【申命記15:5~18:8】(2022/03/13)


【15:5~6】
『ただ。あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。』
 モーセはまた命令を守るようユダヤ人に繰り返しています(5節)。この箇所で言われている通り、ユダヤ人が命令を守るならば祝福されるので、ユダヤ人は諸国の上に高められます。それは権威においても尊厳においても力においても富においても、です。ですから、ユダヤ人が命令を守るならば、多くの国々に貸すことになりますがその逆は起こりません。神がユダヤ人に諸国を凌駕した富を恵み与えられるからです。また、ユダヤ人は『多くの国々を支配する』ことにもなります。神がユダヤ人たちに他の国々を越えた力と権力を与えて下さるからです。これはダビデとソロモンが支配していた頃のユダヤ王国で実現しています。しかし、それ以降はその不敬虔のため周りの国に支配されることしかありませんでした。神はこのような祝福を約束することで、ユダヤ人が命令に喜び進んで従うよう働きかけておられます。

 この箇所で約束されている命令遵守に対する祝福は今でも有効です。今の時代の聖徒たちも命令を守るならばやはり祝福されるので、他の国に優越することができます。オランダとイギリスとアメリカを見て下さい。神の御心を最も行なうことのできる思想的土台であるカルヴァン主義を受容したので、祝福されて強大な覇権国家になることができました。またヨーロッパの諸国を見て下さい。キリスト教・聖書を受容していたので祝福され、世界に先駆けて近代化の恩恵を享受することができました。一方、キリスト教や聖書など全く無縁であるような国々を見て下さい。その多くはあまり祝福されていないように思える国々ばかりです。今では非キリスト教の国々が台頭しており、キリスト教の欧米諸国も相対的な力を落としていますが、それは先にも述べた通り、欧米諸国が不敬虔な傾向になっているので祝福を徐々に失っているからです。もし今でも欧米諸国が敬虔さを求めていたとすれば、祝福が減ることもなかったでしょうから、このような状態にはなっていなかったはずです。私たちは思い違いをしないようにしましょう。支配できるのは命令遵守に対する祝福なのです。多くの人が思っているように支配の要因は力や富ではありません。勿論それも第二次要因としては否定されませんが、第一次要因は神の祝福にあります。すなわち、第一次要因として神の祝福があるからこそ力や富を持てるので、その力や富を第二次要因として支配のために用いることができるのです。

【15:7~11】
『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた。」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」』
 ユダヤ社会では、貧しい兄弟を憐れみ物質的に助けなければいけませんでした。何故なら、その人は『兄弟』であり『神の家族』(エペソ2章19節)だからです。兄弟である家族を助けることについて詳しく説明する必要はないでしょう。もし貧しい兄弟を助けなければ罪となりました。たとえ助けても、嫌々ながらであったり偽善からするのであれば罪となります。もし誰も助けないのであれば、その貧しい人は神に不満と嘆きを訴えることができます。すると、助けようとしなかったユダヤ人は『有罪』となります。有罪になるというのは裁かれるということです。この箇所で『心を閉じてはならない。』と書かれているのは、「憐れもうとしないことがあってはならない。」という意味です。『手を閉じてはならない。』と書かれているのは、「貧しい兄弟に貸し与えないということがあってはならない。」という意味です。しかし、先に見た第7年目の免除が近づいていれば、ユダヤ人は貸し与えることに抵抗を持つかもしれません。何故なら、貸し与えても第7年目になれば、その貸し与えた金銭や物品は戻って来なくなるからです。しかし、第7年目が近づいているからといって、貧しい兄弟を憐れまなくていいなどと神は言っておられません。それは自分の都合であって、そうするならばその人は憐れみのない人だということになるからです。ですから、神は、貸し与える際は第7年目の免除を考慮しないようにこで注意しておられます(9節)。もし第7年を考慮せず貧しい兄弟に施すならば、神がその人を祝福されるので、大いに繁栄することができます。このためユダヤ人はたとえ第7年の免除があと3日に近付いていたとしても、貧しい兄弟を大いに助けねばなりませんでした。そうすれば3日後には貸し与えた金銭や物品が定めにより返されくなってしまうものの、やがて神がその貸し与えた分を埋め合わせて下さるか、貸し与えた分以上の分を恵み与えて下さるのです。というのも神は人の善行を見ておられ、その善行を覚えておられるからです(ヘブル6:10)。こういうわけでユダヤ人は第7年の免除を考えないで貧しい兄弟に善を行なうべきでした。

 今の聖徒たちも、貧しい人、ことに兄弟である貧しい人を憐れまねばなりません。そうするのが御心に適っているのは間違いありません。使徒たちも貧しい人たちのことを心にかけていました。しかし、憐れまなければ神の御心に適うことはありません。ところが、今では教会も世の声に影響されて「もし援助などをすれば自分で立つ力を失わせるだけだ。」などと言うようになってしまいました。まだ教会が世俗化していないアウグスティヌスの頃にはこんなことは言われていませんでした。私は言いますが、このようなことを言い、憐れみの業をしないというようなことがあってはなりません。もちろん、怠惰なので貧しくなっている人については話が別です。パウロもそのような人には『働きたくない者は食べるな。』(Ⅱテサロニケ3章10節)と言いました。しかし、このように言われるべきでない貧しい人にまで、つまり貧しい人全般に対し、今の教会は憐れみの心を閉ざしている感があります。これはいけないことです。実に、教会がこのようなことを言って憐れみを閉ざしているからこそ、今の教会は人々を惹きつけず、評価されたり感嘆されたりすることもないのです。実際に今の教会は私の言った通りの状態になっているのですから、誰も私の言ったことを否定することはできません。教会の内部の人間であるジョージ・ラッドでさえ、「今の教会は世から無視されている…。」などと嘆いたではありませんか。ガンディーは原始教会については評価し認めていましたが、近代の教会には不信感を抱いていました。J・S・ミルも同様に原始教会には感嘆としていますが、近代の教会はあまりにも原始教会と異なっているので驚き残念に思っていました。ヴォルテールも同様です。これは明らかに最近の教会が貧しい人を憐れんでいないからです。教会は貧しい人たちに心を傾けなければなりません。そうすれば教会は再び昔のように評価されるようになるでしょう。昔の教会は大いに憐れみの業をしており、例えば大きな災害などで多くの人が苦しめば器や儀式用の道具といった教会の財産を売ってまで施しをしていましたから、世の人々は教会の善行を認めないわけにいかず、そのため多くの人たちが教会に惹きつけられたのです。

【15:12~18】
『もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいて、しあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、主は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる。』
 約40年前に語られたユダヤ人奴隷の定めが、ここでも再び語られています(出エジプト記21:1~6)。この時には40年前と世代が総代わりしていますから、このように再び語られることとなりました。出エジプト記の箇所でも言われていた通り、ユダヤ人の奴隷は7年目に自由の身として解放されねばなりません。これは勧めではなく命令ですから、奴隷主は必ず奴隷を解放してやらねばなりません。もしそうしなければ罪となります。解放が『七年目』にされるのは、「7」ですから安息を示しています。7年に満たなくても7年が完全に過ぎ去ってからでも駄目でした。「7」という数字に意味があるからです。解放の際には、奴隷だったユダヤ人に主人が自分の所有する財産を与えてやらねばなりませんでした。これはどうしてかと言えば、ユダヤ人という民族全体がそのようになったからです。神は出エジプトの際に奴隷であったユダヤ人を財産付きで解放して自由の身にして下さいましたから、ユダヤ人も自分の奴隷であるユダヤ人に対してそうすべきでした。何故なら、神の民は神に似ているべきであり、神に倣うべきだからです。ユダヤ人は神から贖い出されて神の似姿としての状態が回復された民族なのですから、彼らが神に似なければならないのは当然のことです。なお、奴隷を自由の身にする時は、その奴隷が自分のもとから離れるというので冷たくしてはなりませんでした。何故なら、『彼は六年間、雇人の賃金の二倍分あなたに仕えたから』です。自分のもとで良くしていた奴隷を解放する際に酷くするのは非人道的です。

 しかし、その奴隷が奴隷として留まることを希望したのであれば、奴隷でい続けることができました。これは、その奴隷があくまでもそのように希望すればの話です。奴隷の主人が奴隷として留まるよう強制したり勧めたりすることはできませんでした。そのようにすれば罪となったでしょう。何故なら、ユダヤ人は出エジプトの際、エジプトから解放されることを自発的に求めたからです。神はユダヤ人がエジプトから出ることを無理強いさせませんでした。ですから、奴隷の主人は神に倣い、奴隷が奴隷として留まるかどうかは奴隷に委ねなければいけませんでした。実際に奴隷のまま留まるユダヤ人がどれだけいたかは不明です。しかし、このような定めが立てられていた以上、奴隷として留まるユダヤ人が全くいなかったということはなかったと思われます。奴隷として留まる者の耳を刺し通すというのは既に出エジプト記の箇所で見た通りです。

【15:19~23】
『あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。もし、それに欠陥があれば、足なえか盲目など、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない。あなたの町囲みのうちでそれを食べなければならない。汚れた人もきよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。』
 既に語られていた通り、牛や羊の初子は神に捧げねばなりませんでした(出エジプト記13:12)。何故なら、初子の所有権は神にあるからです。もし初子を捧げようとしなければ罪となります。たとえその初子が奇跡的に素晴らしい個体だったとしても、捧げないことがあってはなりませんでした。それは神の所有物だからです。例えば、誰かから1000万円のダイヤモンドを預かっている人がいて、そのダイヤモンドがあまりにも素晴らしいからというので預け主に返さないことがあっていいでしょうか。当然あってはなりません。もし初子が良質な個体だからというので神に捧げるのを拒むというのであれば、それは1000万円のダイヤモンドを預かっている人がそのダイヤモンドを返さないのと一緒です。それは犯罪であり誰も認められないことです。また神に捧げる初子は、自分の仕事のために勝手に使ったり、その毛を刈ったりしてはなりませんでした(19節)。それは神の所有物として捧げるための動物ですから守り養うこと以外には何もしてはならないのです。その初子は『主が選ぶ場所』であるエルサレムで家族揃って神の御前において食べ喜ばねばなりません。それはユダヤ人が神を恐れることを学ぶためです。

 しかし、初子に欠陥があれば話は別であり、その初子を神に捧げることはできません。何故なら、それは神に喜ばれない動物だからです(申命記17:1)。欠陥のある初子は儀式用としては使えませんが、食用としてならば使っても構いません。この世の王に献納物として不良品を贈ったらどうなるでしょうか。恐らくその王は怒ったり不満に思うはずです。王にこういうことをするのは良くありませんが、であれば尚のこと、『王の王』(Ⅰテモテ6章15節)であられる神にそのようなことをするのは良くありません。王でさえふざけた物を贈られたら憤るのであれば、尚のこと神は憤られます。私たちにしても、誰が損なわれた物を贈ってほしいなどと思うでしょうか。そんな人はいないでしょう。ですから、人間も神に対してそのようにしてはならないのです。それでは、欠陥のある初子を捧げられないとすれば、ユダヤ人は一体どうすればよかったのでしょうか。その初子の代わりに二番目に生まれた動物を初子として捧げるべきだったのでしょうか。それとも何も捧げなくても問題なかったのでしょうか。この2つはどちらも可能性としては十分にあります。しかし、聖書はこれについて何も指示していませんから、ユダヤ人が実際にどうしていたのかは分かりません。また、その欠陥ある初子は『あなたの町囲みのうちで』食べる必要がありました。それは単なる食用としての普通の動物に過ぎないからです。それをエルサレムに持ち込み、そこで食べることはできませんでした。何故なら、欠陥のある初子は食用であって儀式用の動物としっかり区別せねばならないからです。

 欠陥のある初子を食べていいと言っても、やはりその血まで食べることはできませんでした(23節)。神はここでもまた血の飲食を禁止しておられます。これはユダヤ人のうちで「欠陥のある初子であれば血を食べても問題ないだろう。」などと考える愚か者が出ないようにするためでした。ここまで血は何度も禁じられてきましたから、ここで再びこのように血が禁じられなくても、ユダヤ人の多くは欠陥のある初子をその血まで食べたりしなかったはずです。しかし、神は万が一の場合を考慮し、再びここでこのように血を禁じておられます。このような血の禁止命令における徹底性は、神が本当に血の飲食を忌み嫌っておられることの現われです。もし神が血の飲食をそれほどまで忌み嫌っておられなければ、このように血が徹底して禁じられるということはなかったでしょう。また、欠陥のある初子の血も、やはり正常な動物の血と同様、『地面に水のように注ぎ出さなければな』りませんでした。すなわち、その血を建物や台や植物などといった地面でない場所や物体に注ぎ出してはなりませんでした。何故なら、血は地面から生じたゆえ地面に戻されるべきだからです(創世記2:7)。ところで、血を食べるならば呪われてしまいますが、血を食べる人がいれば、その人は血を食べて呪われるよりも前から既に呪われています。何故なら、既に呪われて異常な感覚や思想を持っているからこそ、自らの意思で血を食べようとするからです。もし既に呪われていたのでなければ正常な感覚と思想を持っていたでしょうから、そもそも血を食べようなどとはしていなかったでしょう。

【16:1~8】
『アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。そして、あなたの神、主が選ぶその場所で、それを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。六日間、種を入れないパンを食べなければならない。七日目は、あなたの神、主へのきよめの集会である。どんな仕事もしてはならない。』
 もうユダヤ共同体では前の世代が消え去っていましたから、過越祭の定めが新しい世代のユダヤ人に語られています。この箇所で語られているのは、エルサレムで過越の生贄を捧げるという点を除けば、これまでの箇所で語られていた内容と同じです(出エジプト記12:3~20、レビ記23:5~8、民数記28:16~25)。ユダヤ人は、この過越祭をはじめ祭儀律法については、キリストの時代になるまで守り行なっていました。もっとも、守るとはいってもそれは外面的に守っていただけであり純粋な心が伴っていたのではありませんでしたが…。カナンに入植してからは、この過越祭をエルサレムで行なわなければなりませんでした。各々が自分の住んでいる町で行なうことはできません。祭りの際は、ユダヤ人が『急いでエジプトの国を出た』ことを忘れないため、『悩みのパンを食べなければな』りませんでした。つまり、過越祭はユダヤ人の記憶を保持させる意味がありました。出エジプトを経験していない後の世代のユダヤ人も、この祭りにおいて先祖たちに起きた出来事を思い、出エジプトにおける神の働きかけを心に留めなければいけませんでした。この祭りの間は、ユダヤの地からパン種が除かれねばなりません(4節)。何故なら、神の御前においてユダヤ人が罪という霊的なパン種を持っていてはいけなかったからです。また、この祭りはユダヤ人がエジプトを出た『夕方、日の沈むころ』に行なわねばなりません。これもやはりユダヤ人が出エジプトの出来事を忘れないためでした。朝や昼に行なうのは出エジプトの出来事と一致していませんから駄目でした。また、この祭りの時には『七日目』に『きよめの集会』を行ないます。これが「7」日目なのは安息を示します。ところで、この祭りの実体・本質はキリストですから、キリストが既に現われた今や、もうこの祭りを行なうべきではなくなりました。ガラテヤ人は祭儀の本体であるキリストが現われた新約時代になってもまだ各種の祭儀を守ろうとしていましたから、パウロに厳しく叱責されてしまいました。新約時代の聖徒たちは、この過越祭に代わって聖餐式を行ないます。それはキリストが私たちのために尊い血を流され、御自身の御身体を私たちに与えて下さったからです。ユダヤ人は今でもこの過越祭を守り行なっています。これは彼らがキリストのことを知らないからです。

【16:9~12】
『七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。』
 古代のユダヤ人は、作物を収穫し始める時から『七週間』、収穫祭を行なわねばなりません。これが「7」週間行なわれるのはその祭りにおける神聖さを示しています。ユダヤ人はこの祭りを通して、神がユダヤ人に収穫を与えて下さっておられることについてエルサレムで感謝し、喜びます。その際は、家長である父だけでなく『息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめ』も共に収穫の喜びを共有せねばなりません。何故なら、これらの人々も収穫の恩恵に与るからです。ユダヤ人はかつて奴隷であった自分たちを神が救い出してカナンの地で収穫の恵みを受けられるようにして下さったことを覚え、感謝の念に満たされつつこの祭りを行なわなければなりませんでした。

【16:13~15】
『あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめと共に喜びなさい。あなたの神、主のために、主が選ぶ場所で、七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。』
 仮庵祭の定めが、新しい世代のユダヤ人に告げられています。この定めも、先に見た収穫祭の場合と同様、エルサレムで行なわねばならないと言われている点を除けば、以前に語られていた内容と同じです。この仮庵祭を『主が選ぶ場所』すなわちエルサレムで行なわないのは御心に適いませんでした。何故なら、エルサレムとは『主が御名を住まわせる』場所だからです。『御名』とは神そのものを示します。つまり、御名が置かれているエルサレムとは神の住まいです。ですからエルサレムに神の御名が置かれているからこそ、ユダヤ人は祭りをエルサレムで行なわねばなりませんでした。というのも儀式の目的対象は神だからです。神のおられるエルサレムで儀式を行なわないのは、誰かの誕生日パーティーを祝われる当の本人が不在のまま行なうのと似ています。その誕生日パーティーには目的である当の存在が欠けているからです。この祭りの時には、先に見た収穫祭の場合と同様、皆揃って収穫と業に対する祝福を神の御前で喜び楽しまなければいけませんでした。何故なら、神がユダヤ人の『すべての収穫』と『すべてのわざ』を祝福して下さるのは、ユダヤ共同体の全ての人たちに関わるからです。その時には「普通に喜ぶ」だけではいけませんでした。神は『大いに喜びなさい。』と命じておられるからです。神がユダヤ人を物質的に祝福して下さったのです。それなのにどうして『大いに』喜ばなくていいということがあるでしょうか。

【16:16~17】
『あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。』
 ユダヤ人は、過越祭と収穫祭と仮庵祭という『年に三度』の祭りを行なわねばなりません。これが年に「3」回なのは、ユダヤ人が確かに神の御前に進み出ることを示しています。この3回の祭りは『男子』に参加義務があり「女子」については参加せよと言われていません。これは女子が男子に従属する助け手としての性だからです。この3回の祭りの際にユダヤ人は、『主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければな』らず、何も持たずに出るのは罪となります。神がユダヤ人を物質的に祝福して下さったのですから、その祝福に応えて、しっかりと相応しい捧げ物を持って行かねばならないのです。まさか、全く祝福を受けていないユダヤ人はいなかったはずです。

【16:18~20】
『あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。』
 カナン入植後、ユダヤ人はそれぞれの町に『さばきつかさと、つかさたち』を置かなければなりませんでした。今で言えば、『さばきつかさ』は裁判官であり、『つかさ』は市長です。カルヴァンも言った通り、人間の集団が統治者無しでいることはできません。もし統治者がいなければ民は乱れに乱れ滅茶苦茶になってしまいます。ある1人か少数の者たちが大勢の集団を統治するのは、モーセの事例を見ても分かるように人間のキャパシティをオーバーしてしまいますから(出エジプト18:17~18)、下位区分の領域を担当する統治者が何人もいなければならないのです。ユダヤ共同体に立てられるその統治者は『正しいさばきをもって民をさばかなければな』りません。何故なら、『悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう』(箴言17章15節)からです。また、『高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ』(箴言8章16節)であるべきだからです。『さばきつかさ』や『つかさ』とは地上における神の代理者であって、彼らは神の統治を代理として遂行します。もし彼らが神の代理者として統治を正しく行なわなければ、神の御心に適わないので、イスラエル社会の全体が呪われてしまいます。そうなればイスラエルは悲惨な状態となります。ですから、彼らが正しく民を裁かないのは大きな罪でした。また、この箇所では再び賄賂の受け取りが禁止されています(16節)。賄賂を取ったらその人はお終いです。その人は賄賂の贈り主に媚びないわけにはいかなくなるからです。ですから私たちは間違っても賄賂を取らないようにしましょう。アメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE)では原則として社員に贈り物の受け取りを禁止していますが、これは賢明な定めであると言えます。

 ユダヤ人は賄賂などに惑わされず、ただただ正義を追い求めなければなりません(20節)。それはユダヤ人が祝福を得、呪いから遠ざかるためです。そうすればユダヤ人は祝福されるのでカナンの地にずっと住み続けることができます。確かにユダヤ人が賄賂を取らなければカナンは永久にユダヤ人の所有となりました。というのも、賄賂を取らないというのは、彼らの全体性が敬虔であることを意味しているからです。賄賂を取らないという判断と決定は、ユダヤ人が敬虔であるということを示す一つの現われなのです。つまり、敬虔であるからこそ賄賂を拒絶するということです。だからこそ、賄賂を取らないようなユダヤ人であればカナンの地に住み続けることができました。というのも、神は敬虔な者を祝福して下さるからです。キリストの時代のユダヤ人たちは、賄賂を取るどころか自分たちが賄賂を渡す側になるほどの状態でした(マタイ28:12~15)。これは彼らが極みまで堕落していたことを示しています。ですから、ユダヤ人はその極度の堕落ゆえ紀元70年に裁かれ滅ぼされてしまったのです。

【16:21~22】
『あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない。』
 ユダヤ人は、神の祭壇の近くにいかなる偶像をも置いてはなりませんでした。これは、妻が自分の愛人である男を夫と一緒に住んでいる家に連れ込み、夫がいるにもかかわらず一緒に生活させるのと同じです。こんなことが許されるはずはありません。ところが、ユダヤ人はやがて神の祭壇を持ちながら忌まわしいアシェラ像をも立ててしまいます。このため彼らの2つの王国は神の怒りにより裁かれ滅ぼされてしまいました。また、ユダヤ人は偶像崇拝のために使う『石の柱』も立ててはなりませんでした。それは『主の憎む』ものだからです。そのような邪悪な石を立てて偶像崇拝をするならば、ユダヤ人はその石と同じになります(詩篇135:18)。そのような石は神に憎まれているので、その石を拝むユダヤ人も神に憎まれる存在となります。ユダヤ人がそのようにして神に憎まれるならば、憎むべき者として裁かれるので滅んでしまうのです。実際、歴史が示す通り、ユダヤ人はそのようになってしまいました。

【17:1】
『悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。』
 ユダヤ人が生贄として捧げる動物には何の欠陥もあってはなりませんでした。何故なら、それは『神、主の忌みきらわれるものだから』です。どうして欠陥のある動物を主が忌み嫌われるかと言えば、それは『傷もなく汚れもない小羊のようなキリスト』(Ⅰペテロ1章19節)を象徴していないからです。あらゆる生贄の動物はキリストを象徴していなければなりません。すなわち、その個体には傷や汚れや障害などがあってはなりません。マラキ時代のユダヤ人は、愚かにもこのような動物を神への生贄として捧げていました(マラキ1:13~14)。これはこの時代のユダヤ人が酷く堕落していたことを示していました。だからこそ、その堕落ゆえユダヤ人は紀元前2世紀にアンティオコス4世を通して神の裁きを受けたのです。マカベア書からも分かる通り、この裁きを受けたユダヤ人たちは、自分たちが罪深かったからこそアンティオコスによる悲惨が裁きとして起きたことを認めていました。

【17:2~7】
『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行なわれたのなら、あなたは、この悪事を行なった男また女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。ふたりの証人また三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。』
 もしユダヤ共同体のうちに反逆の背教者が現われたならば、その邪悪な者どもを死刑に処さなければなりません。何故なら、そのような者は神の御前に忌まわしい者だからです。イスラエルとは神の聖徒たちの群れですから、そのような汚物がそこにいてはならないのです。しかし、死刑に処する際は、必ず入念な調査により背教の事実を確かめてからでなければいけません。もし冤罪により死刑にされたら悲惨だからです。この死刑を行なう際は、男であれ女であれ性別を問いません。つまり、昔の戦争でよくあったように女だからといって死刑を免除されたり、また男だからといって死刑を免れることもできませんでした。このような神の定めによる死刑が古代イスラエルでは行なわれていました。つまり、イスラエル社会の司法は律法によりました。これは古代イスラエルが神権政治の体制だったということです。

 この死刑が行なわれる際は『ふたりの証人または三人の証人の証言』を必要としましたが、これについては前に見た通りです。一人だけの証人しかいなければ証拠不十分とされたのであり、4人以上の証人がいても別に構わなかったものの2人か3人だけいればそれで十分でした。この確認方式による死刑はヘブル10:28の箇所でこう書かれています。『だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。』

 この背教者どもを死刑にする際は、公開形式で行なわれ、死は民衆の手により与えられます。これは民衆全体に抑止力を強く生じさせ、二度と背教者がイスラエル社会に出ないようにするためでした。その際は、まず証人たちが、次に民衆全体が、死ぬべき者に死の打撃を下します(7節)。まず証人たちが自分の証言に間違いがあれば誤った証言をしたことに対する裁きを受けても構わないという意志表示として死刑囚に手を下すわけですから―もしその証言が間違っていればその証人たちも偽証者として死刑になってしまいます―、それから民衆全体が手を下してよいことになるのです。もしその証人たちが偽証をしていたとすれば、やがて偽証がバレた場合に死刑となるリスクを負ってまで、最初の一撃を与えることは難しいはずだからです。

【17:8~13】
『もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。』
 もしユダヤ人の裁きかねる難しい事件や問題が起こったならば、それを『レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさ』に委ね、彼らの示す解決方法に従って解決せねばなりませんでした。祭司たちや裁判者のところに行くのは『ただちに』です。何故なら、悪はイスラエル社会から速やかに除き去られるべきだからです。ちょうど、血が出たならば速やかに止血すべきであるのと同じです。もし『ただちに』祭司や裁判者のところに行って解決を求めなければ、事件や問題が更に悪化してしまうかもしれません。傷口をすぐ止血しなかったため大変なことになってしまうのと一緒です。8節目で『あなたの神、主の選ぶ場所』と書かれているのはエルサレムを指します。祭司や裁判者のもとに行けば、彼らは解決方法を示してくれるでしょう。彼らでさえ裁きかねるようであれば、恐らく大祭司かイスラエルの指導者であるヨシュアのもとにその事件や問題が持ち込まれたと思われます。もし大祭司かヨシュアでさえ裁きかねるのであれば、神のもとにその事件や問題が持ち込まれたはずです。神に解決を委ねるならば、ここにおいて全てが解決されることとなります。何故なら、神とは全知全能の至高者だからです。この神に解決できないことなどただの一つさえありません。

 もし祭司や裁判者の示す解決方法に従わないユダヤ人がいれば、その者を死刑に処さねばなりません(12節)。何故なら、祭司や裁判者とは地上における神の代理者だからです。神は祭司や裁判者という代理者を通してイスラエルを支配されます。このため彼らに聞き従わないのは、神に聞き従わないことになります。それゆえ、彼らに聞き従わないユダヤ人はその『不遜なふるまい』の罪のため死ななければならないのです。『罪から来る報酬は死』(ローマ6章23節)だからです。このようなことで死刑にするのは厳し過ぎると思う人もいるかもしれません。しかし、もし祭司や裁判者に従わないユダヤ人を殺さなければ、同様の振る舞いをするユダヤ人が続出することになりかねません。そうなればユダヤ社会の政治と裁きは立ち行かなくなり、イスラエルは根本から揺るがされることになります。ですから、死刑にしなかった場合の悲惨を考えるならば、祭司や裁判者に従わないユダヤ人を死刑にすることは厳しいと言って批判すべきでないことが分かります。むしろ、彼らのような者を死刑にしないほうがかえって厳しいと言えます。何故なら、彼らを死刑にしなければイスラエル社会がおかしくなり、法体制が崩壊してしまうので、呪われるべき者が多く生じることになるからです。それでは、祭司や裁判者がユダヤ人に対し間違った解決方法を示した場合はどうなのでしょうか。そのような場合でもユダヤ人は『彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならな』かったのでしょうか。このようなケースはこの箇所で全く想定されていません。この箇所では、ただ祭司や裁判者の指示する通りに行なえと命じられているだけです。もし祭司や裁判者が与えた間違った罪深い判決に従わなかったので殺された場合、やがてその祭司や裁判者およびイスラエル社会が神の裁きを受けることになったでしょう。ユダヤ人が間違った判決であると知りつつも律法の命じる通りその判決に従った場合は、やがて間違った判決を与えた祭司や裁判者と共にそのユダヤ人は裁かれたはずです。つまり、祭司や裁判者はいつも正しい判決を下さねばならなかったということが分かります。彼らは当たり前のこととしてそうするべきなのです。だからこそ、ここでは彼らが間違った判決をした場合については言及されていないわけです。これは妻が夫に服従すべきだと命じられている箇所でも同じです(エペソ5:22~24)。パウロはただ妻が夫に服従すべきだと命じるだけで、夫が罪深い、または間違った命令を与えた場合については何も言及していません。これは夫がいつも妻に正しいことを命じるべきだからです。

【17:14~15】
『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立ててたい。」と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。』
 この時のユダヤ人にはまだ制度的な王が存在していませんでした。モーセが事実上の王だったと言えるのでは、と思う人もいるかもしれません。モーセが王だと言うのは、ジョン・ロックにこっぴどく論駁されたことで有名なフィルマーがアダムを王と言ったのと同じでしょう。アダムが大きな権威と尊厳を持っていたことは確かだと思われますが、だからといってアダムは社会的な王ではありませんでした。モーセも社会的な王だったのではありません。この時のユダヤ人には神という王しかいませんでした。モーセはその副官です。だからこそ、モーセは神の言われたことを媒介者としてユダヤ人に告げ知らせていたのです。しかし、この箇所で神はユダヤ人がカナンに入植してから、他の国々と同じように人間の王を立てても良しとしておられます。とはいっても、それは積極的に認めたというのではなく、あくまでも譲歩として認めただけでした。何故なら、後ほどユダヤ人が人間の王を求めた際、神はユダヤ人が御自分という王を退けたと言われ不満になられたからです(Ⅰサムエル8:6~8)。ユダヤ人は本来であれば神という王を持つだけで満足しているべきでした。ですが神はあえてユダヤ人の我が儘を受け入れ、譲歩して彼らに王をお与えになられました。神は、ユダヤ人が荒野で肉を求めて喚き立てた際も、あえて彼らの願望を叶えてやりました(民数記11章)。しかし、彼らの願ったその肉が彼らに害を齎すことになりました(民数記11:33)。王の場合も同様でした(Ⅰサムエル8:10~18)。ユダヤ人の王となるのは『同胞』であるユダヤ人でなければいけません。同胞でない者すなわちヤコブの血を持たない非ユダヤ人では駄目でした。歴史を見れば分かる通り、ユダヤではユダヤ人しか王になることがありませんでした。

 神がユダヤ人に王をあえて許可されたのは、その王によりやがて来たるべき全宇宙の王であられるイエス・キリストを予表させるという目的があったからです。ですから、ユダヤ人の王はその存在また職務においてキリストという真の王を予表していたのです。例えば、ダビデ王はその苦難においてキリストを預言していました。またその名が「平和」と解されるソロモン王は、その平和と国家の繁栄においてキリストを預言していました。ユダヤの王がユダヤ人でなければいけなかったのは、今述べたようにユダヤの王がキリストを指し示す存在だったからです。何故なら、キリストはユダヤ人として御生まれになったからです。もしユダヤの王が異邦人であれば正しくキリストを指し示すことにはならないのです。

【17:16】
『王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。』
 ユダヤ人の王は、戦力を増加させるため『馬を多くふやしてはな』りませんでした。何故なら、王が馬を多く増やすのは、神に対する信頼の欠如を意味しているからです。その王は心の中でこう言っています。「我々が勝利し更に強くなるためには騎馬兵の数を増加させねばならぬ。」これは王が神のことを心に留めていない印です。しかし、聖書はこう言っています。『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。』(詩篇147:10~11)『王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。』(詩篇33:16~17)『馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。』(箴言21章31節)これらの御言葉から分かるように、勝利は馬によらず神によります。それゆえ、信仰篤い王であれば馬の力ではなく神の力に頼ります。ユダヤ人の王はそのようであるべきでしたから、この箇所では『王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。』と命じられているのです。王が馬を多く増やすのは律法に違反していますから罪でした。ソロモン王はこの戒めに違反し、馬を多く増やしてしまいました(Ⅰ列王記10:26~29)。これはソロモンが神の戒めを忘却していたか意識的に捨て去っていたことを意味しています。意識的に捨て去っていたとすれば、彼に与えられた至高の英知が彼を高ぶらせていたからなのかもしれません。これは有り得る話です。高ぶるならば人は神の命令に服そうとしなくなるからです。また、ユダヤ人の王は『馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはな』りませんでした。民をエジプトに帰らせるのは馬を調達させるためです。これがどうして駄目かと言えば、エジプトとはユダヤ人にとって既に過ぎ去った昔のステージだからです。そのような場所に戻るのはあってはならないことです。それは、大学生が何故か既に卒業した高等学校に戻って再び高等学校の授業を受けるのと似ています。このように民をエジプトに帰らせるのは律法に違反していますから罪となりました。

【17:17】
『多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。』
 ユダヤ人の王が多くの妻を持つのは罪となります。古代で王が一夫多妻であるのは特に珍しくありませんでした。しかし、神はユダヤ人の王がそのようであってはならないとしておられます。ところが、ユダヤではダビデ王やソロモン王が多くの妻を持っていました。また、王ではありませんがイスラエルを治めていた士師たちも一夫多妻でした。このような王や統治者でなくても古代ユダヤ人は、性の面で弱いところがありました。もし王が多くの妻を持つなら、王の心は配偶者において逸らされてしまいます。多くの妻を持ちながら、心を散漫にさせず、ある妻だけを愛し、その他の妻を無視するというのは大変難しいことです。何故なら、ある一人の妻だけを集中して愛するようであれば、そもそも多くの妻を娶りはしていなかったでしょうから。多くの女性に心を傾けるような人物だからこそ、多くの妻を欲したのです。ですから、一夫多妻者は心を逸らさずにいることができません。しかし、王の心が散漫になっていることは望ましくありません。何故なら、心の堅固さに誠の威厳は宿るからです。王は真の威厳に満ちているべきでしたから、その心を散漫にさせる多くの妻を持つべきではありませんでした。この戒めは今でも当然ながら有効です。すなわち、今でも王や王に該当するような身分の者は多くの妻を娶るべきではありません。また、一般人でもやはり多くの妻を持つべきではありません。一般人でも一夫多妻者になるならば、王が一夫多妻者である場合と同じように罪となります。モルモン教の創始者でありフリーメイソンでもあったジョセフ・スミスには40人もの妻がおり、この罪を犯していました。

 また、ユダヤ人の王が自分のために多くの金銀を増やすのは罪でした。この世の王は往々にして自分のために金銀を増そうとするものです。しかし、神はユダヤ人の王がそのようにすることを禁じられます。何故なら、王とは自分のためにではなく神と人民のために富を使用すべきだからです。これが分からないほど道理に暗い人はいないと思います。確かなところ、王とは王のために存在する者なのではなく、神と人民とのために存在する者でなければいけません。もし王が自分のために金銀を多く増やすならば、その王は自分のために存在する王なのであって、もはや神と人民のために存在する王なのではありません。また、『金銀』という言葉を文字的にのみ捉え、「金銀」でなければ高価な物品を多く増やしても良いというわけではありませんでした。「金銀」を多く増やさなかったとしても、例えばルビーやサファイアといった高価な宝石を多く増やせば罪に定められます。何故なら、ルビーやサファイアといった宝石も『金銀』という言葉の中に含まれているからです。つまり、『金銀』という言葉は金銀を代表とする高価な物品の全般を指していると解されなければなりません。

【17:18~20】
『彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。』
 高い地位は人間を高ぶりやすくさせます。王はその最たるものです。何故なら、王には両親や師匠といった少数の例外を除き、その上に立つ人間がいないからです。今まで一体どれだけ多くの王たちが『自分の同胞の上に高ぶる』ということをしたでしょうか。ネロは高ぶりの塊でした。このネロについて大プリニウスはこう言っています。「人間の幸運の絶頂に登ったことが、彼の邪悪な心の底に欲望を掻き立てた。彼の最大の欲求は神々に命令を下すことであった。彼はこれ以上高貴な野望を懐くことはできなかった。どんな他の術でも、これくらい熱狂的な後援者をもったものはなかった。」(『プリニウスの博物誌Ⅲ』第30巻5<14> p1244~1245:雄山閣)神々を服従させようとすること以上の高慢が他にあるでしょうか。このように王は他の人間に比べてかなり高ぶりやすいのですが、神はユダヤ人の王が高ぶるのを望んでおられません。何故なら、聖書にはこうあるからです。『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』(箴言16章18節)もしユダヤの王が高ぶれば破滅に至ります。そうすれば、その破滅にイスラエルの全体も巻き込まれることとなります。ですから、ユダヤ王の高ぶりは致命的な意味を持っていました。神はユダヤの王が高ぶらないために、王が律法の言葉を書き写し、それを生涯にわたって読み行なうべきだと命じられます。そうすれば王は神の命令に従うので、精神が自ずと謙遜になり、民に対する高ぶりから遠ざけられるからです。ですから、ユダヤ人の王はいつでもどこでも―王宮であれ街であれ戦場であれ海であれ外国であれ―、律法と共に歩まねばなりませんでした。神の命令は人を従順・謙遜にさせます。何故なら、神の命令を守る人は神の命令に服するのであって自分自身に服するのではないからです。そのようにしていれば高慢から遠ざけられ謙譲の精神が養われます。私たちも常に神の御教えに従って歩まねばなりません。

 王が神の命令に服して歩むのであれば、『彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができる』ようになります。神は御自分の命令に服する者を祝福されるからです。ですから、王の支配が子々孫々に至るまで永続するかどうかは命令遵守にかかっていました。もし王が命令に服するならば支配は永続し、もし王が命令に違反するならば支配はいつか取り上げられます。ユダヤ人の王は神の命令に従うことを選びませんでした。ですから、ユダヤ王の支配は永続することがありませんでした。

【18:1~2】
『レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。』
 既に見た通り、レビ部族の人間は祭司も祭司でない者も『主ご自身が、彼らの相続地』でしたから、地上的な相続地は割り当てられませんでした。彼らは神を相続地として持つ代わりに、地上の相続地を持たないのです。このことについてレビ人たちは不満を持つべきではありませんでした。何故なら、神が相続地であるのにどうして不満を持つのでしょうか。神で不満がるのであれば何をもって満足するのでしょうか。また、レビ人の食物は『主への火によるささげ物』でした。神がレビ人に食物を与え養われます。というのもユダヤ人が神に捧げる捧げ物を、神は御自分に仕えるレビ人に与えて養われるからです。他の部族はこのような食物により養われていませんでした。ここにレビ部族の特別性があります。

【18:3~5】
『祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。』
 一般のユダヤ人は、祭司たちに家畜の『肩と両方の頬と胃』や『穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物』といった生活するための食物と物品を与えねばなりませんでした。これは命令ですから義務であり、もし与えなければ罪となります。神が、レビ人たちをいつまでも奉仕の職に就かせようと全部族から選び出されたからです(5節)。もし一般のユダヤ人がレビ人たちに生活に必要な食物や物品を与えなければ、レビ人は祭儀を行なうどころか生きて行くことさえできません。ですから、もしユダヤ人がレビ人たちに何も与えなければ、それは祭司と祭司たちを立てられた神に対する愚弄であって、聖なる定めを覆すことでした。新約時代では全ての聖徒が祭司ですから特別的に祭司である者はもういませんが、一般信徒たちは神が教会に立てられた教職者たちを物質的に助けなければなりません。教会の教職者たちは、昔の祭司たちと同様、聖徒たちの霊的な領域を管理し指導するために選ばれ立てられているからです。彼らが神により立てられた存在だというのはこう書かれている通りです。『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。』(エペソ4章11節)

【18:6~8】
『もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。』
 レビ人は、自分の住んでいる場所を出て『主の選ぶ場所』であるエルサレムに移住することができました。何故なら、レビ人の相続地は神だからです(申命記18:2)。レビ人は地上の相続地を持たないので、その住んでいる場所に拘束されません。レビ人でない部族は相続地を与えられていますから、住んでいる場所に生涯拘束されます。それゆえ、レビ人以外はその住んでいる土地から勝手にエルサレムへ移住してはなりませんでした。レビ人でない部族のユダヤ人が自分の相続地を売り、その売ったお金でエルサレムの土地を買い取って移住するなどというのは以ての外でした。それはあからさまな律法違反だからです。こう書かれている通りです。『あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。』(申命記19章14節)もしあるレビ人がエルサレムに移住したなら、既にそこで神の働きをしていたレビ人と同様の働きをすることができます。世の中でしばしば起こりがちなように、別の場所から来たというので差別されたり退けられたりしてはなりませんでした。何故なら、神が『彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。』と言われたからです。また、エルサレムに移住したレビ人が分け前として受けるべき報酬も、既にそこで奉仕していたレビ人と同様でなければなりませんでした(8節)。新しく来たからというので前からエルサレムにいたレビ人よりも分け前が少なくされたり、卓越した人物だからというので他のレビ人よりも分け前が多くされてはなりませんでした。しかし、そのレビ人が移住前の地で相続財産を売り払って得た金銭は、自分の所有として持つことができました(8節)。