その眺める方角の順序としては『西、北、南、東』となっています。『西』が第一番目なのは、ネボ山からちょうど西側にカナンの地が広がっていたからです。『東』を見てもルベンの相続地がほんの少しあるだけであり、それよりも東はユダヤ人の相続地ではありませんから、その重要性の低さから第四番目となっています。『北』は『南』に比べるとよく占領すべき地域が見渡せますから第二番目です。残る『南』は『東』より多くの相続すべき地を見渡せますから第三番目となっています。

【4:1~2】
『今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。』
 ユダヤ人が神の命令に服従するよう再び命じられます。これはユダヤ人が神に服従することで祝福され、カナンの地をいつまでも所有するためです。神は、命令に服従する柔和な者にこそ、その定められた地をいつまでも与えて下さいます。キリストが『柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。』(マタイ5章5節)と言われた通りです。詩篇37:27の箇所でも『悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。』と書かれています。地球の所有者であられる神は御自身の御心に適った者に、御自身の地を与えられます。ちょうど大家さんがまともな住民にアパートの一室を貸し続けるのと一緒です。ユダヤ人は神の命令に付け加えたり、またそれから何かを減らしてはなりませんでした。服従とは命令と一致することに他ならないからです。もし付け加えたり減らしたりすれば、それはもはや神とその命令に従っているのでなく自分自身に従っているのです。

【4:3~5】
『あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。』
 民数記で書かれていた通り、荒野でバアル・ペオルに引き込まれた偶像崇拝者どもは全て駆逐されましたが、罪を犯さなかったユダヤ人は生き残されました。これからユダヤ人がバアル・ペオルに従った者のようになってはなりません。それは、これから入植するカナンの地で彼らが生き続けるためです。しかし、残念なことに、ユダヤ人はやがてバアル・ペオルに従った者と同類の者になってしまいます。このため神の怒りが燃え上がり、彼らは裁きの滅びを受けることになったのでした。もしユダヤ人が偶像崇拝に陥らなければ、裁かれることもなくずっとカナンに住み続けることができていたでしょう。

【4:6~8】
『これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。』
 ユダヤ人が神の律法を遵守するならば、それはユダヤ人の卓越性を諸民族に示すことであって、諸民族はユダヤ人に対し『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。』と称賛することとなります。それは律法が『正しいおきてと定め』だからです。もし神の法を守るならば神の知恵と正義をその身に帯びることになります。ですから、そのような民族が評価されるのは当然です。詩篇記者も律法を遵守していたので、自分が師匠や老人よりも遥かに卓越していると言っています。こうです。『私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。』(119:99~100)今の時代に生きる私たちも神の命令を遵守するならば、多くの人から評価されます。今のユダヤ人はと言えば、律法を遵守していないので、称賛されるどころか、非難されたり不審がられたり問題視されたりしています。私が言っているのはイスラエルのことです。自分たちの兄であるイシュマエル民族をパレスチナから駆逐しようというあからさまな律法違反を犯している彼らが、諸国から批判されるのは当然です。実際、国連は何度もイスラエルを非難していますし、多くの国が幾度となくイスラエルに遺憾の意を表明してきました。我が日本も外務省がイスラエルの侵略悪に対し何度も遺憾の意を表明しています。イスラエル人が「いや、私たちは神の法に違反していない。」などと言っても無駄なことです。もし本当に違反していなければ、この箇所で神が言っておられる通り、彼らは次のように諸民族から称賛されていたでしょうから。『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。』今のイスラエルは、私の見るところ、称賛されるというよりは暴虐を為している民と思われる傾向があります。もちろん、こう言われのに相応しいユダヤ人もいないわけではありません。それはネトゥレイ・カレタのユダヤ教徒たちです。この人たちは数は少ないのですが、イシュマエル民族に対するイスラエルの行為を問題視しており、そもそもシオニズムにさえ賛同しておらず、イスラエルの回復と確立はメシアの到来により実現されるまで穏やかに待つべきだという旧約聖書から考えれば至当な思想を持っています。「パレスチナ人を殺してはならない。」このように言う彼らは本当に正しいことを言っています。律法とは兄弟殺しを否定する愛の定めだからです。ですから、このユダヤ教徒たちであれば称賛されたり評価されてもおかしくありません。もし今のイスラエルの侵略行為が本当に正しく律法にも適っているというのであれば、諸国民をして『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。』と言わしめてみよ!このように諸国民が言わず、相も変わらず遺憾の意が表明されるのであれば、やはり今のイスラエルのパレスチナ侵略は正しくないことになるのです。古代のユダヤ人たちも、残念ながら律法に違反してばかりいました。ですから、古代人の著作を見れば分かる通り、古代の異教徒たちが古代ユダヤ人を評価したりすることはありませんでした。セネカも、キリスト教徒に対しては悪く言いませんでしたが、ユダヤ教徒は酷く嫌っていました。もっとも、エルサレム神殿とその祭儀であれば話は別です。これらはあまりにも素晴らしくしっかりしていたので諸民族から称賛されずにはいませんでした。しかし、これはユダヤ人という人間に対する称賛ではありませんでした。

 神は、ユダヤ人が呼ばわる時、いつも近くにおられました。これはユダヤ人が神の民であり、神が彼らと共に歩んでおられたからです。実際、神は彼らが助けを叫び求めると、彼らを助けておられました。今のユダヤ人には神が共におられませんから、神を呼び求めても神は近くにおられません。ですから、彼らがパレスチナ人を追い払ってほしいと神に願い求めても、パレスチナ人があの地から排除されることはないのです。もし神が彼らと共におられたならば、もうとっくの昔にパレスチナ人はあそこから追い散らされていたことでしょう。

【4:9~14】
『ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。主は御自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。』
 神は、ホレブ山に降りて来られた際、イスラエル人に対して聖なる戒めを命じられました。その時、十の戒律が定められました。14節目で『おきてと定め』と言われているのは繰り返し表現であって、『おきて』も『定め』も神の命令という意味で同様です。その時にホレブ山が凄まじい状態となりました(11節)。全宇宙の創造者であられる神がそこに降りて来られたのですから、このような現象が生じたのは当然でした。この出来事については既に出エジプト記の註解で見ました。この時に命じられた命令をユダヤ人は忠実に守り、決して背いてはなりませんでした(9節)。それはユダヤ人がカナンの地に入って聖なる歩みをするためです。

 この箇所では、ユダヤ人が見たホレブ山での出来事と神の命令を子どもや孫たちに語り聞かせよと命じられています。これは子どもや孫たちも神を恐れて従順になるためです。もちろん、曾孫以降の世代にも、ホレブ山での出来事と神の命令は語り聞かせねばなりませんでした。何故なら、いつの世代であっても、ユダヤ人は神を恐れて従順であるべきだからです。曾孫以降は不敬虔であってもいいということがどうしてあるでしょうか。このようなわけで、ユダヤ人の親は昔から子どもに聖なる歴史をよく語り聞かせてきたのです。ちょうどイタリア人がかつての強敵ハンニバルについて今でも子どもに語り聞かせるように。

 ところで、神がホレブ山に降りて来られた際は、御声だけが聞こえ、物質的な御姿は全く示されませんでした。これは神が物質を超越した目に見えない御方だからです。ですから、神が住んでおられた至聖所の場所にも、何か神を示す像のような物体はありませんでした。神を物体として現わしていた異教徒たちは、ユダヤ人の神が見えないというので驚いていました。しかし、驚かれるべきはユダヤ人でなく、異教徒のほうでした。何故なら、無限であられる神を有限存在として示すのは不可能な話だからです。カルヴァンも言った通り、神を物体として現わすのは神への侮辱となります。それにもかかわらず無知のため神を物体にまで引き下ろしていた異教徒なのですから、これは驚くべきことでした。神がホレブ山に降りて来られた際、全く神の御姿が見られなかったことを不満がったユダヤ人もいたはずです。何故なら、ユダヤ人は神がホレブに降りて来られてから間もなく、目に見える神を要求したからです(出エジプト記32:1~4)。しかし、目に見える神を求めて不満がったユダヤ人はどうかしていました。もし彼らが神のことを良く理解していたとすれば、むしろ目に見えないからこそ満足していたでしょうから。というのも、もし神が物質的に有限な存在であったとすれば、神は無限者でないということになるからです。無限でない神とはどのような存在なのでしょうか。

【4:15~19】
『あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。』
 ユダヤ人は神が全く物質的な御姿を示されなかったからというので、不満になって自分自身で神の表象として偶像を造ってはなりませんでした。それは十戒の2番目で禁じられていることです。この箇所では、どのような偶像を造ってはならないか具体的に示されています。まず『男の形も女の形も』偶像として造ってはなりませんでしたが、これは幼児や神話の人物も当然ながら含まれています。カトリックは『男の形も女の形も』聖人の像を造り、その前にひざまづいて祈りを捧げていますから、明らかにこの律法に違反しています。このような偶像を飽きもせず造ってその前でひざまづいているカトリックは、キリスト教の一つではありますが、キリストの教会であるキリストの身体ではありません。何故なら、偶像の前でひざまづく人間は地獄に行くからです(黙示録21:8)。17~18節目では、いかなる動物も偶像にしてはならないと命じられていますが、動物を偶像崇拝する民族や宗教は珍しくありませんでした。19節目では天体を崇拝することが禁じられています。古代には、特に太陽がそうでしたが、天体を崇拝する民族や宗教が多くありました。ユダヤ人がそのようにしてはなりませんでした。それは拝まれるべき神でなく単なる被造物に過ぎないのですから。また、19節目で言われている通り、天体とはあらゆる民族に共通して与えられている被造物です。ですから上空に見られる天体は、熱であれ明かりであれ、全ての民族に例外なく恵みを齎しているわけです。この天体をある民族だけが独り占めすることは決してできません。かつて天体の享受権を自分たちだけに要求したほど傲慢な狂った民族はただの一つもありませんでした。

 この箇所では『堕落して』偶像崇拝に陥らないようにと命じられていますが、ユダヤ人はこれから『堕落して』偶像崇拝に陥ることとなります。神がこのように偶像崇拝を禁じられたのに、彼らはその禁止命令を無視したのです。このためユダヤ人はその偶像崇拝の罪により裁かれてしまうことになりました。

【4:20~24】
『主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたあたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。』
 モーセは出来ればヨルダン川を渡って皆と共にカナンへと入りたかったのですが、神はそれをモーセに許されませんでした。モーセが無念に感じていたことは間違いありませんが、神がそう定められたので仕方ありませんでした。これまではずっとモーセがイスラエル人を率いていました。これからはモーセの指導がなくなります。モーセという強力な指導者がいた時でさえ、イスラエル人は偶像崇拝に陥りました。であればモーセがいなくなれば、イスラエル人はどれだけ容易く偶像崇拝に陥るでしょうか。しかし、モーセがいてもいなくても、イスラエル人が偶像崇拝をすべきではありません。ですから、モーセは死を前にして、イスラエル人が偶像崇拝をしないよう命じます。しかし残念ながら、ユダヤ人はこのように命じられたにもかかわらず後ほど偶像崇拝に陥ってしまいます。ところで、偶像を崇拝する者たちは、ほとんど全ての場合、次のように言い訳をするものです。「私たちは像そのものを拝んでいるわけではない。そうではなく、その像のうちに秘められている神性もしくはその像が表象している神性を崇拝しているのだ。だから、私たちは偶像崇拝をしていない。像は神性を崇拝するための媒介手段に過ぎないのだから。」彼らがこのような言い訳をしても無駄です。何故なら、全宇宙の神は、先に見た箇所で、人が『自分たちのために』(申命記4:16)、すなわちその前でひざまづいたり奉仕したりするための像を何であれ造るなと命じられたからです。聖人像の前にひざまづいたり口づけしたりするカトリックも、聖人像を神として崇拝しているわけでなく像に奉仕しているだけだから問題ないなどと苦しい言い訳をしますが、無駄なことです。先の箇所で、神は奉仕するための像を何であれ造るなと命じられたからです。崇拝は駄目だが奉仕なら問題ないなどと神は言われません。さて、モーセは神が『焼き尽くす火、ねたむ神』であると言って、イスラエル人が偶像崇拝をしないよう威嚇します。つまり、妬む神は裁きとして火で偶像崇拝者を滅ぼされる御方だから決して偶像崇拝に陥るな、と警告しているのです。実際、後の時代になると、ユダヤ人は偶像崇拝に陥ったので、その街もろとも火で焼き尽くされてしまいました。神が火であられるということはヘブル12:29の箇所でも言われています。確かに神は『焼き尽くす火』であられます。しかし、これは神が火という物質的な御方であるという意味ではありません。何故なら、神とは物質を越えた存在であり、火とは単なる被造物に過ぎないものだからです。神が『焼き尽くす火』と言われているのは、つまり神が『焼き尽くす火』で反逆者どもを滅ぼされる御方であるという意味です。

【4:25~31】
『あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともできず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。』
 モーセは、これからユダヤ人が偶像崇拝に陥ると預言しています。モーセの時代から約300年後になると、まずソロモン王が酷い偶像崇拝に陥り、それ以降の王たちも民衆と共に偶像崇拝へと陥り続けました。これは2つの列王記で記録されていることです。モーセは神の霊感により預言したのでした。ユダヤ人が偶像崇拝に陥ると神の裁きが下されるので、ユダヤ人は滅ぼされ、『ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される』こととなります。北王国イスラエルのユダヤ人は、紀元前8世紀にアッシリヤに滅ぼされてから生き残りの者が外国に追い散らされました。しかし、彼らがどこに散らされたのかはハッキリ分かっていません。この時に散らされた北王国のユダヤ人は日本に到達したというのが日ユ同祖論です。南王国ユダのユダヤ人は、紀元前6世紀にバビロンに滅ぼされ、生き残った者はバビロンに捕囚されました。神は裁きを与えられても少数の者だけを残されました。つまり、全てのユダヤ人を滅ぼされたわけではありません。これは、アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約が決して破棄されないためでした。モーセは、このようにユダヤ人が偶像崇拝に陥ったならば滅ぼされるということを、『天地とを証人に立て』て誓っています。ここで疑問が生じます。天と地という被造物を誓いの証人としてよいのでしょうか。律法は、ただ主の御名だけを誓いの証人として指定すべきだと命じているのではなかったでしょうか(申命記6:13)。モーセが『天と地』を証人に立てて誓ったのは問題なかったはずです。何故なら、これは『天と地』と言ってその造り主であられる神を指していると解せるからです。神の律法を直接受けたモーセが被造物において誓ったと考えるのは難しいと思われます。ユダヤ人が散らされた外国での苦しみのうちにあって神を求めると、神はユダヤ人に応じて下さいます。するとユダヤ人は神に立ち返るだけでなく、カナンの地にも帰れるようになりました。歴史も示す通り、それ以降、ユダヤ人はもうかつてのように偶像崇拝を全くしなくなります。すなわち、バビロン捕囚からユダヤに帰還して以降は、ユダヤ人に偶像崇拝はなくなりました。このように神は、ユダヤ人が偶像崇拝という神への裏切り行為に陥ったにもかかわらず、ユダヤ人を全く滅ぼされることはなさいませんでした。これは神が『あわれみ深い神』であって、神がアブラハム、イサク、ヤコブに『誓った契約を忘れない』御方だからでした。つまり、ただ神のゆえにユダヤ人は絶滅を免れたのです。ユダヤ人が何か卓越していたからとか民族として本質的に特別だったからとか、そういった理由から絶滅を免れたのではありません。

【4:32~40】
『さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神がほかにあったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はいないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。』
 ここでモーセが言っている通り、神のような神は他に全くありません。神は、ユダヤ人が見ている前で、エジプトにおいて数々の大いなる奇跡を行なわれたのです。これこそ神が本当の神であられることを示していました。他にこのようにできる異教徒の神々があれば示してほしいものです。しかし、誰も示せません。また、100万人以上もの民がある国から一挙に脱出するという驚くべき出来事は、それまで起きたことがありませんでした。神がその出来事を起こされたのです。ですから、ヤハウェ神こそ真の神であられることは明らかでした。異教徒たちの神々は本当は存在しない偽りの神ですから、決してヤハウェの為されたような御業を行なえません。34節目では神がユダヤ人に対して為された事柄について7つのことを記していますが、これは「7」ですから明らかにその完全性また聖性を示しています。一つ目の『試み』とは、神がユダヤ人の信仰と霊をその奇跡において試して浮き彫りにすることです。二つ目の『しるし』とは、ヤハウェ神こそ真の神であられること、またヤハウェ神がユダヤ人の神であること、この2つを証示する奇跡を指しています。三つ目の『不思議』とは、神が行なわれた不思議な御業のことです。四つ目の『戦い』とは、神がエジプトとその王パロと戦われたことです。五つ目の『力強い御手』とは、神が行なわれた強力で衝撃的な奇跡を指しています。六つ目の『伸べられた腕』とは、神があたかも助けるため腕を伸ばす人間でもあるかのようにしてユダヤ人をエジプト人の奴隷状態から解放されたことを示しています。七つ目の『恐ろしい力』とは、神の御業において戦慄が走ったことを言っています。バアルはこのようなことをできませんでした。ゼウスもこのようなことをできません。ラーも同様です。ただヤハウェ神だけがこのようなことを行なえるのです。このような大いなる御業により、神は御自身こそが真の神であることをユダヤ人に知らせました(35節)。つまり、神は実物教育によりユダヤ人に御自分のことを分からせようとされたのです。また、ユダヤ人がホレブ山で火の中から神の御声を聞いたのは、ユダヤ人にとって『訓練』でした。どうしてあの出来事が『訓練』だったかと言えば、その時にはただ御声だけが聞こえ、御姿は全く示されなかったからです。ですから、この時にユダヤ人は神を御姿なしに信じる必要がありました。つまり、これは目に見えない神を信じるという信仰の『訓練』でした。神がこのようにしてユダヤ人を連れ出して御自分の民とされたのは、『先祖たち』であるアブラハム、イサク、ヤコブのゆえでした。つまり、先祖たちに与えられた契約が実現されるべく、神は先祖たちの子孫であるユダヤ人に働きかけられたのです。もし神がアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えておられなければ、その子孫であるユダヤ人たちは神の民となっていなかったでしょう。事実、何の契約にも関わっていない異邦人たちに神は全く働きかけられませんでした。また、神がこのように働きかけられたのは、ユダヤ人たちがカナンの地で神と共に聖く正しく敬虔に生きるためでした。ですから、ユダヤ人は神の戒めを忠実に守らなければなりません(40節)。そうすればユダヤ人は神から祝福されます。祝福されればユダヤ人はカナンの地でずっと幸せに生きることができます(40節)。また、このカナンは聖徒たちが入る天国を表象しています。一方、エジプトはまだ救われる前の状態を表象しています。カナンとエジプトに霊的な象徴性があるのは明らかです。この時のユダヤ人は鈍くて愚かでしたが、こういった霊的な事柄について信仰の理解を持つべきでした。

【4:41~43】
『それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。』
 民数記で定められていた『のがれの町』(民数記35:10~15)は6つ定められるべきでしたが、モーセはヨルダン川の東のほうに3つを定めました。すなわち、ルベン族とガド族とマナセの半部族の相続地にそれぞれ一つずつ定められました。ヨルダン川の東側に限って言えば、これでどの部族の者が無辜の殺人者になったとしても、自分の相続地に定められている逃れの町へと避難できるようになりました。モーセはヨルダン川を渡れなかったので、モーセにより定められた逃れの町はこの3つだけでした。もしモーセがヨルダン川を渡れていれば、ヨルダン川の西側にもモーセは逃れの町を定めていたでしょう。『ゴラン』はマナセの相続地の中央部分にある場所です。『ラモテ』はガド族の相続地の最も北東に位置しており、そこはマナセの相続地とアモン国に近い場所です。ところで、このような町を設置するようにさせた神は、人に配慮して下さる御方だということが分かります。神は「配慮の神」なのです。神は配慮そのものであられます。

【4:44~49】
『これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。』
 ここまでに告げられた御教えは、神がモーセを通してイスラエル人に語られた御言葉であり、それはエモリ人の地であった場所で告げられました。イスラエル人はカナンを占領してそこに住む前から、神の命令に従って歩んでいるべきでした。ですから、神はこれからカナンの地に入るユダヤ人に対し、このように前もって御言葉を告げておかれたのです。また、この箇所で書かれている通り、ユダヤ人はシホンの国とバシャンの国を殲滅して占領しました。神がその地を相続地としてユダヤ人に与えて下さったのです。そこは死海の東から北のレバノン山にまで至る広大な場所でした。

【5:1~5】
『さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。』
 モーセは死を前にして、神から告げられた聖なる定めをユダヤ人たちに語り、それをユダヤ人が守り行なうように命じます。これからその言葉がずっと続いて書かれます。これが申命記の主な内容です。

 ここでモーセが言っている通り、神は約40年前にユダヤ人とホレブ山で契約を結ばれました。これは神がユダヤ人を御自分の所有の民とされ、ユダヤ人は神の民として契約の言葉を忠実に守り行なう、という契約でした。この契約はユダヤ人が待ち望んでいたメシアを通して結ばれました。何故なら、メシアすなわちキリストなしに神との契約は全く有り得ないからです。パウロが言っているように、キリストこそ神との契約における唯一の仲介者であられます(Ⅰテモテ2:5)。神はこの契約を、ユダヤ人の先祖たちとも結んでおられました。ですから、アブラハムやイサクやヤコブもキリストにおける神との契約のうちにありました。しかし、神はまたホレブ山でユダヤ人に対し独立的に契約を結ばれました(3節)。つまり、アブラハムやイサクやヤコブの契約に付随させるという形でモーセ時代のユダヤ人と契約を結ばれたのではなく、神は真正面からモーセ時代のユダヤ人に向き合いつつ契約を結ばれたということです。その契約は、モーセ率いるユダヤ人の全体と結ばれました。それと同時にそこにいる一人一人ともその契約は結ばれました。この契約が結ばれた際、神の降りて来られたホレブ山に登って神と面会したのはモーセだけでした。ユダヤ人の会衆は『火を恐れて、山に登らなかったから』です。それは神が山に触れる者は誰でも殺されると威嚇されたからでした(出エジプト19:12~13)。

【5:5~21】
『主は仰せられた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。―そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」』
 モーセは約40年前に神から告げられた十の戒めを、ここで再びイスラエル人に語り聞かせています。これは間もなくイスラエル人がカナンの地に入るからであり、イスラエル人の世代が全く刷新されていたからです。この箇所で書かれている十戒は、出エジプト記で書かれていた十戒を少しも省略していません。むしろ、こちらのほうが言葉が長いぐらいです。このようにして旧約聖書では、2つの箇所で十戒が書き記されることになりました。神は、十の戒めが2つの箇所で記されることを望まれました。それは十戒が非常に重要な戒めだからです。この箇所で書かれている十戒は出エジプト記で書かれていた内容とほとんど全く一緒ですから、ここで再び詳しく説明する必要はないでしょう。もしこれらの戒めについて詳しく知りたいというのであれば、私が既に主の恵みにより書いた出エジプト記の註解書を見ればいいからです。ただ安息日の戒めについてだけは、ここで幾らかのことを書いておかねばなりません。何故なら、安息日の戒めについては、出エジプト記の箇所とこの箇所とでは、その根拠とされている内容が異なっているからです。出エジプト記のほうでは、創造における6日間が安息日を守る根拠とされていました(出エジプト記20:11)。つまり、神が6日働かれ7日目に休まれたので、ユダヤ人も7日目を安息日として休まなければならないということでした。一方、この申命記のほうでは、出エジプトという神の救いを覚えているべきだからこそ安息日が守られねばならないと書かれています(15節)。つまり、神がユダヤ人をエジプトでの苦しみから救われカナンにおける安息へと導き入れて下さるので、それを覚えてユダヤ人も週の7日目は安息せねばならないということです。この2つの根拠は、どちらも共に安息日を遵守する根拠です。出エジプト記と申命記で根拠とされている内容が異なるからといって、どちらか一方が間違っているということはありません。この時のユダヤ人は間もなくカナンで安息できる時が迫っていましたから、その安息が安息日の根拠として語られました。というのも神の救いはカナンの入植において全うされるのですから。しかし、40年前の時はまだユダヤ人がカナンに入らなかったので、カナンでの安息が安息日の根拠として語られることはありませんでした。それというのも、神はそれから40年間もユダヤ人がカナンに入れないことを前もって知っておられたからです。この安息日を除けば、この箇所で語られている十戒は出エジプト記で語られていた十戒と同様の内容です。もちろん言葉まで全くそのまま一緒であるというわけではありませんが、言葉の差異はごく僅かであって、そこで語られている内容は全く同様です。

【5:22】
『これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。』
 この十の聖なる戒めは、ホレブ山で火の中からイスラエル人の全てに聞こえるほどの大きな御声で語られました。ですから、山にいたモーセだけでなく、山の麓にいた全民衆も神の御声を直に聞きました。その御声を聞いてユダヤ人は大いに戦慄したのでした。この時に聞こえた御声の大きさは、少し世俗的な例えになりますが、ロックバンドが野外フェスティバルで出す大音量のようであったと推測されます。聖書には何も書かれていませんが、ホレブ山の近くに遊牧民がいたとすれば、この御声を聞いていた可能性があります。神はこの十の戒めを、自ら二枚の石の板に記録され、それをモーセに授けられました。この2枚の板に10の戒めがどのような書き方で書かれたかということについては、既に出エジプト記の註解書で述べておきました。この2枚の板は、民衆の堕落を見たモーセにより、すぐにも破壊されてしまうことになります。

【5:23~27】
『あなたがたが、暗黒の中からその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」』
 御声を聞いたイスラエル人は御声がそこから発される大きい火を見て戦慄したので、このままでは死んでしまうと本当に思いました。神の御声は雷のようです(ヨハネ12:28~29)。たった一度の雷鳴でも聞いたならば恐がる人は少なくありません。しかし、神の雷のような御声は、この時、ずっと鳴り響いていたのです。ですから、イスラエル人がこれ以上、神の御声を聞くことに耐えられなかったとしても不思議なことはありません。雷鳴のような音の連続があっても平常心を保ち続けられる人は恐らくほとんどいないと思われます。このためイスラエル人は、モーセ一人だけが神の御声を聞き、神の言われることを会衆に取り次ぐよう求めます。モーセの声であれば恐がらずに聞くことができるからです。また、イスラエル人はこの時、神の命令を聞いてそれに服従すると言いました(27節)。しかし、これは一時的な恐怖から出たその場限りの言葉であって、私たちがここまで見てきた通り、これからユダヤ人が神の命令に服従するということはありませんでした。

【5:28~33】
『主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令―おきてと定め―を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。』
 神は山の麓で話しているユダヤ人の言葉を聞かれ、ユダヤ人の言葉およびその態度を良しとされました。もちろん、神はユダヤ人が一時的に恐れを抱いているかのようになっていただけであり、これから後も神を恐れ続けるわけではないと知っておられました。しかし、この時において神はユダヤ人たちのことを良しとされました。それは、少なくともこの時においては本当に彼らの言葉と態度が御心に適っていたからです。神は、ユダヤ人がこの時に言った通りにするよう願われました。これは当然でした。何故なら、神はユダヤ人が神の民として御自身に服従するようにとエジプトから救い出されたからです。もしユダヤ人が神に服従しなければ、何のためにエジプトから救い出されたのか分からなくなります。こうして、これ以降はモーセ一人だけが神の御声を聞き、神の言われたことを民衆に告げ知らせることとなりました。神は、ユダヤ人が神の御声を聞きたくないと言ったことを不快に感じられたり問題視されたりしませんでした。何故なら、神はユダヤ人が御自身の恐るべき御声に耐えられないことをよく分かっておられたからです。しかし、モーセだけはいつも神の御声を聞くことができていました。神は、今の時代でもこのようにしておられます。すなわち、神は牧師を通して御自身の言葉を聖徒たちに告げ知らせておられます。牧師の声であれば聖徒たちは普通に聞くことができるからです。もし神が教会で直に語っておられたとすれば、教会では無数の失神者が生じていたでしょう。神はそのようになるのを望んでおられません。ですから、これからも神は教会で牧師を通して御言葉を告げられます。また、神は聖徒たちの全体を指導される際には、このモーセのようにごく僅かな人間だけを通して、聖徒たちの全体に働きかけられます。それが神のやり方なのです。ダビデやエリヤもそうでした。使徒たちもそうです。コンスタンティヌスもそうです。ルターやカルヴァンも同様でした。ということで、このように神の御教えがモーセを通してユダヤ人に告げ知らせられることとなりました。ユダヤ人はその御教えを全て守り行なうべきでした。それを守る際は『右にも左にもそれてはな』りませんでした。もし忠実に守るならばユダヤ人は祝福されるので、カナンの地にずっと住み続けることができ、そこで幸せに生きることができます(33節)。しかし、残念なことにユダヤ人はやがて御教えから右にも左にも逸れ、裁きとしてカナンの地から追い払われることになります。

【6:1~3】
『これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令―おきてと定め―である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。』
 モーセは、これからユダヤ人が神の御教えをことごとく守り行なうよう、聖なる戒めを全会衆に語り聞かせます。それはユダヤ人が裁きにより滅ぼされず、祝福されて生きるためです。もし彼らが戒めを守るのであれば、大いに増えることができます。神は御自分の戒めを守る者を喜ばれ、その者が増えることを望まれるからです。神はユダヤ人が増殖し繫栄するのを願っておられました。モーセもそれを願っていました。神が御自分に聞き従う者たちを増殖させ繁栄させる、という一般原則は新約時代でも変わりません。それゆえ、新約時代の聖徒たちも神に服従せねばなりません。

【6:4】
『聞きなさい。イスラエル。』
 『聞きなさい。』とモーセが言ったのは、これから語られる御教えが非常に大切だからです。これはよく聞き、心に留め、実行せよ、という意味です。何故なら、聞いても心に留めず実行もしなければ聞いた意味が全くないからです。そのような人たちは聞いていても実は聞いていないのです。

 『イスラエル』とは神がヤコブに与えたヤコブの別名であり、個人的な名前ですが、ヤコブの子孫であるユダヤ民族を指す場合にも使われます。モーセは御教えをイスラエル民族に対して告げ知らせているのです。直接的には確かにイスラエル民族を対象としています。しかし、この御教えの本質部分は新約時代のクリスチャンに対しても語られています。何故なら、新約時代において神の民はクリスチャンだからです。モーセはここで神の民を対象として語っているのです。ですから、これから語られる御教えは神の民である私たちにも大いに関わりがあります。新約時代のイスラエルはクリスチャンであるということ、これを私たちは忘れてはなりません。パウロがガラテヤ6:16の箇所でクリスチャンを『神のイスラエル』と呼んでいる通りです。

『主は私たちの神。主はただひとりである。』
 ヤハウェ神は『私たち』すなわちユダヤ人の神であられました。これは異邦人たちも知っていました。しかし、このヤハウェ神はユダヤ人だけの神というのではなく、全人類の神でもあられます。何故なら、ヤハウェ神がこの世界を無から創造されたからです。ヤハウェ神を単にユダヤ人だけの民族的な神として限定的に考えることはできません。ですが、ヤハウェ神は旧約時代にはユダヤ人にだけ御自身を神として現わされ、ユダヤ人だけが神を神として持つようにしておられました。ですから、ここでモーセは『ヤハウェは私たちの神』と言っているのです。少なくとも旧約時代においては、確かにヤハウェ神はユダヤだけが持つ神であられました。

 ここでモーセが言っているように『ヤハウェはただひとりである』のですが、その一人なる神のうちには三つの位格―父と子と聖霊―があります。父は神であられ、子も神であられ、聖霊も神であられます。また父は主であられ、子も主であられ、聖霊も主であられます。父は父であって子でも聖霊でもなく、子も子であって父でも聖霊でもなく、聖霊も聖霊であって父でも子でもありません。しかし、これは位格が三つなのであり神は一人であられます。ですから、3人の神がいるというのではありません。1人の神のうちに3つの位格があるのです。これは世界信条であるアタナシオス信条の中でも言われていることです。複数の神を考えるのは多神教であってキリスト教ではありません。この時のユダヤ人は、まだこのような位格の理解を明白に持てていませんでした。初期のキリスト教徒でさえまだ三位一体の理解をはっきり持っていなかったぐらいですから、この時のユダヤ人は尚のこと三位一体について理解できていませんでした。けれども、当時のユダヤ人でも、一人の神にある複数の位格について朧気とした理解を持つことはかろうじて可能でした。というのも、ここで『ただひとりである』と言われている一人なる神が、創世記の箇所では御自分のことを『われわれ』(創世記1:26、3:22)と複数形で語っておられるからです。もし神のうちに複数の位格がなければ、このように複数形で御自分のことを呼ぶことはされなかったでしょう。その場合、神は創世記の箇所で、御自分のことについて「わたし」と単数形により語っておられたはずです。このように『ひとり』なる神が創世記で『われわれ』と御自分について言っておられることは、ユダヤ教徒たちを動揺させずにはいないでしょう。位格の理解を全く持たないユダヤ教徒たちには、これが一体どういうことなのか理解できるはずがないからです。

 それにしても、この箇所で『ヤハウェ』と書かれているヘブル語の原文を新改訳聖書が『主』と勝手に書き換えてしまっているのは、誠に残念なことです。ここでは「主」と書かれているのでなく本当は『ヤハウェ』なのです。このような自分勝手な書き換えにより、本当であれば感じられるはずの雰囲気がこの聖句から感じられなくなっています。これは聖句本文に対する冒瀆です。新改訳聖書の翻訳原則は「原典にできるだけ忠実であること。」なのですが…。このように訳すのは許されません。使徒たちが旧約聖書でヤハウェと言われている箇所を「主」と言っていたのは、また話が別です。というのも、それは引用また言及だからです。引用や言及はある程度の自由を認められますが、翻訳はそのままで訳すことが不可能な場合を除き、原文通りにするのが基本でしょう。神の御名は忠実に訳さねばならない最たるものです。このような訳は、現代のプロテスタント界が御言葉よりも理性を優位に置いている現われだと私は考えます。事実、今のプロテスタント界は、私が再臨は既に起きたことを明白に示している聖句を示しても、全く反論できないにもかかわらず沈黙を続けるばかりです。1300人以上もの牧師が私の正しい聖書的な見解に全く反論できませんでした。それなのに私が伝えた再臨の真理を受け入れようとしません。つまり、聖句が何と教えているかということはどうでもよく、自分の考える通りに再臨を考えたいわけです。プロテスタント界はこのような状態ですから、ヘブル語で『ヤハウェ』と書かれている部分が新改訳聖書で勝手に「主」と訳されていたとしても不思議なことはありません。この新改訳聖書は多くのプロテスタント教会が使用している一般的な聖書です。これは非常に重要な問題です。私は是非ともこれからは『ヤハウェ』とその通りに訳すことを望みます。このまま次の版でも変更がなければ、今のプロテスタント界はますます霊的な軟弱化を続けるだけです。一般信徒である聖徒たちの中にも、多かれ少なかれ旧約聖書で神がヤハウェと言われていたことを知らない聖徒が生じかねません。何故なら、旧約聖書を読んでもどこにも「ヤハウェ」などとは書かれていないのですから。

【6:5】
『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
 キリストが言われたように、これは全ての律法の中で最も重要な戒めです(マタイ22:36~38)。キリスト以前に、この戒めの重要性を説いたユダヤ人はいませんでした。何故なら、彼らは律法の制定者ではなかったからです。しかしキリストは律法の制定者であられ、律法を完全に知っておられます。ですから、この戒めこそ全律法の中で最も重要であると、御自分の知っておられることを語られたのでした。私たちはもしキリストがこう教えられなければ、この戒めが最も重要な戒めであることに気付けなかったと思われます。たとえ気付けたとしても、キリストが言われたように確信を持ってそのことについて言うことはできなかったはずです。ところで、この箇所では『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして』と書かれているのに対し、キリストは『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして』(マタイ22章37節)と言っておられますが、言葉の差異は問題になりません。何故なら、申命記の律法で言われているのは、要するに「全身全霊を尽くして神を愛せよ。」ということだからです。それを示せるのであれば、『心』『精神』『力』という3つの言葉が別の言葉に置き換えられたとしても無問題です。この3つの言葉は本質的にどれも同様の意味を持っていますから、これは強調のための繰り返しです。『心を尽くし』とは、「心で何よりも神を優先させて」という意味です。『精神を尽くし』とは、「精神を全て神で充満させて」という意味です。『力を尽くして』とは、「持てる能力や時間を全て費やして」という意味です。キリストが教えられた通り、確かにこの戒めほど重要な戒めは他にありません。何故なら、私たち人間は神のために創造されたのだからです。もし誰かが「人間の存在意味は何なのか。」と聞くとすれば、その答えは「神を愛してその命令に服従することである。」となります(伝道者の書12:13)。最初の人間であるアダムは神を全身全霊を尽くして愛することを拒絶しました。ですから、己の存在意味を否定したアダムは刑罰として死ぬことになったのです。そして、このアダムという根から生じる枝である全ての人間もアダムと同様に死ぬこととなりました。根が罪により腐敗したので、その枝も根と同様の運命を持つことになったのです。

 この戒めは最高に重要な戒めですが、それを守れる人間は、私たちのうちでただの一人もいません。もしいたとすればその人は義人です。しかし、そのような義人は存在しないというのが聖書の教えです。『義人はいない。ひとりもいない。』(ローマ3章10節)と書かれている通りです。もっとも、人間でもキリストだけは話が別です。私たちの全てはこの戒めを守れないので、誰でも例外なく罪人です。このため私たち人間にはキリストの贖いが必要なのです。もしキリストの贖いにより罪を赦されなければ、罪人として永遠に神から滅びの裁きを受けねばならないからです。