【申命記6:6~8:20】(2022/02/20)


【6:6】
『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。』
 ユダヤ人は『これらのことば』すなわち神がモーセを通して告げられた律法の御教えを全て心に刻まねばなりませんでした。これは勧めでなく「命令」です。もし御教えを全く心に記憶させようとしないユダヤ人がいれば、そのユダヤ人は罪を犯していました。何故なら、そのユダヤ人は神の言葉など別にどうでもよいと思っているからです。どうでもよいと思っている、つまり蔑ろにしているからこそ心に刻もうとしないわけです。御言葉を蔑ろにするというのは罪でなくて何でしょうか。また、この戒めは今の時代に生きる私たちにも向けられています。何故なら、私たちも旧約時代のユダヤ人と同様に御言葉を蔑ろにしてはならないからです。御言葉を心に刻むのは本当に大事なことです。それゆえ、教会で子どもたちに暗証聖句をさせるのは正しいのです。神の言葉よりも重要なものは他にありません。御言葉こそ私たちにとっての金、否、金にも優る金です(詩篇119:72)。ですから、聖徒である親は子どもに暗証聖句を今の100倍ぐらい行なわせられたら望ましいと思います。確かに学校での勉強は大事かもしれませんが、暗証聖句はそれよりも更に大事なのです。この暗証聖句ですが、これは子どもだけでなく大人も行なうべきでしょう。さて、この戒めで御言葉を心に刻めと命じられているのは、御言葉を実行するためです。心に刻まれていない御言葉を実行することはできないからです。心に刻まれているからこそ意識して明白に御言葉を実行できます。当然ながら、御言葉を心に刻みはするものの実行しないというのでは駄目です。これが御心に適わないことは火を見るよりも明らかです。どうか、神が今の教会の聖徒たちの心に御言葉を豊かに溢れさせて下さいますように。アーメン。

【6:7】
『これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。』
 神は、ユダヤ人が自分の子どもに霊的な教育をするよう命じられます。神の言葉を子どもに教え込むのはあまりにも重要です。この教育にユダヤ共同体の未来がかかっているからです。もし子どもに豊かな教育を行なえばユダヤ人の未来は明るく、もし教育をあまり、もしくは何も行なわなければユダヤ人の未来は暗かった、と言ってよいでしょう。何故ならば、神の言葉にどれだけ根差すかということが、神からどれだけ祝福を受けられるか、ということに結びついているからです。ユダヤ人が子どもの頃からよく御言葉を教え込まれているならば、将来のユダヤ人は御言葉をそれだけよく実践できるでしょう。というのも子どもの頃に染み付いたものは、大人になってからも抵抗なく継続されるものだからです。ソロモンがこう言っている通りです。『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。』(箴言22章6節)このためユダヤ人の親は四六時中、子どもに御言葉を教え込まねばなりませんでした。子は親の持つ精神的な流れに乗るものです。ですから、親が御言葉をよく子に教えるならば、子は御言葉によく馴染めることとなり、神の恵みによりその子は自分から御言葉を求めるようにもなります。このようにすべきなのは新約時代の聖徒たちでも同様です。旧約時代のユダヤ人と同様、私たちも御言葉をどれだけ守るかにより、神の祝福をどれだけ受けられるか変わってくるからです。また私たちが注意せねばならないのは、子どもによく御言葉を教え込まないのはれっきとした「罪」だということです。これは聖書からそう言えるのです。何故なら、ヨハネが書いたように『罪とは律法に逆らうこと』(Ⅰヨハネ3章4節)だからです。この箇所で神は「御言葉をよく子どもに教え込め。」という律法を定めておられます。御言葉をよく子どもに教えていない親はこの律法に違反していますから、確かに罪を犯していると言わねばなりません。現代のプロテスタント界が不調に悩まされている理由の一つはこの点にあります。私の見る限り、恐らく今の聖徒たちは子どもに御言葉をよく教え込んでいないと思われます。子どもの反抗的な態度やだらしない行為などを度あるごとに容赦なく厳しく叱る姉妹ならいますが、しかし御言葉を教えているわけではありません(叱っていること自体は良いのですが…)。子どもによく御言葉を教えていませんと、その子どもたちが大人になった際、世俗の波を御言葉という防波堤で押し返すことが難しくなります。そのため世俗的になり、罪に近くなり、知らず知らずのうちに呪いの中へ陥るということが起こります。つまり、今のプロテスタント界が低調なのは、親たちが子によく御言葉を教え込まないという罪に対する裁きなのです。もっと親が子どもによく御言葉を教え込んでいれば、今頃は多くの牧師志願者が一般信徒のうちから出ていたでしょう。ところが、現状はと言えば、牧師になりたいと思う人などあまり現れず、多くの教派は牧師不足に悩まされています。このため無牧の教会も増えています。

【6:8~9】
『これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。』
 8節目で言われている内容は、他の箇所でも言われています(申命記11:18、出エジプト記13:9、16)。律法を手に結び、記章として額に置く、とは一体どういう意味なのでしょうか。これは文字通りの意味です。古代ユダヤ人は、律法を記した小さな紙を丸めて紐で額や手に付けていました。このようにすれば律法をいつも読むことができますから、万一律法を忘れてしまっても大事に至ることがありません。それゆえ、この戒めは単なる表現としてこう言われていると捉えなくてもよいのです。すなわち、この戒めでは御言葉が命じていることを『手』で行為し、御言葉が言っていることを『額』つまり頭脳で考える、というふうに言われているなどと捉えなくてもよいのです。神がこのように命じられたのは、ユダヤ人にとって御言葉の遵守は非常に大事だからです。この御言葉を守るか守らないかがユダヤ人の未来を左右するのです。

 9節目で神は、ユダヤ人が神の御言葉を『家の門柱と門』に書き記すよう命じておられます。旧約時代のユダヤ人は、この御言葉の通り、その家に御言葉を書き記していたはずです。彼らがこの戒めを忠実に守っていたというのであれば確かにそうです。しかしながら、旧約時代のユダヤ人は旧約聖書の多くの箇所でその不敬虔さを指摘され糾弾されていたのですから、実際はどうだったか分かりません。聖書や聖書外典、またヨセフスの歴史書などを読んでも、実際に彼らが家に御言葉を書き記していたかどうか知ることはできません。神が家に御言葉を書き記せと命じられたのは、ユダヤ人が御言葉を守り行なうためです。家に御言葉が書かれていれば、それを何度も目で見ることになります。たとえ見たくなかったとしても目に入らざるを得ません。そうすればユダヤ人は御言葉を忘れないようになります。その結果、ユダヤ人は心に記憶された御言葉を実行できるようになるわけです。神は人間の記憶が不完全であることをよく知っておられました。ゲーリングのような天才と呼ばれる人物でさえ、その記憶している事柄が脳内でしばしば改変されてしまいます。ですから、神は家に御言葉を書き記させることで、弱々しい記憶を補うようにされたのでした。もし私たち人間の記憶がコンピューターのように完全であれば神はこのように命じられなかったはずです。何故なら、別に家に書かれているのを見なくても御言葉が完全な形で脳内に記憶されているからです。人間とコンピューターにおける記憶の違いについては、ジョン・フォン・ノイマンが「計算機と脳」という本で情報を記憶させる素子の相違にあると書いています。この戒めは今の私たちも守るべき戒めです。この戒めの本質は「家で御言葉がよく目に入るようにする」ということです。ですから、その本質が全うされるのであれば、門柱と門の他のどこで御言葉が目に入るようにしても全く問題ありません。いや、むしろ門柱と門以外の場所でも積極的に御言葉を示すようにすべきでしょう。私の場合、御言葉を印刷したA4のコピー用紙をしっかりしたダンボールの板にテープで貼り、それを部屋の多くの場所に置いていますが、御言葉が目に入るようにしておくと、確かに御言葉を忘れないで済むので霊的な益があるとこれまでの経験から言えます。読者も自分なりの方法で構わないので、自分の家に出来る限り御言葉を示すようにして下さい。私たちが今見ている箇所で命じられている通り、そうするのが御心に適っているのは間違いないのですから。

【6:10~15】
『あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い地が満ちた家々、あなたが掘らなかった堀り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。』
 ユダヤ人は、カナンの地を占領すると、幸せに満ち足りるようになります。何故なら、ユダヤ人はカナン人の築き上げた文化的作業品やその地をそのまま利用できるからです。ユダヤ人がカナンに入ると、そこには既に多くの必要なものが備えられています。この時のユダヤ人は、アメリカに入植したピューリタンが一から全てを築き上げたようにする必要がありませんでした。これについて箴言ではこう言われています。『罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。』(13章22節)罪人であるカナン人の財宝やそれ以外の文化的作業品は、やがてカナンに住みつくユダヤ人がそれを獲得するためのものでした。このように悪者たちは正しい者に与えるため努力をします。悪者たちの財宝は最終的に正しい者が所有するからです。それは、この世界の全ては正しい者である聖徒たちの所有物だからです。パウロが聖徒たちに『すべては、あなたがたのものです。』(Ⅰコリント3章21節)と言っている通りです。しかし、この世界の全てが聖徒たちの所有だからといって、聖徒たちが誰かの所有物を犯罪的な仕方で奪い取ってもいいということにはなりません。それは『盗んではならない。』という戒めに違反しています。神の摂理により、聖徒たちには、悪者たちの財産を合法的に自分たちの所有とする時が訪れます。その時が来れば、悪者の財産は自然と聖徒たちの所有になります。

 神は、ユダヤ人がカナンで幸せになったならば、その幸せを与えて下さった神を忘れたり他の神々に帰依したりしないよう命じておられます。それは幸せを与えて下さった神に対するあからさまな忘恩だからです。自分に良くして下さった御方を蔑ろにするというのは無礼であり、誠に大きな罪です。ユダヤ人はむしろ、神を恐れ、神にこそ仕え続けなければなりません。彼らが神を恐れて神に仕えるため、神は彼らをエジプトでの奴隷状態から贖い出して下さったのですから。もしユダヤ人が神を忘れて他の神々を求めるようになれば、神の妬みの炎がユダヤ人に対して燃え上がります。神は『ねたむ神』であられますから、忘恩をし裏切りに走ったユダヤ人たちを嫉妬され、カナンの地から根絶やしにしてしまわれます。ここで次のような疑問が起こるかもしれません。「神は十戒の10番目で嫉妬を禁じられたのに、どうして御自分はユダヤ人たちを嫉妬されるのか。」確かに神は嫉妬を禁じられましたが、それは他人の所有物であることが明白な物を対象にしているのであり、不倫をしている妻(また夫)に嫉妬するのはまた話が違います。確かなところ、もし不倫をしている妻を嫉妬しないのであれば、その夫に妻への愛など存在していないのです。何故なら、妻が他の男と交わってもその夫は動揺していないからです。神が偶像崇拝をするユダヤ人たちを嫉妬されるのは夫が不倫の妻を嫉妬するのと一緒ですから、全く問題ありません。聖書は、神と神の民が夫婦であると教えています(エペソ5:31~32)。

 この箇所における13節目で言われている通り、ユダヤ人は主の御名において誓わねばなりませんでした。つまり、聖徒たちは御名により誓うのであれば誓うことができます。御名によってでさえ誓いは禁止されると考えるのは誤っています。前々から述べている通り、キリストとヤコブが誓うなと命じたのは、御名によらない不正で愚かな誓いを対象としています。黙示録では御使いが神を指して誓っているのですから(黙示録10:5~6)、どうして神の御名によってでさえ誓ってはならないと考えることができましょうか。もし御名によっても誓いが禁止されるとすれば、御使いは黙示録で神を指して誓ってなどいなかったでしょう。誓いを全く禁じる教派は、黙示録の中でまざまざと誓っている御使いに対しても「御使いさん、誓いをしてはならないのですぞ。」などと言えるのでしょうか。天地が引っくり返ってもこのようなことは言えないはずです。

【6:16】
『あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。』
 これはキリストが悪魔を撃退する際に使われた御言葉でした(マタイ4:7)。聖徒がマサでのユダヤ人のように神を試みるならば罪となります。何故なら、神を試みて神の存在や諸々の属性などについて確かめようとするのは、神への不信心に基づいているからです。これは神への侮辱行為となります。ですから、神は聖徒たちがそのようなことをしないよう命じられたのです。この神は全知全能であられる完全な万物の至高者であられます。このような神とその属性などは、試みて確かめることなしに理解され信じられなければなりません。もし人が神を試みるならば神から裁かれてしまいます。荒野でのユダヤ人は「神は我々に肉を備えることができるほどの存在だろうか。」などと言って、愚かにも神を試みました(詩篇78:20)。この呟きを聞いた神は怒られ、ユダヤ人たちに豊かな肉をお与えになりました。ところが、これはユダヤ人が神を試みたことに対する裁きであって、ユダヤ人の多くはこの肉により死んでしまったのです(民数記11章)。しかし、これとは逆のケース、すなわち神が人を試みられることは問題となりません。神はアブラハムを試みられ(創世記22章)、ヨブを試みられ(ヨブ記)、紀元1世紀の聖徒たちを試みられました(黙示録3:10)。もちろん、神は試みられる前から、その人の正体を完全に知っておられます。ですから神が人を試みられるのは無知のためでなく、その人の正体を実際にまざまざと現わさせるためであり、またその人が自分のことをよく知れるようになるためなのです。このように神と人では試みる理由が異なります。神が人を試みるのは良い理由からであり、人が神を試みるのは悪い理由からです。それゆえ、神は人を試みても問題なく、人が神を試みるのは罪となるわけです。

【6:17~19】
『あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。』
 神は、聖徒たちが御自分の命令を遵守するよう命じられます。『正しい、また良いと見られること』とは神の律法に基づいた道徳的な行為を指しています。もしユダヤ人がそうするならば、ユダヤ人は幸せを神から受けられます。この幸せは、物質的な幸せであり、精神的な幸せでもあり、霊的な幸せのことでもあります。そしてユダヤ人は祝福されるのでカナンの地にいつまでも住みつくことができます。また、カナンの地からカナン人たちはことごとく排除されるようにもなります。それはユダヤ人が神の命令を守っているのに対し、カナン人たちは悪を行ない続けているからです。神は御自分の戒めを守る御心に適った正しい者にこそ、御自分の所有地を貸し与え住まわせて下さいます。

【6:20~25】
『後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」』
 ユダヤ人は、自分の子どもが律法に関して尋ねてきたら、それにしっかり答えて神のことを教えねばなりません。それは子どもたちが神についてよく知り、神を豊かに愛するためです。アウグスティヌスも述べたように愛は知識に基づきます。よく知るからこそその対象をより豊かに愛せます。あまり知らなくても愛することは可能ですが、その場合、愛の度合いには上限が設けられることになり、またその愛に高さや深さや広さや奥行が伴わないことになります。もちろん、ユダヤ人はこのように尋ねられた時だけ子どもを教えればいいというのではありません。この箇所では単に尋ねられた場合はどう答えればいいかということが命じられているだけです。ユダヤ人は子どもがこのように尋ねなくとも、いつも子どもに神のことを教育すべきでした。何故なら、そのようにせよと申命記6:7の箇所では書かれているからです。子どもがこのように律法のことで尋ねるのは罪ではありません。その質問は悪い心に基づいていないはずだからです。むしろ、このようにして尋ねるならば親から教えられて神の知識が増えることになりますから、望ましいと言えます。しかも、子が霊的な事柄を尋ねるのは良い兆候である可能性が高いのです。何故なら、こうして尋ねるのは霊的な事柄に関心があるからだと思われるからです。もし全く関心を持っていなければ、何か特別な理由でもない限り、そもそも尋ねたりしなかったでしょう。

 25節目で律法の行ないが私たちの義になると言われている点には、よく注意せねばなりません。これは律法を行なうというその行為が、私たちを義とし救うと言っているわけではありません。それは行為義認ですが、聖書は行為義認を教えていないからです。パウロがはっきりと律法の行為によって義認を得ることはできないと述べた通りです(ガラテヤ2:16)。もし私たちの行為が私たちを義とするのであれば、救いの功績は私たち自身のうちにあることになりますが、そうだとすれば神とその救いなど不要になってしまいます。そうすればもはや宗教などなくても問題ないことになってしまいます。25節目で律法の遵守が私たちの義になると書かれているのは、「私たちが律法を遵守するならば神の御前で正しい者として歩める。」というほどの意味でしかありません。この箇所が行為義認を支持していると考えることは不可能です。それは私たちが律法を守り行なうことなど出来ない話だからです。なるほど、確かに律法を完全完璧に順守できたとすれば、律法の行為により自分自身で義を獲得できるでしょう。ところがソロモンが『罪を犯さない人間はひとりもいない』(Ⅱ列王記8章46節)と言った通り、キリストを除く全ての人間は律法にどうしても違反してしまうのですから、私たちが律法の行為により義とされ救われることは決してできないのです。

【7:1~6】
『あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。』
 神は、これからユダヤ人のために、カナンにいる諸民族をそこから追い払って下さいます。この箇所では、カナンの地にいる7つの民族が挙げられています。これは神がそこにいる諸民族を大いに一掃して下さるということです。つまり、この箇所での『七』という数字は「大いに」という意味を持っています。先の箇所では、カナンの民族として10の民族が挙げられていました(創世記15:19~21)。この「10」という数字も、やはり「大いに」という意味を持っています。カナンにいた民族はユダヤ人よりも『数多く、また強い』民族でした。ユダヤ人が神抜きに立ち向かえば、これらの民族に勝つことは出来ていなかったでしょう。しかし、この時のユダヤ人には宇宙の支配者であられる神が共におられました。それゆえ、この神によりユダヤ人は自分たちよりも多くて強い諸民族を打ち倒すことができたのです。それが既に実現したことは歴史が示している通りです。実に、ユダヤ人のためにカナンの諸民族をカナンの地から追い払うという神の約束は、全く真実な約束だったのです。

 ユダヤ人はカナンに侵攻する際、そこにいる諸民族をことごとく聖絶せねばなりませんでした。彼らの命を奪うばかりか、そこにある偶像や祭儀の道具さえも全て破壊せねばなりませんでした。つまり、ちょうどローマ軍が第一次ユダヤ戦争でユダヤを全滅させたのと同じようにしなければなりませんでした。『容赦してはならない。』と神が言っておられる通りです。ローマ軍も紀元1世紀のユダヤ人に対して全く容赦しませんでした。また、ユダヤ人はカナンにいる異邦人と全く関係を持つなとここで命じられています。彼らの誰かとユダヤ人が結婚するなどもってのほかでした(3節)。もし彼らと縁を結めば、彼らがユダヤ人を偶像崇拝へと引き込むことになるからです。すなわち、サタンがカナン人を通してユダヤ人に働きかけるのです。もしユダヤ人がそのようにして偶像を拝むのであれば、神の怒りにより裁かれて滅びてしまいます(4節)。ですから、神は全く彼らと関係を持たないよう命じられたのでした。私たちが関係を結ぶ存在は、私たちを研ぐ鉄としての存在です(箴言27:17)。私たちが悪い鉄により研がれていびつな形になりたくなければ、その鉄との関係を断つか、そもそもそのような鉄とは最初から関係を持たないようにするしかありません。この時のユダヤ人の場合、神はそもそも最初からカナン人という邪悪な鉄で研がれないようにせよと命じておられます。

【7:6~8】
『あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたがたを贖い出された。』
 旧約時代では、ただユダヤ人だけが神の民として神から選ばれていました。他のあらゆる民族は神の民として選ばれていませんでした。ですから、神の救いは旧約時代においてただユダヤだけにありました。すなわち、旧約時代で天国に入れたのはユダヤ人だけでした。もちろん、異邦人であれば全く神の救いに与かれないというわけでもありませんでした。救いから除外されていた異邦人であっても、ヤハウェに帰依してユダヤ共同体の一員となるのであれば、例外的に神の救いを受けることができました。しかし旧約時代の統計結果などがあるはずもないのですから、実際に旧約時代でどれだけの異邦人がヤハウェに帰依していたのかは全く不明です。しかし、そのような異邦人が全く存在しなかったということはなかったはずです。このように選ばれたユダヤ人は神にとって『宝の民』でした。これは神にとってユダヤ人は宝でもあるかのように尊く高価だったという意味です。実際、主はユダヤ人に対してこう言われました。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』(イザヤ43章4節)神はどうしてユダヤ人を諸民族のうちから選び取られたのでしょうか。この箇所では2つの理由が挙げられています。一つ目は、神がユダヤ人を愛して求められたからです。神は他の民族は愛されず無視されました。二つ目は、神が『あなたがたの先祖たち』すなわちアブラハム、イサク、ヤコブに『誓われた誓いを守られたから』です。確かに神は、アブラハムの子孫たちを神の民として連れ出すと誓っておられました(創世記15:13~14)。神はアブラハムの頃からユダヤ民族を選民として連れ出すように決めておられました。この箇所で言われている通り、ユダヤ人が選び取られたのは、ユダヤ人の数が非常に多かったからというのではありませんでした。それというのも、神がアブラハムにおいてユダヤ民族を御自分に引き寄せるまで彼らはごく少数だったのであり、人数が増えたのは神に選び取られてからの話だったからです。それでは、神がユダヤ人を愛して選び取られた具体的な理由は何だったのでしょうか。この箇所ではそのことについて何も示されていません。ユダヤ人が愛され選ばれたのは、恐らくこの民族が事物についてストレートに告げ知らせる性質を持っていたからだと思われます。ユダヤ人は自分たちの民族が不利になることでも敵にそのまま告げ知らせるほどの大胆さを持っています。ユダヤ人がこのようにすると誰もが唖然としてしまいます。太った女性がいれば「あの太っちょの女性が…」などとありのままに語ります。スファラディであったピーター・ドラッカーの著書を読んでも分かる通り、ユダヤ人は事物をほとんど感情というフィルターで自己流に解釈せず、ただその事物をそのままストレートに認識し語る傾向があります。ですから、ユダヤ人が何か言うとハッキリしていることが非常に多いのです。彼らのこのような性質は、神の真理を公布させるためには正にもってこいです。何故なら、印刷機でもあるかのように神から示された真理をそのまま伝えることができるからです。ですから、神はユダヤ人のこういった性質に着目され、彼らを選び取られたのではないかと推測されます。またユダヤ人が愛され選ばれたのは、彼らが愚かだったというのも理由としてあるかもしれません。今のイスラエルを見ても分かる通り、ユダヤ人は愚かな傾向を持っています。しかし神は愚かだからこそある存在を選び取られる御方です(Ⅰコリント1:27)。ですから、ユダヤ人が「愚かだったから」選ばれたというのは恐らく当たっています。また、新約時代の聖徒もそうですが、聖徒たちが愚かだから選ばれたと言ったり考えたりするのは、全く侮辱とか軽蔑にならないことを私たちは知るべきです。何故なら、既に述べたように神は愚かだからこそ選ばれる御方だからです。もし知性が高ければ多くの聖徒たちは選ばれていなかったかもしれません。知者が知者であるので選ばれていないということよりも、愚者が愚者であるので選ばれていたということのほうが、遥かに良いのです。何故なら、前者は地獄に行きますが、後者は天国に行くからです。それゆえ、旧約時代のユダヤ人や新約時代の聖徒が愚かだから選ばれていたのだと言っても、それはただ聖書が教えている通りのことをそのまま言っているに過ぎず、批判をしているとか見下しているということにはなりません。もちろん、選ばれている聖徒が全て愚かだということはなく、アウグスティヌスやケプラーやニュートンやハイデッカーのような知性の高い人でも神は選ばれることがあるという点を弁えねばなりません。聖書が教えているのは、ただ<傾向として>神が愚かな者を選んでおられるということだけです。それはあくまでも<傾向として>であって<絶対的な意味で>というわけではありません。

【7:9~11】
『あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令―おきてと定め―を守り行なわなければならない。』
 神は『誠実な神』であられますから、ユダヤ人が神を愛して神の命令を忠実に守るなら、それに報いて祝福を与えて下さいます。何故なら、『誠実』であるということは、すなわち御自身のために為された行為を忘れず、それに対して良くする、ということだからです。この世の王は自分によく仕えた僕に報いてやるでしょう。この世の王でさえそうするのであれば、神は御自分の僕たちが忠実だった場合にどれだけ報いて下さるでしょうか。神は聖徒たちが忠実であれば、『千代』の子孫に至るまで祝福を与えて下さいます。神はこのように千代も祝福すると言って聖徒たちを命令遵守へ誘っておられます。『千代までも』良くして下さるというのは十戒の箇所で既に語られていました(出エジプト記20:6)。この『千代』という言葉は祝福が千代限りで止んでしまうという意味ではなく、「いつまでもずっと」という意味です。この祝福の約束は新約時代でも無効になっていません。それゆえ、今でも聖徒たちが忠実に歩むならば神は祝福を千代まで、すなわちいつまでも注ぎ続けて下さいます。これからもこの約束は無効になりません。何故なら、神は報いる神としていつもどこでもこの世界におられるからです。

 神は忠実であれば祝福して良くして下さいますが、ユダヤ人が不忠実であれば滅びの裁きを下されます。ユダヤ人が神を憎んで不忠実になる場合、すぐにも滅ぼされてしまいます。神は『たちどころに報いられる』からです。神はこのように言って威嚇されることで、ユダヤ人が神の命令に背かないようにしておられます。ところが、ユダヤ人はこのように威嚇されたにもかかわらず、神を憎んで不忠実になったので、裁かれて滅ぼされてしまいました。ユダヤ人が裁かれ滅ぼされたのは合計で4回でした。すなわち、アッシリヤ捕囚の時(紀元前8世紀)、バビロン捕囚の時(紀元前6世紀)、アンティオコス4世の時(紀元前2世紀)、第一次ユダヤ戦争の時(紀元1世紀)です。

 このように神はユダヤ人の態度に応じて報いられますから、ユダヤ人は神に服従せねばなりませんでした(11節)。ユダヤ人は自分たちの未来を選び取ることができました。忠実になって祝福された未来を選び取るか、それとも不忠実になって滅びの未来を選び取るか。残念なことにユダヤ人は後者を選び取ってしまいました。新約時代の聖徒たちは、裁かれたユダヤ人を教訓とし、神に忠実にならなければなりません。それは教会が幸いな未来を選び取るためです。

【7:12~16】
『それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。』
 もしユダヤ人が神を愛して神の命令を守るならば、それに応じて神もユダヤ人のために愛をもって恵みの契約を守って下さいます。これは神が報いられる御方だからです。私たち人間は、往々にして誰かが自分に対して取った通りの態度を自分も取るものです。例えば、誰かが不当な怒りをぶつけてくれば多かれ少なかれこちらも怒りっぽくなるでしょうし、誰かが丁重な態度を示せばこちらもそれに応じて丁重な態度となるでしょう。要するに私たちの態度は相手の態度に対する鏡のようです。神の似姿である私たちがこのようにするのですから、私たち人間の元であられる神もそのようなのです。

 もしユダヤ人が神に服従するならば、神はユダヤ人に諸々の祝福を注いで下さいます。まずユダヤ人が神に服従するならば、神は祝福としてユダヤ人を『ふやし』(13節)て下さいます。人的な増殖は神の祝福の一つです。またユダヤ共同体で生まれる人間の子や動物の子、更には新しく生じた産物に至るまで祝福が注がれます。この祝福とは、すなわち不足せず、奇形や病気や虫食いなどといった害もなく、どれもこれも正常であるか非常に良質であるということです。また、ユダヤ人たちは『すべての国々の民の中で、最も祝福された者とな』(14節)ります。これは他の民族が神の命令に聞き従っていないのに対し、ユダヤ人は神の命令に聞き従っているからです。また、ユダヤの共同体には人であれ家畜であれ子を持たない者がいなくなります。これが祝福であることは誰でも分かるはずです。また、神はユダヤ人が病気にかからないようにされ、もし既に病気にかかっていればその病気を取り除いて下さいます(15節)。これについては既に出エジプト記23:25の箇所でも語られていました。むしろ、神はそれらの病気をユダヤ人の敵に与えて苦しめられます。それは敵が罪のゆえに弱まり、ユダヤ人が祝福のゆえに高められるためなのです。また、ユダヤ人は祝福されて神がユダヤ人に定めておられる土地の民族を滅ぼします(16節)。神は祝福によりユダヤ人をその地に住まわせて下さるからです。

 16節目では、カナン人を容赦してはならず、彼らの神々に帰依してはならないと再び命じられています。神がこのように繰り返されるのは、ユダヤ人が万一にもカナン人を憐れんだり、彼らの神々に引き込まれないためでした。つまり事柄の重要性ゆえ神は繰り返しておられるのです。

【7:17~21】
『あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。』
 ユダヤ人にとってカナンにいた諸民族は強く数も多くいましたから、本来であれば勝てる相手ではないので、ユダヤ人には恐れがありました。しかし、神はユダヤ人に恐れるなと命じられます。何故なら、神はかつてエジプトに対して行なわれたようにカナンの諸民族にも行なわれるからです。ユダヤ人は神によりエジプトに勝利しましたが、今度は同じようにしてカナン人どもに勝利できるのです。その際、神はカナン人に『くまばち』を送って撃退して下さいます。熊蜂が襲って来ればたまったものではありません。熊蜂に襲われても平気な人などいるはずがありません。ですから、熊蜂を送って下さる神によりユダヤ人たちの勝利は確実でした。もしユダヤ人が恐れたままでいれば、40年前のように戦う前から敗北することになりかねません。恐れを持っていれば、本当であれば勝てる戦いにも勝てなくなります。ですから、神はこのように言って、ユダヤ人から恐れを取り払おうとされたのでした。なお、この箇所で『くまばち』と言われているのは、何かの象徴表現ではなく、文字通りの昆虫を指しています。実際、神はエモリ人の王を追い払うためにこの昆虫を用いられました(ヨシュア24:12)。

【7:22~26】
『あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまでも忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。』
 神はカナンの諸民族をカナンの地から追い払って下さいますが、追い払うのは『徐々に』してでした。何故なら、すぐにも一挙に追い払うならば、『野の獣が増してあなたを襲うこと』(22節)になるからです。ユダヤ人がすぐにも邪悪なカナン人どもをカナンの地から追い払ってほしいと思ったのかどうか私には分かりません。しかし、たとえ彼らがそのように思ったとしても、神がすぐにカナン人を追い払わないのは意地悪をしておられるからというのではありませんでした。もしカナン人がすぐにも追い払われたら野の獣による危険が起こるのですから、むしろ意地悪をしておられるということになります。神の創造された植物の生長を見ても分かる通り、神は往々にして徐々に事を行なわれる御方です。しかし、私たち人間はせっかちなもので、すぐにも何かが実現されてほしいと思いがちです。ですから、神がなかなか実現させられないと失望したり動揺したりすることにもなるわけです。ところが、私たちがあれやこれやと思っていると、いつの間に実現の時が来て、「やっと実現されたか」ということになるのです。

 神は、カナンにいる諸王さえもユダヤ人たちの餌食として下さいます。王だからといって生かされることはありません。むしろ、王だからこそかえって生かされません。何故なら、王とは一般民衆の代表者だからです。一般民衆でさえ容赦なく聖絶されるのですから、民衆を代表する王は尚のこと容赦なく聖絶されるのです。神はこのように言うことでユダヤ人を力付けておられます。というのも、王さえも打ち負かせると聞かされたら誰が勇気と自信を持たないでしょうか。

 ユダヤ人がカナンを征服する際は、カナン人の偶像に覆われている金や銀を奪い取ってはなりませんでした。それは偶像と共に滅ぼさねばなりませんでした。何故なら、その金銀は偶像の一部だからです。人間の多くは金銀に目がないものです。しかし、だからといって偶像という霊的な汚物に付着している金銀を得ようとしてはなりません。神はユダヤ人が万一にも偶像の金銀を獲得しないように、この箇所で注意しておられます。もしユダヤ人が偶像の金銀を奪い取るのであれば、その金銀により自分たちも偶像崇拝をしてみようかということになりかねません。何故なら、その金銀には自分たちが滅ぼした偶像の記憶が結びついているからです。その金銀をかつてそれが付いていた偶像と切り離して考え取り扱うことは、かなり強い精神力がなければ難しいと思われます。精神力が弱く哲学的な思索にも長けていない多くの民衆であれば、その金銀と観念的に結びついている偶像の誘惑に容易く引き込まれかねません。ですから、偶像に付いている金や銀がここでは『わな』と呼ばれています。神はユダヤ人がその罠に陥らないため、この箇所で偶像をその金銀と共に聖絶せよと命じておられます。

【8:1】
『私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。』
 生きて繁栄できるよう主の命令を遵守せねばならないと再び命じられています。これ以降でも命令遵守については何度も語られることになります。これは命令遵守があまりにも重要だからに他なりません。もし神の命令に聞き従うことがそこまで重要でなければ、幾度となく命令を守れと聖書で書かれていることはなかったかもしれません。ユダヤ人が神に聞き従うかどうかが、ユダヤ民族の未来に直結します。聞き従えば祝福されて存続し、聞き従わなければ呪われて滅ぼされる。ですから、ここまで命令を守るよう繰り返して命じられていたとしても不思議なことはありません。ところで、ユダヤ人が命令遵守により生きて繁栄できたからといって、あたかもそれらの幸いを自ら得たかのように誇ることはできませんでした。何故なら、命令を守ることも含め全ては神の祝福だったからです。これは箴言でこう書かれている通りです。『主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。』(10章22節)

【8:2~5】
『あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。』
 ユダヤ人が荒野で歩んだ40年の歩みは、神がユダヤ人を試みるための期間でした。すなわち、神はユダヤ人を荒野に40年も放浪させることで、彼らが神にどのような態度を持っているのかその正体をまざまざと浮き彫りにしようとされたのです。40年間の放浪そのものはユダヤ人の罪により与えられた裁きでした。しかし、その裁きには彼らを試みて調査するという一面もあったのです。神はこの40年の間にユダヤ人を子として『訓練』されました。その訓練とは、『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせる』ことでした。これはキリストも悪魔を撃退するために使われた御言葉でしたが(マタイ4:4)、この箇所で書かれている『パン』とは文字通りのパンだけでなく地から生じる食物全般を指しています。つまり、ユダヤ人は地から生じる食物というよりは神の言葉という命令により人間が生き、存在し、動くということを学び知るべきでした。何故なら、神がその全能の御力により被造物に命じられなければ、地から食物は生じないからです。荒野でのユダヤ人には食物が天から降って来るマナしかありませんでした。天からのマナしか食物がなければ嫌でも神が自分たちを生かしておられると感じさせられることになります。何故なら、そのマナが神の命令により降っていたことは明らかだったからです。こういうわけで神は荒野でのユダヤ人を『苦しめ、飢えさせ』ました。しかし、それは『訓練』だったのですから神がユダヤ人に嫌がらせをしておられたというのではありません。嫌がらせをしていたというのであれば、それはむしろユダヤ人のほうです。何故なら、選民でありながら神の聖なる言葉を守らず蔑ろにするというのは、ユダヤ人を贖い出して下さった神に対する嫌がらせでなくて何なのでしょうか。

 このように神とは御自分の子たちを懲らしめ訓練される御方です。ユダヤ人は子であるからこそ神からの訓練を受けました。もしユダヤ人が神の子らでなければ神からの訓練を受けていなかったでしょう。『父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。』(ヘブル12章7節)と書かれている通りです。ユダヤ人はこの懲らしめの訓練を蔑ろにしてはなりませんでした。何故なら、その訓練は確かに厳しかったかもしれませんが、憎しみから出ていた訓練ではなく、愛から出ていた訓練だったからです。箴言3:11~12の箇所でこう書かれている通りです。『わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。』

 4節目で『この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。』と書かれているのは、どういう意味でしょうか。まず、これは表現として捉える解釈があります。その場合、これは表現に過ぎず、実際はユダヤ人の着ていた服が擦り切れ、彼らの足も多かれ少なかれ腫れたということになります。これを表現として捉えるならば、この4節目では「神は40年の間、ユダヤ人という民族全体に着物を不足させず、彼らの足もずっと使えるようにしていて下さった。」と言われていることになります。確かにユダヤ人は荒野にいた40年の間、ずっと着物を着ていたでしょうし、その足も健全な状態でずっと使えていたはずです。次に、これを文字通りに捉える解釈も可能です。その場合、荒野の40年間では神が特別な力をユダヤ民族に働かせておられたので、ユダヤ人の着物は害されないようになり、彼らの足も腫れないように守られていたということになります。神が働きかけるのであればそういうことが実現されますから、後者の解釈は別に何もおかしい解釈ではありません。

【8:6~10】
『あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。』
 神が間もなくユダヤ人をカナンの地に入植させて下さるので、ユダヤ人はこの時から既に神の命令を守らねばなりませんでした。何故なら、既にこの時から命令を守れないのであれば、カナンに入ってからも守れるはずがないからです。キリストはこう言われました。『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』(ルカ16章10節)カナンに入る前の段階で命令を守るのは『小さい事』であり、カナンに入った段階で命令を守るのは『大きい事』です。就職でも、まだ入社してはいないものの就職が決まった時点から、その会社の社風や哲学に適うよう自己を改変させるのが望ましいはずです。会社に入ってから初めて色々と変えるのでは遅いと思われます。ユダヤ人がカナンに入って生活するより前から、既にカナンで正しく生活する者のようにすべきだったのは、これと似ています。

 ユダヤ人がこれから入るカナンの地は恵みに満ちた至福の場所でした。エジプトやシナイの荒野とは段違いに良い場所です。そうでなければ『乳と蜜の流れる地』などと言われていなかったでしょう。ユダヤ人がカナンに入って幸せを味わったならば、その幸せを与えて下さった神を感謝と共に賛美せねばなりません。何故なら、その幸せは神のゆえに与えられたのだからです。もしユダヤ人がその幸せを通して神を賛美しなかったとすれば、それは無礼の罪を犯すことです。神はそのような忘恩の徒を忌み嫌われます。人間の間でも、やはり受けた恩に感謝したり良く言ったりしない忘恩の徒は嫌われてしまいます。何故なら、その人には礼儀を弁えるという愛がないからです(Ⅰコリント13:5)。人間の間でさえ礼儀違反の無礼者は嫌われます。であれば義なる神はどれだけ礼儀違反の無礼者を嫌われるでしょうか。

【8:11~20】
『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。―主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。―あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。』
 順境は人を高ぶらせます。万事が上手に進んでいるので自分に全能の力があるかのように錯覚しがちとなるからです。ビル・ゲイツは成功を最も危険視していましたが、これは正しいことでした。彼は、順境により高ぶったので馬鹿なことをした経営者を多く見ていたのでした。また富による繁栄も人を高ぶらせます。何故なら、富があればほとんど何でも実現できるからです(伝道者の書10:19)。ですから富が多くあれば自分に全能性があるかのように錯覚しかねないのです。これゆえ、金持ちの多くは高ぶって自分を知者だと勝手に思い込むのです(箴言28:11)。順境であれば富がなくても高ぶります。富があれば順境でなくても高ぶります。これら2つがあれば尚のこと高ぶりやすいのです。ユダヤ人がカナンに入植すれば、彼らにはこの2つが与えられます。そうすれば順境と富が彼らを高ぶらせ、神を忘れるようになりかねません。そして、神ではなく偽りの神々を拝むようにもなりかねません。これはあってはならないことです。それゆえ、神はここでユダヤ人がカナンに入って幸せを味わってから高ぶらないよう注意しておられます。ユダヤ人はカナンに住むようになってから、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と決して言うべきではありませんでした。何故なら、ユダヤ人が富んだのはただ神の恵みによるからです。すなわち、神が恵まれたからこそユダヤ人には多くの富が与えられたのです。もし神が恵まれなければ、富むどころか、そもそもカナンの地を占領することさえ出来ていませんでした。新約時代の聖徒たちも栄えたならば、決して『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』などと言ってはなりません。私たちのうちから何も良いものは出ないからです。それゆえ、この箇所で高ぶらないよう警告されているのは、今の時代でも有効な命令です。いつの時代であっても良いものは全て神から与えられるのだからです。ヤコブがこう言っている通りです。『すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。』(ヤコブ1章17節)

 もしユダヤ人がカナンに入ってから高ぶりの忘恩を犯すならば、裁きとして神から滅ぼされます。神がカナンの諸国を滅ぼされたのは、カナンの諸国が邪悪だったからです。カナン人が滅ぼされたのは自分たちの邪悪さに対する神からの正当な刑罰でした。ユダヤ人もカナン人のように邪悪になるのであれば、カナン人と同じように滅ぼされてしまいます。何故なら、神は人を裁かれる際に依怙贔屓されないからです(ローマ2:11)。全ては神の義に基づいて依怙贔屓なく裁定されます。また、たとえカナン人であっても神の御声に聞き従っていたとすれば、神は御自分の御声に聞き従うカナン人を滅ぼされなかったでしょう。そのように、ユダヤ人も神の御声に聞き従うならば、決して裁きとして滅ぼされることはないのです。このようにユダヤ人は神に従わないならば悲惨になりますが、神に従わないならば悲惨になるというこの定めはいつの時代でも適用されます。つまり、今の時代でも教会が神に従わないのであれば、教会は悲惨となってしまいます。今の教会は進化論をはじめ神の御心に適わない思想や教理に多く従っていますから、裁かれており、誰が見ても明らかなように悲惨となっています。もし裁かれていなければ、敵にせよ味方にせよ、ここまで多くの人たちが教会の現状について嘆いたり批判したりはしていなかったでしょう。