【申命記27:15~30:5】(2022/04/03)


【27:15】
『「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳造を造り、これをひそかに安置する者はのろわわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。』
 何であれ偶像を造って安置するならば、罪に定められ呪われてしまいます。これは十戒の第2番目に対する違反です。この罪が宣言のうち最初に挙げられているのは、恐らくこの罪がどれだけ忌まわしいのか示そうとしてのことではないかと思われます。古代ユダヤ人はこのように言われていたのに偶像の罪を犯しました。このため彼らは呪われてアッシリヤとバビロンに滅ぼされました。今の世界を見ても分かる通り、偶像の国があまり栄えていないのは、偶像を造って拝んでいるからです。偶像を忌み嫌われる神がどうして偶像に心を傾ける国を祝福されるでしょうか。カンボジアなどでは普通に仏像が堂々と拝まれており、最近ではプリズム崇拝という実に驚くべき崇拝方法を取り入れていますが、こういった国がどうして呪われずにいられるでしょうか。それゆえ、偶像の国はその多くが困窮したり貸して貰ってばかりしているのです。プロテスタント教徒に対しては、ここで禁止されている罪を犯すなとわざわざ戒める必要がありません。何故なら、プロテスタントの兄弟姉妹は何も戒められなくても偶像の罪に陥ることはないだろうからです。どこかにプロテスタントでありながら仏像などを拝んでいる人がいるのでしょうか。ほとんどいないでしょう。もしいたとすれば、そのような兄弟また姉妹は愛をもって戒められねばならないでしょう。偶像を拝んでいる世の人々に対しては、呪われるべき偶像の罪を悔い改め神に立ち返るよう働きかけていかねばなりません。何故なら、偶像の罪を悔い改めなければ、その人はやがて地獄で永遠に苦しむからです(黙示録21:8)。

【27:16】
『「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 父・母を蔑ろにするならば罪となり呪われます。父や母は尊敬すべき対象であって侮辱すべきではないからです。これは十戒の第5番目に対する違反です。親を侮辱すればその子にはどのような呪いが注がれるのでしょうか。その子どもは社会的な不幸を味わうでしょう。何故なら、親でさえ敬えないような者がどうして親でない人間を敬えるでしょうか。自分を産んだ親という最も容易く敬える存在でさえ敬えていないのですから、尚のこと他の人は敬うことができません。そのような人であれば社会から相手にされなかったり人々に嫌われたりするはずです。このようにして神は親への侮辱に対して呪いを注がれます。教育機関は、子どもたちに何としても親への敬意を教え込むべきです。そうしなければ彼らは呪われるからです。学習も大事ですが親を敬うことは更に大事です。学習が立派であっても親を敬わないようであれば、人間というよりは知性のある化物と言ったほうが適切だからです。中国人や韓国人はよく親を敬えています。中国では親の命令が子にとって「絶対」だということです。ここ日本は残念ながら親を敬うことにおいて中国や韓国よりも劣っていると言わねばなりません。

【27:17】
『「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 地境を移すと罪に定められるということは、既に前の箇所で述べておきました(申命記19:14)。地境を移すならばどのような呪いが注がれるのでしょうか。この呪いは御心のままに様々な形で注がれるでしょうからハッキリこうだと言えませんが、その一つとして次のような呪いが注がれるでしょう。先祖から受け継いだ相続地を売って別の土地を買った人がいた場合、新しく買って住んだその場所で周りに住んでいる人たちから嫌悪されたり、神の働きかけにより地面が陥没したりして悩まされたりします。その人は律法に違反して先祖から相続した土地を売ったのですから、このような呪いを受けたとしても文句は言えません。

【27:18】
『「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 『盲人にまちがった道を教える者』は律法の本質である隣人愛を全く行なっていませんから、罪を犯しています。盲人に間違った道を教えるというのは何と酷いことでしょうか。自分が盲人だったら同じようにされたいとでも思うのでしょうか。これは悪魔的だと言わねばなりません。それゆえ、そのような人は呪われて裁かれます。それはどのような裁きでしょうか。その人は自分がよく精通していない分野で何か分からなかった時、自分が盲人に間違った道を教えたのと同様、自分も間違ったことを教えられてしまうでしょう。そして、その人は苦しむことになるのです。しかし、そのように苦しむのは自分が盲人に悪くしたことに対する報いですから自業自得です。自分で蒔いた罪の種は自分で刈り取らねばなりません(ガラテヤ6:7)。この箇所の内容は、『目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。』と言われていたレビ記19:14の箇所と共通しています。また、私たちはこの箇所を文字的だけでなく霊的にも捉えるべきです。すなわち、私たちは盲人に間違った道を教えないだけでなく、盲人が分かりやすいよう親切に道を教え、もし可能であれば目的とする場所まで導くということさえすべきです。このようにするのが神に喜ばれるのは間違いありません。そうすれば必ず祝福されるでしょう。しかし、盲人をはじめ障害者の方には憐れみを示されることが気に入らない人もいますから、そのような場合はよく注意せねばなりません。更に、私たちはこの箇所をあらゆる領域でも適用すべきです。すなわち、実際の目は見えるものの精神的また知識的な盲人がいた場合、そのような人に何かを教える際は間違わないようにすべきです。例えば、日本語に盲目な外国人が「<ありがとう!>は日本語で何と言うの?」などと日本語の道を尋ねてきた場合、日本語という言語的視力を有している私たちが「それは<この糞野郎めが!>って言うんだよ。」などと間違った日本語の道を教えることはできません。そのように間違った言語の道を日本語の盲人に教えるならば、神から呪われてしまいます。

【27:19】
『「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 ここで挙げられているような人たちを蔑ろにするのは罪であり、呪いを齎します。というのも聖書が教えているように、神は惨めな人たちの味方であられるからです。ですから惨めな人たちに悪くする者は、神に悪くしています。神に悪くする者がどうして呪いを受けないでいられるでしょうか。しかし、惨めな人たちに良くするならば、神に良くしているので、神から祝福されます。この日本を考えて下さい。我が日本は貧しい多くの国に無償であれ有償であれ豊かな協力を惜しまず行なっています。最近でも、悲惨になっているウクライナに対し日本政府は100億円以上の支援を決定しました。アメリカとは違い痩せている人が傾向として多いことからも分かる通り、このウクライナは確かに貧しい国です。日本が貧しい国にこうして良くしているからこそ、貧しい者の味方である神も日本に良くして下さっておられるのです。そのため日本は祝福されて今でも経済的に栄えることが出来ているのです。

【27:20】
『「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 これは既に見た申命記22:30の箇所でも禁じられていた呪われるべき罪です。この罪は『姦淫してはならない。』また『父と母を敬え。』という2つの十戒に違反しています。この罪を犯すならば呪われて必ず不幸になります。何故なら、人間の自然の感情はこのような結婚を受け入れられないからです。ですから、実の母であれ義母であれ母と結婚している者がいれば、社会における大多数の人たちから白い目で見られることにならざるを得ません。そうしたら同性愛者のように肩身の狭い思いをしなければいけなくなります。この罪を私が読者に守り行なえといちいち言う必要はないでしょう。この罪は、神の法を持たないノンクリスチャンでさえ少しも犯そうとしないほど、犯す者が稀な罪だからです。もし私がそのような罪を犯すなとここでわざわざ言ったとすれば、私は読者の倫理性を非常に低く見積もっていることになるのです。

【27:21】
『「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 獣姦をすれば呪われるということが理解できないほど性感覚の狂った人は恐らくいないでしょう。もしそのような人がいれば私はその人の狂った感覚を理解できませんし、私以外の人も同様に理解できないはずです。この獣姦を最近流行している「価値観の多様性」という誤った枠組みの中で捉えてはなりません。何故なら、これは価値観というより単なる堕落に他ならないからです。獣姦は堕落の極みです。獣姦の愛好および実行を一つの価値観として認めるのは、糞尿の愛好および常食を一つの価値観として認めるのと同じです。また、ある人が腐った人肉を愛好しているのを価値観の多様性として寛容に受け入れるのと同じです。堕落した性向を一つの価値観として認識するのは狂気です。今の社会は聖書の真理から遠ざけられていますから、何が真理か分からず、このような偽りの寛容さを盲目的に賛美しているのです。もしこの獣姦をすれば大小様々な呪いを受けます。まず獣姦をするということ自体がその人の腐敗ぶりを示しています。その人は獣と一体化したのですから、人間らしさを失っています。そのような人は、もはや人間の尊厳を持つことができないでしょう。そして、そのような人は自然と多くの罪に陥ることになります。何故なら、獣姦という恥ずべき最低の罪でさえ犯せるのですから、それ以外の多くの罪は尚のこと容易く犯せるはずだからです。このような罪に陥る者は必ず呪われますが、獣姦を犯している時点で既に呪われていました。既に呪われているからこそ獣姦を行なったからです。ユダヤ社会でこのような罪は忌むべきことでした。それゆえ、ユダヤ人がもし獣姦に陥るならば死刑となりました(レビ記20:16)。不倫であれば陥りやすいので、聖書には多くの言及がされています。しかしこの獣姦は陥る人が稀ですから、聖書ではほとんど言及されていません。極度に堕落していたコリント人でさえこの罪には陥っていませんでした(Ⅰコリント6:9~11)。サタンは出来るならば人間をこの罪に陥らせたいと願っています。しかし、神はほとんど全ての人間をこの罪から守っておられます。ですから、この罪を犯す人は本当にごく稀なのです。ところで、タルムードの中でラビたちは異邦人がこの罪に陥りはしないかと大いに心配しています。ラビたちは異邦人が獣姦に陥るかもしれないから異邦人を動物と一緒に居させてはならないと定めています。愚かなラビどもがこのように考えていたのは異邦人に対する侮辱です。これは昔のユダヤ人が異邦人の倫理性を非常に低く見積もっていたことを意味しているからです。このようなことを記しているタルムードが聖典だというのは正しく噴飯物であると言わねばなりません。

【27:22~23】
『「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 姉妹や義母と寝る者は罪を犯しますから呪われてしまいます。聖書はこの罪を恥ずべき行為として定めています。それゆえ、律法はこの罪を犯した者が死刑にならねばならないと命じます(レビ記20:17、14)。現代社会ではこの罪がほとんど全ての国で犯されていないように思われます。ただし、日本のAVや成人向けの漫画・アニメにおいてこの罪は珍しくありません。これは誠にいかがわしいことです。たとえ何かの作品に過ぎなかったとしても、この罪を演じたり描いたり、またこの罪が題材である作品を愉しむのは、神から呪われることです。というより、既に呪われているからこそ、そういった作品を作ったり鑑賞したりするのです。また、この箇所では男のことが言われていますが、これは女の場合でも同じことです。すなわち、女が自分の兄弟や義父と一緒になるのは呪われることです。そのような女の場合でも、男の場合と同様、やはりその交わった相手と共に女は殺されなければなりません。

【27:24】
『「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 もし『ひそかに』隣人を殺すならば罪となり呪われてしまいます。十戒ではただ『殺してはならない。』と言われていただけでしたが、この箇所では『ひそかに』と言われています。この『ひそかに』という言葉は何を意味しているのでしょうか。これは「密かにバレないよう殺したとしても神からの呪いを回避できると思うな。」と言おうとしているのです。何故なら、ユダヤ人を含め人間は密かに殺して見つからなければ何ともないと思ってしまう傾向があるからです。しかし、そのようなことは決してなく、密かに殺人を犯せばやがて必ず神の呪いが下されます。これはリンネの『神罰』を読めばよく分かります。ですから、ここでは『ひそかに』と言ってユダヤ人が人間的な思い違いをしないよう注意させているのです。確かに、密かに人を殺してバレなくても呪いは注がれます。神は御心の時になるとその人に御自分の御手を差し伸ばされます。すると、その人は神に裁かれて殺されてしまうのです。こういうわけですから、人間に見つからなければ大丈夫だと考えている者たちは愚かなのです。彼らは社会的な刑罰や人の目を恐れはしますが、神の刑罰と御目には全く無頓着です。

【27:25】
『「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 賄賂を受け取って殺人を代行する者は必ず呪われます。これは「賄賂罪」と「殺人罪」という二重の罪です。このようにする人は神から裁かれて自分も殺されるでしょう。私たちは『人を打ち殺して罪のない者の血を流す者』にならないようにすべきです。そもそも私たちは『わいろを受け取』るということさえしないようにすべきです。何故ならば、賄賂は殺人の親だからです。親がいなければ子も生まれることはありません。

【27:26】
『「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。』
 『このみおしえのことば』また『これ』とは律法の命令全体を指しています。これはこの箇所(申命記27:15~26)で言われている御教えの言葉だけに限定されていません。何であれ律法の教えに違反するならば神から呪われます。呪われるならば裁かれて悲惨になってしまいます。

 この箇所をパウロがガラテヤ3:10の箇所で引用していることはよく知られています。パウロはこの箇所に基づき、人間が呪いのもとにあると結論しています。何故なら、律法の命令をことごとく実行できる人などいないからです。私たちのうち誰が律法の求めを全て満たせるでしょうか。それゆえ、全ての人は律法に違反しているゆえ、律法により呪われた者とされます。このため全ての人は呪われた者として地獄で永遠に刑罰を受けねばならないのです。しかし、イエス・キリストは私たちを呪いから解放するため十字架の上で死なれました。それは私たちの上にある呪いをキリストが代わりに負われるためでした。何故なら、パウロも言うように『「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるから』です。このためキリストにより贖われた者は、キリストのゆえに呪いから永遠に解放されることができます。ここにこそ罪とその呪いからの救いがあります。

【28:1】
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。』
 前の箇所でも言われていた通り、ユダヤ人が神に従うならば諸国を凌駕できるようになります(申命記26:18~19)。他の国々はどのようにしてもユダヤを打ち負かすことが出来なくなります。神がユダヤ人を祝福しユダヤ人と共にいて下さるからです。実際、祝福されていたダビデが統治していた頃のイスラエル王国はどの国にも打ち負かされませんでした。神はこのように約束することで、ユダヤ人が御自分に服従するよう誘っておられます。何故なら、もし服従するならば最強の存在になれるとすれば、服従を欲さない者がいるのでしょうか。ですから、この約束はユダヤ人が服従することの強い動機となります。しかし、もしユダヤ人が神に服従しなければ逆に他の国々から支配されてしまいます。神はそのようにユダヤ人を下に引き下げることで、御自分に対する不服従がどれだけ苦々しいことであるか思い知らせようとされるのです。この痛ましい懲らしめについては後の箇所で詳しく定められています。

【28:2~6】
『あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。』
 もしユダヤ人が神に従うならば大小様々な祝福を神から受けます。人間の親は良く歩んでいる自分の子どもに対し良くしてやるでしょう。神というユダヤ人の親もその通りです。この箇所ではその祝福が幾つも挙げられています。ユダヤ人は『町にあっても』『野にあっても』祝福されますが(3節)、これはユダヤ人がどこにいても不幸にならないということです。ユダヤ人はどこでも、あらゆる面で祝福されます。もし不幸に思えることが起きても、それは何かに気付かせるためであったり、試練のためであったりするので、祝福に繋がる不幸となります。また、ユダヤ人自身に生まれる子だけでなくユダヤ人の所有する地に生じる産物や家畜の生む子どもに対しても祝福が注がれます(4節)。新しく生まれる存在は人間であれ作物であれ動物であれ奇形や欠陥を有しません。全ての個体が良質となります。『かごも、こね鉢も祝福される』と5節目で言われているのは、ユダヤ人の所有する道具にまで祝福が及ぼされるということです。神はユダヤ人の持つ小さな物をさえ無視されず祝福されます。それはユダヤ人が神の御教えを無視していないからです。また、ユダヤ人は入るにも出るにも祝福を受けます(6節)。つまり、ユダヤ人は出入りし移動する際、事故や事件から守られ、不幸を味わうことがありません。ですから、いつも平安を持つことができます。

 このような祝福は今でも当然ながら有効です。神が御自分に従う者を喜ばれ祝福されるというのは、旧約であっても新約であっても変わらないからです。実際、これは今の世界を見ても分かります。キリスト教徒の多い北欧の国は豊かであり、キリスト教徒の全然いないアジアの国は貧しいのです。ですから、もし私たちが祝福を受けたければ神に従うことです。

【28:7】
『主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。』
 ユダヤ人が祝福されると、ユダヤ人の敵が一つの道からやって来てユダヤ人を攻撃しても、7つの道から惨めに敗走します。ちょうど蜘蛛の子を散らすようにです。神がその敵たちをユダヤ人の前から追い払われるからです。ここで『七つの道に逃げ去ろう』と言われているのは象徴数の「7」ですから、文字通りの意味で7つの道というのではなく、「無数の道から逃げ去る」という意味です。このように敵の逃げ去る道は幾つもありますが、敵がユダヤ人を攻撃する道は『一つ』しかありません。これは神がユダヤ人に対し敵の攻撃する道を塞がれてしまうからです。しかも、敵は一つの道から攻撃しても有効打を加えることができません。神がその攻撃を無効化されるからです。けれどもユダヤ人が祝福されるからといって敵からの攻撃が全く無くなるわけではありません。この箇所からも分かる通り、ユダヤ人が祝福されていても敵は『一つの道からあなたを攻撃し』ます。しかし、その攻撃は祝福のためユダヤ人に害を与えないのです。それゆえ、「祝福されているのであれば敵からの攻撃も全く止むはずだ。」と考えるのは間違いであることが分かります。ダビデも大いに祝福されていましたが、たびたびイスラエル王国に立ち向かって来る敵に対処しなければいけませんでした。敵の攻撃が全くないほどに祝福されるのは天国だけです。

【28:8】
『主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。』
 服従するのであればユダヤ人は収穫および労働においても祝福されます。不作が起こらなかったり失敗続きになるということもなくなります。アメリカ人のように仕事の能率も良くなります。これはユダヤ人が神に喜ばれる良い歩みをしているからです。このため神もユダヤ人の喜ぶ良いことをして下さるのです。しかし、もし服従しなければここに書かれている祝福とは逆のことが起こります。それについてはまた後の箇所で詳しく定められています。

【28:9~10】
『あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。』
 もしユダヤ人が律法を守り神に従うならば聖なる民として立ちます。『立ててくださる』とは、そのような存在として認め、そのような存在として存在させ、そのような存在として歩ませる、という意味です。これはユダヤ人が聖なる命令を守り行なっているからです。このようなユダヤ人であれば神に嘉せられます。何故なら、神とは聖なる御方だからです。しかし、ユダヤ人が聖なる命令を行なわなければ聖なる民として立つことはありません。聖なる命令を守っていないからです。その場合、ユダヤ人は「不遜な反逆の民」として立つことになります。このようであれば神に嘉せられはしません。

 また、ユダヤ人が命令を守って祝福されるならば、ユダヤ人は主の御名を有する民として他の民から大いに畏怖されます。何故なら、主の御名を持つゆえユダヤ人が聖なる御教えに聞き従っているからです。そのようにできる民は旧約においてユダヤ人しかいなかったのです。もし敬虔に歩むならば諸国民から高く見られるというのは申命記4:6の箇所で言われている内容と共通しています。もし諸国民が恐れるならば誰もユダヤ人に打ち勝つことは出来なくなります。恐れは力を喪失させるからです。しかし、ユダヤ人自身に畏怖の原因があるわけではありません。畏怖の原因は神とその律法にあります。すなわち、ユダヤ人が神とその律法に従っているからこそ、ユダヤ人は他の民から畏怖されることになるのです。もしユダヤ人が神とその律法に従っていなければ恐れられることなどなかったでしょうから。

【28:11】
『主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。』
 祝福されたユダヤ人には、人間の子や家畜の子や地の産物が多く与えられるようになります。ですから、ユダヤ人は多産となり、ヨブのように家畜も豊かになり、不作や飢饉に悩まされることがなくなります。神を愛している民が神に祝福されないことはないからです。祝福されないのは神を愛さない民です。私たちも祝福されるならばこうなるでしょう。ですから、祝福されたい者は神に服従せねばなりません。

【28:12~13】
『主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。』
 祝福されたユダヤ人には『天』すなわち「空」にある『恵みの倉』が開かれるので、祝福の現われである雨が『時にかなって』与えられます。そのようにしてユダヤ人は栄えることになります。作物が豊かに生じれば困窮しなくなり、残った作物を他国に売ることができるからです。そうなればユダヤ人は他国に貸すほどの金持ちとなり、他国を凌駕できるので、国々の『かしら』となります。神が『かしらとならせ、尾とはならせない』と言っておられるのは、動物や昆虫の例えです。動物や昆虫において最も重要なのは頭部であり、尻尾は末端に属する取るに足らない部分でしかありません。つまり、これはユダヤ人が第一の存在になるということです。その場合、ただユダヤだけが『かしら』となります。他の国でユダヤと並ぶ『かしら』はいないでしょうし、ユダヤ人が祝福され続ける限りはそういったユダヤ人の地位を脅かす存在が台頭してくることもありません。神はこのように約束することでユダヤ人を服従へといざなっておられます。何故なら、惨めな尾よりも光栄ある頭になりたくない人がどこかにいるのでしょうか。もし服従するならば光栄ある頭になれるのです。しかし、ユダヤ人が不敬虔に歩むならば尾となり、他国がユダヤ人を凌駕します。これについてはまた後の箇所で述べられています。

【28:14】
『あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。』
 このような素晴らしい祝福が約束されたのですから、ユダヤ人は何としても神の法に服従しなければいけません。もしユダヤ人が服従しなければ、それは「私たちには祝福など要らない。」また「私たちが頭にならなくとも構わない。」という事実上の意思表明となってしまうからです。神の法に服従しなければ祝福と高い地位はないのですから、もしユダヤ人が律法に従わなければ、たとえ口ではこのように言わなくとも、不服従というその態度がこのように無言の表明をしていることになるのです。また、ユダヤ人が神から離れて他の神々に帰依することも禁止されています。何故なら、神こそユダヤ人の主であられるからです。ところがユダヤ人は自分たちの主である神を捨て、あろうことか他の神々を求めました。ここに彼らの不信仰、愚かさ、罪深さがありました。

【28:15~19】
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。』
 ここまでの箇所では命令遵守に対する祝福が示されていました。ここからの箇所では命令違反に対する呪いが示されます。聖書を見れば分かる通り、申命記28章では祝福よりも呪いの記述のほうが遥かに長くなっています。すなわち、祝福については14節分なのに、呪いについては54節分もあります。これはユダヤ人が何としても呪いをその身に招かないためです。祝福のほうは少し語っておけば事足りるのです。律法の他の箇所でも、やはり呪いの記述のほうが祝福よりも遥かに多くあります。この箇所では、ユダヤ人が命令に聞き従わなかった場合に注がれる大小様々な呪いを示しています。その内容は先に見た箇所(申命記28:3~6)と逆になっているだけです。ユダヤ人が呪われるならば『町にあっても』『野にあっても』すなわちどこにいても呪われるので、不幸なことばかり起こります。どこにいても幸いな出来事からは遠ざけられます。ですから平安もなくなります。「こんなことでは死んだほうがましだ…。」などと思うことにもなります。また、ユダヤ人は自分に生まれた子であれ家畜に生まれた子であれ野から生じた産物であれ呪われるので、奇形や欠陥のある個体が多くなります(18節)。死産も多くなるでしょう。つまり、通常であれば喜びを齎す新しい生命や作物の誕生が悲しみとなってしまいます。このようにしてユダヤ人は不幸を味わわされてしまいます。また、ユダヤ人は『かご』や『こね鉢』といったその所有物においても呪われるので、それらはすぐに壊れたり失われたりしてしまいます。ユダヤ人が神の御教えを蔑ろにしたので、神もユダヤ人の所有物を蔑ろにされるのです。この呪いはユダヤ人に原因があります。ですから、これは正しく自業自得と言わねばなりません。また、ユダヤ人はその出入りにおいても呪われるので、出ても入っても悲惨な出来事に悩まされてしまいます(19節)。それゆえ、ユダヤ人に幸せは全くなくなります。

 御心を損ねるならば不幸になるというこの呪いの刑罰は、今でも全く有効です。危険なことで有名なヨハネスブルクの町を考えて下さい。そこの住民は姦淫ばかりしていますからエイズという神からの呪いが満ちています。殺人も横行しているので恐ろしい町となっています。この町には多くの呪いがあるので、諸国の人たちから恐れられています。ですから、私たちが不幸になりたくなければ、遜って神に聞き従うべきなのです。もし私たちが神に従うならば、呪いが私たちに注がれることはないでしょう。ですから不幸を味わうこともなくなります。『正しい者は何の災害にも会わない。』(箴言12章21節)と書かれている通りです。

【28:20~24】
『主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、つにには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。』
 ユダヤ人が服従せず呪われるならば、神からの報復として滅ぼされてしまいます。何故なら、『みことばをさげすむ者は身を滅ぼし…』(箴言13章13節)と書かれているからです。またパウロも言ったように、『罪から来る報酬は死』(ローマ6章23節)だからです。神に従わない者の運命は呪い以外にありません。私たちは、この箇所における威嚇が単なる見せかけの威嚇に過ぎないなどと考えないようにすべきです。ここで語られているのは確かに威嚇ですが、それは口先だけの威嚇ではなく、確かな実行を伴った威嚇です。これは、親が小さな子どもに冗談半分で言うような威嚇ではありません。20節目に書かれている通り、服従しないユダヤ人の行なうあらゆる業には『のろい』が送られます。ですから、ユダヤ人は何を行なっても裏目に出てしまいます。そして、その業はいつも『恐慌』を引き起こします。この『恐慌』とは事故や大きな問題を指していると考えられます。このような不幸が服従しないユダヤ人に対する『懲らしめ』となります。ユダヤ人はこの懲らしめにより不服従がどれだけ罪深いことであるか思い知らされるのです。ですから、このようになったユダヤ人にもはや喜びは全くなくなります。あるのはただ不幸と悲しみと刑罰だけです。ユダヤ人がこのような悲惨を味わうのは、ユダヤ人が『わたしを捨てて、あなたが悪を行なったから』です。神を捨てたことが悲惨の原因です。預言者も言ったように、『あなたを捨てる者は、みな恥を見ます』(エレミヤ17章13節)。またイザヤ書1:28の箇所でも書かれているように、『そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる』のです。神を捨てるというのは自分の命を捨てることです。何故なら、神こそ生命の根源・泉なのですから。神はユダヤ人を滅ぼされる方法の一つとして『疫病』(21節)を用いられます。この疫病はもしユダヤ人が神を捨てなければ決して生じていませんでした。22節目では滅びを齎す恐ろしい災いが7つ挙げられています。これは象徴数の「7」ですから、このような類の災いがユダヤ人にとにかく沢山注がれることを意味しています。つまり、神は不敬虔なユダヤ人を滅ぼすためであれば、どのような災いであっても用いられるということです。22節目では、それらの災いが『あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける』と言われています。これは、その災いをどのようにしても防ぐことが出来ないということです。その災いが停止されるのはユダヤ人が滅びる時だからです。23節目で『あなたの頭の上の天は青銅となり』と言われているのは、空から雨が降らないことを示しています。雨が降らないというのは空が青銅で封じられたかのようだからです。また『あなたの下の地は鉄となる』と言われているのは、地から産物が全く生じないことを示しています。これは不作を地が鉄で覆われることに例えています。24節目では、ユダヤの上空から振る雨が『砂ほこり』にされると言われています。雨の代わりに砂が降ったら人はどうなるでしょうか。窒息したり作物が全く生じなくなり死んでしまうでしょう。つまり、雨でなく埃が降って来ると言われているのは、ユダヤ人が滅ぼされるということです。

【28:25】
『主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。』
 ユダヤ人が祝福されていた場合、敵が一つの道から攻撃しても無数の道から敗走することになります(申命記28:7)。しかし、ユダヤ人が祝福されておらず呪われているならば、逆にユダヤ人のほうがそうなります。その場合、ユダヤ人は敵に対して『一つの道から』しか攻撃できません。神が呪いによりユダヤ人から攻撃の自由を奪っておられるからです。しかも、かろうじて一つの道から攻撃しても、その攻撃は有効なダメージになりません。神がユダヤ人の攻撃を無効にするか弱められるからです。この事例が民数記に示されています。カナン侵攻に尻込みしたことで40年の放浪が定められたユダヤ人は、神の報復を聞いて恐れ悲しんだので、気を取り直して再びカナン侵攻を行なおうとしました。そのようにしてカナンの地に一つの道から攻撃しようとしたユダヤ人でしたが、カナンにいた住民から7つの道に追い払われてしまったのです(民数記14:39~45)。これはユダヤ人が不信と臆病の罪を犯したことで呪われていたからです。もしユダヤ人が罪を犯していなければ、一つの道から攻撃して七つの道に逃げ去るのはカナン人のほうでした。

 また、ユダヤ人が服従しなければ、ユダヤ人は『地上のすべての王国のおののきとな』ってしまいます。これはユダヤ人そのものが慄かれるという意味ではありません。そうではなく、これはユダヤ人がその注がれた恐るべき神の呪いにおいて慄かれるという意味です。例えば、私たちが飛行機の墜落により死んだ多くの乗客を見たとすれば、その乗客の悲惨さに慄くでしょう。これは乗客その人たちに慄いているというより、乗客をその悲惨な事故において慄いています。ユダヤ人が諸国の民から慄かれるというのは、これと同じ意味です。ユダヤ人は神に従わなかったので呪われ、ここで言われている通り諸国の民から慄かれました。1度目はアッシリヤの時に、2度目はバビロンの時に、3度目はローマの時に。

【28:26】
『あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。』
 ユダヤ人が呪われると、その死体が鳥や獣に食われてしまいます。ユダヤ人が神とその命令を軽んじたので、神もユダヤ人の死体を軽んじられるのです。これは神が報いの神だからです。死体が動物の餌食になるのは最悪のことです。誰がこんなことを望むでしょうか。「いや、私は死んでからならば別にどうされたって構わないよ。」と言う人もいます。この考えは間違っています。これは異教の考え方であり、正常な感覚から逸脱しています。聖書の思想すなわち真の思想はこのような考えをしません。聖書は、もし死んだ者が忌まわしい者でなければ、死体も生前のように人間らしさをもって取り扱われるべきだと教えます。だからこそ、この箇所では動物に死体が食われることを呪いとして示しているわけです。「では、自分の遺体を献体するのも駄目なのか。自分を献体として委ねるのは人間的な尊厳を放棄することにならないか。」と問う人もいるかもしれません。献体は、もしそれが社会の益すなわち隣人愛に基づいていれば全く問題ありませんが、自分の死体を蔑ろにする思想また感情に基づいているのであればすべきではありません。呪われたユダヤ人の死体は、動物に食われているのに、悲惨なことに『これをおどかして追い払う者もい』ません。これは、動物が食っている死体の近くに誰も現われないか、現われても何らかの理由から動物を追い払おうとしない、という2つのケースがあります。このように動物が追い払われないのは神の呪いがその人に注がれているからです。

 今の時代でも、死体が動物に食われる人がいれば、神に呪われている可能性が高いとしてよいでしょう。何故なら、もし呪われていなければどうしてそのようなことが起こるでしょうか。恐らく、その人は酷い罪を生前に犯していたと思われます。ここで「では初期のキリスト教徒たちは呪われていたことにならないだろうか。」と言う人もいるかもしれません。我々の親であり先輩である聖徒たちが、迫害者たちから獣に投げ与えられて殉教したのは歴史が示しているところです。しかも、その殉教者たちの死体を食らっている動物は誰にも追い払われませんでした。これはその出来事から言えば、確かにこの箇所で定められている呪いの内容と全く一致しています。ですから、初期のキリスト教徒が呪われていると思われても不思議ではありませんでしたし、何でも律法に基づいて考えようとするラビたちは実際そのように思ったかもしれません。しかし、これは教会の試練として定められていた殉教であって、何か聖徒たちが罪を犯したからというのではありませんでした。今より遥かに信仰深かった初期のキリスト教徒たちが呪われていたとでもいうのでしょうか。そんなのはふざけた笑い話です。さて、もし呪われている人の死体が動物に食われるとすれば、逆に良い死体の取り扱いをされる人であれば豊かに祝福されていた可能性が高いとも言えるかもしれません。これはヤコブが良い例です(創世記50:1~14)。ヤコブの死体が良い取り扱いを受けたのは、彼が神の御心に適った偉大な族長だったからでなくて何でしょうか。「では、レーニンも非常に祝福されていたのではないか。」と思う人がいるかもしれません。確かにレーニンの死体は防腐処理を施されて間もなく死後100年となる今でさえ保存されています。しかし、これは祝福などでは決してなく、単に保存している者たちの愚昧さが示されているだけです。レーニンとは、ノンクリスチャンであり、無神論者であり、共産主義者であり、アシュケナージ系のユダヤ人であり、フリーメイソンであり(彼は片手を服の中に入れるフリーメイソンのポーズをしています―スターリンも同様です)、ロスチャイルド家の駒でした。どうしてこのような者が祝福されているのでしょうか。ありえないことです。脳が今でも東京大学医学部にホルマリン漬けで保存されている夏目漱石も、やはり祝福のゆえにこうされているのではありません。彼は聖書を暗記するほど読んでいたものの、キリストを信じることはなく、御前における死人として生涯を終えたからです。

【28:27】
『主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。』
 ユダヤ人が呪われるならば、その身体に種々様々な腫れ物が生じるので、苦しみを受けてしまいます。ここで挙げられている4つの災いは一例として見做すべきだと思われます。ユダヤ人が何をしてもいかなる薬を飲んでも、その腫れ物から『いやされることができ』ません。その腫れ物が癒されたら、それは呪いではなくなるからです。この箇所で『エジプトの腫物』と言われているのは、出エジプト記9:8~12の箇所で書かれているエジプト人に裁きとして与えられたあの腫物です。しかし、呪いではない腫れ物も存在します。これはヨブを考えれば分かります。ヨブの身体は恐るべき悲惨な腫れ物に満たされましたが(ヨブ2:7~8)、これはヨブが何か呪われるべき罪を犯したからではありませんでした。というのもヨブとは正しい人であって、呪われるようなことから自分を遠ざけていたからです(ヨブ1:1)。一見するとヨブの身体に出来たこの腫れ物は呪いゆえだったとも思えたかもしれません。しかし、これは呪いでなくヨブに試練として与えられた腫れ物でした。このような例もあるのですから、腫れ物を見たら何でも呪いの証拠であると考えることはできません。

【28:28~29】
『主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。』
 ユダヤ人が呪われるならば、心の錯乱や精神的な盲目や狂気などに襲われてしまいます。ですから、呪われたユダヤ人は『盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようにな』ります。絶望した時にウロウロ彷徨ったり眩暈を感じたりしたことのある人は少なくないはずです。ユダヤ人も呪われたらそのようになるのです。これは精神的な呪いです。サウルにはこの呪いが注がれました。この愚かな王は気が錯乱したので、変装し、あろうことか自分が追放した霊媒女に頼るということさえしたのです(Ⅰサムエル記28:5~8)。この王は罪により呪われていたので、神から送られた悪い霊により、よく狂いわめいていました。もしサウルがその罪により呪われていなければ、彼は錯乱しておらず、平安と喜びがあったでしょう。ニーチェもこの呪いを受けました。彼が晩年に発狂し精神障害者となったのは明らかに罪の呪いです。というのもニーチェはたびたび神に対する嘲りという罪を犯しており、聞くところによれば彼は同性愛者であってSMプレイさえ行なっていたようだからです。このような悪者が呪いにより錯乱させられたのは当然のことでした。

 恐らく、認知症もその多くは呪いによるのでしょう。神を愛する祝福された聖徒であれば、老齢になって頭の働きが衰えるということはあっても、ボケてしまう人はほとんど見られません。神を真に愛する聖徒に、神がどうして認知症という災いを与えるでしょうか。愛の神である神は、御自分を真に愛する聖徒の脳を異常にさせられたりしないでしょう。神を愛していたモーセも、120歳で死ぬ時まで気がしっかりしていました(申命記34:7)。「認知症とは有害物質の摂取によるのだ。」と言う人もいるでしょう。よろしい。私はこの意見を純粋に認めましょう。ですが、有害物質を摂取するということから既に認知症へと至らせる神の呪いが始まっていたのです。つまり、有害物質を摂取させられるのは認知症という呪いの種でした。「認知症は遺伝によって発症する。」と言う人もいるでしょう。よろしい。この意見も私は純粋に認めましょう。ですが、神がその人を永遠の刑罰を受けるべき呪われた者として定めておられたからこそ、その人は認知症を発症する遺伝子が組み込まれた状態としてこの世に生まれてきたのです。ですから、確かに遺伝により認知症を発症する人もいるでしょうが、そのような遺伝子を有すること自体が根本的に神の呪いと関連しているわけです。ところで、この認知症とは『気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる』ということです。

 また、ユダヤ人は呪いにより何をしても『繫栄することがなく』なります。ユダヤ人の繁栄は神の祝福によります(箴言10:22)。であれば、どうして呪われているのに繁栄できるのでしょうか。更にユダヤ人は略奪され虐げられるだけとなります。支配者や敵や周りの国から酷くされるのです。これはユダヤ人が罪により呪いを引き起こしたからです。神はただ報いを与えておられるだけですから、ユダヤ人の自業自得なのです。しかも、ユダヤ人がこのように苦しんでも『救う者はいない』のです。何故なら、これは呪いだからです。もし救う者が現われて救われたならばもはや呪いが呪いではなくなってしまいます。

【28:30~33】
『あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。』
 呪われたユダヤ人に幸いが訪れてもその幸いを掴むことはできません(エレミヤ17:6)。その幸いは別の国の者が掴んでしまうからです。これは、公園で人間が多くの餌を投げているのに、ある鳥だけいつも他の鳥に餌を先取りされてしまうのと似ています。せっかく人間が幸いを与えているのに、その鳥だけ幸いを得られないのです。このようになればユダヤ人は大いに嘆くでしょう。しかし、こうなったのも仕方ありませんでした。何故なら、ユダヤ人がまず初めに神からユダヤ人の支配権を傲慢にも奪い取っていたからです。ユダヤ人が神から正当な支配権を奪い取って自分に移したので―神の民の正当な支配権は神にあります―、神も報いとしてユダヤ人の所有物を他国民に奪わせるのです。そうなると、ユダヤ人は婚約しても他の男が婚約中の女と寝てしまいます。これほど悔しいことがあるでしょうか。これほど残念なことがあるでしょうか。しかし、ユダヤ人は屈辱を味わうだけでどうすることもできません。また、せっかく家を建てたのにそこに住めません。他国人がそれを奪って住んでしまうからです。ユダヤ人が国家や権威者に訴えても家を取り戻せません。何故なら、これは呪いのため起きたことだからです。また、葡萄畑でも同様です。大事に育てた青くて美味しそうな丸い実は、他の民族が食べてしまいます。葡萄畑で努力したのは全て無駄となります。これは正に呪いです。牛や驢馬や羊や子どもも他国人に奪われてしまいます。しかし、何もすることができず嘆く以外にはなくなります。これはローマに支配されていた頃のユダヤで実現しています。その時のローマは属州ユダヤを虐めていました。ローマ人はユダヤ人から何かを奪ったり、ユダヤ人を痛めつけたりしていました(マタイ5:39~40)。しかし、呪いのためこうなったのですからユダヤ人はこの屈辱から抜け出せませんでした。

 このように、もし呪われるならば何もかも奪われますが、何一つ戻って来なくなります。これは今の時代に生きる私たちも例外ではありません。ですから、もし呪われて悲惨になりたくなければ神の法を守らねばなりません。

【28:34】
『あなたは、目に見ることで気を狂わされる。』
 ユダヤ人が呪われると、その目に入って来る光景はどれも不幸なこと、嫌なことばかりになります。例えば、目をどこに向けても敵や不毛の土地や苦しんでいる同胞ばかりしか見られない、というのがそうです。ですから、ユダヤ人は『目に見ることで気を狂わされ』てしまいます。これこそ正に神からの呪いです。バビロン捕囚の時で言えばどうだったでしょうか。その時のユダヤ人はこの呪いを受けていましたから、ユダヤ人が目を開いて見るのはバビロンという異教の地、そこにいる汚れたバビロン人、至る所に立っている偶像の数々、聖書的でない多くの風習、打ちひしがれている悲惨な同胞だけでした。ですから、当時のユダヤ人は「ああ…。」と溜息交じりに言って気が狂わんばかりでした。

【28:35】
『主は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。』
 申命記28:27の箇所に引き続き、この箇所でもユダヤ人に恐るべき腫物が与えられると定められています。こちらの箇所では腫物で打たれる場所が『足の裏から頭の頂まで』であると明白に示されています。ですから、呪われて腫れ物が全身に出来たユダヤ人は恐るべきモンスターのようになります。これは恐るべき呪いです。

【28:36~37】
『主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。』
 神がユダヤ人を呪われると、ユダヤ人は王も一般民衆も外国へと移されてしまいます。ユダヤ人がその外国に行きたかったというのではありません。ユダヤ人は外国など行くつもりがなく、ずっと自分の国に居続けたかったのです。しかし、呪いのため神が無理やりユダヤ人を外国に追いやるのです。ユダヤ人はその追いやられた国で偶像を拝むことになります。その国には偶像が多く満ちているからです。ユダヤ人が外国に移され偶像を拝むようになるのは、ユダヤ人が神を捨て偶像崇拝の罪を犯したからでした。つまり、神はユダヤ人をその心が欲望するままに委ねられたのです(ローマ1:24)。このように罪を犯す者は更なる罪の深みへと陥らされます。神は罪に対して報いられる御方だからです。そして、ユダヤ人はその国で『恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりもの』となります。ユダヤ人が『恐怖』となるのは、ユダヤ人が神の恐るべき呪いを受けて悲惨になっているからです。またユダヤ人が『物笑いの種となり、なぶりもの』となるのは、ユダヤ人がヤハウェ神の民でありながらヤハウェ神を捨てて別の神々を拝んでいるからです。こんなにおかしな話が他にあるでしょうか。これでは笑われたり軽蔑されたりしても仕方がありません。これは冒瀆の笑劇です。このような呪いはバビロン捕囚の時に実現しました。その時、バビロン人たちはバビロンに捕囚されたユダヤ人を恐れ笑い軽蔑したのです。

 この箇所では、ユダヤ人がやがて自分たちの上に王を立てると言われています。神はユダヤ人がこれから王を自分たちに立てると予め知っておられました。ですから、ここではユダヤ人に王がいる時のことを定めているわけです。先に見た申命記17:14~20の箇所でもユダヤ人が王を立てることについて言われていました。

【28:38~42】
『畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕えられて行くからである。こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。』
 神がユダヤ人を呪われると、ユダヤ人は何かをしても全く、あるいは少ししか得る物がなくなります。呪いとはこういうものです。そうなると、ユダヤ人が葡萄畑を作っても、呪いにより虫に食われるので、全く葡萄を収穫できなくなります(39節)。せっかく労苦したのに全てが無駄となります。こんな悲しいことがあるでしょうか。また、オリーブの実を搾って油の恵みに与かろうとしても出来なくなります(40節)。古代人はよく自分の身体にオリーブ油を塗っていました。身体をマッサージし、見栄えを良くし、心身ともに心地良くなるためです。しかし、神はこのようにするのをユダヤ人に許されません。呪いにより『オリーブの実が落ちてしまうから』です。実が落ちるのは、神の直接的な働きかけによるか、敵や犯罪者や動物などの生命体によるか、嵐や雹といった自然災害によります。また、ユダヤ人が畑に種を蒔いても、収穫はほとんどありません(38節)。神がイナゴにユダヤ人の作物を食べよと命じられるからです。せっかく種を蒔いたのに収穫の恵みに与かれない。これは最悪のことです。ですが、最悪だと思えるからこそ、それは呪いなのです。もし最悪だと思えなければ呪いとは言いにくくなってしまうからです。人間は誰でも自分に子が生まれたら喜ぶものです。妻に高圧的な夫であっても、子どもが生まれた時だけは笑顔になったり優しくなるほどです。しかし、呪われたユダヤ人にこのような喜びはありません。神がユダヤ人を呪われるので、その子どもが生まれたら『捕えられて行くから』です。神は呪いのため『こおろぎ』(42節)や『いなご』(38節)を用いられます。今でもアフリカの地域では、大量にイナゴが現われ、その辺り一帯にある作物を全く根絶やしにしてしまいます。これは明らかに神からの呪いでしょう。あの辺りには酷い罪があるのです。というのも、あの地域にまともな宗教はほとんどありませんから。ですから、イナゴやコオロギといった昆虫は今も昔も神の呪いを代行する存在です。また、この箇所で言われている呪いは、数ある呪いの一例として示されています。この箇所に書かれている出来事の他にも、例えば漁であれ採掘であれ商売であれ多くの労苦をしたのに得る物は少ないということがあれば、それは呪われている可能性が高いからです。

 今でもここで示されている呪いは有効です。私たちも呪われるならば行なった労苦に対し得られる物は0であるか、あっても少ししかなくなります。そうなりたくなければ神の御前に敬虔になるしかありません。

【28:43~44】
『あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。』
 神の呪いが注がれるならば、ユダヤ共同体にいる在留異国人がユダヤ人を富においても力においても尊厳においても凌駕するようになります。これには2種類があります。一つは、在留異国人が高く上るのに対し、ユダヤ人の高さはそのままである場合。これはユダヤ人が相対的に低まることです。もう一つは、在留異国人が高く上るのに対し、ユダヤ人は時間が経つにつれてますます低くなって行く場合。こちらのほうが酷い呪いです。どちらの場合にせよ、このようになると、遂に在留異国人がユダヤ人に貸すほどに高められ、ユダヤ人はと言えば在留異国人に少しも貸せなくなってしまいます。そのようにして在留異国人がユダヤ人の『かしら』となります。これはユダヤ人にとって最悪のことです。これを何かに例えるとすれば、奴隷が主人を支配し、子が親を管理し、民が王を指導することです。ソロモンはこういった本来あるべき状態と逆の状態を『悪』(伝道者10章5節)だと教えています。本当であればユダヤ人のほうが在留異国人よりも上にいるはずなのです。神はこのような呪いにより威嚇することで、ユダヤ人が命令違反を犯さないように働きかけておられます。というのもユダヤ人にとって在留異国人が自分たちを支配するというのは耐えられないことだからです。

 罪を犯すならば外部の者や少数派に支配されるというのは、正に呪いです。罪を犯すならば屈従させられる。これは今の世界でも起こっています。近代社会を見るとどうでしょうか。神に従うキリスト教徒の国がそうでない国々を凌駕し支配してきたのは確かです。今ではもう植民地だった国は独立しています。しかし、かつて植民地だった発展途上国は、今でも神の宗教を持つ先進国に借りたり協力して貰ったりしている状態です。発展途上国が神と疎遠なので、呪いにより神と近い国の下に置かれているのです。もし私たちが下に置かれたくなければ神の命令を守らねばなりません。神に支配されようとしない者は、呪いとして神が人間に支配させられます。しかし、神に支配されようとする者は、祝福として自分たちが人間を支配するようになります。

【28:45~46】
『これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。』
 ユダヤ人が罪を犯すならば、ここまで示された呪いがユダヤ人を追いかけ、滅びを彼らに齎します。この呪いから逃れることは不可能です。何故なら、神の呪いのほうがユダヤ人よりも遥かに速いからです。これはライオンがトカゲを追いかけて食い殺すようなものです。トカゲであるユダヤ人がライオンである神の呪いを逃れることなど一体どうして出来るでしょうか。

 ユダヤ人が滅びの呪いを受けても、その人員の全てが滅ぼされてしまうということではありません。神はユダヤ人を滅ぼす際、幾らかの者を滅びから免れさせ生かされます。アッシリヤ捕囚の時もバビロン捕囚の時も第一次ユダヤ戦争の時も、やはり少数のユダヤ人が生き残りました。その生き残ったユダヤ人に対し、先祖たちに注がれた滅びの呪いは『しるしとなり、また不思議とな』ります。先祖の滅びが『しるし』になるというのは、それが神の呪いを証ししているということです。ですから、ユダヤ人は先祖の滅びを見て、神が報復される御方であるということを知るのです。また『不思議』になるというのは、生き残った子孫たちにとって先祖の滅びは理解し難いということです。何故なら、神の民が神から報復され滅ぼされるという出来事ほどおかしなこと、あってはならないこと、常軌を逸していることが他にあるでしょうか。新約時代におけるスファラディ系のユダヤ人で言えばどういうことになるでしょうか。彼らヤコブの子たちにとって、紀元70年に起きた先祖たちの滅びは確かに『しるしとなり、また不思議とな』っています。何故なら、ローマ軍による先祖の滅びは神の怒りを証しする印ですが、キリストのゆえに神の刑罰が下されたことを知らない新約時代のユダヤ人にとってはどうして先祖がローマ軍に滅ぼされたのか理解できず『不思議』だからです。

【28:47~48】
『あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。』
 ユダヤ人がカナンに入って幸せになってから、あくまでもユダヤ人が神に従おうとしなければ、神の呪いによりユダヤ人は滅ぼされてしまいます。何故なら、神がユダヤ人に良くされたのに、ユダヤ人のほうはといえば神を無視し愚弄するばかりだからです。このような忘恩の徒がどうして神から滅ぼされないで済むでしょうか。神はそのようなユダヤ人を飢え渇きと裸により苦しめ、敵が彼らを支配するようになさいます。この敵の支配がユダヤ人にとって『鉄のくびき』となります。これこそ正に神からの呪いです。この鉄の軛は、神からの呪いですから、決してユダヤ人から取り去られることがありません。もし悔い改めて神に立ち返るというのでなければ、確かにそれはずっとユダヤ人から取り去られないでしょう。そして、もし悔い改めないままの状態でいれば、やがて呪いが頂点に達するのでユダヤ人は遂に『根絶やしにされる』のです。

【28:49~52】
『主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。』
 神に呪われると、ユダヤ人を滅ぼすための敵国が遠くから襲いかかるようになります。ヨシュア率いるユダヤ人は、神の裁きの代行者として罪深かったカナン人を襲い、滅ぼしました。しかしユダヤ人が呪われると、ユダヤ人がこのカナン人のように襲われ滅ぼされてしまいます。ユダヤ人に襲いかかる敵国の民族は獰猛で質(たち)の悪い性質を持っています。優しかったり文化的だったりはしません。もしその民族が穏やかだったりすれば呪いが呪いではなくなるからです。しかも、その国民の話す言葉はユダヤ人に理解できません。これも呪いの一つです。何故なら、敵の言葉が分からないというのは厄介なことだからです。ユダヤ人が何かを話しても理解されませんし、敵が何かを話してきても理解できません。その国民はユダヤ人を鷲のごとくに襲います。鷲は小動物に襲いかかって食い殺します。その小動物は決して鷲から逃れることができません。ユダヤ人もこの小動物のようにされるのです。ユダヤ人が襲われる際、敵はユダヤ共同体にある全てを根絶やしにし、『幼い者をあわれ』(50節)もうとしません。これまで多くの民族が戦争の際には、女と共に子どもは殺さず容赦してやったものです。何故なら、殺戮を遂行する兵士たちといえども、多くの場合、人間であり男であり大人であり情があるからです。しかし、ユダヤ人に襲いかかる敵国の民族は、子どもでさえ皆殺しにします。これは神の呪いがユダヤ人に注がれているからです。ですから、その民族はユダヤ人の子どもたちをただただ滅ぼすべき対象としか見做さないのです。また、その民族はユダヤ人の頼みとする城壁を打ち倒します(52節)。城壁が破壊されたら一巻の終わりです。壊された城壁から敵が容赦なく雪崩れ込んで中にいる人間を殺戮するからです。呪われたユダヤ人にはこういうことが起こります。ユダヤ人は何をしても城壁の突破を防ぐことができません。神はその呪いにより敵が城壁を突き破るようにされるからです。

 この呪いは実際にユダヤ人に注がれました。特にローマが襲いかかった第一次ユダヤ戦争の時は正にこの通りになりました。ここでは『わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。』とあります。ローマとその軍隊はこの『わし』をシンボルとしていたのです。ユダヤ人は抵抗しましたが、その抵抗も虚しく終わりました。神がユダヤ人に滅びの呪いを定めらておられたからです。

【28:52~57】
『彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。』
 戦争の際に包囲されると、町の中にはやがて自然と飢饉が生じます。食糧を外から補給できないからです。古代では、この飢饉を最初から目的として包囲する場合も少なくありませんでした。古代ローマもアルキメデスがそこにいたシラクサを陥落させるため、飢饉を生じさせるべく外から包囲し待ち続けるという戦法を取りました(結果はアルキメデスの機械による攻撃がローマ軍を痛めつけたので失敗してしまいましたが)。このように包囲されるならば、町の中にいる人々は餓死か自害により滅びるか、敵に投降するより他なくなります。呪われたユダヤ人は、この時、最高に善良な男や女でさえ自分の子どもを食べるようになります。そうしないと餓死してしまうからです。しかも、その人は自分の食べている子どもを他の人には全く与えようとしません。以前は非常に優しかったのに、です。これこそ正に呪いが注がれている印です。飢えは人を極度に苦しめ、その精神的な性質を様変わりさせてしまいます。多くの人が優しくいられるのは飢えていないからに他なりません。誰でも飢えるならば苦しみのため全く違った人柄となるのです。こういった飢えの苦しみと悲惨が呪いとしてユダヤ人に襲いかかります。普通の人であれば1日ぐらいであっても食べないことに耐えられないかもしれません。であれば、何日も飢えねばならなくさせられるというのは、どれだけ耐え難いことでしょうか。それは正に呪いと言うべきことです。ここに書かれている呪いは第一次ユダヤ戦争の時に実現しました。ヨセフスは『ユダヤ戦記』の中で、あるユダヤ人女が飢えのため自分の子をローストして食べたと記録しています。これにはユダヤ各地で無法を働いていた叛徒たちも身震いしたほどでした。ユダヤが呪われていたからこそ、このような酷い出来事が起きたのでした。

【28:58~61】
『もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。主は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。』
 ユダヤ人があくまでも反抗し罪に歩み続けるのであれば、神は持続性のある恐るべき災害や病気を呪いとしてユダヤ人に与えられます。このようになるのは全くユダヤ人に原因がありました。何故なら、まず初めにユダヤ人が神への不服従という罪を犯していたからです。神はその罪に対して当然与えられるべき呪いを注がれるに過ぎません。神はこのように脅迫し、ユダヤ人を何としても正しく歩ませようとしておられます。それはユダヤ人が正しく歩むべき神の民だったからです。

 先にも述べましたが、61節目からも分かる通り、ここで書かれている呪いはほんの一例に過ぎません。神の呪いはここで書かれている呪い以外にも無数にあります。神は、御心のままにある呪いを選んで呪われるべき者に注がれます。その呪いの注がれ方は多種多様ですから、神の呪いが必ずこのようであるなどと確言することはなかなか難しいでしょう。ですから、詩篇36:6の箇所では『あなたのさばきは深い海のようです。』と言われているのです。神の裁き、すなわち呪いは人間にとって深い海のように把捉し難いからです。無限で全知の神が与えられる多種多様な呪いを、有限で単純な人間が把捉するというのは確かに難しい話です。私たちも神であればそれを把捉できたでしょうが、私たちはただの人間に過ぎません。

【28:62~63】
『あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。』
 ユダヤ人が『空の星のように多』くされるというのは、ユダヤ人が神に反逆していない限りのことでした。もしユダヤ人が神に逆らうのであれば、もはやユダヤ人が『空の星のように』なることはありません。むしろ、『少人数しか残されな』くなります。命の根源であられる神を裏切ったのです。であれば、どうして神から『空の星のように多』くされるでしょうか。しかし、神はユダヤ人を少なくされることで、御自分の約束を蔑ろにされたのではありません。神が御自分の約束を実現させられないのは、ユダヤ人が契約に違反したからに他なりません。それは契約のうちに歩む民にこそ実現させられるべき約束だったからです。世の社会でも、契約違反者に対しどうして契約会社が定められた約束を履行しなければいけないでしょうか。こんなのはいちいち説明するまでもありません。こうしてユダヤ人はカナンの地から『引き抜かれる』ことになります。『引き抜かれる』とは、雑草のようにそこからどかされ別の場所に捨てられるという意味です。これが実現したのは歴史の示すところです。

 神はユダヤ人が幸せになり増殖することを喜ばれました。それはユダヤ人が神の民として敬虔に歩むからです。私たちにしても自分に良くしてくれる正しい人が良くなるのを望むはずです。神が正しく歩んでいるユダヤ人の幸福と増殖を喜ばれるのはこれと同じです。しかし、ユダヤ人が罪を犯して呪われると、神はユダヤ人の滅亡を望み喜ばれるようになります。私たち人間が自分を憎んで軽んじる忌まわしい者の滅びを望むのと一緒です。ユダヤ人は罪を犯すことで、神を怒らせ、神の御名を汚すのです。このようであればどうして神から滅びを願われないということがあるでしょうか。

【28:64】
『主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。』
 呪われて滅ぼされたユダヤ人の生き残りは、ユダヤの地から無理矢理、他の国へと散らされることになります。ユダヤ人は自分の国に留まっていたかったのです。それなのに強制的に外国へと移されそこで住まねばなりません。これは何という大きな不幸でしょうか。これこそ正に神からの呪いです。この呪いは実際に実現しました。アッシリヤ捕囚の際、詳細はよく分かっていませんが、ユダヤの10部族は間違いなくどこか別の国へと離散させられました。バビロン捕囚の時もユダヤ人は外国に連行されてしまいました。第一次ユダヤ戦争の時も、やはりユダヤ人は全世界へと散らされました。そして、その散らされた国で、ユダヤ人は『あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石やほかの神々に仕える』ことになります。これはユダヤ人の偶像崇拝の罪を、神が罰せられるからです。神はユダヤ人の偶像崇拝罪に対し更なる偶像崇拝という呪いを与えられます。何故なら、外国は偶像崇拝の本場だからです。ユダヤ人の国はヤハウェ崇拝の本拠地であっても、決して偶像崇拝の本拠地ではありませんでした。ですから、ユダヤ人はユダヤの地で行なっていた偶像崇拝を、偶像崇拝により相応しい外国で行なうこととなります。こうしてユダヤ人の偶像崇拝は更に酷くなります。神の呪いが注がれると、このように更なる罪の深みに陥らせられるのです。神はこのように言うことで威嚇し、ユダヤ人が何としても罪を犯さないように働きかけておられます。

 ところで、この箇所からも分かるように、散らされるというのは呪いの一つです。ずっと居続けたかった場所から強制的に引き離され、住みたくもない場所に移されるというのは、呪いでなくて何でしょうか。しかし、離散と言っても「積極的な離散」と「消極的な離散」の2種類があることを弁えねばなりません。「積極的な離散」とは、その人が自ら望んで積極的に離散することです。メイチェンのように不信仰な者たちから追い払われたので散らされるのも、これに当たります。これは呪いとしての離散ではありません。「消極的な離散」とは、全くまたはあまり望んでいないのに酷い理由から離散させられることです。ユダヤ人がバビロンに捕囚されたのは正にこれです。これは罪に対する呪いのため起こる離散です。では、試練のために起こる離散であればどちらに分類されるのでしょうか。そのような離散は、結果的に恵みが齎される離散ですから良い離散です。ですから、試練のための離散は「積極的な離散」に分類されるでしょう。神がその人の益のため積極的に離散を生じさせられるからです。誰であっても悲惨な離散を経験したいとは思わないはずです。であれば私たちは呪いを避けるため神に従わなければなりません。

【28:65~67】
『これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらあれ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。』
 こうしてユダヤ人は散らされた外国で、極度の危険と憔悴に悩み苦しめられてしまいます。そこでは危険があるのでいつ死ぬか分かりません。当然ながら幸せ・平安は全くありません。最悪の状態がそこにはあります。ですから、ユダヤ人は「今」に耐えられなくなります。それゆえ、『朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う』ことになります。時間が経てば事態が少しは変わると根拠なき推測をするからです。しかし、朝に望んだ夕方が来ても状況は全く変わらず、夕方に望んだ朝が来ても状況は何も変わりません。一向に変わらない悲惨な状況がいつまでも続きます。何故なら、その時のユダヤ人は神の呪いを受けているからです。実際、このような呪いがユダヤ人には注がれました。タルムードを見て下さい。そこでラビたちはどれだけエルサレムの崩壊と悲惨になったユダヤ人の状態を思って嘆いていることでしょうか。タルムードのラビたちは「ああ、どうしてこうなってしまったのだろうか。私たちはエルサレムに戻れないままでいる…。」と多くの箇所で呟いています。これこそ正に彼らが呪われていた証拠です。

【28:68】
『わたしがかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。』
 最後はエジプトに帰らせるという呪いが示されています。神はかつてエジプトから脱出したユダヤ人に『あなたはもう二度とこれを見ないだろう。』と言われました。これはユダヤ人があくまでも契約の民として存在する限りにおいてのことです。というのも、神はユダヤ人を神の民として歩ませるべくエジプトから連れ出されたからです。もしユダヤ人が神の民にならないのであれば、ユダヤ人はエジプトから連れ出されていなかったはずです。もしユダヤ人がカナンの地で神の民であることを放棄するならば、神が彼らをエジプトから連れ出された意味はなくなります。ですから、ユダヤ人が罪を犯して呪われるならばエジプトへ連れ戻されてしまうのです。しかし、どうしてここではエジプトに『舟』で帰らせると言われているのでしょうか。ユダヤ人がエジプトから脱出した時は徒歩でした。行きは徒歩でしたが、帰りが舟だというのはどういう意味でしょうか。『舟』とは聖書において商人や金持ちを意味しています。何故なら、商人は舟を使いますし、金持ちでなければ舟を手に入れることはできないからです。つまり、ユダヤ人が舟で帰るというのはカナンの地において繁栄していたことを意味しています。神はここで「もしユダヤ人がカナンで舟を買えるほど富ませてもらったのに愚かにも反逆するならば…」と言おうとしておられるのです。富は人に高ぶりを齎します。何故なら、富とは殆ど全てを実現可能にするので(伝道者の書10:19)、全能性があるかのように錯覚させてしまう力を持つからです。その人自身は全く優れていないにもかかわらず、です。それゆえ、舟を買えるほどに富んでいる人は高ぶって反逆しないようにせねばなりません。これから神に富ませられ舟を買えるほどになった人も、やはり高ぶらないように注意せねばなりません。このようにユダヤ人がエジプトに帰らされるというのは呪いの極みです。それはユダヤ人の選民としてのアイデンティティが根底から否定されることだからです。ユダヤ人は神の民となるべくエジプトから連れ出されたのです。これを何かに例えるならば私たちが小学生や中学生に戻ることでしょう。こんなに虚しく馬鹿げたことが他にあるでしょうか。しかも、ユダヤ人がエジプトに帰って自分を奴隷として身売りしようとしても、誰一人として買う人はいません。これは最悪のことです。何故なら、ユダヤ人は奴隷にさえなれないからです。これはつまりミミズ同然だということです。こういうわけで、エジプトに連れ戻されるという最悪中の最悪の呪いは、最後の箇所に置かれているのです。

 神はここまで実に多くの呪いを示されました。これらはどれも空文ではありません。神は実際にこのようにされるからこそこのような呪いを示されたのです。神は決して偽らない御方ですから。神がこのように多くの呪いでユダヤ人を威嚇されたのは、神が罪を忌み嫌っておられるからであり、その罪にユダヤ人が決して歩まないためです。ところが、このように無数の呪いが示されたのに、ユダヤ人は罪に罪を重ね飽きることがありませんでした。彼らは罪を犯せば呪われると知りながら、愚かにも罪を犯し続けていたのです。ここに彼らの致命的な愚鈍さがありました。このため罪深いユダヤ人にはここで示されている呪いが容赦なく注がれてしまったのです。

【29:1】
『これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。』
 『これ』とは申命記でここまで書かれていた御教えであり、ユダヤ人はその言葉により神との契約に結ばれました。その契約は40年前に『ホレブで彼らと結ばれた契約とは別』でした。ホレブの時には前の世代と契約が結ばれたからです。40年前に結ばれた契約も今回の契約も、本質的に同じです。しかし、契約の結ばれた時期と世代が異なっています。40年前の時に契約を結ばれた前の世代は既に死に絶えています。ですから、新しい世代であるユダヤ人に対し、もう再び聖なる契約が結ばれたのです。

【29:2~3】
『モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。』
 モーセが40年前の出エジプトに際して為された聖なる御業を思い起こさせています。モーセがここで語りかけている対象である『イスラエルのすべて』とは、約40年前に20歳以下だった者たち、すなわちこの時に40歳~60歳までだったユダヤ人です。何故なら、モーセは自分が語りかけているユダヤ人に対し『あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、…』などと出エジプトのことを言っているからです。ですから、モーセはここで40歳以下のユダヤ人を対象として語りかけていません。40歳以下のユダヤ人が一体どうして出エジプトの時に行なわれた神の御業を見ていたでしょうか。その時にまだ彼らは生まれてさえいなかったのです。

【29:4】
『しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。』
 神はユダヤ人にここまでずっと『悟る心と、見る目と、聞く耳』を与えておられませんでした。『悟る心』とは御心を悟る心であり、『見る目』とは御心を把捉する霊的な目であり、『聞く耳』とは御心を有効的に聞くことのできる霊的な耳です。このため、ユダヤ人は御心の言葉を聞けず、信じれず、それを実行することができませんでした。彼らにあるのは死んだ心と見えない目と閉じた耳だけでした。ここで「神はどうして御自分の民にこれらを与えて下さらなかったのか。」と思う人もいるでしょう。もしユダヤ人が神の民であれば神は彼らにこれらを与えても良かったのではないか、と。もしユダヤ人がこれらのものを求めていれば神は快く与えておられたでしょう。しかし、ユダヤ人はこれらを全く求めませんでした。それは、ユダヤ人が幾度となく神に反逆していたことを考えても分かります。ですから、神がこれらをユダヤ人にお与えにならなかったのはユダヤ人が悪かったからでした。今の世界でもこれと同じことが言えます。世界中の多くの人は、神に『悟る心と、見る目と、聞く耳』を全く求めようとしません。もし求めていたとすれば神は人々にそれらを恵んでおられたでしょう。ですから、人々が無知で愚鈍で死んだままの状態でいるのは全く彼らの責任なのであって、神がこれらを彼らに与えておられなかったとしても神に非は全くありません。

【29:5~6】
『私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。』
 5節目の内容は既に申命記8:4の箇所でも語られていました。これがどういう意味であるかは既に述べておきました。

 6節目で言われているように、ユダヤ人は荒野で小麦による一般的なパンも葡萄酒も口にすることがありませんでした。荒野には小麦や葡萄が無かったからです。ただあるのは天からのマナと岩から流れる水だけでした。ユダヤ人はこの2つの飲食物により養われていました。それはユダヤ人が『わたしが、あなたがたの神、主である。』ということを悟るためでした。というのも、天のマナと岩の水だけで養われていたユダヤ人が神こそ生命の主であり養う御方であられることを悟らないわけにはいかなかったからです。どれだけ愚鈍な者にも、神が天と岩によりユダヤ人を生かしておられることは明白でした。もしあるユダヤ人がこのことを悟れなかったとすれば、そのユダヤ人は狂気に憑りつかれていたとしか考えられません。しかし、ユダヤ人はそのような狂気に憑りつかれていませんでした。つまり、ユダヤ人が通常のパンや葡萄酒を口にせず、ただ神からの直接的な飲食物だけを口にしていたのは、ユダヤ人に対する霊的な教育だったのです。

【29:7~8】
『あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。』
 モーセは、ユダヤ人がヘシュボンとバシャンの地を占領したことについて思い返しています。この2つの国がユダヤに打ち取られた理由は3つありました。一つ目は、神がこの民族の滅びを前から定めておられたからです(創世記15:18~21)。人は生まれたら死にます。そのような確かさをもって、否、それ以上の確かさをもって、神は予め定められたこれら2つの民族の滅びを実現されたのでした。二つ目は、この地にいた民族が極度に罪深かったからです。不法を行なうならば神により滅ぼされます。このため、ヘシュボンとバシャンの民族は、ユダヤ人を通して神から裁かれたのです。三つ目は、神がユダヤ人と共におられたからです。神と共にいる神の民がどうして敵の勢力に打ち勝てないでしょうか。神が共におられるのであれば神の民に勝利は確実です。この2つの民族の土地は、ユダヤ人の占領後、『ルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族』が相続地としました。この占領は、まだユダヤ人がヨルダンの西側にあるカナンへ入っていない時のことでした。その時にはまだモーセも生きていました。神がカナン侵攻の前にこの2つの土地をユダヤ人に占領させたのは、カナン占領の言わば前味でした。つまり、ユダヤ人はヘシュボンとバシャンの地を占領し相続地にすることで、これから行なうカナンの占領を大いに期待することができました。この2つの地を獲得したように、カナンの広大な地も獲得できるからです。モーセもこれからユダヤ人がカナンを占領できるという確かな希望に満たされつつ、この世を去ることができました。何故なら、この2つの地の獲得は、カナン全体を獲得することにおける予告のような出来事だったからです。

【29:9】
『あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。』
 ユダヤ人は『契約のことば』を遵守せねばりません。『契約のことば』とはユダヤ人が神の契約の民として相応しく歩むための掟、すなわち律法を意味しています。契約の民が契約の言葉を守るべきなのは当然です。電話契約をしている人が電話会社との契約内容を守るべきなのと同じです。もしユダヤ人が契約に違反するならば、神から捨てられ滅ぼされてしまいます。電話契約に違反した契約者が電話会社から契約を解除されてしまうのと一緒です。しかし、もしユダヤ人が契約の言葉を行なうならば、祝福されて『栄える』ことができます。神は御自分の言葉を守る者を喜ばれ、その者を祝福されるからです。これは私たちが自分に良くする人に良くするのと似ています。ですから、箴言16:20の箇所ではこう言われています。『みことばに心を留める者は幸いを見つける。』契約の言葉を守れば栄えるというのはヨシュア記1:7~8の箇所でも言われています。

 新約時代における契約の民はキリスト者です。今の時代において『契約のことば』とは、キリストの命令や使徒の教え、新約的に守られるべき律法です。私たち新約の聖徒は契約の言葉を守らねばなりません。そうしなければ呪われるべき者として地獄で裁かれてしまうからです(Ⅰコリント6:9~10)。しかし、守るならば祝福され栄えるでしょう(ヤコブ1:25)。「いや、私は自分の心の望むままに生きるつもりだ。」などと言う人がいるのでしょうか。もしキリスト者と見做されている人でこう言う人がいれば、毒麦の可能性が高いでしょう。キリスト契約のうちにある神の聖徒が一体どうしてこういったことを言うでしょうか。

【29:10~13】
『きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。』
 モーセの前にイスラエル共同体の全ての者が集まっていました。それは在留異国人や末端の者も例外ではありません。当時のイスラエル共同体は100万人以上の人口でしたが、実際の数字は分かりません。しかし恐らく、この時に参集しなかった者は一人もいなかったでしょう。偉大なイスラエルの指導者であるモーセが、最後の言葉をイスラエル共同体に向かって語るのです。この時に参集しないとすれば一体いつ参集するというのでしょうか。この時がモーセの前に立つ最も重要な時だったのですから。

 ユダヤ共同体の全員がこのように集まっていたのは、彼らが神との契約および呪いの誓いに入れられるためです。彼らが神との契約に入れられたならば、彼らは神の民として正式に歩むこととなります。また彼らが呪いの誓いに入れられたならば、これから罪を犯した際、先に見た申命記28章の呪いが彼らに降り注がれることとなります。このようにしてユダヤ人たちは神の民となり、神はユダヤ人たちの神となられました。これまでも神はユダヤ人の神であられ、ユダヤ人は神の民でした。しかし、この時にその関係が改めて確認され更新されたのです。ですから、この時より前はユダヤ人が神の民でなかったということはなく、神がユダヤ人の神でなかったということもありませんでした。

【29:14~15】
『しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。』
 この時にモーセが言ったことを直接聞いていたのは当然ながら「当時の」ユダヤ人だけでした。すなわち、彼らの子孫たちがモーセの言葉を直接聞いたのではありません。まだ生まれていない子孫たちがどうしてモーセの言葉をその耳で聞けるでしょうか。しかし、モーセは自分の言葉が、当時のユダヤ人だけでなく後の世代のユダヤ人に対しても向けられていると言います(15節)。これは後に生まれるユダヤ人たちも、この時のユダヤ人と同様、神との契約および呪いの誓いに入れられているからです。もしモーセが当時のユダヤ人に対してだけこの言葉を向けていたとすれば、後の世代には向けていなかったことになります。そうだとすれば、後の世代のユダヤ人は神との契約および呪いの誓いに入っていないことになります。その場合、これから生まれるユダヤ人が神の民だとは言えなくなってしまいます。どうしてこのようなことがあるでしょうか。ありえないことです。それゆえ、モーセの言葉はこれから生まれるユダヤ人たちも、自分に直接向けられているかのように受け取らなければいけませんでした。モーセはこのように言い、ユダヤ人たちが思い違いをしないようにしています。「この契約と誓いは今の世代のユダヤ人たちにだけ有効なものだ。」などと考えるユダヤ人が万一にも出ないためです。

【29:16~18】
『事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。』
 ユダヤ人は、エジプトで奴隷だった頃からこの時に至るまで、偶像を拝む異教徒たちを多くその目で見てきました。ユダヤ人の見たエジプト人は、ラーやオシリスやイシスといったエジプトの神々の他にも猫やワニといった動物までも崇拝の対象としていました。エモリ人たちもエモリの神々を拝んでいました。異教徒たちの偶像は『木や石や銀や金』で造られていました。それは神ではなくただの作成品でした。イザヤ書44:9~20の箇所では、このような偶像に心を傾ける者たちの虚しさと愚かさが示されています。

 モーセは万一にもユダヤ人が異教徒たちの偶像崇拝を真似ないようにとここで警告しています。何故なら、偶像崇拝はユダヤ人に滅びの呪いを齎すからです。神の民ユダヤが滅びるということは決して起こるべきでありません。また、神の民は神にこそ従うべきです。ですから、ここではユダヤ人が偶像崇拝に陥らないよう注意されているのです。偶像崇拝に陥るべきでないのは、男であれ女であれ、どのような氏族また部族であれ、例外がありません(18節)。ユダヤ共同体に属する全ての人員が偶像崇拝を避けねばなりません。何故なら、そこにいる者たちは神をこそ拝むべきだからです。モーセは偶像崇拝に陥る者を『毒草や、苦よもぎ』に例えています。毒草を動物が食べたら死にます。つまり、毒草に例えられる偶像崇拝者がユダヤに生じれば、ユダヤは罪という毒にやられて滅びます。その毒草は周囲全体に毒を及ぼすからです。ですから、モーセは万一にもそのような毒草が現われてはならないと言っています。偶像崇拝をしない者は「雑草」です。雑草であれば動物が食べてもに死にません。ですから、雑草である正しい者しかいなければユダヤが滅びることはありません。ヘブル書12:15の箇所で『苦い根が芽を出して』と言われているのは、この箇所で言われていることに基づいているのでしょう。

【29:19~21】
『こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。』
 申命記28章で示された無数の呪いを聞いた者が、罪を犯せば呪いが注がれると知りながら、「どうせ全ての人は死ぬのだから私が好きなように生きても私の勝手なことだ。」などと思うのであれば、神はその者を罰せずにはおかれません。神はその者に怒りを激しく燃やされます。その者は神とその聖なる法を蔑ろにしたからです。こういった不遜な者がどうして呪いを避けられるのでしょうか。ありえないことです。その者は『わたしには平和がある。』と心の中で言います。しかし、その者に平和はありません。神がその者を呪われ滅ぼされるからです。その不遜な者は、他の者から区別され、より分けられた者として殺処分されてしまいます(21節)。他の者はより分けられず滅びの呪いを受けません。他の者は正しく歩んでいるからです。しかし、他の者もやがて不遜になればより分けられてしまいます。19節目では『潤ったもの』また『渇いたもの』と言われています。『潤ったもの』とは神の恵みを豊かに受けた者であり、『渇いたもの』とは神の恵みを受けていない者です。つまり、これは植物の例えであって、神の恵みという雨がユダヤ人という植物を潤す(または潤さない)わけです。

【29:22~28】
『後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。―その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。―すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」』
 ユダヤ人が呪われて滅ぼされると、その住んでいた場所はソドムやゴモラのように荒廃し、草一本さえも生えないほどの状態となります。実際、紀元1世紀に呪われて滅ぼされたユダヤの地はこのようになりました。ヨセフスは、ローマ軍により滅ぼされたユダヤについて、かつてそこに町があったとは誰も思えないほどの状態になったと記録しています。ユダヤの地がこのようになるのは、神の怒りを反映しています。つまり、神が極度に怒られたからこそ、その怒りの現われとしてユダヤが滅茶苦茶になったのです。ですから、もし神が全く、もしくは少ししか怒っておられなかったとすれば、ユダヤがこのように破滅することはなかったでしょう。

 そして、ユダヤ人の子孫と外国からやって来る外国人は、大いに破滅させられたユダヤの地を見て、そこにユダヤ人の罪と神の呪いを感じ取ります。何故なら、もしユダヤ人が背いて神から裁き滅ぼされたというのでなければ、その破滅は説明できないからです。こうしてユダヤ人は子孫と外国人から低く見られたり悪く思われたりしてしまいます。偉大な先祖だったなどとは間違っても評されません。名誉は人間にとって非常に重要な要素です。それゆえ、このようにユダヤ人が悪く思われるのは、彼らに対する手痛い呪いとなるのです。神はこのように言うことでユダヤ人を脅しておられます。「もしこのような目に遭いたくなければ罪を犯さないようにせよ。」などと神はここで言っておられるかのようです。

【29:29】
『隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。』
 この世界には『隠されていること』と『現わされたこと』の2つがあります。この2つのどちらかでない事柄はありません。また、この2つのどちらでもあるということもありません。何故なら、『隠されていること』であれば『現わされたこと』ではなく、『現わされたこと』であれば『隠されていること』ではないからです。『隠されていること』とは、神が人間に明かしておられない事柄です。それは明かされるのが御心でないゆえ隠されています。これには、ある時まで隠されている事柄と永遠的に隠されている事柄の2つがあります。前者には例えばDNAの存在があります。これは最近まで『隠されていること』でしたが、神がジェームズ・ワトソンを通して人類に現わされました。後者は御使いの数や階級や名前といった詳細があります。これは永遠に人類に隠され続けたままでしょう。もっとも、御使いの詳細が隠され続けるのは地上の世界に限られます。天国に行った聖徒たちであれば、やがて御使いについて完全に知らされるはずです。この『隠されていること』は全く『主のもの』です。それは主が人間に知識として与えておられないからです。それを私たちが知ることはできません。何故なら、それは私たちに属していないからです。それゆえ、私たちは『隠されていること』を隠されたままにしておかねばなりません。それは神が隠しておられるのですから。そのような事柄を知ろうとするのは無謀だと言えます。その人は神の定めを覆そうとしているからです。そもそも、その隠された事柄を明らかにしようしても徒労に終わるだけでしょう。神が隠しておられるのにどうしてそれを明らかにできるでしょうか。カルヴァンはこの『隠されていること』を無謀にも探ろうとはしませんでした。例えば彼は、御使いの詳細について隠されている事柄を探ろうとはしませんでした。これは正しく敬虔な態度でした。しかし、たとえ『隠されていること』であっても探って構わない事柄があります。それは、神が現わされるため探られるべき事柄です。例えば、宇宙の構造や最小粒子や深海の追究がこれに該当します。中世になるまで殆ど使徒と同等の権威を有していたディオニュソス・アレオパギテースの場合、この点で致命的に誤っていました。彼は、決して分かるはずのない御使いの詳細を、さも自分が天国で御使いを見たかのごとくに書き連ねています。このディオニュソスという者は偽作の著者であり、新プラトン主義の徒でしたが、分かりもしないことを探るという極度の傲慢に陥っていました。こういうわけで、『隠されていること』は隠されているのですから神が明かされるまで隠されたままにしておくべきですが、科学などの学問であれば積極的に探し出そうとして構わない事柄も多くあります。『隠されていること』を私たちはこのように考えるべきです。

 一方、『現わされたこと』とは神が人間に明かされた事柄であり、それは永遠に私たちに属します。神がその顕示を欲されたのです。だからこそ、それは私たちに『現わされた』のです。もし神がその顕示を欲しておられなければ、それはずっと『隠されていること』のままだったでしょう。この世界には、かつて『隠されていること』だったのに『現わされたこと』になる事柄が少なくありません。その代表的な例は、天動説から地動説への移行が挙げられます。地球が太陽の回りを周っているという宇宙空間における事実は、世界が始まってから5500年もの間、人類に隠され続けてきました。アリスタルコスに対してだけは地動説が与えられていましたが、彼の場合は例外的なケースですから、人類には全く地動説が隠されていたと言っても妨げになることはありません。この天体観はモーセの後継者であるヨシュアにさえ隠されていたほどです(ヨシュア10:12)。しかし、中世になって時が訪れると、真の天体観が人類に明かされました。神がコペルニクスに地動説を与え、彼を通してその天体観を人類に公布されたのです。ですから、かつて『隠されていること』であった地動説は今や人類にとって『現わされたこと』であり、その天体観は永遠に人類の所有となりました。このようにある事柄が『現わされたこと』になるのは、人間がそれを実行したり益を得るためです。つまり、神は人類のためにある事柄を現わして下さいます。何故なら、神は一般恩恵において人類に恵み深くあられるからです。この『現わされたこと』を私は今、普遍的な意味として解釈しました。これを普遍的に捉えることは間違っていません。しかし、この箇所で言われている『現わされたこと』とは神の律法を意味しています。何故なら、この箇所ではモーセを通して律法が現わされたのは、ユダヤ人が『このみおしえのすべてのことばを行なうためであ』ったと書かれているからです。

 この箇所の御言葉は非常に重要です。この御言葉は私たちに知恵と悟りを与えてくれるからです。それゆえ、この御言葉は記憶するに値します。

【30:1~5】
『私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。』
 申命記28章で定められた呪いの通り、ユダヤ人が行きたくもない異国の地に追い散らされたとしても、もし彼らが罪を悔い改めて神に立ち返るならば、神は彼らを再びユダヤの地に連れ戻して下さいます。ユダヤ人がユダヤの地から追い散らされたのは罪のためでした。罪があるからこそ定められた地にいられないのです。悪いことばかりする住民がアパートから退去させられるのと一緒です。しかし、ユダヤ人が罪を捨て去るというのであれば、もはや罪を犯さないのですから、再び元の地に帰ることができるのです。そして、ユダヤ人は再びユダヤの地を自分の所有とするようになります(5節)。神は、ユダヤ人がたとえ『天の果てに追いやられていても』、ユダヤの地に連れ戻して下さいます。何故なら、神の御手は無限に長いからです。もしユダヤ人が立ち返るならば、ユダヤ人が無限の果てに散らされていたとしても、神の長い御手が彼らを必ず連れ戻されます。これはバビロン捕囚からの解放において実現しています。神はキュロス2世を通してユダヤ人が捕囚の地バビロンからユダヤに戻れるようにして下さいました。これは、ユダヤ人がバビロンで自分たちの悲惨な状況を嘆き、神の御前に心を遜らせたからです。この遜りは本物でした。というのも、その時以降、ユダヤ人は最早かつてのように偶像崇拝の罪に陥ることがなくなったからです。この偶像崇拝の罪により、ユダヤ人は呪われてバビロンへと捕囚されてしまったのです。それではシオニズムを通してパレスチナの地に戻って来た今のユダヤ人はどうなのでしょうか。この出来事は私たちが今見ている律法と全く関係ありません。何故なら、今でもユダヤ人はキリストを否認することで神に全く背き続けているからであり、そもそも今のパレスチナにいる9割のユダヤ人はイスラエルすなわちヤコブの血を全く持っていないからであり、肉的に純粋なユダヤ人はと言えばその多くがシオニズム思想を受け入れていないからであり、このシオニズムとはロスチャイルドの指示により実行された陰謀の一つだからです(ロスチャイルドの陰謀についてはジョン・コールマンの「ロスチャイルドの密謀」で詳しく知ることができます)。