【申命記12:1~15:4】(2022/03/06)


【12:1~4】
『これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。』
 モーセは再びユダヤ人が神の命令に従うよう命じています。このように命令を守れと繰り返して命じるモーセは、どれだけユダヤ人の命令遵守を願っていたことでしょうか。モーセは神を愛していたので、その神の所有される民をも愛していたのです。モーセはもしユダヤ人が敬虔に歩めるのであれば、千度死んだとしても構わないと思っていたはずです。実際、モーセはユダヤ人が赦されないようであれば地獄に行くことさえ覚悟したほどでした(出エジプト32:31~32)。パウロもモーセと同様、神の民に対する真の愛を持っていました。パウロはユダヤ人がキリストに帰依するのであれば、自分が『キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ』(ローマ9章3節)願ったほとでした。つまり、ユダヤ人がキリスト信仰を持つならば地獄に行っても構わないと。

 ユダヤ人がカナンの地に入ったならば、そこにある偶像と偶像崇拝の場所をことごとく滅ぼし尽くさねばなりませんでした。つまり、偶像の記憶を全く抹消させねばならないのです。これは前にも見た通り、ユダヤ人が万一にも偶像崇拝に引き込まれてしまわないためでした。神は偶像を滅ぼすことについて『ことごとく必ず』と命じておられます。塵ほども痕跡を残さないようにしてやらねばならなかったのです。このように敬虔のためには徹底性が求められます。何故なら、少しでも罪のパン種が残っていれば、そのパン種がやがて膨らむことになるからです(Ⅰコリント5:6)。

 4節目で命じられている通り、ユダヤ人は神の御前でカナン人のように偶像崇拝を行なってはなりませんでした。これは当然のことです。何故なら、自分たちを贖い出して下さった御方を偶像崇拝により裏切るというのは、とんでもない忘恩の罪だからです。これはユダヤ人が正常な民であれば別に命じる必要もなかったことだと思われます。しかし、ユダヤ人は正常な民ではありませんでした。彼らは『うなじのこわい民』だったからです。それゆえ、神は彼らに偶像崇拝をするなとお命じになったのでした。

【12:5~7】
『ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。』
 ユダヤ人が神に捧げ物を捧げる際は、勝手気ままな場所で捧げてはなりませんでした。そうではなく、神が指定される場所にまで行き、そこで捧げ物を捧げなければなりません。その場所とはエルサレムです。この時にはまだその場所が定められていませんでした。ですから、ここでは未来に実現されることが語られています。ユダヤ人がエルサレムで捧げ物を捧げるならば、彼らは主の御前で大いに喜び楽しむべきでした。何故なら、神が彼らに収穫を恵み深く与えて下さったからこそ、その収穫のうちから捧げ物を捧げることができたからです。

【12:8~14】
『あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。』
 この時のユダヤ人は、捧げ物を自分たちの欲する場所で好き勝手に捧げていました。8節目で彼らが好きなようにしていると言われているのは、文脈から考えれば、捧げ物を捧げることについてだと思われます。彼らが捧げ物を捧げること自体は何も問題ありませんでした。問題なのは場所と適切さでした。

 ユダヤ人がカナンの地で安息を得るようになったら、神が『御名を住まわせるために選ぶ場所』すなわちエルサレムに行き、そこで捧げ物を捧げなければいけません。この時はまだエルサレムに行っていませんでしたから(9節)、まだ正規に捧げる場所が定められていなかったので、『かって気ままな場所で』捧げ物を捧げていたとしても許容されるべき面がありました。何故なら、それは仕方がなかったからです。しかし、正規に捧げる場所が定められてからは、もう好き勝手な場所で捧げることは許されなくなります。というのも、犠牲行為を好き勝手に行なうのは、秩序がなく神聖さに適っていないからです。神聖さと秩序は密接に関わりがあります。それゆえ、これからユダヤ人は正規の場所で定められた通りに聖なる捧げ物を捧げねばならないのです。ユダヤ人がエルサレムで捧げ物を捧げる時は、先にも述べた通り、『主の御前で喜び楽し』まなければなりません。喜び楽しむのは『すべての手のわざ』(申命記12章7節)です。それは神が恵んで下さらなければ、収穫が与えられていなかったので捧げ物を捧げることも出来ていなかったからです。また、その時は、その人に属する人たち、すなわち『息子、娘、男奴隷、女奴隷』も共に喜び楽しむべきでした。何故なら、その人に神が与えて下さった収穫による恩恵は、その人に属する人たちもその人と共に与かるからです。まさか、自分に齎された収穫をただ自分だけが享受し、全く家族や奴隷などに享受させようとしないほど貪欲な人はユダヤ人のうちにいなかったはずです。であれば、その人に属する人も喜悦を共有すべきだったことになります。

 ユダヤ人は、自分に属する人たちだけでなくレビ人とも喜悦を共有せねばなりません。何故なら、レビ人には『相続地の割り当てがない』のであり、貧しい人も多くいたからです。レビ人と一緒に喜び楽しむと言っても、ただ精神的に喜び楽しめばいいというのではありません。物質的な意味でも共に喜び楽しまなければならないのです。それは申命記14:28~29の箇所を見ても分かります。もしユダヤ人が全くレビ人と共に喜び楽しまなければ罪になりました。それは律法に違反しているからです。

【12:15~16】
『しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。』
 ユダヤ人は、日常生活において動物を屠って食べることができました。神が肉食を許容しておられるからです。この箇所で日常における肉食が記されているのは、祭儀行為において動物を屠る場合と区別させるためです。すなわち、日常生活では動物を屠って好きな場所で食べて良いのですが、祭儀行為においては動物の肉を好きな場所で食べることが許されません。祭儀の肉は規定された通りの場所でレビ人と一緒に食べなければいけません(申命記12:18)。この2つの場合を混同したり逆にしたりしてはいけないのです。神がここで『賜わった祝福にしたがって』肉を食べて良いと言っておられるのは、「各々が神から受けた恵みに応じて相応しく」という意味です。つまり、少しだけ祝福を受けた人はその受けた分に応じて少しだけ食べますが、多く祝福された人は多く受けているので多く食べても良いのです。また、神が肉を『いつでも自分の欲するとき』に食べて良いと言われたのは、アダムに対し神が『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。』(創世記2章16節)と言われたのと同じです。神は寛大な御方なので、人間に御自分の御恵みを心の赴くままに享受させて下さるのです。しかし、肉を食べて良いといってもその血まで食べてはなりません(16節)。血の禁止についてはこれまで何度も述べましたから、ここでは省略して問題ないでしょう。

 この箇所から分かるように、聖書は全く肉食を否定していません。個人的な好みや健康上の理由から肉を食べないのは個人の自由ですが、神は肉を食べて良いと言っておられます。ですから、肉食を思想的に嫌悪している人たちは全く間違っていることが分かります。その人たちが神は肉食を許しておられると聞いても肉食を思想的に否定し続けるのであれば、自分が神になっています。もし神を神としていたとすれば、少なくとも思想的な肉食否定は捨てていただろうからです。私たちは神の御心を知っていますから、腐っていたり人間の肉だというのでもない限り、好きな肉を楽しんで食べたらよいのです。そして神に恵みを感謝すべきです。そうすれば神の栄光が現わされるからです(Ⅰコリント10:31)。

【12:17~19】
『あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人とないがしろにしないように気をつけなさい。』
 ユダヤ人は、祭儀における肉を日常の肉と同様にして食べられませんでした。それはエルサレムでレビ人と共に食べなければいけないからです。儀式の肉を普通の肉として扱うことは出来ない話です。もしそうするならばそれは罪となります。これは初歩的なことですが重要なことですから、神は注意を促しておられます。

 ユダヤ人は、レビ人が相続地を持っていなかったり貧しかったりするというので、レビ人を蔑ろにし喜悦を共有しないということがあってはなりませんでした。人間には貧しい人を低く見る性質があります。ソロモンが『貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。』(箴言19章7節)また『寄るべのない者は、その友からも引き離される。』(箴言19章4節)また『貧しい者はその隣人にさえ憎まれる。』(箴言14章20節)と言っている通りです。これとは逆に人間は金持ちであれば尊ぶ傾向を持っています。『富む者を愛する人は多い。』(箴言14章20節)と書かれている通りです。しかし、レビ人が経済的また土地的に貧しいからといって蔑ろにするのは大きな罪でした。何故なら、レビ人の相続地は神なのであって、彼らは神のために祭儀を担っている人たちだからです。それゆえ、レビ人を蔑ろにするのは、彼らと共におられる神を蔑ろにするのも同然でした。ユダヤ人はむしろレビ人の貧しさを考え、レビ人に積極的な善を行なうべきでした。神の働き人を蔑ろにする者は死ぬか悲惨になります(Ⅱ列王記2:23~24、民数記12章)。

【12:20~25】
『あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない。』
 ユダヤ人がカナンに住みついたならば、肉を好きなだけ食べても良いと神は言っておられます。神の寛大さは無限です。それゆえ神は、このように肉を食べることについて制限を付けておられません。しかし、肉を好きなだけ食べたら身体に悪いのではないか、と思う人がいるかもしれません。確かに肉を沢山食べたならば身体に悪いかもしれません。最近では赤肉が大腸癌の原因になるなどと言われることもあります。神は聖徒たちの健康を考慮しておられないのでしょうか。否、そういうことはありません。神は聖徒たちの健康がどうでもいいからこう言っておられるのではありません。神は、人間に思慮が備え付けられていることを知っておられます。人間はその思慮により食べすぎを自分で自制することができますから、神はそのことを考慮され、自制についてはここで何も触れられませんでした。教会はこれまで好きなだけ食べることを非難してきました。ブリンガーも有名な「第二スイス信条」の中で大食を罪悪として非難しています。しかし、実のところ非難されるべきは大食ではなく大食を非難することでした。何故なら、神は聖徒たちに対し、この箇所で肉を食べたいだけ食べて構わないと言っておられるからです。この箇所では肉について言われていますが、これが肉以外の食物にも当てはまるのは言うまでもありません。ヴァン・ティルも聖書は大食を禁止していないと正しく述べました。一度も誤ることのなかったキリストもたらふく食べられました。ですから、愚かなパリサイ人たちはキリストを「大食漢」と言って非難したのです(マタイ11:19)。教会はどうしてこれまで食べたいだけ食べることを非難し罪悪として見做してきたのでしょうか。それは古代ギリシャ哲学の影響でしょう。プラトンをはじめ古代ギリシャの哲学者たちは、精神を身体よりも重んじていたので、その多くが大食を身体に属する行き過ぎた行為として嫌悪していたのです。しかし、聖書にこのような考え方はありません。「食べたいだけ食べて神の恵みを味わい感謝し、神の栄光を現わせ。」というのが聖書の教えていることです。健康に気をつけるのは個々人の知恵と意思に任されています。

 この箇所でもまた血が禁止されています。血の禁止に関する内容はもう書かなくてもよいでしょう。私がここで見ておきたいのは、血の禁止におけるその重要性です。ここでは『血を食べてはならない。』と3度も言われています。ここまで血の禁止については何度も書かれていました。そして、ここでもまたその禁止命令が書かれているうえ、今度は3回も禁止の言葉が繰り返されています。これは神がどれだけ血の飲食を忌み嫌っておられるかということを示しています。ですから、血を食べることは本当に大きな罪でした。これは新約聖書からも分かります。使徒たちは異邦人クリスチャンに対する禁止命令を宣言した際、血を不品行と併せ並べて禁止しました(使徒の働き15:29)。つまり、血の飲食は不品行にも劣らないほどの大罪だということです。私たちも血を食べるべきではありません。それは明らかに食物として創造されていないのですから。

【12:26~28】
『ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたがたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。』
 祭儀で屠られる動物の血は祭壇に注がねばなりません。動物を屠る際、全焼の生贄であればその全てが焼かれますから、肉は人間に与えられませんでした。しかし、それ以外の生贄は血を祭壇に注げばそれでよく、残りの肉は人間に与えられます。動物の血を祭壇に注ぐのは、罪の贖いのためです。『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない』(ヘブル9章22節)からです。とはいっても、神が動物の血を欲しておられたというのではありません。神にとって動物の血そのものは何も意味を持ちません。ただその血が小羊なるイエス・キリストの血を表示しているからこそ意味があったのです。

 ユダヤ人はこれら動物に関する命令を守らねばなりません。それを守るならば祝福されて、子孫たちまでもずっと幸せを享受できるようになるからです。神は御自分の命令に聞き従う者に祝福を与えられます。しかし、ユダヤ人が神の命令を守らなければ祝福はありません。その場合、ユダヤ人には呪いが注がれます。ですから、子孫たちもずっと不幸を味わうことになってしまいます。

【12:29~31】
『あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求め、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。』
 カナンに入植したユダヤ人は、カナン人の神々を決して求めてはなりませんでした。何故なら、もしユダヤ人がカナン人の真似をすれば、子どもたちをカナン人の神々に火で捧げるようになるからです。この箇所で書かれているように、カナン人は『自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえした』のでした。このように注意されたユダヤ人でしたが、やがて異教徒たちの真似をし、愚かにも子どもたちを火で焼いてしまいました。このため彼らは神に裁かれて滅ぼされました。すなわち、イスラエル王国はアッシリヤという裁きの代行者により、ユダ王国はバビロンという裁きの代行者により。

 カナン人はこのようにとんでもない巨悪を行なっていました。この悪は民族的に行なわれていたはずです。すなわち、ある少数の者だけが子どもを偽りの神々に火で捧げていたというのではなかったでしょう。それは古代ギリシャ人の間に同性愛が普遍的に存在していたのと同じです。古代ギリシャの統計結果はありませんが、古代ギリシャで同性愛、ことに少年愛が一般的だったのは、古代ギリシャの著作を読めば分かります。カナン人は民族的にこういった巨悪を犯していましたから、神に裁き滅ぼされても文句は言えませんでした。何故なら、子どもを火で偽りの神々に捧げるという行為をしている民族がどうして裁かれないままで済むでしょうか。そういった民族は滅びを免れません。それゆえ、神がカナン人を滅ぼされたことは非難されるべきではありません。神はカナン人を正しく裁かれただけなのですから。カナン人が子どもを火で焼いていたというのであれば、ユダヤ人のカナン侵攻に否定的な人も、押し黙るか多かれ少なかれ侵攻を認めざるを得ないのではないかと思われます。何故なら、子どもを火で焼いて捧げるというのは明らかに裁かれるべきことだと誰が理解できないでしょうか。こんなことが許されていいのでしょうか。もしユダヤ人のカナン侵攻に否定的な人がカナン侵攻を批判するならば、「ではカナン人が子どもを焼いている悲惨な状況をそのままにしておけばよかったのか。」と言われてしまうことになります。つまり、カナン侵攻の否定は事実上カナン人の悪を容認することです。もしユダヤ人がカナン侵攻をしていなければ、カナン人はずっと子どもを火で焼き続けていたでしょうから。「いや、カナン人の悪を容認するということは決してない。」と侵攻否定派の人は言うかもしれません。確かに彼らが子どもを捧げることについて容認することはないはずです。しかし、侵攻を批判するとカナン人の悪が事実上容認されてしまいます。つまり、カナン侵攻を批判する人たちは、カナン人がどのような悪を行なっていたか知らないことになります。もしカナン人が子どもを火で焼いていたと知っていれば、ユダヤ人がカナンに侵攻したことの正当性を多かれ少なかれ認めていただろうからです。

 このカナン人を見ても分かる通り、人間の行為はその奉じている神また神々に基づいています。すなわち、ある神を奉じているからこそその神のためにある行為をするわけです。カナン人は邪悪な神々を奉じていましたから、その邪悪な神々のために邪悪なことを行なっていました。イルミナティは悪のルシファーを崇拝していますから、そのルシファーのために悪いことを企み行なっています。その奉じている超越的存在が悪ければ悪いほど、その行為も悪くなります。これとは逆に、その奉じている神が正しければ正しいほど、その人の行為も正しくなります。何故なら、その人は正しい神のために正しいことをするからです。これは、多くの善を行なった使徒たちや、腐敗していたローマ・カトリックを攻撃し教会を建て直そうとしたルターを考えれば分かります。

【12:32】
『あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。』
 モーセはまたも神の命令を遵守するようユダヤ人に命じています。ここまでの箇所を見ても分かる通り、モーセは本当に何度も何度も命令を守れと繰り返しています。これは神の命令を守ることがどれだけ重要かということをよく示しています。ユダヤ人は神の命令に付け加えたり、そこから減らしてはなりませんでした。何故なら、それは神の命令から神の御心を排除することだからです。例えば、誰かが『殺してはならない。』という命令に「ただし極度に怒った場合は除く。」と付け加えたとします。その人は極度に怒った際、人を殺すでしょう。これは命令において神が求めておられることを蔑ろにしています。また、誰かが『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。』(出エジプト20章17節)という命令から「妻」という部分を除いて減らしたとします。その人は命令を勝手に改変させたので、隣人の妻を積極的に欲しがるかもしれません。これは神の命令から神の御心を取り除くことです。このようにする人たちはもはや神の命令に従っていません。彼らは神にではなく自分の意志に従っています。このように御言葉を改変する人たちの最期は火の池です。これは黙示録22:18~19の箇所からも分かります。パウロも御言葉に聞き従わないような者は神の国を相続できないと述べています(Ⅰコリント6:9~10)。

【13:1~5】
『あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがた心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。』
 ユダヤ共同体のうちに『預言者または夢見る者が現われ』、ユダヤ人に『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。』と言って偽りの神々に引き込もうとしたならば、その誘惑者を死刑に処さねばなりませんでした。何故なら、その者はユダヤ人をその贖い主であられる神から引き離そうとしたからです。神が御自身の所有の民として買い取られた人々を神から離そうとするほど悪いことが他にあるでしょうか。このような誘惑者が死刑になるのは行き過ぎだと思うならば、その人は肉の人です。しかし、死刑になるのが当然だと思うのであれば、その人は霊の人です。このような悪い者を殺すべきだったのは、ユダヤ共同体のうちから『この悪を除き去』るべきだったからです。聖なる神の集団のうちに、このような反逆の悪が少しでも存在してはいけませんでした。この律法から考えるならば、カルヴァンがセルヴェトゥスを殺したのは正しかったと言えるかもしれません。何故なら、あの悪魔は異端の神観を持っており、本を書いてその神観に聖徒たちを引き込もうとしたからです。これは聖徒たちに対して、『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。』と言うのも同然でした。彼の信じていた神は出鱈目な神であって、聖徒たちの信じていた神とは別物の神だったからです。この箇所で言われている『預言者』とは未来に起こる事柄を前もって神の御名において語る人のことです。『夢見る者』も預言者であり、夢の中で神が預言を自分に示されたと語る人のことです。この箇所で注目すべきは、この誘惑者が自分の真正性を示すため証拠としての奇跡を行なうということです。悪い預言者でも証拠としての奇跡を行なうというのは、キリストの御言葉からも分かります(マタイ7:22~23)。確かに奇跡はその人が神から遣わされた使者であることを証拠づけるものです。キリストも、御自分が父なる神から遣わされた聖なる使者であられることを示すため、証拠としての奇跡を数多く行なわれました。ですから、誘惑者が奇跡を行なうのであれば、少なからぬ人たちが「もしかしたら本当にこの人は真の預言者なのかもしれない。」と感じることにもなります。しかし、彼らは奇跡を行なっているものの偽の預言者でした。何故なら、彼らはヤハウェ神から聖徒たちを引き離そうとしているからです。もし本当にヤハウェ神の預言者であれば、どうして聖徒たちを神から引き離そうとするのでしょうか。しかし、もし彼らがますます聖徒たちを神に近付けようとしていたとすれば、彼らは本当に真の預言者だったでしょう。何故なら、その場合、彼らは正しいことを言っており、自分たちの真正性を奇跡により証明したからです。キリストがマタイ24:24の箇所で言われた『にせキリスト、にせ預言者』は、この箇所で言われているのと同類の徒です。

 神が、このような誘惑者の出現を許可されるのは、彼らによりユダヤ人の信仰を試すためでした(3節)。もしユダヤ人が本当に神を愛していれば、誘惑者に騙されはしないでしょう。しかしユダヤ人が神を愛していなければ、誘惑者に引き込まれて偽りの神々を拝むでしょう。神は別にこのように試みられなくても、ユダヤ人の真の姿を全て御存知であられます。しかし、神はこのように試みることで、ユダヤ人の本当の状態が実際にまざまざと現わされることを望まれるのです。というのも、神はこの世界を実際的な存在として創造されましたから、実際の現われを重視されるからです。もし実際に何かが現われたならば「なるほど、確かにこうなのだな。」などと確認できるからです。

【13:6~11】
『あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。』
 非常に近い関係の者が異教徒の神々へと誘惑してきた場合でも、やはりユダヤ人は耳を傾けてはいけませんでした。何故なら、使徒が言ったように聖徒は『人に従うより、神に従うべき』(使徒の働き5章29節)だからです。その誘惑者がどれだけ親しい者であっても関係ありません。聖徒たちは神を人よりも優先させねばならないからです。もし聖徒たちが神なる主よりも人を優先させるならば、主に相応しくありません。それは主がこう言われた通りです。『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。』(マタイ10章37節)これも神が聖徒たちを試みるために起こされた出来事です(3節)。すなわち、神は聖徒たちの信仰を確かめようとして、聖徒たちの親しい者が聖徒たちに誘惑することを許可されました。もし聖徒が神を隣人よりも愛していれば、誘惑に陥らないでしょう。しかし聖徒が神よりも隣人を愛していれば、誘惑に陥るかもしれません。もし聖徒がその親しい誘惑者の誘惑に合意しなければ、その誘惑者は気分を害するかもしれません。多くの人は親しい人の気分を害したくないと思うものです。しかし、たとえ誘惑者の気分を害したとしても、聖徒たちは神のほうを優先しなければいけません。ここに信仰の試練があるのです。

 ユダヤ人は、たとえ誘惑者が親しい者だったとしても、その者を死刑に処さなければなりませんでした。何故なら、その者はとんでもない悪を行なったからです。信仰と神への愛を強く持っていない人であれば、その親しい者をかばったり同情したくなったかもしれません。しかし、神はその罪人を全く憐れむなと命じておられます(8節)。もし憐れむならば罪となりました。神の命令通りにしていないからです。その罪深い誘惑者を殺す際は、まずその誘惑者に誘惑された親しい者が手を下します。親しい者がまず最初に死の打撃を加えるというのは、その誘惑者が本当に誘惑をしていたことの証明となるからです。もしその誘惑者が本当は誘惑しておらず、単に人々の誤解から問題が起きたに過ぎなかったとすれば、親しい者は最初に自分で手を下すことなど出来なかったはずです。その親しい者が前からその者を罪人に仕立て上げて殺そうと企んでいたというのであれば話は別ですが、それは例外的なケースですから、この箇所ではそういった場合について言及されていません。この箇所では事実として誘惑が行なわれたケースについて語られているのです。次に他の者たちが罪深い誘惑者に手を下します。つまり、親しい者が第一に手を下すのは、これから皆で公同的な死刑が開始されるという合図でした。この死刑を皆で行なう際、人々がどのぐらい参加すべきだったかは何も指示されていません。報知によりただ自然に集まるままに任せておけばそれでよかったと思われます。このように皆で死刑を行なうのはイスラエル人の教育の意味がありました。多くの者がこの死刑に参加すれば、イスラエル全体に神を人よりも優先させねばならないという霊的な通念が生じるからです。また、この死刑には『石』が使われます。これは前にも述べましたが、石であられるイエス・キリストの裁きがその者に下されることを意味しています。もし誘惑者が親しい者だからというので死刑にしなければ、ユダヤ共同体の全体が呪われることになります。何故なら、その誘惑者を生かしておいたために、多くのユダヤ人が誘惑へと陥ることになるだろうからです。

 このように誘惑者を人々が皆で死刑にするのは、イスラエル人に抑止力を生じさせる意味がありました(11節)。もし皆で罪人に手を下すのであれば、イスラエル人が罪への抵抗感と罰への恐怖感を持つようになるからです。

【13:12~17】
『もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その街の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。』
 カナン入植後にユダヤのある町で反逆的な誘惑者が出現した場合は、その町を何もかも聖絶せねばなりませんでした。少したりとも何かを残しておくことは許されませんでした。全てを殺し、全てを滅ぼし、全てを焼かねばなりませんでした。手加減することは罪となりました。仲間の町だからといって関係ありません。何故なら、聖絶すべき対象に手加減するのは、聖絶を齎す原因となった悪を多かれ少なかれ首肯・許容することだからです。ニュースでたまに見る通り、危険な猛毒のウィルスがある家畜に生じた場合は、その家畜のいた建物にいる他の家畜も殺処分され、その建物全体が洗浄されるか閉鎖されます。反逆的な誘惑者はこの猛毒ウィルスと似ていますから、その誘惑者が出た町の全てを聖絶せねばならないのです。また、その町は見せしめのため廃墟とされ、再建が禁止されます(16節)。しかし、聖絶する前には入念な調査をして悪の事実を確定させねばなりません(14節)。誘惑者が出たという事実の確定をもって聖絶が決定されます。本当は誘惑者が出ていないのに、誤認に基づいて聖絶が行なわれたら取り返しがつかなくなるからです。

 誘惑者の発生した町にあった物は全て『広場の中央に集め』、例外なく焼き尽くさねばなりませんでした。それをユダヤ人が自分たちの所有にすることは許されません。たとえ喉から手が出るほどに欲しい高価な宝物があっても駄目でした。何故なら、その町にある物はことごとく神の怒りの対象物でしかないからです。それは獲得すべき対象物では全くありません。もしそれを獲得するならば大きな罪となります。それを全て焼き尽くすことで神の怒りが鎮められますから、神はそのようにしたユダヤ人たちを祝福して下さいます(17節)。また、その町は火の海にしなければなりません。そこは反逆という罪で汚染されたので火により清められなければいけないのです。このような裁きを考えるならば、神がどれだけ反逆の罪を忌み嫌っておられるか理解できるでしょう。つまり、神が反逆の罪を極度に忌み嫌っておられるからこそ、反逆者の出た町にはこのような厳しい裁きが下されるわけです。

【13:18】
『あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。』
 モーセはまたここでも命令を守るようにと命じています。モーセは本当に何度も何度も命令を守れと繰り返しています。何故なら、ユダヤ人は正しい民として歩むため神から特別的に贖われたのだからです。もしユダヤ人が神の命令に背けば、神の目的がユダヤ人において全うされなくなってしまいます。

【14:1~2】
『あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。』
 ユダヤ人は旧約時代において『主の子ども』でした。何故なら、神はキリストにおいてユダヤ人を買い取り、御自分の子どもにして下さったからです。今「キリストにおいて」と言いましたが、こう言ったのは、キリストによらなければ人は神の子となることが全くできないからです。ですから、キリストにより神の子とされたユダヤ人たちはキリストを持っていました。その証拠として、彼らはやがて来たるべきキリストを指し示す動物の犠牲を神に捧げていました。しかし、ユダヤ人が『主の子ども』だと言っても、それは生来的な意味での子どもではなく、あくまでも養子としての子どもです。というのも、彼らはキリストにより神の子どもとされるまでは神の子どもではなかったからです。生来的な意味で神の子であるのはキリストだけです。御子キリストは、永遠において父なる神から生まれた神の御子であられるからです。古代ユダヤ人はこういった意味での子どもではありませんでした。新約時代ではキリスト者が『主の子ども』です。かつて神の子であったユダヤ人は今やクリスチャンでもない限り、神の子ではなくなっています。

 また、旧約時代のユダヤ人は『主の聖なる民』でした。これはユダヤ人がキリストにおいて贖われ、神から買い取られたからです。神から買い取られたとは、神と契約的に一体になるということです。神は聖なる存在です。それゆえ、神と契約的に一体になるというのは『主の聖なる民』になるということでした。ユダヤ人がそのような民にされたのは、神が『地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた』からです。他の民族である異邦人は例外なく神に選ばれませんでした。ですから、旧約時代において異邦人は救いのない汚れた民族でした。この箇所でユダヤ人が『宝の民』と言われているのは、先に見た申命記7:6の箇所でも言われていました。新約時代ではキリスト者が『主の聖なる民』です。ペテロもキリスト者が『聖なる国民、神の所有とされた民』(Ⅰペテロ2章9節)だと述べています。それは、キリスト者がキリストにより贖われて神との契約に入ったからです。今のユダヤ人はもう『主の聖なる民』ではなくなっています。何故なら、彼らは贖い主イエス・キリストを否認している反キリストなのですから。今のユダヤ人は今でも自分たちが神の民だと思っているかもしれません。しかし、キリストを持たないのに神の民だと自認するのはとんでもないことです。

 今見たようにユダヤ人は神の子ども、神の民でしたから、『死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりして』、自分自身を害してはなりませんでした。神は聖であられ少しの傷さえ持っておられません。ですから、そのような神に似るべく、ユダヤ人はたとえ人が死んでも悲しみや後悔から自分で自分を損ねてはなりませんでした。ユダヤ人は自分たちの父であり主であられる聖なる神に似ているべきなのです。もしユダヤ人が他の民族に倣って自分を損ねるのならば、神の民に相応しくありません。それは御心に適わないことです。それゆえ、ユダヤ人が自分を損なうことは罪になります。新約時代の聖徒たちも、自分の身を損ねるべきではありません。私たちも旧約時代のユダヤ人と同様、神の子どもであり神の民だからです。パウロは新約時代の聖徒が神の神殿であると言っています(Ⅰコリント3:16)。私たちが神の子ども、神の民であるだけでなく『神の神殿』でもあるならば、どうして私たちが神殿である自分の身を自分で害していいでしょうか。もし私たちが自分という神殿を害するならば神から滅ぼされることにもなってしまいます(Ⅰコリント3:17)。

【14:3~8】
『あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。反芻するもの、または、ひづめが分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。』
 レビ記11章で語られていた食物規定が、ここでも再び語られています。レビ記でこの規定が語られた対象は不信仰だった前の世代のユダヤ人でした。今やもうそのユダヤ人たちは全て死に絶え、ユダヤ人は新しい世代へと切り替わっていました。ですから、その新しい世代のユダヤ人を対象として再び食物規定が語られるのです。モーセがこの規定を語る対象はレビ記の時とは異なりますから、厳密に言えば申命記におけるこの食物規定は繰り返しではありません。これから書かれている食物規定は既に見たレビ記11章の規定と同じですから、ざっと見るだけでよいでしょう。

 まずは野の獣に関する規定から語られていますが、これはレビ記11:2~8の箇所と対応します。こちらのほうでは食べてよい野の獣が具体的に列挙されています(4~5節)。レビ記のほうでは食べてよい動物が具体的に挙げられていませんでした。今やもうこの規定は廃止されていますから、新約時代の聖徒たちは豚を食べることができます。しかし、ユダヤ教徒は今でもこの規定を有効だと勘違いしていますから、豚を食べることができません。何と惨めなことでしょうか。彼らもキリストを信じて救われるならば、私たちのように豚肉を食べて神に感謝を捧げることが出来るというのに。

【14:9~10】
『すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。』
 次は水の生物に関する規定ですが、これはレビ記11:9~12の箇所と対応しています。こちらのほうがより簡潔で短い内容となっています。この規定も既に無効となっていますから、今や神の民はタコであれイカであれ、また食べたいというのであればイルカや鯨でさえ、食べても構わなくなりました。今のユダヤ教徒は、たとえ日本に来ても、たこ焼きや焼きスルメの楽しさを味わえないので惨めです。もう神は海の生物を何でも食べてよいとしておられるのです。

【14:11~20】
『すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。』
 最後は鳥や昆虫に関する規定ですが、これはレビ記11:13~23の箇所と対応しています。こちらのほうでは昆虫に関し短く語られていますが、レビ記のほうでは昆虫について具体的な記述がされていました。鳥については微妙な違いがあり、「とび」についてレビ記では『とび』と書かれているだけですが、申命記では『黒とび』また『とびの類』と書かれています。また「はやぶさ」についてレビ記では『はやぶさの類』と書かれていますが、申命記では『はやぶさ』と書かれています。

【14:21】
『あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼らがそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。』
 ユダヤ人は、たとえ清い動物であっても『自然に死んだものを、いっさい食べてはな』りませんでした。何故なら、それは食べる目的をもって殺された動物ではないからです。食べられるのは食べる目的をもって意図的に殺された動物に限られます。そのような目的無しに死んだ動物を食べるのは罪であり、汚らわしいことでした。ユダヤ人は『主の聖なる民』でしたから、そのような汚れたことをしてはいけませんでした。しかし、その肉を在留異国人に与えるのであれば問題ありません。彼らはユダヤ共同体の一員であるものの、本来的な意味における神の民ではなかったからです。本来的な意味で神の聖なる民であったのはヤコブの血を持った人々だけでした。また、その肉を外国人に売って食べさせても構いませんでした。何故なら、外国人は汚れた民でしたから汚れた肉を食べるという汚れたことをしても、別にどうでもよかったからです。「汚物は汚物にまみれて勝手にしているがよい。」というわけです。

『子やぎをその母の乳で煮てはならない。』
 これは出エジプト記23:19、34:26の箇所でも命じられていた戒めです。既に見た通り、この戒めにおける本質は憐れみです。神はこのように繰り返すことで、この戒めが聖書でよく目につくようにされました。神はどうしてそのようにされたのでしょうか。それは神の民が憐れみに心を傾けるようにさせるためでした。というのは、キリストがこう言っておられるからです。『あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。』(マタイ5章7節)神はユダヤ人が憐れみ深い者になるのを望まれましたから、このようにこの戒めが聖書でよく目につくように繰り返されたのです。

【14:22】
『あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。』
 ユダヤ人は、神から与えられる収穫の1割を神に捧げねばなりませんでした。例えば、レタスを100玉収穫すれば10玉を捧げ、アーモンドを100kg収穫すれば10kgを捧げます。キリストの時代のパリサイ人は、この戒めに従い、自分に与えられた収穫の10分の1をどれも捧げていました(マタイ23:23)。10分の1を捧げることは正しかったので、キリストもそれについては非難されませんでした。1割を捧げる対象は神です。その1割は神に捧げられるので神の所有となります。そして、神はそれを御自分に仕えるレビ人に分け前として与えられます。これがレビ人の収入となりました。彼らは神に仕えていますので自分が仕えている神から報酬を受けるのです。もし収穫の1割を捧げなければ罪になります。それは律法に違反しているからです。これが罪であることの理由をもっと具体的に言えば、それは神の所有物を盗んでいるからです。聖徒たちの収入のうち1割は神の所有物です。ですから、その1割を神の所有物として聖徒は神に返さねばならなかったのです。マラキ時代のユダヤ人は1割を神に捧げておらず、神の所有物を強奪していたので、神から断罪されてしまいました(マラキ3:8~12)。また、この『十分の一』には意味があります。サムエル記では、王が民から十分の一を税として取り立てるならば、それは王が民を奴隷化することだと示されています(Ⅰサムエル記8:17)。つまり、ユダヤ人が1割を神に捧げるのは、ユダヤ人が神の奴隷であるという証拠としての意味を持っていました。実際、ユダヤ人は神の奴隷でした。パウロも神の民でしたが自分のことを『主の囚人』(エペソ4章1節)と言っています。こういうわけですから、ユダヤ人が収穫を1割以下しか捧げなければ、それは受け入れられませんでした。9.999%でも駄目です。それではユダヤ人が神の奴隷であるという印にならないからです。しかし、1割以上であれば過剰に捧げても問題はなかったと思われます。何故なら、1割を全うしてさえいれば、過剰に捧げても神の御心を損なうことはないはずだからです。むしろ、1割を超えて過剰に捧げるのは、別にしなくても問題はありませんでしたが望ましいことです。例えば2割を捧げる人がいれば、高慢なパリサイ人のように周りに見せるため捧げているのでもない限り、本当に敬虔で神を愛している人だったのだろうと思います。この十分の一の定めについてはレビ記27:30の箇所でも語られていました。

 新約時代の聖徒たちも、既に多くの教会でそのようにされていますが、収入の1割を神に捧げねばなりません。何故なら、この戒めの内容は普遍的だからです。神は、御自分の民である古代ユダヤ人が御自分の所有物である十分の一を捧げて返すよう命じられました。神が御自分の民の十分の一を捧げるよう求められるのは、永遠の御心であって、明らかに時代に左右されることではありません。新約時代の神の民はキリスト者です。ですから、私たちも古代の聖徒たちと同様に十分の一を神に捧げるべきなのです。あるディスペンセーション主義の教会は、この戒めを無視し、信徒たちに1割の献金を求めていません。その教会はパウロがⅡコリント6:6~7の箇所で『少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』と言った御言葉に基づき、信徒に自由な献金を指示しています。つまり、定期献金の額また割合は各々が自分で決めた通りにすればよいと。これは明らかに御心に適っていません。何故なら、このように指示すれば、自由な額を献金すればいいというので、1割以下しか献金を捧げない神に対する霊的泥棒が現われかねないからです。マラキ書3章によればそのような人は呪われてしまいます。ですから、十分の一を指示しないというのは有り得べからざることです。

【14:23~26】
『主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。』
 ユダヤ人がカナンに入植したならば、『主が御名を住まわせるために選ぶ場所』すなわちエルサレムに献納物を持って行き、それを御前で食べ喜ぶべきでした。エルサレムに行けるのであればそうせねばなりません。しかし、エルサレムが遠すぎるならば、『あなたの神、主の選ぶ場所』すなわち神が祭司を通して示される場所に行きます。そして本来であればエルサレムに持って行くべきであった献納物を金に換え、その金で自分の望むものを買います。それから、金で買ったものを指定された場所で食べ、主の御前で家族揃って喜ばねばなりません。神は距離を考慮されるので、エルサレムから離れた場所に住んでいるユダヤ人にはこのように配慮して下さるのです。それというのも『神は愛』だからです。愛とは配慮することでなくて何でしょうか。しかし、エルサレムに行ける者がエルサレムに行けるのにもかかわらず、エルサレムに行けない者のために定められた場所へと行って御前で喜び楽しむことはできませんでした。何故なら、それは明らかに適切ではないからです。例えは良くありませんが、それは自分の家のトイレを使えるのに、何故か遠くにあるコンビニや公共施設にあるトイレまでわざわざ行くようなものです。ユダヤ人がこのようにするのは、『いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶため』でした。ユダヤ人は神の民としていつも神を恐れていなければなりません。そのためには、このようにしてエルサレムで御前において献納物を食べて楽しむのが益となるのです。何故なら、そうすればユダヤ人は神の恵みがなければ自分たちに何も存在しないということを多かれ少なかれ感じさせられるからです。

 26節目では、金で換えるべき食物として『ぶどう酒、強い酒』が含まれています。つまり、神は聖徒に飲酒を、しかも『強い酒』さえ飲むことを許しておられます。このことから分かる通り、教会が飲酒を禁止するのはとんでもないことです。誤ったことのないキリストでさえ酒を飲まれたのです。パウロが『酒に酔ってはいけません。』(エペソ5章18節)と命じたのは、単に多くの罪を引き寄せる悪しき泥酔を禁止しているだけであって、飲酒そのものを禁止しているのではありません。履き違えもいいところです。

【14:27~29】
『あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。』
 レビ人を蔑ろにするなと再び命じられています(申命記12:19)。何故なら、『彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないから』です。地上的に言えば、土地の割り当てがなかったレビ人は土地の割り当てがあった他の部族よりも恵まれていません。土地の所有は地上的に言えばあまりにも大きな意義と益があるからです。ですから、土地を持つ他の部族は、自分たちよりも恵まれていないレビ人と地上的な喜びを共有しなければいけませんでした。すなわち、他の部族はレビ人と献納物を食べて一緒に喜び楽しまねばなりません。しかし、霊的に言えば、神という相続地を持つレビ人は他の部族よりも恵まれています。ですから、霊的な領域ではレビ人が自分たちよりも恵まれていない他の部族を教え、導き、養わなければなりませんでした。これはレビ人以外の部族が地上的すなわち物質的な意味でレビ人に良くするのと対応しています。このようにしてユダヤ人はそれぞれに足りない部分を補い合うのです。

 ユダヤ社会では、3年ごとにその年の収穫における1割を、レビ人や孤児、寡婦といった貧しい人たちのため差し出さなければいけませんでした。『貧しい者をあわれむ人は幸いだ。』(箴言14章21節)と言われた神は、御自身が貧しい者を憐れむ御方です。何故なら『神は愛』だからです。このためユダヤ人も神のように貧しい人たちを憐れまねばならないのです。というのも、神の民は神に似ているべきだからです。この十分の一は嫌々ながらでなく喜んで差し出さねばなりません。嫌がりつつ差し出すのは律法の精神に適っていないからです。キリストも言われたように律法の本質は『正義』『あわれみ』『誠実』です。また、パリサイ人のように見せつけるようにして差し出すこともすべきではありませんでした。何故なら、それは偽善であって、聖書で明白に禁止されていることだからです(マタイ6:1)。誰でも自分が善を行なわれる側だったとすれば、嫌がってされたり見せつけるためにされたりすることは出来れば起こらないでほしいはずです。善を行なわれる側でありながら善を行なってくれる人に何かを指示するのは難しいうえ僭越なのですが、当然ながら、理想を言えば喜んでされるのが誰であっても望ましいと思うはずです。ですから、聖徒たちも3年ごとの1割を心から差し出すべきでした(マタイ7:12)。この3年ごとの十分の一は、先に申命記14章22節の箇所で見た十分の一と同様、不足してはなりませんでした。不足すれば憐れみの精神がそこに印として現われないからです。しかし、先の場合と同様、1割を満たしていれば過剰になるのは問題なかったはずです。いや、それは問題ないどころか非常に望ましかったでしょう。その人は本当に貧しい人を気にかけているからです。なお、これは「勧め」ではなく「命令」であったという点に注意せねばなりません。ですから、3年ごとに収穫の1割を差し出さないのは罪となりました。

 ユダヤ人が神の命令通りに3年ごとの1割を差し出すのであれば、神がユダヤ人の『手のわざを祝福してくださる』ので、ユダヤ人は物質的に繁栄することができました。神は、貧しい者に良くする者に良くして下さるからです。神は、この命令を守るユダヤ人のうちに「憐れみ」という御自分の性質が現われているのを御覧になられます。このため3年ごとに1割を捧げるユダヤ人は祝福されたのです。というのも、神は御自分の性質を現わすためにこの世界を創造されたからです。この命令を守るユダヤ人は、世界創造における神の目的を自分自身のうちに実現させています。ですから、そのようなユダヤ人は神の御心に適っているゆえ祝福されないはずがありませんでした。この命令の本質である貧しい人への憐れみは、昔だけでなく今でも、これからも、永遠の先までも神が聖徒たちに望んでおられることです。それゆえ、私たちも貧しい人たちに良くしなければいけません。そうすれば必ず祝福が私たちに与えられるでしょう。貧しい人が貧しいからというのでその人に高ぶってはなりません。それは神の忌み嫌われることです。

【15:1~4】
『七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。』
 神はユダヤのうちに貧しい人がいなくなるのを望まれるので、7年ごとにユダヤ人の間で借金が免除されるよう命じられます。そうすればユダヤ人のうちには借金で悩んだり、苦しい生活をしなければいけなくなる人がいなくなるからです。たとえ借金の額がどれだけ大きくても例外はありません。借りている人からすればこれは望ましいことですが、借している人のうちには不満を持つ人も出るかもしれません。この箇所では『主が免除を布告しておられる。』と言われることで、そのような不満が言葉や態度に出ないようにされています。何故なら、主が免除を命じておられるとすれば誰も異議を唱えることはできないからです。もし不満を爆発させて異議を唱えるならば、反逆者として神から裁かれるでしょう。不満を持ったからといって誰が裁かれたいと思うでしょうか。もしユダヤ人が7年ごとに借金を帳消しにしなければ罪となりました。ただし、外国人の場合は話が別です。外国人に対する借金は免除しなくても問題ありません。何故なら、この戒めは本来的な意味で純粋な神の民に対して向けられているからです。外国人はたとえユダヤ共同体の一員であっても、本来的な意味における神の民ではありません。彼らは例外的にユダヤ人と一緒にいるだけであって、本来的には救いから除外されている異邦人だったのですから。

 ユダヤ人が7年ごとに借金を免除すればユダヤ人は『必ず』祝福されます(4節)。神はこのように祝福を約束されることで、ユダヤ人が借金の帳消しを進んで行なえるようにしておられます。何故なら、借金を帳消しにすれば必ず祝福されると聞けば、帳消しに対する抵抗感が全く消え去るか、そうでなければ多かれ少なかれ和らぐことになるからです。もし帳消しにすれば祝福されるので、やがて帳消しにした分と同等の分が神から与えられるか、または帳消しにした分以上の分が神から与えられる、と期待することができます。こうであれば誰が進んで帳消しにしようとしないでしょうか。少なくとも帳消しにしたその時点では経済的な損失が生じるかもしれませんが、やがて神の祝福によりその損失が補填されるか、その損失を上回る分が天から与えられることになるのです。