【申命記18:9~22:8】(2022/03/20)


【18:9~14】
『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。』
 ユダヤ人がカナンに入植したら、カナン人がしていた悪を真似るのは何としても避けねばなりませんでした。その悪のためにカナン人は裁かれてカナンの地を追い払われたのです。もしユダヤ人がカナン人の悪に歩めば、ユダヤ人もカナン人のようにカナンの地から追い払われてしまいます。神は、たとえ御自分の民であろうとも悪が行なわれたならば容赦されないからです。もしユダヤ人が聖なる民だからといってユダヤ人の悪を許容するとすれば、神には裁きも正義もないことになるではありませんか。ですから、ユダヤ人はカナン追放の原因となる悪を行なってカナンから排除されないようにすべきでした。

 この箇所からカナン人とカナン人の行なっていた邪悪な業がどのようであったか分かります。この箇所で挙げられているのはどれも全て律法に違反しています。まず、カナンには『自分の息子、娘に火の中を通らせる者』がいました。これは既に見た通り、カナン人が拝んでいた偽りの神々に対する祭儀として行なわれていた邪悪な業です(申命記12:31)。カナン人は邪悪な神々を奉じていたので、邪悪な行ないをその神々のためにしたのです。というのも聖書が教えるように偽りの神々とはすなわち悪霊だからです。悪霊は、偽りの神々を奉じている人間を惑わし、神に対して罪を犯させようとします。ところが愚かなカナン人は自分たちが悪霊どもに洗脳されているなどとは露ほども思わず、本当は存在しない偽りの神々に喜ばれようとして子どもを火で焼いていたのでした。また、カナンには『占いをする者』もいました。これはレビ記19:26の箇所で禁じられています。占いとは悪霊に未来を委ねることです。これをするならば神に呪われます。日本はこの占いに満ちていますが、このため日本は呪いとして世界3位の経済大国であるのに強力なプレゼンスを持つことができず、アメリカの言いなりになったり中国の脅威に晒されたりしているのです。また、カナンには『卜者』も見られましたが、これもレビ記19:26の箇所で明白に禁じられています。これは卜占により未来を知ろうとする罪深い行ないです。愚かなことです。卜占に頼っても未来を知ることはできません。何故なら、『何が起こるかを知っている者はいない。』(伝道者の書8章7節)のですから。『まじない師』とは、まじないを通して人に未来のことを告げる者です。これもレビ記19:26の箇所で罪とされています。『呪術者』とは呪術を行なう者であり、最近の時代で言えばアレイスター・クロウリーやマグレガー・メイザースといったオカルティストがこれに該当します。モーセ時代のエジプトにはこのような者が見られました(出エジプト7:11)。この呪術者は律法で死刑に定められています(出エジプト22:18)。『呪文を唱える者』とは、呪文により何か実現させようとしたり心を変化させようとする者です。日本では珍しくない「御経」もこれに当たると言っていいかもしれません。このようなことをする者は悪霊に動かされてそうしているのです。カナンの地には『霊媒をする者』も見られました。これは死んだ者の霊や妖精や鬼神といった目に見えない存在―それが実在するにせよ実在しないにせよ―との交流を実現させようとする者です。サウルの時代のイスラエルにはこのような者がいました(Ⅰサムエル28:3)。絶望したサウルが愚かにも霊媒女に頼ったことからも分かる通り(Ⅰサムエル28章)、人は未来に強い不安を抱くとこういった者に頼ることとなります。それは何とかして心を落ち着かせたいからです。『口寄せ』もカナンにはいました。これは『霊媒をする者』と似た者であり、恐らく自然や像といった霊的でない存在との交流を実現させようとした者だったと思われます。これは通常であれば交流の出来ない存在と交流しようとする点で『霊媒をする者』と同じです。律法ではこの『霊媒をする者』と『口寄せ』がセットで語られており(レビ記19:31、20:6、27)、どちらであれ彼らに頼るならば自分を汚すことになると言われています(レビ記19:31)。この2種類の者は律法で死刑に定められています(レビ記20:27)。『死人に伺いを立てる者』とは、死体となった抜け殻の人間から意志を引き出そうとする者です。これも悪霊の働きです。悪霊はこのような馬鹿げたことをさせて、人間を異常にさせたいのです。そうすれば人間からは神の似像が多かれ少なかれ損なわれますから、人間を神の似像として創造された神に対する間接的な攻撃また侮辱となるからです。

 古代のユダヤ人はこれらの悪を真似てはいけませんでしたが、それは新約時代の聖徒たちでも同じです。私たちもこの箇所で挙げられている者のようになってはなりません。もしそうなれば、カナン人と古代のユダヤ人がカナンから追い払われたように、私たちも霊的なカナンすなわち神の国から追い払われてしまうでしょう。つまり地獄に行きます。パウロが言った通り、正しくない者は神の国を相続できないからです(Ⅰコリント6:9~10)。今の教会では、キリスト教徒と呼ばれる者であるにもかかわらず、平気で占いをしている人がいます。これは誠に驚くべきことです。恐らく牧師が無律法主義のため占いの罪悪性について教えていないのだと思われます。神はこの箇所で、新約時代の聖徒たちに対し、占いなどをしないよう命じておられるのです。またカトリックが聖人たちに祈りを捧げているのは、『死人に伺いを立てる』ことに該当すると言っていいかもしれません。何故なら、彼らが祈願の対象としている聖人は既に死んだ『死人』であり、祈りを捧げるというのは『伺いを立てる』ことだからです。

【18:15~19】
『あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。』
 既に出エジプト記で見た通り、ユダヤ人はホレブ山で神の恐るべき御声を二度と聞きたくないと言いました。彼らが神の御声を拒絶したのは、神の御言葉を聞きたくないからではなく、御声が感覚的に耐えられなかったからでした。神がこの拒絶に対して『もっともだ』と言われた通り、ユダヤ人は何か悪いことをしたというのではありませんでした。神はユダヤ人が直接的に御自身の御声を聞きたくないと言ったので、その代わりにやがてユダヤ人の中から現われる『ひとりの預言者』が語る御言葉を聞かねばならないと言われました。これはイエス・キリストのことです。つまり、神は御自身の御声を聞けないようであれば、御子という人として来られた御方が語る御言葉により御自身の言われることを聞けと言われたのでした。もしユダヤ人がこの御方に聞き従わなければ、神はユダヤ人に『責任を問』われます。『責任を問う』とは、すなわち罪に定められ、裁かれ、滅ぼされる、ということです。ユダヤ人はキリストが預言された通り現われたのに聞き従いませんでしたから、『責任を問』われて紀元70年に捨てられてしまいました。この箇所からも分かる通り、モーセはキリストが現われる1300年も前から、既にキリストのことを預言していました。ですから、キリストはヨハネ5:46の箇所で『モーセが書いたのはわたしのことだからです。』と言われたのでした。このようにモーセはキリストを預言し信じていたのですから、彼を古い形態のキリスト者だったと言っても間違いではありません。これはモーセ以外のキリストを信じる古代ユダヤ人でも同様です。

【18:20~22】
『ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。』
 サタンは、ユダヤ民族にいつも目を付けていました。サタンは出来るならばユダヤのうちに偽預言者を起こし、その偽預言者によりユダヤ人を惑わしたいと願っていました。神がサタンのこの願いを許可されると、ユダヤのうちにはサタンによる偽預言者が起こります。これは「主の預言者」ではありません。ですから、その預言者は決して神からの言葉を告げ知らせません。このような偽預言者はこの箇所で死に定められています。何故なら、偽預言者は不遜だからです。その者は誠実と真実を愛される聖なる神の御心に適わないので殺されなければいけません。詩編5:6の箇所でダビデは神にこう言っています。『あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。』このような偽預言者は地獄に投げ込まれます。黙示録21:8の箇所でこう書かれている通りです。『すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。』偽預言者には2種類があります。1種類目は、神の御名により偽りを預言するタイプ。2種類目は、偽りの神々の名により偽りを預言するタイプ。どちらのほうも律法は死に定めています。しかし、サタンは巧妙に偽預言者を動かすうえ、人間は弱く惑わされやすいので、その偽預言者が本当に偽預言者だと見抜けず『心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合』も時には起こり得ます。その場合は、その預言が実現したかどうかにより判別できました(22節)。すなわち、その預言が本当に実現したならその預言者は真の預言者であり、その預言が実現しなければその預言者は偽の預言者です。キリストとパウロは再臨が紀元1世紀の人たちの存命中に起こると預言しました(マタイ16:28、Ⅰテサロニケ4:15)。この預言の通り、確かに再臨は紀元1世紀に起こりました。ヨセフスとタキトゥスの歴史書を見れば分かるように、ユダヤ戦争の時に紀元1世紀の人々は上空に現れた戦車部隊を見たのです。ですから、キリストとパウロは真の預言者でした。ところがノストラダムスという馬鹿者の預言は実現しませんでした。彼の預言した「恐怖の大王」は1990年代になっても全く現われなかったのです。それゆえ、このふざけたユダヤ人は偽預言者だったことが分かります。神は、このような偽預言者について『彼を恐れてはならない。』と言われます。偽預言者をどのような意味で恐れるべきではないのでしょうか。それは偽預言者を偽預言のゆえに批判したり死刑にしても、神の裁きが報復として与えられることを恐れるべきではない、という意味です。何故なら、偽預言者には神の加護と祝福がないからです。しかし、本物の預言者の場合は恐れる必要があります。真の預言者には神の加護と祝福があるので、もし批判したり死刑にするのであれば神の裁きが報復として幾倍にも増し加えられて与えられるからです。今の時代にも愚かなことを預言する偽預言者がいないわけではありません。私たちはそういった邪悪な者に惑わされないようにしましょう。どうか神が私たちを偽預言者とその偽預言から完全に守って下さいますように。アーメン。

【19:1~10】
『あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、―私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら―そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。』
 ユダヤ人がカナンの地を占領したら、その地に殺人者のための逃れの町を3つ設置せねばなりません。この町は計6つ設置されねばなりませんが、既に3つがヨルダン川の東に設置されていますから、今度は西側に3つ設置するわけです。合計で6つ。これは既に述べた通り、その町が人間の住む町であることを意味していると思われます。「7」は良い事柄のために使われるべき数字ですから、殺人者の逃れるこの町には割り当てられませんでした。ヨルダン川の西に設置するこの3つの町は、それぞれ一定の距離を取って設置せねばなりませんでした(3節)。これはこの町に逃れるべき人がユダヤのどこにいても逃れやすくさせるためです。もし3つの町または2つの町がそれぞれ近い場所に位置していれば、この町が複数ある意味はなくなってしまいます。もしこの町をそれぞれ近い場所に置くならば、この町は1つまたは2つだけあれば良いことになります。これは商売ではありませんからドミナント戦略を用いる必要は全くない、というより用いてはならないのです。

 この逃れの町に逃れることができる者は、『知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった』者に限られます。何故なら、その人は意図して殺したわけではないからです。その人は全く『死刑に当たらない』のです。ですから、万一にも『血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならな』かったのです。もし死亡者の親族や友人や弟子といった『血の復讐をする者』が、その無罪となるべき殺人者を追いかけて復讐の殺人を果たすならば、その復讐者は死刑にならねばいけませんでした。何故なら、それは合法的な殺人ではなく罪としての殺人だからです。そのような復讐者は罪深い殺人行為をしたのですから、『いのちにはいのち』(申命記19章21節)と書かれている通りに死刑とならなければいけませんでした。とはいっても、復讐者とは往々にして理性を失っており、復讐への強烈な思いに突き動かされているものです。つまり、復讐者は怒り狂う猛獣のようになっている場合が多くあります。そのため、そのような復讐者から無罪の殺人者が守られるため、このような町がユダヤには必要だったのです。この町に意図的な殺人者が逃れることは出来ません。そのような殺人者は死刑になるべきであって、守られるべきではないからです。律法が明白に許している通り、血の復讐者は意図的な殺人者であれば追いかけて復讐することが出来ました(民数記35:16~21)。

【19:11~13】
『しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。』
 もし故意の殺人者が逃れの町に逃れたならば、その殺人者を無理やりにでも引きずり出して殺さねばなりませんでした。故意に殺人を犯した者が逃れの町に逃れれば殺されず保護されるなどと考えたりしないため、この箇所ではこう言われています。ユダヤ人は『うなじのこわい民』でしたから、このように考えてしまう者が出る可能性は十分にありました。もしそのようにするならば、それは『あなたのためになる』のです。何故なら、故意の殺人者が逃れの町に逃れても無駄だということがユダヤ社会全体で知られるようであれば、ユダヤ社会にいる殺人予備軍はこれから殺人を犯しても生き続けることができるという希望が持てなくなるからです。そのような希望を誰にも全く持たせないため、故意の殺人者が逃れの町に逃れた場合は容赦なく殺されねばなりませんでした。

【19:14】
『あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。』
 ユダヤ人はカナンの地で受け継いだ相続地を売り払い、ユダヤの別の場所で新しい相続地を持つようにすることはできませんでした。そのようにすればユダヤ社会の秩序と部族の固有性が失われるからです。カナンの地でユダヤ人たちは部族ごとに纏まっていました。ですから、地境を移すのは神によるユダヤ人の地形的・部族的な定めを覆すことでした。もしそのようにするユダヤ人がいれば呪われました(申命記27:17)。地境を移すなというこの戒めは箴言でも繰り返されています(22:28、23:10)。

【19:15】
『どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。』
 いかなる罪であれ立証のためには2人か3人の証人が必要となり、ただ1人だけの証人では立証ができません。これは2人か3人ジャストでなければいけないということではなく、「最低でも2人か3人いなければいけない」ということであり、4人以上の証人がいても十分な罪の立証となるのは言うまでもありません。どうして最低でも2人か3人の証人が必要かということについては、既に述べておきました。前の箇所では、<殺人の罪>に関して1人だけの証人では立証が無効だと語られていました(民数記35:30、申命記17:6)。しかし、この箇所では、殺人罪も含めた<あらゆる罪>に関して1人だけの証人では立証が無効だと語られています。この定めの通りに罪を2人か3人の証人で立証するのであれば、その社会からは速やかに悪が除かれることとなります。罪とはすぐにも社会から除去されるべき有害な対象でしかありませんから、聖書はこのような立証方式を定めているのです。それは、ちょうど病気になったら早期治療をすべきであるのと似ています。素早く悪を取り除くからこそ悲惨な状態にならないで済みます。罪であれ病気であれ発生してからずっと除去せずにいれば、時間が経つにつれてますます悲惨な状態を齎してしまうことになります。

【19:16~21】
『もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。』
 あるユダヤ人が偽証をし、同胞であるユダヤ人を罪人に仕立て上げようとした場合、もしその偽証が事実であると確かめられたなら、その偽証者は自分が企んでいた通りの刑罰を報いとして受けなければいけません。例えば、あるユダヤ人が同胞を殺人者に仕立て上げ死刑に処せられるよう偽証したとすれば、そのユダヤ人は自分が企んだ通り死刑に処せられねばなりませんでした。嵌められた人は当然ながら無罪となります。このようにすれば抑止力が生じるので、偽証するユダヤ人が出なくなるか減るようになります。ユダヤ社会で同胞を罠に嵌める悪い者がいてはなりませんでした。ですから、ユダヤ人は偽証者にその偽証者が計った通りの報いを受けさせねばなりません。神はその偽証者に『あわれみをかけてはならない。』とここで言っておられます。つまり、偽証者には刑罰を容赦なく受けさせよということです。何故そうすべきかと言えば、しっかりと報いを受けさせるからこそ、しっかりと抑止力も生じるからです。往々にして堂々と為されることが明白な効果を齎すのであって、弱々しければ効果も生じないか生じても弱い効果しか生じないことが多いのです。偽証の事実を確かめるのは『さばきつかさたち』の役目でした。これは万一にも間違って判定してはならない事案ですから、責任ある立場の者が調査を行なわねばなりませんでした。一般民衆が調査をしても、間違った判定をした場合に責任を取れないからです。紀元1世紀のユダヤ人はキリストに対してこのようにしました。すなわち、ユダヤ人は出鱈目なことを言ってキリストが死刑に導かれるようにしました。これは大きな罪でしたから、彼らは神からの報いとして自分たちがキリストにした通りに自分たちもされました。私が言っているのは第一次ユダヤ戦争のことです。ところで、スファラディであったマルティン・ブーバーは、ユダヤ人がキリストを殺したことについて「私はその時代に生きていなかったので関係ない。」などと見苦しい責任逃れをしました。無知で愚かなユダヤ人です。この低能の馬鹿者はキリストを死に陥らせた紀元1世紀のユダヤ人たちが、『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』(マタイ27章25節)と言ったのを知らないのです。このユダヤ人は自分が紀元1世紀のユダヤ人の子孫ではないとでも言うつもりなのか。

 この箇所で『いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。』と書かれている通り、聖書は悪者が自分のした、もしくはしようとした通りの悲惨を受けるべきだと定めています。全能の聖なる神がこう定められました。よって、社会ではそのようにするのが最も益となります。実際にそのようにしたとすればどうなるでしょうか。間違いなく人々はそうしなかった場合に比べて、悪の足を引き止めるようになるでしょう。何故なら、自分がした通りに自分もされるのは誰でも嫌なはずだからです。例えば、殺人者が必ず死刑になる社会であれば、人々は殺人を犯せば必ず死ぬことが分かっているので、あえて殺人を行なおうとする人はいなくなるか、いても非常に少なくなるでしょう。殺人を犯して有名になることを求める者には効果がないのではないか、と思われる人もいるかもしれません。そのような者については、アメリカでそうされているように、野心的なその殺人者の願いを叶えないため報道の際は実名を隠すことで対処すればいいでしょう。日本やその他の国では殺人者がした通りに殺人者にもしていないので、いつまでも経っても殺人が無くならないでいるのです。『いのちにはいのち』という御言葉を実施しなければ、殺人予備軍に多かれ少なかれ希望と力を与えてしまいますが、日本やその他の国ではこのことがよく理解されていないようです。聖徒である人たちは誰でも、悪者が自分のした通りになることを願い求めねばなりません。何故なら、キリストは私たちに『御心が天で行なわれるように地でも行なわれるように』祈れと命じられたからです。『いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。』というのが神の御心です。

【20:1~4】
『あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」』
 ユダヤ人は自分たちよりもカナン人が数においても強さにおいても優っているというので、カナン人を恐れてはなりませんでした。少したりとも恐れてはならないのです。何故なら、神が確かな勝利をユダヤ人にお与え下さるからです。もし恐れるとすれば不信仰であることになります。それは罪でした。このため、祭司はユダヤ人の軍隊を言葉で鼓舞せねばなりませんでした。そのようにしてユダヤ人の兵士が力強くされたならば圧倒的な勝利を神により得られるからです。もし祭司たちが兵士を鼓舞しなければ罪となりました。今のユダヤ人もこの戒めを守っています。すなわち、イスラエル軍がパレスチナ人と戦う際は、ラビがイスラエル軍の兵士を言葉で鼓舞します。ラビがこのようにするのは全く問題ありません。しかし、イスラエルが、偉大な民として定められているうえ(創世記21:18)、その数が莫大になると約束されたイシュマエルの子孫たち(創世記17:20)を駆逐しようとするのは大いに問題ありです。ラビたちが律法に従ってどれだけ兵士たちを鼓舞したとしても、神の約束を持っているイシュマエルの子たちを駆逐することは絶対にできません。

 今の教会も、もし正しい状態にあるのであれば、決して敵を恐れることはありません。何故なら、神は正しい者たちと共にいて下さるからです(ヨハネ14:23)。もし教会が正しい状態であれば神によりサタンを踏み砕けるでしょう。『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』(ローマ16章20節)とパウロが言った通りに。これはヤコブの言葉もそう言っています。ヤコブは私たちが正しければサタンすなわち悪魔を追い払えると言いました。こうです。『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』(ヤコブ4章7節)ですから、もし私たちが正しければ恐れてはなりません。神が共におられるのに、どうして恐れるのでしょうか。もし正しくなければ正しいようにせねばなりません。そうすれば恐れなくてよいことになるでしょうから。

【20:5~9】
『つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。』
 神は、ユダヤ人が戦争をする前に、戦争に悪い作用を齎す者が軍隊から取り除かれるようにされました。何故なら、パン種が膨らむように、負の要素はたとえ僅かであっても軍隊の全体を駄目にしかねないからです。戦争において士気ほど大切な要素もないと思われます。ヨセフスが指摘した通り、ユダヤ人は技術と武装ではローマ軍に全く敵わなかったのに、士気だけは異常なほどに高かったため最強の軍隊として世界中で恐れられたあのローマ軍を手こずらせることができたのです(もっとも、最終的にユダヤ軍は敗北してしまいましたが)。5節目では、新しい家を建てたもののまだ奉献をしていない者が帰るように命じられています。これは家についてやり残したことがあると悪い作用となるからです。その思い残りが戦闘における力を失わせ、軍の全体に悪い影響を及ぼしかねないのです。6節目では、葡萄畑を作ったものの収穫をしていない者が帰るように命じられています。これは地上的な心残りが軍隊の士気を引き下げかねないからです。7節目では婚約したもののまだ結婚まではしていない者が帰るように命じられています。これもやはり心残りが負の影響を齎しかねないからです。8節目では、臆病になっている者が全て帰るよう命じられています。悪は善に比べて伝染しやすい性質を強く持っています。それゆえ、臆病者は戦争に参加してはなりませんでした。

 このように告げられたら、遂に将軍たちが軍隊の指揮を執ることとなります(9節)。ここでは『将軍たち』と書かれていますから、ユダヤ軍の将軍は複数いたことが分かります。ユダヤ軍には、神という最高の将軍がおり、その下に人間における最高の将軍であるヨシュアがおり、その下に複数の将軍たちがいました。9節目で言われているのはヨシュアの下にいる将軍たちについてです。

【20:10~18】
『町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペジリ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。』
 ユダヤ人は、カナンの地から離れた場所にある町々を攻略する場合、その町にまず降伏を勧告せねばなりませんでした。降伏に同意したならば、その町にいる者たちはユダヤ人の奴隷となります(11節)。その人たちは降伏してユダヤ人に服したわけですから、命まで取られることはありませんでした。しかし、降伏しないで戦おうとするのであれば、その町にいる男を滅ぼし、女や子ども、家畜、財物は戦利品として獲得することができました。男を皆殺しにせねばならないのは、男は女よりも霊が強いので、なかなか服さない場合が多いからです。女や子どもの場合、生かしておいてもユダヤ人に影響を与えないでしょうから、戦利品として得ることができました。影響を受けるのはむしろ女や子どもたちのほうでした。何故なら、女や子どもが獲得されるというのは、すなわちユダヤ人の一部として吸収されるということだからです。また、男を殲滅すべきだったのは、その町を占領してから反逆させないためでもありました。男を消しておけば反逆の可能性はほとんどなくなります。女と子どもしか残らなければ、反逆が起こる可能性はあまりないでしょうし、もし起きたとしても簡単に鎮圧することができるのです。ですから、男を全て殺せと命じられているのは神の理知によります。古代ローマはどこかの国を属国にしても男を殲滅しておかなかったので、たびたび反逆が起こり、その度に軍隊を遣わして鎮圧しなければいけませんでした。また、この古代ローマも、この箇所で言われている通りのやり方をしていました。すなわち、ローマがある国を攻略する場合はまず使節を送って降伏を勧め、降伏しなければ軍隊を攻め込ませたのです。古代ローマよりもユダヤ人のほうが先んじてそのようにしていたというのは注目に値します。

 しかし、カナンの地にある町々の場合、そこにいる者たちを女も子どももことごとく殲滅せねばなりませんでした。これはカナン人の霊的な悪性が非常に強かったからです。もし女や子どもを生かしておいたならば、その女や子どもたちによりユダヤ人がカナン人の神々に引き寄せられてしまいかねません(18節)。そのようにならないため、カナン人の場合は女であれ子どもであれ全く生かしておいてはいけませんでした。このようにカナン人を例外なく殲滅することが苛酷だったと思うべきではありません。何故なら、これは神からの正当な裁きだったからです。カナン人はこれまでずっと「死滅という実」を結ばせる「罪という種」を蒔き続けていました。この時になって遂にその種が実を結んだだけの話なのです。つまり、彼らが滅ぼされるのは自業自得でした。もしユダヤ人がカナン人の女や子どもを生かしておくならば罪となります。神はカナン人を『ひとりも生かしておいてはならない』と命じられたからです。神がカナン人の絶滅を求められました。ですから、ユダヤ人がカナン人を皆殺しにするのは罪でも間違いでもありませんでした。

【20:19~20】
『長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。』
 ユダヤ人は、戦争の際にそうするのが望ましいからといって、実の生る木を切り倒してはなりませんでした。何故なのでしょうか。それは、『野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。』と言われているからです。木はたとえ1兆年経とうが確かに逃げ出す人間ではありません。つまり、これは実の生る木が人間を象徴しているということです。もっと詳しく言えば、実の生る木は神の聖徒たちを象徴しています。何故なら、聖徒とは神のために実を結ぶ存在だからです。神はそのような聖徒たちを裁きにより滅ぼしたりされませんから、聖徒を象徴する実の生る木は切り倒されてはならなかったのです。しかし、その木から実を取って食べるのは問題ありません。神は聖徒たちの結ぶ行ないという実を喜び味わわれるからです。しかし、実を結ばない木であれば切り倒しても構いませんでした。そのような木は神のために実を結ばない者を象徴しているからです。そのような者は主なる神にしっかりと根差していないゆえ、実を結ぶこともありません(ヨハネ15:5)。そういう人は実を結ばないので滅ぼされてしまいます(ヨハネ15:6)。つまり、木で言えば切り倒されて悲惨になります(マタイ3:10)。このため、実を結ばない木は切り倒しても問題なかったのでした。しかしながら、この時のユダヤ人が私が今述べたことをちゃんと理解していたかどうかと言えば疑問に感じられます。理解している人もいれば理解していない人もいたかもしれません。私たちは、この箇所を今述べられた通りに理解すべきです。神が意味もなく実の生る木を切り倒してはならないと言われたなどとは考えないようにすべきです。神が意味もなく木を切り倒すなと言われたと捉えるのは意味の分からないことです。

【21:1~9】
『あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。』
 殺した犯人が誰か分からない死体を見つけたならば、その死体に最も近い町から雌の子牛を取り、その子牛を殺人罪のために贖いとして殺さねばなりませんでした。その子牛は神の小羊であるイエス・キリストを象徴しているので、イスラエルは血の罪から清められました。何故なら、キリストの犠牲により全ての罪は清められるからです(Ⅰヨハネ1:7)。子牛を死体に最も近い町から取るのは、犯人はその町の住人である可能性が最も高いからです。もしかしたら犯人はその町の住人ではないかもしれません。しかし、犯人が誰か分からない以上、最も近い町が最も犯人の住まいである可能性を持っているのですから、最も近い町から子牛を取らねばならなかったのです。この儀式において事柄の判定を行なうのは『レビ族の祭司たち』でした。何故なら、イスラエル社会の罪に関する事柄は祭司たちが取り扱うのだからです。神は祭司たちにユダヤ人の霊的な領域を委ねておられます。それゆえ、祭司でない者がこの儀式において判定をすることは出来ませんでしたし、もししたとすれば罪となりました。それは僭越なことだからです。それでは、この儀式を行なった後で、犯人が明らかになったとすればどうなるのでしょうか。この箇所ではそのようなケースについて何も言及されていません。もし儀式の後で犯人が分かったとすれば、恐らくその犯人は報いとして死刑に処せられなばならなかったはずです。というのも律法は、『かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。』(レビ記24章17節)と定めているからです。既に儀式により罪の問題が解決された後であれば、犯人が見つかった場合、その犯人は儀式のゆえに無罪とされるのでしょうか。否、そうではなかったはずです。犯人が見つからなかったからこそ犯人の代わりに子牛を殺したわけですから、犯人が見つかった以上、その犯人は死刑となるべきだったと思われます。もしその犯人が儀式の前に見つかっていたら、子牛の儀式は行なう必要がなかったのですから。

 この儀式は、いかに素早く罪の問題が社会から取り除かれねばならないかということを私たちに教えています。何故なら、罪の問題が社会から取り去られない状態が続けば、祝福から遠ざけられ、呪いに近付くからです。そうなれば、その社会は繁栄や勝利や幸福を得るのが難しくなってしまいます。このため、ダビデ王はイスラエル王国から罪の問題を除くことに心を砕いていたのです。ところが、現代社会はまず犯人および犯罪の事実を確かめることに力と時間を費やしすぎている傾向があります。まず犯人と犯罪の調査が何よりも優先され、そのため罪の問題を素早く社会から取り除くということは後回しにされがちなのです。ですから、犯人が不明のままであれば罪の問題もそのまま社会に留まったままとなります。これは大いに問題です。犯人が分からないからといっていつまでも罪の問題を社会に置き続けていれば、間違いなく祝福を失うか祝福が減るようになるからです。この箇所の律法では、そういったことが起こらないようにと、たとえ犯人が不明のままでも罪の問題を社会から取り除くよう定めているのです。社会は神の知恵を学ぶ必要があります。

【21:10~14】
『あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。』
 ユダヤ人は、捕虜の中に美しい女性がいたならば、その女性を娶ることが許されていました。その女は異邦人ですが神は娶ることを許容しておられます。何故なら、その女性は戦利品として獲得された存在だからです。異邦人の所有していた金や銀を戦利品として獲得して良かったのと同様、女も戦利品ですから娶って良かったのです。捕虜の女は、結婚するまでの間に、自分が悲惨な状況に陥ったことを、髪を剃ったり爪を切ったりすることで悲しまなければなりません。そのようにすれば心が多かれ少なかれ和らぐからです。女が悲しむ期間は『一か月』でした。これは「30」日ですから、その期間が十分であることを意味しています。30日が経過するとユダヤ人はその女と結婚できるようになります。すなわち、彼女と交接できるようになります。神の御前において、交接とは結婚することであり、結婚とは交接することです。何故なら、結婚して夫婦になるというのは一体化だからです。ところで、聖書は、この箇所からも分かるように人の悲しみを否定したり抑え込めと求めたりしていません。キリストも、悲しむ者に対して悲しみを抑えよとは言われませんでした。むしろ、主はこう言われました。『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』(マタイ5章4節)ヤコブも同様にこう言っています。『あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。』(ヤコブ4章9節)人間をその感情に至るまで創造された神は、人間の取り扱い方を完全に知っておられます。この捕虜の女もそうですが、悲しむ者が持つ悲しみはそのままにさせるべきなのです。神は捕虜の女に「悲しむことを止めよ。」とは言われず、むしろ「泣き悲しまなければならない。」と言われたからです。恋愛や子どもの教育でも、泣いている女や子どもはそのままにしておくのが望ましいとよく言われます。このように言うのは聖書的であり間違っていません。さて、ユダヤ人が結婚した後で、捕虜だった女と離婚したくなれば、いつでも離婚することができました(14節)。しかし、離婚したからといって彼女を金で売ることはできません。ただ自由にしてやることしかできません。すなわち、離婚された女はユダヤのうちに留まるかユダヤから離れて外国に行くか自分で決めることができます。

 しかし、ここで離婚が許容されていることについて疑問に思う人もいるかもしれません。確かに、旧約聖書で神は離婚を禁じておられます(マラキ2:16)。新約聖書でもやはり離婚が罪とされています(マタイ19:9)。しかし、この箇所では捕虜だった女と離婚しても構わないと示されています。これは一体どういうわけなのでしょうか。一方では離婚が禁止され、一方では離婚が許容されています。聖書には矛盾があるのでしょうか。否、そのようなことはありません。確かに、通常の場合であれば離婚することは大きな罪です。しかし、この箇所で言われているのは捕虜だった女についてです。そのような女であれば離婚しても罪には定められません。何故なら、戦利品である金や銀を獲得してから捨てたとしても罪に定められないように、捕虜である女も娶ってから離婚したとしても罪にはならないからです。私たちはこの箇所で戦利品として捕虜の女が取り扱われていることを理解すべきです。捕虜の女はたとえ結婚したとしても、あくまでも「戦利品」としての存在なのです。もしこの箇所で一般の女が取り扱われていたとすれば、離婚は許可されていなかったでしょう。

 ところで、この箇所もそうですが、聖書は女の美しさそのものを否定していません(11節)。この箇所では、美しい女が美しいからというので結婚しても良いとさえ言われています。何故なら、美しさとは神の賜物だからです。聖書はそのことを知っているので、女の美しさ自体は完全に首肯しています。「良い」は「悪い」ではありませんから、聖書が美しさを「悪い」としていないのは当然のことです。しかし、聖書は敬虔や徳と比べてならば美しさを無に等しい要素と見做しています。それはこう書かれている通りです。『麗しさはいつわり。美しさはいつわり。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。』(箴言31章30節)『美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。』(箴言11章22節)これは、事物の本質が外面ではなく内面にこそ存在しているからです。例えば、美人の殺人者と不細工だが命の恩人がいたとすれば、私たちにとって良いのは明らかに後者のほうです。何故なら、前者は殺すが後者は生かすからです。「それでは美人の命の恩人であれば尚のこと良いのではないか。」と言う人もいるかもしれません。これは確かにそうかもしれません。であれば、このようにも言えることになります。「最悪なのは不細工であり殺人をする者である。」と。

【21:15~17】
『ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力のはじめであるから、長子の権利は、彼のものである。』
 先にも述べた通り、古代社会で一夫多妻は珍しくありませんでした。古代は今と違って、複数の妻を持っていても異常だとは見做されませんでした。古代人であったヤコブが4人も妻を持っていたことは私たちの既に知るところです。この箇所では、2人の妻を持つ者が、嫌っている妻のほうに長子を持つ場合、その長子を長子として取り扱わねばならないと命じられています。何故なら、長子は長子だからです。2人の妻を持つ夫の中には、長子が嫌っている妻の生まれだった場合、その長子を長子と認めたくなかった人もいたはずです。しかし、長子が嫌っている妻の子どもであるからといって、また長子でない子を長子として認めたいからといって、長子を長子の立場から退かせることは許されませんでした。もしそのようにすれば罪に定められました。古代において長子は他の子どもよりも恵まれており、相続財産を父から最も多く受け継ぐというのが普通に行なわれていました。ですから、古代において誰が長子であるかというのは非常に重要な意味を持っていました。このため、神はユダヤ人に長子でない子を長子と認めないようこの箇所で命じておられるのです。神は真実を重視される御方だからです。また、私たちは長子が霊的にも重要な意味を持つ存在であることを理解すべきです。何故なら、長子とは子どもの中で最も御子を象徴する存在だからです。御子は神の『ひとり子』(ヨハネ3章16節)であられますから他の御子はいないのですが、人間の長子が初めに生まれたのと同様、御子も神から初めに御生まれになられた子であられます。

【21:18~21】
『かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。』
 この箇所から分かるように、イスラエル社会では、親に酷く逆らう子どもが死刑に定められていました。これは、父と母を打ったり呪ったりする子どもが死刑に定められている律法と共通しています(出エジプト記21:15、17)。反逆的な子どもをいつ死刑に委ねるかは両親の判断によりました。もし逆らい続けていてもまだ更生の望みがあると思われていたら、親は子を死刑に委ねなかったと思われます。しかし、もう更生の見込みがないと思われた子であれば死刑に委ねられたはずです。ユダヤ人の親であればそのようにしたでしょう。しかし、どれだけのユダヤ人がこの律法の通りにしていたかは分かりません。そもそも、親に逆らう子どもがユダヤにどれだけいたのかさえ私たちは知りません。ヨセフスの歴史書や旧約外典・偽典を読んでも、このことについて示されていません。しかし、全くこの律法が実施されなかったということはないでしょう。どうして逆らう子どもを死刑に処すべきかと言えば、親に逆らうことはすなわち神に逆らうことだからです。というのも神は子どもが親に服従するよう命じておられるからです。神に逆らうのであれば人は死にます(ローマ6:23)。このため親に逆らい続ける更生不可能な子どもは死刑に処せられねばならなかったのでした。

 この世は、この律法を理解できないでしょう。世は堕落して知性が腐りきっているからです。世俗化している教会も理解できないかもしれません。何故なら、世俗化している教会の規範は神の法ではなく一般的な感覚だからです。しかし、霊的な人であればこの律法を理解できるでしょう。霊的な人の規範は神の法だからです。聖徒である者は、親に逆らうことの重大性を理解せねばなりません。神は、親に逆らうことが死刑に値するとしておられるほどなのです。このことを理解するのであれば、子が親に従うことの重要性も分かるはずです。それが分かれば、私たちはいかに子が親に従えるようにするかということに心を傾けなければいけません。

【21:22~23】
『もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。』
 ユダヤでは、死刑になった者が木に吊るされていました。何故なら、『木につるされた者は、神にのろわれた者だから』です。その者は神に呪われていたからこそ死刑になり、木に吊るされたのです。これは死刑囚が木に架けられて死刑になるという意味ではありません。石打ちなど他の方法で死刑になった死刑囚の死体を、木に吊るすのです。もっとも、死刑を十字架刑で行なう場合だけは話が別でした。死刑囚の死体を木に吊るすのは、その者が呪われた者であると示すためであり、また民衆に恐れを抱かせるためです。ユダヤ人は、このようにするのを残酷だなどと言って批判してはなりませんでした。何故なら、死体を木に吊るさないほうが、かえって残酷だからです。もし死体を木に吊るさなければ抑止力が発生しなくなりますから、残酷な事件が増えるか減らないままの状態となるからです。死刑囚の死体を木に吊るさなかったので残酷な事件が多く起こるよりは、死刑囚の死体を木に吊るすという一時的な残酷さを許容するほうが、社会にとって遥かに良いことです。

 ユダヤの相続地には聖なる神がおられるので、木に吊るした死体は当日中に降ろされなければいけませんでした。何故なら、ずっと吊るしておくならば地を汚してしまうからです。聖である地が汚されてはいけません。それゆえ、翌日まで死体を吊るしたままにしておくのは罪となります。その日中に降ろせば地が汚れることはありませんでした。

 この箇所で『木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。』と書かれているのは、非常に重要です。パウロが言った通り、キリストは私たちの代わりに十字架で呪われた者となられたからです(ガラテヤ3:13)。イザヤ53:4の箇所でもこう書かれています。『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。』本来的に呪いは私たちのうちにあります。しかし、キリストが十字架に架けられることで、私たちの呪いはキリストに移されました。このためキリストを信じる者は、もはや神の御前で呪われた者とされず、むしろキリストのゆえに義と認められます。ここに人の救いがあります。このようにキリストの十字架による死は、律法的な意味を持っていました。神は救いに定められた者たちのため、御自分の御子が呪われた者となるように定められました。ですから、キリストの死は十字架によらねばならなかったのです。十字架により死ぬからこそ『神にのろわれた者』となることができるからです。もし十字架刑でない死に方であれば、神に呪われた者であることが豊かに示されなくなってしまいます。それゆえ、キリストの死は十字架以外にはあり得ませんでした。これを信じるならば、その人の上にある呪いはキリストにより取り去られるので、救われることができます。その人が永遠の呪いを受けずに済むよう、キリストがその人の代わりに呪われて下さったからです。しかし、これを信じなければ、その人に救いはありません。その人はキリストにより呪いを取り去られていないので、永遠に呪われるべき者として地獄で裁かれてしまいます。

【22:1~4】
『あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。』
 ユダヤ人は、同胞の家畜が良くない状態にある場合、その家畜に良くしてやらねばなりませんでした。その家畜が迷っていたり倒れていたりすれば、たとえ面倒であっても、元通りにしてやらねばなりません。何故なら、同胞とは兄弟だからです。共に神の家族である兄弟が持つ家畜に良くしてやることの必要性については、いちいち説明するまでもありません。これを読んでいる読者は道理に暗い獣のような愚者ではないはずだからです。この箇所では『同族の者』についてこのように命じられています。しかし、この命令は同胞でない者すなわち異邦人に対しても、それどころか敵である者に対しても、行なわねばなりません。それは、この箇所と同様の命令が、出エジプト記23:4~5の箇所では『敵』に対して行なわれるべきだと命じられていたからです。また、この箇所で命じられているのは家畜についてですが、聖徒たちが非生命体すなわち金銭とか道具とか衣服についても良くしてやらねばならなかったのは言うまでもありません。同族の所有する生命体だけに良くしてやれば、非生命体には良くしなくてもよいという考えを、神が是認されるとでも思うのですか。

 この箇所の戒めは『盗んではならない。』という十戒に属しています。何故なら、この箇所では隣人の所有物を尊重せよと命じられているからです。『盗んではならない。』という戒めの本質は隣人の所有物を尊重することです。それゆえ、『盗んではならない。』とは、すなわち隣人の所有物が悲惨になっていたら回復してやるということなのです。そのようにしてこの戒めを守る者は隣人を愛しています。何故なら、律法の本質は隣人愛だからです。私は隣人を愛すると口で言っていても、もし隣人の家畜が迷っているのに連れ戻してやらなければ、その人は偽善者です。何故なら、その人は口では隣人を愛しているものの、行ないでは愛していないからです。

 ユダヤ人がこの戒めを守らなければ罪となります。その罪を犯せば呪いが注がれます。どのような呪いが注がれるのでしょうか。それは、『あなたがしたように、あなたにもされる。』(オバデヤ15節)という呪いです。同胞の所有する家畜が悲惨なのに知らんぷりをするならば、報いとしてその人の家畜が悲惨になった時にも知らんぷりされてしまうのです。信仰を持たない人でさえ「カルマの法則」などと名付けて、自分がした通りに自分もされることを認めています。ですから、私たちは隣人の所有物に良くしてやらねばなりません。そうすれば、やがて私たちの所有物にも良くしてくれる人が現われるからです。しかし隣人の所有物に良くしてやらなければ、やがて私たちの所有物が大変なことになった際、その所有物に良くしてくれる人は現われないでしょう。こういうわけですから、家畜であれ何であれ隣人の所有物に良くする人は、結局のところ自分の所有物に良くしていることになります。これとは逆に、隣人の所有物に良くしない人は、自分の所有物に良くしていないことになります。

【22:5】
『女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。』
 聖徒たちは、自分の性に相応しい服を着なければなりませんでした。何故なら、男は男であり女は女だからです。神が人を男と女に創造されました(創世記1:27)。よって、神の民がその性に適った服を着ないのは罪となりました。もし男なのに女の服を着たり、女なのに男の服を着る者があれば、それは神の創造された性を蔑ろにすることでした。その者は神の創造と性を冒涜しています。ユダヤ人がそのようなことをしてはなりませんでした。何故なら、ユダヤ人とは古代において神の創造を真に正しく知っていた唯一の民なのですから。この戒めは、今や、あらゆる国で守られるべきです。何故なら、詩篇で言われているように神とは全地の王であられるからです。キリストが『御心が天で行なわれるように地でも行なわれるように』祈れと命じられたことも忘れてはなりません。しかし、この戒めが守られる際には民族性を考慮しても問題ありません。すなわち、ある国において特定の性が着るようにと作られた服を、他の国ではその性に相応しくないと思われても、問題視すべきではありません。例えば、私たち日本人からすれば、スコットランドの男性が着用する伝統的衣装であるキルトはやや変に見えるはずです。何故なら、日本においてスカート状の衣服は一般的に女性だけが着用するからです。しかし、スコットランドではこのキルトが男性用に作られているのですから、私たちから見れば男性に相応しくないと思えたとしても、スコットランド人がこの戒めを犯していることにはなりません。神も、スコットランド人の男性がキルトを着用しても問題にはされないはずです。何故なら、スコットランドではこのスカート状の衣装が『男の衣装』なのですから。しかし、このキルトを日本人が日本で日常生活において着用したとすれば問題であるはずです。今の世界における国々では、この戒めが概ね守られていると感じられます。どこの国の人でも、例えば男がワンピースを着たり、女がブリーフを穿くということはないからです。しかし、同性愛者や女装(男装)コンテストなどの場合は話が別です。これらの場合は、平気でその性に適っていない服装が着用されており、気色の悪い光景が見られるのです。

 この箇所で神は、人がその性に相応しくあるべきだと求めておられます。よって、この戒めでは服装だけでなく振る舞いについてもその性らしさが保たれるよう命じられていると考えなければいけません。服装ではその性に相応しくしていても、振る舞いではその性に反している者が、どうして神の御心に適うでしょうか。その者は振る舞いにおいて別の性を着用しているからです。例えば、男が同性愛者のように上目遣いでなまめかしく這い寄るというのは、この戒めに違反しています。それは明らかに女性のすることだからです。また女が机を握り拳でドンドン叩きながら大声で「おい、お前!この野郎!!なめてんじゃねーぞ!」などと叫びつつ恫喝するというのも、この戒めに違反していると思われます。このようにするのは男性の性に相応しい振る舞いだからです。

 人が自分の性に反した服を着るのであれば、その人を『主は忌みきらわれ』ます。その人は気色の悪い罪を犯す忌まわしい者なので、神から呪いを受けます。このようにするのが何でもないことだなどと思ってはなりません。これは実に恐るべき災いを齎す愚かしいことなのです。幾つか事例を見てみましょう。日本の「桜坂やっくん」という有名な芸人は女装をしており、日本女装協会を設立しその会長を務めましたが、37歳の若さで事故死しました。聖書から考えれば、これが神からの裁きだったことは間違いありません。また、インディアンは白人たちがやってくる以前、女装をして男色を楽しんでいました。彼らはアメリカ人を通して神の裁きを受けました。また、ネロも女装をしてある少年と結婚しました。この愚かな暴君も裁かれ若くして死んでしまいました。クイーンのフレディ・マーキュリーも「I Want To Break Free」という曲のPVの中で女装をしています。フレディの死が裁きであったことは全く疑い得ません。このように、違う性の服を着用してこの戒めに違反するならば、神によりこの世から消し去られます。何故なら、そのような罪人は神の聖なる秩序に対し邪悪な挑戦をしているからです。

【22:6~7】
『たまたまあなたが道で、木の上、または地面の鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。』
 ここでは聖徒たちが動物に対しても憐れみを注がねばならないと命じられています。この箇所で鳥の親子について命じられているのは動物を憐れむことの代表例として一つだけが挙げられていると捉えねばなりません。ですから、この箇所に書かれていること以外でも、例えば動物を娯楽のために虐めて喜ぶことは禁止されます。動物実験は、屠殺が許されているのと同様、人間の必要のために行なう限りにおいて許されます。しかし、実験で望む結果やデータが得られたならば、即座に実験を止め、動物を治療したり苦しみから解き放すために殺してやらねばこの律法に違反してしまいます。仏教は動物を過度に憐れもうとするので、動物の殺害を何であれ禁じます。このため仏教徒は、鰻丼が出されても殺された鰻だからといって手を付けようとしません。これは行き過ぎです。ここまで動物を憐れむ必要はありません。サタンが仏教徒たちを仏教という自分の霊的な悪しき道具で縛り窮屈にさせているのです。彼らに神の知恵はありません。

 もし聖徒がこの戒めを守るならば、『しあわせになり、長く生きる』ことができます。何故なら、そのような聖徒は憐れみ深い神と似ているので、神に喜ばれ、祝福されるからです。『しあわせ』と『長く生きる』という2つのことは間違いなく神の祝福です。その祝福はこのようにして与えられます。動物を憐れむ聖徒は、動物にさえ憐れみを注いでやるぐらいなのですから、隣人や自分には尚のこと良くするでしょう。もし隣人や自分に良くするならば『しあわせ』になるでしょう。その人は隣人の好意を得られるので自分にも良くされますし、自分に対して自分で最善のことをするだろうからです。また、そのようにすれば『長く生きる』こともできます。道徳的な人ほど健康でいられるというのは科学でも証明されています。このようにして神はその人を祝福して下さいます。つまり、動物への憐みは神の祝福として自分に帰って来るのです。

【22:8】
『新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。』
 ユダヤ人が新しく建てた家に手すりを付けなければ罪になりました。手すりを付けないために隣人が落ちて死んでしまいかねないからです。これはどの国であっても問題となるはずです。ここ日本でも新築の家に手すりを付けなければ、高い場所から落ちる人が出て、裁判沙汰になりかねません。この戒めは『殺してはならない。』という十戒に属しています。何故なら、新築の家に手すりを付けない人は隣人の命を蔑ろにしているからです。その人は手すりを付けないことで隣人を殺そうとしています。しかし、この戒めを守るならば、その人は『血の罪を負うことがな』くなります。つまり、この戒めを守るのは隣人のためだけでなく自分のためにもなります。手すりを付ける人は隣人と自分を愛しているのです。また、この箇所では『新しい家』にだけ手すりを付ければ良いと言われているなどと考えないようにすべきです。聖徒たちは、ここで言われている『新しい家』だけでなく、他にも公共施設の建物などを建てる際もやはり高い場所に手すりを付けねばなりません。そこでも高い場所に手すりを付けなければ落下する人が出てしまうからです。つまり、ここで『新しい家』と書かれているのは部分により全体を示す提喩法であって、これはあらゆる建造物を意味していると理解せねばなりません。またパウロも言うように律法は『霊的なもの』(ローマ7章14節)ですから、この戒めは建造物だけでなく、建造物を含めた全ての作成品に適用されるべきです。例えば、薬には注意書きや警告文といった文章の『手すり』を付け、その薬を服用する人が万一にも死んだり苦しんだりしないようにせねばなりません。そうすれば、薬という家には悲惨にならないための『手すり』が付けられますから、服用する人はそこから落ちる、すなわち悲惨になることがなくなります。しかし、この手すりを薬に付けなければ、家に手すりを付けなかった人と同様、製薬会社は『血の罪を負うこと』になってしまいます。