【申命記9:1~11:32】(2022/02/27)


【9:1~6】
『聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天にそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。』
 既に述べた通り、ユダヤ人にとってカナン人は数も多く強かったので、本来であれば打ち負かせる相手ではありませんでした。またカナン人の城壁も本来であれば突破することは出来ませんでした。しかし、神がユダヤ人を導かれるので、カナン人とその城壁は全く問題になりませんでした。何故なら、至高の神の御前でカナン人たちはノミよりも小さく、彼らの城壁も平ら同然だからです。それゆえ、ユダヤ人には神が共におられるので恐れる必要は塵ほどもありませんでした。神がカナン人を滅ぼして下さるのは『ただちに』でした。実際、もう間もなくするとユダヤ人はカナンに入って侵攻を開始しましたので、確かに神は『ただちに』事を為して下さったのでした。3節目で神が『焼き尽くす火として』ユダヤ人に先立たれると書かれているのは、どういう意味でしょうか。これは神の怒りを示しています。つまり、神はカナン人に怒りの火を燃やしておられるので、ユダヤ人にカナンの地を占領させるべく、裁きとして怒りつつカナン人を根絶やしにして下さるということです。

 ユダヤ人はカナン人を撃破しその地を奪い取れますが、それはユダヤ人が正しかったからでなく、ただカナン人が極度に邪悪だったからでした。ユダヤ人は正しいどころか『うなじのこわい民』と呼ばれています。この40年の間に幾度となく繰り返された反逆行為を考えれば、確かに彼らが『うなじのこわい民』であったことを疑う人は誰もいないはずです。今のユダヤ教徒は、自分たちの肉的な先祖である古代ユダヤ人が反逆的だったという事実に、出来れば目を背けたいはずです。しかし、彼らはその事実を認めねばなりません。神が古代ユダヤに対しハッキリと『うなじのこわい民である』と言われたからです。悪いという点ではユダヤ人もカナン人も一緒でした。ただその悪い度合いが違っていただけです。すなわち、どちらも御前において悪かったのですが、カナン人のほうはユダヤ人よりも桁違いに悪かったということです。ユダヤ人はそのカナン人に対し死刑執行人として神の裁きを代行していただけに過ぎませんでした。

【9:7~21】
『あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだ。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。』
 ユダヤ人はエジプトを出てから40年の間、ほとんど神に反逆することしかしませんでした。もちろん、ユダヤ人が全く神に従わなかったということではありません。反逆的な彼らも、ミデヤン人を滅ぼせとの命令には従いましたし(民数記31章)、安息日の命令にも従っていました。しかし、彼らが神に従うのは、神への純粋な愛に基づいておらず、ただ嫌々ながらでした。ユダヤ人の心は濁った泉のようでした。彼らの心という泉は非常に悪質だったので、そこからぼこぼこと汚い水が度あるごとに噴出するのです。「汚い水」とは不従順のことです。ユダヤ人が自分たちを救い出して下さった神に幾度となく背きながら歩んでいたのは、誠に異常極まりないことでした。ですから、彼らが非難されていたとしてもそれは全く自業自得でした。

 モーセはこの箇所で、ユダヤ人がホレブ山で犯したあの偶像崇拝の事件について思い返させています。この悲惨な事件については、既に出エジプト記の註解で見ておきました。神は偶像崇拝に陥ったユダヤ人を滅ぼそうとし、ただモーセだけを生かして高めようとされましたが、モーセの執り成しによりユダヤ人は滅びを免れたのでした。20節目において『主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされた』と書かれているのは、出エジプト記の箇所では記されていなかったことです。出エジプト記のほうではただ神のアロンに対する怒りが省略されていただけです。神が怒られアロンを滅ぼそうとされたのは当然でした。何故なら、このアロンが民の罪深い願いを聞き入れ、イスラエルにおける偶像崇拝を主導したからです。もしモーセがアロンのために執り成していなければ、アロンは間違いなくすぐさま容赦なく滅ぼされていたでしょう。また、この箇所でも言われている通り、モーセは神の御前に偶像崇拝が犯される前と後で、40日間も留まりました。この時、モーセは合計80日間も飲み食いせずにいました(9、18節)。80歳を超えたモーセがこんなにも長く飲み食いしないでいたというのは、通常であればあり得ないことでした。しかし、この時は神の御前にいたので、そういうことが起こりました。これは神が被造物における命の根源であられるからでした。あらゆる被造物の生命はこの神により生かされ、養われ、存在しています(ヨブ12:10)。命は神に全くその根拠があります。そのような存在であられる神の御前にモーセはいたのですから、80日どころか、たとえ100年であっても飲み食いせずにいることができました。命の泉であられる神の御前にいればどうして生き続けられないということがありましょうか。21節目では、ユダヤ人の造った偶像の子牛そのものが『罪』だと言われています。これは正にその通りでした。何故なら、この偶像は民の罪により出来上がった汚物であり、またこの汚物により民が偶像崇拝という罪を犯すのだからです。ですから、この子牛は正に罪そのものでした。

【9:22~24】
『あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。』
 モーセがユダヤ人たちの反逆について引き続き語っています。23節目で書かれているカナン偵察後の反逆は、特に酷い罪悪でした。何故なら、この罪のためにユダヤ人は裁きとして40年間も荒野を放浪しなければいけなくなったからです。もしユダヤ人がこの時に背いていなければ、すぐにもカナンに入り込めていました。こうしてユダヤ人は自分たちの犯した罪がどれだけ重かったか40年間も思い知らされることになったのです。このようなユダヤ人の反逆について語るモーセは、さぞやユダヤ人のことを苦々しく感じていたに違いありません。というのも、モーセは不良ばかりいるクラスを担当しているので日々悩まされている中学校や高等学校の先生でもあるかのようだったからです。

【9:25~29】
『それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」』
 モーセは、偶像崇拝が起きてから40日間主の御前でひれ伏していた時のことについて、再び話を戻しています。その時にモーセは神の名声に訴えかけ、神がユダヤ人の裁きを思い直して下さるようにと懇願しました。神にはそもそもユダヤ人を滅ぼすつもりなど最初からなかったのですが、モーセが御自分に懇願することを前もって予知しておられたので、その懇願を前提とし、ユダヤ人を滅ぼさないにしても彼らに対してどれだけ御自分が怒っておられるか示そうとして彼らを滅ぼすと言われたのでした。これについては既に出エジプト記の註解で見ておいた通りです。この時にユダヤ人が忌まわしい子牛の偶像を拝むという罪を犯したのは、ユダヤ人がそのようにするよう神が許可されたからでした。もちろん、神はユダヤ人に抑制の恵みを注ぎ、ユダヤ人が偶像崇拝へと陥らないようにすることもできました。しかし、神はそのような恵みをその時は注がれませんでした。偶像崇拝そのものは神の御心に適いませんでしたが、ユダヤ人が偶像崇拝に陥るという出来事の実現は神の御心に適っていました。それは、後の時代の聖徒たちが、この時に偶像崇拝の罪を犯したユダヤ人たちを教訓とすることが出来るようになるためでした。

【10:1~5】
『そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。』
 モーセが民の偶像崇拝に怒って2枚の板を打ち壊したので、神は再び2枚の板をモーセに与えられました。神の文字が書き記された板を破壊するというのは誠に畏れ多いと感じられます。しかし、神はモーセが板を砕いたことについて全く問題視されませんでした。何故なら、モーセが板を破壊したことは、ユダヤ人に対する神の怒りを代弁していたからです。ですから板の破壊は実のところ神の御心に適っていました。神は板の破壊に関し何も言及されないことで、板の破壊を事実上首肯されました。もし板が破壊されなければ神の怒りが示されにくくなっていただろうからです。もちろん、板の破壊が許されたのはあくまでもこの時に限られたのであって、もし日常において破壊すればとんでもない罪悪となっていたことは言うまでもありません。神は、前と同じ文章を今度の板にも書き記されました(4節)。また、モーセは神の命令により、律法の板をアカシヤ材で出来た箱に納めました。これは人間が律法に剥き出しのままでは向き合えないことを示しています。何故なら、もし剥き出しのままで律法と向き合うならば、罪深い人間は律法により呪いを宣告されて死ぬからです。律法の『文字は(人を)殺し』(Ⅱコリント3章6節)てしまいます。この時に使われたアカシヤ材は良質だったと推測されます。また、この箱はモーセ一人だけの手により作られたはずではなかったはずです。すなわち、箱を作る際には協力者がいたはずです。

【10:6~11】
『―イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。―私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。』
 アロンが死んだので子のエルアザルに祭司職が与えられたことについて6節目では書かれています。そして、レビ部族が特別な部族として神から選び取られました。9節目で書かれている通り、レビ部族の相続は神だったので、土地は相続できませんでした。人間的に考えるならば、レビ部族だけ土地を相続できないので損だと思うかもしれません。しかし霊的に考えれば、レビ部族は他の部族よりも遥かに幸いだったことが分かります。何故なら、土地を創造され保持しておられる神のほうが土地よりも良いのは誰の目にも明らかだからです。

 10節目では、モーセが偶像崇拝の事件の後、再び40日間主の御前にいたことが記されています。その時、神はユダヤ人に対する裁きを思い留められました。神がユダヤ人を滅ぼされなかったと言われているのは、これで3度目です(1度目は9:18~19、2度目は9:26~29)。このように神がユダヤ人を滅ぼされなかったと繰り返して書かれているのは、神がどれだけユダヤ人に忍耐して下さったかということを示しています。

 偶像崇拝の事件が終わると、神はモーセにユダヤ人を率いてカナンへと向かうよう命令されます(11節)。この時はまだ放浪の裁きが決定していませんでしたから、このまま行けばカナンの地に入ることができました。ところが、ユダヤ人はカナン侵攻に尻込みしてしまいます。その結果、ユダヤ人からは報いとして40年間もカナンでの至福が取り上げられることになりました。自業自得とは正にこのことです。

【10:12~13】
『イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。』
 モーセは、これからユダヤ人が神の命令に従い正しく歩むよう命じています。神の民が神に服従するのは当然のことだからです。ここで『主のすべての道』と言われているのは律法の戒めのことです。

 この箇所から分かるように、神の命令とは聖徒たちの『しあわせのために』あります。この点を弁えていない人が実に多くいます。多くの人にとって神の命令は何か自分を縛り付ける不快なものでしかありません。しかし、神の命令が私たちを奴隷のように拘束する苦しみの鎖だと認識するのは間違っています。むしろ、それは私たちを幸福にする幸いなものだと認識せねばなりません。何故なら、神は御自分の命令に服従する者を祝福して下さるからです。また、それは鎖どころか私たちを自由にします。何故なら、罪とは律法に従わないことですが(Ⅰヨハネ3:4)、罪は人を奴隷状態にするからです(ヨハネ8:34)。それゆえ、神の命令を嫌々ながら守っている人は神の命令について何も分かっていません。その命令は守れば私たちに幸せを齎すのです。それなのにその人は神の命令を喜びつつ行なおうとしていません。もし神の命令を守れば幸せになると理解できていれば、その人は嫌々ながら命令を守ることなどしなかったはずなのです。私たちが神の命令を喜びつつ行なうためには、神の命令は『しあわせのために』あると理解することが益となります。それを守れば幸せになると分かっていれば、どうしてそれを喜んで行なおうとしないはずがあるでしょうか。まさか、幸せなど別にどうでもいいと思う人はいないはずです。

【10:14】
『見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。』
 ここではあらゆる被造物が神の所有であると言われています。何故なら、被造物を創造された神に被造物の所有権があるのは当然のことだからです。被造物にも被造物が委ねられたり貸し与えられたりしますが、天使であれ悪魔であれ人間であれそれ以外の生物であれ、究極的な所有権を被造物に対して持てる被造物はいません。被造物の究極的な所有権はただ神にのみあります。それゆえ、『川は私のもの。私がこれを造った。』(エゼキエル29章3節)と言ったパロは馬鹿者の中の馬鹿者だったのです。『見よ。』という言葉は、聞いて、知り、それを心に留めよ、という意味です。最初に出て来る『天』とはこの地球における空すなわち大気圏を指していると思われます。次に出て来る『天』はこの地球の天を越えた天すなわち霊的な天のことなのでしょう。その天について『もろもろ』と言われているのは、天に階層があるからだと考えられます。パウロも自分が『第三の天』(Ⅱコリント12章2節)にまで引き上げられたと言っています。この『第三』という言葉は天の階層を示唆している可能性があるのです。最後に出て来る『天』とは霊的な天における上空部分のことを指しているのでしょう。つまり、地球で言えば大気圏の場所に該当します。『地』は詳しく説明する必要がありません。

【10:15】
『主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。』
 神はユダヤ人たちの『先祖たち』すなわちアブラハム、イサク、ヤコブを愛されたので、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるユダヤ人を諸国民のうちから選び取られました。この3人に対する神の愛はその子孫にまで及ぼされたのです。何故なら、ユダヤ人はこの3人の血、遺伝子を持っているからです。もしユダヤ人がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でなければ、神の民として選び取られていませんでした。何故なら、その場合は彼らに何の約束も愛もないことになるからです。神は旧約時代において他の民族を全く愛されませんでした。もし愛しておられたとすれば、他の民族も神の民となっていたはずなのです。

 しかし、神が古代ユダヤ人を愛された理由は何だったのでしょうか。先に見た民族性の理由は神の御計画に関わる事柄でしたから、愛される理由とはあまり関係ないと思われます。とすれば、ユダヤ人が神から愛された理由は私たちに分かりません。ただ愛されたから愛された。これだけしか言うことはできません。これは新約時代の愛された聖徒たちでも同様のことが言えます。私たちは愛されたから愛されたのです。それ以上の理由などどうして分かるはずがあるでしょうか。もし私たちが愛されていなければ愛されていませんでした。というのも愛されていないとは、つまり憎まれているということだからです。

【10:16】
『あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。』
 神は、ユダヤ人が心の包皮を切り捨てるよう命じられます。肉体的に包皮を切り捨てること、すなわち割礼はユダヤ人に対する神の命令でした(創世記17:9~14)。この命令は今のユダヤ人も守っています。神は、ユダヤ人が肉体的な割礼を受けるだけでなく、心にも割礼を受けるべきだとしておられます。何故なら、肉体的な包皮を切り捨てていても、心の包皮を切り捨てていなければほとんど意味がないからです。それでは、『心の包皮を切り捨て』るとは、どういう意味でしょうか。肉体の包皮を切り捨てることは、すなわち肉体の感度が敏感になることです。割礼を受けると刺激という外部からの神経的な命令に感じやすくなるのです。それと同じように心において神の命令という聖なる刺激を受容し易くするというのが、心に割礼を施すという意味です。そうして神の命令という霊的な刺激に敏感になるのであれば、もはやユダヤ人が『うなじのこわい者』あることはなくなります。しかし残念ながら、ユダヤ人は紀元70年に滅ぼされるまで心の包皮を切り捨てることがありませんでした。そして今のユダヤ人もやはり心の包皮を切り捨てていないままです。その証拠として、今のユダヤ人はキリストこそ昔から預言されていた救い主であるという真理を受け入れていません。もし彼らの心に割礼が施されていれば、キリストを預言されていた御方だと信じていたはずです。心の包皮が切り捨てられていれば、彼らは聖書の真理に敏感となっていたでしょうから。

【10:17~18】
『あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。』
 ここでモーセはヤハウェ神が『あなたがたの神』だと言っていますが、確かにヤハウェ神はユダヤ人の神であられます。しかし、ヤハウェ神はただユダヤ人にだけ限定された民族的な神だというわけではありません。旧約時代ではただユダヤ人に対してだけ御自身を神として与えておられただけです。このヤハウェ神は当然ながらヤダヤ人の神であるだけでなく、全人類の造り主であられる神であり、全宇宙世界の創造者であられる神です。もしヤハウェ神がユダヤ人だけに制限されたあくまでも民族的な神に過ぎなかったとすれば、それは何と矮小な存在でしょうか。

 神が『神の神』だというのはどういう意味でしょうか。これは、神があらゆる偽りの神々の上におられるという意味です。パウロが言っているように、『神々と呼ばれるものならば、天にも地にもあります』(Ⅰコリント8章5節)。しかし、『唯一の神以外には神は存在しない』(Ⅰコリント8章4節)のです。たとえ偽りの神々が存在したと仮定しても、神はその神々より無限に高くあられます。次に、神が『主の主』だというのはどういう意味でしょうか。これは、「主」と呼ばれるどのような存在に対しても、神なる主はその上に位置しておられ、支配権を持っておられるという意味です。それは支配者であれ奴隷の所有者であれ夫であれ例外がありません。「主」と呼ばれている者の多くは、神なる主が自分たちの主だということを認めないかもしれません。彼らには好きなように思わせておけばいいでしょう。誰がどのような考えを持とうが、神なる主があらゆる主の主であるという事実は変わらないからです。王であれ管理者であれ夫であれ「主」と呼ばれている人間は、神なる主がその人間を「主」と呼ばれるようにされたからこそ「主」と呼ばれているのです。ですから、その者が御心に適わなければ、「主」と呼ばれているところの地位や職務が取り去られるので、もはや「主」などと呼ばれなくなってしまうでしょう。

 ここで言われている通り、神は『偉大で』あられます。何故なら、神は万物を創造し、保持し、支配しておられる永遠で完全な全知全能の至高者であられるからです。この神は偉大そのものであられます。ですから、「偉大」とは神に似ていることだと定義していいでしょう。偉大さの度合いはどれだけ神に似ているかによります。すなわち、神に似ていればいるほどその人は偉大です。この神が偉大でないと考える人は倒錯しています。神が偉大でなければ一体どのような存在が偉大だというのでしょうか。また神は『力あ』る存在であられます。力は神の所有物です(ダニエル2:20)。あらゆる力はこの神から出ています。何であれ力は神により保たれています。神は力そのものであられます。神はその御力により、この全宇宙を無から生じさせたほどです。ですから神とは「力の神」なのです。また神は『恐ろしい神』であられます。何故なら、神は人間を裁かれる御方だからです。神は人間がこの地上世界で生きている間に裁きを下されます。そして、人間がこの地上世界から死後の世界に行ってからも地獄という裁きを下されます。このような裁きのゆえに神は恐ろしい御方なのです。ユダヤ人たちはこれまで幾度となく神の裁きを目の前で見て来ましたから、神の恐ろしさをよく感じていたはずです。もし神が裁かれない御方だったとすれば、人間は神の恐ろしさをよく実感することが出来ていなかったでしょう。

 神は『かたよって愛すること』のない御方であられます。これについてはパウロもこう言っています。『神にはえこひいきなどはないからです。』(ローマ2章11節)『神は人を分け隔てなさいません。』(ガラテヤ2章6節)ですから、神は聖徒であれ未信者であれ誰かが律法に適った善行をすれば、その人に対して報いて下さいます。善行が行なわれた場合、報いられるのは聖徒だけであるということはありません。こういった意味でここでは神について『かたよって愛すること』がないと言われています。つまり、これは善行に対する祝福の報いのことです。救いの選びについては、話がまた別であって、神の愛に大いなる偏りがあります。すなわち、神はある人をキリストにあって無限に愛されましたが、ある人は愛するどころか無限に憎まれました。これはヤコブとエサウが良い例です。神はこの2人について、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9章13節)と言われたのです。もし神が救いの選びにおいても『かたよって愛すること』のない御方であったとすれば、あらゆる人間は例外なく愛の選びを受けていたことになります。また、神は『わいろを取ら』ない御方であられます。賄賂を取るなと人に命じられた神は(申命記16:19)、御自分が賄賂を取られないからこそ、賄賂を取るなと命じられたのです。神は人間とは違って金銭や物品により決して買収されません。何故なら、神は正しく聖であられるからです。正しい、また聖であるとは、すなわち「賄賂を取らないこと」です。もし神が賄賂を取られるのであれば、もはや神は神と言えなかったでしょう。また、神は『みなしごや、やもめ』といったどうしようもなくなっている惨めな人たちと彼らを虐げる者の間を正しく裁かれる御方です。神は惨めな人たちが惨めだからといって無視されたり、虐げる者のほうに贔屓されたりしません。何故なら、神は憐れみ深い御方だからです。また、神はユダヤ共同体にいる在留異国人をユダヤ人と同じように取り扱って下さいます。神は、彼らがユダヤ人とは違ってアブラハム、イサク、ヤコブの血を持っていないからといって、ユダヤ人よりも低い取り扱い方をされはしません。何故なら、彼らもユダヤ共同体の一員であって、ユダヤ人と同じように神を信じているからです。

【10:19】
『あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。』
 人間には誰でも多かれ少なかれ共帯性が備わっていますから、自分がある集団において大部分を占めるグループに属していれば、その集団における少数派を差別したり低く見る傾向があります。これは「エゴ・コネクション」とでも名付けられるべき精神の自然な性質です。ユダヤ共同体においては、ユダヤ人が大部分を占めており、在留異国人は僅かしかいなかったはずだと思われます。ですから、ユダヤ人は在留異国人を少数派である在留異国人だからというので蔑む方向に精神が傾きやすかったと言えます。しかし、神はユダヤ人が在留異国人を憎んだりしないように命じられます。何故なら、『あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったから』です。つまり、かつて自分たちがエジプトで在留異国人であった際にエジプト人からされたくないと思ったことは自分たちもするな、と神は言っておられるのです(マタイ7:12)。ユダヤ人は自分たちを虐げるエジプト人を喜ばしく思わなかったはずですが、ユダヤ人がそのエジプト人のようになってはいけませんでした。もしユダヤ人が在留異国人を愛さなければ、それは罪となりました。

 この日本の場合はどうでしょうか。私の見る限りでは、日本人は日本にいる在留異国人を蔑ろにし易い傾向がまだまだあると感じられます。実際、在日韓国人だからというので虐められてしまう人が存在します。これはいけないことです。もし私たちが在留異国人を愛さないならば、罪に対する罰として呪いを受けねばなりません。その呪いとしては、例えば日本人が日本人以外の民族を差別するゆえ外国から敬遠されるので、本来であれば外国資本により得られた利益のチャンスを逃してしまったり、外国からの好意や評価が低くなったり、心から豊かな文化性が削がれ偏狭な傾向を持つようになったりしてしまいます。自業自得ですが私たちのした悪は必ず私たちに呪いとして帰って来ることとなります。在留異国人を愛さないのは、この律法に違反しているので紛れもない悪です。このことについて私たち日本人はよくよく弁えねばならないと思います。

【10:20~22】
『あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。』
 モーセは、これからユダヤ人が神に従って忠実な歩みをするようにと命じます。他の神々に帰依するというのは間違っても起きてはなりません。他の神々に帰依しなくても、ヤハウェ神に嫌々ながら服従するということでは駄目でした。何故なら、ここでは『主にすがり』と書かれているからです。『主にすがり』とは、つまり純粋な心で主を求めるという意味です。またユダヤ人は主の御名により誓願を立てなければなりませんでした。これについては既に見た通りです。主以外の存在や偽りの神々により誓願を立てることは禁止されます。

 21節目で書かれている通り、神はユダヤ人の『賛美』そのものであられました。神は、ユダヤ人のためにエジプトで大いなる奇跡を行なって下さいました。ですから、ユダヤ人はそれらの奇跡を覚えて、神を賛美せねばなりませんでした。新約時代の聖徒たちにとっても神は『賛美』そのものであられます。それゆえ、私たちもキリストにおいて神を賛美せねばなりません(ヘブル13:15)。

 ヤコブたちがエジプトに移住した時のユダヤ人は『七十人』しかいませんでしたが、今や神は彼らを100万人以上にまで増加させて下さいました。このようにしてアブラハムに対する神の約束は成就されたのです(創世記15:5)。これはバラムがこう言っていることです。『神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。』(民数記23章19節)確かに神は御自分が約束されたことを実現されます。このため、福音書ではこう言われているのです。『主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』(ルカ1章45節)

【11:1~7】
『あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。―彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。―また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。』
 神は約40年前に、ユダヤ人の前で、大いなる素晴らしい御業を為して下さいました。それは決して忘れ得ない強い印象を齎す御業でした。その印象が、例えば911のテロや311の地震と津波よりも強かったことは間違いありません。何故なら、911や311で起きたのは3~4度の衝撃的な出来事でしたが、出エジプトの際にはその3倍もの衝撃的な出来事が起きたからです。モーセはここでその出来事をユダヤ人に思い返させています。2節目で言われている通り、ここでモーセは40年前にこの御業を見ていたユダヤ人たちだけを対象として語っています。というのも、出エジプトの際に為された御業を見ていなかった若いユダヤ人たちに「あの御業を思い返しなさい。」などと言うことはできないからです。つまり、ここでモーセはこの時に40~60歳だったユダヤ人たちにだけ語りかけています。60歳以上のユダヤ人は、モーセとヨシュアとカレブを除き、既に死んでいました。40歳以下であるユダヤ人にモーセはここで語りかけていません。40歳以下のユダヤ人は数々の奇跡が行なわれた出エジプトの時期にまだ生まれてさえいなかったからです。モーセは40歳以上であるユダヤ人たちに対し、40年前の御業を思い返し、その御業を為して下さった神に服従するよう求めています(1節)。何故なら、神は彼らに御自分の驚くべき大いなる御業をまざまざと示して下さったからです。40年前のユダヤ人は、その御業を通して、神とその偉大さを豊かに感じたのでした。そのようにして御自分を知らせて下さった神に彼らがしっかり服従せねばならないのは当然の義務なのです。もしユダヤ人たちが出エジプトの際にあそこまで神のことを間近に感じておきながら、数々の奇跡を為して下さった神に服従しないとすれば、それは大きな罪となりました。

 確かにこの箇所で語りかけられている対象は、出エジプトの際に生きていた40歳以上のユダヤ人たちだけでした。しかし、彼らがモーセの言葉を聞けばそれだけで良いというわけではありませんでした。彼らは自分たちに語られたこと、すなわち神の大いなる奇跡の出来事を、自分たちの子どもにも語り聞かせねばなりませんでした。それは申命記6:7の箇所で、ユダヤ人は子どもたちに神のことをよく教えねばならないと命じられているからです。そのようにして教えられることでユダヤ人の子どもは神について理解を深め、その結果、ますます神を愛し求め恐れるようにならなければいけなかったのです。

【11:8~12】
『あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらねばならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。』
 もしユダヤ人が神の命令をことごとく守るならば、神から祝福されるのでカナンの地に住むことができ、しかもそこで『長生きすることができ』ます。神は御自分の御心に適った正しい者に、その定められた地を長く喜ばしく相続させて下さるからです。もしユダヤ人が神の命令を守らなければ祝福されるどころか呪われてしまいます。その場合、カナンの地で長生きするどころか、すぐさまそこから追い出されてしまいます。実に、カナン人は神の命令に違反してばかりいたので、カナンの地から追い出されてしまうことになったのでした。

 神はここでどうしてカナンの地でユダヤ人たちが長生き出来るのか説明しておられます。それは、一言で言えばカナンの地に神の祝福が充満していたからです。エジプトでは非常な労苦をしなければ収穫が得られませんでした(10節)。しかしカナンの地ではそれほどの労苦をしなくてもよいのです(11~12節)。このため、ユダヤ人はカナンの地で苦しい思いをせず悠々と長生きすることができるのです。

 神はこのように言うことで、ユダヤ人たちを御自身への服従へと招き導こうとしておられます。何故なら、神は御自分に服従するならば幸せが注がれると言われたからです。幸せが不要だと考えるような人は大変珍しいと思われます。誰でも幸せを得られるのであれば獲得したいと思うのが自然な感情でしょう。ですから、神が服従に対する幸せの祝福を示されたならば、それを聞いたユダヤ人は服従に心を傾けることにもなるのです。これは罰や苦しみが示されたならば、その罰や苦しみを齎す方法や事柄から遠ざかり易くなるのと逆のことです。

【11:13~15】
『もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」』
 もしユダヤ人が神に服従するならば、神から祝福されるので、雨がちゃんと降り、作物をしっかり収穫することができます。『新しいぶどう酒』も与えられます。こうして『食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。』(伝道者の書10章19節)という御言葉が実現されます。また、その祝福はユダヤ人だけでなくユダヤ人の『家畜』にも注がれます。何故なら、家畜とはユダヤ人の一部だからです。ユダヤ人が祝福されるならば、その部分である家畜にも祝福が及ぼされるというのは理に適っています。ちょうど、ある人が天皇か国家から表彰されたので、その人だけでなくその人の家族も周りの人々から良く思われるようになるのと似ています。これはユダヤ人が神を愛して神の御前でしっかりと歩むからです。ユダヤ人がそうするので、神もそれに応じ、ユダヤ人を愛して彼らに対してしっかり祝福して下さるのです。何故なら、神とは人の態度や行ないに報いられる御方だからです。

 服従に対して神から地上的な祝福が注がれるというのは、古代だけのことではなく、今でも変わっていません。何故なら、神は不変の存在であられるからです。『ヤハウェであるわたしは変わることがない。』(マラキ3章6節)と神御自身が言っておられる通りです。それゆえ、次の御言葉は永遠に有効なのです。『謹んで御言葉を行なう者は栄える。』(箴言)神はいつの時代でも、御自身に服従する者に地上的な祝福を注いで下さいます。近代の世界を見ると、どうでしょうか。やはり服従するような者たちが神から物質的な祝福を受けていることは明らかです。キリスト教徒の多い欧米諸国は、全世界に先駆けて近代化の祝福にこれまで与ってきました。オランダとイギリスとアメリカは最も聖書に根差しているカルヴィニズムを受容していたので、神の祝福により力が増し加えられ、諸国に対する覇権を握りました。この欧米諸国も今では相対的に力を落としていますが、これは欧米諸国が段々と聖書から霊的にも精神的にも身体的にも遠ざかっているので、祝福の度合いが低下しているからです。これから欧米諸国が再び聖書に根差すのであれば、神の祝福により相対的な力が取り戻され、再び非欧米諸国を引き離すようになるでしょう。しかし、これからも世俗化の波に抵抗しないのであれば、祝福の度合いが引き続き下がるので、ますます相対的な力を失うことになるはずです。一方、神に服従するどころか偶像や偽りの神々に服従するような国は、神に背いているので、地上的な祝福も少ないままです。これは発展途上国の多くがそうです。我が日本は神に服従していないものの、だからといって偶像や偽りの神々に帰依しているということもなく、国民の大部分は無宗教の立場でいますから、大きな呪いが注がれることもなく地上的な祝福を受けられています。これは日本人の道徳的な行ないや態度が祝福されているからです。もし日本人が意識的な偶像崇拝者すなわち神への反逆者であれば、ここまで地上的な祝福を受けていることはなかったでしょう。もし我々の国が神を崇め神に服従するのであれば、間違いなく地上的な祝福が注がれるので、この日本は欧米諸国を凌駕しその上に立てるかもしれません。何故なら、この日本は神に帰依していない今の状態でさえ欧米諸国と対等の力を持つほどの国だからです。その日本が神に帰依している人々の国になれば、今と比べてどれだけ力が増し加えられることでしょうか。

【11:16~17】
『気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。』
 もしユダヤ人が神に背いて偶像崇拝をするならば、呪われるので天から雨が降らなくなり、そのため産物も収穫できず、ユダヤ人はカナンの地で滅んでしまいます。実に、『みことばをさげすむ者は身を滅ぼし』(箴言13章13節)てしまうのです。神はこのように言って威嚇されることで、ユダヤ人が不敬虔な歩みをしないようにさせておられます。もっとも、ユダヤ人はこのような威嚇の御言葉を聞いていたにもかかわらず、無謀にも背いて裁きを受けることとなってしまいましたが…。

 服従しなければ裁かれ悲惨になるというのは、古代だけでなく、今でもその通りです。何故なら、神は昔だけでなく今でも、そしてこれからも「義なる神」また「裁かれる神」であられるからです。ですから、教会は神の裁きを受けないため神に服従し続ける必要があります。

【11:17~21】
『あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。』
 この箇所で、御言葉を心に刻んだり、印として手や額に置いたり、子どもに教えたり、家に書いたりすると言われているのは、既に命じられていたことです(申命記6章)。これは繰り返しですから、これらの命令が非常に重要であることを示しています。もし重要でなければこのように繰り返されることもなかったと思われます。これらの命令の内容については既に説明済みですから、ここでは省略します。

 もしユダヤ人がこの箇所で命じられている命令を守るなら祝福されますから、カナンの地で長生きすることができ、子孫までも長生きすることができます。これは、この箇所で命じられている命令を守るならば、その結果として神の諸々の命令を大いに遵守することとなり、ユダヤ人に祝福が注がれるからです。長寿は神の祝福の一つです。『天が地をおおう日数のように長くなるため』というのは、つまり「いつまでもずっと」という意味です。何故なら、神のおられる『天』はいつまでもずっと存在するからです。その天が『地をおおう』のですから、その『日数』とはすなわち「永遠」という意味になります。確かにもしユダヤ人が神の命令を遵守するならば、天がいつまでもずっと存在するように、カナンの地でいつまでもずっと住むことができていたでしょう。しかし、ユダヤ人は神に背いたのでそこから追い出されることとなりました。これは正に自業自得と言わねばなりません。

【11:22~25】
『もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。』
 もしユダヤ人が忠実に歩むならば祝福されるので、強くて数多いカナン人を打ち倒すことができ、カナン人の地を占領することができます。どれだけカナン人が多くて手強かったとしても、神のゆえに問題は一切なくなります。何故なら、神の祝福によりカナン人がユダヤ人に対し臆病になるからです(25節)。臆病になった者に何の力がありましょうか。臆病になれば強者でさえ弱者に敗けてしまいます。このためユダヤ人はカナン人に対して勇気を持つべきでした。このことから私たちは知るべきです。多くの人は数や力で勝敗が決まると思っていますが、実は神の祝福と呪いにより勝敗が決まるということを。もしそうでなければ、ユダヤ人が『自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができ』たのは何故だったか説明できなくなります。24節目で書かれている『荒野』とはシナイの荒野であり、『西の海』とは地中海です。24節目で書かれている領土はかなりの広さです。

【11:26~28】
『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』
 モーセはユダヤ人の前に『祝福とのろいを置』いていますが、『置く』とはどのような意味でしょうか。これは「必ずそのようになることをまざまざと示す」という意味です。つまり、ユダヤ人が命令に従うならば祝福を受けられるのは間違いなく、命令に背けば呪いを受けるのは間違いないということです。このようにユダヤ人は祝福されるか呪われるか自分で選び取ることができました。残念ながら、ユダヤ人は呪いを受け取るために背いてしまいました。ここではモーセその人がユダヤ人に祝福また呪いを与えるかのように言われていますが、当然ながら実際にそれを与えるのは神です。ここでモーセは神から祝福と呪いが齎されることを自分の言葉によって宣言しているだけです。

 今の時代の聖徒たちの前にも祝福と呪いが置かれています。もし聖徒たちが神に服従するならば祝福を得、神に服従しなければ呪いを得ます。この点で私たちは古代のユダヤ人と全く変わるところがありません。どちらを取るべきかは言うまでもないでしょう。

【11:29~32】
『あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山には、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるであないか。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。』
 モーセは、ユダヤ人がカナンに入ったならば『ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない』と命じていますが、これはどのような意味なのでしょうか。この2つの山は互いに近く、『エバル山』が北に、『ゲリジム山』が南にあります。この2つの山に祝福と呪いを置くというのは、つまりユダヤ人がその歩み次第で祝福を受けるか呪いを受けるか決まるということについて確認させるため印としての意味を持つ儀式です。このような儀式を行なうことで、ユダヤ人は自分たちの歩み次第で祝福か呪いを受けるということについて強く感じさせられます。これは、成人式に参加することで自分が成人になったと強く感じられるのと似ています。もちろん、ユダヤ人がこのような儀式を行なわなくても、神の祝福また呪いがしっかり注がれることに変わりはありませんでした。成人式も同様であって、別に成人式に参加しなくても成人になったことに変わりはありません。しかし、こういった儀式を行なうのであれば、その儀式で示されている事柄に関しより強い認識を持てるようになるので益となるのです。ユダヤ人にとって祝福と呪いの認識は非常に重要でしたから、神はこういった儀式により彼らが祝福と呪いの認識を強く持てるようにされたのでした。この儀式が行なわれている出来事はヨシュア8:30~35の箇所で記されています。

 モーセはここでもユダヤ人が命令に服従するようにと命じています。ここまで命令に従えと幾度となく命じられたのを私たちは見てきました。これはこれからの箇所でも繰り返して命じられます。このような繰り返しを見て、聖徒である者は決して煩わしいと思うべきではありません。ヴォルテールのような呟いてばかりいる死人は飽き飽きさせたまま放っておけばよいでしょう。彼らは神の真理のない文書を楽しんでいればいいのです。私たちはむしろ、このような繰り返しを見て、どれだけ神に服従することが重要であるのか感じ取り、服従の重要性について認識を新たにすべきなのです。