【申命記22:9~27:14】(2022/03/27)


【22:9~11】
『ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻布を混ぜて織った着物を着てはならない。』
 ここで神はユダヤ人に混合を禁じておられます。どうして混合が良しとされないのでしょうか。それは、古い時代においてはユダヤ人だけが神の所有する聖なる民だったからです。つまり、これは実物教育なのです。ユダヤ人はこの箇所で禁じられている混合をしないことにより、聖なる民である自分たちが他の民族と混合すべきでないことを学ぶべきだったのです。古い時代において異邦人は全て神から引き離された汚らわしい存在でした。そのような民族と混合すればユダヤ人は汚されます。それは聖なる民に相応しくないので、ここでは民族的な混合の禁止を学ばせるためこのように命じられているのです。ユダヤ人が汚れた民族と一緒になるべきでなかったのは、パウロがこう言った通りです。『正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。』(Ⅱコリント6章14節)もし『ぶどう畑に二種類の種を蒔いて』しまうならば、『ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとな』ってしまいます。『牛とろば』また『羊毛と亜麻布』も同様です。ユダヤ人が、これら3つの組み合わせのようになることは許されないことです。だからこそ、ここではこのように命じられています。しかし、旧約時代とは違い、今はかつて汚れた民族とされていた異邦人でも神の民となることができています。もうユダヤ人しか神の民でない時代は終わったのです。それゆえ、この戒めを現在において文字通りに守る必要はありません。しかし、今でもこの戒めは霊的に守られなければいけません。すなわち、この戒めは新約時代において次のように捉えられなければなりません。「聖なる民であるクリスチャンが不信者たちに汚染されることは何としても避けられねばならない。」

【22:12】
『身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。』
 これは既に民数記15:38の箇所で言われていたことです。古代ユダヤ人は、着物の隅に律法の書かれた紙を結び付けていました。それは、その律法がいつも目に入るようにするためです。そうすればユダヤ人は神の戒めを忘れずに済むからです(民数記15:39~40)。パリサイ人たちは、この房を長くして人々に見せつけていました。キリストは彼らのこのような虚栄を断罪されました(マタイ23:5)。何故なら、それは神への愛から出ているのではなく、人々からの評価を高めて心地良くなりたいという自己愛から出ていたからです。しかし主は、パリサイ人が房を付けること自体は断罪されませんでした。そのようにするのは律法の命令だからです。キリストはこの律法の制定者であられますから、どうして御自分の定めた事柄を自ら否定されるはずがあるでしょうか。しかしながら、これは割礼と同じで、幼年期のために定められた教育手段としての戒めです。ですから、幼年期を過ぎ去った今やこの戒めを神の聖徒たちが守る必要はなくなっています。もし今でもこの戒めを聖徒が守らねばならないとすれば、割礼をはじめとした旧約時代にのみ限定されるべき他の戒めも守らねばならないことになります。

【22:13~21】
『もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪行を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪行を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。』
 ルベンやユダやダビデやソロモンを考えれば分かる通り、古代ユダヤ人は性的にふしだらな傾向がありました。このため、ユダヤ社会では、妻を娶った男が口実を設けて妻と離縁しようとする可能性が十分にありました。この箇所では、そのような口実を設けて妻を離縁することが禁じられています。古代ユダヤにおいて妻となる女性が処女であるかどうかは重要な意味を持っていました。何故なら、イスラエルにおいて姦淫は禁じられているからです。それは死罪です。ですから、もし娶った妻が処女でなく姦淫の女であれば離縁が合法的に成立するのです。キリストもそのような離縁を認めておられます(マタイ19:9)。もしユダヤ人の夫が、娶った妻について『処女のしるしを見なかった』などと言ってその妻を離縁しようとするならば、その妻の親は娘の『処女のしるし』を長老たちのもとへ持って行かねばなりません。『処女のしるし』とは、初めて行なった際に流れた血の付いた着物を指します。ユダヤ社会では、このような時のため、最初に行なった際の着物を妻が持っておくよう定められていたのでしょう。その着物が証拠となり妻の処女性を示せたならば、夫が偽証していたことになりますから、その夫は鞭打ちを受けてから迷惑料として罰金を妻の父に支払わねばなりませんでした。このような色欲狂いの夫は酷い男ですが、死刑にはされません。ただ鞭打ちを受け、罰金を支払うだけで事は済みます。何故なら、彼は実際に姦淫を犯したわけではなく、ただ姦淫を犯そうとしていたに過ぎないからです。つまり、これは未遂犯ですから、実際の律法違反者のようには罰されないのです。

 しかし、夫の言った通り本当に妻に処女の印が見つからなかったならば、その妻は姦淫の女として死刑に処せられます。聖なるイスラエルの共同体のうちに、姦淫という悪があってはならないからです。それでは、その妻が処女の印を紛失していた場合はどうなるのでしょうか。これは、妻が処女の印を無くしたことを夫が利用する場合です。また、夫が妻を亡き者にしようとして、妻の持っていた処女の印を隠すか捨て、そのうえで『私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。』と偽って言った場合はどうなるのでしょうか。どちらの場合も、妻が夫に嵌められて死刑になったならば、夫は神の裁きによりやがて死んでしまうはずです。何故なら、神はこの妻が無罪であり、夫が悪いことを御存知だからです。

【22:22】
『夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。』
 律法は不倫を死に定めています。不倫は邪悪な破廉恥行為だからです。不倫をした男女のうち、どちらが誘う側でどちらが誘われる側であったかは関係ありません。誘った側が死刑になるのは当然であり、誘われた側も誘いを拒まず罪に同意したわけですから死刑に値します。また、不倫の男女が死刑になるべきなのは、その男女がキリストと教会という夫婦を象徴していないからでもあります。不倫の男女は、キリストが教会を無視して不信者たちを愛すること、また教会がキリストを求めず他の主を求めること、この2つを象徴してしまいます。こんなことがあってはなりません。それゆえ、キリストと教会という夫婦を正しく象徴しない不倫の男女は死刑に処せられねばならないのです。

 ここ日本であれアメリカであれ現代社会の多くの国では、不倫は珍しくありません。ある日本の芸能人などは「不倫は文化」などと言いました。このような現代社会は性的に異常になっています。人々はもはや何が聖であるのか知らなくなっています。それは、人々が神の律法を知らないからなのです。この律法のうちに何が聖であるのか示されているのです。もし神がこの戒めを現代社会で実際的に適用されたとすれば、どれだけ多くの男女が死刑になることでしょうか。その数は莫大になるに違いありません。

【22:23~27】
『ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。』
 ユダヤ人の男が婚約中の処女と『町で』一緒になったならば、その処女が何も叫ばなかった場合、どちらも死刑となります。男が死刑になるのは当然のことです。女は叫ばなかったことで事実上罪に同意したわけですから、罪人として男と一緒に死刑に処せられました。もし女が叫んで拒絶の意思を示していれば、女は罪に同意しなかったのですから、死刑になるのは男だけでした。イスラエル社会は聖でなければいけませんから、このような男女は死刑に処して消し去らねばなりませんでした。

 しかし、『野で』ユダヤ人の男が婚約中の処女を犯した場合、もし女が叫んだのであれば、男だけが死刑に処せられました。何故なら、女は叫ぶことで罪に抵抗しようとしたのですから、『死刑に当たる罪はない』からです。しかし、事の行なわれた現場が野であっても、もし女が全く叫ばなかったとすれば女も死刑に処せられるべきでした。現代社会では、たとえ婚約中の処女が婚約している男でない男と一緒になったとしても死刑に処したりはしません。これは現代社会の性倫理がおかしいからであり、社会の精神が姦淫を敵としていないからです。今の社会は性的な正義が何であるのかよく分からないでいます。いや、今の社会はロックフェラーのばら撒いたフリーセックスをその性的な正義にしていると言えるかもしれません。だからこそ、往々にして童貞は低く見られるわけです。「姦淫」が性的な正義であるというのは、なかなか興味深いと言えましょう。

【22:28~29】
『もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。』
 前の箇所では『婚約中の処女の女』について言われていましたが、この箇所では『婚約していない処女の女』について言われています。男が婚約していない処女を犯した場合、その男は死刑になりません。ただ犯した女の父に罰金を支払い、その女と結婚すればそれで済みます。何故なら、その女はまだ婚約しておらず、定められた男がいなかったからです。このため、犯した男がその女の夫に定められるわけです。もし女がその男との結婚を拒んだとしても拒めなかったと思われます。というのも、その男女は既に一体化したからです。既に述べた通り、聖書において一体化と結婚は表裏一体です。すなわち、一体化するのは結婚であり、結婚すると一体になります。もしこの戒めを現代で実際に適用したとすれば、どれだけ多くの男女が夫婦になるでしょうか。そうなれば少子化の問題が解決されることにも結び付くのですが。

【22:30】
『だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。』
 自分の父の妻と結婚することが禁止されています。『父の妻』とは、義母と実の母どちらも指しています。義母と結婚するのは悪いことですが、実の母との結婚は更に悪いことです。それは非人間的だからです。もし父の妻を娶るならば、『父の恥をさらして』しまいます。何故なら、父とその妻は一体だからです。このため父の妻を恥ずかしめることは父を恥ずかしめることになるのです。これは契約の概念を知らないと理解しにくいかもしれません。この箇所では書かれていませんが、もしユダヤ人が父の妻を娶るならば、子も父の妻も死刑に処せられます。それはレビ記20:11の箇所で書かれている通りです。現代の先進国でこの戒めを犯している人はほとんどいないと見られます。もしいたとすればそのような破廉恥漢は大いに非難されるべきでしょう。

【23:1】
『こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。』
 ユダヤ人で男性機能を喪失した者が主の集会に参加するのは罪でした。何故なら、そのような者は聖なる集会を汚してしまうからです。『主の集会』とは、安息日の集会をはじめとした定期的な会合を指します。その集会は聖でしたから、性機能の正常な者だけが参加できます。というのも聖とは正常だということだからです。男性機能を失ったユダヤ人が、事故でそれを失ったのであれ故意にそれを失わせたのであれ、例外なく主の集会には参加できません。この箇所では『こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者』とだけ書かれており、区別や例外事項は示されていないからです。では、もしこのような者が誤ってであれ故意にであれ主の集会に参加したら一体どうなるのでしょうか。これは聖なる集会に対する罪ですから、罪過の生贄を捧げて贖わなければなりませんでした。しかし、性機能を持たなくなった者が主の集会に参加できないからといって、その者が神の民ではなくなるというわけではありませんでした。その者が永遠の昔からイエス・キリストにより選ばれていたのであれば、たとえ主の集会には参加できなくとも神の民であり、天国に行きました。ただ、その者は地上における神の会合を汚さないため、それに参加してはいけないだけでした。それでは、子宮や卵管が取り除かれていたり乳房を切り取られている女、すなわち女性機能を喪失したユダヤ人女であればどうなったのでしょうか。この箇所ではイスラエルの人口名簿に記載されている男についてだけ定められていますから、男の従属者としての位置づけにあった女がどうであったかは分かりません。女の場合は参加できたのかもしれませんし、参加できなかった可能性も十分にあります。

【23:2】
『不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。』
 『不倫の子』は罪により生まれた子ですから、主の集会に参加できません。『その十代目の子孫さえ』と書かれているのは、十代目を過ぎれば参加できるというふうに捉えてはなりません。これは完全数10ですから象徴的に捉えるべきであり、『十代目の子孫さえ』とはすなわち「いつまでもずっと」という意味となります。しかし、あのソロモンはどうだったのでしょうか。ソロモンは明らかに『不倫の子』でありダビデの罪から生まれましたが、彼は主の集会に加わるだけでなく、神の聖なる神殿を建設するということさえ行ないました。この律法により考えるならば、ソロモンは主の集会に参加する資格がなかったように思われます。しかし、彼はダビデという特別に選ばれた者から生まれた特別に選ばれた者でしたから、主の集会に出ることが許されていました。もしソロモンが一般の家庭に生まれた普通のユダヤ人であれば、主の集会には加われなかったかもしれません。

【23:3~6】
『アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。』
 アモン人とモアブ人も、不倫の子と同じように、『十代目の子孫さえ』主の集会に入ることができませんでした。しかし、アモン人とモアブ人の場合、不倫の子と異なり、汚れているから主の集会に加われないと言われているのではありません。彼らの場合、バラムの件でユダヤ人に悪を行なったのが主の集会に加われない理由とされています。この2つの民族はユダヤ人に悪くしたので、ユダヤ人の集会に加わってはいけないのです。あるロックバンドがどこかのホテルか居酒屋で騒ぎを起こせば、それ以降はもうそこに二度と出入りできなくなるでしょう。アモン人とモアブ人がユダヤ人に悪くしたので主の集会に加われなかったのは、これとよく似ています。それでは、もしアモン人とモアブ人がユダヤ人に悪をしていなければ、集会に加わることができたのでしょうか。これは恐らくそうだったと思われます。ここでは彼らの悪が集会に加われない理由とされているからです。ところで、神は彼らの雇ったバラムのユダヤ人に対する呪いを受け入れず、その呪いを祝福に転じられました(5節)。パウロも言った通り、神は御自分の聖徒に起こる事柄をどれも最終的な益へと変えて下さるのです(ローマ8:28)。

 このバラムの件からも分かる通り、神は御自分の聖徒に対して行なわれた悪を覚えておられ、その悪に応じられます。神が御自分の聖徒にされた悪を忘れるということはあり得ないことだからです。こういうわけですから、聖徒たちに悪を行なう者たちは悲惨なのです。教会に悪を行なった者たちが破滅したり逆に支配されてしまった幾つもの事例は、既に語っておきました。この箇所でそれを再び語る必要はないでしょう。教会に悪を行なう者たちは自分たちを攻撃しているのです。ここで書かれているアモン人とモアブ人にしても、もしユダヤ人に悪くしていなければ、主の集会から疎外されることはなかったでしょう。

【23:7~8】
『エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、主の集会にはいることができる。』
 ユダヤ人がユダヤ共同体にいるエドム人を嫌い、菌のように避けることはできませんでした。何故なら、彼らはユダヤ人の兄だからです。エジプトからユダヤ人と一緒に出てきたエジプト人も同様に嫌悪してはなりませんでした。何故なら、エジプト人はかつてユダヤ人とエジプトで一緒に住んでいたからです。この2つの者たちは、不倫の子やアモン人・モアブ人とは異なり、『三代目には、主の集会にはいることができ』ました。不倫の子やアモン人・モアブ人について言われていた『十代目の子孫さえ』という言葉の「十代目」とは象徴的に捉えるべきでしたが、ここで言われている『三代目』とは文字通りの代を意味しています。つまり、エドム人やエジプト人の場合、三代目の世代になれば主の集会に入って構いませんでした。どうして3代目になれば問題ないかと言えば、3代目になれば霊性・精神性が先祖のそれと様変わりするからです。エドム人やエジプト人であっても孫の代になれば、もうすっかりユダヤ人の振る舞いやユダヤ社会の空気に馴染んでいます。ハワイにいる日系人も3代目になると日本語を話せない人が多くなるといいます。1代目と2代目の段階では、まだまだ先祖からの性質が取り除かれていないゆえ、ユダヤ人の集会に加わってはならなかったのです。「別に1代目や2代目でもいいではないか。」と言う人がいても相手にされるべきではありませんでした。神が『三代目には』と言われたのです。どうしてユダヤ共同体にいる者が神の言われた通りにしなくていいのでしょうか。

【23:9~14】
『あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。』
 ユダヤ人が敵との戦いで陣営にいる際は、神が共にいて下さいます。神は聖であられますからその陣営は聖なる場所となります。このため、陣営にいるユダヤ人が夢精をしたならば、陣営から出て、清くなるまでそこに戻ってはなりませんでした。律法は、夢精によりユダヤ人が汚れると述べています(レビ記15章)。もし夢精をした戦士がそのまま陣営にいるのであれば、陣営が汚染されてしまいます。陣営が汚染されるならばユダヤ人は神の祝福を失います。神の祝福を失うのは戦況を根底から左右させます。何故なら、勝利は神の祝福によるからです。それゆえ、陣営で精を漏らすのは重大極まりない意味がありました。それにより勝敗が決まることにもなるからです。なお、神はここで「精を漏らすな」とは言っておられません。何故なら、夢精を避けようとしても出来ない話だからです。それゆえ、ここでは夢精を禁止せず、夢精をした場合にどうすればいいかだけ示されているわけです。

 ユダヤの陣営は聖ですから、そこにおける排泄物の処理にも注意を要しました。聖なる神が排泄物という忌まわしい汚物を嫌悪されることについて、いちいち説明する必要はないでしょう。陣営にいる者は、大であれ小であれ排泄物を土の中に隠し見えないようにする必要がありました。たとえ小のほうであってもそうせねばなりません。何故なら、それは醜く、汚く、匂うからです。もし排泄物が陣営のうちにあれば、その陣営は汚されてしまいます。そうなれば神は陣営から遠ざかられます。するとイスラエルは力を喪失します。何故なら、神はあらゆる力の根源だからです。そのようになればイスラエルは敵に敗北してしまいます。力の神が共にいて下さらないのにどうして敵に勝てるでしょうか。しかし、排泄物が陣営になければ、神は『あなたから離れ去ることのないように』して下さるので、神により勝利できます。力の神がいて下されば勝てないはずはないからです。また、これは下からでる排泄物だけでなく、上からでる嘔吐物も同様だったと考えねばなりません。何故なら、嘔吐物も排泄物と同じで醜く、汚く、匂うからです。ユダヤ人が排泄物を覆う際に使用した『小さなくわ』は水で洗い清めなくても構わなかったでしょう。その鍬は土に触れるだけで、排泄物は付着しなかっただろうからです。また、その際にユダヤ人は『武器とともに』事を為さねばなりませんでした。これは号令がかかったら即座に武器を持って出陣できるためであり、また敵から襲われたり敵が遠くからやって来た際に防戦するためでした。

 神は永遠に不変の御方ですから(マラキ3:6)、いつの時代であっても、あらゆる排泄物を忌み嫌っておられます。それは今の時代でも同様です。それゆえ、現代の聖徒たちは、あらゆる汚れから自分を遠ざける必要があります。というのも、神が排泄物を忌み嫌っておられるというのは、すなわち神が汚れを忌み嫌っておられるということだからです。教会がカトリックのように華美・荘厳である必要はありません。真の教会は質素・小規模でも全く問題ありません。何故なら、パリサイ人たちは外面を重視していましたが、主キリストは内面を重視されたからです。信仰という内面の建物が立派であることこそ重要なのです。しかし、教会は清潔面であれば外面であっても重視すべきでしょう。何故なら、聖徒たちの共同体とは聖なる神の群れだからです。何の汚れもない神の支配する教会が汚かったり菌を多く有しているというのは、あまり良くないでしょう。教会の庭また庭のような場所で小便をするというのはもっての外です。

【23:15~16】
『主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。』
 ユダヤ人がある主人のもとから逃げて来た奴隷を、その主人のもとに返すのは罪でした。何故なら、奴隷が逃げて来たというのは、主人から酷く取り扱われていた可能性が高いからです。もし逃亡奴隷を主人に返せばその奴隷は一体どうなるでしょうか。そのようにするのが非人道的であるのは誰でも分かるはずです。そうするのは悪魔的です。ですから、それは罪となります。まだ奴隷が珍しくなかった古代では、主人に酷くされたので逃げ出す奴隷が多くいました。もしその奴隷が主人に見つけられたら何をされるか分かりません。主人に殺されたとしても不思議ではありません。ですから、奴隷が逃亡するのは命がけでした。

 この箇所から、難民を受け入れることは律法に適っていることが分かります。奴隷と難民は立場こそ違えど状況においては同一だからです。この箇所で神は逃亡奴隷について『彼をしいたげてはならない。』と命じておられます。ですから、奴隷とその状況を同じくする難民に国家は良くしてやらねばなりません。もし難民に良くするならば、神もその国に良くして下さいます。しかし、難民に良くしなければ神もその国に良くして下さらないでしょう。

【23:17~18】
『イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。』
 ユダヤ人の男女は、いかなる理由からであっても、神殿の場所で宗教行為として性の交わりをしてはなりませんでした。異教においては、宗教行為として性行為を行なう男また女が存在していました。今の日本で言えば、新興宗教で「教祖さまと性行為をすれば偉大な神との神秘的な合一が得られるのだ。」などと出鱈目なことを言って信者たちと偽りの神聖さのうちに性行為をさせるようなものです。ユダヤ人は性的に弱い傾向がありましたから、異教徒たちがこのようにしているのは、性行為を合法的に行なうための誘惑となったはずです。宗教を理由とすること以上にある事柄を合法行為に転じさせることが他にあるでしょうか。宗教を理由にできれば大量殺人さえ神聖化することができるのです。しかし、このようにするのは神の民に相応しくありません。ですから、ここではユダヤ人の男女が『神殿娼婦』また『神殿男娼』になることを禁じているのです。古代イスラエルの神殿に商売人はいましたが(ヨハネ2:14~16)、この箇所で言われているような宗教的娼婦また男娼はいなかったようです。

 古代ユダヤでは、聖所に遠くから異邦人がやって来て、ヤハウェ神に誓願を立てることができました(Ⅰ列王記8:41~43)。古代人が神殿の素晴らしさとユダヤの厳かな祭儀に惹きつけられて神殿を訪れるというのは珍しくありませんでした。しかし、『遊女』や『犬』である異邦人が神殿に来て、自分の稼ぎから神に捧げることはできませんでした。彼らは汚れた仕事をしており、その収入は罪によりますから、神はそれを決して受け入れられないからです。ジェファーソンのようにノンクリスチャンでありながら礼拝に参加して献金するのは問題なく、それは神からの祝福を齎しますが、神への捧げ物は正しい仕事により得られた収入からでなければいけません。罪により得られた収入から捧げられて神がどうして喜ばれるでしょうか。私たちにしても、盗んだ物を誕生日のプレゼントに渡されたらどうでしょうか。恐らくあまり嬉しくないのではないでしょうか。この箇所で書かれている『遊女』は説明の必要がありません。『犬』とは男娼のことです。彼らは犬のように軽蔑すべき存在でしたからこう言われています。パウロがピリピ3:2の箇所で『犬』と言っているのは、この箇所とは異なる意味です。17節目の箇所ではユダヤ人が男娼や娼婦になることを禁じており、もしそういった者がユダヤにいればその者は死刑に処せられました。ですから、18節目で『遊女』また『犬』と言われているのはユダヤ人でなく、ユダヤに他国からやって来る異邦人のことであることが分かります。新約時代の今でも、この戒めは有効です。今では例えばソープ嬢やAVの女優また男優が稼いだお金を教会で献金として捧げられません。彼らは罪によりお金を稼いでいるのですから、そのようなお金から出される献金を聖なる神は喜ばれないからです。もしノンクリスチャンが祝福を求めて教会で献金するというのであれば、罪でない仕事により得た収入から献金せねばなりません。

【23:19~20】
『金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。』
 ユダヤ人は外国人からであれば利息を取れましたが、同胞から利息を取るのは罪でした。何故なら、同胞とは神の家族であり兄弟だからです。神という親を共通して持つ同胞兄弟は果たして金づるなのでしょうか。とんでもないことです。もしユダヤ人が同胞から利子を取らなければ祝福されるので、栄えることができました。そのようなユダヤ人は神に喜ばれるからです。

 では、新約時代の今ではどうすればいいのでしょうか。やはり今でも、聖徒たちは自分と同じ聖徒から利息を取らず、ノンクリスチャンに対しては利息を取ってもよいのでしょうか。これはその通りです。聖徒がキリストにある兄弟姉妹から利息を取るのは良くありません。しかし、聖徒でない人であれば利息を取っても取らなくても自由です。取ったとしても取らなくても罪になることはありません。中世になるまでヨーロッパでは伝統として利息が悪と見做されており、それゆえ利息を取る仕事は社会から異端分子として扱われていたユダヤ人がしていました。これは誤っていたと言わねばなりません。何故なら、旧約聖書も新約聖書も利息を禁止していないからです。この箇所から分かるように古代のユダヤ人は外国人から利息を取ることができました。新約聖書でも、主の例え話の中で、怠け者の僕が利息によってでもいいから主人のために稼ぎを得るべきであったと言われています(マタイ25:26~27)。

【23:21~23】
『あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。』
 誓願を立てたら必ず果たさなければならないということが、民数記30:2の箇所に続いて繰り返されています。ユダヤ人にとって誓願を立てることと誓願を果たすことは大きな意味がありました。誓願を立てて果たす者は神をよく表わしているからです。神は誓願を立て、その誓願を果たされる御方です。もしユダヤ人が誓願を立てても果たさなければ罪となります。何故なら、そのユダヤ人は神の似像として造られた存在なのに神に似ていないことをしたからです。もし誓願を立てなければ神に似ることも罪を犯すこともありません。それは、受験を受けなかったので合格も落第もしないのと同じです。

【23:24~25】
『隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。』
 古代ユダヤでは、隣人の所有する畑に生じている作物を食べることが許されていました。土地は神の所有物です(申命記10:14)。土地は人間に貸し与えられていますが、その本質的・究極的な所有者は神であられます。その神が、ユダヤ人の畑に生じている作物を畑の所有者でなくとも食べて良いと言っておられるのです。ですから、ユダヤでは誰かの畑に入って食べても罪となりませんでした。しかし、食べても良いのはその場で腹が満たされるまでであって、後で食べるため『かごに入れ』たり『かまを使っ』たりすることはできませんでした。その畑は他人の所有物であり自分の所有物ではないからです。神がこのように定めておられるのは貧しい人のためです。神は貧しい人が貧しいからといって餓死するのを望まれません。畑の所有者が幾らか収穫の減少を我慢すれば、貧しい人は飢え時にすることがありません。ですから、憐み深い神はこのように命じておられるのです。使徒たちもひもじかった時に麦畑に入って食べましたが、キリストもパリサイ人も使徒たちの振る舞いを非難しませんでした(マタイ12:1~2)。それは律法が許す行為だったからです。しかしながら、今の社会ではこのような法律は考えられないでしょう。現代でこのような振る舞いをすれば罪となり罰せられるはずです。ところが、律法はこのような振る舞いを許さなければ罪とし罰します。神の考えと人の考えは違っているのです(イザヤ55:8)。ですから、神の定められた律法はこのように人間理性に反しています。しかし、律法が定める通りこのような振る舞いを許すならば、その社会では貧しい人が盗みをすることもなくなります。貧しい人が飢えた際は畑に行けば良いのであって、どこかの店や通行人の鞄などから何かを盗む必要がなくなるからです。それゆえ、そのようになれば盗む犯罪がその社会からは無くなることになるでしょう。何故なら、貧しい人は貧しく飢えているからこそ盗むからです。この律法の通りにすれば畑の所有者には多かれ少なかれ損失となりますが、その所有者は間違いなく神の物質的な祝福を受けることができますから問題ありません。貧しい人が畑の作物を食べたとしても、所有者の収穫する分が根こそぎにされるということもないはずです。貧しい人は飢えを凌ぐため仕方なく恥をも顧みずそのようにするだろうからです。貧しくない人は、恥と社会的な名誉がかかっていますから、わざわざ他人の畑に入って卑しい真似をすることもないでしょう。その人はそんなことをしなくても、店で買ったり家にある食物を食べればいいからです。金持ちなのにこのようにする守銭奴もいるかもしれませんが、そのような人物はお金を節約する代わりに、嫌な奴だと思われ蔑まれるという報いを受けるのです。

 この箇所からも律法は愛の戒めであると分かります。この律法では貧しい人を憐れむべきことが示されているからです。ですから、このような律法を実践するならば愛の社会が実現されることになります。そういうわけですから、確かに『律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの』(ローマ7章12節)なのです。これこそ社会に祝福を齎す神聖な法です。ですから、律法を悪と見做し、人間を縛り付ける有害物だと考えるのは間違っています。悪なのはこのような考えであり、このような考えを持つ人は誤謬に縛り付けられています。

【24:1~4】
『人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。』
 古代イスラエルでは姦淫を理由として離婚することが認められていました。実際、マリヤは姦淫をしていませんでしたが、夫のヨセフにはマリヤが姦淫をしたと思われたので、内密のうちにマリヤを離縁させようとしました(マタイ1:19)。この箇所では妻の場合について語られていますが、これは夫が姦淫をしていた場合でも同様です。神はこの箇所で、姦淫をしていたため離縁させられた妻が、離縁させられてから新しく結婚した夫と離れた場合、再び前の夫と再婚することはできないと定めておられます。何故なら、その妻は姦淫のため既に前の夫と切り離されているからです。それは、ちょうど病気で腐っていたため切り取った足を、再び身体に接合できないのと同じです。もし前の夫と再び一緒になるならば御前で大きな罪となります。神はイスラエルにそのような『罪をもたらしてはならない』と命じておられます。イスラエルは聖なる場所であるべきだからです。

 このように神は御自分の住まわれるイスラエルに罪が齎されるべきでないとしておられます。新約時代になった今や、神の住まいは聖徒の身体となっています(Ⅰコリント6:19)。ですから、新約時代の聖徒たちは自分に罪を齎さないようにすべきです。すなわち、私たちは罪を避けるようにすべきです。もし神の住まいである聖徒に罪が齎されたならば、神の怒りが燃え上がることにもなるからです。

【24:5】
『人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。』
 ユダヤ社会において、結婚した男は何らかの義務を負うことなく、自分の妻を喜ばせねばなりません。これは律法の本質が愛だからです。神はこの律法で、ユダヤ社会に新婚夫婦への愛を命じておられます。ここに律法の隣人愛があります。もしユダヤ人が結婚したばかりの男に義務を負わせるならば罪となりました。

 この戒めは現代でも適用されるべきです。徴兵制のある国であれば、結婚して1年未満の男が徴兵されるべきではありません。ここ日本で言えば結婚後1年未満の男に単身赴任をさせるべきではありません。日帰りでない出張もさせるべきではないでしょう。結婚したばかりの妻と一緒にいられないというのは惨めだからです。もし自分が結婚したばかりだったとすれば、何かの義務を負わされたいと思うでしょうか。恐らく思わないはずです。「いや、私は別に結婚したばかりでも義務を負わされて構わない。」と言う人もいるかもしれません。このように言う人は、妻を愛していないか女のことがよく分かっていないのです。女は夫が自分より仕事を優先させることについて全く理解できませんが、彼女たちが抱く不満はもっともです。

【24:6】
『ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。』
 『ひき臼』また碾臼の『上石』を質に取ることは罪となります。何故なら、それを質に取れば、質に取られた人は死んでしまうかもしれないからです。碾臼やその上石を質に取る人は、人を殺そうとしています。ですから、この戒めは『殺してはならない。』という十戒に属していることが分かります。この箇所で言われているのは、『ひき臼、あるいは、その上石』だけに限定されず、もし取られるならば生命に関わる全ての物品であると拡大解釈するのが正しいでしょう。この戒めは時代に制約されない普遍的な内容を持っています。ですから、これはいつでも、またどこの国であっても、守られるのが望ましい戒めです。

【24:7】
『あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。』
 人を誘拐したなら死刑に処せられると出エジプト記21:16の箇所で言われていましたが、この箇所でも同様のことが言われています。イスラエルのうちに誘拐という邪悪な行為が起こってはなりません。ですから、誘拐犯は死刑に処さねばなりませんでした。ヨセフの兄弟たちはこの罪を犯し、愚かにも自分たちの兄弟ヨセフを売り飛ばしました。この兄弟たちはヨセフから死刑に処せられても全くおかしくありませんでした。しかしヨセフは愛の人でしたから、兄弟たちの誘拐罪を赦してやりました。このように誘拐された被害者が赦すというのであれば、加害者は死刑にならなくて済みます。しかし、被害者の赦しがなければ、当然ながら加害者は死刑に処せられねばなりません。なお、この箇所で言われているのは悪意の誘拐だけに限られています。ヴォルムス国会で誘拐されたルターのような善意の誘拐、すなわち生命を助け出すための誘拐であれば罪に定められません。例えば、王族や大統領といった権威者が命の危機に陥った際、もしその権威者を誘拐すれば命を助け出せるのに誘拐しなかったとすれば、誘拐しなかった人は非難されてしまうことにもなります。しかし、誘拐して命を助ければ褒められたり感謝されたりします。ですから、命を救う良き誘拐であれば是非とも行なうのが望ましいでしょう。

 今の日本では、誘拐の罪に対してそれほど大きな刑罰が下されません。誘拐をしても数年だけ懲役刑に服せば再び社会に復帰できます。殺人が伴うのでもない限り、誘拐犯が死刑に処せられることはありません。しかし、これはいかがなものかと思えます。誘拐犯を死刑にしないからこそ、強い抑止力も生じず、ずっと誘拐事件が起こり続けることになるのです。誘拐犯を死刑に処すべきです。「待て待て、誘拐犯にそこまでするのは行き過ぎではないか。」と愚かな人間理性は大声で抗議するかもしれません。しかしながら、行き過ぎだと感じるからこそかえって良く、効果が生じます。もし人を誘拐すれば死刑になると分かっていれば、誰があえて人を誘拐しようとするでしょうか。もし誘拐犯が死刑になれば子どもが大人に連れ去られることを心配しなくても良くなるでしょう。しかし、今の日本社会では誘拐犯が死刑にならないので、親たちは子どもが誘拐されないかビクビクしてばかりなのです。誘拐を死刑に定めない社会は、正義の敵であり、悪の味方であり、誘拐犯の協力者なのです。

【24:8~9】
『らい病の患部には気をつけて、すべてレビ人の祭司が教えるとおりによく守り行なわなければならない。私が彼らに命じたとおりに、それを守り行なわなければならない。』
 『らい病』については、祭司が神の命令通り教えるように処理しなければなりません。もし民が自分勝手に処理すれば罪となりました。9節目では、モーセを非難したミリヤムがらい病に犯されたあの出来事を思い出すように命じられています。ミリヤムがらい病に犯されたのは、モーセを非難して神の裁きを招いたからでした。もし彼女が神の不快になることをしていなければ、らい病には犯されていませんでした。つまり、この箇所では神の不快なことをすればミリヤムのようにらい病の裁きが下されるぞと威嚇されているのです。

 ところで、新改訳聖書やその他の翻訳聖書ではこの感染症が『らい病』と訳されていますが、これはらい病でない可能性が高い。何故なら、らい病は人間や動物といった生命体にだけ感染するからです。ところが、私たちが既に見た通り、『らい病』と訳されている感染症は生命体だけでなく、『衣服』(レビ記13章47節)や『家』(レビ記14章34節)にも感染しました。もしこれが本当にらい病であれば非生命体には感染していなかったはずです。それゆえ、この『らい病』はらい病でない他の感染症だったと考えられます。

【24:10~13】
『隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家にはいってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。』
 ユダヤ人が何かを貸すので担保を隣人から取る際、担保を取るため貸した人の家の中に入ることは罪となりました。貸し主は、借り主が担保を家から持って出て来るのを待たねばなりません。どうして貸し主が家の中に入ってはいけないのでしょうか。この箇所では入っていけない理由を示していません。入っていけないのは、もし貸し主が家の中に入れば良からぬ企みを持ちかねなかったからなのだと思われます。

 貧しい人から担保を取る際は、その貧しい人の家に入るべきでないのはもちろんですが、その担保を日没には返さねばなりませんでした。貧しい人は少しだけ何かが減るだけでも大変になってしまいかねないからです。もし担保を貸し主が日没に返すならば、貧しい人は貸し主への祝福を神に願ってくれるでしょうが、神はその願いを聞いて下さいます。しかし、担保を日没になっても返さないで翌日まで取ったままにすれば、貧しい人は悲惨になって神に貸し主のことを訴えかねないので、その貸し主は神から呪われることにもなってしまいます。というのも、神は貧しい人の声を聞き届けて下さるからです(申命記15:9)。このことからも分かる通り、貧しい人に対する私たちの振る舞いはあまりにも大きな意味を持っています。栄えている企業や団体でボランティア活動を行なっているところが多いのは、こういうわけなのです。

 13節目で貧しい人に担保を返すことが『あなたの義となる』と言われているのは、私たちの行ないが義認の理由になるという意味ではないことに注意せねばなりません。何故なら、パウロも言ったように『律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないから』(ガラテヤ2章16節)です。神の子らでないカトリック教徒は、プロテスタントに何を言われようとも、ここで『あなたの義となる』と言われていることを行為義認の根拠にするかもしれません。しかし、聖書は信仰義認を教えているのですから、彼らがこの言葉を行為義認の根拠にするのは大間違いです。ここで『あなたの義となる』と言われているのは、単に「神の御心に適った正しい行為である」というほどの意味です。もし救いが行ないによるのであればもはや救いは恵みによりません(ローマ11:6)。もし救いが行ないによれば、その救いは「神の救い」でなく「人間自身の救い」となるので、神が不要となりキリスト教は根底から覆されてしまいます。私たちは間違わないようにしなければなりません。

【24:14~15】
『貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。』
 ユダヤ社会で、貧しい人を雇っている雇用者がいれば、特例としてその日のうちに給料を支払わねばなりませんでした。貧しい人はそうされなければ食べる物にさえ悩むことになりかねないからです。この戒めでは、給料の即日払いについてだけ語られています。神が給料をその日に払えと命じられたのは、貧しい人の生活が大変にならないためでした。それゆえ、雇用者はこの戒めにおける神の御心を汲み取り、給料以外の事柄でも貧しい人の生活が困らないよう取り計らうべきでした。神は貧しい人を憐れんでこのように定められました。ですから、この戒めにも律法の隣人愛が示されています。なお、貧しくない人が貧しい人のように給料をその日に貰おうとしても許されなかったはずです。何故なら、この箇所では貧しい人が貧しいからというので特例として即日払いが定められているからです。

【24:16】
『父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。』
 律法は、親が犯した罪の刑罰は子どもに及ぼされず、子どもが犯した罪の刑罰も親に及ぼされないとしています。例えば、父親が殺人を犯したのでその子どもも父親と一緒に刑罰として死刑になることはありませんでした。何故なら、『人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。』からです。現代の日本社会でも、どうしてそのようなことが起こるでしょうか。オウム真理教の麻原彰晃ほどの犯罪者でさえ、死刑になるのは自分だけであり、その子どもまで死刑にされることはありませんでした。ところが、エゼキエル時代のユダヤでは、父が犯した罪が子どもにも及ぼされると考えられていました。つまり、父が罪を犯したのであれば子も共犯者にされてしまうと。ですから、当時のユダヤでは『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』(エゼキエル18章2節)という諺が流行していました。これは思い違いでしたから、神はエゼキエルを通して愚かなユダヤ人を戒められました(エゼキエル18章)。

 「しかし、十戒によれば父の罪が子にも及ぼされるのではないか(出エジプト記20:5)。」と問う人もいるかもしれません。確かに神は父の罪に対する呪いをその子孫にも及ぼされます。これは十戒から明らかです。しかし、十戒で言われているのは系譜的な罰の継続性です。つまり、十戒の箇所で言われているのは、子が生まれてから犯された親の罪に対する実際的な刑罰を子にも及ぼすということではありません。親の罪に対する裁きは、系譜的には子にも及ぼされますが、司法的には子に及ぼされません。このように「系譜的」と「司法的」という区別を付ければ正しく良い理解が得られます。神は親の罪を子に及ぼされるが及ぼされない。これはこの2つの区別を弁えれば何も矛盾していないことが分かります。しかしこの区別を弁えないと、聖書には矛盾があると考えてしまうことになります。

【24:17~18】
『在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。』
 ユダヤ人は『在留異国人』や『みなしご』や『やもめ』といった力が弱く社会的な立場の低い人たちを蔑ろにしてはなりませんでした。むしろ、聖徒は彼らに良くしてやらねばなりませんでした。『やもめの着物を質に取ってはならない。』と命じられているのは、寡婦が服を失えば惨めなことになりかねないからです。今の教会はああだこうだと言って惨めな人たちを憐れんだり施したりしようとしない傾向があります。この箇所の律法からも分かる通り、これは明らかに律法に反しています。このようだからこそ今の教会は世から無視され蔑まれるばかりなのです。私はこれまでいかにも合理的に思えるかのような理由を述べて悲惨な人たちを憐れもうとしないキリスト教徒を実際に幾人も見てきました。私は言いますが、彼らは決して祝福されていませんし、これからも祝福されることは恐らくないだろうと思います。口先では信仰深そうにしている兄弟がいたならば、その兄弟が貧しい人を憐れんでいるかどうか考えるとよいでしょう。考えても実際はどうなのか分からない場合は、判断を留保しておくべきです。もしその兄弟が貧しい人を敬虔に憐れんでいたとすればその人は本物の信仰者でしょう。しかし、貧しい人を憐れんでいないか、憐れんでいてもパリサイ人のごとく見せつけるために憐れんでいたとすれば、その兄弟は口先だけの信仰者である可能性が高いとせねばなりません。これは昔の敬虔な信仰者を見ても分かることです。例えば、有名な説教者であるスポルジョンは口で敬虔なことを多く言いましたが、私財を投げうって何十もの慈善活動をしており死ぬ際に財産は家具ぐらいしか残っていませんでしたから、本物の信仰者であったことが分かります。神と隣人のために少しも自己の財産を犠牲にしようとしない者は悔い改めて態度を変えねばなりません。18節目でも書かれている通り、かつてユダヤ人はエジプトで奴隷状態にされていました。しかし、そのように惨めだったユダヤ人を神は贖い出して下さいました。ユダヤ人はこのことを思い出さねばならないと言われています。つまり、ユダヤ人はかつて惨めだった自分たちを神が助け出して下さったように、自分たちも在留異国人や孤児や寡婦といった惨めな人たちを憐れんでやらねばならないのです。もしそうしなければ罪に定められました。

【24:19~22】
『あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。』
 ユダヤ人は、畑で取り残した作物を取りに戻ったり、作物を打ったり収穫する時は一通り収穫したら再び収穫しに行ってはなりませんでした。何故なら、神は畑に残された作物を惨めだったり貧しかったりする人たちに与えよと命じられるからです。もしそれらの作物を取り残しておけば、悲惨な人たちが来て食べられるので、彼らは飢え死にすることもないのです。土地をその所有者に貸し与えられた神がこのように定めておられます。ですから、ユダヤ社会で畑の所有者が作物の取り残しを取りに戻ったり再び収穫しに行ったりするのは罪となりました。22節目では、先の箇所でも言われていた通り、ユダヤ人がかつて奴隷として惨めな状態に服していたことを思い出せと言われています。確かにユダヤ人はかつて惨めでした。しかし、神がそのような状態のユダヤ人を憐れんで下さったので、ユダヤ人も惨めな状態にある隣人に良くしてやらねばならないのです。というのも、神の民は自分たちの主である神に似ているべきだからです。

【25:1~3】
『人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。』
 イスラエルの裁判は徹底的に公正な裁判とされねばなりません。何故なら、イスラエルとは真実で正しい神の支配する共同体だからです。箴言17:15の箇所が示す通り、不正な裁判や判決は神の忌み嫌うことです。もし正しい判決が下されたならば、罰せられるべき罪人は、その犯した罪に応じ、最高で39回までの鞭打ち刑に処せられました。「40」とは聖書で十分さを示します。つまり、『四十までは彼をむち打ってよい』とは罪人が『卑しめられないため』の制限でした。何故なら、その鞭打ち刑は40回に達しなかったからです。それはその刑罰がその回数において不十分であることを意味します。それゆえ、39回までならばその鞭打ち刑は十分な刑罰とはならないので卑しめられることになりません。しかし、40回に達するならば鞭打ちをする者は罪に定められてしまいます。『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます』(Ⅱテモテ3章12節)から、敬虔に生きていたパウロはユダヤ人から悪者扱いされ何度も鞭打ち刑に処せられましたが、その鞭打ちが40回に達したことは一度もありませんでした(Ⅱコリント11:24)。パウロ時代のユダヤ社会は不信仰で不敬虔でしたが、それでも鞭打ちの刑罰においては律法通りに行なっていたようです。もしある社会がこの原理を取り入れるというのであれば、刑罰においては40回まで達しないようにすべきです。すなわち、その社会で鞭打ち刑が行なわれていれば古代イスラエルのように39回までを限度とし、懲役刑が実施されていたならば「40」年に達するまで懲役をさせるべきではないでしょう。このように鞭打ち刑が39回までに定められたのは安全面から言っても人道的なことでありました。鞭打ち刑とは恐ろしい刑罰であって、か弱い女性であれば目玉が飛び出ることもあり、鞭で打たれると皮が破れて骨だけになることも珍しくなく、失神する人も多く、古代では100回も打たれたら死ぬと思われていました。ネロも元老院が自分を鞭打ち刑に処すると決めたのを知った時、大いに震えて元老院議員たちに媚びへつらおうとしたほどです(スエトニウス『ローマ皇帝伝』)。100回で死ぬというのであれば、39回までという定めは生命を守るためでもあったことになります。

【25:4】
『脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。』
 律法は、脱穀をして働いている牛にくつこを掛けて邪魔してはならないと定めています。何故なら、その牛は労働をしているので、そのままにしておくべきだからです。人間のために働いている牛を邪魔するというのは明らかに道徳的ではありません。それは悪魔的な振る舞いです。それゆえ、そのようにするならば罪に定められてしまいます。

 しかしながら、この律法は牛を対象としているというより人間を対象としています。つまり、この律法は人間に対する愛を命じています。パウロも言った通り、これは働いている人間を邪魔したり、また働いた人間が受けるべき正当な報酬を受けられないよう妨げたりすべきではないことを命じています(Ⅰコリント9章、Ⅰテモテ5:17~18)。つまり、ここで言われている『脱穀をしている牛』とは人間を示しています。もし、しっかりと働いている人に『くつこを掛ける』ならば罪に定められます。今の教会は残念ながら『脱穀をしている牛にくつこを掛けて』います。いや、昔からそうでした。ルターも嘆いた通り、教会の教職者たちはずっと信徒たちの献金不足に泣かされてきたからです。しっかりと働いている教職者たちを認めず呟いてばかりいる高慢な中傷家もいます。このような者は『脱穀をしている牛にくつこを掛けて』いるのです。教会がこのようになっているのは信徒たちの霊性が低くなっていることに原因を求められます。しかし、教職者たちが脱穀中の牛を邪魔すべきでないとしっかり教えていないことも原因の一つとしてあります。

【25:5~10】
『兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。』
 あるユダヤ人の兄弟が一緒に住んでいた場合、一方の兄弟が子どもを残さず死んだならば、生きているほうの兄弟は死んだ兄弟の妻によりその兄弟の子を生ませ、その子どもに死んだ兄弟の名を継がせねばなりませんでした。これはレビラート婚と呼ばれました。このようにすべきだったのは、イスラエル社会において名前というのは重要な意味を持っていたからです。もしある人の名と共にその家系が途絶えたならば、その人の相続地が別の家系へと移されてしまうのです。もしレビラート婚を拒む男がいれば罪となりました。そのような男に対し、死んだ兄弟の妻は『つばきして』、『彼の足からくつを脱がせ』ねばなりませんでした。唾をかけるのは蔑み、また軽蔑されるべき者であることを示すためです。靴を脱がせるのは、その男がレビラート婚を拒絶したことの証明とするためです。古代ユダヤでは、あることを証明するために靴を脱がせる習慣がありました(ルツ4:7)。それ以降、この男は『くつを脱がされた者の家』という蔑称で呼ばれることになります。レビラート婚を拒絶する男が続出しないため見せしめにするためです。今の時代ではもうこのようなことをする必要がなくなっています。何故なら、この定めは割礼と同じで古代ユダヤだけが守れば良かったからです。

【25:11~12】
『ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。』
 ある2人の男が争っている際、一方の男の妻が夫に敵対する者の『隠しどころをつかんだ場合は』、『その女の手を切り落と』さなければいけませんでした。切り落とすべきなのは夫か敵対する男か近くにいる第三者です。もしその時に切り落とさなければ後ほど切り落とさなければなりません。この箇所では『隠しどころをつかんだ場合』と書かれていますが、掴んだ場合だけでなく蹴ったり何らかの物体で攻撃した場合でも切り落とさなければいけません。何故なら、ここで隠し所に対する攻撃の全般が言われていることは明らかだからです。どうしてこのような場合は女の手を切り落とすべきだったのでしょうか。一つ目の理由は、隠し所にはその人およびユダヤ社会の未来があるからです。『生めよ。増えよ。地を満たせ。』という神の命令を実現させる部位を攻撃するというのは、ユダヤ人の未来を攻撃することに他なりません。それはユダヤ社会の未来を否定することですから、隠し所を攻撃する女の手は切り落とされねばならなかったのです。二つ目の理由は、二度とこのようにする女がユダヤで現われないよう見せしめとするためです。女は外見を大いに気にする性ですから、隠し所を掴んだ女の手が切り落とされたとなれば、ユダヤにいる女に対し大きな威嚇となるのです。見栄えが気になる若い女であれば決してこのような罪を犯そうとはしなくなるでしょう。手のない女の美貌は半減もしくは除去されてしまうからです。女の手を切り落とす際は『容赦してはならない』と神が言っておられます。容赦するならば罪となりました。何故なら、容赦する者は隠し所から生ずるイスラエルの未来を別にどうでもいいと思っているからです。彼にとってはイスラエルの未来よりも女の手のほうが大切なのです。その価値観が「容赦する」という振る舞いに反映されています。これは例えるならば、何者かに襲われて命の危機に陥った王を即座に助けようとしなかった側近が、王に真の忠誠心を持っていなかったことを暴露させてしまうのと同じです。

【25:13~16】
『あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようにことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。』
 律法は、ユダヤ人が何であれ不正な量りを持つことを禁じています。ユダヤ社会では、貨幣に混ぜ物をしたり、商売や建設その他の工事で量りを胡麻化したり、またこのような類に属する不正がことごとく禁止されます。何故なら、神は真実で正しい御方だからです。神は御自分がそうであるように、御自分の聖徒たちから成り立つイスラエル社会でも全てが真実で正しく行なわれるのを求めておられます。ですから、ユダヤ人が何であれ不正を働くのであれば罪となりました。もしユダヤ人がこの戒めを守るならば、ユダヤ人は祝福されるので、『長く生きる』ことができます。神が正しく生きているユダヤ人を喜ばれるからです。しかし、もしユダヤ人が不正をするならば、呪われるので長く生きることはできません。貨幣の偽造や商売での誤魔化しなど不正をする者は、その生き方の全体において不正に傾きやすいからです。そのような者は呪いにより悪い境遇へと陥らされるものですから、カナンの地で長く生きることはできないのです。この箇所における戒めは、今に至るまで多くの国で守られるべきことだとされてきました。どこの国でも不正が禁じられていることを知らない人はいないでしょう。私たちも個人的に何か不正や欺きをしないようにすべきです。律法を知らない未信者でさえ、その殆ど全ての人は、この律法が禁じていることに手を出そうとはしないでしょう。つまり、この律法を知らないのにこの律法を自然と守っています。ところが私たちはこの律法を知っています。ですから、神がこのように命じておられるのを知っている私たちが何か不正をしたとすれば、その不正は未信者が不正をした場合よりも遥かに悪いのであって、そのようにする私たちの罪深さは一体どれほどでしょうか。

 しかし、不正をした場合にはどのような刑罰が下されるのでしょうか。この箇所ではその刑罰について何も指示されていません。聖書の他の箇所でも示されていません。古代の歴史書を見てもその刑罰がどのようであったか分かりません。ユダヤ以外の国はと言えば、多くの国がこれまで貨幣の偽造に対して死刑を下してきました。聖書は不正に対する刑罰を何も指示していないのですから、人間が自分たちの判断により自由な刑罰を下して良かったと思われます。つまり、死刑にしようが懲役刑または罰金刑にしようが問題なかったはずです。しかし、不正はここで明らかに罪とされていますから、それに対して全く刑罰を下さないというのだけは駄目だったでしょう。刑罰を下さないというのであれば、それが罪だとは言えなくなってしまうからです。

【25:17~19】
『あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。』
 神は、約40年前にアマレク人がユダヤ人たちに行なった悪を覚えておられました。イエス・キリストにより赦された罪を除き、神が何かを忘れて下さるということはありえません(イザヤ43:25)。もし神が何かを忘れ去るというのであれば、それが神だとは言えなくなるでしょう。何故なら、神とは全知であられるからこそ「神」なのですから。また、神は悪に対して必ず報復される御方です。『主は決して罰せずにおくことはしない方。』(ナホム1章3節)と預言者が言った通りです。ですから、アマレクの蛮行を覚えておられた神は、やがてユダヤ人がアマレクに対し神の報復を代行しなければいけないと命じておられます。この命令はサウルがイスラエルの王だった時に実行されました(Ⅰサムエル15章)。これはこの時から約300年後のことです。しかし、サウルは愚かだったのでアマレク人に対する聖絶を中途半端に行なってしまいました。この大きな罪のため、サウルは王位から退けられてしまったのでした。

 ここで言われているアマレク人もそうでしたが、神は聖徒たちに対して為された敵の悪を記憶しておられます。神はその悪に対し必ずやがて報復なさいます。『主は報復の神で、必ず報復される』(エレミヤ51章56節)と書かれている通りです。そして、報復されると敵は滅ぼされてしまいます。つまり、聖徒たちを攻撃する敵は、結局のところ自分たちを攻撃して滅ぼしているわけです。これだから教会の敵は悲惨なのです。もし敵が攻撃をしていなければ滅びずに済んでいたかもしれないのです。しかし、これまでもそうでしたしこれからもそうでしょうが、敵は教会への攻撃を止めようとしないでしょう。それは、攻撃するその敵が滅びに定められているからなのです。

【26:1~11】
『あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに苛酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。』
 ユダヤ人がカナンの地に安住したならば、『神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所』であるエルサレムに行き、カナンで収穫した産物の初物を『いくらか』神に捧げねばなりません。『いくらか』というのは具体的な比率が定められていませんから、各自が良いと思えるほどの比率にすべきだったのでしょう。多いのは問題なかったでしょうが、少な過ぎるのは問題だったはずです。その捧げ物は祭司を通して神に捧げられます。祭儀の執行を担当するのは祭司たちだからです。そして祭司は神に対し、神がかつてエジプトにいたユダヤ人を連れ出して下さったからこそユダヤ人はカナンの地に入れたこと、また神がそのようにして下さったからこそユダヤ人は収穫を得られたこと、この2つを報告せねばなりませんでした。そうして捧げ物を捧げ神への礼拝が為されます。ここにおいて神の栄光が現わされるのです。そうしたならば捧げ物を持って来たユダヤ人は、その捧げ物をレビ人および在留異国人と共に食べて喜びます。在留異国人も共に食べて喜ぶべきだったのは、彼らもユダヤ社会の一員だからであり、また彼らは立場的に弱いので良くしてやるべきだったからです。なお、この時にユダヤ人が捧げる作物は、収穫した作物のうち最上の物であるべきだったでしょう。傷が付いていたり汚れていたりする作物を神に捧げてはならなかったはずです。神が寛大にもカナンの地で大いに収穫を得させて下さったというのに、その収穫を与えられたユダヤ人のほうはといえば卑しく振る舞うことは許されなかったはずです。また、これは今の時代でも実践されるべきでしょう。すなわち、私たちも古代ユダヤ人のように神から良い境遇に導かれたり繁栄させてもらえたりしたならば、神が豊かに与えて下さった収入や財産のうちから最上の部分を『いくらか取って』捧げるべきです。そのようにしたらどれだけ敬虔なことでしょうか。

【26:12~15】
『第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」』
 3年目ごとに納める福祉の十一については既に述べておきました(申命記14:28~29)。この3年ごとの十一を納め終わったら、ユダヤ人は再び神に対し敬虔な言葉を申し述べなければいけません。前の箇所ではエジプトからカナンに導き入れられた時までのことを言うべきだと定められていましたが、今度はカナンに入ってから3年間の歩みが敬虔だったと言わねばならないと定められています。その時、ユダヤ人は敬虔に歩んだ自分たちが神から祝福されるよう願い求めます。神はこの願いを聞き入れて下さいます。何故なら、神は御自分に従う敬虔な者たちを喜ばれるからです。ちょうど良い子として歩んでいる子どもが親から良くしてもらえるのと同じです。

 この3年ごとの十一は、その清らかさが保持された物でなければいけませんでした。すなわち、惨めな人のために使われるのだからといって取るに足らない部分や汚された物を納めてはなりませんでした。それは『喪のときに』食べられてはいけませんでした。つまり、惨めな人のため用にしっかりと分離し保持しておかれるべきでした。何故なら、既に死んだ故人よりも惨めな人たちのほうが遥かに大切にされるべきだからです。たとえその故人が自分にとって重要な人物だったとしても、です。ソロモンも言ったように『生きている犬は死んだ獅子にまさる』(伝道者の書9章4節)からです。また、それは『汚れているときに』食べてもいけませんでした。そうするのは憐れまれるべき惨めな人たちを愚弄することだからです。また、それを『死人に供えた』りしてもなりませんでした。それは異教徒たちのする異教じみた行ないであって、それは死人のためでなく惨めな人のために与えるべきだからです。

【26:16~19】
『あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と光栄とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。』
 モーセはここでイスラエル人が神に服従しようとしていると言っています。またモーセはイスラエル人が主の『御声に聞き従うと断言した』と言っています。約40年前にイスラエル人が服従すると言ったことであれば、しっかりと書き記されていました(出エジプト記20:19)。しかし、この時にはイスラエル人が主に服従すると言ったとどこにも書き記されていません。これはただそのことがここで書き記されていないだけです。書き記されていないからといって『御声に聞き従うと断言した』のではないということにはなりません。このように断言したイスラエル人でしたが、神に服従することはできませんでした。口から出たことを行ないでもするのはなかなか難しいのです。ペテロも主を決して否まないと言いましたが、それからすぐに3度も主を否むことになりました。つまり「言うは易く行うは難し」というわけです。もし口で言った通り敬虔に歩んでいる人がいれば、その人は本物の信仰者でしょう。

 18節目で言われている通り、また申命記7:6の箇所でも言われていた通り、ユダヤ人は神の『宝の民』でした。ただユダヤだけが神にとって宝のように尊い民でした。その他の民は全て『宝の民』ではありません。何故なら、異教徒たちは「見捨てられた滅びの民」だったからです。少なくとも旧約時代においてはそうでした。このような宝の民であったユダヤ人がもし主に服従するならば、諸国の上に高められ、多くの国々を支配し凌駕できるようになります。神が敬虔なユダヤ人を気に入られ祝福されるからです。これはダビデの時に実現しました。ダビデの頃のユダヤは敬虔で神に喜ばれていたので、祝福されて周りの国々に対する強力なプレゼンスを持つことが出来ていました。この祝福はソロモンの治世にまで及ぼされましたが、ソロモン以降のユダヤは神に喜ばれなかったので祝福されず他国に支配されてばかりいました。もしユダヤ人がそのようにして服従するならば、ユダヤ人は『聖なる民』となります。何故なら、神の聖なる律法を守って聖なる歩みをしているからです。しかし、ユダヤ人は神に服従しなかったので「反逆の民」となってしまいました。

 ここで言われている約束は、古代の聖徒だけでなく今の聖徒にも有効です。新約時代の聖徒たちももし神に服従するならば、高められて多くの存在の上に立ち、支配力を持てるようになります。国家ではどうでしょうか。アメリカやイギリスを見て下さい。そこは神の聖徒たちであるプロテスタント教徒が多くいる国なので、祝福されて他の国に優越することができました。個人ではどうでしょうか。クレルヴォ―のベルナルドゥスやルターを見て下さい。この2人は神に従う非常に敬虔な信仰者だったので、祝福により高められ、知者たちや支配者たちにも一目置かれ大きな影響力を持つことができました。私たちが上に高められたければ神の命令を守らねばなりません。神に喜ばれない命令違反者がどうして高められるでしょうか。主の御前で遜るのです。そうすれば主が私たちを高めて下さいます(ヤコブ4:10)。

【27:1】
『ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。』
 ここでもまたユダヤ人が命令を守るようにと命じられています。これまではモーセが命令を守るよう命じていましたが、ここではモーセと共に『イスラエルの長老たち』も命じています。長老たちとは羊飼いであり、ユダヤの一般会衆は羊でした。ですから、羊が羊飼いに従うように、民は長老たちが命じる命令を実行せねばなりませんでした。

【27:2~8】
『あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かってヨルダンを渡る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたがたがはいるためである。あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。そこに、あなたの神、主のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、主に全焼のいけにえをささげなさい。またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。それらの石の上に、このみおしえのすべてをはっきりと書きしるしなさい。』
 ユダヤ人がヨルダン川を渡りカナンの地に入る際は、大きな石を立てて石灰を塗り、それに律法を全て書き記さなければなりません。これは、ユダヤ人がこれからカナンの地で律法に適った正しい歩みをするためでした。つまり、この石は律法について強い認識を持つために立てます。このようなことをすれば、ユダヤ人の脳内には律法がよく感じられるようになるのです。その石には『みおしえのすべてのことばを書きしる』すのですから、幾つもの石が立てられたはずだと思われるでしょう。また、もしそれが一つの石であれば、全ての律法を書き記すのですから、非常に大きな石であり、しかも書き記される文字は非常に小さかったと思われるかもしれません。この2つのうち正しいのは幾つもの石が立てられたという考えです。何故なら、この箇所では大きな石について『それら』と言われており複数あったことが示されているからです。この石に『石灰』を塗るのは、明らかに石の傷や模様や凹凸を隠すためですから、そこに書き記される律法が神聖であることを示すためです。というのも神聖さとは不調和や汚れがないことだからです。石に律法が書き記されたのは刻み付けることによってです。すなわち、文字が書かれたのは墨などのインクによりません。古代で石や固い物体に文字を書き記す際は、発掘された昔の物品を見れば分かる通り、刻み付けるのが一般的だったからです。もしユダヤ人がこの石を立てなければ、カナンに入って正しい歩みをするのは多かれ少なかれ難しくなっていたでしょう。何故なら、石を立てないので律法が脳へ強く刻印されないからです。この石はもう既に消え去り残っていません。もしこの石がパレスチナのどこかで発掘されたとすれば世紀の大発見になることは間違いありません。

 ユダヤ人がヨルダン川を渡ったら、今度はこの石を『エバル山』に立て石灰で塗り、その石の傍に祭壇を築いて礼拝せねばなりません。これもやはりユダヤ人が律法を強く認識して敬虔に歩むためです。この時のユダヤ人は霊的な幼児でありまだまだ未熟でしたから、このような実物教育を通して信仰深くされねばいけなかったのです。エバル山とはシェケムの場所にあり、そこはマナセの半部族の相続地となりました。この時に築かれる祭壇は『自然のままの石で』、人間の作った『鉄の道具を当ててはな』りませんでしたが、これは神への礼拝が純粋に行なわれ人間的な考えや要素を混入させるべきでないということです。出エジプト記20:25の箇所では、もし祭壇に鉄の器具を当てるならば祭壇が汚れることになると言われていました。

【27:9~10】
『ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。あなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行ないなさい。』
 モーセと祭司は民に『静まりなさい。』と命じていますが、これは心を騒がせるなということです。キリストも『あなたがたは心を騒がしてはなりません。』(ヨハネ14章1節)と命じられました。心が静まっていなければ、しっかりと聞いたり信じたりするのが難しくなるのです。揺ら揺らした心がどうしてある対象を的確に把捉することができましょうか。モーセと祭司はユダヤ人が『きょう』『主の民となった』と言っていますが、『きょう』より前は『主の民』でなかったというのでしょうか。そんなことはありません。この時より前もやはりユダヤ人は『主の民』でした。この箇所では、ユダヤ人が主の民であることを改めて宣言し、民がそのことを再認識するようにさせているだけです。ユダヤ人は確かに『主の民』でしたから、自分たちの主である神にしっかり聞き従わなければいけませんでした。

【27:11~13】
『その日、モーセは民に命じて言った。あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。』
 民がカナンに入ったならば、6つの部族が民の祝福のためゲリジム山に、他の6つの部族が民の呪いのためエバル山に立たねばなりませんでした。ゲリジム山はシェケムの南にあり、エバル山はシェケムの北にあり、この2つの山は近い距離にあります。このようにするのは、ユダヤ人が祝福と呪いについて強く認識するためでした。別にこのようにしなかったとしても、ユダヤ人が神の祝福と呪いを認識することは出来たでしょう。しかし、成人式や結婚式と同じで、儀式を行なうからこそその事柄を強く認識できるようになるのです。成人式に参加しなくても成人しますが参加するならばより成人になったことを認識できますし、結婚式も同様のことが言えます。2つの山で行なうこの儀式もそうでした。祝福するための山ゲリジムに指定された部族は、より祝福されていた部族だったと思われます。呪いのための山エバルに指定された部族は、ゲリジムに指定された部族に比べると祝福されていなかったと思われます。しかし、どうして南にあるゲリジム山が祝福の山として定められているのか?、と疑問に思う人もいるかもしれません。確かに聖書では北のほうが南よりも優位に立つ方角として取り扱われていますから、北の山エバルが祝福の山として定められていないことを疑問に思ったとしても、不思議ではありません。しかし、この時には南の山ゲリジムこそ祝福の山として定められるべきでした。何故なら、南にあったゲリジム山のほうが神のおられるエルサレムに近いからです。もしエルサレムが考慮されなくてもよかったとすれば、恐らく北にあったエバル山が祝福のために定められていたはずです。

【27:14】
『レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。』
 民の教育係また霊的な指導者であったレビ人が、民の守るべき掟を厳かに宣言します(申命記27:15~26)。この宣言を聞いた民は『アーメン。』と言って同意せねばなりません。このアーメンが口先だけの言葉ではいけなかったのは言うまでもありません。神は口先だけの者を嫌われるからです。レビ人がこの宣言を『大声』で語ったのは、その宣言が重要であったからに他なりません。キリストも重要なことを語る際には大声で語られました。この宣言形式は今でも行なわれたら喜ばしいと思えます。すなわち、牧師か伝道師が新約時代の聖徒たちの守るべきことを宣言します。例えば、「神の国とその義とを第一に求めなければ神から祝福されることはできない(マタイ6:33)。」などと宣言します。または「兄弟に躓きを与えるようであれば石臼を首に結わえ付けられて海に投げ込まれたほうがましである(ルカ17:2)。」などと言ってもよいでしょう。そうしたらその宣言を聞いた聖徒たちが『アーメン。』と言って応じます。これは印象的で分かりやすい教育手段となるでしょうから、もし行なうのであれば益があると私には思えます。